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納豆問題の分析と提言―科学とマスコミの問題として

経済・政治・国際 | 2007/01/22

納豆問題が話題ですが、今回の事件は氷山の一角。これは科学とマスコミの両方が社会に対して責任を果たしていないという根本的な問題だと思います。テレビに出演した教授は責任を取らなくて良いの?同じような事件をなくすためにはどうすれば良いの?今日はこういった問題について考えていきます。

結論として以下のことを提示します。

(1) 企業やマスコミが、「明らかに」非科学的な内容の報道・発表をしたときの民事・刑事上の責任を明確にする(商品の代金払い戻し、詐欺罪での積極的立件等)。
(2) 科学者の社会に対する責任を明確にするとともに、社会に対する貢献を正当に評価するようなシステムを作る。
(3) 全てのテレビ番組について局内の責任者を明確にし、それを番組で明示する。また、不祥事の際には、当該の責任者の厳格な処分を行う。

詳しくは以下をご覧ください。

(追記
この記事が長文になってしまったこともあり、内容の一部を短くまとめたものを作ったので、
合わせて読んでいただければと思います。
この記事は、問題発覚直後に書いたものであるため、
以下の記事で、初めてフォローしているニュース・記事もありますが、
ほとんどの論点はこの記事で言い尽くされていると思います。)

あるある大事典―捏造にかかわった大学教授の責任も問うべきでは?
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_70a2.html
あるある捏造の次は、NHKのためしてガッテン―科学番組は捏造が常識
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/nhk_8714.html
あるある大事典の捏造報道、本当は何が問題か?―担当者の名前が表に出てこないという謎
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_795f.html )

/////

(1) 社会はコミュニケーションのシステム

フジ系列で放映された『発掘!あるある大辞典II』で、
「納豆がダイエットに効く」と虚偽の報道をしたことが話題になっています。
事件の詳細は、ニュースや他のブログに譲るとして(*1)、
今回の問題は、どういうことを背景に怒ったことなのか、
あるいは、今回の問題が、社会全体にどのような影響を与えるものなのか、
ということに考えることにしましょう。

情報学は「情報」を扱う学問ですが、
社会の「コミュニケーション」も情報の一種です。
そして、情報学では、社会(コミュニケーション・システム)を、
コミュニケーションという情報のつながりとして考えます。
たとえば、2人の人が会話するときに作るコミュニケーションのつながり、
家族や地域でのコミュニケーションのつながりは、
コミュニケーション・システムです。
また、あるトピック(話題)についてのコミュニケーションのつながりや、
ある基準に基づいて行われるコミュニケーションのつながりも、
コミュニケーション・システムと言うことができます。

このように考えると、
「納豆問題」は、2つの立場から考えることができます。
一つは、科学が本来の形で機能していないという、
科学コミュニケーション・システムの問題、
そしてもう一つは、社会全体の中で、マスコミュニケーションが肥大化し、
社会全体を支配するかのようになっている一方、
そこにかかわる人は実質的に匿名化、2ちゃんねる化しているという、、
マスコミュニケーション・システムの問題です。

(2) 科学コミュニケーションの問題

今回の問題で特徴的なのは、
虚偽の報道が「科学」の権威によって基礎づけられていたということです。
つまり、消費者からすれば、「科学的」だと思って信頼していたことが、
裏切られたという構図になっているわけです。

同じようなことは過去にもありました。
その中でも特に有名なものが、「マイナスイオン効果」でしょう。
一時期、多くの商品の宣伝に使われていた効果ですが、
まともに理系の教育を受けたことがある人間なら、
信じるはずがないような、バカらしいもので、
すでに行政指導等で、表示が取りやめになっています。
ところが、こういったことが「科学的」と誤解されて、
商品の宣伝に使われていたのです。

