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ニュースな待合室アーカイブ→2010年8月の記事をまとめて読む

アルファ・ブロガーになるための7つの目標?

日記・コラム・つぶやき | 2010/08/07

ブログを始めて3年ちょっとになりました。今のところアクセス数は月間10000~15000PV程度。泣かず飛ばずといったところでしょう。では、どうすればアクセス数が伸びるのでしょうか。そんな弱小学術系ゼータ・ブロガー(そんな言い方あるのか?)(注1)である自分が、アルファ・ブロガーと言われる人々のサイトを見て、「これは自分には足りない」と思ったポイントをまとめてみました。

1. オリジナリティだけを追求するのではなく、Webで簡単に手に入らない情報の紹介やまとめ、馴れ合いも重視する
反省:自分としては、オリジナルの記事に注力してしまい、書籍の紹介や他のコンテンツのまとめは避ける傾向にあります。また、他の人が同じ趣旨のことをすでに発言していると書くのを思いとどまってしいます。でも、世の中の人が求めているのは、オリジナリティではなくWebで簡単に手に入らない情報の紹介やまとめ、馴れ合いだったりするのです。翻訳系ネタ紹介サイトのGIGAZINEやらばQが大人気だったり、学術系サイトの大部分がオリジナルの内容ではなく、書籍の紹介をメインにしているのはこのためでしょう。(自分の性格的に難しいが、努力してみる)

2. 記事タイトルに固有名詞を入れて読者の気を引く
反省:これも自分の悪い癖なのだが、記事のタイトルを学術論文のような「一般的なもの」にしてしまう傾向があります。これだと、タイトルを見たときになかなかクリックしてくれません。話題となっている固有名詞、批判対象となる有名人、内容的に絡んでいるブロガーの固有名詞を入れることでアクセスを稼ぐことができるのではないかと思います。(これなら頑張れるかも)

3. 大手マスコミや有名人だけを相手にするのではなく、自分の身の丈にあった相手とも絡む
反省:大新聞や有名人を相手にコメントやまとめ記事を書いても相手は反応してくれません(トラックバック目的にならありだが…)。アクセスを稼いでいるが、反論には対応してくれそうな身近な相手をWeb上に見つけ、そのサイトに関して賛同/批判をする記事を書いた方がよさそうです。(これも自分には苦手だが、できればがんばりたい)

4. ブログ全体のタイトルを、読者層にあった、かつ人の気を引くものにする。
反省:実は「情報学ブログ」は、SEOとしては大成功していて、Googleで「情報学」を検索するとTop10に入っているのです。しかし、「情報学」を含むキーワードでの訪問者は、過去4ヶ月で76件で、検索経由のアクセス全体の0.4%にしかなっていません。検索順位は高いがアクセスには全く貢献していないのです。そもそも、自分が言う「情報学」は、「人文社会系情報学」や「情報思想」「情報哲学」と言われているもの。一般的な意味での「情報学」ではないので、読者層とタイトルがマッチしていなくなっています。「システム理論」を全面に出した名称に変更するのが一案、もう一つが「情報」をキーワードにした記事に注力するというのが一案です。(途方に暮れているところ)

5.自由にコメントをできようにする。また、記事のタイトルや内容を読者のコメント、投稿をうながすようなものにすることでコミュニティの形成を促す。
反省:最近、Twitterとはてブからのコメントを表示するようにしたところです。ただ、コメントをうながすような記事の作り方についてはまだまだです。(努力してみよう)

6. 「~のための◎個の~」というように項目分けをする
反省:こういう記事はほとんど書いたことがありません。むしろこの記事が初めてですね。(こういう記事ばかりというわけにはいかないが、意識してみる価値はありそう)

7. 無関係なもので良いのでとにかく画像を入れる
反省:実は写真苦手。昔風景写真にはまっていたことがあったが、あまりにも才能がないので諦めました。とは言っても、ブログのスペースを埋める程度の写真ならあるし、Webにはフリーの写真もあります。(面倒だががんばってみる)

