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ニュースな待合室アーカイブ→2010年7月の記事をまとめて読む

GoogleとYahoo! Japanの提携は民主主義の危機だ

ニュースパソコン・インターネット経済・政治・国際 | 2010/07/31

発表によると、ヤフー・ジャパンは、年内にも検索サービスの基本技術である検索エンジンをこれまでの米国ヤフー製からグーグル製に切り替え、同時に、検索サービスと連動したネット広告(検索連動広告)のシステムについてもグーグル製を採用するようである。
(中略)
しかし、今回の提携により、日本の検索サービスの90%がグーグルの技術に支配されることになる。検索は、ネット上の情報流通を牛耳るプラットフォーム・レイヤーの中核となるサービスであることを考えると、欧米と同様に、日本のネットのプラットフォーム・レイヤーも事実上グーグルに支配されることになるのである。

ヤフー・グーグル提携を独禁法上“問題なし”とする日本の危うい感覚と二つの重要な論点

Yahoo! JapanがGoogleと提携し、Yahoo! Japanの検索結果にもGoogleのエンジンが使われるようになるらしい。私は検索にはほとんどGoogleを使う、典型的な「Google派」だ。それに、このブログはGoogleの検索に対して最適化されているので、ブログへのアクセス数の増加も期待できる。単純に考えれば祝杯を上げても良さそうなこのニュースに、私はとても憂鬱なのだ。

◎市場の寡占

Yahoo! JapanとGoogleの提携は、伝統的な独占禁止法政策の立場から言っても、ひどい寡占をもたらすものだ。そもそもGoogleはネット広告市場で「一人勝ち」の状態で、他の寄せ付けない強さがある。そこに2番手であるYahoo!が提携したら、他は太刀打ちできなくなるだろう。Googleは広告料をオークションで決めているとして擁護する意見があるが、そんなのは詭弁にほかならない。広告料の決定プロセスはGoogleが握っているし、手数料率の決定権もGoogleが握っている。公的機関でもなく、まして外国企業であるGoogleは、東京証券取引所ではなく、(バイク中古販売大手の)ガリバーや、(中古書店大手の)ブックオフ程度の公共性しか持っていないのである。

このことを軽視するわけではない。ただ、それはせいぜい、トヨタと日産とホンダが合併することの問題と同じか、それより少ないものになるだろう。寡占によってGoogleが得るネット広告の手数料が高くなり、日本企業の利益がGoogleに吸い取られていったとしても、それを補う分だけ、日本人があくせく働けば良いだけの話だ。Yahoo! Japanという敵を失ったことで、Googleが日本市場向けのサービスの提供を軽視するようになるかもしれないが、それだけで日本が世界から取り残されるわけではない。いろいろ問題はあるかもしれないが、それだけで日本が潰れるような問題ではないのだ。

◎メディアの寡占

しかし、Yahoo! JapanとGoogleの提携を、こういった「市場の寡占」という観点からだけ考えるのは絶対に間違っている。なぜなら、現代の社会において、検索エンジンは言論の自由や報道の自由を保障する重要なメディアであり、インフラだからだ。Yahoo! JapanとGoogleの提携がもたらすのは「市場の寡占」だけではなく「メディアの寡占」でもあり、これは単に経済の問題にとどまらない非常に大きな問題である。

中華人民共和国でGoogleによる検索結果の検閲が問題になったことはご存じの方が多いとは思うが、日本でもヨーロッパでも同様の問題が持ち上がっている。Googleが政治的な圧力を受けて、特定のサイトを検索結果から外しているという疑いは常に拭えないのだ。それでも、今までであれば、Yahoo!やbingという対抗馬との競争があり、そのことは、Googleが政治的圧力に屈さないようにするための重要なモチベーションとなっていた。しかし、Yahoo! JapanとGoogleが提携すれば、こうしたモチベーションも失われてしまう。

たしかに、Googleは「自由」をポリシーとする企業で、差しあたり、大きな心配はないと言うかもしれない。しかし、Googleだって所詮人によって運営されている企業である以上、完璧はない。将来も今のままであり続ける保障はないし、出来心を持った不届きな社員が現れないという保障はどこにもない。いずれにせよ、日本の民主主義が、外国企業の社風とか社員の良心に支えられているという状態が好ましくないのは言うまでもないことだろう。

考えてみればいい。日本には一応、5つの系列の放送局/大手新聞社があり、彼らの間で競争が働くことで、公平な報道がなされる―ことが期待されている。実際にはそうなっていない面もあるが、マスコミは全て1社に握られている状態より、多少なりともマシな状態になっているのは間違いないだろう。Yahoo! JapanとGoogleの提携は、まさに「マスコミが1社によって独占されている」という独裁国家のような状態を作るものにほかならない。Googleがどんなに高いモラルを持ち合わせている企業だとしても、これは何としてでも避けなければいけない事態である。

◎それでも、おそらく提携は実現する

と書いてみたはものの、なんとも絶望的なことに、GoogleとYahoo! Japanの提携を差し止める方法は、ほとんどないと思う。

放送局に関しては、総務省が許認可権を握っているため、極端な寡占が起きそうになったら、官僚が阻止するだろう。一方、新聞社は、新聞紙という具体的な「モノ」を売る製造業としての側面もある企業だから、メディアの寡占=市場の寡占であり、公正取引委員会が介入しやすい。たしかに、近年、日本では、国際競争力の強化を理由に、寡占に対して甘くなる傾向が見られるが、官僚もそこまでバカではないので、既存メディアの寡占に関してはそれなりに対処することになるだろう。

