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サンデルの政治哲学と尖閣ビデオ公開問題

経済・政治・国際 | 2010/11/13

○尖閣ビデオ漏洩問題

sengoku38氏による尖閣問題関連ビデオの公開の是非が議論になっています。事実関係に関しては報道されている通りだとすると、以下のような主張の対立と言うことができます。

1. そもそも、非公開とすることが間違っていたのであり、国益にかなう「公開」を行ったsengoku38氏は正しい
2. 公務員が勝手な判断をすることは許されるべきではなく、国家の信頼を失わせるsengoku38氏の行動は間違っている

どちらの主張が正しいのでしょうか。

○ 報道の自由との関係

まず、この問題と報道の自由やネット言論との関係が指摘されていますので、このことについて整理してみることにしましょう。以下の3つのケースで、公開した人が罪に問われるかを考えてみることにします。

1. 公務員が国家機密をジャーナリストを通して公開した
2. 公務員が国家機密を一般人を通してネット公開した
3. 公務員が国家機密を自分でネット公開した

1のケースで、ジャーナリストは報道の自由を盾に守られるというのが一般的な見解です。実際には国家公務員法の守秘義務違反教唆(111条)を問われる可能性があるわけですが(cf.西山事件)、取材源が秘匿されている限り、報道の自由が優先されるべきだという見解が一般的でしょう。一方、2の一般人はどうでしょうか。実際にこうした事例があったときに、どういう判決になるかは微妙ですが、ネットにおける言論の自由を擁護する立場を取る人であれば、1と同じ判断を適用するべきだと主張することになると思います。

ただ、1~3いずれのケースであっても、国家機密を漏洩させた公務員自身の守秘義務違反(国家公務員法100条)は免れません。つまり、ネット言論の重要性を強調し、報道機関の特権性に疑問を呈する人も、せいぜい2の場合の「一般人の他人」を擁護することができるだけであり、3の場合まで擁護することはできないでしょう。こういった観点から考える限り、今回のビデオの問題に、報道の自由やネット言論の問題を持ち出すのは、見当違いなのです。

○言論の自由と守秘義務の矛盾

ただ、問題はそんなに単純はありません。

たとえば、ナチスに占領されたパリで、レジスタンスの地下組織が、ナチスを攻撃したとします。たしかに、その行為は「違法」なものかもしれませんが、「悪い」かどうかは難しい判断です。一般に、「国家の命令に従わなければいけない」という規範は、その国家が正当なものだということが前提です。したがって、「不当に支配している」と考える人にとっては、命令にしたがわなければいけないということ自体が成り立たないのです。

もちろん、民主主義がもたらす帰結の一つとして、「民主主義においては政権交代の可能性がある以上、多少の不満があっても暴力的な方法で革命を試みるべきではなく、平和的な方法で改善を試みるべきだ」というものがあります。まして、海上保安官は公務員である以上、不満があっても政治家の命令にしたがうべきであり、政治活動を通して、自分の主張をするべきだ…という意見も、それなりに見るべきものがあるでしょう。

しかし、「民主主義において政権交代の可能性がある」のは、適切な情報が国民に適切な形で知られているということが前提になっています。したがって、国家が「機密にするべきではない情報を不当に機密にしている」、さらに、そのことが、国民の政府に対する評価に大きな影響を与えていると思われるとき、「機密の漏洩」という形で、民主主義の前提を回復させようとする行動は正当化されることになります。これは、5.15事件のような暴力的なクーデターとは全く異なるのです。両者は「国家の統制を乱す」という意味では共通していますが、民主主義の価値観から言うと正反対と言えます。漏洩させたと言われる海上保保安官は、こうしたことをしっかりと踏まえていると思われます。(cf. 海上保安官メモ全文起こし)

そもそも、民主主義の社会において、守秘義務というのは微妙な問題です。たしかに、守秘義務が全く守られないようなら、国家が信頼を保つことができません。しかし、その情報を公開することが公益に資する場合、言論の自由を理由に、あえて守秘義務を守らないことが正当化される場合も出てくることになります。尖閣ビデオの問題は、こうした守秘義務と言論の自由のバランスの問題ということができるでしょう。

このバランスを考える上では、ビデオの公開が「公益に資するか」が重要です。「公益に資する」のであれば、sengoku38氏の守秘義務違反には正義があります。逆に、「公益に資する」のでなければ、守秘義務違反は問題ということになります。

ただ、尖閣問題について、ビデオを公開することが公益に資するかどうかは難しい判断が必要でしょう。ビデオの非公開は、中国との密約によるものであることを毎日がスクープしましたが、(link)、「中国におもねりすぎで、日本の国益を損ねている」という国民からの批判は、ある意味、当然なことのように思えます。こうした立場を取る人が、問題のビデオが「不当に機密扱いにされている」と感じるのももっともだし、民主主義の擁護の観点から、sengaku38氏の行動を正当化するのは当然のことです。一方、外交上の問題については、多数決だけで決められるわけではなく、時の政府に一任するという考え方も必要です。今さらビデオを公開したところで、失われた国益は何ら回復しないという批判もあるでしょう。このような立場の人は、sengoku38氏の行動を批判するかもしれません。

