八百長力士を処分するべきなのか?

ニュース | 2011/02/05

逆説的なようだけれど、
八百長が常態化していたと言われる現状で、
八百長力士を処分するということは、
八百長の実態の大部分を闇に葬るということ。
そして、「八百長などありませんでした」として、
出版社を名誉毀損で訴えてきた姿勢を
あらためないということを意味しています。

「八百長力士を厳しく処分する」と言うと聞こえが良いですが、
実際には「今後も本音と建て前を使い分けます」
というメッセージにほかなりません。

これに対し、八百長力士の処分はしないと決めるとは、
「今まで、八百長は当たり前だったけど、今後は辞める」と宣言するということ。
週刊誌から受け取った賠償金も返却し、
一から出直すということを意味します。

どちらが誠実なのでしょうか。

そもそも、八百長が悪いことなのかどうか、
捜査情報を漏洩するに値するようなことなのかという
疑問はあります。
ただ、もし、八百長が悪いと本気で思っているのなら、
「処分しない」という方針が正しいのです。

医療事故でも、鉄道・航空事故においても、
日本ではとにかく、問題を起こした人に責任を押しつけ、
根本的な解決を軽視する傾向があるように思います。
感情的な「村八分」の論理で、全ての社会的問題を解決しようとするのです。
今回の問題も同じ。
善悪と懲罰は必ずしも一致せず、時には矛盾するものだということ。
まずは、このことを理解することが、
社会制度を考える上で、重要ではないかと思います。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(0件) | トラックバック(0件)

ロシア大使更迭経緯の流出は誰のリークか?

経済・政治・国際 | 2010/12/24

一時帰国を命じられ、同月3日午前に帰国した河野大使は、同日夕、外務省の佐々江賢一郎事務次官、小寺次郎欧州局長らとともに首相公邸に呼び出された。菅首相や仙谷由人官房長官が事情聴取を始めた。

「なぜだ。なぜ訪問しないと判断したのだ」。官邸側から問いただされ、河野大使は「ロシア外務省からそういう報告を受けていましたから」と答えた。これに菅首相はカチンときた。「そんなことは聞いていない。誰が言ったかじゃなく、どうしてそう思ったんだ」

口ごもる河野大使を見て、仙谷長官が助け舟を出した。「大統領はプーチン首相との関係など、いろいろあるのじゃないのか。そのあたりの判断は」。だが、河野大使の口は重くなる一方だった。

「要するにどういうことだ」。いら立つ首相ら。最後に、河野大使はこう口走ってしまった。「私はあまりロシアに詳しくないので……」。次の瞬間、首相らの怒りが爆発した。

駐露大使更迭:私はロシアに詳しくない…首相、怒り爆発
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20101224k0000m010106000c.html

この記事を読んで、どう思いましたか?首相を批判している人がいるようですが、そんなことどうでも良く、こんな密室での面会を誰がリークしたのかという方が、ずっとおもしろいネタです。というのも、この記事の内容をリークすることはそれ自体、北方領土問題の責任を、河野大使または外務省に押しつけるという政治的に非常に重要な意味があるからです。外務省側のリークなら、河野大使への押しつけ、官邸側のリークなら、外務省への押しつけとなり、意味も全く変わってきます。

記事によれば、その場にいたのは以下の5人。

菅首相
仙谷由人官房長官
佐々江賢一郎 事務次官
小寺次郎 欧州局長
河野雅治 駐ロシア大使

犬飼直幸という記者が、外務省記者クラブ所属であるので、直接的には外務省側のリークという可能性が高そうですが、内容的には官邸側に有利な記事です。妙に仙石官房長官に有利に書かれていることも、官邸側リークという見方を裏付けるでしょう。一方で、外務省側が、高等戦術としてリークしたという可能性もあります。さらに、合意の上でロシア側を牽制するためのリークという見方もできます。

政治に詳しくない自分には、このくらいしか書けませんが、ニュースを見るときには、ソースに注目するのが原則だという、メディアリテラシー的なお話なのでした。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(0件) | トラックバック(0件)

大学に市場原理を導入する方法

経済・政治・国際 | 2010/12/23

大学生らに奨学金を貸与している独立行政法人「日本学生支援機構」は来年1月から、経済的に困窮し、返済が困難になった卒業生を対象に、最長で10年間、毎月の返済額を半額にできる制度を導入する。

関係政令の一部改正が21日、閣議決定された。

新制度の対象は年収が300万円以下で経済的な理由で返済が難しい人。返還期限の上限も20年から25年に延ばす。減額返還制度を利用した場合も、当初の利子負担は変わらない。

奨学金返済、最長10年間半額に…学生支援機構

最初にちょっと余談。すごくどうでも良いことなんだけれど、上の記事で、本来書かれていないといけないことが書かれてないので、ちょっと補足します。もともと、奨学金には、「300万円以下の収入を目安として、5年まで支払いを猶予」という制度がありました。それが、「300万円以下の収入を目安として、10年間支払い半額」に変わったというのが真実。これを書くと書かないとで全然イメージが違うと思うのですが、おそらく、取材すらしないで記事書いたんでしょう。

さて本題です。最近思うのは、入学者の大学入試センター試験の成績で、大学への補助金を決めれば良いということ。たとえば、5教科合計で上位10万人分に定額の補助金を与えるということにすれば、今よりずっと少ない予算で大学を無償化できるし、高校生も勉強するようになります。

以前、予備校で数学を教えていたとき、中学レベルの数学が分からない生徒が、某大の工学部に推薦で受かったという知らせを聞いて驚きました。一部の大学は見かけ上の偏差値を高めるため、誰でもいいから推薦で入れて、一般入試の倍率を高めるという作戦に出ています。だから、見かけの偏差値以上に、ひどい状況の大学がたくさんあるのです。大学の授業と言っても、高校の復習程度。卒業しても、企業では全く使えない。そのために、時間と金を費やすことによる、社会全体の損失は計り知れないものがあります。

