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ニュースな待合室アーカイブ→2010年9月の記事をまとめて読む

死刑制度と二つの人権

経済・政治・国際 | 2010/09/10

死刑制度に対する賛成意見と反対意見の背景には、「人権」に対する異なる二つの見方があります。片方を取れば死刑制度の存続という結論が導かれ、片方を取れば死刑制度の廃止という見方が導かれます。死刑制度に賛成するにしても、反対するにしても、このことを理解することは非常に重要です。

1. 国家によって保障されるものとしての人権

人権というのは形式的には、憲法や法律によって保障されるものです。そして、この意味で人権が保障される範囲は恣意的です。言い換えれば、憲法や法律によって、人権が保障される範囲を決めることができるということです。

この観点からに立ったからと言って、死刑制度は手放しで肯定されるものではありませんが、少なくとも選択肢に入れることはできます。つまり、一定手続きを経た人間を「法の保護の対象外」とし、人権を剥奪する制度として死刑制度を見るということです。これに近い制度としては、古い法律の概念である「アウトロー」があります。

2. 普遍的なものとしての人権

これに対し、死刑廃止と結びついているのが普遍的なものとしての人権です。国家というのは、さまざまな制度の一つであり、間違えることもあります。そうだとしたら、国家も間違えるということを前提に、国家から個人を守るものとしての人権という考え方が必要になるからです。

こうした立場にしたがえば、当然、死刑制度は「人権侵害」ということになります。ここで重要なのは、単に裁判技術の問題として冤罪ではなく、国家権力による恣意的な法解釈によっても起きる冤罪が問題になっているということです。こうしたことを踏まえると、取り返しの付かない人権侵害である死刑には問題があるという判断は当然です。

3. 近代国家における人権

さて、こうした「普遍的なものとしての人権」という考え方を出すと、条件反射的に反発する人がいそうですが、そんなに単純なものではありません。日本国憲法を初めとする近代的な憲法では、国家によって保障されるものとしての人権ではなく、普遍的なものとしての人権を出発点に法体系が組み立てられているからです。国家が間違えるということを踏まえて、国家を規定するものとして憲法があるわけです。

つまり、近代国家における人権は、国家によって保障されるものではあるけれど、国家が保障する人権は理念上、普遍的なものなのです。こういうある種の「ねじれ」の下で近代国家が成り立っているということがポイントです。

4. 国際秩序における人権

こうした「普遍的なものとしての人権」は全く別の側面からも考えることができます。それは国際秩序における普遍的人権という側面です。

第二次世界大戦において、連合国=国際連合 (United Nations)は、日本やドイツを非難するために、普遍的な人権概念に基づく国際秩序を構想しました。これは結果として、全ての国が連合国=国際連合側に立っている現在における国際秩序の基盤になっています。こうした秩序は冷戦体制の下で隅に追いやられ、その役割を果たすことができなかったわけですが、冷戦の終焉…特にコソボ紛争とその解決過程を通して、再び、時代の主役に付くことになりました。

もちろん、国際秩序としての普遍的人権は、非常に弱いものであり、大国の都合で簡単に覆るのも事実です。また、「戦勝国の都合」という形で、その歴史的経緯を非難するのは簡単です。しかし、それでも、日本にとって、普遍的人権が安全保障上の重要な価値であることには変わりません。たとえば、今後中国が経済力を強めて、政治的にもアメリカと近づいたとします。そういう状況で、中国が日本に侵攻したら、アメリカは日本側に立つべきか中国側に立つべきか迷うでしょう。そうしたとき、日本がアメリカに訴えかける根拠は普遍的人権以外にありません。

5. 死刑制度に賛成することの意味

つまり、死刑制度に賛成するということは、憲法の前提にあり、また現代の国際秩序に重要な役割を果たしている「普遍的人権」を否定するということとも言えます。

ただ、このことが直ちに、死刑制度を絶対に廃止するべきということを意味しているかというとそうではありません。実のところ、社会制度はさまざまな矛盾する価値の体系であり、死刑制度が他の制度と矛盾しながら、存続し続けるということも、ありえないことはないからです。北朝鮮は外交上の立場が一貫していないわけですが、だからこそ世界でもトップレベルの外交能力を持っているとも言えます。中国は国内の制度が一貫しないことで有名ですが、経済的にもっとも注目されている国です。日本が死刑に関して一貫しない立場を取るということは、それだけで批判できるようなことではありません。

ただ、それでも一つ言えることは「日本は西洋とは違う伝統を持っているから死刑を認めるべきだ」というのはナンセンスだということでしょう。イギリスにもフランスにも、死刑やアウトローの制度があったわけであり、伝統ということに関しては、根本的に違うわけではありません。それにもかかわらず、近代化の過程で、そうしたものを捨て去ってきたわけです。むしろ、安全保障を取り巻く環境や、司法に対する不信感などを踏まえると、日本ほど「普遍的な意味での人権」が必要とされる国はないとも言えます。

もちろん、こうしたことを全て理解した上で、「死刑賛成」ということは十分考えられます。特に、国家を超越する何者かの下位に置かれるものとして、国家を理解するのであれば、上のような議論は無効でしょう。ただ、「本当にそのことを理解しているのか」と問いかけ続けることは、重要ではないかと思います。ちなみに、私個人は必ずしも死刑制度に反対ではありません。