もともと、「マイナスイオン効果」を
最初に言い出したのも「あるある」だったそうですが、
これはテレビ局のせいだけにするわけにはいかないでしょう。
家電各社も、独自のデータに基づいて宣伝をしていたからです。
ところが、こちらについては、いまだに誰も処分されていません。
納豆事件とは比べものにならないほどの、
巨額の金額が動いたはずなのに、
誰も責任を取らないまま終わってしまったわけです。

要するに、今の日本では、科学的に明らかにおかしいことを、
科学的だと言って報道したり、
商品宣伝に使っても、誰も文句が言わない。
また、それに対する歯止めがほとんど効かない状態なのです。
この背景には、2つの問題があります。

一つめは、企業やマスコミ側が、
科学を「売上げを伸ばす/視聴率を稼ぐための道具」としてしか見ず、
「何が正しいか」という科学の基本的な姿勢を、
全く尊重していないということです。
科学を道具として見ていないから、
それがねつ造だろうと、迷信だろうとかまわない。
それで、商品が売れたり、
視聴率が上がれば良いという発想になっているわけです。

そして、もう一つが、
科学者の側の専門化であり、
科学の社会に対する影響への無関心です。
「マイナスイオン効果」がこれほどまでに
広く商品宣伝に使われた原因としては、
関連する分野の科学者が「バカらしい話だ」として相手にせず、
公の場では疑問すら提出しなかったこともあるでしょう。
多くの科学者は、
自分の研究分野で新しい論文を書くことにしか関心がなく、
社会でおかしなことが言われていても、
それに対して発言をしようとしない。
今回の納豆問題でも、大学の教授が出演して、
番組の権威付けに使われていたわけですが、
出演した本人に、権威付けに使われているという意識が全くない。
これは科学者としてあまりにも無責任な態度です。
どうも「知らなかった」で許される流れになっているようですが、
本来、こういう場で、科学者の責任を追及するようにしなければ、
長い目で見て、何も変わらないのではないでしょうか。
こういった科学者の側の問題のために、
企業やマスコミが、
科学を「売上げを伸ばす/視聴率を稼ぐための道具」
としてしか見ないという事態が冗長されてきているわけです。

さて、情報学的に考えると、科学コミュニケーション・システムは、
社会(コミュニケーション・システム)全体の
「構造」だと考えることができます。
社会にとって、「何が正しく、何が間違っている」ということは、
確実には分からず、常に「何が正しいか」ということが見直されながら、
社会が成り立っています。
ところが、全てが「正しいかどうか分からない」のであれば、
社会はあまりにも混乱してしまう。
そこで、一応、「これが正しく、これが間違っている」ということを、
決めるものとして、「科学コミュニケーション」
さらに広い意味での「学問コミュニケーション」があるわけです。
つまり、科学はこうした「社会の構造」を与える重要なものです。

ところが、現代では、こういう科学の構造が崩れてしまっている。
「科学コミュニケーション」が、「マスコミュニケーション」や
「経済コミュニケーション」に飲み込まれるような形になり、
本来の形で機能していないという状況として見ることができると思います。
だから、マイナスイオンでも、納豆問題でも、
非科学的な内容や捏造に、消費者が踊らされるとうことが起きる。
これが、「納豆問題」の原因になっている、
「科学コミュニケーション・システム」の
ひずみということができるでしょう。

つまり、こうした問題を解決していく上では、
次のようなことが必要になると思います。

a) まず、企業やマスコミが明らかに非科学的なデータを
不当に報道・宣伝に利用した場合、
民事上/刑事上の責任を負うような制度を確立するということです。
これは、現実的には、民事上の責任とは商品についての賠償責任、
刑事上の責任とは詐欺罪での立件であり、
基本的な枠組みはそろっていますが、
現実にはよほどひどい場合でないと機能しません。
こういったことを可能にする制度をつくるということです。
具体的には、(b)で掲げるシステムとの連携が必要になると思います。
ただし、これには「何が科学的なのか」という問題があり、
学問の自由を尊重する意味から、
「マイナスイオン」や「納豆問題」のように、
明らかに非科学的なもの、ねつ造と言えるものに、
限る必要はあります。

