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ニュースな待合室アーカイブ→2010年6月の記事をまとめて読む

法律違反による懲戒免職の妥当性

ニュース経済・政治・国際 | 2010/06/28

飲酒運転した公務員を事故の有無にかかわらず「原則懲戒免職」としていた全国29自治体のうち、計10府県市が処分基準を見直すか、見直しを検討していることが毎日新聞の調べで分かった。06年8月に福岡市職員の飲酒運転で幼児3人が死亡した事故をきっかけに処分の厳罰化が広がったが、09年以降、「過酷だ」として免職を取り消した判決が最高裁で相次いで確定。厳罰化の流れに変化が生じている。

基準が厳罰化された後、職員側が免職の取り消しを求めて各地で提訴していた。09年9月に兵庫県加西市の上告が棄却され、自治体敗訴が最高裁で初めて確定。その後、神戸市、佐賀県、三重県の敗訴が確定した。(以下略)

公務員の飲酒運転:「原則懲戒免職」緩和の動き
http://mainichi.jp/select/today/news/20100627k0000m040077000c.html

この問題は、

1. 民間企業で、飲酒運転をして懲戒免職になることはほぼないにもかかわらず、公務員だけが民間よりも厳しい懲戒処分を受ける必要があるのか。
2. そもそも飲酒運転での懲戒免職が適当か。

という二つの点から考えることができると思います。自分は1に関してもNOと主張したいところなのですが、こちらに関しては、他の人も多く議論しているところだと思いますので、今日はあえて2に関して考えてみたいと思います。

法律や労使契約の有効性等を全て含めた社会全体の制度設計の問題として言うと、「犯罪を犯したから懲戒免職」っていう論理は間違っているとも言えます。犯罪は国家による刑罰(罰金、禁固、懲役、死刑等)で、罰せられるべきであって、社内での懲戒等は、二重の制裁になってしまて不合理と考えられるからです。特に、司法では、犯罪の認定に関する客観性を担保するためにさまざまな制度があるわけですが、「社会的制裁」の場合は、それらが無視され、被疑者が不合理な制裁を受けることになってしまうことは問題でしょう。不当逮捕や冤罪でも社会的制裁だけが継続してしまうという問題は、しばしば指摘されるところです。

もちろん、業務にかかわるような重大な違反等があった場合、(運転手が飲酒運転をした、会社の経費を着服したなど・・・)は、罰の意味が違うので別ですよ。こういう場合は、刑罰とは別に労使契約上の問題として、懲戒免職となるのは当然です。ただ、そうでなく、業務と無関係な犯罪の場合、犯罪を犯したということだけで、国家から「刑罰」を受け、企業からも「懲戒」されるのは合理的ではないと思います。

そうとは言っても、重大犯罪を犯した犯罪者を、従業員として雇い続けなければいけないとするのは企業にとって不合理であるため、免職は仕方がないと思いますが、この場合でも「懲戒」免職が適当かどうかは微妙でしょう。たしかに、「犯罪を犯して雇用主の信頼を傷つけること」は懲戒免職の条件として妥当だとも考えられますが(実際、この手の条項は労使契約に入っていますよね)、軽微な犯罪にまで適用して良いか疑問です。

このように言うと、「それでは制裁が軽すぎてしまう?」として批判する人がいるかもしれません。これは、ある意味もっともだと思うのです。なぜなら、現状では、良くも悪くも、国家による刑罰の軽さが社会的制裁によって補われており、それによって刑罰にかかかわるコスト(刑務所の運営費など)を節約していると言えるからです。したがって、いきなり社会的制裁をなくしてしまうと問題なのも事実でしょう。

しかし、現状のように、「刑罰の軽さを社会的制裁によって補う」ことには、制度的ほころびが生じているのも事実です。一つが、すでに述べたように、不当逮捕や冤罪でも、社会的制裁は継続するため、これらの人が、過度な制裁を受けることになってしまうという問題です。これはしばしば「マスコミの報道姿勢の問題」として語られますが、本来は司法制度を含めた社会全体の制度設計の中で考えていかないといけない問題です。逆に、同じ刑罰であっても、プロの犯罪集団や暴力団の構成員等は社会的制裁を受けない(それどころか名誉される場合すらある)」という問題があります。出来心で犯罪を犯してしまったような一般市民の社会復帰を不可能にする一方、プロの犯罪者集団に有利なのが、「社会的制裁」の制度と言うことができるでしょう。要するに、「社会的制裁」には大いに問題があるが、ある種の必要悪として成り立っているものだということです。

