科学が論理(形式論理)では示されない。さすがに科学の現場にいる人は、何となくでも分かっている人が多いのだろうけど、みんながみんなそういう知識を持っているわけではない。今後、こういう話題に触れたときのためにも、簡単に説明しておきたいと思う。 ◎仮説推量 「水は分子でできている」という仮説を科学がどうやって示すかを考えてみる。 科学は、「水は分子でできている」という仮説が正しいことを示すために、実験をし「水は分子でできている」という仮説が、観察1,2,3...nを説明できることを示す。これを「仮説推量」という。ただ、仮説推量は論理学的には「間違った結論を導くパターン」の典型であり、そもそも論理的ではない。 たとえば、「スパゲティ・モンスターが全てを司っている」という仮説でも、1,2,3...nを説明できる。というように「仮説推量」はあくまでたくさんある仮説の一つを提示するだけであり、それが正しいということが証明されたわけではない。 だから、仮説推量は科学の特徴の一つだけれど、仮説推量だけでは科学と言えない ◎科学的方法論 では、なんで科学は科学と言えるのか。それは、科学が科学として独自の方法論を持って、その中で正しさを追求しているから。 ただ、科学的知識は、どのような方法論を使おうとも、直接的には現在の科学的知識によって検証されているだけである。科学的知識の条件に「検証可能性」があると言われるが、検証可能性とは、将来、新たな科学的知識が見つかったときには、それによっても検証される「可能性」であり、その結果、間違いだとされるかもしれないということを含んでいる。一方、科学による知識の検証は、あくまで「科学的知識に基づいた検証」であり、論理だけを前提に検証できるわけではない。だから、科学的知識→(検証)→科学的知識→(検証)→科学的知識、というように、科学の正当性は論理的には循環してしまっている。つまり、科学は循環論法だとも言える。 つまり、科学は論理的な正当性を持たない。実際問題、こうして科学的方法論に基づいて得られた知識が、後で間違いだとされる場合がある。 ちなみに、「仮説推量」の話と「科学的方法論」の話を混同すると、「科学は経験に基づくものであり、循環論法なはずがないじゃないか」という誤解になる。たしかに、仮説推量は循環論法ではなく、経験に根ざしたもの。経験に反するものは仮説推量の段階で排除される。循環論法なのは、「検証プロセス」の方なので、ごっちゃにしてはいけない。また、「科学は仮説に過ぎない」というと、「科学的方法論によって保証されている」と反論されることがあるが、これは両立する話であって、二者択一的に考えるのは間違い。科学的方法論は仮説を事実にするほどすごいものではない。 ◎社会的受容 科学の方法論は、論理的に正しくなく、しかも実際問題として、間違える可能性があるのになぜ受け入れられているか。 科学は、神や幽霊といった説明よりも、はるかに精緻に世界を説明してくれる(説明能力)。また、人間の生活を豊かにしてくれる(有用性)。こうしたことによって、私たちは検証可能性を初めとする科学の方法論が優れていると考え、それを信頼して生きている。ここで大事なのが、「説明能力」や「有用性」は、「合法性」とか「道徳性」と同じように、時代・文化によって変わる、普遍性のない概念だということ。だから、科学の方法論を受け入れるかどうかは、やはり論理的な問題ではない。 これは、科学を受け入れないが、矛盾しない知識の体系がありえること、科学は論理的にそうした知識の体系を否定することができないということを意味している。こうしたものの正当性は、根本的には「説明能力」や「有用性」によって判断するほかないが、これは科学の問題ではない。 ちなみに、ここでも、ありがちな誤解に注意しておかないといけない。「社会的受容」を、科学の個別の知識に当てはめて、「科学的知識は、文化的・社会的問題に決まる」としてしまう誤解がある。こんなことを言ったら、当然、科学者は猛反発するだろう。社会的に受容されているのは、検証可能性を初めとする科学の方法論全体であって、個別の科学的知識ではない。あくまで、個別の科学的知識の正しさは、科学の方法論によって確保されており、その科学の方法論の全体が、社会的に受容されることで正当性を確保している。 また、科学が(個人で、あるいはコミュニティで)完全に受容されてしまった状態では「社会的受容」がされていることが見えなくなってしまうので、科学の方法論が真理探求の絶対的原則であるかのように見えることが多い。 ◎まとめ 科学の正当性は「仮説推量」「科学的方法論」「社会的受容」という段階を経て確保されていて、いずれも論理の問題ではない。科学に関する誤解のいくつかは、この3つを混同してしまうことから来ている。 ちなみに、以上の議論で「論理」というのは、「科学の論理」とか言うときの論理と意味が違うので注意。