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脳死臓器移植の問題

経済・政治・国際 | 2009/01/29

もし脳死と判定されたら「臓器を提供したい」4割~課題は意思表示
http://www.rbbtoday.com/news/20090113/56955.html

倫理的問題についての世論調査等を見るときいつも思うのは、「その問題に対してどれだけの情報が国民に提供されているのか」ということです。ある問題があったとき、そのメリット・デメリットを十分に知らされずに何らかの判断を強いられても、本当に「選んだ」ことにはならないと思うからです。医療では「インフォームド・コンセント」(十分な説明に基づく同意)という考え方がありますが、同じことは政治的判断に関しても言えます。国民に十分な情報が与えられないまま世論調査が行われたとしても、その結果を「国民の意見」とみなすことはできないでしょう。

そういう意味で言うと、「脳死臓器移植」に関しては、推進側の意見が偏って紹介され、反対する側の意見があまり紹介されないという、かなり極端な傾向があるように思います。そこで、この記事では「脳死臓器移植」に関して、国民として知っておくべきだと思われる論点をまとめてみました。この記事では脳死臓器移植の問題点を指摘するような論点のみが書かれていますが、これは自分が個人的に脳死臓器移植に反対だからではなく、反対意見の方が、一般にあまり知られていないと思うからです。また、この記事では、主要な論点しか扱っておらず、これが脳死臓器移植に対する反対意見の全てではありませんが、その点もご了承ください。

政治的な意味での脳死臓器移植に賛成/反対、自分個人の立場としての脳死臓器移植受け入れ/拒否、どの立場を取るにしても、こうした論点を理解し、その上で判断するべきではないかと思います。

1. 脳死の概念そのものの問題

a) 医学的な死の問題
脳死は「死」と認められる以前は、「不可逆的昏睡状態」と言われた症状です。分かりやすく言えば「二度と元に戻らない昏睡状態」ということになります。具体的には、痛み刺激に反応しないことなどいくつかの項目からなる判定基準でよって判定されるのですが、いずれにせよそれらの判定基準は、脳と他の部分をつなぐ「脳幹」という部分の機能が失われているということを基準にしているのです。

しかし、ここで二つの問題があります。まず、判定基準はあくまで「現在の医学の水準」で決められたものであり、それが確実に脳幹の機能の不可逆的な停止を意味するかどうかは分からないということ。もう一つは、脳幹が停止していることが、本当に意識の消失を意味するか分からないということです。特に前者に関しては、いったん脳死と判定された人が意識を取り戻したという例が多数報告されています。いずれにせよ、脳死判定されたとしても意識があるという可能性は否定ないのです。

この背景には、そもそも「意識」というのは個人的体験に属するものであり、医学的に判断できるとしても結局のところ「予想」に過ぎないという根本的に問題があります。

b) 社会的な死の問題
脳死の人は、体は温かく、脊椎反射は残っているため、手を握ると握り替えしてくるというような複雑な反応をすることもあります。特に、脳死臓器移植のためにメスを入れようとするとかなりの確率で激しい動きをすることが分かっており、これを防ぐために手術の時には麻酔をかけるのが常識にまでなっています。また、脳死判定の際に胸に手を合わせ、祈るような動きをする(ラザロ兆候)もかなりの確率で見られることが知られています。

そもそも死というのは個人的なできごと(一人称の死)だという側面のほかに、社会的なできごと(二人称の死)という側面も持っています。すなわち、かりに医学的な脳死の判定基準が、間違いなく一人称的な死を意味していたとしても、二人称の死という立場からは「死んでいない」ということになるでしょう。(詳しくは『死は共鳴する』小松美彦1996等)

ちなみに、そうとは言っても、「自分のことは自分で決める」という自己決定権の立場から、脳死を擁護する人もいます。しかし、そもそも自分の身体や財産に関する所有という概念は、身体や財産に関する決定の結果を引き受ける自分がいるということが前提になっているものです。決定の結果を引き受ける自分が想定できず、かつ遺族に多大な影響を与える「脳死臓器移植」に関して、自己決定権が成り立つのか単純に議論することはできません。

2. 医療システムの問題
a) ドナーカードを持っていることで必要な救急医療を受けられないという問題
脳死臓器移植に必要な措置の一部(臓器保存液の注入など)は、脳死判定前に行わなければいけず、しかも、その措置が患者の生存可能性を下げるということが指摘されています。脳死臓器移植は病院の収入面でも、医師の名誉という意味でも、病院側にとって望ましいことであるため、ドナーカードを持っていることで、必要な救急医療が受けられなくなるという可能性が指摘されています。

これは、医師のモラル、医師に対する信頼の問題です。しかし、脳死は、通常、救急医療の現場で判断されることが多く、長い時間をかけて信頼を築いた医師によって行われるということを忘れてはいけません。ドナーカードを持つということは、「たまたま運び込まれた病院の医師に絶対の信頼を寄せる」ということを意味するわけですが、実際にドナーカードを持っている人が本当にそのことを理解しているかは疑問でしょう。

b) 患者のプライバシーを盾に脳死判定の状況が公開されないため、脳死判定が正しく行われているかすら分からないという問題
脳死臓器移植、日本国内第一例では、さまざまな情報が公開され、その中で脳死臓器移植の過程にさまざまな批判が集まりました。しかし、それ以降の移植では患者のプライバシーを盾に、細かい情報が公開されなくなったのです。そもそも正当性に疑念のある「脳死判定基準」ですが、正しく判定されているかを国民が判断することすらできないという問題があります。

3. 政治・メディアの問題
a) マスメディアの報道が臓器を受け取る側に偏っているということ
脳死臓器移植は、ドナー(臓器を提供する側)は、救急医療という状況で移植を受けるのに対し、レシピエント(臓器を受け取る側)は、長期間移植を待機しなければいけないという特徴があります。このため、マスメディアの取材(密着取材等)は、レシピエントの立場に偏ったものになりがちです。しかし、その背景には、メディアに載ることのない、ドナーとドナーの家族があるということを忘れてはいけないのです。

また、このことも関係してか、メディア全体が、臓器移植推進側の論調に立っていることが多いということも指摘できます。臓器移植に反対の立場の主張については、医学的な面からの問題点の指摘にとどまり、それ以外の(ある意味もっと根本的な)側面について触れていないケースが多いということもあります。

b) 政治的圧力を掛けることができるのが、臓器を受け取る側に偏るということ
同じ理由で、脳死臓器移植は、レシピエントにとっては未来のことである期間が長いのに対し、ドナーの家族にとっては未来のことである期間はほとんどなく、ほとんどの期間、過去のものであるという違いがあります。このため、政治的圧力を掛けるのは、臓器移植のレシピエントに偏ることになります。死んでしまったドナーやドナーの家族が政治的な力を持つことはないからです。しかし、政治を公平な利害調整の場と考えるのであれば、ドナーの側の立場を考慮しなければいけないのは言うまでもありません。

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