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世界の情報量は求められるのか?

情報学 | 2011/02/19

先週、Science誌に、「情報を保存、通信、計算するための技術的容量」についての調査結果が掲載されたことが話題になっています(論文ニュース)。この論文によると、保存された情報は2.9億テラバイト、通信された情報は20億テラバイト、情報処理能力は6.4兆MIPSだそうです(テラはギガの1000倍で、1兆)。これだけを聞くとすごい数字のようですが、最新のハードディスクが1テラバイト単位ですので、その3億倍というのは、まぁ、妥当なところではないかという気がします。むしろ、通信量がその7倍というのは、さすがに多いな…と思いましたが。

○情報量の解釈依存性

さて、雑談はさておき、そもそもこの論文のような形で「世界中のあらゆる情報の情報量」を求めることができるのでしょうか。これは、情報学的には若干複雑な問題です。

上記の論文では、紙やフィルム、レコードに記録された情報も調査しているとのこと。しかし、そもそも紙に印刷された情報の情報量をどのように求めることができるのでしょうか。たとえば、ある本があり、そこにはイラストや写真などが一切含まれていなかったとします。ここに書かれている文字を、現在の技術でデータ化、圧縮したときの情報量は求めることができます。しかし、この本の情報量は、本当にこれだけでしょうか?紙質や印字品質の欠けを含めて情報を正確に保存しようと思ったら、一ページずつスキャナで取り込まないといけません。これは文字だけの情報よりもはるかに大きいことになります。

では、このときの読み取り解像度はどの程度にするべきか。これは、その本の媒体に対する評価によって大きく変わります。その本が、世界最初の印刷物で、紙や活字の状態まで重要だと考えられるのなら、非常に高い精度の画像情報が必要とされます。しかし、去年発売された出版物なら、フォントの種類やデザインは重要でも、それ以上の細かい情報はどうでも良いと考える人が多いでしょう。

さらに、こういうことも言えます。A4の白紙の紙があったとします。普通に考えたら、この紙の情報量はゼロです。しかし、それが事件の犯行現場に残された証拠だとしたら、その紙には多くの情報が含まれていることになります。朝食のパンは、何の情報も含んでいないように見えますが、表面の凸凹や内部の気泡の配置を記録しようと思ったら、かなり大きな情報量を持つことになります。このように、情報量というのは、解釈によって決まるものなのです。

○シャノンの情報量とシステム

これは、情報に関する特殊な意見ではありません。ビットやバイトと言った単位で表される「情報量」を数学的に定義したシャノンの理論から、自然に導かれる結論です。

シャノンは情報の定義をする上で、対象そのものに情報が備わるという見方を取りませんでした。シャノンは、送信者と受信者が、「メッセージとその表現方法の組み合わせ(コード)」について、あらかじめ合意していて、それに基づいて通信が行われるとき、「情報量」を決められると考えたからです。たとえば、A~Zの26個のアルファベットから取り出された1文字を相手に伝えるという状況を考えます。このとき、送り手も受け手もA~Zのアルファベットを理解していないといけません。そこでは、エー、ビー、シー…という概念(メッセージ)と、A, B, Cという文字(表現方法)の対応(コード)が、送り手と受け手で共有されていないといけないのです。

つまり、シャノンの理論から導かれる自然な結論は、「メッセージとその表現方法の組み合わせ(コード)」が決まらないことには、情報量を求めることができないということです。これは紙のような単なる物体の情報量は、原理的に定義できないということを意味しています。

ただし、ある人がその物体に何らかのメッセージを想定する場合は、情報量を求めることができます。たとえば、A4の紙があったとします。ある人は、紙(表現方法)にビジネス上の一般的な文書(メッセージ)が保存されていることを想定するかもしれません。その人にとって白紙の紙という形で表現された情報の情報量はゼロです。しかし、紙の研究をしている人なら、その人とは全く別の、紙質に関する情報を、メッセージとして読み取るでしょう。この人にとってA4の白紙の紙(表現方法)は情報の宝庫なのです。このように、単なる物体の情報量を決めるためには、情報をそこに記録した人が、どのようなメッセージを伝えようとしたか、情報を読み取る人がそこにどういうメッセージを想定しているかが分からないといけません。いずれも簡単には決まらない問題です。

しかし、こうして「メッセージと表現方法の組み合わせ」が想定できる場合は、まだ良いのです。もう少し別の例を考えましょう。AさんとBさんが会話していたとします。この情報量はどの程度でしょうか。Aさんの身振り、手振り、息づかい、さまざまな情報が会話にかかわっています。しかし、かかわっていないかもしれません。この会話の情報量は測定不能としか言いようがありません。たしかに、日常会話においても、何か伝えたいこと(メッセージ)が存在して、それを伝えようとしているという場面はあるでしょう。しかし、そうしたメッセージは、多くの場合、伝えたい人が勝手にそう思っていると言う意味でのメッセージであり、二人の間で事前に共有されたメッセージ、シャノンの情報の定義に基づくメッセージとは違います。こうした状況で情報量を測定することはできないのです。

これは、私たちが「情報」と考えているほとんどあらゆることに成り立ちます。たとえば、ある「森」の情報量を考えたとします。そこに生きている生物の相互作用を情報と呼ぶのであれば、無限大とも言える非常に大きな情報がそこで交わされていることになります。しかし、警備会社の従業員なら、その森を警備するのに必要な画像データの情報量をもって、その森の情報量と考えるかもしれません。開発技師なら、森の性質や土壌の性質のデータがその森の情報量と考えるかもしれません。このように、特定の対象の情報量は、何らかの視点や見方を抜きにして考えても意味がありません。これは、シャノンの情報理論から自然に導かれる結論なのです。

○コンピュータ・システムと情報量

では、なぜ私たちは、ファイルやCD-ROMやハードディスクの容量を求めることができるのでしょうか。それは、コンピュータにはハードウェアやソフトウェアの設計上、「メッセージと表現方法の組み合わせ」(コード)が組み込まれているからです。コンピュータでは、多数の「メッセージと表現方法の組み合わせ」が世界共通で使われています。そして、こうしたコンピュータ・システムのコードに基づく限り、情報量を決めることができます。私たちが日常的に「情報量」と言うとき、多くの場合、こうした「コンピュータ・システムのコードに基づいた情報量」を意味しているのです。

では、紙やフィルムといったアナログメディアに保存された情報はどうでしょうか。先述したように、紙やフィルムに保存された情報は、シャノンの情報量の定義に厳密にしたがって客観的に情報量を決めることができません。しかし、こうした情報であっても、「一般的な用途に使うために、コンピュータが扱う情報に変換したときにどの程度の情報量になるか」を見積もることができます。これが、俗に言うところの「紙に保存された情報の情報量」です。ただし、当然のことながら「一般的な用途」と言っても人によって違うので曖昧です。メディアの情報を記録した人の意図、情報を読み取る人の視点など、さまざまな要素がそこに関わっており、客観的なものになりえないのです。

これは、厳密に言えば、CD-ROMやDVDでも同じです。CD-ROMの容量は700メガバイト程度ですが、表面の微妙な凹凸の変化に興味を持っている研究者は、それよりはるかに大きな情報量が想定することができるかもしれません。しかし、それを「一般的な用途」と言うことはできないでしょう。CD-ROMやDVDのようなデジタル媒体であれば、「一般的な用途」は明らかであり、それに基づいて正確な情報量を求めることができます。しかし、紙やレコードのようなアナログメディアの場合、人によって「一般的な用途」の解釈に差が生じ、かなり幅のある値しか求まらないことになります。

もちろん、Science誌に掲載された調査結果に意味がないとか非科学的だというわけではありません。「一般的な用途に使うために、コンピュータが扱う情報に変換したときにどの程度の情報量になるか」は、厳密には決まらないとは言え、ある程度の範囲に収まるだろうし、それに基づいて情報量を求めることには意味があると思うからです。しかし、そこで求められる情報量は、こうした理論上の限界を踏まえたものだということに、留意しなければいけません。これは「情報」を一般化して議論しようとする時に、非常に重要なポイントではないかと思います。

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WEBRONZAのホメオパシー騒動とメディアの問題

経済・政治・国際 | 2011/02/11

○WEBRONZAとホメオパシー

朝日新聞社が運営する、WEBRONZAというサイトに、海外のホメオパシー事情を肯定的に紹介する記事が掲載されました。その中で、ADHDにホメオパシーが有効であるという実験結果が紹介されているのですが、この紹介の仕方が適切ではないということが批判を受けています。

これに対し、WEBRONZA編集部では、朝日新聞本紙の久保田裕氏、ネットのニセ科学批判の中心的存在となっている菊池誠氏の批判記事を掲載したものの、元の記事を訂正・削除したり、編集部注等のコメントを入れるなどの措置をしませんでした。これがTwitterを中心に一部の人の激しい非難を浴びたのです。まとめると以下のような批判です。

a) 朝日新聞社のサイトに、いい加減な内容の記事を載せるのはおかしいし、その後、訂正しないのはおかしい。
b) 訂正や削除をしないとしても、「編集部注」「編集部からのお知らせ」などの形で反対意見があることを示すべき。
c) 編集方針上それが無理としても、関連記事へのリンクという形で反対意見を示すべき。

一部にはa)の意見もあるようですが、全体としてはb)やc)の批判がメインのようです。ただ、編集部側は、そうした措置をしないという表明をし、これが、さらに批判を呼ぶという流れになっています。

結論としては「そんなに頑なにならずに、編集部注でリンクくらい入れても良いんじゃないか」と言うのが、正直な気持ちではあるのですが、ひねくれ者の自分は、編集部側にも一理あるのではないかと思ってしまいます。

○オピニオン誌の終焉

というのも、WEBRONZAの元になった「論座」という雑誌が、特異な立ち位置に置かれたメディアだったからです。自分も、もしこの問題が、朝日新聞本紙や、AERA、週刊朝日等で起きた問題だったら、編集部注どころか、訂正記事くらい出さないといけないと思います。ただ、WEBRONZAだとどうか…。実はそんなに簡単な問題ではありません。

なぜでしょうか。ここで「論座」について少し詳しく説明することにしましょう。戦後、さまざまな論壇誌が競い合って評論を載せ、それが思想の潮流にも大きな影響を与えていた時代があったそうです。ところが、「政治の季節」の終焉とともに、こうした雑誌は衰退していきます。さらに、インターネットの普及はそれに追い打ちをかけるように作用し、21世紀に入って多くの論壇誌が廃刊になりました。そうした中、「リベラル系」に分類される論壇誌の中で、最後まで残ったのが、岩波書店の「世界」(現在も存続)と、朝日新聞社の「論座」の二つだったのです。その中でも、「論座」の特徴は、いわゆる右派、左派の両方を登場させ、「論戦」をうながすのが特徴でした。

一般に、「論壇誌」は、編集部による編集が入るものの、編集部は内容に責任を持つ立場にはありません。それが特に徹底されていたのが「論戦」を特徴とする「論座」だったのです。言葉だけを聞くと、責任を取るのが良くて、責任を取らないのが悪いという風に聞こえるかもしれませんが、政治的・社会的問題を扱う論壇誌にとって、責任を取るということは、一面的な意見しか出さないということを意味しています。これに対し、あえて責任を取らないことで、言論の自由を担保する。一般に「論壇誌」とは少なからずそうした性質を持つものであり、特に「論座」はそれが徹底されていた雑誌だったのです。編集がなされているとは言っても、正確性を基準にして編集するのではない。問題のある意見が掲載されたときは、対立意見を掲載することで、信頼を確保する。こうした編集方針によって、論座は、言論の自由を担保する役割を担っていたわけです。

ネットでもブログや掲示板のサーバー提供元は、ブログやホームページの内容の正確性に責任を持たなくても良いとされています。それと近い役割を、論壇誌が担っていたわけです。もちろん、ブログやホームページのように全てが掲載されるわけではないので、ブログやホームページとは違うし、たとえるならblogosくらいが適切かもしれません。ただ、ここではそういうことが言いたいわけではありません。インターネットがない時代、言論の自由を担保するためには、論座のように編集部が「責任」から一歩引くメディアが必要だった。その役割は、現在のブログや掲示板の果たして役割と共通するものであったということが重要だと思います。

○WEBRONZAというメディア

さて、紙媒体の雑誌「論座」は、2009年10月号をもって廃刊となりました。これには、論座のような編集スタンスがインターネットの時代にはそぐわなかったということが、無関係ではないような気がします。ネットの情報を中心に生活している現代人からすると、「編集部が責任を持たないが、議論を喚起するもの」を読みたいのなら、わざわざ紙媒体を読まなくても、ネットで十分でしょう。こうした人からすると、論座をはじめとする論壇誌は、多くの人が紙媒体に期待する「信頼」という役割を果たしていないように思えるのではないでしょうか。こうしたことと、論座の購読者が減っていったことは少なからず関係していると思うのです。