○ 関連記事

この記事とほぼ同じ論旨で、2年ほど前に以下の記事を書きました。特に新しいことを書いたわけではなく、対象とする読者層が若干変えて書き直したのがこの記事です。

死刑制度と人権―コミュニケーションシステムの視点から

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「怠け者社会」は期せずして来る

経済・政治・国際 | 2010/09/07

「フランスの日々」というブログは、日本人のコンプレックスをくすぐるようなタイトルとは裏腹に、フランス在住の著者の視点による、鋭い記事が多く掲載されていて、素直に尊敬しています。かっこ良さそうな思想家の名前とか、ブランドの名前でも散りばめられていれば、「なんだこのフランスかぶれ」とでも思えるのですが、そういう要素が全くないのが憎いところです。そうした「狙ってる感」を自覚することは大切だとは思いますが…(cf:堀江さんに対する反論記事の末尾)。

さて、「フランスの日々」では、最近、フランスとの比較を踏まえて「怠け者同盟」という提案をしています(怠け者同盟の社会のまとめ)。若干、補いながら、自分なりに整理すると以下のようなことです。

市場経済では、いくら競争をしても、競争をした分だけパイが増えるのではなく、次第にパイの増加は緩やかになっていく。そして、緩やかになった分は、いわば「無駄な競争」になる。したがって、ある程度競争を制限した方が、みんなが幸せになれるのではないだろうか。こうして競争を制限して、みんなが幸せになろうとする社会が「怠け者同盟」の社会である。

ここで、競争の制限をどの程度行うべきかは、人々がどれだけパイの増加(豊かな暮らし)を求める度合いと、その経済の労働生産性のバランスの問題である。前者が高ければ、競争は制限しない方が良いことになり、後者が高ければ競争を制限した方が良いことになる。つまり、人類全体としての労働生産性は今後も高まり続ける以上、次第に「怠け者同盟」に傾いていくのは当然。日本も、そういう方向性を考えた方が良いのではないだろうか。

まぁ、他にもいろいろ述べられていますが、基本的な論点については、こんなところだと理解しています。

言っていることそのものに異論はないのですが、追加したい論点が一つあります。それは、「怠け者社会」を実現するための政策は、失業対策でもあるということです。多くの人が失業している社会においては、仕事量を制限しても、全体としての生産量はあまり変わらず、単に失業者を吸収することになります。社会全体の「ワークシェアリング」とも言えるでしょう。仕事量を制限することが失業対策にもなっているのです。つまり、「怠け者政策」(労働時間の制限)はフランスのように超高失業率の社会だからこそありえたということを示唆しています。

これは、「怠け者社会」の議論とどういう関係にあるのでしょうか。すでに説明したように、市場経済では、いくら競争をしても、競争をした分だけパイが増えるのではなく、パイの増加は緩やかになります。ここで競争を制限するというのはありえる話です。ただ、そこで無理に競争を制限しなくても、市場原理によって、労働市場において労働者そのものが余るようになるのです。こうなってから初めて、「怠け者政策」(労働時間の制限)を導入するというのもありえる話です。むしろ政治的に言うと、この状態にならないと、「怠け者政策」(労働時間の制限)を取ろうという話にはならない可能性が高いでしょう。

これは、実は先ほどの論点と矛盾しません。過剰な競争になったときに、労働者が余るようになるかどうかは、人々がどれだけパイの増加(豊かな暮らし)を求めるかに依存します。言うならば、パイの増加にこだわらない「怠け者文化」の強い経済では、早い段階で労働者が余り、「怠け者文化」の弱い経済では、労働者が余らず、過剰な競争が続くことになります。また、労働生産性が高い経済では、労働者が余りやすくなり、労働生産性が低い経済では労働者が余りづらくなります。ここで、労働者が余るという現象が起きたときに、それを緩和するために使われるのが、「怠け者政策」(労働時間の制限)ということになると思います。

要するに、「怠け者文化」の強い国では「怠け者政策」を取らないと失業者が増えてしまうのです。「フランスの日々」では、「怠け者文化」の浸透と「怠け者政策」をセットで考えて、「そういう社会も良いじゃないか」という話をしているので、主張として間違っているわけではないのですが、「怠け者文化」だけを浸透させようとすると、高失業率社会になってしまうということは考えないといけないでしょう。これは「フランスの日々」で指摘されていた「怠け者社会を実現するためには、抜け駆けを許さない仕組み=怠け者政策が必要」(link)という論点と一致します。

そうとは言っても、思想的な取り組みによって、「怠け者文化」を根付かせるのは困難だと思います。絶対に無理とは言いませんが、大抵、こういう試みは失敗します。そういう意味で「フランスの日々」の主張は、ちょっと現実的ではありません。むしろ、日本のように怠け者文化の浸透していない国でも、労働生産性が向上すれば、失業率が高まり、怠け者政策が必要になります。今の日本は、すでにこういう局面に入りつつあるのではないでしょうか。労働生産性が向上する一方、グローバル化によって日本の国際競争力が低下した今だからこそ、労働力の流動化と、それによる失業率の向上に見合った形での、適度な「怠け者政策」が必要ではないかと思います。無理して「怠け者文化」を浸透させようとするより、こうした現実に対して適切な対応を考えることの方が重要なのです。

ちなみに、こうして期せずして来てしまう「怠け者社会」に当たって、その文化的背景を考察することは重要です。こういう興味深い論点を設定してくれた「フランスの日々」に感謝。

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