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2007年1月

あるある捏造の次は、NHKのためしてガッテン―科学番組は捏造が常識

今、科学番組と言われているものは、ほとんどが「事実上」の捏造です。もしも、日本のマスコミに自浄能力というのが多少あるなら、「あるある大事典」の次は、NHKの「ためしてガッテン」の問題が指摘されるはずでしょう。あれも、それなりの科学教育を受けた人間からすれば、めちゃくちゃなものなのです。

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この記事は、あるあるの問題が起きた直後に書いたものです。週刊現代の報道については、あらためて以下の記事で書いたので、合わせて読んでいただければと思います。

ためしてガッテンの捏造報道について―NHK側の反論を再検討する
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/nhk_be5c.html

/////

正直言って、私は特別な情報を持っているわけではありません。
データそのものの捏造に限って言えば、分からないとして言いようがありません。
しかし、ためしてガッテンのホームページを見れば、
その中に基本的な科学の手続きを踏んでおらず、
明らかに非科学的なものが含まれていることが分かります。
これは、追加調査が必要とかそういう話ではなく、
やり方自体が非科学的でおかしいということなのです。
(詳しくは末尾の参考サイト参照)

科学技術コミュニケーションに関わっている友人に、
この話をしたら、
「ああいうのを通して科学への関心が増えればいいんじゃないの?」
という答えで、
返答に窮したことがありました。
あれが捏造番組であることは、自分を含め、
大学でまともな科学の教育を受けた人間からすると常識なのです。
捏造報道が繰り返される理由の、
かなりの部分は、こうした科学者の側の無関心さに
あると言って間違いないでしょう。

捏造科学番組の権威付けに利用されている科学者の無責任さを考えても、
やはりこの問題は、科学者の側の責任とも無縁ではないのです。

いずれにせよ、今回の問題を機会にこうした
捏造体質の科学番組が是正されることを願ってやみません。
今ごろ、NHKの担当者はどんな気持ちで過ごしているのでしょうか。

ただ、「あるある」との違いとして、
「データそのものの捏造」というのはあるかもしれません。
データの捏造がなければ、科学に詳しくない一般の人は、
「そういうものじゃないか」と思ってしまうかもしれないからです。
視聴者を騙してることには、全く変わらないのですが…。
これについては、もう少し見守りたいと思います。

/////

ちなみに、今回の記事では、「科学の問題」について絞って書きましたが、
この問題はマスコミの問題でもあります。
マスコミの問題としての最大の要因は、
現場の担当者の名前が出てこないこと。
局側としては「視聴率の取れる担当者」は
温存しておきたいという意図が見え見えです。
要するにテレビ局としては本気で
捏造をやめる気などさらさらない。
これでは同じ問題は絶対になくならないでしょう。
また、これとは別に、科学者の責任という観点からも考えることができます。

これについては別の記事にしたので、こちらをご覧ください。

重要 あるある大事典の捏造報道、本当は何が問題か?―担当者の名前が表に出てこないという謎
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_795f.html
重要 あるある大事典―捏造にかかわった大学教授の責任も問うべきでは?
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_70a2.html

また、こういった「マスコミの問題」と、
捏造を許す「科学の問題」の両方について、
細かい話は、すでに、別の記事で書いたので、
興味を持っていただいた方は、こちらもご覧ください
(長文なのでポイントを短くまとめたのが、この記事です。)

重要 「納豆問題の分析と提言―科学とマスコミの問題として」
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_325b.html

○追記(4/8)

公平のために、知り合いが「ためしてガッテン」の担当者から聞いたという、NHK側の見解を付記しておくと、「ためしてガッテン」は科学番組ではなくて娯楽番組であり、番組中でも「科学的に立証された」ということは一切言ってないということです。

たしかにそうなのかもしれません。しかし、本当に視聴者がそんなふうに「正しい解釈をする」と思っているのでしょうか。そう解釈されないと分かって、そうした番組を放映しているとしたら、結局のところ説明責任の問題は問われることになるでしょう。せめて番組中で「この番組は娯楽番組であり、実験の結論は科学的に立証されたものではありません」というようなテロップを流すべきではないでしょうか。

いずれにせよ、総合的に見て、NHKは他の放送局と比べて良心的ということは言えるかもしれません。ただ、本来、決してほめられるものではないNHKの態度が、良心的だと言えるような状況は、どう考えても問題ではないかと思います。

○参考

科学番組の問題について科学的視点から解説したサイト。
科学に詳しくない人向けとしては、
一つめの解説がとても分かりやすいと思います。
もし、NHKよりの人が、「ひどいこと書いているブログだ」と思うのなら、
まずは、これを読んでいただきたいと思います。

科学番組全般について
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/8404/sono24.htm

「あるある」について
http://homepage1.nifty.com/sagi/aruaru.html
http://www6.ocn.ne.jp/~syuneido/aruaru.html

ためしてガッテンと関連するもの
http://www.mynewsjapan.com/kobetsu.jsp?sn=563
http://www.j-cast.com/2007/01/30005213.html

○関連ブログ
あるあるも問題だけど……
http://powerbook.livedoor.biz/archives/50839332.html

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あるある大事典の捏造報道、本当は何が問題か?―担当者の名前が表に出てこないという謎

今回の問題で一番不思議なのは、現場の担当者の名前が出てこないこと。局側としては「視聴率の取れる担当者」は温存しておきたいという意図が見え見えです。要するにテレビ局としては本気で捏造をやめる気などさらさらない。これでは同じ問題は絶対になくならないでしょう。

どんな新聞でも雑誌でも、
捏造が行われたら、担当したジャーナリストの名前が報道され、
少なくとも表立ってジャーナリストとして
活動できなくなるのが当たり前でしょう。
ところが、今回の問題では、
どう調べても担当者の名前が分かりません。

関西テレビのHPでも、処分について書かれていたのですが、
具体名が挙がっているのは上層幹部のみで、
現場の担当者の名前は一切公表されていませんでした。
http://www.ktv.co.jp/070120.html

これでは、現場の担当者に、「捏造をやめよう」と
圧力がかかるはずがありません。
あくまで予想ですが、おそらく、
視聴率の取れる現場の担当者は温存して起きたいため、
責任を負わせたくないのでしょう。
つまり、捏造をしてでも視聴率を取るという体質を
本気で、あらためる気はさらさらないということなのです。

たしかに、下請け、孫請けなどで、現場の担当者が、
責任を負いようがない状況があるのは知っています。
しかし、この状況そのものを変えない限り、
どんなに立派な評価委員会などを作っても、
「捏造体質」のテレビ局は、いつまでたっても変わらないでしょう。