WEBRONZAは、論座の名前を受け継いで、2010年6月に始まったばかりのメディアですが、今回の騒動の経緯を見る限り、編集方針についても旧「論座」の姿勢を受け継いでいるように思えます。通常の記事も掲載するが、論壇誌的スタンスの記事もあり、それについては、筆者に断りもなく注釈を入れることはできない。これは、ある意味非常に一貫した態度だと思います。

問題は、それがWebという媒体に合ったものかということです。特に今回の騒動で取り上げられていることとの関係で言うと、以下の2点になるでしょう。

1. 紙媒体では、同じ号に掲載された関連記事が横断的に読まれるのが普通だし、継続的な読者も多い。このため、問題のある記事をそのまま掲載する代わりに、それとは別に批判記事を載せることが中立的なスタンスを保つために必要ということになる。しかし、Web媒体では記事がばらばらに読まれる一方、後から修正するのが容易。中立的なスタンスを保ったままでも、編集部注で関連記事が存在することを示したり、関連記事ととしてリンクを張ることはできるのではないか。(上記のb、cの批判と対応)
2. ネットで「編集部が責任を持たない記事」が必要なのか。それなら、ブログやブックマークサイトで十分。朝日新聞社の名前が付いているサイトが、そうした態度で編集する必要があるのか(上記のaの批判と対応)。さらに、追記までしないという頑なな編集方針を保つ必要があるのか(上記のb,cの批判と対応)。

○メディアの多様性

まず、1の論点。私は、基本的には妥当と思うし、「そんなに頑なにならずに、編集部注でリンクくらい入れても良いんじゃないか」という私の感覚も、こうした理由によるもです。ただ、これは最終的にはWEBRONZA自身の自己規定によります。WEBRONZAが、旧「論座」のスタイルをネットにそのまま持ち込もうとしていたとして、そんなものは読む価値がないとか存在しない方が良いかというと、そうは思いません。

インターネットには、ブログから学術雑誌までさまざまな編集方針のメディアがあり、記事の正確性、編集部の介与の度合いも、グラデーションのようになっています。だから、「編集部は、掲載の可否に関しては判断するが、筆者が書いた記事に後から注釈・リンクを加えない」というのは、十分ありえる編集方針です。こうした編集方針を取ることで、多様な議論が保証されるという意味はあるでしょう。また、「関連記事へのリンクはWebシステムのリニューアルで対応する問題であり、個別に対応できない」というのも「理解可能」な主張です。

ただ、そうだとしても、WEBRONZAは個人サイトではありません。正確性を重視するべき朝日新聞社のサイト内に、ブログや掲示板に近い編集方針のメディアが存在することが必要なのか。こういった批判があるでしょう。これが2番の論点です。これについて次節以降で説明します。

○ネット時代のメディアの信頼性

いったん、ちょっと話を変えます。

私は、日本のマスメディアの問題は、「間違ったことを報道する」ことではなく、「間違ったことを報道することを過度に避けるあまり、一面的報道しかできなくなる」ことではないかと思っています。これは、いわゆる「偏向報道」の問題と、「隠蔽体質」の両方につながることです。

これには、新聞記事の多くが署名記事ではないことと関係していると言われます。日本のメディアでは個人が責任を取らない代わりに、メディア全体が責任を取る。そのことは、メディアが「標準的な見解以外が書かない」ということでリスクを避けようととすることにつながるからです。また、問題が起きたときに責任の所在が曖昧になると同時に、訂正は論理的に上層部しかできないので、なかなか実現しない…といったことにもつながります。

こうした問題を解決するためには、逆説的なようですが、メディアが個別の記事に完全な責任を負わないということが必要ではないかと思うのです。いわば、新聞がブログやWEBRONZAの方に<ちょっとだけ>近づいていくということです。記者が個人として責任を持って記事を書き、新聞社はそれに「緩い」責任だけを持つ。捏造による誤報には厳しく対処するが、調査が一面的だった程度ではいちいち文句を言わない。ただし、ダメな記者は淘汰されていくし、良い記者を育てるための教育には手間を惜しまない。新聞社は、「全ての記事が正しい」と保証する代わりに、こうしたプロセス全体の公平性を保証することで信頼を得る仕組みが必要ではないかと思います。

ただし、こうしたメディアは読者にとって良いことずくめではありません。こうしたメディアが存在するためには、複数の記事が矛盾していたり、時には確実ではないことを許容する態度が読者に必要だからです。間違った論評があるかもしれないけれど、繰り返しそうした記事を書く記者は退場させられる。そのプロセス全体を信頼するということです。これは、ネットだけではなく新聞についても読者が自ら記事の正しさを判断し、取捨選択する能力を問われるということを意味しています。もちろん、正確性だけが求められる記事もあるでしょうが、調査記事や論説記事については多様な視点を許容する。こうして、新聞の内部に正確性のグラデーションを認めることが、報道の正確性を高めるし、ジャーナリズムの質的向上にもつながるのではないかと思います。

さて、以上は新聞本紙の話であって、WEBRONZAの話ではありませんが、そろそろ話を戻したいと思います。

こうしたことを考えるとき、「朝日新聞社のサイトなのだから、(記事の選択を通して、また編集部注の形で)正確性が保たれなければいけない」というロジックが、正しいのかは疑問でしょう。新聞本紙の中でも、正確さの高い情報とそうではないものの両方が許容されなくてはいけないし、さらに、サイト内に、本紙の論説よりも、さらに自由な論壇メディアがあっても良いと思うからです。内容に間違いが含まれていても議論を喚起するためにあえて載せ、責任は著者個人に取ってもらう。ただし、その記事の選択には、メディアとしてのプライドが掛かっている。こうしたメディアの必要性は、ネットが一般的になっても変わらないものではないかと思います。

たしかに、ネットの発達に伴って、私たちが、「朝日新聞」のような新聞社のブランドに求めるもが「正確さ」に特化してきているという傾向があると思います。ただ、これは新聞におもしろい記事がないという低評価の裏返しであり、重要な情報はネットで仕入れれば良いという理解の裏返しです。この傾向が続く限り、新聞社は無難な情報を伝える仕事しかできなくなるし、ジャーナリズムは一層衰退していくでしょう。むしろ、正確さ以外の価値を探っていくことが、ジャーナリズムの向上のためにも必要だと思うのです。

○変わるもの、変わらないもの

ただ、こうした新しいメディアのあり方を模索しようとするのであれば、より一層、「対立記事へのリンク」を加えたり、「このページは朝日新聞の記事ではありません」というコメントを入れる、あるいは編集部注を入れる際のルールを決めるといった工夫が重要になってくるでしょう。これは、「正確さのグラデーション」を読者に適切に伝えるために必要なことです。そう考えると、冒頭に掲げた批判のうち、aはともかく、bやcは、聞く価値のある批判と言えます。

自分は別に、そうした工夫をしないことが、ただちに不当だとか不正だとか言うつもりはありません。だいたい、組織というのはそんなに簡単には変わらない。論座の伝統を受け継ぐWEBRONZAも、Web媒体になったからといって編集方針を急に変えられない。それは一般には必ずしも悪いことではありません。そうした「変化の遅さ」が、メディアとしての信頼性、安心感を与えているという面もあるからです。WEBRONZAにも今の頑なな編集方針を続けて、信頼を失うリスクを負う権利があるし、それを守ることにはメディアの多様性を尊重するという大きな意味があります。変わった方が良いというのと、変わることを要求できるかは別の問題なのです。

これは、究極的には、WEBRONZAや朝日新聞がどのようなメディアであろうとするかという自己規定の問題。周囲の雑音に惑わされず、WEBRONZAや朝日新聞自身が判断するべき問題です。ただ、問題の構造そのものは朝日新聞だけではなく、どのメディアにも言えること。今回の問題が、メディアのあり方についての、より大きな議論に結びついていけばと思っています。


・補足
WEBRONZAのツイートを見て不思議なのはADHDの件について直接言及していないということです。だから、(まさかとは思うが)編集部が批判を理解していないのではないかという疑念が生じ、それが反発を受ける理由の一つになっているのではないかと思います。理解していないのなら、まずは理解してから判断するべきであることは言うまでもありません。ただ、WEBRONZAの編集部は一人ではないし、ツイート以外の状況からすれば、「理解した上で対応を考えている」と思われます。本文はこれを前提に書いています。

・変更履歴
初版(201/2/11)
現行(2011/2/14)

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クリスマスという記号

日記・コラム・つぶやき | 2010/12/24

クリスマスソングが聞こえてくると、不思議な気持ちになります。世界中の人が、《クリスマス》という記号を介して、素敵な音楽を作ったり、絵を描いたり、おいしいものを作ったりしていると思うから。そのことで、この素晴らしい音楽やイルミネーションや食べ物があるのだと思うから。

それらは全て、人の営み。人が泣いたり笑ったり、愛情を表現したり、そういったものを、《クリスマス》という記号が結びつけ、私たちの目の前の《クリスマス》を作っているのです。もちろん、《クリスマス》という記号は、格差社会とか商業主義とか、マニュアル化された恋愛とか、一神教とか、いろんなものとも関係しているし、そこで静かに泣いている人がいることも忘れてはいけません。でも、そういうことも含みこむような懐の広さが、人間にはあるような気がします。

そのことに思いを馳せる度、あぁ、人っていいな。人って素晴らしいなって思います。そして、そうやって思えることに、幸せを感じます。

今年も、《クリスマス》に乾杯。

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書評:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』について

書籍・雑誌 | 2010/12/07

○意外にも低評価のサンデル

マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の売り上げは、相変わらずすごい勢いだ。発売から5ヶ月以上も経っているのに、多くの書籍売り上げランキングで上位をキープしている。

しかし、マスコミ等での取り上げられ方について言う限り、評価の大部分は「類いまれなる講義の名手」というもので、内容への評価は少ない(link)。こうした評価には、「内容は大したことはないが、講義力が素晴らしいので優れた講義であるように見えるだけだ」というやっかみが多少なりとも含まれているのだろう。ただ、こうしてサンデルが低い評価を受ける理由は分からないこともない。なぜなら、サンデルの本は、表面的な分かりやすさにかかわらず、誤解されやすい要素に満ちているからだ。

○サンデルはリバタリアンを批判していない

その一つが、サンデルは、普通の意味でリバタリアニズム(自由主義の一種)を批判していないということである。たしかに、サンデルはリバタリアニズム批判の旗手として知られているし、この本のかなりの部分はリバタリアニズム批判に費やされているように思える。しかし、よく読めば分かるように、サンデルは、「リバタリアニズム的な政策を採用する」ことを少しも批判していない。極端な例を出すことで、リバタリアニズムが正義の原則とはなりえないことを示しているだけなのだ。

これは、サンデルに批判されたリバタリアンは次のように言えば良いということを意味している。「たしかに、リバタリアニズムは正義の原則にはなりえないけれど、多くの場合に有効である。政治的議論の結果、「共通善」として選ばれるのは、多くの場合リバタリアニズムにほかならない」。このように反論すれば、サンデルはこの主張に対して、中立を保つだろう。そういう意味で、サンデルが具体的な政策論としてのリバタリアニズム批判をしているわけではないのである。

そもそもサンデルの主張は、「リバタリアニズム的政策が優れている」と主張する<普通の>リバタリアンに対する批判ではない。サンデルはそういう相手を論敵として想定していないのである。リバタリアニズムに関するこの本の主張は以下の通りだ。

功利主義であれ、リバタリアニズムであれ、何らかの倫理原則によって、正義が導かれるという考え方は間違っている。

これは「正義が、何らかの原則から導かれる」という考えにとらわれていた人には、目から鱗が落ちるような議論と言えるかもしれない。ただ、逆に、正義が、何らかの原則から導かれるという主張を「机上の空論」としか思っていない多くの人にとって、「スリリングだけど無害な論理パズル」としてしかとらえられなかったのではないだろうか。こうしたことが、「類まれなる講義の名手」という低い(?)評価につながっているのかもしれない。

ただ、サンデルの主張は、決して「スリリングだけど無害な論理パズル」ではない。私たちの多くは、政治的・倫理的問題について議論するとき、限られた事例を元に正しいと考える原理原則から、全ての正義が導かれるという錯覚に陥ってしまう傾向にあるように思える。こうした議論の場において、「正義は何らかの原則から導かれるものではない」ということは、非常に重要な前提となる可能性があるだろう。

○なぜ、アリストテレスなのか?