本来、彼らだって、しかるべき場所に行けば、十分、その能力を活かすことができるはずです。ただ、それに適切なのは、大学ではなく、高卒での就職や、専門学校でしょう。こうした進路に進むべき学生が大学に流れてきているのが、現代の大学の問題だと言えます。

では、誰が大学を選別するのか?そこで、市場原理が働くような形で選別するべきだというのが、大学への補助金を入学者の成績で決めるという案です。数少ない「補助金対象の学生」を獲得するために、大学が良い意味での競争圧力にさらされるようになります。一方、補助金対象にならない学生(大学に行く学力に達していない学生)は、圧倒的に高い学費を払って私立大学に行くか、職業専門学校に進むことになり、その点でも、社会全体の無駄を省くことができるのです。

いいことずくめの政策です。まぁ、私大の大部分は潰れ、自分も確実に仕事を失うのが唯一の欠点ですけどね(笑)。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(1件) | トラックバック(0件)

サンデルの政治哲学と日本の戦争責任問題

経済・政治・国際 | 2010/12/12

サンデルについては、先日書いた記事、「書評:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』について」の中で、全体的な解説をしましたが、今回はサンデルと日本の戦争責任問題の関係について扱います。というのも、サンデルが、東大の講義の中で戦争責任問題に触れたことが一部で話題になっているからです。

主に右翼的な思想の持ち主がサンデルに反発をしているようなのですが、そもそも、サンデルは保守的な思想の持ち主です。それを擁護するための論拠の一つとして戦争責任問題を持ち出しているのです。このことからも、サンデルが誤解されているということが分かると思うのですが…。この記事では、こうした誤解を解くべく、サンデルの政治哲学と戦争責任の問題がどう関連しているかを考えていきたいと思います。

○サンデルの戦争責任に関する立場

戦争責任に関するサンデルの学問的主張は、「謝罪しないといけないという見方を、自由主義や個人主義の立場から否定することはできない」というものです。具体的に言うと、「戦争は、現代の日本人には関係ないのだから、謝罪する必要がない」という批判が、批判になっていないことの指摘と言い換えられるでしょう。これは、「謝罪しないといけない」と言うことを意味するわけではありません。「戦争は、現代の日本人には関係ない」というのと別の理由で、謝罪する必要がないという主張に対しては、サンデルは断定的なことを言う立場にないのです。

サンデルは自らの主張の論拠として、以下のような理由を挙げます。

私たちは、同じ共同体に属する仲間(たとえば、日本人同士)を優先して助けようとします。世界中にたくさんの貧しい人々がいるにもかかわらず、自国民の社会福祉を優先することが、これに該当するでしょう。これは、人間を平等なものとして扱うリベラリズムやリバタリアニズムに反すわけですが、(無政府主義者でない限り)私たちはこうした正義についての判断を受け入れています。

このことは言い換えれば、私たち一人一人が共同体の正の遺産を引き継いでいるということを意味しています。正の遺産に関しては、「共同体の連帯>普遍的な個人の権利」と言う形で、共同体の連帯が優先されるのです。だとしたら、戦争責任のような共同体の負の遺産についてだけ、「普遍的な個人の権利>共同体の連帯」と考えて、戦争責任を回避するのは正しくないだろうというのが、サンデルの主張です。

こうしたサンデルの主張は非常に論理的で、否定するのが困難ですが、一方で、サンデルの主張は具体的な戦争責任を肯定するわけでも否定するわけでもありません。サンデルが言っているのは、「謝罪しないといけないという見方を、自由主義や個人主義の立場から否定することはできない」ということであり、「謝罪しないといけない」と言っているわけではないからです。したがって、サンデルに対して、「歴史的に見て謝罪の必要がない」という議論をふっかけても、話が噛み合わないことになります。まず、このことを確認する必要があります。

ちなみに、サンデルは、この議論をもとに、リベラリズムやリバタリアニズムが正義の原則になりえないという結論や、「物語としての正義」という見方を導きます。戦争責任の議論はサンデルが言いたいことではなく、本当の目的を実現するための手段に過ぎないのです。これについて、詳しくは先日書いた記事、「書評:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』について」をご覧ください。

○外交と正義

さて、その上で、別の論点に移りたいと思います。

これも誤解している人が多いように思うのですが、一般に正義の話は、外交上どのようにすれば有利かという話と別です。というのも、私たちは、「外交上は謝った方が良いが、本来は謝るべきではない」とか、「外交上は謝らない方が良いか、本来は謝るべき」などと考えることができます。サンデルが扱っているのは、「本来は…」の部分であって、「外交上は…」という話とは別なのです。

東大の講義では、「許してもらえるまで謝罪し続けるべき」と発言した学生がいたそうですが、外交上の話について言う限り、「許してもらえるまで謝罪し続ける」必要はありません。許してもらえたとしても、もらえなかったとしても、謝るべきであれば、こっちの問題として勝手に謝罪していれば良いのです。その上で、「謝ってやってるのに、何だその態度は!!」と怒鳴り散らしたって良いし、「謝ってやるから、そこの島一つくれよ」と脅したって良い。あるいは、「お前の国の国民には謝るが、お前の国は国として認めない」と言い放ったっていい。その是非を考えるのが、外交の話です。外交上必要なら言えば良いし、外交上必要ないなら言わない方が良い。それだけの話です。これを混同するから、良く分からない話になるのではないかと思います。

もちろん、正義と外交が切り離せないという立場もあるでしょう。それを否定するわけではありませんが、そうだとしたら、とりあえず別のものと考えた上で、その関連を考えていく必要があるのです。