////

ちなみに、話は変わりますが、
今、科学番組と言われているものは、
ほとんどが「事実上」の捏造です。
もしも、日本のマスコミに自浄能力というのが多少あるなら、
「あるある大事典」の次は、
NHKの「ためしてガッテン」の問題が指摘されるはずでしょう。
あれも、それなりの科学教育を受けた人間からすれば、
めちゃくちゃなものなのです。

こうした科学の方の問題については、別の記事に分けたので、
こちらをご覧ください。

重要 あるある捏造の次は、NHKのためしてガッテン―科学番組は捏造が常識
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/nhk_8714.html
重要 あるある大事典―捏造にかかわった大学教授の責任も問うべきでは?
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_70a2.html

また、こういった「マスコミの問題」と、
捏造を許す「科学の問題」の両方について、
細かい話は、すでに、別の記事で書いたので、
興味を持っていただいた方は、こちらもご覧ください
(長文なのでポイントを短くまとめたのが、この記事です。)

重要 「納豆問題の分析と提言―科学とマスコミの問題として」
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_325b.html

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女は出産する機械(続)―国家の成立と機械としての人間

柳沢氏に対する報道やブログを見ていると「女性は機械なんてひどい!」というものと、「たとえとして言ったのだからしょうがない」という主張がほとんどです。しかし、どちらも問題の本質をとらえていないのではないのでしょうか。こういう立場からこの問題について考えたいと思います。

「人間が機械」という考え方は、
近代国家の成立と同じくらい深いものです。
というのも、経済や人口について議論するとき、
みんな労働する機械、戦争に行く機械、
そして、出産する機械なわけです。
機械だと考えないと、経済についての議論ができない。
そういう意味で、「女性は機械で何が悪いの?」などと言う人の
意見もある意味もっともだと思います。
そういう人は経済学的視点を持っているわけです。

ところが、少子化や女性の問題に関しては、ちょっと話が複雑です。
というのも、こういう問題については、
ずっと、「女性が機械になってしまう」ということの
問題が強く指摘されてきたからです。
実際、働いたり結婚したりしている大人の女性なら、(*1)
「自分がまるで機械のように扱われている」と感じたことがある人は
少なくないでしょう。
そして、こういう現状こそが、「子供を産もうと思えない」原因であり、
少子化の原因だということがずっと言われてきました。
要するに、少子化問題について考えるとき、
「女性が機械でないようにするためにはどうすれば良いか」を
考えるのが国の役割であるということです。(*2)
これは、この問題について理解している人にとっては、
半ば常識みたいになっていました。

だから、「女性は機械」という発言を聞いて、
激しく反発した女性が多いのももっともだし、
柳沢氏の能力に問題があるというのももっともなのです。
これは、一つに、柳沢氏が、女性たちが、
日常的に「機械として扱われている」と感じているということを
理解していなかったという問題だし、
もう一つは、少子化政策の常識である、
「女性が機械として扱われないような政策をしないといけない」
という意識を持っていなかったという問題だと言えるでしょう。

要するに、「人間は機械」というのは、
少子化や雇用に考える上では、どうしてもそうなってしまう見方で、
だからこそ、厚生労働大臣のような人は、
そういうことに、一番、神経質でなければいけないのです。
ところが、柳沢氏はなんとなく、
「女性を機械とすると…」みたいなことを言ってしまったわけで、
これでは、批判されるのも当然でしょう。

ついでに言っておくと、
安倍政権の政策の全体を考えると、
あの発言が本当に「何となく」言われた「失言」だったかも疑問でしょう。
というのも、安倍首相は、
従来、現在、日本では国民の権利が尊重されすぎていて、
愛国心がおろそかにされているということを問題にしている人です。
極端に言えば、「人間は機械のように国に尽くせ」と言っているわけです。
そういう政治の流れからすると、柳沢氏があのような発言をしたのも、
安倍首相が当初、それを擁護したのも、当然のことと言えるかもしれません。
「女性は機械」発言は、こういう問題のごく一部に過ぎないわけです。

マスコミの報道やネットの発言などを見ていると、
ほとんどは、「女性は機械なんてひどい!」という発言と、
「たとえとして言ったのだから気にすることではない」という発言の
どちらかだと思います。
これはある意味どちらも正しいわけですが、
こういう表面的な議論をしていては、
話は平行線になるだけでしょう。

マスコミや野党が一番問題にするべきなのは、
こうして
「機械に、人間が機械のようになってしまう」という現実であるのに、
そのことが全く指摘されておらず、
ただ、表面的な議論だけが繰り返されているのです。
実は、一番の問題は柳沢氏の発言ではなく、
こうした政治の状況の全体なのかもしれません。

 

*1
そういう意味で、タレントの西川史子氏や眞鍋かをり氏が、「女性は機械」発言の問題を理解できないのもうなずけます。
http://www.j-cast.com/2007/02/05005333.html
(橋下徹弁護士 「柳沢擁護」に熱弁)

以下、無駄にリンク^^;
http://manabekawori.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_21d4.html
(言いまつがい/眞鍋かをりのここだけの話)

*2
本文では、「女性が機械として扱われないような政策」が具体的にどのようなものかについて触れませんでしたが、要するに、「頑張ってもらうしかない」ではなく、「頑張らなくても良い社会を作る」ことが大切だということです。詳しくは、以下のブログに譲ります。
http://punigo.jugem.jp/?eid=279
(「産む機械発言」だけが問題じゃないんだよ、柳沢さん…。)

○関連記事

この記事と近い内容を、「柳沢氏への質問」としてまとめたものです。

女は機械、問題の本質は何か―柳沢氏への質問マニュアルを特別掲載!!
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_ebfd.html

○追記

この記事は、2/14に全面的に書き換えました。

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給食費滞納の取り上げられ方

いや言ってること分かりますよ。こういう問題もどうにかしないといけません。だけど、一つの設備の談合で無駄になる金が22億円とか余裕で超えて、それが誰かの懐に入ったりするわけですよ。やはり、教育基本法がらみの、プロパガンダ?最近のマスコミでの取り上げられ方を見ていると、ちょっと騒ぎすぎではって気もします。

履修不足の話もこのブログで取り上げましたが、
最近、ニュースを見ていると、
言ってることが正しくても、
取り上げられ方がおかしいと思うことが多い。

給食費滞納を取り上げるのを
弱い者いじめと言うつもりはないですよ。
たしかに、払わないといけない。
しかし、こういう細かい問題っていうのは、
日本にたくさんあるわけです。