サンデルは、こうしたことを踏まえて「政治についての議論がどうあるべきか」について論じる。サンデルは「正義が、何らかの原則から導かれる」という見方に対する対立意見として、アリストテレスの「徳」や「共通善」に基づく政治のあり方を提示するのである。ただ、これが不自然だと感じた読者は少なくなかったのではないだろうか。「正義は倫理原則によって導かれるものではない」という主張の明晰さからすると、急に歯切れが悪くなっていると感じた人は多かったはずだ。たしかに、「正義は倫理原則によって導かれるものではなく、アリストテレスの『徳』や『共通善』としか言いようがないものだ」という主張は分からないこともない。しかし、「徳」や「共通善」の内実がはっきりしていない以上、「正義は倫理原則によって導かれるものではない」という主張に対して、何も有意義な論点を追加していないという見方もできるだろう。

サンデルに対するこうした疑問に答えるために、サンデルの議論の背景を簡単に見ていくことにしたい。

一般に、現代思想でアリストテレスという言葉が出てきたら、対立意見として「あるもの」が前提にされていると考えて良い。それは、「プラトン」である。プラトンは、私たちが見ている世界(物質界)とは別に、本当の実在(イデア界)があり、私たちが見ている世界は本当の実在(イデア界)を影絵のように写した出したものに過ぎないと考えた(洞窟の比喩)。こうして、私たちが見ている現実の向こう側に、「ほんとうの」真実があるという考え方を「プラトニズム」と言う。正義に関して言えば、「本当の正義」がどこかにあり、私たちはそうした「本当の正義」を目指すべきであるということになる。

一方、プラトンの弟子のアリストテレスは、プラトンの思想に異を唱え、私たちが見ている現実こそが実在であると考えた。正義について言うと、正義についての議論を超えた本当の正義などない。だからこそ、正義についての議論のあり方が重要だと言うことになる。

こうした、プラトンとアリストテレスの対立は、遠く20世紀の哲学に強い影響を与えた。特に、ハイデガーは、プラトニズムを批判し、アリストテレスを擁護する中で、独自の哲学を構築したが、ハイデガーの描いた「プラトニズム批判」の枠組みは20世紀の思想家に広く受け継がれていったのである。このハイデガーの弟子で、現代の政治哲学に大きな影響を与えたのが、ハンナ・アーレントだ。アーレントは、全体主義や衆愚政治への批判を試みる中で、「公共領域」の復権を主張したのであるが、ここで持ち出されたのも、プラトン vs.アリストテレスの構図だった。アーレントは、市民がプラトン的な「観照的生活」ではなく、アリストテレス的な「活動的生活」をする社会、アリストテレスが目指したように、全ての市民が主体的に政治に参加する社会を構想するのである。

こうしたアーレントの主張は、サンデルの主張とも極めて近い。実際、サンデルが使う「公共領域」という言葉は、アーレントの用語を意識してのものだと考えて間違いないだろう。しかし、アーレントとサンデルは、大きく違う点がある。それは、アーレントは、人間の尊厳を前提にして「公共領域」について議論しているという点である。尊厳ある人間が作る公共領域という考え方は、自由主義の思想、ロールズやカントと矛盾するわけではなく、むしろそれらを部分的に要請してさえしており、これがアリストテレスに対する自然な解釈でもあることは、荒木勝氏からも指摘されている(link)。しかし、サンデルは、こうした人間の尊厳も、「正義は倫理原則によって導かれるものではない」という形で相対化しようとしているので、アーレントとは根本的に相容れないのである。

○ 物語としての正義

単純に考えると、このことは、サンデルの議論の重大な弱点になっているようにも思える。たしかに、サンデルの議論は、「正義が何らかの原則に基づくものではない」ということを重視するという意味で、プラトニズム批判としてのアリストテレスの立場を徹底している。しかし、それがあまりにも徹底されているために、「公共領域」や、それによって作られる「共通善」の基盤も分からなくなってしまうという側面もあるのだ。「サンデルの議論はもっともだが、公共領域ついての議論は諦めるべきだ」という批判を、簡単に無視することはできないだろう。

しかし、サンデルはこうした批判に対する反論を準備しているように思える。それに該当するのが、9章で述べられているマッキンタイアの議論だ。マッキンタイアは、アリストテレスの哲学を引くという点でアーレントと共通しているが、アーレントと若干異なり、以下のように論じるのである。

「『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ(『これからの「正義」の話をしよう』p.286)」

この議論から直接的に言えることは、自由主義も功利主義も、公共領域も、こうした物語の一つに過ぎないということである。これを突き詰めるのなら、「公共領域」の必要性は、人間社会において「たまたま」そうした物語が語られているという理由でのみ正当化されることになる。このとき、サンデルの主張はかなり弱いものになる代わりに、矛盾なく理解することができるだろう。

ただ、実際には、マッキンタイアの議論はそこにとどまらない。マッキンタイアの議論によれば、物語は「たまたま」そこにあるものではなく、私たちが、参加し、形作っていくものである。このことは、物語の成立において「公共領域」が要請されるという議論にも結びつく。つまり、サンデルは、マッキンタイアというクッションを置くことで、「正義は倫理原則によって導かれるものではない」という主張と、公共領域の議論の間の矛盾を解消しようとしているのである。

しかし、本当にこの議論が正しいのかは検討が必要だろう。なぜなら、正義が物語だとしても、それを意図的に作るべきなのか、作るべきだとして、どのように作るべきかは結局、別の(メタな)正義の問題になってしまうからである(cf. 自然主義的誤謬)。

たとえば、ある共同体の物語として封建制があり、その共同体の構成員がその物語に誇りを持っていたとしていたとしたら、政治的討議は要請されないのではないだろうか?これは、決して机上の空論ではない。たとえば、「正義と自由」のために、イラクやアフガニスタンを「解放」し、民主主義国家を樹立することは正しいのか。教祖を絶対と崇めるカルトの信者を「解放」することは正しいのか。こういった問題と関わっているからである。もし、公共領域の重要性が、正義の問題として理論的に導かれるものであるのなら、これらの行いも正当化されなければいけないかもしれない。しかし、正当化するとしたら、それは単純な「自由」の擁護とどう違うのだろうか。結局、民主制というメタな物語に無自覚にコミットしているだけではないだろうか。

これと同様のことは、もっと身近な問題にも当てはまる。現代のように多くの人が政治への積極的な参加を求めていない状況で、政治の公共領域を確保するために、政治への参加を強制されることは良いのだろうか。たとえば、裁判員ですら、国民負担が問題視されるわが国で、より積極的な政治参加を国民に強制することに対する同意が得られるとは思えない。要するに公共領域は、リバタリアニズムや功利主義と同じように、「個別には正しいと思われる面が多かったとしても、正義の原則とはなりえない」ものであり、マッキンタイアの言う「物語」の一つに過ぎないものと考えた方が適切ではないだろうか。残念ながら、サンデルはこうした批判に答えられていないように思える。

そうとは言っても、このことを理由にして、サンデルを低く評価することに私は反対だ。というのも、この点に関して、整理された結論を提示することができた哲学者は、今のところほとんどいないからである。たしかに、サンデルの議論は十分ではないかもしれないが、今のところもっとも優れた議論の一つであることに変わらないのだ。

大きく言うと、この問題は、いわゆる「相対主義のパラドックス」、より突っ込んで言うなら自己言及やシステム論の問題である。そして、ハーバマス=ルーマン論争における討議 vs.信頼の問題として、散々議論されてきたこととも関連している。そういう意味で、この本のオビ文を、日本のシステム論の第一人者である宮台真司氏が引き受けていることは興味深い(link)。サンデルは今後、目を離すことができない思想家である。


○関連ブログ紹介

マイケル・サンデル教授の特別講義「Justice」に出席してきた/誠 Biz.ID

書籍ではなく、講義についての記事だが、サンデルの講義の内容を詳しく紹介している。ネット上で読めるリソースを探しているという方にはおすすめ。ただし、理論的な面についてはほとんど詳しく触れていないので、理論面に興味がある人は、本を買うしかないだろう。

『これからの「正義」の話をしよう』/ペンギンはブログを見ない

法律関係に詳しい方らしく、法学の理論的な話とサンデルを関連させているのが興味深い。

[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)/極東ブログ

サンデルの議論は、直接、ナショナリズムを肯定するわけではないが、ナショナリズムと対立関係にあるリバタリアニズム的、リベラリスト的価値観を否定することで、結果として、ナショナリズムを肯定する方向を向いている。finalvent氏は、こうしたサンデルの議論の背景として、サンデルが「国家」を軽視していること指摘する。これは、非常に重要な論点ではないかと思う。

市場原理批判の常識 - 『これからの「正義」の話をしよう』/池田信夫

リバタリアンでもある経済学者、池田信夫氏による書評。短い文章だが、サンデルとリバタリアニズムとの関係については過不足なく説明している。サンデルに対して、リバタリアニズムの立場から、まともに「反論」をしてしまう素人がいる中で、「こうした批判に対してコミュニタリアンが十分な答を用意していないことも、著者は正直に認める」と適切に整理をしている。また、「日本ではよくも悪くも「伝統」とか「国益」といった曖昧な価値を絶対化し、それを基準にして「格差」や「品格」を論じる傾向が強い。こうした低次元のパターナリズムに対しては、本書が前半で提示しているリバタリアンの立場からの批判で十分である」という部分には全面的に賛同したい。

理の不安 - 書評 - これからの「正義」の話をしよう/404 Blog Not Found

小飼弾氏による書評。大部分は内容に立ち入った話ではないので、賛成も反対もないのだが、以下の部分だけはどうかと思う。「この文言だけ見れば、非実在青年を法で積極的に保護したりするのは正しいことのように見えるが、著者の真意は真逆である。政治が道徳に関与するということは、政治もまた理の不安に耐えなければならないことを意味するのだから」。いやいや。サンデルの主張に基づけば、非実在青少年の保護も「可能性としてありえる」ということになる。それ以上でも以下でもない。だから、「真意は真逆」と言うのはさすがに言い過ぎなのではないだろうか。おそらく、小飼弾氏としては、池田信夫氏の指摘のような「低次元のパターナリズム」への批判として受け止めたのだろう。だとすれば、無理矢理その方向で解釈できないこともないが、「真意は真逆」というのは不用意ではないかと思う。

米国におけるリベラリズムとリバタリアニズムのルーツ/MIYADAI.com Blog

宮台氏の「オビ文」に対しては批判が多い。しかし、ベストセラーのオビ文として適切かどうかはともかく、言っていることそのものは正しいと思う。宮台氏がなぜあのようなオビ文を書いたのかは、以下のTwitterのつぶやき(link)を読むと分かる。

その意味で、僕はサンデルの「市民的徳」論も、「再帰的リバタリアンとしてのパターナリズム」という文脈で読みます。かかる文脈は、彼の主著2冊が、「リベラリズムへの原理的批判」⇒「コミュニタリアニズムの歴史的正当化」という順序で書かれたところに瞭然だと考えます。米国史の中で読むのが大切。」。

「再帰的リバタリアンとしてのパターナリズム」というのは、私が本稿で指摘したように、正義のあり方についての(メタな)正義を根拠なく押しつけようとしているということであり、専門用語を使って短く言うと宮台氏のようになる。そして、その結論にたどりつかせるための補助線が、「リバタリアニズムと共同体主義は意外に近い」という宮台氏の話である。私の文章では、「アリストテレス→アーレント」という別の補助線を使ったが、これは思想史に対する関心の違いと読者層の違いによるもので、サンデルに対する理論的な理解は同じと言えるだろう。私は宮台氏の話にうなずきながら、勉強させていただく立場だが、そんな「3周くらい先を言っている」話をオビ文に書いても、理解されないのは仕方ないのかもしれない。

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社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠

日記・コラム・つぶやき | 2010/09/04

「社会学玄論」の最新記事の中で私の記事が取り上げられています。その中で、私は「相対主義者の系譜に属する」とされてしまいました。もしこれを見て私が「相対主義者」だと誤解する人がいたら、それは「死ね」と言われるのに等しい屈辱です。ついでに社会学玄論の過去の記事を見ていたら、ニセ科学批判を批判する記事が多数あり、私の立場と根本的に違っていることが分かりました。

読者の中には社会学玄論と私の主張を一緒くたにして「相対主義」「ニセ科学批判への批判」などと考えている人がいると思うので、このあたりで立場の違いを明確にしておきたいと思います。

○ 相対主義=相対性原理主義に陥っている

私の違和感の原因は、以下の言葉に集約されています。

相対主義は、多神教であり、寛容であり、平和をもたらす使者である。

科学主義者(ニセ科学批判者)が相対主義者を嫌う根本的理由

私は相対的視点(メタな視点)の重要性を指摘している(link)という点で社会学玄論と共通です。しかし、相対的視点も一つの視点に過ぎない以上、目的もなく相対的視点の重要性を語ることができないと強調するtところが大きく異なります。相対的視点の必要性を訴えるときは、特定の立場を取った上で、その立場から相対的視点の必要性を訴えないといけないのです。私のように「相対的視点も相対化してとらえる」という立場は、「原理主義批判」と同時に「相対主義批判」の立場であり、「相対主義」ではありません。