しかし、GoogleとYahoo! Japanの提携に関して、政府は許認可権を持っていない。一方、検索エンジンは「無料」で提供されているものであり、公正取引委員会がこうした寡占に対処する可能性は極めて低いだろう。公正取引委員会の審査はあくまで市場の寡占がメインであり、今回のケースのようなメディアの寡占は問題になりにくいのだ。

つまり、こういうことだ。日本には「メディアの寡占」に関して包括的に対処する部署が、政府組織のどこにもないのである。そして、本来、こういう状況に対処するのは、政治の役割のはずだが、今の混乱した政治状況の中でそれが可能になるとは思う人はいないだろう。かくして、国民は、GoogleとYahoo! Japanの提携という国家の危機とも言える事態を、指を加えて見守っていくしかないのである。

何とも絶望的なストーリーだが、せめてもの救いはマイクロソフトがこの提携に反対の姿勢を見せていることだ(参考)。マイクロソフトのロビー活動によってアメリカが日本に政治的な圧力を掛けてくれれば、もしかしたらこうした流れが変わるかもしれない。日本としては何とも情けない話だが、これが現実なのだ。

ネットの自由はあくまで人間のリアルな営みの結果として存在している。そして、それは時には血生臭い、時には涙ぐましい努力の結果得られるものだということを忘れてはいけない。

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マスゴミと言われる本当の理由―コミュニケーションデザインとしてのジャーナリズム問題

経済・政治・国際 | 2010/07/30

昨今、大手マスコミに対していろいろな批判が寄せられます。偏向、不祥事、バラエティ化、いろいろありますが、自分としては、単純な話「つまらない」というのが自分の正直な感想です。たまに新聞を見ると昨日のニュースの上澄みのような表面的な情報だけが書いてある。しかも、全新聞社が金太郎飴のように同じ趣旨の記事を書くので、とにかくつまらないのです。特集記事や解説記事にはまれにおもしろいものもありますが、それだって、雑誌やブログと比べると掘り下げが足りないと感じます。

「玉石混淆となりがちなネット言論ではなく、公器としてのマスコミには一定の役割がある」という主張に一定の真実があるのは分かります。ただ、そうとは言っても、マスコミの報道には、政府発表をまとめる程度の機能しかない一方、ネット言論を取捨選択する仕組みも、かなり整ってきています。こうした中、論評や批評といった機能はネットに移っていると言って良いような、そういう状況を感じるのです。

◎表面的な問題として

こうした中、この1~2年の間に、フリージャーナリストが、マスコミの問題点についてさまざまな発言をするようになり、こうした発言がネットで注目されることで、マスコミの何が問題なのかが伝わってくるようになりました。要点をまとめると以下のようになるでしょう。

1. 欧米では通信社は単なる事実の伝達(政府発表の伝達を含む)、新聞社は独自取材と論評というように棲み分けができている。しかし、日本では、通信社も新聞社も通信社としての役割しか果たしていない。(参考:国際会議でもぶら下がり取材に邁進、「ガラパゴス化」した日本の新聞社
2. 日本は世界にも稀な記者クラブ制度を有している。大手マスコミは記者クラブ制度を守ることによって、彼らは競争相手となる雑誌やフリージャーナリストを排除している。一方、そのことで記者会見では緊張関係のある質問が見られなくなり、国の方針にしたがった報道をせざるをえなくなっている。(参考:なぜ記者会見がオープンでなければならないのか
3. 権力に抱き込まれている。官房機密費が大手マスコミに流れており、しかも、国の存亡にもかかわるこの事実を、大手マスコミは全くと言って良いほど報道しない。(参考:マスコミは“白旗”をあげるべし! 官房機密費問題の副作用

背景には新聞社の労働慣行や国民性など、さまざまな問題があるでしょう。しかし、これらのことが導いている現実は、恐ろしいほど一致しています。

報道対象の発表をそのまま垂れ流すだけで、独自の取材・論評・批評をしない。また、それをする能力がない

要するに、日本のマスコミは政府の発表を配信する通信社の仕事を、各社が重複をしながら横並びでやっているだけで、何もしていない。それ以上の仕事をする気力も能力もないわけです。このことは、私たちが「偏向報道」と感じる大手マスコミの報道姿勢、雑誌やブログと比べて「つまらない」記事しか書けないという現実を良く説明してくれるでしょう。マスコミが「マスゴミ」である理由を説明するのに必ずしも陰謀論を採用する必要はなく、かなりの部分、こうした事実によって理解できるのです。

◎ジャーナリストのコミュニケーションの問題として

ただ、なぜ、こういった現状になってしまったのかというと、それは別の問題です。そして、それは、一般的にはほとんど議論されていません。これでは、ジャーナリズムの問題を把握したことにはなっても、解決策はいつまでたっても見つからないでしょう。少なくとも当分の間、国民に対して圧倒的に強い影響力を及ぼすのは大手マスコミであり続けるという予想を踏まえると、このことは、すなわち、現代の政治がいつまでたっても現状から抜け出すことができないということを意味しています。