未納率は1%以下だそうですが、
これは、公共料金の未納率や、銀行の融資の貸し倒れ率と比べても
かなり低いそうです。(末尾の参考サイト『五号館のつぶやき』参照)
一般的に言って、支払いがあるところ、どこにでも未納はあります。
意図的に数百億円借りておいて、わざと倒産するような会社がある中、
22億円の給食費未納は、わざわざ報道するようなことなのでしょうか?
巨悪を放置して、こういうのを袋だたきにする。
そういうセンスって、どうかと思うんですよね。

これも、履修不足の問題と同じで、
教育基本法がらみのプロパガンダなのでしょうか。

美しい国、国民が心から愛せるような日本になってほしいという気持ちは、
誰もが共通して持っているのではないかと思いますが、
最近の日本は、それと反対方向に進んでいるようにしか思えません。

ちなみに、給食費の滞納そのものが、
きちんと解決していかないといけない問題であることには変わりません。
モラルの低下が原因だとしたら、これはこれで問題です。
いずれにせよ、一つ一つの問題をとらえるのも大事だけど、
いつもその外側の視点、
もっと広い視点を持たないといけないということの
例ではないかと思います。

○関連記事

履修不足問題の本当の話(1/2)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=328141745&owner_id=1219594

○関連ブログ

給食費滞納?(『ひとすくいの水』より)
http://blog.so-net.ne.jp/bjork_love/2007-01-27
「親たたき」としての給食費未納問題(『5号館のつぶやき』より)
http://shinka3.exblog.jp/5382847/

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女は出産する機械だって―言葉と教養の大切さ

柳沢厚労相の発言が問題になっているそうです。要するに「失言」であるわけですが、「言葉」を大切にすること、「教養」を持つこと。こういったことを教えられた気がしました。今日の日記では、メタファーを使うということ、言葉を使うことについて、ちょっとした例を出しながら考えていきたいと思います。

/////

この記事は、以下の記事に書き直させてもらいましたので、今後は、こちらを読んでいただければと思います。

女は出産する機械(続)―国家の成立と機械としての人間
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_3a2d.html

 

/////

柳沢厚生労働相が、

> 産む機械、装置の数は決まっているから、
> 機械と言うのは何だけど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかないと思う

と述べたらしい。
まぁ、「たとえ(メタファー)」というのは意味が伝われば
良いという考え方もあるわけだから、
「機械」という言葉で伝えようとしたことも分かります。
ただ、現代の日本では、
「言ってはいけない言葉」っていうのがあるわけで、
そういうのに触れてしまっわけです。

たとえば、ある政治家が日本で、

「このホールにいる私たちはみんな親から産み落とされたものでしょう。
そう、みんなウンコみたいなもんですよ。」

なんて言ったら、ジョークですみます。
だれも本気でそんなこと考える人いないから、
単なるメタファーですむわけです。
まぁ、不快になる人はいるでしょうが、政治的問題に発展することはない。
しかし、実際に「ウンコ」みたいに扱われていると感じていたり、
そう呼ばれているような人々の前で、
同じことを言ったら、政治的問題どころではすまないでしょう。

「女性は機械」という見方は、
昔から問題にされているもので、
いわばフェミニズムの核心に触れるマジックワードです。
しかも、少子化政策そのものを話題にする講演で、
そんなこと言っちゃったら、まずいですよね。
だから、言った内容ではなく、「たとえ」の方で批判されるのです。

言葉には気をつけないといけないということ。
教養を持つことの大切さを教えられた気がします。

・追記

フェミニズムとの関連が分かりづらかったようなので、
補足記事を書きました。

女は出産する機械(続)―国家の成立と機械としての人間
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_3a2d.html

関連ニュース

新聞社同士で比較するとおもしろいですね。
全然違う印象に感じられます。

> 少子化対策にかかわる閣僚による、
> 女性を「出産する機械」とも例える発言だけに、
> 今後批判を強く受けそうだ。(毎日新聞)
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20070128k0000m010094000c.html

>厚労相はその場ですぐに「機械と言ってごめんなさい」などと謝罪。
>「産む役目の人」と言い直した(日本経済新聞)
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070128AT3S2700Y27012007.html

関連ブログ
メディアリテラシー(『軋んだ欠片』より)
http://ameblo.jp/hy-ooltcloud/entry-10024385265.html
失言は深層心理が現れたもの(『野球と株と音楽と呑日記 』より)
http://plaza.rakuten.co.jp/gumnut/diary/200701280000

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納豆問題の分析と提言―科学とマスコミの問題として

納豆問題が話題ですが、今回の事件は氷山の一角。これは科学とマスコミの両方が社会に対して責任を果たしていないという根本的な問題だと思います。テレビに出演した教授は責任を取らなくて良いの?同じような事件をなくすためにはどうすれば良いの?今日はこういった問題について考えていきます。

結論として以下のことを提示します。

(1) 企業やマスコミが、「明らかに」非科学的な内容の報道・発表をしたときの民事・刑事上の責任を明確にする(商品の代金払い戻し、詐欺罪での積極的立件等)。
(2) 科学者の社会に対する責任を明確にするとともに、社会に対する貢献を正当に評価するようなシステムを作る。
(3) 全てのテレビ番組について局内の責任者を明確にし、それを番組で明示する。また、不祥事の際には、当該の責任者の厳格な処分を行う。

詳しくは以下をご覧ください。

(追記
この記事が長文になってしまったこともあり、内容の一部を短くまとめたものを作ったので、
合わせて読んでいただければと思います。
この記事は、問題発覚直後に書いたものであるため、
以下の記事で、初めてフォローしているニュース・記事もありますが、
ほとんどの論点はこの記事で言い尽くされていると思います。)

あるある大事典―捏造にかかわった大学教授の責任も問うべきでは?
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_70a2.html
あるある捏造の次は、NHKのためしてガッテン―科学番組は捏造が常識
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/nhk_8714.html
あるある大事典の捏造報道、本当は何が問題か?―担当者の名前が表に出てこないという謎
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_795f.html )

/////

(1) 社会はコミュニケーションのシステム

フジ系列で放映された『発掘!あるある大辞典II』で、
「納豆がダイエットに効く」と虚偽の報道をしたことが話題になっています。
事件の詳細は、ニュースや他のブログに譲るとして(*1)、
今回の問題は、どういうことを背景に怒ったことなのか、
あるいは、今回の問題が、社会全体にどのような影響を与えるものなのか、
ということに考えることにしましょう。