私が、自分のホメオパシー関連の記事の一部(link)で、無理矢理「ホメオパシーの人たちを説得するために、どうすれば良いか」という問題設定をしたのはこのためです。これは相対主義のパラドックスを避けつつ、相対的視点を強調するために必要なことだからです。「疑似科学の人たちを説得するため」という目的なら、多くの人が受け入れるだろうと考え、その目的のために相対的視点を持つことの重要性を指摘しました。もちろん、「その議論の目的は間違っている」と言う人はいますが、「あなたに語っているのではない」と言えば済むことになります。また、この立場から、私はニセ科学批判をする人たちを批判していません。彼らは科学の内部の問題としてニセ科学を批判しているのであり、科学の外側からそれを否定することはできないと思われるからです。

これに対し、社会学玄論では、「相対主義は(中略)平和をもたらす使者である」と相対主義の素晴らしさが声高に謳われています。たしかに、こういう立場もあるでしょう。しかし、これは「民主党が素晴らしい」とか「軍備反対」とか言うのと同じように、一つの政治的、思想的な心情を表明しているだけです。こうした立場から相対的視点の重要性を訴えるのは、いわば「相対性原理主義」です。たしかに、かつて思想的潮流として相対主義が流行した時期はありました。しかし、今となっては時代遅れ以外の何ものでもないでしょう。「ずれた視点で語って自己満足に浸っている」と思われるのが関の山です。

ちなみに、システム論は、相対的視点と関係していますが、根本的には、相対主義と距離を置くという特徴があります。社会学玄論が「究極のラディカル・システム論者」(link)と自称しながら、なぜ相対主義に陥るのか良く分かりません。

○ 現代社会のあり方を無視している

根源的偶然性という言葉は社会学玄論のこちらのエントリーで説明されていますが、この概念自体は一般的なものです。科学は科学の法則を調べることができますが、なぜその法則が生まれたのかということについて触れることができません。法律学は法律の運用上の原理について考えることができますが、そうした原理がなぜ生まれたのか、根本的なところでは説明することができません(語ろうとすると「神話」にしかならない)。こうしたことを「根源的偶然性(未規定性)」と言います。私もホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線で、ほぼ同じ趣旨のことを簡単に説明しています。

さて、根源的偶然性に突き当たったとき。社会の外側(宗教等)にその根拠を求めるのか、求めないのかという問題はありますが、いずれの立場を取ったとしても、「それを認めるしかない」ということには変わりません。これは、私たちが議論をするコミュニケーション空間にも成り立ちます。この根源的偶然性に気づいたとき、コミュニケーション空間の前提を無視した一方的な言説は、何の意味も持たないと考えるのが普通でしょう。私たちが学問的な議論をすることができるのは、そこに学問的議論についてのコミュニケーション空間があるからであり、これは合理性によって成り立っているものです。これは否定しようもない現実なのです。

かつて流行した相対主義は、合理性一辺倒だった時代に、それに対する批判として成り立っていたものです。合理性一辺倒が問題だと社会的に了解されることが、ナイーブな相対主義に意味を与えていたのです。ところがいったん、相対主義が一般的になり、「合理性一辺倒」が過去のものになると、相対主義は無効になります。こうした状況では「特定の目的のために相対的視点の重要性を語る」しかないのです。

もちろん、違う見方もできます。現在、議論をしているコミュニケーション空間を超越するものとして、「相対主義」を置くという立場です。つまり、今、議論をしているコミュニケーション空間は「仮」のものであり、どこかに相対主義を理解してくれる人がいるはずだ。自分は、相対主義を理解してくれるコミュニケーション空間に身を置いており、この人たちとは本気で議論する気はないのだ。こう考えるのなら、社会学玄論で取られている立場も分かります。しかし、残念ながら「相対主義を理解してくれるコミュニケーション空間」など、現代社会のどこにも…正確に言えば、本棚の本の中にしか…ありません。かつてはあったかもしれませんが、消滅してしまったのです。

○ ニセ科学批判を不当に批判している

科学は、現在という時点において「何が科学的で何が科学的ではないか」を判断するロジックを持っています。これは、科学の根拠付けとも、根源的偶然性(link)とも全く別の問題であり、科学の外側の問題ではなく、科学の内側の問題です。科学じゃないものを科学という人たちに対して、「それは科学ではない」というのは当然のことなのです。

たしかに、大槻義彦あたりは、この一線を越えている面があり、そのためにニセ科学批判が低レベルのものだと見られていた時代もありました。しかし、菊池誠氏がこの点に関して根本的に間違っているとは思いません。過去の発言の中に「一線を越えてしまった」ものがあるという批判もあるようですが、少なくとも大部分はそうではないと思います。菊池氏がフォロワーを増やしているのは、このあたりの「謙虚さ」によるものだと理解しています。だから、私は一連の記事でもニセ科学批判の主流の人たちを批判せず、ネットで集団的熱狂に陥っている人の一部が「一線を超えている」ということだけを批判しました。社会学玄論では、こういった人たちが一緒くたに批判されているように思えます。

社会学玄論の立場は、私がネットに蔓延する科学教で批判した「ある立場の議論とメタな議論を区別できない」主張=原理主義ではないでしょうか。つまり、「科学の立場からの批判」と「メタな立場からの批判」をごっちゃにして、「科学の立場からの批判」を批判しているのが社会学玄論であるようにも思えます。もしそうだとしたら、まさに「相対性原理主義」に陥っているのではないかと思います。

○議論の前提となる合理性すら否定してしまっている

私は、ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線において、宗教と科学を分離する脱呪術化、近代合理性のあり方を踏まえた上で、その限界について議論しました。科学はホメオパシーを否定できないで、「ホメオパシーを説得する」という議論の目的を設定したのも、一見して「合理的」と思われる視点を前提にして、その目的の達成のためには、限界の把握が必要だという議論です。

ところが社会学玄論の論宅氏は、こちらの記事のコメント欄で、

「脱呪術化・合理化した近代社会だからこそスピリチュアルカウンセラーや占い師は批判的に見られるにすぎません。彼らを批判する人は、近代人として科学的価値観を道徳として内面化しているわけです」

と述べています。これは一面的には正しい。正しいのだけれど、ここで「合理化した近代社会」をナイーブに否定してしまうと、議論の基盤そのものが崩れてしまいます。「こいつはスピリチュアルカウンセラーと同じように、変なことを言っているのに過ぎないんだ」と思われて終わりでしょう。私たちは、「脱呪術化・合理化した近代社会」を前提に議論しているのだから当然です。論宅氏の議論は、思考実験としてはおもしろいかもしれませんが、相手の議論とかみ合っていないのです。

○ おわりに:相対主義の罠

いろいろ批判的な書き方をしましたが、社会学玄論の立場は、立場としてはありえるので、全面的に間違っていると言うつもりはありません。しかし、それはナイーブな「相対主義=相対性原理主義」であり、現代の社会学、特に社会システム論の立場を取る社会学者とは大きく異なるのではないかと思います。また、こうした立場からニセ科学批判を取り上げても、単にニセ科学やスピリチュアルなものと同一視されるだけではないでしょうか。それは、少なくとも私の立場と大きく異なるものです。

相対主義は、相対的視点を取ろうとする人が陥りやすい罠です。また、「相対主義の罠」の回避そのものは理論的にできるとしても、「どうやって実効性のある議論をするか」というテクニックは、あいかわらず難しいままであり、これについて私はまだまだ未熟です。今後も、そうした練習を兼ねて、ブログの記事を書いていければと思っています。

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ホメオパシーは魂を救うか―宗教と科学の境界線

経済・政治・国際 | 2010/09/03

ホメオパシーは、現代医療で「リスクの問題」として無視されてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与える役割をはたしてきたと言えます。しかし、現代社会においてこうした「宗教と科学の越境」は許されるのでしょうか。現代の医療からこうした要素を排除するべきなのか。そもそも排除できるのか。こういった問題について考えていきたいと思います。

○「リスク」が取りこぼすもの

前回の記事で書いたように、医療にはリスクがつきものです。ある治療を受けたとき、治らない人、副作用が出る人は必ずいるのです。風邪で使われる薬の副作用のリスクはわずかですが、治療を受けても受けなくても、数十パーセントのリスクで死ぬというような病気もあります。

どのようなケースでも、治るかどうかは統計の問題です。治らない場合は、統計上のサンプル(一症例)として扱われ、そこには何の意味づけもされません。そして、「意味づけをされない」ことは、客観的な医療を実現するために欠かせないことです。

これは、病院に行って病気が治ったという体験しか持ってない人には、大した問題ではないかもしれません。しかし、「もうあなたは治りません」「ずっとこの苦しみに耐えながら生きるしかない」と言われた場合、どうでしょうか。医学的に言えば、「治らない」のは「一症例」であり統計上の問題です。言い換えれば、医療で扱われている苦しみは無人称の<誰のものでもない苦しみ>であり、<私の苦しみ>ではないのです。そうした中、患者自身も、代替可能な非人間的存在、単なる記号として扱われていることに、否応なく気づかされることになります。

人は、「治るため」「将来のため」というように、何らかの意味づけがある苦しみに耐えられても、「何の意味もない」「統計上の一サンプルに過ぎない」苦しみに耐えるのは苦手です。意味づけされない「終わりなき日常」にすら耐えられない私たちが、意味づけされない「終わりなき苦しみ」を耐えるのは困難でしょう。意味づけされた苦しみを生きる3ヶ月と、意味づけされない苦しみを生きる6ヶ月。もし、二つしか選択肢がないのなら、前者を選ぶのは当然です。

余命の短い子供に対し、親が「治ったら遊びに行こうね」と励ますことがあります。しかし、これは子供だから可能なことです。大人は「ウソを付く」ことによって、子供の苦しみに意味づけをしたのです。しかし、現代社会に生きる大人が、同じような意味づけを受けることは困難でしょう。末期ガンが治らないという場合にしても、慢性の疾患が治らないという場合にしても、多くの大人は、その現実を知ることになるからです。

○人間性の回復としての…

最近話題になっているホメオパシーは、まさに人々のこうした要求に応えるものです。ホメオパシーは、物質が1分子が残らなくなるまで希釈した砂糖玉(レメディ)が「荒唐無稽」なものとして注目されていますが、もう一つのポイントが「好転反応」です。好転反応とは、レメディによって自然治癒力が高まったとき、一時的に出てくる症状の悪化だとされます。

好転反応は科学的には、正しい判断を曇らせるものです。そして、この理由で、危険なものとして扱う人も少なくありません。しかし、好転反応のポイントは、「苦しみに対する意味づけ」とも言えます。「この苦しみは治るためのプロセスなんだ」と考えることは、現代医療で「リスクの問題」としてゴミのように掃き捨てられてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与えてくれます。ホメオパシーは、現代医療で代替可能な非人間的存在として扱われてきた患者が、代替不能性=人間性を回復する手段と言うこともできるのです。

そして、こうした「苦しみに対する意味づけ」は、もう一つの効果を期待できるかもしれません。それは、「苦しみに対する意味づけ」によって、本当に自然治癒力が高まるという効果です。この効果は、科学的に立証できないわけではないかもしれませんが、現代の社会でこれを立証するのはかなり困難です。薬の直接的効果と異なり、少なくとも「効果がないこと」を簡単に示すことはできません。

さて、こうした「苦しみに対する意味づけ」は、通常なら宗教の役割です。「過去の罪の償い」「来世で幸せになるための手段」表現はいろいろありますが、多くの宗教が「苦しみに対する意味づけ」をしていることには変わりません。ところが、日本では、宗教に対する嫌悪感が強く、「病気の問題を解決するのに宗教を頼るのは危険」と考えている人は多いと思います。こういう人が、医療における「意味づけされない苦しみ」に突き当たった時、唯一取れる手段が「ホメオパシー」であるという面は、少なからずあるでしょう。

○科学と宗教の境界線

こう言うと、まるで手放しでホメオパシーを推奨しているように思われそうですが、そういうわけではありません。ちょっと違う観点から考えたいと思います。

「脱呪術化」という概念があります。これは、近代化された社会において、占いや呪術のように非合理的なものが取り除かれることを指す社会学の概念です。さて、「脱呪術化」というのは、一見すると、宗教がなくなることのように思えるかもしれませんが、そうではありません。実際、「脱呪術化」されたと言う欧米でもキリスト教がなくなったわけではありません。「脱呪術化」というのは、単純に言えば宗教と社会(政治、法律、経済を含む、さまざまな社会関係)の分離であり、科学について言えば、宗教と科学の分離です。