○刑罰とは何なのか

しかし、「ビデオの公開が公益に資する」と考えたとしても、sengoku38氏の行動に刑罰を与えるべきかどうかは微妙です。

たしかに、公開自体が有益であれば、民主主義の擁護、言論の自由の観点から、sengoku38氏の行動は擁護されます。ただ、これと刑罰がどのような関係にあるべきかは自明でありません。刑罰は、「国民の利益を代弁するものなのか」「権力機構を代弁するものなのか」、これが分からないと結論が出ないからです。前者の場合、sengoku38氏は守秘義務違反を問われることになり、後者の場合、守秘義務違反は問われるべきではないということになります。これは、結局、先述の言論の自由 vs. 守秘義務違反という論点ですが、それがビデオ公開の公益性を仮定したときにも成り立つということが重要です。「守秘義務違反を問題にする」のは、司法において国家の組織統制に注目する立場と対応し、「言論の自由を優先する」のは、司法において現在の行政機構より上位の、民主主義のあり方や国民の利益に注目する立場と対応するのです。

理論上、このどちらが正しいかは決めるのは困難です。たしかに、日本の司法制度は、建て前の上では三権分立の原則にしたがって、国民の利益を代弁するものとして存在しています。だから、言論の自由を優先するべきという考える人もいるかもしれません。一方、国家の統制を維持することも国民の利益でもあります。この両方のバランスの中で、司法制度が成り立っていると考えると、答えは自明ではないのです。

余談ながら現実に視点を移せば、日本の司法制度は権力機構を代弁するものという性格が非常に強いので、ある点において「正義を貫いた」sengoku38氏にも、国家の統制のために、「あえて刑罰を受けていただく」ことになる可能性もあるでしょう。ただ、日本の司法制度のもう一つの特徴として、「国民感情」の重視という側面があります。また、<仙谷内閣>が、従来の主張の中で、「検察の独立性」を強調してきたという流れもあります。そう考えると、今後、どうなるかは予断を許さないものがあります。

○物語としての正義

ベストセラーの「これからの正義の話をしよう」においてマイケル・サンデルは大きく分けて二つの主張をしています。一つは、「正義は、何らかの原則から導かれるものではない、多面的なものである」という主張であり、もう一つは、市民の政治参加の重要性です。このうち、後者については触れませんが、前者については、まさに尖閣ビデオの問題が、その良い例になっていると思います。というのも、サンデルがマッキンタイアの議論を引きながら、正義は何らかの物語(narrative)の中で初めて成り立つものであるということを主張しているからです。

人間は物語る存在だ。われわれは物語の探求としての人生を生きる。「『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ。(p.286)

尖閣ビデオの問題について言うと、これは「国家の統制」という物語と、「民主主義」という物語の対立だということになるでしょう。すなわち、以下のような二つの物語の対立です。

・ 民主党は日本の国益に反する外交を行っていて、それに関する重要な情報を隠蔽している。この事実を明らかにするためにはビデオを公開しなければいけない。罪に問われる危険を冒してまで公開したsengoku38氏は英雄である。
・ どのような理由であれ、外交上の問題にかかわるような国家機密を、公務員である海上保安官が公開することは許されることではない。

一般論として言うと、この二つの物語のどちらが正しいと言うことはできません。それぞれ、背景となる事実関係(ビデオの公開の外交上の意義等)が分からないだけでなく、仮にそれが完全に分かったとしても、両者の優劣は付けがたいものだからです。これに関連して、サンデルは次のように述べています。

まったくかけ離れた次元にあるものの優劣さをくらべるのは、どこかこっけいだ。「僕は、彼女が優れたラクロス選手である以上にハンサムだろうか?」とか、「野球選手としてのベイブ・ルースは、劇作家としてのシェークスピアより優れていただろうか?」という問いは無意味とさえ言えるかもしれない。そうした問いに意味があるのは、言葉遊びとしてだけだろう。(p.243)

たしかに、sengoku38氏の刑罰をどうすれば良いかという議論はできます。これは、司法のあり方や政治のあり方の問題とも関係しており、国民一人一人が判断を強いられているということもできます。

ただ、そうした議論が可能なのは、「司法」という物語(文脈)が指定されているからにほかなりません。一般論としての正義は、もっと多様な物語を含むものであり、そもそも答えが存在するかどうかすら疑問なのです。こうした一般的な「正義」に関して言うなら、どの「物語」が優れているかを議論するより、さまざまな物語を含んだものとして、「正義」を理解することの方が重要ではないでしょうか。

「正義」を一枚岩ではない、多面的なものであるということが分かれば、尖閣ビデオの公開問題も違った形で見ることができるし、犯罪報道を巡るバッシングの風潮も、少しは変わるのではないか。一連の報道をみながら、そんなことを思いました。

○関連記事

書評:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』について

サンデルに興味を持った方は、リンク先の記事をご覧いただけると幸いです。

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