もし、ほかに良い案があったら、教えてもらえるとありがたいです。ちなみに、RSSリーダーで読んでいる方は気づかないかもしれませんが、5にも書いたように、Twitter、はてぶのコメントも表示されるようになりました。

参考サイト:
アルファブロガーになるための27の秘密
(結構ためになるし、一部、取り入れさせてもらったものもあります)

注1:
どうでもいいけど、ギリシャ文字の末尾はゼータζ(アルファベットのZに対応)ではありません。

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個人の問題と社会の問題―幼児虐待死の議論を通して

経済・政治・国際 | 2010/08/04

◎個人の問題と社会の問題は別

自分は、「個人の問題と社会の問題は分けて考えるべきだ」ということを、このブログで繰り返し主張してきた。個人の問題であることと社会の問題であることは「何対何」というように分離できるものではなく、両立するものなのだ。そして、「両立する」ということを理解した上で議論することは、無駄な論争を避けるために非常に重要である。

さて、最近、幼児虐待死事件が話題だ。母親がドアにテープを貼って子供を外に出られないようにした上で、ホスト遊びをし、餓死させてしまったという事件である。自分もこれだけの話だったら、そのままやり過ごそうと思ったのだけど、ちきりん氏や罪山罰太郎氏が、「社会の問題」であると指摘し、これが非難を浴びるという流れになって、事情が変わってきた。一応、この分野を専門にしていると自称している人間として、一言書いておこうと思う。

俺自身、ネグレクトした母親は悪いと思うし、彼女は裁かれるべきだと思います。個別のケースで考えれば、どんな犯罪も、犯人が悪いに決まっています。

しかしそういった個人の問題とは別に、社会の中に犯罪を誘発してしまう状況があるなら、それは指摘されなければならないでしょう。

こういった個人(ミクロ)の責任と社会(マクロ)の責任は、分けて考えなければなりません。

児童虐待を減らす為に/俺の邪悪なメモ(罪山罰太郎氏)

正直、自分は上のような主張を見ると、「そうそう、そうなんです。それがシステム論的発想ですね」と条件反射したくなる。実際、上に引用した部分に限って言うと、これは一般論として正しいし、特に批判する部分もない。

たとえば、前にも取り上げた、失業の問題(「失業は個人の問題か、政策の問題か?」)において、派遣労働者が解雇されるのは、「個人の問題であると同時に、社会の問題」であった。個人の立場から見れば個人の問題だから、自分で解決策を感がなければいけない。しかし、それは社会的な対策をしなくても良いということを意味しない。「個人の問題と社会の問題は別」なのである。

これは犯罪についても当てはまる。窃盗、傷害、こういった一般的な問題の背景に貧困を初めとする社会の問題があるのはもちろん、どんなに特異で同情できない事件であっても、理論的には背景に社会の問題がある。人間は社会の中で生きている以上、因果関係と言う意味で、原因の一端が社会にあるというのは、どうやっても否定できない事実である。

◎ 社会の責任とはどういうことなのか

ただ、理論上、社会に原因があるということと、それが社会の責任として取り上げられるべきということは異なる。では、「社会の責任」が問われるのはどのような場面だろうか。もう少し立ち入って考えてみたい。

犯罪に関して「社会の責任」が問題にされる状況として次の2つのケースがある。

1. 社会全体で同様の事例が多数起きており、そこに一般的な原因が見いだされるケース。ネグレクトや窃盗、傷害、殺人など、全ての犯罪の分類について、(分類として成立している時点で)同様の事例が多数あり、それをなくすために、社会の問題として取り組むことが重要になる。

2. 特異な事件だが、そこに社会を象徴する何かが見いだされるケース。たとえば、秋葉原の無差別殺人事件では、それが社会の構造のゆがみの結果として生まれたという立場から、さまざまな評論家が議論してきた。