科学の場合、どんなに世界の法則を明らかにしたとしても、原理的に科学が把握できない、科学の外側の領域が存在します。その代表例が「法則の根拠」と「精神の領域」です。まず、科学は法則によって現象を説明することができても「なぜ法則が作られたのか」を説明することはできません。そこで「世界の法則」を作ったのが神だという立場を取った上で、「神が作った世界の法則」を探求しようとするのが現代の科学者です。これは、キリスト教社会で科学が発達した理由の一つだとされています。また、科学は、「苦しみの意味づけ」のような精神の問題を扱うことはできません。客観的な検証の対象とならないからです。こうした問題もまた宗教の領域と考えることで、宗教は科学と両立しようとしてきました。

こうして、人間が把握できる世界の限界を定めて、「宗教」をその外側に追い出す、これが「脱呪術化」と言うことができるでしょう。こうした「宗教と科学」の境界線を決める主導権を握ってきたのは科学の側であり、宗教の側ではなかったということは興味深いことです。科学の発展に応じて、宗教はその外側に追いやられてきたのです。こうして宗教を科学の外側に追いやることで作られたのが、近代的な合理的な精神であるとされます。日本ではしばしば誤解されるように、宗教的なものを否定することが合理性ではないのです。

これは日本の宗教でもおおむね同じです。日本の宗教は、キリスト教ほど明確な脱呪術化の過程を経ていないわけですが、それでもある程度は脱呪術化されています。病気の治療に当たっての、精神的な安定や自然治癒力の向上を訴える宗教はあっても、「医者に行かなくても良い」という宗教は一般的ではありません。

ただ、そうした中、科学では説明できないような問題を扱う「科学もどき」もあって、これは「疑似科学」と呼ばれます。これと反対に、宗教でありながら、科学や社会に反するような宗教があり、これは「カルト」(反社会的宗教)と呼ばれます。つまり、宗教と科学、宗教と社会の境界線が設けられている現代社会において、この両者の境界線をまたぐような存在が、「カルト」と「疑似科学」と言うことができます。

このように考えると、「ホメオパシー」がなぜ問題視されるのかも分かると思います。ホメオパシーは、科学を名乗っていながら宗教的な領域に手を出している。一方、宗教的な問題を扱っていながら、医療の否定という反社会的な方向に進む可能性を持っている。こうした「科学と宗教の越境」こそが、ホメオパシーが批判される理由だと考えることができます。

○医療に何を求めるのか?

さて、ここで少し話を戻します。もし、現代が、「脱呪術化」が成し遂げられた社会だとしたら、私たちは医療に対して、冷徹なリスク計算に基づいた合理的な治療だけを求めれば良い、そうではない部分は、宗教に求めるべきだということになります。科学と宗教を越境したホメオパシーは批判されてしかるべきでしょう。これがまさに「近代合理精神に基づいた医療」です。

ただ、ここまでの「脱呪術化」の議論が、あくまで理想的な近代社会について述べたものだということは、注意しないといけません。たしかに日本は前近代と比べれば「脱呪術化」されたかもしれません。しかし、日本は、多くの人が神社にお参りもすれば、占いもする、チャペルで結婚式をするという、いわゆる多神教的な社会です。そして、「ことさらに意味を与えない」宗教には寛容でも、苦しみに意味づけを与えるような宗教には寛容ではありません。人間が把握できる世界の限界を明確に定めた上で、その外側の領域=宗教の領域に、意味や根拠を求めるキリスト教と異なり、もっと曖昧で多様な意味や根拠の中で生きているとも言えます。こうして科学と宗教の境界が曖昧なのが、私たちの文化の特徴とも言えるでしょう。

こういう状況で、本当に合理主義的な「科学と宗教の分離」が可能なのか、また、そうした医療が良いのか、という問題はあると思います。これは前回の記事の内容とも関係しています。前回の記事では、患者が医療の「リスク」(医学的に評価されるリスク)と、「リスクのリスク」(医学的なリスク評価が間違えるリスク)を区別できないために、治療に失敗した人が医療不信に陥ってしまうという話を書きました。これはより一段立ち入って考えれば、「医療に救いを求めてしまう患者」の問題とも言い換えられます。救いにリスクがあってはいけないので、救いがなければ他の救いを求めてしまうのです。こういう患者は、神社や占いと対等のものとして医療を見ているとも言えますが、こういう患者の求めに医療はどこまで応えれば良いのでしょうか。苦しみに意味づけを与えるような宗教に不寛容な社会で、医療が意味づけを与えなければ、誰がそれを与えるのでしょうか。

もし、こういう「科学と宗教の越境」がある程度なら仕方ないことだとしたら…、単に「科学と宗教の越境」という理由でホメオパシーを批判することができるのか疑問です。最近話題になっているような社会的に好ましくない「越境」、医療を否定してしまうような「越境」を牽制しつつ、専門知識のある医師等によって、適切にコントロールされた状態でホメオパシーを利用することこそが有効という結論もありえます。具体的には、医師の診断によって、治る見込みのない患者等、ホメオパシーが適切と思われるケースのみ、「やさしいウソ」としてホメオパシーを使うというものです(太字部分追記)。これは最近、批判の矢先に立っているホメオパシー医学協会とは別団体の、ホメオパシー医学会の主張とも近いものです。

個人的には、これもちょっと行き過ぎで、「医療が『救い』という宗教的なものに足を踏み入れざるをえないとしても、その境界線が患者側に分かるようにしないといけない」あたりが妥当だと思います。いろいろ問題があることを承知で、現代社会ではこのあたりで妥協せざるをえないのではないかというのが自分の立場です。ただ、これは「社会の中での合理的な価値」を重視する私の政治的立場によるものであり、立ち入って考えれば、さらに複雑な議論が必要でしょう。これは、宗教を信仰していない人にとって「科学と医療の越境を禁止する」立場とほとんど変わらないので、上に挙げた問題はほとんどそのまま残ります。ガンの不告知の是非などともつながる問題であり、「自己決定権 vs パターナリズム」の問題として長く続けられてきた論争とも関係します。

ここで、これ以上詳しく論じることはしませんが、少なくとも言えることがあります。それは、これが科学の問題ではなく、社会の問題だということです。ホメオパシーは科学ではないというところまでは科学の問題だとしても、そこから先には、さまざまな議論が絡み合っているのです。

○関連記事

NATROM氏が似た論点の記事を書かれています。ホメオパシーは患者の苦しみに「意味づけ」を与えてきたというのが私の論点ですが、患者に「ぬくもり」も与えてきたということだというのがリンク先の趣旨です。いずれも、合理主義的な医療では不可能だという意味では私の論点を補足するものだと言えます。

「冷たい」標準医療は「ぬくもりある」代替医療に勝てない

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医療不信のリスク論

経済・政治・国際 | 2010/09/02

最近、科学の根拠についての記事をいくつか書いてきましたが、今回はちょっと話を変えて、違う観点から考えてみたいと思います。

私たちは、有効な治療を拒否するような患者の話を聞くと、「非科学的な判断」「非合理的な判断」だと考えるでしょう。しかし、「科学的前提だけに基づいて合理的判断をする個人」という仮定をしたとしても―むしろ、そう考えればこそ―有効とされる治療を拒否することが合理的と言える場合があります。

○「リスクのリスク」は評価できない

リスクを計算するとき、何らかの前提に基づいてリスクを計算しないといけません。交通事故のリスクや火力発電所の爆発事故のリスクは、個別の事故の範囲は科学的に限定されるし、将来、全く違ったパターンの事故が起きるとは思えないので、過去の事例からリスクを計算することができます。

さて、リスクがある前提に立って計算されているときも「その前提が本当に正しいのか」というリスクはあります。これには原理的に計算しようがないものです。原子力発電所で事故がある度に、「想定外の事故だった」という情報が流れますが、原子力発電所のリスク計算の前提が間違っているという未知のリスクは計算できません。また、治療の副作用のうち、現在分かっているものについてはリスクが評価されます。しかし、薬害は、通常、当初リスクと思われていなかった大きなリスクが後から顕在化することによって起きるものですから、今使われている薬に未知の問題がある可能性は否定できません。こうした「リスクの前提が間違っているというリスク」は基本的に計算不能です。

○「リスクのリスク」と医療システムへの信頼

こうした「リスクのリスク」の評価は主観的(あるいは共同主観的)なものにならざるをえません。これは「科学」とは別のレベルの問題だということが重要です。たとえば、治療法の安全性は、素朴な意味での「科学的事実」ではありません。ある治療に特定の効果がどの程度あるか、特定の副作用がどの程度あるか、生存率がどの程度高まるか、は科学的事実になりえますが、未知の副作用を含めた「安全性」は科学的事実にはなりないのです。だから、科学は信頼するが医療における「リスクのリスク」を大きく評価する人が出てくることになります。

もちろん、医療システム全体を歴史的に見て、次のように考えることもできます。「後から副作用や治療の無効性が分かったケースはあるかもしれない。しかし、現在から振り返って評価してみると、そうした『リスクのリスク』はそんなに大きくないと判断できるし、減りつつもあると考えられる。また、治療を受けないリスクよりずっと小さいと考えられる」。これはむしろ普通の人の感覚に近いでしょう。

しかし、「現在から振り返ってみると」という判断自体に「リスクのリスク」があるのがポイントです。このため、「リスクのリスク」を過大評価する人は「現在から振り返ってみると…」という判断そのものを信頼しません。これは言い換えれば、医療システムへの信頼の根拠の一つであるリスク評価が、それ自体、医療システムに対する信頼に支えられているということです。医療システムを信頼している人は、信頼→信頼→信頼という循環でより医療システムを信頼することになりますが、医療システムを信頼していない人は不信→不信→不信という循環で医療システムを一層信頼しないことになります。私たちの社会関係が「信頼」で成り立っていることを考えると、これは、ある種のコミュニケーション障害とも言える状態ですが、「科学的前提に基づいた合理的判断」という観点から考える限り、これはどうしようもない問題なのです。一般に「信頼」の問題は合理性だけで解決できないということは良く知られています。

○ 患者にとってのリスク計算

さて、実際の治療にはさまざまなレベルのリスクがあり(死亡、後遺症、美容上の欠損など)一概に言うことはできません。そして、このリスクの種類の違いが、治療を受けるかどうかの判断に重要な影響を与える場合もあります。たとえば、危険な手術を受けるかどうか判断する場合、手術を受けるリスクと受けないリスクでリスクの種類が違うため、「リスクのリスク」を全く想定しない人にとっても、難しい問題になることが多くあります。

ただ、「リスクのリスク」を重視する人は、もっと単純なケース、つまり、多くの人が治療を受けることが明らかであるような場合でも、治療を受けないという選択肢を取ることになります。こうした状況を説明するため1種類のリスクだけが問題になっているという非常に単純化されたケースを考えることにしましょう。医学的リスク判断が間違えることによるリスクを想定する患者にとって、治療と関係するリスクは以下の3つになります。

医学的に知られている治療を受けるリスク:r1
医学的に知られている治療を受けないリスク:r2
医学的なリスク判断が間違えることによるリスク(リスクのリスク):p

治療を受けることによるリスクr1と治療を受けないことによるリスクr2は医学的に分かるものであり、治療を受けるリスクr1の方が治療を受けないリスクr2よりも小さい(r1 < r2)という関係にあります。このとき、

患者が見積もる治療を受けるリスク:R1=r1+p
患者が見積もる治療を受けないリスク:R2=r2
患者が治療を受ける条件:R1 < R2 ←→ r1+p < r2 ←→ p < r2-r1
(厳密にはR1=1-(1-r1)×(1-p)=r1+p-r1×pだが、通常、最後の項は無視できる)

となります。

式だけだと分かりづらい人も多いと思うので、言葉でも簡単に説明しましょう。医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを十分に小さく見積もる「普通の」人であれば、医学的に知られているリスク(r1、r2)だけを比較して治療を受けるかどうかを決めます。医学的には治療を受けるリスクr1の方が小さい(r1 < r2)ので、常に治療を受けるという選択肢を取ることになるでしょう。

しかし、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを大きく見積もる人は、治療を受けることによるリスクと医学的なリスク判断が間違えることによるリスクの合計(r1+p)が、治療を受けないことによるリスクr2を下回らなければ治療を受けるという判断をしません。言い換えれば、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpと治療を受けることによるリスクの減少(r2-r1)を比較し、治療を受けることによるリスクの減少(r2-r1)が、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを上回った時(p < r2 – r1)だけ治療を受けるという選択肢をすることになるのです。