情報学は「情報」を扱う学問ですが、
社会の「コミュニケーション」も情報の一種です。
そして、情報学では、社会(コミュニケーション・システム)を、
コミュニケーションという情報のつながりとして考えます。
たとえば、2人の人が会話するときに作るコミュニケーションのつながり、
家族や地域でのコミュニケーションのつながりは、
コミュニケーション・システムです。
また、あるトピック(話題)についてのコミュニケーションのつながりや、
ある基準に基づいて行われるコミュニケーションのつながりも、
コミュニケーション・システムと言うことができます。

このように考えると、
「納豆問題」は、2つの立場から考えることができます。
一つは、科学が本来の形で機能していないという、
科学コミュニケーション・システムの問題、
そしてもう一つは、社会全体の中で、マスコミュニケーションが肥大化し、
社会全体を支配するかのようになっている一方、
そこにかかわる人は実質的に匿名化、2ちゃんねる化しているという、、
マスコミュニケーション・システムの問題です。

(2) 科学コミュニケーションの問題

今回の問題で特徴的なのは、
虚偽の報道が「科学」の権威によって基礎づけられていたということです。
つまり、消費者からすれば、「科学的」だと思って信頼していたことが、
裏切られたという構図になっているわけです。

同じようなことは過去にもありました。
その中でも特に有名なものが、「マイナスイオン効果」でしょう。
一時期、多くの商品の宣伝に使われていた効果ですが、
まともに理系の教育を受けたことがある人間なら、
信じるはずがないような、バカらしいもので、
すでに行政指導等で、表示が取りやめになっています。
ところが、こういったことが「科学的」と誤解されて、
商品の宣伝に使われていたのです。

もともと、「マイナスイオン効果」を
最初に言い出したのも「あるある」だったそうですが、
これはテレビ局のせいだけにするわけにはいかないでしょう。
家電各社も、独自のデータに基づいて宣伝をしていたからです。
ところが、こちらについては、いまだに誰も処分されていません。
納豆事件とは比べものにならないほどの、
巨額の金額が動いたはずなのに、
誰も責任を取らないまま終わってしまったわけです。

要するに、今の日本では、科学的に明らかにおかしいことを、
科学的だと言って報道したり、
商品宣伝に使っても、誰も文句が言わない。
また、それに対する歯止めがほとんど効かない状態なのです。
この背景には、2つの問題があります。

一つめは、企業やマスコミ側が、
科学を「売上げを伸ばす/視聴率を稼ぐための道具」としてしか見ず、
「何が正しいか」という科学の基本的な姿勢を、
全く尊重していないということです。
科学を道具として見ていないから、
それがねつ造だろうと、迷信だろうとかまわない。
それで、商品が売れたり、
視聴率が上がれば良いという発想になっているわけです。

そして、もう一つが、
科学者の側の専門化であり、
科学の社会に対する影響への無関心です。
「マイナスイオン効果」がこれほどまでに
広く商品宣伝に使われた原因としては、
関連する分野の科学者が「バカらしい話だ」として相手にせず、
公の場では疑問すら提出しなかったこともあるでしょう。
多くの科学者は、
自分の研究分野で新しい論文を書くことにしか関心がなく、
社会でおかしなことが言われていても、
それに対して発言をしようとしない。
今回の納豆問題でも、大学の教授が出演して、
番組の権威付けに使われていたわけですが、
出演した本人に、権威付けに使われているという意識が全くない。
これは科学者としてあまりにも無責任な態度です。
どうも「知らなかった」で許される流れになっているようですが、
本来、こういう場で、科学者の責任を追及するようにしなければ、
長い目で見て、何も変わらないのではないでしょうか。
こういった科学者の側の問題のために、
企業やマスコミが、
科学を「売上げを伸ばす/視聴率を稼ぐための道具」
としてしか見ないという事態が冗長されてきているわけです。

さて、情報学的に考えると、科学コミュニケーション・システムは、
社会(コミュニケーション・システム)全体の
「構造」だと考えることができます。
社会にとって、「何が正しく、何が間違っている」ということは、
確実には分からず、常に「何が正しいか」ということが見直されながら、
社会が成り立っています。
ところが、全てが「正しいかどうか分からない」のであれば、
社会はあまりにも混乱してしまう。
そこで、一応、「これが正しく、これが間違っている」ということを、
決めるものとして、「科学コミュニケーション」
さらに広い意味での「学問コミュニケーション」があるわけです。
つまり、科学はこうした「社会の構造」を与える重要なものです。

ところが、現代では、こういう科学の構造が崩れてしまっている。
「科学コミュニケーション」が、「マスコミュニケーション」や
「経済コミュニケーション」に飲み込まれるような形になり、
本来の形で機能していないという状況として見ることができると思います。
だから、マイナスイオンでも、納豆問題でも、
非科学的な内容や捏造に、消費者が踊らされるとうことが起きる。
これが、「納豆問題」の原因になっている、
「科学コミュニケーション・システム」の
ひずみということができるでしょう。

つまり、こうした問題を解決していく上では、
次のようなことが必要になると思います。

a) まず、企業やマスコミが明らかに非科学的なデータを
不当に報道・宣伝に利用した場合、
民事上/刑事上の責任を負うような制度を確立するということです。
これは、現実的には、民事上の責任とは商品についての賠償責任、
刑事上の責任とは詐欺罪での立件であり、
基本的な枠組みはそろっていますが、
現実にはよほどひどい場合でないと機能しません。
こういったことを可能にする制度をつくるということです。
具体的には、(b)で掲げるシステムとの連携が必要になると思います。
ただし、これには「何が科学的なのか」という問題があり、
学問の自由を尊重する意味から、
「マイナスイオン」や「納豆問題」のように、
明らかに非科学的なもの、ねつ造と言えるものに、
限る必要はあります。

b) 科学者の社会的な活動に対して正当に評価するような仕組みを作ること
たこつぼ化した専門分野の研究論文でだけ、業績を評価するのではなく、
たとえば、「マイナスイオン効果がウソ」だと言うことを
社会に訴えた研究者を高く評価するような仕組みを作ることです。
この場合、(a)と連携した制度を作ることが理想ではないかと思います。

c) 科学者の社会的活動/研究活動に対しての責任を明確にすること。
これは基本的には、罰則等のない「専門家としての責任」
がメインになるわけですが、責任の範囲を明確にすることは必要です。
納豆問題へのテレビへの出演も、
「責任を持つ」ことがもっと明確にされていれば、
違った結果になったのではないでしょうか。
たとえば、間違った報道を権威づけることは、
論文のねつ造を同じか、それ以上の罪だという意識も必要だと思います。
場合によっては、マスコミと連帯して責任を負う制度も必要でしょう。