1と2はいずれも「社会の責任」と言えるものだが、その性質は大きく異なる。1は客観的な研究の対象となり、政策的に対処することができる可能性が高い問題である。一方、2は人によって見方が分かれる場合が多く、思想的な問題としてしか扱われないことが多い。

ただ、いずれの場合も、社会の責任は、「見いだされるもの」であって、初めから固定しているものではないということが重要なのだ。特定の事件があったとき、それが行政の育児支援の問題として一般化できるのか、経済的支援の問題として一般化できるのか、それは問題の性質次第であり、「見いだす」人の立場や能力次第である。

◎今回の児童虐待は、どのように一般化されるのか

今回の問題の場合、2ではなく、1が問題になっていることは明らかだ。ただ、どのような意味で一般化できて、どのような意味で一般化できないのかは十分き検討しなければいけない。これに関する切込隊長(山本一郎氏)の反応は、全てが正しいとは思わないものの、以下の指摘はもっともだと思う。

一人親が虐待する理由が経済的困難だ、だから一人親の虐待を減らすために経済的困難を国家や社会は解消するべき、という議論をするのであれば、同様の状況で発生している犯罪との「発生率や重篤度の見比べ」が必要になってきます。

罪山罰太郎氏の「児童虐待を減らす為に」議論を、保守主義的観点から否定する/切込隊長BLOG(山本一郎氏)

今回の幼児虐待死事件は、ドアにテープを貼って子供を外に出られなくする、風俗やホスト通いといった特異な状況があり、単に経済的な困難だけでこうした問題が起きるとは考えられない…と、多くの人は思っている。こういう状況で何の前提もなしに、女性の収入の低さや、生活保護の話などに持って行かれると、何を言われているのか分からないだろう。ちきりん氏や罪山罰太郎氏に対して「ネタ」だという反応が起きるのもある意味当然である。

たしかに、ちきりん氏のTwitterのつぶやきにあるように、「生活のために、毎日何人もの男性に性的なサービスを続けろと言われたら、私ならホストに狂うか、精神が狂うかのいずれかでしょう。強い人はいいですね」(link)という立場からすれば、経済的問題の範疇で理解することもできる。ただ、記事を見ただけで、そこまで想像力を働かせられる人は多くないだろう。ちきりん氏の言うことが全面的に間違っていると言うつもりはないが、話の持って行き方としてはまずいのではないかと思うのだ。

むしろ、今回の事件に関しては、被疑者の家庭環境、行政によるケア、地域の結びつきなどを問題にする意見がある。こういった議論としては、切込隊長の指摘のほか、Koshianさんによる「それでも子育ては社会で取り組むべき」があるが、これは全面的に納得できるものだ。

こうした「納得のできる説明」と比べると、ちきりん氏のような「経済的問題」としての理解は、あまりにも結論までの道のりが長い。もちろん、ネグレクト一般の背景に経済的問題があるというのは事実かもしれないが、それを主張するためには別の事例の出した方が、はるかに戦略的に優れており、わざわざ今回のような特殊な事例を取り出してまで経済的支援の重要性を訴えることに何ら意味はないのである。

◎おわりに

つまり、今回の児童虐待死の事件に関しても、「個人の問題と社会の問題は分けて考えるべきだ」というのは成り立っているし、冒頭に引用した罪山罰太郎氏の指摘はいささかも間違いではない。

ただし、ちきりん氏や罪山罰太郎氏の言うように、これが「経済的問題」が原因かは微妙だ。少なくともそれを言うためには、もう少し複雑なロジックが必要だし、仮に言えたとしても、それは「脇役」に過ぎない問題なのである。彼らの主張を見ているとと、「これは社会の責任ではなく個人の責任である」、しまいには「見せしめのために死刑にすれば良い」と言うような立場の人たちが勢いづくのではないかと、無用な心配をしてしまう自分がいる。