b) 科学者の社会的な活動に対して正当に評価するような仕組みを作ること
たこつぼ化した専門分野の研究論文でだけ、業績を評価するのではなく、
たとえば、「マイナスイオン効果がウソ」だと言うことを
社会に訴えた研究者を高く評価するような仕組みを作ることです。
この場合、(a)と連携した制度を作ることが理想ではないかと思います。

c) 科学者の社会的活動/研究活動に対しての責任を明確にすること。
これは基本的には、罰則等のない「専門家としての責任」
がメインになるわけですが、責任の範囲を明確にすることは必要です。
納豆問題へのテレビへの出演も、
「責任を持つ」ことがもっと明確にされていれば、
違った結果になったのではないでしょうか。
たとえば、間違った報道を権威づけることは、
論文のねつ造を同じか、それ以上の罪だという意識も必要だと思います。
場合によっては、マスコミと連帯して責任を負う制度も必要でしょう。

ただ、「科学コミュニケーション」の話を、
それだけで考えるとすると、納豆問題を考える上では、アンバランスです。
というのも、これはマスコミュニケーションの問題と
深くかかわっているものだからです。

(3) マスコミュニケーションの問題

さて、ここで「マスコミュニケーション・システム」について
考えていきたいと思います。

そもそも、コミュニケーション・システム(社会)というのは、
何らかの「メディア」によって成り立っています。
たとえば、公園でいつも話している仲良しグループだったら、
「公園という場」がメディアで、
それを媒介としてその社会が成り立っているでしょう。
私たち人間はこういった社会に参加しているとき、
「その社会では、
自分の考えはどうとらえられるか」という視点でものごとを考えます。
たとえば、公園でおしゃべりをしているママさんは、
自分の発言がそのグループでどう見られるかという視点で、
ものごとをとらえるようになるでしょう。

さて、「公園」のような場に、集まることができるのは、
ある限られた人数の人々です。
おそらく、人間の社会も初期の段階では、
こうやって一つの場で集まる人々が作る社会だったのではないかと思いますが、
もっと大きな集団が社会として成り立つためには、
たとえば、一つの物語、神話とか歴史…が
その社会で語られなければいけません。
こうした神話や歴史も、
その社会のメディアです。
こういった神話や歴史によって、
いわゆる人間の社会が生まれたと言うこともできるのです。

ただ、神話や歴史が言葉で語られている以上、
社会はあまり大きくはなれません。
そこで登場するのが「文字」などのメディアであり、
これによって、人間の社会は大きくその性質を変えていくことになります。
文字を初めとするコミュニケーションの手段を
持ち、それをコントロールすることは、
社会がある程度以上の大きさになり、国家として形を表すのに
必須のことだったと言えるでしょう。
私たちがものごとを考えるとき、
こうした文字など、情報を広く伝えることができる
メディアによるコミュニケーションを
自分の意識に含むような形で、ものごとを考えている。
こうした中で、現代の社会があるのです。

こうしたメディアはさまざまなレベルで成り立ちます。
たとえば、科学者のコミュニティは、
「論文」という形でのコミュニケーションをベースにして
ものごとを考えます。
また、ある程度以上に大きな組織を持つ会社では、
(ほとんど読まれないような社内誌だけではなく)
さまざまな文書が交わされるわけですが、
従業員はそこでの評価を基準にものごとを考えます。
このように、社会は、
さまざまなコミュニケーションが行われているわけですが、
ある程度以上に大きな社会では、
必ず文字や映像など、一対多のコミュニケーションを可能にする、
技術手段があり、それによって社会が成り立っていると考えることもできます。

