この記事は、主に科学のとらえ方、相対的視点の重要性とその限界について説明する記事です。ホメオパシー関連の議論は「ホメオパシーの議論、7つのQ&A」が今のところ一番まとまっています。
○この記事を書こうと思った理由 自分は、「科学教」という言葉を好んで使う方ではなかったのですが、最近、考えを変えました。きっかけの一つは、先日の「科学はホメオパシーを否定できない」で、以下のようなことを書いたことです。簡単にまとめると以下のような内容です。
・科学は絶対的に正しいわけではなく、科学を受け入れるかどうかは科学を信頼するかどうかという問題である。 ・だから、科学が疑似科学を否定しようとするとき、科学を受け入れている人が分かるように説明することはできるが、そうじゃない人も分かるような説明ができるとは限らない。 ・ただ、否定できない状況であっても、そもそも科学とは何かということを踏まえれば、説得できるかもしれない。疑似科学を説得しようとするとき、こうして科学が置かれた状況を理解することが大切ではないだろうか。 科学はホメオパシーを否定できない
この記事に対し、はてなブックマークのコメントには、「科学を否定するなんてけしからん」と言わんばかりの感情的なコメントでいっぱいになりました。自分は決して、科学を否定してるわけではないのですが…。どうも、「科学が絶対的に正しいわけではない」という考え方が、彼らに受け入れられなかったようです。(ちなみに、上の記事に関する細かい議論についてはこちら(長文注意)で補足しています。また、科学がどのような意味で正しいのかという議論(仮説と方法論の違い、科学の有用性と説明能力など)については、こちらにまとめてあります) ただ、自分は、ネットの知性をかなり信頼している方ですので、こうした批判を受けても、「どうせ文章を最後まで読まずに、タイトルだけを読んで批判したんだろう」と楽観的にしか考えていませんでした。ところが、こうした認識が誤りだと考えるきっかけとなったのが、早川由紀夫氏のTwitterのコメントに対する、はてなブックマークの反応です。
科学はたしかに飛びぬけて大きな力をもっている。しかし、世の中すべてを科学の目から見るべきだとする主張は、科学の傲慢、科学至上主義である。弊害を生む。 @HayakawaYukio 7:12 AM Aug 24th
この発言にすら、一斉に批判のコメントが付くのです。早川氏はごく当たり前のことを書いただけです。私が、若干急進的に科学の相対性を主張したのに対し、早川氏は日常的な事実に基づいて、ずっと穏健に科学の相対性を主張しています。また、全部読むのが面倒というほど長いコメントではないし、挑発的なタイトルを付けたりもしていません。こうした発言すら反発されるのだとしたら、はてなブックマークは異常としか思えません。 「世の中のすべてを科学の目から見るべきではない」というのは、まともな科学者の全て、理系教育を受けた人の多くが理解していることです。この主張に反発する人は、恋愛も就職も、全て「科学的」に行っているのでしょうか。美しい景観も、おいしい食べ物も「科学的」に評価しているのでしょうか。普通に考えれば、相手にするのもアホらしい話ですが、こうしたアホらしい主張がまかり通っているのが、科学に詳しくない人の現状なのでしょう。科学に詳しくない人と言っても、科学について全く知らない人というより、「技術者や医療関係者など、科学を利用するだけの人」「ルーチンワークとして科学的研究をしている研究者」といった、中途半端に科学を理解している人が、おかしな主張をする場合が多いのではないかと思います。こうしたアホらしい主張に執着する人々のことを「科学教」「科学原理主義」というのは当然だと思います。 ただ、「科学教」「科学原理主義」の主張が、完全に間違っているかというと必ずしもそうではありません。たしかに、「そういう立場を取ることが有効な場合もある」からです。「疑似科学は科学ではない」ということを、自分の立ち位置の限界を踏まえた上で言うのなら、それは決して科学教でも、科学原理主義でもなく、「科学的」に正しい主張です。ところが、「自分の立ち位置」に無自覚な「科学教信者」「科学原理主義者」は、批判する必要がないところまで批判してしまうのです。本来、科学と矛盾するはずのない、私の主張や、早川氏の主張にまで批判してしまうのは、科学がどういうものなのか、科学的主張とは、どういう立ち位置からなされているのかということに無自覚だからにほかなりません。 この記事では、こういう「立ち位置」の問題について、科学以外の問題も含めて考えてみたいと思います。 補足1:「いったい誰を批判しているんだ」っていうコメントがありましたが、知りたければ文章を最後まで読んでください。文章を最後まで読めば「批判対象」は分かるはずだし、該当コメントも見つけられるはずです。正直、「はてブ」云々は、あくまで、話の「ネタ」であって、それをきっかけとして批判したい「主張」があるから記事を書いているのです。特定の個人を批判したいわけではありません。わら人形論法(=論点のすり替え)という批判がありましたが、…いや、あなたに語りかけてるんじゃないんです。