こうして「社会的制裁」に対して否定的な見方は、「社会的制裁」が当たり前のものだという常識を前提に考えると、異論に聞こえるかもしれません。しかし、そうした先入観にとらわれず考えるというのが、「社会全体の制度設計」という見方です。常識自体を設計される対象として考え直していくということですね。こういう認識に立てば、公務員の飲酒運転の問題に対しても、少し違った目で見ることができると思うんですが、皆様いかがでしょうか。

補足1:
労使契約上「法律遵守」を謳えば、理屈の上では法理違反に対して懲戒免職にしても良いということになるわけです。実際、多くの企業が設けている規約だと思います。ただ、ここではその規約そのものが合理的かっていう話をしているわけです。念のため。

補足2:
本文には書きませんでしたが、飲酒運転は、「行政罰」(切符を切られ反則金を支払う)で済む場合も多いと思います。きちんとした司法手続きを踏まない行政罰を理由として、懲戒免職というのも問題だという見方があると思います。判例では、行政罰は本人が任意で受けるものであるから後から取り消しができないことになっていますが、後から取り消しができない行政罰によって「社会的に抹殺される」のというのは、司法制度のバランスからいって明らかに不合理です。「本人の自白があれば、弁護士や裁判もなしに極刑にして良い」という制度を認める人はいないと思いますが、それと同じようなことが「社会的制裁」を通して行われているのが現実です。しかも、公務員だけを対象にしてです。

補足3:
ついでに言うと、教育機関での「退学処分」っていうのはこれと関係して難しい問題ですね。教育機関の場合、「~をしないと単位をあげない」「~をしたら退学」というのは、教育的配慮の一種なので、労使契約と異なる面もあると思います。

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契約と法律における「正当性の循環」について

ニュース | 2010/06/28

NTTドコモとKDDI(au)の携帯電話契約の割引プランで、中途解約すると違約金を請求される契約条項は、消費者の利益を害するもので、消費者契約法に照らして無効として、NPO法人「京都消費者契約ネットワーク」(京都市)が16日、両社に同条項の使用差し止めを求める消費者団体訴訟を京都地裁に起こした。

携帯電話の解約料の違法性を問う訴えは全国初という。

訴状によると、ドコモの「ひとりでも割50」「ファミ割MAX50」と、auの「誰でも割」は、2年単位の契約で基本使用料を半額に設定しているが、途中で解約した場合、9975円の解約料が生じる。

同ネットは、利用者の死亡や長期の海外滞在、電波状態の不良などの理由でも解約料を請求されると指摘。「単に他社の携帯電話への変更を防ぐための、極めて不当な契約条項」と主張している。

同ネットは今年2月、両社に同条項の使用差し止め請求書を送付。4月には、同条項で不都合が生じた事例を集めるため、市民を対象にした弁護士による無料電話相談を実施し、相談件数は6時間で59件に上った。

訴えに対し、ドコモ広報部は「店頭で十分説明しており、法令違反には該当しない」、KDDI広報部は「利用者自身が多くのプランから選択し、解約料も過大な負担にならない水準」としている。

携帯電話割引プラン、中途解約違約金で訴訟
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100616-OYT1T01026.htm

このニュースに対するネットのコメントを見ていたら、

「契約だから仕方ない…」

っていう社会の仕組みを理解していない人が多くて驚きました。

日本の法律では、事業者と消費者との間で結ばれる契約に、さまざまな制限がかけられていて、契約には裁判をすれば実際には無効になるだろうと言われている条項がたくさんあるのです。それらが有効かどうかは、法律家の間でも意見が分かれていて、「裁判をしてみないと分からない」というのが、一番正しい答えだったりします。

今回の訴訟もそのいった流れで理解しないといけません。つまり、「契約だから仕方ない」じゃなくて、その契約そのものの有効性を問うているのが、今回の訴訟ということだと思います。

関連する法律をちょっと挙げるだけでも・・・

○消費者保護法

第九条  次の各号に掲げる消費者契約の条項は、当該各号に定める部分について、無効とする。
一  当該消費者契約の解除に伴う損害賠償の額を予定し、又は違約金を定める条項であって、これらを合算した額が、当該条項において設定された解除の事由、時期等の区分に応じ、当該消費者契約と同種の消費者契約の解除に伴い当該事業者に生ずべき平均的な損害の額を超えるもの 当該超える部分