ただ、「科学コミュニケーション」の話を、
それだけで考えるとすると、納豆問題を考える上では、アンバランスです。
というのも、これはマスコミュニケーションの問題と
深くかかわっているものだからです。

(3) マスコミュニケーションの問題

さて、ここで「マスコミュニケーション・システム」について
考えていきたいと思います。

そもそも、コミュニケーション・システム(社会)というのは、
何らかの「メディア」によって成り立っています。
たとえば、公園でいつも話している仲良しグループだったら、
「公園という場」がメディアで、
それを媒介としてその社会が成り立っているでしょう。
私たち人間はこういった社会に参加しているとき、
「その社会では、
自分の考えはどうとらえられるか」という視点でものごとを考えます。
たとえば、公園でおしゃべりをしているママさんは、
自分の発言がそのグループでどう見られるかという視点で、
ものごとをとらえるようになるでしょう。

さて、「公園」のような場に、集まることができるのは、
ある限られた人数の人々です。
おそらく、人間の社会も初期の段階では、
こうやって一つの場で集まる人々が作る社会だったのではないかと思いますが、
もっと大きな集団が社会として成り立つためには、
たとえば、一つの物語、神話とか歴史…が
その社会で語られなければいけません。
こうした神話や歴史も、
その社会のメディアです。
こういった神話や歴史によって、
いわゆる人間の社会が生まれたと言うこともできるのです。

ただ、神話や歴史が言葉で語られている以上、
社会はあまり大きくはなれません。
そこで登場するのが「文字」などのメディアであり、
これによって、人間の社会は大きくその性質を変えていくことになります。
文字を初めとするコミュニケーションの手段を
持ち、それをコントロールすることは、
社会がある程度以上の大きさになり、国家として形を表すのに
必須のことだったと言えるでしょう。
私たちがものごとを考えるとき、
こうした文字など、情報を広く伝えることができる
メディアによるコミュニケーションを
自分の意識に含むような形で、ものごとを考えている。
こうした中で、現代の社会があるのです。

こうしたメディアはさまざまなレベルで成り立ちます。
たとえば、科学者のコミュニティは、
「論文」という形でのコミュニケーションをベースにして
ものごとを考えます。
また、ある程度以上に大きな組織を持つ会社では、
(ほとんど読まれないような社内誌だけではなく)
さまざまな文書が交わされるわけですが、
従業員はそこでの評価を基準にものごとを考えます。
このように、社会は、
さまざまなコミュニケーションが行われているわけですが、
ある程度以上に大きな社会では、
必ず文字や映像など、一対多のコミュニケーションを可能にする、
技術手段があり、それによって社会が成り立っていると考えることもできます。

さて、こうした中、現代の社会で「国」というレベルでの
コミュニケーションのメディアとして非常に重要なのが
マスコミュニケーション・メディア(マスメディア)、
つまり、テレビや新聞などのメディアだと言えるでしょう。
日本のような商業ベースの、マスメディアは、
「どうすれば視聴率が取れるか」ということを中心にした
コミュニケーション・システムです。
ところが、実際、私たちがとらえる世界像、
世界全体についての理解のかなりの部分は、
マスメディアに依存しています。
そして、こうしたマスメディアの見方を、
あたかも自分の視点の一部であるかのようにとらえています。
たとえば、ある事件についてマスメディアがある報道をすれば、
多くの人は、それをその通りに受け取るわけです。

こうしたマスメディアのあり方について、
政治はさまざまな形でコントロールしようとし、
政治的な話題についてはかなりコントロールされているのでしょうが、
実際には、完全にコントロールすることはできない。
ここに複雑な問題があります。
マスメディアの横暴を許すのは問題だが、
かといって、政治がそれをコントロールするとなると、
今度は政治の力が強くなりすぎるからです。
そういうことを踏まえて、現在の制度があり、
報道の自由が認められています。
ところが、実際には、マスメディアの方も
かなりめちゃくちゃのことをやっているわけです。
時には捏造報道をし、
戦争が始まればプロパガンダ報道に終始する。
最近だと、イラク戦争について、戦争中はほとんど批判をせず、
戦争が終わってからやっと冷静な報道が始まるのです。
そんなの、戦争の最中にやらなければ意味がないのに…。
しかも、そこにいる一人一人は悪意を持っているわけではなく、
ただ、「視聴率を取り、
利益を上げるためにはどうすれば良いか」を考えて、
精一杯努力している。
ごく普通のサラリーマンと同じです。
要するに、誰が悪いわけでもない。
いわば誰もコントロールすることのできない、
得体の知れない「絶対権力者」として
マスメディアが君臨しているような状況があります。
これが、「マスメディアの肥大化」という現状であり、
「マスコミュニケーション・システム」のひずみという現代社会の問題です。

現代の日本は、一応、民主主義が理念としてうたわれ、
国民が政治の主体だということになっている。
ここには、ある一つの前提があります。
それは、社会の中のさまざまな価値観が共存しながら、
全体として良い方向に向かっていくということです。
ところが、現在は、「マスメディア」が肥大化し、
他のものを凌駕するような存在になっています。
こうなると、民主主義というより、
マスメディア絶対主義です。
しかし、どうすることもできないのです。

では、どうすれば良いのか。
これだけ考えるとどうしようもないように思えますが、
必ずしもそうではありません。
どのようなコミュニケーション・システムにも、
自己統制のしくみがあり、
それがうまく働いていれば問題ないのです。
ところがマスコミュニケーション・システム、
特にテレビの場合、
それが全く働いていない。
これについて考えていけば、
とりあえず、「捏造」のような問題だけは解決することはできるでしょう。

ここで考えなければいけないのは、
日本における報道の匿名化という問題です。
今回の納豆問題で、かかわっていたテレビ局の担当者は、
いわばジャーナリストです。
ジャーナリストである新聞記者が同じようなねつ造をしたら、
新聞記者としてはやっていけなくなるでしょう。
ジャーナリストとしては退場するしかない。
ところが、批判の矢先に立っているのはテレビ局そのもので、
肝心の担当者ではないわけです。
それはたとえば、テレビ局の「お詫び」を見ても分かります。

http://www.ktv.co.jp/070120.html

また、報道を見ても、担当者の名前が出てこない。
これはなぜか。
一つは、視聴率を取れる番組を作れる人間は少ないから、
ほとぼりが冷めたころに復帰させたいということ、
もう一つは、下請け、孫請けが常態化しているテレビ制作では、
もともと責任という概念が明確ではないということです。
だから、番組の担当者は基本的に「匿名」だし、
納豆問題の責任も「テレビ局」が持つわけです。
こんな状況でモラルが守られると思う方が間違いです。
言ってみれば、今の日本のテレビは、
2ちゃんねると対して変わらない。
そういう意味で、2ちゃんねるが
「今までにないテレビのチャンネル」と言った意味合いを持つことは、
皮肉以外の何ものでもありません。
2ちゃんねるでは、多くの場合、
正しいものと間違っているものがともに提示され、
受け取る側が主体的に情報を選択することになるわけですが、
そういう意味では、テレビより2ちゃんねるの方が、
まだましとも言えるかも知れません。