一般に、特定の人々(たとえば、ジャーナリスト)の行動が問題になっているとき、その人たちを憎悪したり、非難したりすることは全く意味がありません。彼らは彼らのコミュニケーションのマナーにしたがって行動しているだけであり、外部から非難されたところでその行動様式を変えることは容易ではないからです。彼らは全体の利益を考えて行動しているわけではなく、あたかもロボットのようにジャーナリズムというコミュニケーションのシステムに組み込まれているのに過ぎないのです。

では、どうすれば良いのか。一番重要なのは、現状のコミュニケーションのマナー、モラルの何が問題かを把握し、どのように変えれば良いかを考えることです。コミュニケーションのマナーを構築するためには、政府による規制、言論を通した自律的な変革、様々な方法がありますが、いずれにせよ、それに先立つものとして「適切な把握」がなければいけないのです。そこで、上に挙げたジャーナリズムの問題を、こうしたコミュニケーションの問題として言い換えると、以下のようになるのではないでしょうか。

1. 横並び思考。メディアが一斉にある立場に立った報道をしているときに、それと同じ報道をすることに安心し、それに満足する。
2. 論評・独自取材の軽視:政府発表や企業人事のように、いつかは確実に公表されるであろう情報を、他のメディアよりも早く報道することに価値があるだと考える。
3. 個人の責任の軽視:問題のある報道があったとき、記者個人ではなく企業全体が批判されるため、ジャーナリスト個人としての責任意識が育たない。

ここから、ある一つのジャーナリスト像が見えてきます。

個人としての責任よりも、「ムラの秩序を壊さない」ことを重視し、他社と違う報道をしたり、独自の論評・取材をすることを嫌がるジャーナリスト。

これが日本のジャーナリズムの問題の原因だとすると、なかなか根深い問題だということが分かるでしょう。

◎読者のコミュニケーションの問題として

こうした現状を変えるためには、最終的にはジャーナリストの間で、こうした問題が共有され、彼らが自律的に変化していくのを待つしかありません。しかし、ジャーナリズムは、他のさまざまなコミュニケーションと関わり合いながら存在していることを用いて、ジャーナリズムの外部から、ジャーナリズムの変革を迫るというのも解決策の一つではあります。

この対策には、いくつかのものが挙げられます。

1. 法律の変化
2. 権力や圧力団体側の変化
3. 読者による評価方法の変化

ただし、このうち2は非現実的だし、1の効果は限定的なので、実質的には3を考えるしかありません。これは簡単なことではありませんが、たとえば以下のようなものが挙げられるでしょう。

a. ジャーナリストの独自の視点・論評を正当に評価するようにする
b. 読者はニュースソースに直接当たり、新聞報道に頼らないようにする。(参考:マスコミを変えるためにギークにできること
c. 問題のある報道に対しては新聞社全体を批判するのを止め、ジャーナリスト個人を批判して退場を迫るようにする(もちろん、そうしたジャーナリストを解雇しない新聞社は批判されて当然)。一方、個人名を前面に出しているフリージャーナリストに関しては、たとえ過去に問題があっても、きちんと謝罪をしていれば匿名報道の新聞記者より高く評価する。

こうした意識が読者の間で広まり、それがジャーナリストも無視できないようになったとき、否応なしに「ジャーナリストの間で問題が共有されることによる自律的変化」が起きてくるのではないかと思います。そういう意味で、ジャーナリズムの停滞の原因は、私たち一人一人の意識の問題でもあるのです。私たち自身がこうして自分たちの力を理解し、自分自身の価値観や判断を見つめ直すとき、それが本当にマスコミを動かす力となるのではないかと思います。

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あえて歳費日割り法案に反対してみる

ニュース経済・政治・国際 | 2010/07/30

「議論の余地がなく、反対する理由が見つからない」。みんなの党の江田憲司幹事長が指摘する通り、この問題を放置すればモラルハザード(倫理観の欠如)が極まる。この状況下での消費増税論議など、国民感情をさかなでするに等しい。

歳費日割り法案/先送りはもう許されない

2日しか働かないのに1月分支給という制度が国民感覚に合わないということを否定するつもりはない。しかし、自分はあまのじゃくなせいか、この問題をちょっと引いた目で見ている。

まず、当選してから給与を変更するというのは信義則上どうか。たしかに、国会議員の報酬は国と労働契約によって得られるものではなく、当選後の報酬の変更は違法ではない。しかし議員に立候補するということは、当人にとっての「費用対効果」を見越してのことだったという意味で労働契約に準じるものがあり、それが途中で変更されるというのは議員からすると裏切り行為だ。今回の場合は金額がそれほど大きくないこともあって、問題にならなかったが、本来であれば好ましいことではない。任期中の報酬の変更は絶対に行ってはいけないというわけではないにしろ、簡単に第三者が要求できるようなことでもないのだ。