さて、こうした中、現代の社会で「国」というレベルでの
コミュニケーションのメディアとして非常に重要なのが
マスコミュニケーション・メディア(マスメディア)、
つまり、テレビや新聞などのメディアだと言えるでしょう。
日本のような商業ベースの、マスメディアは、
「どうすれば視聴率が取れるか」ということを中心にした
コミュニケーション・システムです。
ところが、実際、私たちがとらえる世界像、
世界全体についての理解のかなりの部分は、
マスメディアに依存しています。
そして、こうしたマスメディアの見方を、
あたかも自分の視点の一部であるかのようにとらえています。
たとえば、ある事件についてマスメディアがある報道をすれば、
多くの人は、それをその通りに受け取るわけです。

こうしたマスメディアのあり方について、
政治はさまざまな形でコントロールしようとし、
政治的な話題についてはかなりコントロールされているのでしょうが、
実際には、完全にコントロールすることはできない。
ここに複雑な問題があります。
マスメディアの横暴を許すのは問題だが、
かといって、政治がそれをコントロールするとなると、
今度は政治の力が強くなりすぎるからです。
そういうことを踏まえて、現在の制度があり、
報道の自由が認められています。
ところが、実際には、マスメディアの方も
かなりめちゃくちゃのことをやっているわけです。
時には捏造報道をし、
戦争が始まればプロパガンダ報道に終始する。
最近だと、イラク戦争について、戦争中はほとんど批判をせず、
戦争が終わってからやっと冷静な報道が始まるのです。
そんなの、戦争の最中にやらなければ意味がないのに…。
しかも、そこにいる一人一人は悪意を持っているわけではなく、
ただ、「視聴率を取り、
利益を上げるためにはどうすれば良いか」を考えて、
精一杯努力している。
ごく普通のサラリーマンと同じです。
要するに、誰が悪いわけでもない。
いわば誰もコントロールすることのできない、
得体の知れない「絶対権力者」として
マスメディアが君臨しているような状況があります。
これが、「マスメディアの肥大化」という現状であり、
「マスコミュニケーション・システム」のひずみという現代社会の問題です。

現代の日本は、一応、民主主義が理念としてうたわれ、
国民が政治の主体だということになっている。
ここには、ある一つの前提があります。
それは、社会の中のさまざまな価値観が共存しながら、
全体として良い方向に向かっていくということです。
ところが、現在は、「マスメディア」が肥大化し、
他のものを凌駕するような存在になっています。
こうなると、民主主義というより、
マスメディア絶対主義です。
しかし、どうすることもできないのです。

では、どうすれば良いのか。
これだけ考えるとどうしようもないように思えますが、
必ずしもそうではありません。
どのようなコミュニケーション・システムにも、
自己統制のしくみがあり、
それがうまく働いていれば問題ないのです。
ところがマスコミュニケーション・システム、
特にテレビの場合、
それが全く働いていない。
これについて考えていけば、
とりあえず、「捏造」のような問題だけは解決することはできるでしょう。

ここで考えなければいけないのは、
日本における報道の匿名化という問題です。
今回の納豆問題で、かかわっていたテレビ局の担当者は、
いわばジャーナリストです。
ジャーナリストである新聞記者が同じようなねつ造をしたら、
新聞記者としてはやっていけなくなるでしょう。
ジャーナリストとしては退場するしかない。
ところが、批判の矢先に立っているのはテレビ局そのもので、
肝心の担当者ではないわけです。
それはたとえば、テレビ局の「お詫び」を見ても分かります。

http://www.ktv.co.jp/070120.html

また、報道を見ても、担当者の名前が出てこない。
これはなぜか。
一つは、視聴率を取れる番組を作れる人間は少ないから、
ほとぼりが冷めたころに復帰させたいということ、
もう一つは、下請け、孫請けが常態化しているテレビ制作では、
もともと責任という概念が明確ではないということです。
だから、番組の担当者は基本的に「匿名」だし、
納豆問題の責任も「テレビ局」が持つわけです。
こんな状況でモラルが守られると思う方が間違いです。
言ってみれば、今の日本のテレビは、
2ちゃんねると対して変わらない。
そういう意味で、2ちゃんねるが
「今までにないテレビのチャンネル」と言った意味合いを持つことは、
皮肉以外の何ものでもありません。
2ちゃんねるでは、多くの場合、
正しいものと間違っているものがともに提示され、
受け取る側が主体的に情報を選択することになるわけですが、
そういう意味では、テレビより2ちゃんねるの方が、
まだましとも言えるかも知れません。