○「物語」としての戦争責任

その上で、もう少し立ち入って、戦争責任について考えてみたいと思います。サンデルは、「物語(narrative)」としての正義というマッキンタイアの考え方を取り上げており、これは彼の思想の非常に中心的な部分に置かれています。この立場から、日本の戦争責任はどのようにとらえられるのでしょうか。サンデルの言う「物語」は、人によって異なる物語が描かれる可能性を踏まえたものであり、「こういう物語が正しい」と言うことはできないのですが、それでも多くの人が賛同できる物語はあるでしょう。ここでは、私が「これなら多くの人が納得できるだろう」と考える「物語」を紹介したいと思います。

良く指摘されることですが、日本が第二次世界大戦で戦った連合国と、戦後できた国際連合は、英語ではともにUnited Nationsです。両者は、建て前上は別のものとされる一方、実質的な部分では多くの面が引き継がれています。連合国の主要国(米英仏露中)が、そのまま国際連合の常任理事国になったことも、その表れの一つと言えるでしょう。いわば、私たちは、第二次世界大戦で戦った連合国≒国際連合の一員として迎えられ、その国際秩序の恩恵を享受しながら、経済的な発展をしてきたと言えます。

こうした戦後の国際秩序を考える上で重要なのが、第二次世界大戦の終戦処理である東京裁判です。東京裁判は、事実認定等の問題とは別に、「事後法による裁判」という問題が指摘されます。つまり、東京裁判以前は存在しなかった論理で、「不当に」裁かれたという指摘です。しかし、東京裁判という「不当な」裁判が行われたことで、「第二次世界大戦以前のような形式での戦争は許されない」ことが確認されることになったことを忘れてはいけません。それ以降、戦争がなくなったわけではありませんが、それまでとは違った言い訳を使って行われるようになったのです。このことは、冷戦下で影を潜めていた面もあるにせよ、コソボ紛争以降、東京裁判/ニュールンベルグ裁判の論理が再び注目されてきています。

これはある種の「革命」と言うことができます。フランス革命は正義という面からは批判されることも多いわけですが、それでも、それによって自由を享受するフランスは、フランス革命の意義を否定することができません。同様に、現在の日本、そして国際社会は、根本的なところで東京裁判を否定できないのです。それが当時としてはどんなに不当なものであったとしてもです。革命で理不尽に吊し上げられたものの、謝罪することで、新しい国際秩序での市民権を得たのが日本なのです。日本は、太平洋戦争を謝罪することで始めて、戦後の国際秩序を支える価値観を共有し、第二次世界大戦以前のような侵略戦争を非難することができると言うことができるでしょう。

もちろん、これは一つの「物語」に過ぎません。こうした「物語」とは別の「物語」を語ることもできます。たとえば、日本は国際社会で孤立化の道を選ぶべきだということを前提にし、戦争責任などないと言い放つという物語もありえます。しかし、核保有国の中国や北朝鮮との軍事的緊張を抱え、他国との軍事的・経済的協調を迫られている日本が、本当にそんなことをできるでしょうか。「戦争責任はない」という物語と、安全保障上、経済上の利益を両立させるのは困難です。そう考えると、私たちは結局、太平洋戦争が侵略戦争であったして責任を認めざるをえないのではないかと思います。戦争責任を認めた上で、外交上は適切な駆け引きを行っていけば良いということです。

○戦争責任と政治的討議

以上、サンデル議論と日本の戦争責任の関係について私見を述べてきましたが、ここで私が提示したような「物語」が、他の人にどこまで通用するかは分かりません。「いつまでも謝罪しつづけるべき」と発言した東大の学生は、私と同じような歴史についての見解を持っていたのだと思いますが、一方で、日本が戦争責任を認めることを屈辱としか思っていない人も多いでしょう。こういった人と分かり合えることはあるのでしょうか。それには、外交と正義の違い、歴史認識の問題、ナショナリズムを巡る理解の混乱…その他、さまざまな問題が関わっています。こうした問題を乗り越えて、日本人が特定の見解で政治的に一致することができるのでしょうか。あるいは、一致することが望ましいのでしょうか。

こうして「政治的議論は、どのようにして正義になりえるのか」という問題は、サンデルの主張のもっとも本質的な部分と関わるものです。サンデルの立場を端的に言えば、「お互いに真剣に議論することで、ある立場にたどり着くはずだし、そうした正義こそ本当の正義だ」ということになるでしょう。この部分について、私は全面的にサンデルに同意するわけではないのですが、これについての詳細は長くなるので、前に書いた記事を読んでもらうことにしたいと思います。

ただ、それを別にしても、サンデルの議論は、日本で行われている戦争責任についての議論に有意義な影響を与えるものになるはずです。批判するにせよ、肯定するにせよ、押さえておいて損のない本ではないかと思います。


はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(0件) | トラックバック(0件)

負の所得税としての子ども手当

経済・政治・国際 | 2010/12/11

子ども手当と、配偶者控除の廃止は、経済学的に非常に理にかなった制度です。ところが、マスコミやネットでは、「民主党のやることだから、おかしなことに違いない」という先入観からか、理不尽に批判されているように思えます。特に気になるのが、「子供のいない専業主婦に不公平」といった見当違いとも思える批判。

この記事では、子ども手当、配偶者控除の廃止が、最近注目されている「負の所得税」と近く、非常に合理的な制度であることを説明したいと思います。

○専業主婦の社会的意義

配偶者控除は、専業主婦を社会的に支援するための制度と言えます。しかし、なぜ、専業主婦を社会的に支援する必要があるのでしょうか。専業主婦の役割は、「家事」と「子育て」ですが、家事が重労働だった数十年前と異なり、電化製品の普及した現代において、子供のいない夫婦の家事の負担は大きくありません。したがって、現代における専業主婦の役割のうち、社会的に支援するべきなのは、「子育て」「子育てに伴って増える家事」ということになります。

もちろん、子育て以外の理由で専業主婦をすることが禁止されるべきだというつもりはありません。しかし、子供のいない主婦であれば、外に出て働くのも簡単であり、パートでも配偶者控除・配偶者特別控除の限度額以上稼ぐのは難しくありません。それにもかかわらず、あえて働かないというのは、ある種の「ぜいたく」や「個人的趣向」の問題であり、社会的支援に値しないと考えるのが自然だと思います。子供がいないが、仕事もしない専業主婦が、広い邸宅でティパーティーを開くための費用を、社会的に支援するべきだと言う人はあまりいないでしょう。