たとえば、治療を受けることによるリスクr1が8%、 治療を受けないことによるリスクが40%であり、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpが50%と見積もられる場合を考えてみます(右図)。こうした患者は、治療を受けることによるリスクr1と医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpの合計(58%)が、治療を受けないことによるリスクが40%よりも高いため、「治療を受けない」という選択をすることになります。もちろん、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを少なく見積もる「普通の人」は、間違いなく治療を受けるという選択をすることになるでしょう。

○ リスクを回避することの「リスクのリスク」

こうした「リスクのリスク」の見積もりにはさまざまなものがあります。どんなに確実で有効な治療でも絶対に受け入れないという人はいるわけですが、そういう人にとって、「リスクのリスク」は、100%近いものとされていると考えることができます。ただ、もう少し穏当に1/100とか1/1000程度の「リスクのリスク」(医学的なリスク判断が間違えることによるリスク)を想定している人を考えることにします。

こういう人は、生死にかかわる病気になったとき、一般の人と同じ判断をするわけですが、少ないリスクを回避するような処置に関しては、違う判断をすることになります。たとえば、ある処置を受けなければ1/2000のリスクで死に、受ければそれを防げたとします。ここで、「リスクのリスク」を「1/1000で死ぬ」と見積もる患者がいたとすると、その患者は、その治療を受けないということになるでしょう。これは患者にとってはある意味「合理的」な判断です。

ちなみに医師はどうでしょうか。医師にとって1/2000のリスクは、一日1人該当する患者を診察すると5年に一人は死ぬということです。それで多額の損害賠償を負ったり、医師生命を絶たれたりすると考えれば、とてつもなく大きなリスクに感じられるでしょう。一方、治療を担当する一般の医師は、後になってその処置の副作用が判明しても責任を問われないため、「リスクのリスク」は無視し、1/2000のリスクだけを考えれば良いのです。こうして、医療システムを信頼していない患者と医師の間には、埋めることのできない認識の差が生まれることになります。

○ リスクと信頼

さて、ここまでの議論に対し、多くの人はある疑問を感じたのではないでしょうか。それは、「リスクのリスク」なんて、そんな面倒なことを考えている人は多くないのではないか。私たちは、もっと漠然と医療を信頼しているし、医療に対して不信を抱く人は、もっと漠然とした不安を抱いているのではないかということです。

これはもっともです。冒頭で書いたように、ここまでの話は、「科学的前提だけに基づいて合理的判断をする個人」という仮定でなされたものです。だからこそ、「リスク」と「リスクのリスク」を区別した上で、「リスクのリスク」を大きく見積もるという議論が可能になりました。ただ、実際には「リスクのリスク」の厳密に区別して理解するくらいの合理的思考ができる人であれば、経験的理由で「リスクのリスク」をそれほど大きく見積もる必要はないという、判断に至るケースの方が多いでしょう。

むしろ、多くの人は医療システムに対する信頼をもっと漠然とした意味で理解しており、「リスク」と「リスクのリスク」は区別していません。たとえば、薬を飲んでも良くならない、副作用が出てしまうというのは多くの場合、「リスクのリスク」ではなく「リスク」、つまり、医学的にも把握されているリスクの問題です。つまり、そのことはリスクの小さい別の治療を受けない理由にならないはずです。しかし、こうした「リスク」を「リスクのリスク」と区別しない人は、リスクが小さいはずの別の治療も拒否することになってしまうわけです。この状況は、「医療に対する過度の期待が裏切られた」と言うのが一般的な表現でしょうが、それは言い換えれば「リスク」と「リスクのリスク」を区別せずに、小さい「リスク=リスクのリスク」を期待したのが裏切られたということです。

ここで、「リスクのリスク」は、客観的には求まらないということを思い出してください。また、「リスクのリスク」は信頼の問題であり、「信頼→信頼→信頼」、あるいは「不信→不信→不信」という循環を形作っていることを思い出してください。たとえば、「リスク」の問題を「リスクのリスク」と区別せず、治療を受けるリスクが一般に1/10くらいだと見積もる人がいたとします。この思考のプロセスは合理的ではないかもしれませんが、いったん「リスクのリスクを大きく見積もる」という結論に至ると、「不信→不信→不信」という循環が生じてしまいます。この循環そのものは合理的な判断なので、該当する治療のリスクの小ささ、つまり、「この治療は安全で、メリットが大きいですよ」ということをいくら伝えても、患者は聞く耳を持たなくなるわけです。

これを示したのが、右の図です。黒い矢印は「合理的思考」で赤い部分は「非合理的思考」を表しています。赤い矢印は間違っているにしても、それが生み出す黒い矢印の循環はある意味合理的なものであり、簡単には否定できないのです。この場合、その人自身の過去をたどって赤い矢印をあぶり出さないと、この循環から抜け出すことはできないでしょう。

いずれにせよ、医療不信には、さまざまな要素が相互に関係しており単純化して考えることはできません。しかし、そうした要素の一つとして、こうしたリスクをめぐる問題があるということは、考えないといけないのではないかと思います。

ちなみに、このことは、直接的には患者が「リスク」と「リスクのリスク」を区別することができれば、「不信→不信→不信」の循環に入らずに済むという対策の有効性を示唆します。ただ、実際にはそんなに単純な問題ではありません。次回の記事ではこういった論点の一つについて論じることにします。

次回の記事:
ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線

○関連記事

本文の一部は以下の記事を参考にして書きました。ただし、議論そのものは全く別の目的のものであり、批判とか肯定とかそういう趣旨のものではありません。

ホメオパスの成功体験が悪性リンパ腫を見落とさせた/NATROMの日記

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ホメオパシーの議論、7つのQ&A

経済・政治・国際 | 2010/08/29

この記事は、「このブログで行われたホメオパシーの議論」に関するポイントの整理です。「私たちはホメオパシーをどう考えていけば良いのか」という主に社会的な問題について扱っています。

最近、ホメオパシーに関する議論が盛り上がっています。ただ、自分はある疑問を持たざるをえませんでした。「この議論はいくら盛り上がっても、ホメオパシーに大きな影響を与えないのではないか」。すでにコアな信者になっている人はもちろん、医療不信、科学不信の結果ホメオパシーに「はまる」ような人に対しても、それを防ぐ効果はないのではないかと言うことです。もちろん、「動機がないのに、なんとなくホメオパシーをやってしまう人が問題。コアな信者は切り捨てれば良い」という立場の人はいると思います。これが間違っているとは言いませんが、本当にそれだけで良いのか。そういう思いもあって、最近、科学やホメオパシーに関する記事をいくつか書きました。主なものは以下の2つです。

・ホメオパシーの否定には「科学の立場からの批判」と「相手の立場を踏まえた上での批判」の2種類があり、それを使い分けないと無駄な批判になってしまう(科学はホメオパシーを否定できない
・特定の視点とメタな視点は両立できるので、片方しか取れないと考えるのは間違い(ネットに蔓延する科学教を考える

少しでも多くの人に読んでもらいたいと思い、タイトルや冒頭部分は「釣り」(=関心を引くために、意図的に誤解させる表現)になっていますが、最後まで読めば誤解が解けるように書いたし、中身では結構大事なことを書いたつもりです。基本、第一セクションくらいまでが釣りですので、騙されやすい人はタイトルと第一セクションを読み飛ばしてください。おかげさまで「大漁」で、当然、誤解していると思われる批判もありましたが、無視できないような有意義なコメントも多数ありました。こうしたやり取りをコメント欄だけに置いておくのはもったいないので、Q&A形式で重要なポイントをまとめることにしました。ホメオパシー関連の議論が盛り上がる中、この記事が有意義なものになれば幸いです。

ちなみに、科学とは何かというような理論的な話については、この記事ではほとんど扱っていません。全ての疑問に答えられているわけではありませんが、簡単にまとめたのが、「科学はなぜ正しいと言えるのか」をまとめたこちらの記事と、上の二つ目の記事です。また、「釣り」と言っても、あくまで「誤解されやすい書き方をした」ということであって、間違ったことを書いたという意味ではないので、誤解には一通り反論しています。「付けたマッチは責任を持って消す」という責任意識でしょうか(笑)。

○具体的にホメオパシーをどう説得すれば良い?

もともとの結論としては「説得しようと思ったら、科学の限界を知らなければいけない」という話であって、「これに気をつければ説得できる」とは言っていません。ただ、書いたことの意味を明確にするために、「説得方法」をまとめるなら、以下のようになるでしょう。

1. まず、あなたたちには、あなたたちの世界観があるんですねと認める。
2. その上で、ホメオパシーが、科学とどう矛盾するのか(科学的に見たら、いかにおかしいか)ということを説明する。
3. 科学の方法論の方が優れている理由を説明する。特にホメオパシーのように「正しい」かもしれない仮説は無数にあり、それにとらわれない方が良いことを説明する。

自分の家族や恋人がホメオパシーの熱心な信者だったとき、常識的な人だったら、1は必ず言うと思います。また、知識のある人だったら3も言えるでしょう。3の中には、実際には、相手の生き方や社会の問題も入り、複雑な問題になるわけですが、いずれにせよ科学の問題だけでは無理だというのが自分が言っていることです。私のもともとの主張が、「科学って何なのかを理解して説得するべきだ」という曖昧なものになっているのもこのためです。この中には「説得を諦める」という選択肢も入るはずです。

○ホメオパシーは科学を使って説明しているんだから、科学で説得できるんじゃないか?

自分は、ホメオパシーが「今のところ科学では説明できていない未知の力がかかわっている」「本人の思い込みや実験者効果は無視できない」「治ったという体験がある」この3つの主張をしている時点で、カルト教団に接するのと同じように接しないとダメだと判断しています。なぜかというと、一つに、これらは「検証不可能」な主張であり、科学の範囲で判断できないからです。もう一つは、「治ったという体験がある」というのは科学の別次元での体験の共有を意味しており、批判すればするほど頑なになるだけだからです。

「ホメオパシーも科学を使って説明しているから、科学を受け入れるはずだ」と考える人は、おそらく疑似科学やカルトの人と対話した経験がないのだと思いますが、かなり認識が甘いです。彼らは「科学は完璧ではないが、その完璧ではない科学でさえ、自分たちを支持している」と言うロジックを使うからです。科学者が、科学を分かりやすく説明するのに、ことわざを使う場合があるけれど、それは全てのことわざを受け入れることを意味しませんよね。それと同じです。疑似科学は、「都合の良いように科学を使う」という芸当が可能なのです。まさに「疑似科学」である理由です。ホメオパシーのコアな信者を説得するのに、いくら科学的な実験を積み重ねても意味がないということです。

○「相対的な視点も取るべき」ということは、ホメオパシーを有利にするだけではないか?

私の議論は基本的に、「コアな信者を説得するためにはどうするべきか」という目的を設定して、その中で、主にホメオパシーと科学の関係を考察したものです。この目的が意味がないとか、良くないとか言う話はあるでしょうが、議論の正しさとは別です。その上で、議論の目的が良くないという「ずれた批判」はあるでしょう。

自分が言っているのは、ホメオパシーを相対化して、肯定するべきという話ではありません。科学の立場からも、メタな立場からも、ホメオパシーを批判すれば良いのということです。批判の理由や水準が違うだけであり、この両者を区別することを主張しています。それでも、「メタな立場を取ること」が、ホメオパシーを有利にするのではないかという批判があると思います。というのも、科学的な立場からの批判では「お前は間違いだ」と断言できるのに対し、メタな立場からの批判は、「こっちの方が良い」という話にならざるを得ないからです。相手次第では説得が無理だという可能性もあります。このことがホメオパシーを有利にするというはありえる批判です。

ただ、この理由でメタな説明は有害だという人は、疑似科学やカルトを甘く見過ぎだと思います。科学の立場からホメオパシーを批判したところで、コアな信者はビクともしません。また、科学に不信を抱き、治療拒否をするような人は、いくら社会的に非難されても新たにホメオパシーの信者になっていくでしょう。こういうことを踏まえれば、「メタな立場からの批判」も重要だというのは当然だと思います。

一方、「強い動機もなくホメオパシーにはまってしまう中間層」。こういう人がいたとして「科学的に批判するだけでは説得できるとは限らない」「メタな視点からもホメオパシーを批判するべき」という主張を見て、「ホメオパシーはやっぱり正しいんだ」と思うでしょうか。あまりにも現実的ではない仮定ではないかと思います。

○人が死んでいるのだから、相対的な視点を持てなどと言う悠長なことを言ってはいけない

これも私の議論に対する「ずれた批判」と言えると思います。上にも書きましたが、私が言う「相対化」は、ホメオパシーを肯定することではありません。ホメオパシーの世界観が成立していることを認めた上で、メタな立場からもホメオパシーを批判するべきだと言っているだけです。人が死んでいるからこそ、より有効な説明が必要だという考え方もできます。

