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表現の自由とそのコスト

ニュース | 2008/09/28

市議会紛糾の問題作『コドモのコドモ』ついに公開!
http://www.cyzo.com/2008/09/post_980.html

小学5年生の女の子が子どもを産むという映画が話題です。

この映画が社会に与える影響ということに関して言えば、この映画が性行為の低年齢化にプラスに働く可能性は否定できません。映画そのものを見ていないので、あまりはっきりしたことは言えませんが、たとえこの映画がそうしたことに批判的な態度で臨んでいたとしても、それがよほど徹底されていない限り、そうした影響を持つ可能性が高いと思われるからです。

したがって、この映画が公開されることに顔をしかめる気持ちは分からないこともありません。

しかし、そうした危惧を最大限に認めたとしても、こうしたcontroversialな映画の公開には、最大限、応援したい気持ちでいっぱいです。それは、こうした映画が公開される自由が認められる社会であることが、性道徳の問題などよりはるかに重要な、そして、自分が生きる社会の行方を左右する…重要な問題であると思うからです。

民主主義の社会は決して万事がうまくいく理想的な社会ではありません。しかし、さまざまなコストを支払っても守っていく価値がある。そういう経験則の中で、世界的に主流となっている考え方ではないでしょうか。

日本は「自由」を理念とする近代の法体系を導入しながら、その意味を教育の現場で伝えてこなかったというのが現状です。その「ツケ」が、今、さまざまな形で現れているのではないかと思います。

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コメント

自由というのは至上の価値です。具体的に言えば、住む所や結婚相手や職業や学問を自由に決める自由です。我々の生活では空気のように当たり前のことです。
すべての日本国民は自由のために死なねばなりません。それが自由を享受する者の対価でしょう。学校教育で失敗しているのは、ここです。自分の生命と引き換えにせねば、当たり前の自由は得られないということです。でも国家否定の哲学から導出された国家に対する義務の放棄しか教えていません。


そして、重要なことは、個人の自由は国家によって保障されています。今の日本国が消滅してしまえば、自由は失われてしまいます。中国のチベット人や北朝鮮の人民のようになってしまうかもしれません。
日本の社会科学校教育は、左翼勢力が強く、国家否定の価値観を教え込んでいます。でも、日本国の否定が完成した暁には自由は失われてしまいます。個人が実力で強盗やごろつきがいる現実社会から自分の自由を守ることができません。ましてや、強力な軍事力をもち、自由を否定する外国政府にどうやって、バラバラの個人が対抗するんでしょう?
国家が暴力装置であることもありますが、自由を保障する装置でもあります。国家自身の問題ではなく、どうやって国家を運営するかの問題です。これが左翼にはわからない。
左翼のいっていることがきれいごとに聞こえるのここです。

他方右翼は、相変わらず国家社会主義ですね。国民から右翼がいまいち支持されないのは、愛国心とかいって、都合よく国民を操ろうとしているように見えるからですよね。彼らのいう愛国心を持つことが、自分や自分の身の回りにいる人間のために必要なことであることを説明することに失敗しています。まるで現在の権力機構を維持するために犠牲になれと言っているように聞こえます。

私は、日本の官僚機構を維持するために、死ぬつもりはありませんが、日本国が戦争を仕掛けられれば、兵士になることは義務だと思います。当然、官僚機構は必要だが、ヤツらに支配されたくないので、官僚の味方ではなく、官僚をコントロールできる政治家に票を入れていきます。投票権は国家のために死んでもいいと思う者に認められる権利だと考えています。

自由について語っておられたので、つい長々と書き、失礼しました。

投稿: ぷー | 2008/09/29 0:49:37

コメントありがとうございます。

ツーラさんですよね?(笑)
いつも有意義なコメントをありがとうございます。
ほかのコメントにお返事できなくてすいません。
決してコメントを軽く見ているのではなく、
重要なテーマなだけに、軽々しくお返事できないと思って、
のびのびになっていたところです。

> すべての日本国民は自由のために死なねばなりません。

一般論としてとらえると、
「なりません」という言葉の強さに危険なものを感じますが、
それでも、自由主義を標榜する国の教育としては当然のあり方だと思います。
教育は真理ではなく、国としての理念を体現するものだからです。
少なくとも教育においてはそうあるべきです。

ただ、そこで言う「自由」は、さまざまな価値観の尊重という理念だし、
時には、自由を否定する自由であるということを確認しなければいけません。
そういう自由を認めても制度としては揺らがないというのが、
自由という理念のすばらしさでもあるでしょう。
この点が忘れられると、「自由」という理念は、
自文化中心主義や侵略戦争の道具に堕していくのです。

そういう意味で、

> 投票権は国家のために死んでもいいと思う者に
> 認められる権利だと考えています。

という気持ちには、あるところまで同情しますが、
行き過ぎると危険な要素も含んでいる。
むしろ、「国家のために死ななくてもいいと思う自由を守るために、
命を賭けて自由を守る」ということの方が、
「自由という理念」にふさわしいのではないでしょうか。

そんことありえない?
そもそも、「自由という理念」はありえないフィクションです。
しかし、守るべきフィクションなのです。
この矛盾した状況こそ、
今日、私たちが置かれた状況と言えるかもしれません。

> 国家が暴力装置であることもありますが、
> 自由を保障する装置でもあります。
> 国家自身の問題ではなく、どうやって国家を運営するかの問題です。
> これが左翼にはわからない。
> 左翼のいっていることがきれいごとに聞こえるのここです。

「国家がなくなったら…」というのは極論過ぎるでしょう。
実際、国家転覆を目指すような人は、
今時ほとんどいません。

自分は左翼を自称する人に対しては、
「左翼知識人が、自分たちの理念を
<国家>や<ナショナリズム>と整合性のある形で論じられなかったことが、
現代の軽薄なナショナリズムの台頭の原因」という趣旨のことを言います。
「戦争」という強いトラウマがあった戦後、
<国家>や<ナショナリズム>がなくても左翼思想は成り立っていたし、
それで全体としてのバランスも取れていた。
ところが、そうした足かせが外れれば、一気に右に傾くのだと。

ただ、その議論の中でも、国家の権力性は忘れられて良いものではありません。
「国のために死ぬ」という人は尊重されるべきだと思いますが、
それが国という文脈で言われたと同時に、
「国のために死ね」という暴力装置に変わるからです。
これは「自由のために死ぬ」という理念が、
それ自体矛盾している…そしてだからこそ、
細心の注意を持って強調されるべき重要な理念だという
根源的な事情に起因するものではないかと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2008/09/30 0:32:46

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