それに、そもそも、この問題、そんなに重要なことなのだろうか?だって、1月分の給与を余分に払ったって所詮6億円である。今の日本は多くの経済的・財政的な問題を抱えており、その規模は6億円とは比べものにならない。6億円について国会議員が審議し、公共の電波が使われることによる費用は、6億円どころではないはずだ。6億円の審議のために、他の重要な政策が後回しになったり、国民の政治的関心からより重要な問題から外れるとしたら、トータルで見たら大損なのである。

このように全く理屈にかなっていない「歳費日割り法案」だが、みんなの党やマスコミが一体となって推進してきた。これを衆愚政治と言わずに何と言えば良いのだろうか。

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マスコミを変えるためにギークにできること

パソコン・インターネット経済・政治・国際 | 2010/07/30

最近のマスコミに関する論調を見ていると、「日本の新聞社は、本来の通信社がやるべき『政府発表の伝達』等に終始して、本来行うべき批評・論評を行っていない」という指摘をよく見かけます(linkなど)。もし、そうだとしたら、こういった記事を書くのを控えさせるようにするのは技術的に可能ではないかという気がします。

なぜなら、著作権法には以下のような条文があるからです。

著作権法第10条2項
事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号(引用注:小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物)に掲げる著作物に該当しない。

新聞社は、この条文が「死亡記事と交通事故の伝達などにしか当てはまらない」(読売毎日など)と主張しているようですが、「事実の伝達にすぎない時事の報道」という日本語が、死亡記事と交通事故以外に当てはまるというのはさすがに無理な解釈でしょう。実のところを言うと、この条文に関して、判例がなく、何が正しいか正確には分からないのです。だから、新聞社としては判例ができる前に、精一杯自分たちに有利な解釈を提示しているというのが現実です。

それを踏まえて言うと、この条文の解釈として「政府機関が記者会見で言ったことをそのまま伝達した記事」には少なくとも著作権がないというのは全くもって自然でしょう。そうだとしたら、「政府機関が記者会見で言ったことをそのまま伝達したような記事」に関しては、アーカイブサイトを作っても新聞社は何も言えないということになります。「政府機関が記者関係で言ったことをそのまま伝達したような記事」かどうかの判断は、人間がやるしかないという問題はありますが、それを別にすれば、無料で過去の新聞記事を読めるアーカイブサイトは作るのがそれほど難しくないし、それなりの需要があるでしょう。最近では、政府機関からプレスリリースの形で、新聞記事と同様の内容が発表されていることも多いので、プレスリリースと新聞報道を対応させて公開するようなアーカイブサイトなら、著作権上の問題も回避しやすいと思われます。

おそらくこういうサイトができると、新聞社はまず、それを潰そうとすると思いますが、無理だと分かれば、政府発表の垂れ流しになっている記事そのものをあらためてようとするかもしれません。ちょっと虫の良すぎる期待かもしれませんが、少なくともマスコミのあり方に一石を投じることにはなるのではないかと思います。あくまで仮説というか、思考実験のようなものですが…。

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千葉法相は「信念を曲げた」のか?

ニュース経済・政治・国際 | 2010/07/29

死刑廃止論者だった千葉景子法相は同日の記者会見で、死刑執行に自ら立ち会ったことを明らかにした上で、東京拘置所の刑場を今後公開し、法務省に存廃を含めた死刑制度を考える勉強会を立ち上げる意向を示した。同省によると、法相が死刑執行に立ち会うのは初めて。

民主党政権で初の死刑執行=法相自ら立ち会う-1年ぶり、篠沢死刑囚ら2人・法務省

上の新聞記事は「死刑廃止論者だった千葉景子法相は」という表現を通して、明らかに千葉法相が自分の主張を変えたかのような印象を与えようとしている。しかし、この件に関して千葉氏が信念を曲げたとか言う人は、この問題を全く理解していないのだろう。そもそも、死刑賛成派が中心に主張されているのが、

1. 死刑制度に対して賛成か
2. 法相は自分の信条にかかわらず死刑執行に署名するべきか

これは全く別の問題だということだ。1に対してYESで2に対してNOという人もいて良いし、1に対しNOで2に対してYESという人がいても良い。たとえ死刑制度に反対でも、自分の信条にかかわらず死刑執行に署名するべきだというのは、死刑賛成派の中で主流とも言える意見である。

そもそも、死刑賛成派が前提にしているのは、1に対する答えは「思想・信条の問題」だということだろう。なぜなら、死刑制度に賛成するというのは、普遍的な人権よりも、文化や時代によって異なる社会制度を優先するということ。つまり、死刑賛成派は、死刑廃止派の立場が立場として存在することを認めなければ、自らの立場も危うくなってしまう。一方、2に関しては法律の解釈の問題であって、単なる思想信条の問題ではない。ただ、これもなかなか複雑な問題であり、いずれが正しいとも単純には決めがたい問題である。

こうした中、千葉法相は、1に対して反対で2に対して賛成という判断を取ったわけであり、ここに何ら「信念を曲げた」と言える要素はないのだ。

もちろん、「自分の信条と照らし合わせて死刑執行の署名をするべき」と主張する人々は、死刑そのものに賛成・反対にかかわらず、千葉氏を批判する資格がある(例:id:hokusyu)。しかし、その場合でさえも、「信念を曲げた」と批判するのは見当違いだろう。また、千葉氏が過去に「自分の信条と照らし合わせて死刑執行の署名をするべき」と言っていたのに、それが変わったという主張をする人であれば、その点に関して法相を批判するのはもっともである(例:-O-R-E-氏)。しかし、これも千葉氏の信念に属する問題かどうかは微妙であり、「信念を曲げた」という表現は違和感がある。千葉氏に対する批判の全てが見当違いというわけではないが、ナイーブに「信念を曲げた」という人はかなりの割合で死刑制度についての議論を勘違いしているのである。

