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個人の問題と社会の問題―幼児虐待死の議論を通して

経済・政治・国際 | 2010/08/04

◎個人の問題と社会の問題は別

自分は、「個人の問題と社会の問題は分けて考えるべきだ」ということを、このブログで繰り返し主張してきた。個人の問題であることと社会の問題であることは「何対何」というように分離できるものではなく、両立するものなのだ。そして、「両立する」ということを理解した上で議論することは、無駄な論争を避けるために非常に重要である。

さて、最近、幼児虐待死事件が話題だ。母親がドアにテープを貼って子供を外に出られないようにした上で、ホスト遊びをし、餓死させてしまったという事件である。自分もこれだけの話だったら、そのままやり過ごそうと思ったのだけど、ちきりん氏や罪山罰太郎氏が、「社会の問題」であると指摘し、これが非難を浴びるという流れになって、事情が変わってきた。一応、この分野を専門にしていると自称している人間として、一言書いておこうと思う。

俺自身、ネグレクトした母親は悪いと思うし、彼女は裁かれるべきだと思います。個別のケースで考えれば、どんな犯罪も、犯人が悪いに決まっています。

しかしそういった個人の問題とは別に、社会の中に犯罪を誘発してしまう状況があるなら、それは指摘されなければならないでしょう。

こういった個人(ミクロ)の責任と社会(マクロ)の責任は、分けて考えなければなりません。

児童虐待を減らす為に/俺の邪悪なメモ(罪山罰太郎氏)

正直、自分は上のような主張を見ると、「そうそう、そうなんです。それがシステム論的発想ですね」と条件反射したくなる。実際、上に引用した部分に限って言うと、これは一般論として正しいし、特に批判する部分もない。

たとえば、前にも取り上げた、失業の問題(「失業は個人の問題か、政策の問題か?」)において、派遣労働者が解雇されるのは、「個人の問題であると同時に、社会の問題」であった。個人の立場から見れば個人の問題だから、自分で解決策を感がなければいけない。しかし、それは社会的な対策をしなくても良いということを意味しない。「個人の問題と社会の問題は別」なのである。

これは犯罪についても当てはまる。窃盗、傷害、こういった一般的な問題の背景に貧困を初めとする社会の問題があるのはもちろん、どんなに特異で同情できない事件であっても、理論的には背景に社会の問題がある。人間は社会の中で生きている以上、因果関係と言う意味で、原因の一端が社会にあるというのは、どうやっても否定できない事実である。

◎ 社会の責任とはどういうことなのか

ただ、理論上、社会に原因があるということと、それが社会の責任として取り上げられるべきということは異なる。では、「社会の責任」が問われるのはどのような場面だろうか。もう少し立ち入って考えてみたい。

犯罪に関して「社会の責任」が問題にされる状況として次の2つのケースがある。

1. 社会全体で同様の事例が多数起きており、そこに一般的な原因が見いだされるケース。ネグレクトや窃盗、傷害、殺人など、全ての犯罪の分類について、(分類として成立している時点で)同様の事例が多数あり、それをなくすために、社会の問題として取り組むことが重要になる。

2. 特異な事件だが、そこに社会を象徴する何かが見いだされるケース。たとえば、秋葉原の無差別殺人事件では、それが社会の構造のゆがみの結果として生まれたという立場から、さまざまな評論家が議論してきた。

1と2はいずれも「社会の責任」と言えるものだが、その性質は大きく異なる。1は客観的な研究の対象となり、政策的に対処することができる可能性が高い問題である。一方、2は人によって見方が分かれる場合が多く、思想的な問題としてしか扱われないことが多い。

ただ、いずれの場合も、社会の責任は、「見いだされるもの」であって、初めから固定しているものではないということが重要なのだ。特定の事件があったとき、それが行政の育児支援の問題として一般化できるのか、経済的支援の問題として一般化できるのか、それは問題の性質次第であり、「見いだす」人の立場や能力次第である。