◎ 変更履歴
2010/08/06 10:19 コメント欄の指摘を踏まえて全面改訂しました。主張内容を含めて全面的に差し替えてしまったため、旧版をテキストファイルとして置いておきます。

2010/08/04 00:36 初版

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経済的問題としての、また、文化的問題としての移民問題

経済・政治・国際 | 2010/08/03

以前、移民の問題を文化的な観点から批判した記事(「外国人参政権・移民政策と「国のかたち」」)を書いた。その後、移民に関して経済の問題と絡めた議論が盛り上がっているようなので、そのあたりの整理を試みたいと思う。

まず、確認しておかないといけないのは、移民には経済的な問題と、文化的な問題があるということだ。経済的な問題としては賛成だけれど、文化的な問題としては反対というような立場もありえる。もちろん、その場合、最終的には両者を天秤にかけないといけないわけだけれど、議論の途中過程としてはありえるわけだ。

◎ 経済的な問題

そこでまず、経済の観点から考えたいと思う。

移民推進派の大部分は、雇用側の立場に立つ人で、単純労働者を入れたいだけというのが現状だと思う。これは、普通に考えて労働者、特に低賃金の労働者の利益に反する。これに関しては、Sophieさんの指摘がまとまっているので、そのまま引用しておく。

だいたい、どこの国でも高学歴のエリートは賃金を圧縮できる移民を歓迎し、大衆は低賃金の移民との競争による賃金の低下を恐れます。移民賛成を言っている 人のポジショントークは最も警戒すべき事柄です。そういった時には話者のポジションを見て反射的に「うさんくせー」と思うぐらいでちょうどいいと思います。

日本への移民は2010年時点では時期尚早/フランスの日々

基本的にはこの通りなのだが、それでも、移民推進派は、「経済合理性」の観点から、移民を導入した方が良いというだろう。これは、誤解されている議論だと思うので、ちょっと説明しておく。

一般的に移民を推進する人が経済合理性と言ったとき、通常は「GDPの最大化」を意味して使われるが、これはいったい誰にとっての利益になるのか曖昧なままだ。つまり、

1. GDPの最大化
2. 雇用者の利益の最大化
3. 最低所得の最大化

本来、これは全部違うものであるはずで、どの立場の合理性なのか明確にしないといけない。そして、移民の推進は、普通に考えたら1と2にはプラスで3にマイナスだ。移民を推進する人は、本当は3なんかどうでもいいから2が大事だって言いたいのだけれど、それだとあからさまなので、それを隠して1を主張している。

しかし、これだけだと「そりゃおかしい」と思われるのが明らかなので、移民推進派はもう少し複雑な理屈を使うのである。それは「GDPが最大化されれば最低所得も底上げされる」だから「移民を推進した方が良い」というものだ。これは詐欺以外の何ものでもない。たしかに、「GDPが最大化すれば最低所得も(現在より)底上げされる」ということは、特定の条件では成り立つかもしれない。しかし、「GDPが最大化すれば最低所得も最大化される」は絶対にウソだ。誰もそれを示すモデルを立てたことも、シミュレーションをしたこともない。そんな経済理論はどこにもないのだ。結局のところ、どんな詭弁を使っても「1、2」と「3」で最大化する条件が異なるという事実を変えることはできない。。

いずれにせよ、Sophieさんさんの言う通り、「移民の議論はポジショントークにしかならない」。多くの国民にとって移民推進は経済的利益にならないということである。

◎ 高機能移民の問題

さて、これと関連して最近話題なのが、「高機能移民なら良いのではないか」という話。つまり、単純労働者は認めないが、ビジネスや学問などで高い才能を持った人の移民(=高機能移民)なら良いという話だ。これはもともと、「不景気だからこその移民政策のススメ」を出発点とし、elm200さんの「移民もまた人間である」やKoshianさんの「日本人が本当に大嫌いなのは「異質な人々」」などで取り上げられて話題になった意見である。