これはもともと、一つ一つの番組で、
番組の責任者が前面に出てこないということとも関係しているでしょう。
ある番組があったときに、
これは、誰々の責任で出しているということが明確になっていればいいのに、
そういう仕組みになっていないのです。
こういった形では、視聴者も担当者の責任を問題にしづらいし、
テレビ局もうやむやにしてしまいがちです。
ここで、全ての番組において「責任者」を明確にし、
それを視聴者がいつもチェックしていれば、
かなり状況は変わるでしょう。
もちろん、下請け、孫請けの問題はあるでしょうが、
どこかで責任者を明確にすることくらいはできるはずです。
「こいつは、『あるある』で問題を起こした人間だから、信用できない」
というようなことがごく普通に言われるようになれば、
番組の担当者は、簡単にねつ造などを行わなくなると思うからです。

ここで、納豆問題に対しての一つの解決策が提示されます。
つまり、あらゆるテレビ番組について、
責任者の名前を明確にすることを義務づける。
もちろん、政治的ニュースなどで
情報源を秘匿しないといけないことはあるでしょうが、
それでも、局内の担当者を必ず明示するということです。
そして、不正をはたらいた担当者を厳格に処分し、
二度と復帰させることはしないという雰囲気作りも必要です。
もしも、復帰させたら
視聴者がチェックするというようなことも必要でしょう。

もちろん、これをすればただちに全ての問題がなくなるわけではありません。
ただ、「報道の自由」との関係を考えると、
特に政治に関する報道などで、
マスコミに対する規制を考えるのは、かなり無理があります。
そこで、今のところ思いつく唯一の方法が、
「担当者の明確化」ということです。
これは、法律レベルで行うこともできるし、
ある程度は市民の意識のレベルで広めていくこともできるのではないかと思います。
今回の納豆問題についても、担当者の名前をきちんと調べ、
それを周りに伝えていく。
それは、同じことを繰り返さないために必要なことではないかと思います。

ちなみに、この方法の有効性が明らかに高いと思われるのは、
「捏造」のような極端な話だけであり、
政治や経済がからむ多くの問題については、
抜本的解決にならないかもしれません。
というのも、マスコミュニケーションの肥大化という
現代社会の根本的な問題については、
この方法だけでは、解決できないからであり、
これについては別の形で議論する必要があるでしょう。
ただ、捏造以外の問題についても、
長い目で見てプラスの影響を及ぼすことは予想されると思います。

(4) まとめ

話が多岐にわたりましたが、
ここで、話を簡単にまとめたいと思います。

まず、納豆問題の全体は、
科学コミュニケーション、マスコミュニケーションという
二つのコミュニケーション・システムをめぐる、
「ひずみ」の問題として理解されるでしょう。
いずれのシステムも、
さまざまな要因で、
本来の形で機能していなくなっており、
今回の問題はその一つの現れに過ぎないということもできます。

では、どうすれば良いのでしょうか。
これについては、さまざまな観点からの解決策が提示されると思いますが、
この記事で挙げたのは、大きく分けて次の3点と言えるでしょう。

(1) 企業やマスコミが、「明らかに」非科学的な内容の報道・発表をしたときの民事・刑事上の責任を明確にする(商品の代金払い戻し、詐欺罪での積極的立件等)。
(2) 科学者の社会に対する責任を明確にするとともに、社会に対する貢献を正当に評価するようなシステムを作る。
(3) 全てのテレビ番組について局内の責任者を明確にし、それを番組で明示する。また、不祥事の際には、当該の責任者の厳格な処分を行う。