以上が直接の反論ですが、ちょっと別の視点から考えてみます。日本ホメオパシー医学協会の主張は科学的に見てめちゃくちゃな部分もありますが、最近注目されている「医療を拒否する人はホメオパシーに限らずいる」という主張はもっともです。周囲の説得にかかわらず治療拒否をして亡くなる方は、ホメオパシーと関係なく、たくさんいます。ホメオパシーがこういう人の心の拠り所になっている面はあると思います。こういう人が「たまたま」事件を起こしたというのが、彼らの主張です。

<客観的>にホメオパシーの有害性を主張するのなら、「ホメオパシーの主張が治療拒否に結びつく可能性」をいくら指摘してもダメで、最低でも「ホメオパシーの信奉者の方が、治療拒否の割合が高い」という数値的データが必要ですが、今のところこういうデータはありません。また、ホメオパシーが治療拒否を誘発するのか、治療拒否をするような人がホメオパシーに傾倒するのかという因果関係の問題もあります。普通に考えて後者の影響はかなり高い気がします。この点をホメオパシー側から反論されたら、返す言葉はありません。

自分はホメオパシーに否定的ですが、それは「ホメオパシー関連の死亡事件があった」からではなく「科学ではない」(科学的視点)からであり、「人間が生きていく上で有用ではない」(メタな視点)からです。「死亡事件があった」から「徹底的に批判せよ」というのは、マスコミの世論操作の手段として有効ですが、そのことの弊害も考えないといけないと思います。もちろん、「正しいかどうかなんかどうでもいい、世論操作こそ重要」というのならそういう立場もあるでしょうが、少なくとも自分はそういう立場とは距離を置きます。

○ホメオパシーの批判者は、相対的視点を持った上で、あえて科学にコミットしているのであり、相対的視点を持てというのは意味がない

疑似科学に詳しい人の中には、科学の立場からの説明に絞る代わりにコアな信者の説得は諦め、良く分からずに騙される中間層を食い止めることだけを目指すという人も少なくありません。これは科学の限界を踏まえた誠実な態度です。ただ、これはあくまで「コアな信者切り捨て」を前提に許される作戦です。こういった立場を自覚している人であれば、私の議論を批判する必要はないでしょうし、自分もそういう人を批判するつもりはありません。

最近、ネットでホメオパシー問題を知った人の中には、まだ、この当たりの切り分けができていない人も多いのではないかと思います。特に、「人が死んでいるから」「ホメオパシーを有利にするから」という理由でメタな立場からの批判を拒否する人の中は、この当たりを理解していない人も多いのではないかと思います。

ちなみに、自分の友人のうち、学問的つながりの人を別にすれば、「相対的視点を持った上で、あえて科学にコミットする」立場を取れる人はかなり少数派だと思います。「科学的に間違い」と言われたら「けしからん」と反応し、「科学の相対性」と言ったら「カルト擁護か?」と反応するのが普通でしょう。「大部分の人が、相対性を理解している」というのは、正直、感覚的に納得できません。

○その方法で本当にホメオパシーの人を説得できるのか

分かりません。もともとそういうことを問題にしているわけではありません。ただ、科学を相対化していない人は、コアな信者100人に話しても一人も説得できないでしょう。実際、説得できたという話は全く上がってきません。しかし、相対化した上で説得する人は、100人のうち何人かは説得できるかもしれません。もっと多いかもしれません。少なくとも可能性があります。これは理論上の問題です。無理なのと、できるかもしれないのは違います。

○相対主義者は、自分の立場まで相対化されるので矛盾するのでは?

自分は「相対化する視点を取れることが大事」と言っているだけで、いわゆる相対主義者(何でもかんでも相対化すれば良いとする立場)ではありません。相対化する視点も踏まえながら、あえて特定の立場を取ることの重要性を主張しています。

このことは、もちろん「相対化する視点を取るべき」という主張そのものにも、ブーメランのように返ってきます。「相対化する視点を取るべき」というのも特定の視点からのものでしかありえないからです。一般に、特定の視点を取るべきという主張が成り立つのは、その視点が「有用」だからです。ホメオパシー問題の場合、「そうした立場を取ることがホメオパシーを説得する上で有用」ということで初めて相対的な視点が肯定されるのです。自分が一貫して「ホメオパシーを説得する方法を考えよう」という立場を取っているのは、こういう理由もあります。

○番外編:偉そうにああだこうだ言いやがって、とにかく釣りタイトル付けるな

・大事な問題に釣りタイトルを付けるなんて不謹慎だろ!!
・そんなの分かってるわ。釣りタイトルに騙されて時間の無駄だっただろ。時間を返せ!!

すいません。今後は気をつけます…なるべく^^。

まぁ、上の2つのように、ちゃんと分かった上での「釣り批判」は受け止めますが、実際には、全部読まないで脊髄反射的に批判した人もいたと思います。そういう人は気の毒ですが自業自得でしょう。

○おわりに(8/31追記)

最初のエントリー以来、誤読の類を否定するのでいっぱいで、「この記事では表面的にどういう問題が設定されていて、それに対してどう答えている」という話に終始してきました。つまり、「コアな信者を説得するためにどうするべきか」という(現実離れしているかもしれない)議論の目的を設定し、それに答えているのだから、間違いではないという立場です。この議論の目的を認める限り、ほとんどの批判は「誤解」になります。この記事でもその延長線上で「公式見解」をまとめました。ただ、「公式見解」における「コアな信者を説得するために」という問題を設定した理由が弱いというのは事実でしょう。誤読的な批判も少なくなってきたので、そろそろ、本来的な私の意図、本当の「書いた動機」を書きたいと思います。これは本文で書いた話(コアな信者を説得するためにどうするべきかという話)と区別されるべき、別の次元の話です。

AKB48に熱狂する若者だって、会話をすると「俺って痛いですよね~」と言います。最近元気のないネット右翼も(ごく一部の熱狂的な人間を除いて)ある種の「痛さ」を理解しているでしょう。これは、社会的にもっと共感を得られる問題でも同じです。大きな殺人事件があったとします。「裁判費用がもったない」「弁護する弁護士も同罪」という人もいますが、大部分が司法制度を尊重しています。また、同情したり社会的観点から原因を考える人もいます。現代社会で「人を殺してはいけない」という規範を共有しない人は異常ですが、一方で多くの人は規範が人為的なものであり、それでもあえてコミットしているということを自覚しているのです。知的エリート層は当然として、知的中間層もこのくらいのことには分かっているでしょう。だから、医療や外交の問題を考えるときはともかく、通常の殺人事件に関して「人を殺してはいけないという規範を相対化するべき」ことをあえて言おうとは思いません。

ただ、ホメオパシー批判はちょっと異常です。一方的な批判しか見られない。これははっきりいって気持ち悪い現象だと感じます。科学は現代社会のコミュニケーションの前提であり、これと異なるニセ科学に対し「異常」という認識を持つのは当然です。だから、どれだけ異常かを挙げることは良いのですが、「痛さの認識」もないと、カルトと一緒です。でも、専門的に疑似科学に取り組んできた人ならともかく、この問題に関して、最近、関心を持つようになった中間層が、どれだけ「痛さ」を理解しているのでしょうか。ホメオパシー批判の社会的意義を超えて、「集団的熱狂」状態になっている面もあると思います。そこで、「コアな信者を説得するために…」という問題を設定し、それについて考えることを通して、こういう「痛さ」を気づいてもらいたかったのです。端的に言えば、「こういうずれた視点も必要だよね」という話ですが、そういう言い方は今どきあまりにも陳腐で痛いので、「コアな信者を説得するために」という問題を設定したわけです。自分はブログで、「マスコミの主張と反対を書く」というポリシーでいますので、自分と同じ意見が一般的だったら逆のことを書いたと思います。

今から考えると、「この記事では表面的にどういう問題が設定されていて、それに対してどう答えている」という話に終始してしまった自分も、当初の問題意識が見えなくなっていたという意味で、ちょっと「痛かった」のではないかと思います。また、の設定が、本来の意図を伝えるのに伝わりやすいものだったか、他に方法はなかったのかは、今後検討しないといけない問題でしょう。

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ネットに蔓延する科学教を考える

経済・政治・国際 | 2010/08/25

この記事は、主に科学のとらえ方、相対的視点の重要性とその限界(相対的視点だけじゃダメということ)について説明する記事です。

ホメオパシーについては「ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線」が最新ですので合わせてお読みいただけると幸いです。

○この記事を書こうと思った理由

自分は、「科学教」という言葉を好んで使う方ではなかったのですが、最近、少し考えを変えました。きっかけは、先日、以下のようなことを書いたことです。簡単にまとめると以下のような内容です。

・科学が疑似科学を否定しようとするとき、科学を受け入れている人が分かるように説明することはできるが、そうじゃない人も分かるような説明ができるとは限らない。
・ただ、否定できない状況であっても、そもそも科学とは何かということを踏まえれば、説得できるかもしれない。疑似科学を説得しようとするとき、こうして科学が置かれた状況を理解することが大切ではないだろうか。

科学はホメオパシーを否定できない

この記事に対し、はてなブックマークのコメントには、「科学を否定するのはおかしい」と言う趣旨のコメントがたくさん付きました。自分は決して、科学を否定してるわけではないのですが…。どうも、「科学とは別の正しさもある」という考え方が、彼らに受け入れられなかったようです。

もちろん、特定の状況で科学の立場を取ることが間違っているわけではありません。科学に関する議論の大部分はこれで良いでしょう。しかし、議論の目的や対象によっては、別の視点から考えないと、議論にすらならない場合があります。こういうときにも「科学以外の立場を取るのはダメ」という立場は、「科学原理主義」「科学教」と言うことができます。

では、どうして「科学原理主義」ではいけないのでしょうか。この記事では、こういった疑問に答えるため、「科学の視点」と「科学の立場を相対化する視点」が両立するということ、こうして「メタな視点を取れること」の重要性とその限界(相対主義ではダメだということ)を説明したいと思います。

ちなみに、この記事では、「メタな視点も取れることの重要性と、その限界」一般について説明しているので科学については詳しく説明していません。これについては、ごく簡単にではありますがこちらに書いてあります(仮説と方法論の違い、科学の有用性と説明能力など)。また、議論の全体について、ホメオパシーの議論、7つのQ&A」で若干ですが補足しています

○ものごとをとらえる視点

ものごとは、どの視点で理解するかによって、違って見えることが多くあります。いくつか例を挙げますが、いずれも全く同じ構造をしていることがポイントです。

1.人を殺してはいけないのはなぜか
A:そんな理由などない。人を殺してはいけないなどというのは、今の社会で成立している恣意的な規範であって、時代や文化が変われば、成り立たなくなることもある。
B:人を殺してはいけないというのは、人間社会を成り立たせるために重要な規範。Aのような立場は、殺人を奨励していることになって許されない。

2.科学は絶対的なものか
A:科学が絶対的だとする根拠などない。科学というのは、現代社会で広く受け入れられた、有用かつ説明能力の高い方法論だが、絶対的に正しいという根拠はない。
B:科学は、現代社会において客観性を担保する唯一の方法である。Aのような立場は、疑似科学を奨励することになって許されない。

3.人権は絶対的なものか
A:国家によって保証される人権も、国際社会の調整手段としての人権も、いずれも人為的なものであり、絶対的に正しい概念ではない。
B:人権概念は、人類の叡智の集積である重要な考え方。これを否定するAの立場は、人殺しと同じ。

4.数学は絶対的真理か
A:数学は閉じた体系であって、数学の外に根拠を求めることはできない。
B:数学は科学を初めとする人間の知的活動の基盤。Aは頭がおかしい。

Aの立場では、しばしば対象を「フィクション」(=恣意的、人為的ことの比喩)と呼んだり、「底が抜けている」(=外部に根拠を求められないことの比喩)と呼んだりします。科学だって、人を殺してはいけないという規範だって、数学だって、その内部でしか根拠がない。これは、現代思想で常識中の常識です。

こうしたAの立場から考えると、Bの立場は、一見して、独善的で、非論理的であるように見えます。

しかし、Bの立場は、これはこれで重要なのです。実のところを言うと、私たちは、何らかの意味で「フィクション」であり、「底が抜けている」ものに基づいてしか、ものごとについて議論をすることができません。人間のあらゆるコミュニケーションの枠組みが、フィクションであり、底が抜けているのです。したがって、「フィクション」(=恣意的)であっても、「底が抜けている」(=外部に根拠を求められない)ものであっても、それをあえて「選び取っていく」「信頼していく」しかありません。