これはもともと、一つ一つの番組で、
番組の責任者が前面に出てこないということとも関係しているでしょう。
ある番組があったときに、
これは、誰々の責任で出しているということが明確になっていればいいのに、
そういう仕組みになっていないのです。
こういった形では、視聴者も担当者の責任を問題にしづらいし、
テレビ局もうやむやにしてしまいがちです。
ここで、全ての番組において「責任者」を明確にし、
それを視聴者がいつもチェックしていれば、
かなり状況は変わるでしょう。
もちろん、下請け、孫請けの問題はあるでしょうが、
どこかで責任者を明確にすることくらいはできるはずです。
「こいつは、『あるある』で問題を起こした人間だから、信用できない」
というようなことがごく普通に言われるようになれば、
番組の担当者は、簡単にねつ造などを行わなくなると思うからです。

ここで、納豆問題に対しての一つの解決策が提示されます。
つまり、あらゆるテレビ番組について、
責任者の名前を明確にすることを義務づける。
もちろん、政治的ニュースなどで
情報源を秘匿しないといけないことはあるでしょうが、
それでも、局内の担当者を必ず明示するということです。
そして、不正をはたらいた担当者を厳格に処分し、
二度と復帰させることはしないという雰囲気作りも必要です。
もしも、復帰させたら
視聴者がチェックするというようなことも必要でしょう。

もちろん、これをすればただちに全ての問題がなくなるわけではありません。
ただ、「報道の自由」との関係を考えると、
特に政治に関する報道などで、
マスコミに対する規制を考えるのは、かなり無理があります。
そこで、今のところ思いつく唯一の方法が、
「担当者の明確化」ということです。
これは、法律レベルで行うこともできるし、
ある程度は市民の意識のレベルで広めていくこともできるのではないかと思います。
今回の納豆問題についても、担当者の名前をきちんと調べ、
それを周りに伝えていく。
それは、同じことを繰り返さないために必要なことではないかと思います。

ちなみに、この方法の有効性が明らかに高いと思われるのは、
「捏造」のような極端な話だけであり、
政治や経済がからむ多くの問題については、
抜本的解決にならないかもしれません。
というのも、マスコミュニケーションの肥大化という
現代社会の根本的な問題については、
この方法だけでは、解決できないからであり、
これについては別の形で議論する必要があるでしょう。
ただ、捏造以外の問題についても、
長い目で見てプラスの影響を及ぼすことは予想されると思います。

(4) まとめ

話が多岐にわたりましたが、
ここで、話を簡単にまとめたいと思います。

まず、納豆問題の全体は、
科学コミュニケーション、マスコミュニケーションという
二つのコミュニケーション・システムをめぐる、
「ひずみ」の問題として理解されるでしょう。
いずれのシステムも、
さまざまな要因で、
本来の形で機能していなくなっており、
今回の問題はその一つの現れに過ぎないということもできます。

では、どうすれば良いのでしょうか。
これについては、さまざまな観点からの解決策が提示されると思いますが、
この記事で挙げたのは、大きく分けて次の3点と言えるでしょう。

(1) 企業やマスコミが、「明らかに」非科学的な内容の報道・発表をしたときの民事・刑事上の責任を明確にする(商品の代金払い戻し、詐欺罪での積極的立件等)。
(2) 科学者の社会に対する責任を明確にするとともに、社会に対する貢献を正当に評価するようなシステムを作る。
(3) 全てのテレビ番組について局内の責任者を明確にし、それを番組で明示する。また、不祥事の際には、当該の責任者の厳格な処分を行う。

今回の問題は、実害もほとんどなく、比較的小さな問題だったわけですが、
表面的な問題として理解するのではなく、
こうした、科学の問題、
マスコミュニケーションについての
根本的な問題としてとらえていくことが、
大切ではないでしょうか。

参考サイト(ニュース)
livedoor News 「あるある大辞典」納豆問題に、庶民は怒り心頭に発す状態!
http://news.livedoor.com/article/detail/2983471/
exciteニュース<番組ねつ造>制作受注会社、他テレビ局でも問題に
http://www.excite.co.jp/News/society/20070121030100/20070121M40.110.html

参考サイト(ブログ)
平成納豆事件の結末 (5号館のつぶやき)
http://shinka3.exblog.jp/pg/blog.asp?eid=c0025115&iid=&acv=&dif=&opt=2&srl=5341289&dte=2007%2D01%2D22+00%3A36%3A19%2E000

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不二家と雪印に共通するもの

http://shinka3.exblog.jp/5289215/
> 雪印乳業の食中毒事件の記憶がそれほど古いものではないだけに、
> 今回の不二家の対応は非常に不思議な気がします。
> 雪印乳業がこんなにがんばっても、
> まだ元の状態にまでは戻れていないという
> 現実が目の前にあるというのに、
> 不二家の経営陣はいったいどこに目をつけているのでしょう。

事件の詳細は上のブログに詳しく、
ほとんど補足することがありません。
かりに賞味期限切れに目をつぶったとしても、
細菌検査に不合格になったものを出荷するなど、
消費者の信頼を裏切ったと言われてもしょうがないでしょう(*1)

雪印と不二家に共通するのは、
巨大な独自販売網を持っているということです。
あのような業態だと、
大規模な業態転換はもちろん、
ブランド戦略を機動的に変えていくことすら難しくなってしまう。
結果として、経営が厳しくなったときに、
たとえ危険を冒してでも、
現在の業務形態を変えずに利益を上げることしか
考えられなくなってしまうのではないかと思います。
こうした意味での経営環境の
変化についていけなかったということと、
企業倫理についての消費者の目の厳しさの変化に
ついていけなかったということは、
どこか重なって映る気がします(*2)。

これらは、大きく言えば、
「一つのことに注目すると他のものが見えなくなってしまう」と
いうことの一つの例ではないでしょうか。
これは、企業の倫理やコンプライアンスの問題を考えていく上でも、
機動的な経営戦略を取るという意味でも重要なことで、
その意味で、これは、
あらゆる企業・組織と関係している問題ではないでしょうか。
組織というのは、いったんできあがると、
一定の視点でしかものごとをとらえられなくなってしまう。
これを防ぐためにどのようなコミュニケーションの設計をすれば良いか、
という情報学的な視点から、
企業の組織をとらえていかないといけないわけです。