さて、

千葉法相は「(執行を)きちっと見届けることも私の責任だと考え、本日の執行に立ち会ってまいりました。法相が死刑に立ち会ったのは初めてではないか」と述べた。

これは、本人の言う通り歴史的な快挙で、素直に評価して良い点だと思う。これほど本質的な問題を政治的パフォーマンスと言うのなら、政治的パフォーマンスではないのは何なのだろうか。

社会が死刑を選ぶかどうかは微妙なバランスの問題、二つの価値を天秤にかけてどちらを取るという問題である。いずれの立場を取っても、何かが失われる。だとしたら、死刑に賛成するにしても反対するにしても、その天秤の両方に乗っているおもりを、目をそらさずに凝視する勇気が必要ではないかと思う。

死刑を執行された篠沢一男氏、尾形英紀氏に合掌。

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民主主義のリトマス試験紙

ニュース経済・政治・国際 | 2010/07/27

革マル派活動家に譲渡する目的で預金通帳をだまし取ったとして、奈良県警警備部は26日、詐欺容疑で、奈良女子大4年の革マル派活動家、藤井藍子容疑者(32)=奈良市内侍原町=を逮捕した。藤井容疑者は黙秘しているという。

逮捕容疑は、平成20年9月24日、奈良市内の銀行で、別の革マル派活動家に渡して使用させる目的で、自分名義の普通預金口座を開設し、預金通帳1通をだまし取ったとしている。

奈良女子大の革マル活動家、詐欺容疑

もし、国民か非国民かを判断するためのテストを作るとしたら、「このニュースを見て、おかしいと思ったところを一つ指摘してください」というのは非常に良い問題だろう。「32歳の女子大生なんて不思議」と答える人は「反民主主義的」「反体制的」な人間だ。公安警察は、そうした人間を監視の対象に入れることを検討するべきだと思う。

だって、このニュースはどう考えてもおかしい。

自分名義で預金口座を開設したことが、「同大学の別の活動家に譲る目的」ってなんで分かる?日本の公安警察は非常に優秀でテレパシーが使えるのだろうか?もし、そうじゃないとしたら不当逮捕の可能性が高いということが容易に予想される。

ちょっと解説するとこういうことだ。

預金通帳を作って他人の譲渡することは、銀行との契約約款に違反するが、法律的には罰することができない。あくまで民事的な問題であり、警察が介入することはできないのだ。だから、法律をまともに解釈すれば、この女子大生は罰せられない。せいぜい、銀行から損害賠償を求められる可能性があるだけだ。

そこで、警察が考えた「奥の手」がこれだ。預金通帳を作って譲渡をするのなら、最初に契約をした段階で銀行を騙していることになる。そこで、「詐欺」とするのだ。驚くべきことに、この論理は判例でも認められている。冒頭に掲げた記事の警察の対応は、こうした判例に基づいたものであり、警察の独断と偏見によるものではないというのがポイントだ。

しかし、本当にこの論理が成り立つのだろうか。だって、預金通帳を作った時点で、「どういう目的で通帳を作ったか」なんて立証できない。自分のために通帳を作ったけれど、後で気が変わって譲渡したかもしれないのだ。こうした主張に対し、そうじゃないなんていう立証はできっこないのだ。こうやって「立証できない」「単なる予想」に過ぎないことを理由にして逮捕することが許されると何が起きるのか。賢明な読者なら、分かるだろう。「立証できない」「単なる予想」による逮捕は、明らかに無罪推定の原則に反する。この論理を拡張すれば、警察は納得がいかない人間を簡単に逮捕することができるようになるのだ。

たしかに、預金通帳の譲渡を規制するべきだというのは分かる。しかし、もしそうだとしたら、預金通帳の譲渡を規制できない法律を変えるべきであって、警察の違法な逮捕を許すべきではない。だけど、日本は政治家もマスコミも裁判官も無能だから、こういったことが批判すらされず、野放しになっているのだ。そういう意味からすると、自分はこの件に関して警察を批判するつもりはほとんどない。警察というのは、自らの裁量を少しでも大きくし、法律によらずに逮捕しようとするものだ。これは警察の本能とでも言うべきものであり、批判したところで仕方がない。では何が問題か。本来、こうした警察をコントロールする権力として、裁判官があるのだ。ところが、裁判官は、警察の言い分を丸呑みするばかりで、全く機能していない。そうだとしたら、次はマスコミだが、マスコミも機能していない。一方、(本来、法律を作るのが仕事であるはずの)政治家は、自分が作った法律がきちんと運用されていないことを怒らなければいけないはずなのだが、政治家も全くその役割を果たしていない。こうして、日本の司法は崩壊状態になるのが現状だと言える。

冒頭の記事からは、こういう「民主主義の危機」とでも言うべき状況が読み取れる。この記事を読んで、「32歳の女子大生」に反応している人間は、こういう危機的な状況に全く気づかない反民主主義的、反体制的な人間なのだ。おそらく、そういう人たちなら、次の説明を素直に理解してくれるに違いない。

公安警察はあなたの心を読み取っているので、ただちにその歪んだ思想を転向しないと、刑務所にぶちこまれる。

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スーパーコンピュータについて再び

ニュース | 2010/07/23

仕分け作業においては、次世代スパコン予算は一時、「凍結」判定が下されたこともあったが、その一方で、富士通ではスパコンのノウハウを応用した“廉価版スパコン”の販売が絶好調なのだという。

蓮舫議員に仕分けられたスパコン 富士通の“廉価版”が絶好調!