つまり、AとBの立場の違いは、根本的には、「とらえ方の違い」「立ち位置の違い」ということになります。一見するとAの立場の方が一般的で優れた意見のように思うかもしれませんが、そもそも、私たちは何らかの「視点」に立ってしか議論をすることができないことを踏まえると、どちらも対等であるとさえ言えるでしょう。

これを、論理学では「メタ」という言葉で表現します。この言葉を使うと、科学の立場からの議論に対して、科学そのものの正当性を問い直すような立場からの議論を「メタな議論」「メタな視点からの議論」と言うことになります。一般に、ある視点からの議論と、メタな視点からの議論は矛盾しません。一見して結論が異なっても、そもそも別のことを言っているのです。

○原理主義とニヒリズム

ただ、AとBは対等だとしても、「原理主義」が良いということにはなりません。同じBの立場を取るにしても、

B1 相対性を一切認めず、自分の立場だけに凝り固まる人(原理主義的)
B2 相対性を自覚した上で、あえて自分の立ち位置から語る人(非原理主義的)

これは全く異なるからです。B2の立場を取る人は、Aの立場を経由した上でB2の立場を取っているのです。したがって、Aの立場の人を批判したりしないし、(疑似科学のように)異なる立場の人にも、説得力のある説明をすることができます。時にはAの立場を取り、時にはB2の立場を取るというように、自在に立場を使い分けられるのです。疑似科学であれば、冷静に「なぜ科学は優れているのか」という説明をすることができるのが、B2の立場の特徴です。これに対し、B1の立場を取る人にとって、Aの立場は自分の存在を脅かすものとして受け止められます。Aという現実を知って恐れ、おののき、感情的に批判するしかないのです。そしてB1の立場の人は、(疑似科学のように)自分と異なる立場の人と、永遠に解決することのない不毛な争いを続けることになります。

要するに、B1の立場の問題は、特定の立場から語ることそのものではなく、ある視点からの議論と、メタな議論を区別できないことにあるのです。こうして「ある視点とメタな視点を区別できない」ために、異なる意見を感情的に批判したり、不毛な対立を引き起こしたりする人は、端的に言えば、「原理主義者」です。科学に関して言うと、「科学教信者」「科学原理主義者」ということになるでしょう。

これに対しB2の立場は、一般的な表現で言うと、「ニヒリズム」です。ここで言う「ニヒリズム」は、日常用語としてのニヒリズムと異なり、「外部に正当性の根拠を求めず、力強く生きていく」といった意味です(この意味でのニヒリズムを、能動的ニヒリズムと言う場合もあります)。また、「プラグマティズム」も、本来は「外部に正当性の根拠を求めるのではなく、実践そのものを重視する」という考え方なので、近いものがあるでしょう。ニヒリズムと、プラグマティズムは、正反対のイメージを受けますが、両方とも、メタな視点を意識しているという共通点があります。

自分がこのブログの開設以来、一貫して伝えようとしているのは、さまざまな分野におけるB2の視点の重要性なのです。

○原理主義の何が問題か

さて、「原理主義」とは何なのかが分かったところで、「科学教」「科学原理主義」に話を戻したいと思います。

科学原理主義の問題はいろいろありますが、その一つは疑似科学との関係で明らかです。というのも、科学原理主義は、疑似科学の内側の人を説得する上でも有効ではありません。科学を「あえて選び取っている」人(B2の立場の人)であれば、「あなたの言うような『正しいかもしれない』仮説は無数にあり、あえてその仮説を取り上げる意味はないのではないか」という説得ができます。しかし、科学原理主義者はこうしたメタな視点からの説得をすることができません。科学原理主義者はメタな視点を取れないため、根本的な意味で疑似科学の人と対話することができないのです。もちろん、科学原理主義者でも、「一般の人が、ホメオパシーが科学的なものであると勘違いして受け入れてしまうのを防ぐ」程度のことならできるでしょうが、それ以上のことはできないでしょう。これは、疑似科学の批判者の間でも良く知られている通りです。

とは言っても、科学原理主義が、単に科学に関する原理主義でとどまっているうちは、それほど実害がないかもしれません。科学原理主義者の疑似科学批判(特に、はてブあたりで騒いでいる人)は、疑似科学の内側には届かないとは思いますが、無視されるだけだからです。ただ、重要なのは、どのような原理主義も「メタな視点を取れない」という論理的には全く同じ構造をしているということです。したがって、科学原理主義の立場を取る人は、他の分野でも無意識のうちに、原理主義に陥ってしまう傾向が高い。このことは、社会的には疑似科学よりもずっと大きな問題ではないかと思います。

こうした「原理主義の問題」には大きく分けて、二つあります。一つは、「特定の立場に凝り固まって外部が見られなくなることによる問題」、たとえば次のようなものです。

・ 言論上の立場が一方的になってしまうという問題(偏向報道、ネット右翼等)。
・ 問題のある社会制度を放置することになる問題
・ 社会全体が政治的に不寛容になることによる問題

これは、それぞれ非常に重要な問題でありますが、一般的にも良く言われることなので、詳しくは説明しません。ただ、もう一つ重要なのが、「原理主義者が、自分のよって立つ基盤に正当性の根拠がないことに気づいてしまうことによる問題」ではないかと思います。

・ 生きる根拠の喪失による問題(自殺、引きこもり)
・ 規範の根拠の喪失による問題(動機なき大量殺人)
・ 世界の基盤の喪失による問題(カルト宗教への傾倒)

他者との交流の素晴らしさに根拠がないことを知った引きこもり、社会規範に根拠がないことを知った動機なき大量殺人者、マスコミの偏向報道を知ってネット右翼になった2ちゃんねらー、科学の限界を知ってカルト宗教に傾倒する理系学生。全て、「原理主義的な世界観」に安住していた人の行き着く先です。現代社会に生きる私たちは、それなりの知性がある人であれば、誰でも「正当性の根拠の喪失」という問題に突き当たらざるを得ないからです。

もちろん、決して、科学が悪いのではありません。B2の立場のように、能動的に科学を受け入れるのなら、科学は自分の人生を、そして社会を豊かにする重要な手段になります。しかし、「科学原理主義」を初めとする原理主義的思考は、私たちを生きることから疎外し、さまざまな問題を引き起こすのです。

○おわりに

私自身は、自分が生きる上で科学を受容しているし、自分がかかわるような社会的コミュニケーションの前提の一つとして、科学があると考えています。だから、「ホメオパシーが科学的なものであると勘違いして、受け入れてしまうのを防ぐ」活動の重要性を否定するつもりはありません。ただ、こうした活動は、朝日新聞の精力的な報道と、日本学術会議の声明で良い形で認知され、一段落が付いたのではないでしょうか。もちろん、マスコミや疑似科学批判を専門にしている方にとっては踏ん張りどきなのかもしれませんが、私たち一般のネット民が、今さら「科学の立場からの」批判を盛り上げるすることにそれほど意味があるようには思えません。

むしろこの機会に、科学や規範、制度など、自分たちがよって立つ基盤そのものを考え直すことの方が、疑似科学を批判するためにも、社会全体の制度設計や、私たち自身の生き方の観点からも、ずっとずっと大切なのではないかと思います。

○ 改訂履歴

9/3 冒頭のセクションの内容が間違っていたので「補足」で訂正していたのですが、分かりづらいので、冒頭のセクションのみ、内容そのものを書き換えました。(旧バージョン

9/5 最後のセクションに対する批判に答える意味で若干変更(変更点は太字と削除線)

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科学が論理ではないけど正しい理由

| 2010/08/10

科学は論理では示されないし、間違えることもある。さすがに科学の現場にいる人は、何となくでも分かっている人が多いのだろうけど、みんながみんなそういう知識を持っているわけではない。今後、こういう話題に触れたときのためにも、簡単に説明しておきたいと思う。ちなみに、実際の内容は「科学は論理ではないし、間違えることもあるのに正しいと思われているのはなぜか」といった内容なのだが、元になった議論が「科学は論理か」だったので、タイトルが「論理ではない」になっている。

◎仮説推量

科学は実験によって仮説の正しさを証明すると言われるが、実験はそれだけで仮説の正しさを示すとは限らない。

たとえば、「水は分子でできている」という仮説を科学がどうやって示すかを考えてみる。科学は、「水は分子でできている」という仮説が正しいことを示すために、実験をし「水は分子でできている」という仮説が、観察1,2,3...nを説明できることを示す。これを「仮説推量」という。

ただ、仮説推量は「間違った結論を導くパターン」の典型であり、間違える可能性もある。たとえば、「スパゲティ・モンスターが全てを司っている」という仮説でも、1,2,3...nを説明できる。というように「仮説推量」はあくまでたくさんある仮説の一つを提示するだけであり、それが正しいということが証明されたわけではない。

つまり、実験によって仮説は論理的に示されないし、間違える可能性もある。*1

◎科学的方法論

では、なんで科学的知識は正しいと思われているのか。それは、科学が科学として独自の方法論を持って、その中で正しさを追求しているから。

ただ、科学的知識は、どのような方法論を使おうとも、直接的には現在の科学的知識によって検証されているだけである。科学的知識の条件に「検証可能性」があると言われるが、検証可能性とは、将来、新たな科学的知識が見つかったときには、それによっても検証される「可能性」であり、その結果、間違いだとされるかもしれないということを含んでいる。

つまり、科学は論理的な正当性を持たないし、実際、科学的方法論に基づいて得られた知識が、後で間違いだとされる場合がある。

◎社会的受容

科学の方法論は、論理的に正しくなく、しかも実際問題として、間違える可能性があるのになぜ受け入れられているか。

科学は、神や幽霊といった説明よりも、はるかに精緻に世界を説明してくれる(説明能力)*2。また、人間の生活を豊かにしてくれる(有用性)。こうしたことによって、私たちは検証可能性を初めとする科学の方法論が優れていると考え、それを信頼して生きている*3。ここで大事なのが、「説明能力」や「有用性」は、「合法性」とか「道徳性」と同じように、時代・文化によって変わる、普遍性のない概念だということ。だから、科学の方法論を受け入れるかどうかは、やはり論理的な問題ではない。

これは、科学を受け入れないが、矛盾しない知識の体系がありえること、科学はそうした知識の体系を否定することができないということを意味している。こうしたものの正当性は、根本的には「説明能力」や「有用性」によって判断するほかないが、これは科学の問題ではない。

ちなみに、ここで、ありがちな誤解に注意しておかないといけない。「社会的受容」を、科学の個別の知識に当てはめて、「科学的知識は、文化的・社会的問題に決まる」としてしまう誤解がある。こんなことを言ったら、当然、科学者は猛反発するだろう。社会的に受容されているのは、検証可能性を初めとする科学の方法論全体であって、個別の科学的知識ではない。あくまで、個別の科学的知識の正しさは、科学の方法論によって確保されており、その科学の方法論の全体が、社会的に受容されることで正当性を確保している。

また、科学が(個人で、あるいはコミュニティで)完全に受容されてしまった状態では「社会的受容」がされていることが見えなくなってしまうので、科学の方法論が真理探求の絶対的原則であるかのように見えることが多い。

◎まとめ

科学の正当性は「仮説推量」「科学的方法論」「社会的受容」という段階を経て確保されていて、いずれも論理の問題ではないし、絶対的な正しさを主張するものでもない。科学に関する誤解のいくつかは、この3つを混同してしまうことから来ている。

ちなみに、以上の議論で「論理」というのは、「科学の論理」とか言うときの論理と意味が違うので注意。


*1 上の説明は、科学的知識のうち主に「理論」に関する知識に当てはまるもの。「沸点上昇」「高温超伝導」のように「現象」に関する知識は、「帰納」によって示される。帰納は論理的には間違いを導く場合があるが、経験的に正しい結論を導くものとされる。
*2 「説明能力の高さ」は、科学的方法論の一部でもある。科学的方法論において、科学的知識は、「その知識がない場合と比べて、現象がより良く説明できる」ものでなければいけない。ただ、本文では、科学的方法論における個別の科学的知識の「説明能力の高さ」と、科学全体の「説明能力の高さ」を分けて考えている。
*3 「信じている」と言うと反発する人がいるが、「信頼」と「信じている」の違いは、社会的な評価の問題。「社会的評価」の是非そのものを議論しているときに、両者を区別しろというのは、議論の趣旨を理解してないからだと思う。「信頼」と言ってしまうと、結論を先取りしていることになる。

◎修正履歴

8/10初版 (link)
8/12第二版 (link) コメント欄の議論を元に、自信がなくなった部分を削除。後で良く考えてみたら、間違ってはないという判断に達したが、分かりづらかったことには変わらない。
8/13 第三版 1段落目の「ちなみに..」の部分と注を付けたのが主な修正点。それに合わせて他の部分も若干修正。

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