たしかに、現代の日本では、育児支援が貧弱であるため、仕事をしながら育児を続けるのが困難です。保育園の倍率が高くて簡単に入れないため、仕事をやめざるをえない。そのために専業主婦になった人に対して、社会的支援をしていくことは必要だと思われます。しかし、それも子供のいる専業主婦の話であって、子供のいない専業主婦の話ではありません。

こういったことを踏まえて、配偶者控除の問題点について考えていきたいと思います。

○配偶者控除の問題

・子供がいない夫婦に対する不公平な支援

配偶者控除の最大の問題は、子供のいない夫婦にも、減税の恩恵があるということです。配偶者控除の社会的目的が、「子育て支援」でしかない以上、子供のいない夫婦に減税の恩恵があるのは適切ではありません。たしかに、「女は子供生むものだ」という古い価値観に基づけば、子供のいない専業主婦は、子供を産むための準備期間や、事後休暇を過ごしていると考えることができます。そして、そういう立場から、配偶者控除を肯定することもできます。しかし、現代のように、子供を産むかどうかは、個人の自由という考えが当たり前になっている中、配偶者控除を続けることに正当性はありません。

・働く女性に対する差別

一方、配偶者控除が働きながら育児をする女性に対する不当な差別になっているというのも大きな問題です。日本では、育児支援が貧弱であるため、働きながら子供を育てるのは大変です。育児のために専業主婦になることによる収入の減少も大きいわけですが、働きながら育児をするために必要な費用もバカになりません。特にゼロ歳児~2歳児の保育は貧困層でないと受けられないため、ある程度の収入がある人は無認可保育園に預けることになる可能性が高いのですが、そのための費用は月10万円以上かかります。

ところが日本では、収入の少ない主婦にだけ、年間3万円強の減税が行われ、保育園に預けながら仕事をしている女性には同様の支援が行われません。配偶者控除は、いわば「仕事をしながら育児をする女性を社会から排除する」仕組みということになります。

○子ども手当の合理性

なぜ、こんな問題が起きてしまうのでしょうか。そもそもの問題は、現代における配偶者控除の社会的意義は、「子育て支援」であるにもかかわらず、算定基準が、本人と配偶者の収入であることです。また、その方法が「控除」という複雑な方法で行われていることが問題です。このため、本来支援を受ける必要のない世帯(子なし世帯)が必要外に支援される一方、より手厚い支援を受けるべき世帯(複数の子供がいる世帯など)が、適切に支援されないことになります。

そこで、「子供の人数」だけを基準にした定額の社会保障にするべき…というのが、子ども手当の基本的なコンセプトと考えることができます。

○個人単位の負の所得税

こうした考えは、フリードマンの負の所得税の考え方と近いものがあります。負の所得税は、生活保護、雇用保険、最低賃金、複雑な控除制度などを廃止し、定率所得税+定額給付に一本化しようとする考え方です。現在の社会保障制度には、さまざまな落とし穴(必要なのに給付を受けられない人の存在)や重複(余分に給付を受けてしまう人の存在)があり、それによってさまざまな不公平性や、逆インセンティブが生まれていますが、これらを解消することができるのが負の所得税の考え方と言えます。

さて、フリードマンは負の所得税の計算を世帯単位で行うものと考えたようですが、日本の住民登録制度で世帯単位の税額・給付額の計算を行うことには問題があります。なぜなら、日本では世帯の分割が容易であり、それによって納税額・給付額が大きく変わってしまうからです。もし、日本で世帯単位の負の所得税を実施すると、給付額を増やすために、形式的に住民票を分割する世帯が続出するでしょう。これを解消するために必要なのは扶養控除や配偶者控除を廃止し、すべて個人単位の負の所得税に統一することです。具体的には子供に対して、人数に応じた負の所得税(定額給付)を設定し、子供の扶養控除、配偶者控除、保育園への補助金などを、すべてこれに統一することにほかなりません。これによって、これらの制度が持っているさまざまな不公平性、不連続性を一気に解消することができるのです。(*1)

では、具体的にどの程度の金額になるのか、平成20年に所得税の課税対象となった所得(一人当たり310万円(*2))をもとにして、現在の所得税・個人住民税の税収(23.9兆円)と同程度になる税率を計算してみることにしましょう。子供も大人も一人年間50万円(月4.2万円)の給付(*3)、所得税率は25%で、税収は33.0兆円。現在よりも税収が増える一方、多くの社会保障費・公務員人件費が不要になるので、財政赤字も解消できます。具体的には、4人家族で総所得800万円以下の世帯は給付を受ける側に回るのです。4人家族で総所得500万円なら100万円もの給付を受けられます。独身世帯だと、200万円未満が給付を受けられることになります。

*1 個人単位の社会保障だと婚姻に対する社会的支援ができないというのであれば、婚姻している世帯に対して定額の給付をすれば良いことになります。これは負の所得税の考え方と矛盾しません。
*2 源泉所得税は、「収入」、申告所得税は「所得」をもとに計算しています(link)
*3 実際には、年齢によって給付額を変えることも考えられます。育児費用の負担が特に大きい3歳以下の子供や、高齢者の給付額を上げるなどです。単純化するために、年齢によって給付額に差を付けないものとして計算しています。

○子ども手当と負の所得税

そう考えると、子ども手当と負の所得税がコンセプトとして非常に近いものであることが分かると思います。

たしかに、配偶者控除の廃止と現在行われているような少額の子ども手当だけでは効果は少なく、抜本的な税制改革の中で、これらの問題を考えていかないといけないというのは言うまでもありません。ただ、負の所得税を理想の税制として考えたとき、配偶者控除の廃止と子ども手当は、明らかに理想に近づく政策なのです。