政府が付けている予算の中には、空港環境整備協会のように「明らかに要らないだろう」というものもあるが、大部分は誰かしらの利益になるものである。予算を削減するということは、国民は何か痛みを強いられることになる。

前にも書いたようにスーパーコンピュータの「仕分け」が批判にさらされ、東京大学でも何度もシンポジウムを行って反対運動を繰り広げた。マスコミもここぞとばかりに政権批判の材料にしているように思える。ただ、以前の記事でも書いたように、スーパーコンピュータはすでに大学ではなく民間で作られるようになっている。特に、この記事で取り上げたような「PCクラスタ」と呼ばれる技術は、民間で十分な技術開発ができるレベルになっており、国の研究機関が果たせる役割は限定的だ。ほうっておけば民間が開発するようなものを、多額の予算をかけて「一位」を取る意味はどれだけあるのだろうか。

もし本当にメーカーが大学の頭脳を必要としているというのなら、産学連携が進んだ今日、国の予算に頼らず、メーカーが研究費を全額提供すれば良いのだ。医学生物学のように長期的な研究が必要な分野はともかく、技術の日進月歩が顕著なコンピュータ分野にはその方が効率的だ。たしかに、メーカーとしては、国の予算を付けてもらえれば、研究開発費が節約できて「お得」であるから、予算獲得を側面支援しようとするだろう。しかし、それはせいぜい形を変えた「補助金」でしかないのではないだろうか。

科学技術予算の重要性を否定するわけではない。しかし、科学技術予算はあくまで、長期的な視野に立った基礎研究を中心に配分されるべきであって、メーカーの研究開発への補助金であってはならない。かつてはそれで良かった「古き良き時代」もあったかもしれないが、国の財政状況がそれを許さないのではないか。科学技術予算の「選択と集中」が求められているのではないかと思う。

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破滅まで追い込まないと気が済まない人々

ニュース | 2010/07/21

飛行中の操縦室内で記念撮影をしていたとして、今年3月、スカイマークから諭旨解雇処分を受けた30代の男性副操縦士が、約3か月後、同社から地上職の社員として再雇用されていたことがわかった。

操縦室で記念撮影パイロット、地上職で再雇用
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100717-OYT1T00780.htm

これはかなり微妙な問題ではないかと思います。まとめると以下のようになるでしょう。

1. 規則違反の従業員を解雇することは企業側に許されているが、一方で解雇しなければいけないということはない。むしろ、雇用を守るという姿勢は評価されて良い。そもそもスカイマーク社は、不祥事を起こしたパイロットを論旨解雇処分にする必要はなく、地上職に配置転換しても良かった。
2. それにもかかわらず、スカイマークは、利用者からの評判を気にして(マスコミを気にして?)論旨解雇処分にした(マスコミは満足?)。ところが、これはポーズだけであり、実際には再雇用をしていた。

厳しい処分をしたとアナウンスしておきながら、裏では再雇用していたというのは、それだけを聞くと問題であるかのように思えます。そのことを指摘するマスコミには「正義がある」と、おそらくこの記事を通した読売新聞のデスクは判断したのでしょう。

しかし、そもそも、スカイマークがパイロットを再雇用したことは、むしろ「雇用を守った」という意味で評価しても良いことです。それにもかかわらず、スカイマークに元パイロットを再び解雇しろと言わんばかりの「個人攻撃」のような形の報道することが適切なのでしょうか。

要するに、

a. 一人の人間の人生を破滅まで追いやることは避けないといけない
b. スカイマークの広報の不誠実さを指摘しないといけない

この二つを天秤に掛けて、bの方が重要だと考えるのなら、この記事は「シロ」であり、aの方が重要だと考えるのであれば、この記事は「クロ」であるということになります。これについての評価は読者個人の判断にまかせることにしましょう。

しかし、そうだとしても自分が疑問を感じるのは、この記事を通したデスクが、本当にそこまで考えていたのかということ。本当にaとbを天秤にかけて考えたのかということです。どうもマスコミは、自分たちは悪を暴くことで、「社会的制裁」を加えることを職務だと感じてしまっているところがあるからです。