これについては、Sophieさんも批判しているように、今の日本はすでにこうした人々に永住ビザを与えているのだ。こちらの資料(link1link2)を見てもらうと分かるように、大学所属の研究者の場合、講師以上の職に3年、ビジネスマン場合、上場企業の管理職に5年といった基準が示されている。むしろ甘すぎると思うくらいだ。日本は制度的には「すでに高機能移民を受け入れている」と言うことができるのである。ちなみに、フランスの移民は国籍を与えられるが、アメリカは永住権だけであり日本と同じである。最近、新聞を賑わしているように、永住ビザ取得者は、公的医療保険はもちろん、生活保護を含めた福祉のフルサービスが受けられるので、その点からも彼らを「移民」ではないとする理由はない。

◎文化的側面

ただ、こうしたことをもって、elm200さんKoshianさんの主張を意味がないものと考えるのは話を矮小化しすぎではないかと思う。高機能移民は、制度的には認められているものの、実際問題として、この制度を利用している人は多くない。つまり、高機能移民が、日本に来やすい国作りという意味で、現状は全く不十分なのである。Sophieさんも私も含め、この議論に参加している人が共通して考えているのが、以下の点ではないだろうか。

1. 今の日本は閉鎖的で移民を受け入れる文化的素地がない
2. 経済的観点で移民を受け入れた方が良いかどうかを別にしても、この閉鎖的な状況をどうにかしないとまずいのではないか

要するに、高機能移民云々の話は、「経済的観点で移民を受け入れた方が良いかどうかを別にしても」ということを分かりやすく説明するための道具であり、本質的な問題ではなかったのではないかというのが、私の見立てである。

これに関して、私が前の記事で書いたことを、こちらの文脈に合った形でまとめなおすと、以下のようになるだろう。

日本は、自由や人権といった制度的・理念的な枠組みで国民や国家の枠組みができている国ではなく、「みんな日本人だよね」単一民族感覚によって国民や国家の枠組みができている国である。だから、今の状態で移民を入れると、対立状態しか生まない。

しかし、「国の境界線」に関する問題が増えてきた今日、目先の移民を入れるかどうかにかかわらず、この現状は変えていかないといけないのではないか。

この結論は、Sophieさんの結論とほぼ同じだが、これに関しては、elm200さんKoshianさんも同意してくれるのではないだろうか。

最後に補足するが、この議論は、第三者を説得するようにできていない。なぜなら、上に書いた文章に、「この閉鎖的な状況をどうにかしないとまずい」理由は書かれていないからだ。この点に反発する人にとって、上の議論は納得いかないものになるだろう。私は昨今の排外主義やアンチ人権思想、画一的で権力的なマスコミのあり方を心配してそう思ってるが、他の点から同じ結論に至っている人も少なくないはずだ。これに関する私自身の立場は別の機会に説明することにしたい。

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スキャンダル報道を消費する罪、そしてそれを自覚すること

経済・政治・国際 | 2010/08/02

私が今回、敢えて自分のプライベートなことまで書いたのは、週刊誌の取材に大変迷惑しているからです。公人である私自身への取材であれば全く構いません。しかし、記者たちは、交際中の彼女の実家のみならず、彼女の親戚の自宅や会社にまで押し掛けています。

取材は元妻にも及んでいます。元妻が「私達は離婚もしていますし、一般人なので取材はご勘弁下さい」と話をしても、執拗に夜遅い時間まで何度となく記者たちが家を訪れ、ドアのベルを押し続けたり、大声で騒いだりするため、小学生の娘は泣いて怯え、外に出たくないと引きこもり気味になってしまっています(あまりにもしつこいため何度か警察にも助けを求めているようです)。さらには、玄関先で騒いだ後、元妻の家の近所を回って、内情を話しながら聞き込み(?)をしているとのこと。もともとご近所の方々が家庭内の事情など知る由もありません。取材を受けてもらえない腹いせから意図的に悪い風評を広げているとしか思えません。