◎今回の児童虐待は、どのように一般化されるのか

今回の問題の場合、2ではなく、1が問題になっていることは明らかだ。ただ、どのような意味で一般化できて、どのような意味で一般化できないのかは十分き検討しなければいけない。これに関する切込隊長(山本一郎氏)の反応は、全てが正しいとは思わないものの、以下の指摘はもっともだと思う。

一人親が虐待する理由が経済的困難だ、だから一人親の虐待を減らすために経済的困難を国家や社会は解消するべき、という議論をするのであれば、同様の状況で発生している犯罪との「発生率や重篤度の見比べ」が必要になってきます。

罪山罰太郎氏の「児童虐待を減らす為に」議論を、保守主義的観点から否定する/切込隊長BLOG(山本一郎氏)

今回の幼児虐待死事件は、ドアにテープを貼って子供を外に出られなくする、風俗やホスト通いといった特異な状況があり、単に経済的な困難だけでこうした問題が起きるとは考えられない…と、多くの人は思っている。こういう状況で何の前提もなしに、女性の収入の低さや、生活保護の話などに持って行かれると、何を言われているのか分からないだろう。ちきりん氏や罪山罰太郎氏に対して「ネタ」だという反応が起きるのもある意味当然である。

たしかに、ちきりん氏のTwitterのつぶやきにあるように、「生活のために、毎日何人もの男性に性的なサービスを続けろと言われたら、私ならホストに狂うか、精神が狂うかのいずれかでしょう。強い人はいいですね」(link)という立場からすれば、経済的問題の範疇で理解することもできる。ただ、記事を見ただけで、そこまで想像力を働かせられる人は多くないだろう。ちきりん氏の言うことが全面的に間違っていると言うつもりはないが、話の持って行き方としてはまずいのではないかと思うのだ。

むしろ、今回の事件に関しては、被疑者の家庭環境、行政によるケア、地域の結びつきなどを問題にする意見がある。こういった議論としては、切込隊長の指摘のほか、Koshianさんによる「それでも子育ては社会で取り組むべき」があるが、これは全面的に納得できるものだ。

こうした「納得のできる説明」と比べると、ちきりん氏のような「経済的問題」としての理解は、あまりにも結論までの道のりが長い。もちろん、ネグレクト一般の背景に経済的問題があるというのは事実かもしれないが、それを主張するためには別の事例の出した方が、はるかに戦略的に優れており、わざわざ今回のような特殊な事例を取り出してまで経済的支援の重要性を訴えることに何ら意味はないのである。

◎おわりに

つまり、今回の児童虐待死の事件に関しても、「個人の問題と社会の問題は分けて考えるべきだ」というのは成り立っているし、冒頭に引用した罪山罰太郎氏の指摘はいささかも間違いではない。

ただし、ちきりん氏や罪山罰太郎氏の言うように、これが「経済的問題」が原因かは微妙だ。少なくともそれを言うためには、もう少し複雑なロジックが必要だし、仮に言えたとしても、それは「脇役」に過ぎない問題なのである。彼らの主張を見ているとと、「これは社会の責任ではなく個人の責任である」、しまいには「見せしめのために死刑にすれば良い」と言うような立場の人たちが勢いづくのではないかと、無用な心配をしてしまう自分がいる。

◎ 変更履歴
2010/08/06 10:19 コメント欄の指摘を踏まえて全面改訂しました。主張内容を含めて全面的に差し替えてしまったため、旧版をテキストファイルとして置いておきます。

2010/08/04 00:36 初版

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コメント

> ただし、Chikirin氏も罪山罰太郎氏も、2種類の「社会の責任」を混同しているのだ。そのために、見当違いの議論になってしまったというところではないだろうか。