たしかに、マスコミの使命の一つは、「悪と闘う」ことかもしれません。しかし、「社会的制裁」まで加えろとは誰も言っていません。それはあくまで司法の役割であるはずです。しかも、彼らが考える「悪」は、「なるべく弱くて、叩いても自分たちが火の粉をかぶらない相手」に限られています。「悪と闘う」と言えば聞こえがいいですが、実際には彼らが個人的に目を付けた人物を袋だたきにする「私刑」「集団いじめ」にほかならないのです。視聴率や購読部数を稼ぐために、正義を忘れて集団いじめに走る。そのことで、人の人生がどうなっても構わない。この記事から、マスコミの報道にかけるそんな熱い「思い」が伝わってくるような気がするのは自分だけでしょうか。

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親が死んだことは風流だ

ニュース | 2010/07/20

長崎県平戸市沖で昨年4月に起きた巻き網船「第11大栄丸」沈没事故で、父親を亡くした同県佐世保市、私立西海学園高(菅沼宏比古校長)の女子生徒(17)が、昨年4月末頃、古典の授業で男性教諭(50歳代)から「親が死んだことは風流だ。人はいつ死ぬかわからん」などと言われ、適応障害になったとし、同県弁護士会人権擁護委員会に人権救済を申し立てていたことが分かった。

沈没事故で父失った生徒、教諭「暴言」で適応障害

「親が死んだことは風流だ」。この言葉が暴言と決めつけられているようですが、本当でしょうか。全く同じ言葉が、感動の一言になる場合だってあります。たとえば、この教師自らも父親を亡くしており、その辛さを話す中で、「親が死んだことは風流だ」と言ったとして、それでも「暴言」と言うのでしょうか。他の記事を見ると、教師は無常観に関して話をしたが、「風流」という言葉を使っていないと主張しているようですが、「世の中は常にうつりかわる。どんなに人はいつか必ず死ぬ。一緒にこの悲しみを乗り越えていこう」という話を生徒が勘違いしだけという可能性もありそうです。

もちろん、この教師は結果として失敗しているので、教育者としての責任という意味では、かばうことはできないかもしれません。たとえ99%の人が感動する言葉でも、その生徒が苦痛に思ったのであれば、謙虚に反省するのは教師としての責務です。少なくとも自分はそういうつもりで学生に接しています。

しかし、いわゆる「暴言」かどうかは、その場に居合わせた人しか分からないし、懲戒などがふさわしいかどうかは微妙です。もし、99%の人が感動するような言葉を言って、その生徒だけが傷ついたのだとしたら、その教師は個人的に反省するべきだとしても、懲戒はふさわしくありません。

もちろん、これは、教師本人や周囲の生徒にインタビューして判断すれば、ある程度は分かることかもしれませんが、詳しい事情も知らないギャラリーがああだこうだ言えるような話じゃないと思います。まして、こういう微妙なコミュニケーションの問題を、「人権救済」という形で解決できるのかは、はなはだ疑問と言わざるをえません。

言葉の意味は、文脈によって決まる。そのことの大切さを教えてくれるような事件です。

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外国人参政権・移民政策と「国のかたち」

経済・政治・国際 | 2010/07/19

最初に結論を言っておくと、自分は、現状では、外国人参政権にも移民にも反対。なぜって、今の日本で、外国人参政権や移民政策を推進したら、日本という「国のかたち」が保てなくなると思うからである。ただ、そうした現状で良いと思っているわけでもない。移民政策も可能にするような新しい「国のかたち」を考えることが、日本にとって急務なのだ。

日本は「単一民族国家」かどうかっていう話がある。定義上「単一民族国家」なのかどうかにかかわらず、日本というのは、単一民族であるという「虚構」の元に成り立っている国である。別に、そのことを肯定しているわけではないけれども、多くの国民の意識として、「そうなってしまっている」というのは事実なのだ。

たとえば、フランスは単純に言えば「自由」という理念があって、そこで国民がまとまっている。フランス国民とは、「自由という価値観を共有する人々」なのだ。これはアメリカも同じで、「正義という価値観を共有する人々」がアメリカ国民ということになる。もちろん、かなり単純化して説明しているが、重要なのは、「保守・リベラル」といった対立があっても、ある程度、国の理念に関しては共有されていこと。もちろん、そんなに単純な問題ではなくて、それぞれ問題を抱えているわけだけれど、とりあえず理屈の上ではそうなっている。だから、移民政策に関しても(理屈の上では)矛盾がない。

ただ、日本にこれと同じような理念があるのかというと、どう探してもない。みんなバラバラの「国のかたち」を考えている。「西洋からの輸入品である自由とか人権の概念を捨てて、日本の国の伝統を守ろう」なんていう意見が幅を聞かせているかというと、「正義を貫くことよりも、アメリカに追従することで自国の安全保障を守ることが重要」などという意見がまかり通っている。要するに目指すべきところすら分からないのに、一つの国に関する議論が成り立っているかのように見える。この理由は、「みんな同じ日本人だよね~」って思っているからにほかならないのだ。肌の色も同じ、顔つきも同じ、話す言葉も同じ、同じテレビを見て育った人だから、「分かり合えるに違いない」と思っている。