今回の問題は、実害もほとんどなく、比較的小さな問題だったわけですが、
表面的な問題として理解するのではなく、
こうした、科学の問題、
マスコミュニケーションについての
根本的な問題としてとらえていくことが、
大切ではないでしょうか。

参考サイト(ニュース)
livedoor News 「あるある大辞典」納豆問題に、庶民は怒り心頭に発す状態!
http://news.livedoor.com/article/detail/2983471/
exciteニュース<番組ねつ造>制作受注会社、他テレビ局でも問題に
http://www.excite.co.jp/News/society/20070121030100/20070121M40.110.html

参考サイト(ブログ)
平成納豆事件の結末 (5号館のつぶやき)
http://shinka3.exblog.jp/pg/blog.asp?eid=c0025115&iid=&acv=&dif=&opt=2&srl=5341289&dte=2007%2D01%2D22+00%3A36%3A19%2E000

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コメント

 トラックバックありがとうございました。力作(!)ですね。今回の事件を、私なりに振り返ってみると、科学者としての責任がかなり大きいと感じます。安易にコメントを使わせてしまったり、明らかな間違いを放置したり、ということに関してこのままではいけないと強く感じているところです。

投稿: 5号館のつぶやき | 2007/01/23 22:39:54

学問的な権威を自分自身が持ったことはないですが、
自分ももともと理系で研究をしていた人間なので、
いろいろ考えさせられる事件でした。
「科学コミュニケーター」のような制度との関連でも、
今後、もっと注目されて良い問題ではないかと思っています。

投稿: 情報学ブログ | 2007/01/24 11:06:25

 トラックバックありがとうございます。科学者の責任という視点についてはとても面白いとは思いつつ、この納豆問題に関しては、事件後に、なぜか納豆バッシングが起きるという非論理的な反動を考えても、その多くはマスメディア、とくに、民放各局のモラルハザードという問題に還元されるのではないかと思っています。私は、映像制作の現場を多少知っておりますが、眠る暇もなく、人気番組のプレッシャーを背負いながら、半永久的に番組を制作し続けていかなくてはならない現場の人間に、マスメディアとしてのモラル維持を強いるのは、いささか酷な気もしているのです。給料も安いし、自らの仕事を俯瞰する余裕などまるでありません。
 そういう観点から言うと、やはり、大元のフジテレビ・関西テレビの監督責任というのが、スポンサー・視聴率偏重の姿勢と共に徹底的に批判されていかなくてはいけないと考えます。とはいえ、今の民放に、謙虚さやモラルの自主的回復を期待するのは甚だ心許ないので、第三者的な監督機関の設立及び、強化というのが自分の考える、具体的な対応策候補です。投書は、直接民法に投げても意味がないので、そうした機関に集約し、査察受け入れ義務を負わせる。それくらいしないと、既得権益にあぐらをかく民放の手綱をしめるのは難しいのではないでしょうか。

投稿: 思い出は身に残り | 2007/01/26 18:13:49

一般的に言うと、何か問題を起こしたときに具体的に責任を負って、復帰できなくなるような人がいて、しかもその人が、実際に現場で権限を持って仕事をするような状況にしなければ、モラルは実効性を持たないと思います。どんな立派な監督組織があっても、現場の人がしばらく批判されて意識なら、視聴率という蜜には勝てないでしょう。

「テレビ局」が責任を取ると言うなら、最低限トップの辞任は必須でしょうが、トップに責任を押しつけるとすると、「トップのすげ替え」で終わってしまうのではないかと思います。むしろ現場レベルでの責任者を明確にするということが重要でしょう。

映像現場の状況は漏れ聞いているつもりです。ただ、そういう状況を変えていかないと、こういった問題は絶対になくならないと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2007/01/27 10:51:46

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