まさしくそのとおりだと思います。
混同した文章には、どこかほつれが出る。そこに憤りを自分は感じていました。
まともな考え方をされる人がおられて良かったです。

投稿: y | 2010/08/04 12:22:56

まず、個別のケースと一般論の2つに分けて考える。

個別のケースとして、今回の事件においては、問題があるのは母親であって社会ではない。母親の育児放棄が問題なのであって、社会は何ら悪くない。しかし、社会は悪くないからといって、社会が何も対策を講じなくて良いかというと、それも違うだろう。悪いのは母親だが、そういった母親から子供たちを救うためには社会が助けを講じるしかない。母親に任せていては子供たちは犠牲になるばかりだからだ。今回の事件は子供たちを閉じ込めて放置することによって死なせてしまうという、私たちの想定外の育児放棄だったために社会は驚いたのだ。こういったケースは今まで考えてもみなかった。子供たちがどんなに苦しいかを想像すれば、そんな恐ろしいことは出来るはずもないとまったく頭に無かったのだ。ところが、それが起こってしまった。私たちはこういった恐ろしい育児放棄まで想定して子供たちを育児放棄から救出する手立てを考えておかねばならないということだと思う。

さて、次に、一般論だが、子供を抱えたシングルマザーが自活することの難しさ、それゆえに、陥りやすいであろう育児放棄について、どう対処するかという問題だと思う。経済的な支援をすれば育児放棄を幾分かは防げるのではないかという意見がChikirinさんの意見だと思う。確かにそれには一理ある。だが、もっと言えば、他の犯罪なども貧困に原因がある場合が大半だというのが切込隊長の意見だと思う。そういう意味で貧困が原因である犯罪を救済していてはキリがないという考えだと思う。このChikirinさんと切込隊長の意見は各々一理ある意見だと思う。ただ、今回のケースを見てみると、必ずしも経済的な問題ばかりではないと思う。この母親はお金よりも自分の時間が欲しかったのではないだろうか?つまり、貧困は大きな問題ではなく、自分の時間が欲しかったのではないだろうか?そう考えると、育児放棄は何も貧困ばかりに原因があるとはいえないのかもしれない。もちろん、貧困が大きなトリガーのひとつになっていることは否めない。お金があれば、子供をベビーシッターに預けるなど時間を作ることも可能だっただろうからだ。だが、今回はそれよりも時間が欲しかったのではないかと思う。となると、Chikirinさんのいうように経済的支援をすれば、問題が解決するとは限らない。お金があっても、自分の時間が作れなければ、同じような事件を起こしてしまうかもしれないからだ。そうなると、やはり、育児放棄する母親から子供を取り上げるのが一番良いのではないかと思う。そうすれば、子供のために掛けるコスト(税金)が直接子供の養育に活かせることになると思う。おそらく、他国でも育児放棄には子供を取り上げることで対処しているのではないだろうか?この際、子供を取り上げるのが一番得策ではないかと思う。

いずれにしても、このような悲惨な事件は二度と起こしてほしくない。そのためには、社会の側に問題はなくても、問題のある母親から子供を取り上げて社会で面倒を見るようにすべきではないかと思う。何の罪もない子供たちがこのような残酷な死を迎えるのを黙って見過ごすことはできないと思う。見過ごすのような社会であって欲しくないと思う。社会は積極的に育児放棄の子供を救出すべきだと思う。

投稿: A | 2010/08/04 13:34:02

> Aさん

ちょっと話が錯綜している…というより、議論の持って行き方に問題があると思います。個別のケースというのは本文の2番に相当することだと思いますが、この場合も社会に責任があるという見方ができます。1番の場合も2番の場合も、社会と個人の両方に責任があるのです。個人にだけ責任がある事件も、社会にだけ責任がある事件もありません。(これは、本文で一番言いたかったことなので、理解されていなくて残念です)