こうして、「肌の色も同じ、顔つきも同じ、話す言葉も同じ、同じテレビを見て育ったよね~」っていう感覚を広い意味での民族と言うとしたら、日本は単一民族国家にほかならない。ここで「単一民族」という表現を使うが間違いだというのなら、「単一民族感覚」とでも言えば良いのだろうか。もちろん、これが虚構だというのは言うまでもないことだ。たとえば、日本ではほとんどタブーになっていることだけれど、沖縄出身の人は、顔つきと姓が特徴的なのでかなりの率で判断できる。顔つきと姓、言葉に関して言えば、通名を使っている在日韓国人の方がよほど本土の人間に近い。それでも、沖縄の人が日本人ということに抵抗がないのは、国語教育とマスコミによる、そして単にみんながそう思っているということによる虚構にほかならない。「単一民族感覚」というのは、それでも「分かり合えるに違いない」と思う虚構が成り立っているということだ。日本は「理念」ではなく、「単一民族感覚」によって成り立っている国なのである。

もちろん、「虚構として成り立っている」というのは日本だけの話ではない。アメリカ人が「正義」を語ったって、言うまでもなく人によって正義の意味は違うし、フランス人が「自由」を語ったって、言うまでもなく人によって自由の意味は違う。違うけれど、同じ言葉を使っているから「分かり合えるに違いない」と漠然と思っている。別に本当に分かり合えているわけじゃないのだ。ただ、彼らの場合、「分かり合えるに違いない」という虚構が「理念」によって成り立っているのに対し、日本人の場合、「分かり合えるに違いない」という虚構が、「単一民族感覚」にあるという違いだけだ。

この違いは小さいようで大きい。移民を受け入れるというような話になったとき、「理念」で成り立っているアメリカやフランスは移民を受け入れても国のなりたちが壊れることはないけれど、「単一民族感覚」で成り立っている日本のような国ではそれが成り立たない。今の日本の現状で、移民政策を推進してしまったら、「分かり合えるに違いない」という虚構が虚構としてすら失われてしまう。

もう少し具体的に言おう。移民政策を安定して進めて行くためには、何らかの意味で「同化」が必要だ。ここで「同化」っていうのは、決して、文化的に同化させることじゃないし、遺伝的に同化させることでもない。そうじゃなくて、「国としての理念を共有する人々」を増やしてくということ。たとえば、平和憲法の理念を教育するとか、人権の大切さを教育するとか、そういうことによって安定した移民政策が可能になるわけだ。しかし、今の日本でそんなことが可能か、と言ったら絶対に無理である。平和憲法はともかく、「人権」ですら反発する人がいる。そうした「理念なき国」で移民とうまくやっていけるというのは幻想を抱きすぎだろう。

これは外国人参政権の問題についても同じだ。原則論として言えば、外国人に参政権を与えるというのはありえないが、同化政策の一環としてであればありえると思う。たとえば、参政権を与え、韓国文化の尊重を支援する代わりに、日本人としての教育を義務づけるというようなことだ。外国人参政権を国内の民族的対立をなくすためのコストと考えるのであれば、むしろ安い買い物とも言える。しかし、在日韓国人の子弟に「どういう理念を教えるか」ということすら国民的合意が得られない状況で、こうしたこと実現するはずがない。今のように「単一民族感覚」で国がなりっている現状で、日本人としての教育を義務づけるようなことになれば、在日韓国人だって「自分たちの文化が失われる」と反発するだろう。今の日本で外国人参政権を導入しても、何もメリットは得られず、デメリットだけが問題になる。「理念なき国」に、外国人参政権は無理なのである。

かつて冷戦下では、「単一民族感覚」だけでも日本は国としての形をそれなりに保っていた。国際政治の舞台で日本が主体的に判断をできる機会はほとんどなかったし、国際的な人やモノの流れもそれほど大きくなかったからだ。現代は違う。冷戦の終結とともに、近隣諸国との安全保障上の関係は大きく変化した。グローバル化の波の中で、移民や資本の海外移転にどう対応すれば良いかといった、日本という国の「境界線」にかかわる議論も盛んだ。こうした中、今までのような「理念なき国」としてのあり方が、厳しく問われているのではないだろうか。


◎追記(7/28)

自分がこの記事を書いた後、なぜか「はてな」周辺で移民の話題が花盛りのようです。影響を与えたはずも受けたはずもないので、なんだか不思議な一致です。せっかくなのでちょっとコメントします。

不景気だからこその移民政策のススメ
移民もまた人間である

この二つは(単純労働ではない)高機能移民の経済面でのメリットと、治安等に与えるデメリットの低さを問題にしています。これは政府や経団連が推進する移民とは違うものの、基本的には正しい。ただ、移民に反対する漠然として理由って、経済的な問題だけではなく、もうちょっと違うものもあるんじゃないのかっていうのが、自分の立場。対立する議論ではなく、議論の観点が違うのです。むしろ、彼らの指摘するような「経済面でのメリット」を前提に、この記事があると思っていただければと思います。自分の記事では、経済面の話をすっ飛ばしてしまったのですが、ちょうど補足をしていただいたような気分です。

日本人が本当に大嫌いなのは「異質な人々」

こちらは、自分の立場にかなり近いと思います。「異質を排除する」日本人の特性を変えない限り、移民は不可能だという主張は、自分の議論と全く同じです。ただ、上の記事の著者が「異質を排除」する傾向への対策として挙げているのは「日本そのもののグローバル化」。間違いだとは思わないけれど、もっと本質的な問題はこっちじゃないの?っていうのが、自分が書いたことです。

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