ちなみに、不二家の場合、業態の違いから、、
雪印よりも、さらに環境は厳しいでしょう。
牛乳を買いに行って、雪印しかなければ買ってしまう人も、
不二家のお菓子しかなければ、買わないですませます。
それほど利益率は良くない業態でしょうから、
ブランドが傷つけば、立ち直れなくなると思います。
上のブログにもあったように、
「退場」はかなり現実味のある話ではないかと思います。

 

*1
賞味期限が1日過ぎたくらいで、
実害が出るわけではないし、
この程度のことは、
通常の飲食店ならどこでもやってるのだから、
過剰反応しすぎではないか、
という意見もあると思います。
これについても、
現代のコミュニケーションのあり方という立場から
情報学的に分析することもできるでしょう。
社会の規範はさまざまな異なる価値基準から成っており、
これらに自明に優劣を付けることができないということです。
まぁ、これについては、今回は触れないことにしておきましょう。

*2
ついでに言っておくと、
自分は甘いものが大好きなのですが、
不二家で買ったことは一度もないんですよね。
なんか薄汚くて買う気がしない。
不二家の店舗には大手チェーンとは思えない
暗い雰囲気があります。
これはあくまで個人的な感想ですが、
もしこれを他の人も感じているとしたら営業上の重大な欠陥でしょう。
こういう経営のあり方は、
今回の問題にもつながっていたのではないかと思います。

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履修不足問題の本当の話(2/2)

前回は、履修不足の問題での、
「年度途中での運用規則の変更」に注目し、
情報学的な問題解析の手法を用いながら、
問題に隠された構造を読み解いてみました。
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/12_9185.html
今回は、これとは全く別の視点から、この問題の背景にある、
教育制度の問題について考えたいと思います。

履修不足の問題の背景に、入試制度の問題があるのは当然としても、
その背景にある問題については、
ほとんど取り上げられていません。
というのも、この問題については、
政治家やマスコミも、大いに共犯者であり、
それについて取り上げる立場にないとも言えるからです。
すなわち、大学/大学院教育を筆頭として、教育全体が、
「役に立つことだけやっていれば良い」という風潮になっている。
今回の、履修不足の問題は、
まさに、そういう現代の教育の問題の縮図とも言える
構造を持っているものだと思います。

本題に入る前に、少々、思い出話をすると、
自分は高校のときぜんぜん勉強しなかったのです。
必須科目の授業は一応出てましたが、寝てるか内職してたもので…。
受験勉強も自宅でしていたし、まぁ、好き勝手な高校生活でした。
世界史はおもしろい先生だったので、
聞いてはいたのですが、ぜんぜん頭に入ってませんでしたね。
それで、大学行ってから勉強しようとしたのですが、
つまらないし、複雑だしでぜんぜん頭に入らない。
まともに勉強したのは、卒業した後でした。

その世界史について、自分が言うのも何なのですが、
大学生って、いったい高校で何を勉強してきたのかって思います。
最近、大学の情報学の授業で学生に、
「モダニズムって高校でやったよね」と聞いたのですが、
全員分からない。
「じゃぁ、近代化ならさすがに分かるでしょ」
これも、ほとんど分からない…。
これは別に難しいことではなく、
高校の教科書にちゃんと入っていることです。
しかも、受験科目として世界史を勉強していた人と聞くと
結構手が挙がるので、面食らいました。
ちょっと大げさに言えば、
近代以降の歴史の学習は「近代とは何か」
という問題関心と切り離せないはずで、
この言葉知らなくて、何勉強してきたの…というのが正直なところ。
このくらいなら、自分も高校生の時点で理解していました。
受験中心の勉強ということで、
丸暗記しかしておらず、歴史の流れとか
まったく教わってないということが、
このことからも良く分かると思います。

なぜこうなるのか?と考えると…、
ゆとり教育も無関係ではないにしろ、
やはり直接の原因は入試だと思います。
大学入試でも、一部の難関校は、
こういう歴史の流れとか、ポイントを理解しているかを
聞くような問題を出すようなのですが、
自分が教えているような中堅程度の大学で、
それは皆無だし、それに向けた受験勉強も丸暗記になってしまうわけです。

では、入試を変えれば良いかというと、そうはいかない。
今、大学には商業主義の流れが押し寄せています。
学問軽視、テクニック重視の流れで、「学問」自体が瀕死状態。
良心的な教育をしたり、
難しい入試問題を出すような大学は、
受験生から敬遠され、淘汰されていきます。
石原都知事が、「社会に役に立たない文学部は不要」として、
都立大の改革を行なったのは記憶に新しいところですが、
こういう流れは、石原都知事がわざわざやらなくても、
私立大学においては、とっくの昔に始まっているわけです。
ここに来て急に「世界史」が大切だなどと言っているマスコミですが、
つい最近まで、「役に立つ勉強をするような教育改革が必要だ」などと、
言っていたのは、忘れたのでしょうか?
要するに社会全体が、学問軽視、文化軽視の流れになっている。
そういう中で、高校生にだけ、「必須だから勉強しろ」というのは、
まったくつじつまが合わないでしょう。
そういう社会全体の学問軽視、文化重視のつけが、
今回の問題として現れているわけです。

さらに言えば、こうした学問軽視、文化軽視の背景には、
社会における、経済を中心とした価値観が肥大化して、
他の価値観が無視されつつあるということ、
さらに、社会のグローバル化という、
まさに、情報学的な問題があります。
こういった視点から、問題をとらえていかなければ、
履修不足の問題に象徴される教育制度の問題が、
本質的に解決されることはないでしょう。

単位偽装のようなどうしょうもない状態は、
一刻も早く(とは言っても年度途中の必要はないですが…)
解消してもらうとしても、
こういう根本的なところを変えない限り、
「先生が生徒に内職を推奨」というようなことになって
別の形で骨抜きにされるだけだし、
何の解決にもならないのではないかと思います。
今回の問題を「おかしな高校教育の表れ」といった
ステレオタイプでとらえるとしたら、
あるいは、「受験競争の過熱」と言うような、
表面的な問題として理解するとしたら、
問題の本質を見誤ることになるでしょう。
履修不足の問題を通し、
その背景にある、教育の問題、さらに社会全体の問題を、
きちんと見据えていくことが大切ではないでしょうか。

 