民主党は、昨年度の税制改正大綱で、配偶者控除だけではなく、多くお控除を縮小して給付に切り替える「控除から給付へ」という方向性を示しています。これは、低所得層への社会保障の充実につながるとともに、景気対策にも大きな効果がある極めて重要な政策。これが実現するかどうかで、今後の日本のあり方が決まると言って良いでしょう。ところが、「民主党のやっていることだからダメ」「子供のいない専業主婦世帯がかわいそう」「金持ちいじめ」といった情緒的議論ばかりが先行しているように思えます。先入観を排し、国のありかたについての重要な論点として真剣に検討していくことが必要ではないかと思います。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(1件) | トラックバック(0件)

きちんと取材をして書いた記事と、そうではない記事の違いが分かる例

ニュース | 2010/12/05

取材の大切さというのが良く分かる例を発見しました。

まず、共同通信の配信記事を紹介します。プレスリリースや公式発表の転載が仕事の通信社としては妥当な記事でしょう。とりあえず、「教育委員会の公式見解」がどんなものだったのかが分かる記事です。

盛岡市の市立中学校で30代の女性教諭が、英語の課題に「これをやらなければ呪いがかかりますよ」と書いて3年生計140人に配布していたことが4日、分かった。

市教委によると、教諭は11月中旬、十数枚つづりの課題を作成、表紙に書いた。「高校受験を控えた生徒に課題をやらせたかった」と反省しているという。保護者からの指摘で発覚した。

市教委の小野寺正彦学務教職員課長は「言葉が不適切で遺憾だ」と話した。〔共同〕

link1 link2

次が新聞社Aの記事。

盛岡市の中学校で、英語の女性教諭(35)が課題プリントの表紙に「これをやらなければ呪いがかかりますよ」と書き、生徒に配布していたことが4日わかった。

 校長によると、女性教諭は11月22日、期末試験や高校受験対策用のプリント冊子を作成し、その表紙に「呪いが……」と書いて3年生に配布した。その後、保護者からの指摘を受け、不適切な表現があったとして表紙を取り換えて再配布した。

 校長によると、女性教諭は「課題をやってこない子どもが多く、何とかやらせたい一心だった」などと説明したという。岩手県教委は「市教委の事実報告をもとに処分をするかどうか検討したい」としている。

一応、校長に取材しているものの、共同通信の配信記事とほとんど内容が同じ。「とりあえず形だけ取材しました」感が伝わる記事です。

そして、別の新聞社Bの記事。

盛岡市の市立中学校で、30代の女性教諭が英語の課題に「これをやらなければ呪いがかかりますよ」と書いて、3年生約140人に配布していたことが4日、分かった。

(中略)

とはいえ、呪いと書かれたのは、表紙の一番下で、文字も小さく目立たなかった。「気付いた生徒は、ほとんどいなかったのでは」(校長)という。ショックを受けた生徒は多くなかったようだ。保護者からの連絡も1件だけ。保護者会は開かれず、その後の学校行事も、予定通り行われた。地元紙の報道で、問題が大きくなった側面がある。

校長によると、学級崩壊した小学校から進学し、授業態度に問題がある生徒が多い現在の3年生を、この教諭が熱心な指導で、水準学力レベルに引き上げたという。今回は、やや教諭の勇み足だったが、言葉だけをとらえ、何が何でも“告発”する風潮が続けば、教育現場の熱意に水が差されるおそれもあるといえそうだ。

読み比べると、仕事ぶりの違いが良く分かるわけです。新聞社Aがいかにいい加減な取材しかしていないかが分かります。

さて、AとBはどの新聞社だと思いますか?

答えを言うと、新聞社Aが朝日新聞で、新聞社Bがスポーツ報知。ちなみに、スポーツ報知の記事中に出てくる「地元紙の報道」というのは、岩手日報

朝日新聞は「一応取材しました」という形だけ整えたものの、結果として、共同通信の配信記事とほぼ同レベル。こんなことに超高額な人件費とハイヤー代を使ってどうするんですかと…嫌みの一つでも言ってみたくなります。

まぁ、大手メディアが「いつも通りのレベルの低い仕事」をしていたところ、スポーツ報知が俄然やる気を出してしまったために、大手のダメさが際だってしまったというところかもしれません。朝日の記者さんは、運が悪かったということでしょう。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(0件) | トラックバック(0件)

中井洽氏への懲罰動議について

経済・政治・国際 | 2010/12/05

○発端はブログ

また、国会がくらだらないことで盛り上がっているみたいです。問題の発端は、民主党の中井洽氏が、議会開設記念の式典中で、秋篠宮ご夫妻に対して「ヤジ」を飛ばしたと、みんなの党所属の桜内文城氏がブログに書いたことが発端です(http://ameblo.jp/sakurauchi/entry-10722419845.html)。これをきっかけに、与党と野党の間で懲罰動議合戦になるというわけのわからないことになっています(http://www.jiji.com/jc/zc?k=201012/2010120100788)。

○ ヤジなのか、つぶやきなのか?

そもそもヤジって何でしょうか?ヤジというのは、「他人の言動に、大声で非難やひやかしの言葉を浴びせかける(大辞泉)」ことだとされます。一般的にも、演説者や会場全体に聞こえるような大きな声で、非難・侮辱するようなイメージを持つ人が多いでしょう。

ところが、ヤジを聞いたと実名で明かしているのは、対立政党であるみんなの党の桜内氏だけ。問題が公になってかなりの時間が経ってから、「私も聞いた」という匿名発言がマスメディアで取り上げられるようになりましたが、多くの国会議員が伝聞として発言しています。言い換えれば、ほとんどの国会議員は発言を直接聞いていないのです。

要するに、「ヤジ」というより、「つぶやき」と言った方が良いような発言であり、先ほど引用した大辞泉の「ヤジ」の語義説明からは大きく離れるものであったことは間違いなさそうです。中井氏の「つぶやき」を対立政党に所属する桜内氏が、「ヤジ」と大げさに書いた可能性が極めて高いでしょう。

○ どんな発言だったのか?