私のプライベートについて書かせて頂きます/松田公太オフィシャルブログ

以前、政治家のスキャンダルを専門とするライターと話したことがあった。彼は、「スキャンダルにこそ政治の本質がある」と信じていて、それを公言していた。自分が彼に言ったのが、「そういうマスコミの姿勢が、国民の目を政治の本質から背けてさせているのではないか。能力のある人を退場させ、能力のない人を生き残らせることになっているのではないか」ということ。それに対して、彼は自分の主張を繰り返すばかりで、話がいっこうに噛み合わなかった。残念ながら、その人は切れてしまい、話はそれで終わりになったのだけれど、もう少し、うまく話を持っていって彼の職業意識について聞き出せれば良かったと思う。

さて、参院選で東京選挙区から当選した、みんなの党の松田公太氏のプライベートを雑誌記者が嗅ぎ回っており、それで元妻や交際相手が迷惑をしている…という話を松田公太氏がブログに書いて話題になっている。読んでもらえれば分かると思うが、これは正直怒りを覚える。

一般的なことを言うと、報道の自由と取材対象のプライバシー権の折り合いをどう付けていくかというのは、かなり難しい問題ではある。社会的に重要な問題を明らかにするために、家族や職場を取材をしなければいけない場合もあるし、それを制限すると、むしろ国民が権力の横暴を監視できない場合もあるだろう。だから、権力が報道の自由を制限するのは最小限にしなければいけない。社会はさまざまなコストを負担してまで、報道の自由を守らなければいけないのだ。これは、民主主義の社会における原理原則の一つである。

たしかに、松田氏のプライベートの報道には、多くの人にとってメリットがないだろう。政治家のプライベートを知ってほくそ笑む、根性の汚い人間を喜ばせることにはなるだろうが、それだけのことである。社会の不正を正したり、改善したりする意味は全くない。しかし、こういった報道であっても、報道の自由を尊重することは、ある意味仕方がない。こういった事例だけを取り締まることができれば良いが、その線引きが非常に難しいからである。

では、どうすれば良いか。自分は「読者の意識が変わればマスコミが変わる」というような意見は、問題を本質から逸らしているような気がして、手放しに賛成できないと思うことも多いのだが、ことに「報道の自由」に関する限り、これしか方法がないのかもしれない。マスコミが政治家のプライベートを追いかけることを止めるには、読者が政治家のプライベートに関心を持たなければ良いのである。具体的には、そういったニュースが掲載された雑誌を買わない、ネットで記事を見つけてもクリックしないということだ。前回の衆院選後は、何人かの民主党の議員の不倫疑惑がニュースとしてもてはやされたし、自民党政権時代には、山拓を始め多くセックススキャンダルが週刊誌を賑わした。ムラ意識が強い日本では、そのことに疑問すら抱かない人が多いようだが、そうした観点で政治家を見るということ自体、政治を荒廃させる原因。国民がそういう意識を共有することが重要なのである。

ただ、これはそんなに単純な問題でもない。西欧の先進国では、「政治家のプライベートに関心を持つことは恥ずかしい」という意識がそれなりにあり、セックススキャンダルをつけ回したりしないのがメディアのモラルになっている。ただ、そういう国でも、全てのメディアがその規範にしたがって行動しているわけではないので、独立系のライターによるいわゆる「パパラッチ」行為は盛んだ。政治に関心が高い層が、どんなに「政治家のプライベートに関心を持たない」としても、それを全国民に浸透させるのは不可能なのだ。

報道の自由とプライバシーの問題は、民主主義の社会が共通して直面する難問の一つであり、あっと驚くような解決策はない。ただ、こうして松田公太氏の問題が注目されていることは、今後の健全なネット社会の発展に重要な意味を持っている気がする。

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