(消費者の利益を一方的に害する条項の無効)
第十条 民法 、商法 その他の法律の公の秩序に関しない規定の適用による場合に比し、消費者の権利を制限し、又は消費者の義務を加重する消費者契約の条項であって、民法第一条第二項に規定する基本原則に反して消費者の利益を一方的に害するものは、無効とする。

とあります。要するに、解約金は、「当該消費者契約と同種の消費者契約の解除に伴い当該事業者に生ずべき平均的な損害の額」を超える分が無効なのです。つまり、2年間の契約を義務づけ、途中解約で違約金を支払う代わりに割引するという契約は「違法=契約として無効」である可能性があります。

ただし、記事を見る限り、今回の訴訟の原告は単純にこの点について争おうとしているのではないようです。

○事情変更の原則
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E6%83%85%E5%A4%89%E6%9B%B4%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%89%87

事情変更の原則(じじょうへんこうのげんそく)とは、契約締結時に前提とされた事情がその後変化し、元の契約どおりに履行させることが当事者間の公平に反する結果となる場合に、当事者は契約解除や契約内容の修正を請求しうるとする法原理をいう。
このような考え方は複数の実定法規程において具現化されているが(民法第589条、第610条、借地借家法第11条、第32条等)、現在のところ一般原則として定めた規定は存在しない。しかし、判例・学説は、信義誠実の原則(以下「信義則」という。)を実定法上の根拠として、一定の要件の下で事情変更の原則の適用を認めている。

つまり、消費者契約法上を元に契約の無効を主張し、それが認められない場合は、「事情変更の原則」を盾に、特定のケースを主張するという二段構えの訴訟戦略なのではないでしょうか。

・・・と、筆が滑って余計なことを書き綴ってしまたったわけですが、自分がここで言いたいのは法律論ではありません。「契約というのも絶対的なものではなく、法律によって制限・修正されて理解されるものだ」ということです。

これは、消費者保護法のような具体的な法律だけを対象にしている場合は、大した問題ではないのですが、法律の成り立ちを考える上では意外に根の深い問題と関係しています。というのも、「なぜ法律を守らなければいけないのか」ということに対する説明の一つとして、「それが国民と国家の間の契約だから」というものがあるからです。これは、高校の公民の教科書にも出てくる社会契約説というもので、「自然権(この文脈では≒人権)」概念の元になったものとして説明されます。つまり、契約の正当性が法律によって確保されるのだとしたら、「社会契約」の正当性はどのような法律によって確保されるのかという根源的な問題に行き着いてしまうのです。法律の正当性は契約(社会契約)によって確保されるものであり、契約の正当性は法律(民法や消費者保護法など)によって確保されるものだとしたら、結局のところ、いずれの正当性も確保されない「正当性の無限後退」「正当性の崩壊」という事態を招いてしまうことになります。

この「正当性の崩壊」という状況は、まさにシステム論の出発点とも言える状況です。システム論では、法律の正当性を法律以外のもの(たとえば契約)に見いだしたり、契約の正当性を契約以外のものに見いだすことを否定し、それらがそれ自体として正当であると主張するのです。こうして「それ自体として(per se)」正当であるとしか言いようがない「何か」のことをシステムと呼びます。法律や契約をシステムと考えれば、「契約の問題として考えれば、契約はそれ自体契約だし、法律もまた(社会契約説のような立場から)契約の一種として考えられる」「法律の問題として考えれば、法律はそれ自体法律だし、契約もまた(民法や消費者保護法などの立場から)法律行為の一種として考えられる」というように双方を矛盾することなく並立したものとして理解することができるのです。

では、システム論は法律を規定するものとしての人権を否定するのかというと、そうではありません。。たしかに、人権は何かから論理的に導かれるというような意味での普遍的な権利(自然権)ではない。しかし、現代の人類社会が共通として持つ緩い価値観として「人権」があり、それに基づいて曲がりなりにも国際秩序が保たれているのも事実です。その意味では人権もまた「それ自体として(per se)」正当なものであるということになるでしょう。こうして、人権、契約、法律などを並列に理解して、それらの関係を分析しようとするのが「システム論的理解方法」ということになります。「契約は絶対に守らないといけない」という子供じみた理解では、こうしたことは分からないのです。

まぁ、携帯電話とは何にも関係のない話になってきてしまったわけですが、半年ぶりの記事ということで「ニュースな待合室」というタイトルにふさわしいものにしてみようと思いました。今後もどうぞよろしくお願いします。

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