その上で、どんな発言であったかも問題です。桜内氏は、ブログで「早く座れよ。こっちも座れないじゃないか」と発言したと断定していますが、具体的な字句についての指摘は、桜内氏のブログの記事だけが根拠であり、確実に分かるのは、「この趣旨の発言があった」ということだけです。同じ趣旨ではあるものの、異なる表現だった可能性も十分にあります。実際、中井氏自身が次のように弁解しています。

中井氏は1日、記者団に、立っていることに疑問を挟む発言を自らがしたと認めた上で、「やじではない。(式典の)行程表にはお座りになると書いてあって、一同着席となっている。どうしたんだろう、宮さまに伝えていないのかね、ということを(周囲の議員に)申し上げた」と語った。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201012/2010120100788

仮に周囲の議員に対するつぶやきとして、「早く座ってよ。こっちも座れないよ」という発言だったらどうでしょうか?ヤジならともかく、「つぶやき」でこの程度の発言だとしたら、それほど問題ではないと考える人も多いはずです。そして、それこそが、桜内氏が、「ヤジ」と大げさに書いた上で、「早く座れよ」と命令口調で書いた理由かもしれません。

別に、「早く座ってよ。こっちも座れないよ」という発言だったと断定するつもりはありませんが、このあたりのところについてはあくまで「分からない」ということが重要でしょう。もちろん、「民主党の中井氏のことだから、そのくらいのことを言いそうだ」と考える気持ちが分からないこともありませんが、それはあくまで憶測に過ぎないのです。

○ 宮様に関するつぶやきは懲罰に値するか?

こうして報道の「行間」を読むだけで、一般的な報道とは大きく異なるイメージが浮かび上がります。ここまで読んで、考えを変えたという読者もいるでしょうが、ここでもっとも根本的な問題である。「宮様に関するつぶやき(あるいはヤジ)は国会法に基づく懲罰に値するか?」という問題について考えたいと思います。

・最初に、一般的な話

たしかに、多くの日本人は、「天皇家や宮家を尊重することは、礼儀として尊重されるべき」という価値観を持っていると思います。私も人並みにはそう思っており、礼節を欠いた言動は避けるようにしているつもりです。ただし、憲法上、日本という国の主権は国民です。そして、こうした国民によって支持されることによって「象徴」として存在しているのが天皇制です。このことは、理論上、次のことを意味しています。

「天皇制をどこまで尊重するかどうかは、国民の信条の問題である。個人的に天皇の権威を尊重しないという国民がいても良いし、そうした人が国会議員になっても良い」

このことから、国会の内外を問わず、天皇や宮家に批判的な発言、尊重しない発言は、自由だと考えられるべきです。儀式の進行を妨げたのならともかく、つぶやき程度で批判されるべきではなのです。これは、国家公安委員長だろうと、予算委員長だろうと同じです。もしも、国民が皇室に批判的な態度を取る議員を望まないというのであれば、選挙を通して意見を言えば良いのであって、スキャンダルのような形で扱うのは非常に問題でしょう。

・民主主義と権威の尊重

ただし、民主主義の社会は、民主的に決められた権威を国民が尊重するということによって成り立っています。首相、国会議員、天皇、宮家、こういった権威に対して敬意を払うことは、民主主義の社会だからこそ必要とされるのです。

したがって、この理由での懲罰なら分かります。アメリカでは、議員が議場で大統領を侮辱することは懲罰の対象となりますが、これと同じような仕組みを日本に導入することは間違っているとは思いません。そして、そうした仕組みの中で、首相、天皇や宮家に対する侮辱や礼節に欠いた行動を懲罰の対象とするというのなら分かります。もちろん、国民や政治家は、政治的に首相や天皇を批判することを許されるべきですが、議事や儀式を妨げたり、侮辱して良いかというと別の問題であり、それは懲罰の対象となりうるのです。

しかし、日本の国会では首相や大臣に対するヤジが常態化しています。そして、これが国会の品位を大幅に落としているというのは、多くの国民が感じているところでしょう。それでも、懲罰が認められたことはありません。それにも関わらず、宮様に対するヤジだけを特別扱いすることが許されるのでしょうか?これを認めれば、民主主義社会のあり方に、大きな疑問を突きつけることになると思います。

民主主義の社会における、議事や儀式の進行を妨げたことによる懲罰は、「民主的に決められた権威を国民が尊重しなければいけない」という規範によるわけなので、「建前上」、天皇や宮家とともに首相や議長の権威も尊重するべきということになります。しかし、首相に対するヤジは良いが、宮家に対するヤジは良くないということになれば、この建て前を根底から覆すことになるでしょう。

たしかに、首相に対するヤジよりは問題ではないが、宮様に対するヤジを問題だという考えも、国民の感覚や意見としてなら理解できます。私自身も、感覚的には、そうした立場に共感しないことはありません。しかし、それはあくまで個人の思想や信条の問題であって、「懲罰」という形で制度化することの是非とは全く別であるはずです。

もちろん、上の議論には、次のような批判が可能です。

「民主的に尊重されている権威の中で、天皇はより普遍的、根本的な権威である。したがって、首相以上に尊重されることには何も問題はない」

ただ、この意見が正しいとしても、こうした政治的に微妙な問題を「懲罰」という形で解決することを肯定することは問題でしょう。それは、民主主義の否定とも言える、危険な一歩にほかなりません。もし、宮様に対するヤジを罰しようとするのであれば、国会法を改正して、国会内での首相や天皇、宮家に対する礼節を欠く言動を規制するか、選挙を通して国民が審判を下すのにまかせるか2通りしかないのではないかと思います。