関連リンク

履修不足・必修逃れQ&A(「教育ニュース観察日記」より)
http://cala99.at.webry.info/200610/article_8.html

今回の履修不足の問題を内容を的確に説明しています。

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履修不足問題の本当の話(1/2)

今回は、情報学の理論的な話とはちょっと離れて、
高校の履修不足のことについて書こうと思います。

この問題、話を聞いていて、
どこか不自然だなって感じることはないですか?
履修不足のニュースの行間を良く読むと、どうも怪しい気がする。
しかも、そのことがどこでも報道されないのがさらに怪しいのです。

どういうことかというと、
要するに、「どうして年度途中で、急にあんなことを言い出すか」ということ。
たしかに、単位認定の不正は直さないといけないと思うのですが、
今まで30年間も続けてきたわけですよね?
だったら、来年度からでも良いんじゃないの?
だいたい、あんな中途半端な時期に言い出さなくても
いいって思うのが普通ではないでしょうか。

これは、まぁ、素朴な疑問としてもあるわけですが、
良く考えると、かなり深い問題とつながっています。
一般的に言えば、法律はいろいろなところで抜け道があったり、
柔軟に運用されるものなだと言えます。
そして、運用も含めた形で、明文化されない「規則」があって、
それも含めたのが「守るべき規則」だと言えると思います。
法学的には、「成文法」のほかに「慣習法」というのがあって、
それも、無視できない規則だということになるし、
情報学的に言えば、コミュニケーションは、
社会のさまざまな規則によって拘束されており、
その中に、運用規則や慣習法、成文法があるということになる。
たしかに、運用規則と法律では、法律の方が優先されるでしょうが、
一人の人間(たとえば生徒や先生)からすれば、
どちらも「規則」であることには変わりません。

いずれにせよ、そういう目から見ると、
今回の問題はまったく別の視点からとらえることができます。
たしかに、法律を守らないのは良くない、
きちんと履修科目を教えないといけない。
しかし、そうだとしても、
これは、この世界では「公然の秘密」だったことのようです。
要するに、法律や指導要領にかかわらず、
「慣習法」として黙認されていたのではないでしょうか。
「教育委員会に虚偽の報告」とは言うけれど、
おそらく、教育委員会も文部科学省も「暗黙の了解」で一応分かっていて、
表向きは虚偽の報告をさせていた。
どこかの県で教育長を処分するということがあったそうですが、
彼らだって、「目に見えない規則」に忠実にしたがっただけです。
さらに、生徒からすると、
学校が決めた単位についての運用規則も、規則にほかならない。
要するに、この問題の背景には、

(1) 法律に基づく学習指導要領
(2) 虚偽の報告を暗黙の了解として受けるような慣習法
(3) 学校の運用規則

という3層の「規則」があり、
そこに齟齬が見られたことが、問題の本質なのです。

もちろん、おかしな運用規則は変えないといけないし、
慣習法とは言っても、法律に反したり、合理的ではないものは、
維持していくわけにいきません。
しかし、それと年度途中で変更というのは別の問題です。
学校に限らず、社会の制度は、
ある程度長いスパンで設計されていて、
人間は、その中でさまざまな判断をしているわけだから、
途中で制度変更をされると、
関係者に非合理的な負担を追わせることになってしまう。
これは、普通に考えれば分かることでしょう。
たとえば大学入試の場合、浪人生も受験しているわけだし、
今年の受験生も浪人する可能性があるわけだから、
平成18年度の卒業生だけが著しく不利になるということがありえる。
たとえ法律に反する運用規則でも、
生徒にとっては、「規則」には違いないのだから、
一度決めたことを、年度途中で変更するのは、非合理的です。
こうしたことは、実際には、
「バランス感覚」に基づいて決めていくことになるわけですが、
今回の問題については、
明らかに途中で変えることによる問題の方が大きいでしょう。

考えてみると、こういうのを、うまくバランスを取って
(ごまかして)やっていくのは、
政治家や官僚がもっともお得意とするところです。
たとえば、マスコミがいろいろ騒いだとしても、
「では、来年度から」ということを正当化するロジックを組み立てる。
これは官僚のメンツとかかわる大事なところかもしれません。
そう考えると、何か別の、
「大きな力」が働いているような気がするのです。

そこで、あの問題が騒がれた時期を振り返ってみると、
ちょうど「あること」が起きた時期と重なることが分かります。
そう、教育基本法の改正です。
要するに、あの問題がこれだけ騒がれたのは、
「教育基本法」改正に向けて、
「今の教育はこんなにダメなんだ」ということを世論に訴えるための、
情報操作、プロパガンダという側面が大きいのではないかと思います。

正直言って、政治や行政の対応は筋が通っているし、
まぁ、そういうものなのかなと思います。
しかし、政府の提灯持ちに徹している
マスコミのレベルの低さにはあきれます。
個人的には、教育基本法改正には中立な立場なので、
まぁ、勝手にやってくれよという感じなのですが、
それに付き合わされた生徒や教育関係者は
良い迷惑だったのではないでしょうか。
そして、何か問題があると、すぐに善悪一元論に陥って、
他のことが見えなくなってしまう、日本全体の状況。
この国の将来は非常に危険だと言わざるをえないでしょう(*1)。

ちなみに、今回は、
「年度途中での変更」という、
若干表面的な問題について、
情報学的な問題解析の手法を用いながら、
説明してきましたが、
続編として、履修不足問題の、もっと本質的な部分、
つまり、現代の教育制度が抱える問題について、
書きたいと思います。

履修不足問題の本当の話(2/2)
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/22_2aea.html

 

関連リンク

「履修不足を言い出したのは?」。やっぱり、ソースは明示した方がよいのではないだろうか(「踊る新聞屋」より)
http://t2.txt-nifty.com/news/2006/10/post_941a.html

高校単位偽装問題と日本的官僚システム(「5号館のつぶやき」より)
http://shinka3.exblog.jp/4810152

 

*1
上にリンクしたブログで、こんなコメントを見つけました。

> 高校側の立場、今のマスコミの論調を見ると、
> ひたすら謝るしかないのが現状であると思います。
> 四面楚歌でどこからも完全な悪玉ですから。
> 制度や政府などが悪いなどと批判した瞬間、
> マスコミ・政府・文科省などから袋叩きにあって、
> 抹殺されるのがオチだと思います。
> 米国の大統領や日本の前首相みたいな善悪二元論に
> 日本全体が陥っているのが問題だと思います。

高校単位偽装問題と日本的官僚システム(「5号館のつぶやき」より)
へのZZZさんのコメント。
http://shinka3.exblog.jp/4810152

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