ただ、最後の結論の部分はもっともだと思います。本文の議論との絡みで言うと、社会の責任の1番の方、つまり「社会全体で同様の事例が多数起きているケース」としてこの事件を見ようという話として理解できるでしょう。この立場からおっしゃることをまとめると、以下のようになると思います。

「今回の事件は「深刻な育児放棄」として一般化できる。この問題を解決するためには、生活保護や女性の雇用の問題の改善では意味がなく、「子供を取り上げる」ことをいかにシステム化するかということが重要だ」

「取り上げる」という聞こえが悪いですが、これは「保護」という形で現在もある制度です。この論点は、今回の問題に関する議論であまり指摘されていないポイントでしょう。個人的には、今回の問題の背景には、行政の権限が少ないこと、権限があっても人手不足のために深くまで立ち入れないことがあると思います。大事なポイントなので、もう少ししたら、本文に書き足させてもらうかもしれません。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/05 20:54:31

はてなブックマークコメントへの応答

> id:opemu
> 少なくとも発端のChikirin氏は「社会のせい」にしていない。「行政のせい」にしているだけ。

「行政のせい」も「社会のせい」の一種ですね。

> id:ncc1701
> うーん、なんか色々言ってるように見えて、何も言ってないような気もする。

基本的にこのブログでは、「対立する意見の整理」がメインですので、
「どちらもそれなりに正しい」という結論になる場合が多いです。
なので、マスコミ的な分かりやすい答えを求めている人からすると、
「何も言っていない」と思われるのではないかと思います。

> id:njamota
> 個人と社会の間に、関係者がいる気がする。
> 逮捕された母親が問われる罪と同種の罪を犯した人が周辺にいる感じが、母親擁護の気持ちを生んでいる?
> 逮捕される/されないの差を埋めるのが、行政に期待される役割か。

それは自分の分類で言うと完全に「社会」の方ですね。
たしかに、生活保護や労働問題は、ちょっとずれているのではないかと思いますが、
他の方の指摘にあるように「家庭環境」の問題や
育児支援(金銭的なことというより、主に人的なサポート)の問題は、
「社会」の問題(本文の1)として関係しているのではないかと思います。

> id:gonzales66
> 自分は母親に同情してしまったが、”特異なケース”だから自分には関係ないと思う人とでは、考えが違うのも当然なのかなと思った。

これは個人の体験だから仕方ないかもしれません。
感覚的に母親に同情する人は、ちきりん氏の話もすんなりと納得するでしょうね。
ただ、感覚的に納得する人を対象に文章を書いても意味がないというのが自分の立場です。
反対の立場の人を説得できるから文章を書く意味があると思っています。
だから、アクセスが伸びないのかもしれませんが…(笑)。

> id:maicou
> この場合は早苗がその父であるラグビー監督に元々ネグレクトされて育ったという事実があるからね。

> id: kobeni_08
> 確かに特異な部分も多いと思うけれど、
> 「親から適切な愛情を受けてない人が虐待をしやすい」とか、
> 「母親ひとりに育児の負担がかかることでストレスから虐待が起こる」は1では?
> 他にも1的要素があると思うけれど

全面的に賛成です。
この論点まで含めれば、もう少し説得力がある記事になったと思います。
自分が違和感を覚えたのは、この事件を生活保護と絡めることですね。

「行政がより細かなケアができるよう、また、適切なタイミングで保護できるよう、
行政側の権限と人材を充実させる」

こういう指摘だったら「社会の責任」と考えることは非常に重要だと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/06 9:06:45

ただいま、記事を全面改訂しました。

途中のロジックも大幅に変更し、
最後の結論も変えてしまいました。

最初ほどのインパクト(独自性)は
なくなってしまった気もしますが、
話としては、より納得できるものになったと思います。

旧版は恥ずかしいので消したいという気持ちも山々ですが、
そういうわけにもいかないので、
テキストファイルとして残し、リンクを貼ることにしました。

皆さん、貴重なご指摘、ありがとうございました。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/06 10:25:32

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