○ まとめ

そもそも、中井洽氏の「ヤジ」は、そもそもヤジではなく、つぶやきである可能性が高かったのに加え、内容的にも問題がないものであった可能性さえあります。これだけでも、懲罰が不適切だということが分かると思いますが、かりに「ヤジ」であったとしても、それを懲罰の対象とするべきかは、非常に疑問です。

まぁ、今回の事件を見て思ったのはそんなところです。

民主党に政治をまかせられないとしても、自民党やみんなの党にもやはり政治をまかせられないんじゃないかとか、その根本的原因は「失言やスキャンダルには熱心だが、政策には大して関心を持たない」国民とマスコミなんじゃないかとか、いつも書いてることなので、こんなところで終わります。ではまた。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(0件) | トラックバック(0件)

北朝鮮砲撃事件における日本のマスメディアの偏向報道

経済・政治・国際 | 2010/11/27

延坪島(ヨンピョンド)砲撃事件で、日本のマスメディアより、中国系のメディアの方が客観的な報道をしているという不思議な現象が起きています。以下は、事件の二日後、25日のサーチナニュースの記事です。

新華社や北京晨報など中国メディアは25日、朝鮮半島で23日に発生した南北双方の砲撃戦について「韓国側が、先に発砲したと認めた」とする記事を発表しはじめた。韓国が軍事演習として、北朝鮮と「支配問題」で対立している海域に砲弾を撃ち込んだことを指す。

朝鮮半島停戦の1953年、国連側は海上における韓国と北朝鮮の軍事境界線として朝鮮半島西側の海域に北方限界線(NLL)を設定した。実質的には、米国と韓国の「西側」が一方的に設定したものだ。北朝鮮側は認めず、1999年になり、NLLより南側に「海上軍事境界線」を設定した。南北双方が主張する領域が一部で重なり、「争議ある海域」が発生することになった。

北朝鮮側は22日、韓国側に対し、「争議ある海域」付近での軍事演習を中止するよう要請。韓国側は拒絶した。韓国の政府関係者は名を秘すことを条件に「わが方の砲弾は、争議ある海域に落下した。ただし、北朝鮮の海岸には届いていない」と述べた。同説明は、北朝鮮軍が発表した「韓国側が先に、わが領海に数十発の砲弾を撃ち込んだ」との声明に合致する。

朝鮮半島砲撃戦:「韓国側、先に発砲したと認める」…中国報道

ちょっと補足すると、延坪島は北朝鮮が主張する海上軍事境界線より北側、韓国が主張する北方限界線(NLL)の南側にあり、南北がともに支配を主張する地域なのです。ただし、実効支配しているのは韓国側。こういう複雑な地域で、米韓が軍事演習をしたことに、北朝鮮が反発したと見ることができます。

イメージとしては、韓国が実効支配する竹島周辺で韓国軍が軍事演習し、そこに日本が砲撃を仕掛けた…。こんな状況でしょうか。たしかに、やり過ぎだと思いますが、「挑発したのはどちらが先か」となると、難しい問題です。

延坪島の事件についても、先に挑発したのは米韓側だったという主張を完全に否定するのは難しいでしょう。もちろん、北朝鮮側の対抗措置が、「民間人居住地域への砲撃」であることに対する批判はあるだろうし、そもそも北朝鮮側の海上軍事境界線が適切かという議論はあります。ただ、こうした状況説明を一切なしに、「何もしていないのに、突然、北朝鮮側が攻撃してきた」かのように説明するのは、あまりにも一方的なものです。

ところが、日本の大手メディアは、一方的に韓国側の立場を報道をするばかりで、北朝鮮側の主張をほとんど報道していきません。さすがに、西日本新聞日経BP産経等の例外はありますが、いずれも記事としての扱いは非常に小さく、ほとんどの記事で、韓国側による「北方限界線」が唯一の軍事境界線であるかのような書き方がされています。

別に、北朝鮮側を支援するつもりはありません。私個人としては、友好国である米国・韓国による軍事的挑発は有意義なものだったのではないかと思っているし、これをきっかけにした事態の打開も期待しています。ただ、それも、正しい状況判断があってこその話であり、一方的な報道だけでは何とも判断できません。

報道の自由が保障されている日本において、厳しい報道規制が敷かれている中国系のメディアからの情報に頼らざるをえない事実。このことこそ、メディアの危機管理の問題として、真剣に議論しなければいけない問題ではないかと思います。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(2件) | トラックバック(0件)

目くらましとしての朝鮮学校問題

経済・政治・国際 | 2010/11/25

ネット界隈では、朝鮮学校への無償化には反対だが、砲撃を理由として無償化を停止するのは、論理が一貫しないという意見が多いようです。自分も、基本的にこれと同じ意見です。

本題に入る前に、一般的なことを言うと、そもそも、朝鮮学校への支援は憲法違反です。

第八十九条  公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

政府は、「学校への補助ではなく、生徒個人への補助」ということで、憲法問題を回避しているようですが詭弁です。普通に考えたら、文科省の学習指導要領にしたがっていない学校に、直接、間接に補助するのは違憲であり、朝鮮学校の無償化も許されるべきではないと言うべきでしょう。たしかに、他の外国学校に公金の支出を認めた以上、朝鮮学校への支出も認めざるをえないというのはその通りです。しかし、そもそも、朝鮮学校に限らず、学習指導要領にしたがっていない学校は、憲法上の制約から無償化できないとはっきり言えば良かったのです。

ところが、政府は、「学習指導要領に『準じた』指導を行っている」と言う無理のある認定をして、憲法違反である公金の支出を認めてしまいました。そうである以上、北朝鮮が韓国に砲撃を加えたくらいで、撤回するのはおかしな話です。全く一貫性がない。これでは、金明秀あたりに、「国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている」「人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家なのかといわざるをえない」と言われても反論しようがないでしょう(link

ただね。ここからが本題なのですが…、

正直言うと、朝鮮学校の無償化とかどうでもいいと思ってます。だって、金額にして、10億円にもならないんですよ。政策上の優先順位としてはかなり低い、ほうっておいても良い問題です。これについて考える時間を、八ツ場ダムや高速道路について費やした方がよほど有意義です。

比較のために挙げると、在日コリアンへの生活保護はこの100倍規模、在日コリアンが経営者の大部分を占めるパチンコ業界の利益は1000倍規模です。そして、生活保護はともかく、パチンコ関係のお金の相当量が北朝鮮の核開発に使われてると言われています。それと比べたらはした金も良いところ。つまり、無償化問題の政治利用は、理念的に一貫性がないだけでなく、北朝鮮への経済制裁という観点からもほとんど意味がありません。弱者に対する「嫌がらせ」に過ぎないのです。

本気で北朝鮮に対抗しようと思ったら、パチンコの合法化とパチンコ税の創設(あるいは建前上公営化して、運営委託の形にするなど)が一番ですが、どうせそんなことはできないでしょう。少なくとも民主党には無理だし、自民党にも無理。また、大手マスコミにも無理な話です。そう考えると、北朝鮮の砲撃への制裁で、朝鮮学校の無償化問題が出てきたのは、ある種の「目くらまし」ではないかといううがった見方までしたくなります。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(0件) | トラックバック(0件)

「失言」政治の行き着く先

ニュース | 2010/11/23

最近、マスコミや野党の政権批判があらぬ方向に行っている気がします。

別に、民主党が良いって言うつもりはありません。ただ、民主党の失策なんていくらでも見つかるのに、そういうのを放っておいて、分かりやすい「揚げ足取り」に終始するマスコミや自民党がおかしいと思うのです。

1. 仙谷氏の「暴力装置」発言について

マスコミは報道しませんが、ネットでは「自衛隊が暴力装置なのは政治学の常識」で議論が終結しています。一番、端的なのは、池田信夫氏の以下の記事でしょう。

マックス・ウェーバーは、主権国家を「合法的な暴力の独占」と定義した。レーニンは、国家を物理的な暴力(Gewalt)と心理的な権威(Macht)によって成り立つブルジョア階級の統治機構と考え、そのコアにあるのが軍事力だと考えた。(中略)仙谷氏の「暴力装置」という言葉は、このレーニンの影響が残っているものと思われるが、これはきわめて正統的な軍隊(したがって自衛隊)の定義である。菅首相も謝罪したようだが、彼は軍の最高指揮官であり、その命令で何万人も殺害できるのだ。これぐらいのリアルな認識をもってもらわないと困る。

自衛隊は「暴力装置」である

ついでに、この問題が起きた後、誰かがWikipediaの英語版から日本語版に翻訳してくれたので、詳しくはこちらを見てもらうのが早いでしょう。日本語版のWikipediaにしては出典も充実した良記事です。

いずれにせよ、こうしたことを知った上で、それでも「失言」として批判する人はいないと思います。こうした議論がなかったかのように、揚げ足取りを続けるマスコミや自民党は、いったい何を考えてるのでしょうか。

2. 柳田元法相の国会軽視?発言

「法相とはいいですね。二つ覚えておけばいいんですから。『個別の事案についてはお答えを差し控えます』と。これはいい文句ですよ。これを使う。これがいいんです。分からなかったらこれを言う。これで、だいぶ切り抜けて参りましたけど、実際の問題なんですよ。しゃべれない。『法と証拠に基づいて、適切にやっております』。この二つなんですよ。まあ、何回使ったことか。使うたびに、野党からは責められ。政治家としての答えじゃないとさんざん怒られている。ただ、法相が法を犯してしゃべることはできないという当たり前の話。法を守って私は答弁している

法相の答弁がワンパターンだというのは、従来の法相に対しても言われてきたことであり、柳田氏が特に悪いというわけではありません。それに、太字の部分からも分かるように、法相の立場上、そうせざるをえないということも言っています。これを読んでも、「失言」だと思う人がどれだけいるのでしょうか。たしかに、「不謹慎」という人はいるかもしれませんが、ジョークですよジョーク。しかも、自己批判的なジョークであって、誰かを傷つけるようなジョークではありません。こうして国会答弁をジョークのネタにしたことに対して、「国会軽視」と発言されたのではたまったものではないと思います。

麻生元首相が「読み間違い」で批判されていたことがありましたが、それと同じか、場合によってそれ以下のひどい批判の仕方です。

そんなこといいから、本来の政治の議論をするべきじゃないか?くだらない揚げ足取りのために、審議拒否とかしてる場合か?どうして、そういう意見がマスコミで取り上げられないのでしょうか。 要するに、彼らは視聴率を取りたいだけなんでしょう。

たしかに、「民主党はいずれにせよダメなんだから、どんな形でも攻撃するのは正しい」という主張はもっともに聞こえます。でも、それって自民党の時も同じでしたよね。「自民党はいずれにせよダメなんだから、どんな形でも攻撃するのは正しい」、そういう形で、自民党が追い出され、政権を取ったのが民主党です。そして、同じ事が再び繰り返されているのです。当たり前でしょ?だって、どんなに良い政策を取っても評価されないし、悪い政策を取っても批判されないのですから。そういう政治家を作ったのは、「あいつはいずれにせよダメなんだから、どんな形でも攻撃するのは正しい」と考える国民にほかなりません。そういう国民には、それに見合った政治家しか育たないのです。

こういう「失言政治」が、政治の空洞化を招いてきたことに、国民はいい加減気付くべきではないでしょうか。視聴率を取るために、政治を愚弄しつづけるマスコミと、それを利用しようとする政治家、それに騙される国民。この構造が変わらない限り、日本の政治は永遠に良くならないのではないかと思います。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(0件) | トラックバック(0件)

ニュースな待合室をRSSで購読する

Googleで購読 はてなRSSで購読 livedoor Readerで購読 Bloglinesで購読 My Yahoo!に追加

その他のRSSリーダー

管理人のつぶやき