自意識過剰じゃないですか?…って話です。 補足2:早川氏のつぶやきに対する批判を読み違えているという批判をいただきました。これはたしかにそうだったと思います。早川氏のつぶやきに対する批判には、いかにも「科学原理主義的」なものありましたが、大部分は、「批判になっていない」という趣旨でした。Twitterの短いつぶやきの文脈を勝手に読み取って反論することには、やはり異常性を感じ取らざるを得ないのですが、私の本文の書き方が適切ではなかったのは間違いないと思います。ただ、早川氏のコメントは、この記事の本題からするとどうでも良いことですので、そのまま変更しないでおくことにします。これより上の部分は、文字通り「この記事を書こうと思った理由」であり、主張そのものとは関係ありません。 ○ものごとをとらえる視点 ものごとは、どの視点で理解するかによって、違って見えることが多くあります。いくつか例を挙げますが、いずれも全く同じ構造をしていることがポイントです。 1.人を殺してはいけないのはなぜか A:そんな理由などない。人を殺してはいけないなどというのは、今の社会で成立している恣意的な規範であって、時代や文化が変われば、成り立たなくなることもある。 B:人を殺してはいけないというのは、人間社会を成り立たせるために重要な規範。Aのような立場は、殺人を奨励していることになって許されない。 2.科学は絶対的なものか A:科学が絶対的だとする根拠などない。科学というのは、現代社会で広く受け入れられた、有用かつ説明能力の高い方法論だが、絶対的に正しいという根拠はない。 B:科学は、現代社会において客観性を担保する唯一の方法である。Aのような立場は、疑似科学を奨励することになって許されない。 3.人権は絶対的なものか A:国家によって保証される人権も、国際社会の調整手段としての人権も、いずれも人為的なものであり、絶対的に正しい概念ではない。 B:人権概念は、人類の叡智の集積である重要な考え方。これを否定するAの立場は、人殺しと同じ。 4.数学は絶対的真理か A:数学は閉じた体系であって、数学の外に根拠を求めることはできない。 B:数学は科学を初めとする人間の知的活動の基盤。Aは頭がおかしい。 Aの立場では、しばしば対象を「フィクション」(=恣意的、人為的ことの比喩)と呼んだり、「底が抜けている」(=外部に根拠を求められないことの比喩)と呼んだりします。科学だって、人を殺してはいけないという規範だって、数学だって、その内部でしか根拠がない。これは、現代思想で常識中の常識です。 こうしたAの立場から考えると、Bの立場は、一見して、独善的で、非論理的であるように見えます。 しかし、Bの立場は、これはこれで重要なのです。実のところを言うと、私たちは、何らかの意味で「フィクション」であり、「底が抜けている」ものに基づいてしか、ものごとについて議論をすることができません。人間のあらゆるコミュニケーションの枠組みが、フィクションであり、底が抜けているのです。したがって、「フィクション」(=恣意的)であっても、「底が抜けている」(=外部に根拠を求められない)ものであっても、それをあえて「選び取っていく」「信頼していく」しかありません。 つまり、AとBの立場の違いは、根本的には、「とらえ方の違い」「立ち位置の違い」ということになります。一見するとAの立場の方が一般的で優れた意見のように思うかもしれませんが、そもそも、私たちは何らかの「視点」に立ってしか議論をすることができないことを踏まえると、どちらも対等であるとさえ言えるでしょう。 これを、論理学では「メタ」という言葉で表現します。この言葉を使うと、科学の立場からの議論に対して、科学そのものの正当性を問い直すような立場からの議論を「メタな議論」「メタな視点からの議論」と言うことになります。一般に、ある視点からの議論と、メタな視点からの議論は矛盾しません。一見して結論が異なっても、そもそも別のことを言っているのです。 ○原理主義とニヒリズム ただ、AとBは対等だとしても、「原理主義」が良いということにはなりません。同じBの立場を取るにしても、 B1 相対性を一切認めず、自分の立場だけに凝り固まる人(原理主義的) B2 相対性を自覚した上で、あえて自分の立ち位置から語る人(非原理主義的) これは全く異なるからです。B2の立場を取る人は、Aの立場を経由した上でB2の立場を取っているのです。したがって、Aの立場の人を批判したりしないし、(疑似科学のように)異なる立場の人にも、説得力のある説明をすることができます。時にはAの立場を取り、時にはB2の立場を取るというように、自在に立場を使い分けられるのです。疑似科学であれば、冷静に「なぜ科学は優れているのか」という説明をすることができるのが、B2の立場の特徴です。これに対し、B1の立場を取る人にとって、Aの立場は自分の存在を脅かすものとして受け止められます。Aという現実を知って恐れ、おののき、感情的に批判するしかないのです。そしてB1の立場の人は、(疑似科学のように)自分と異なる立場の人と、永遠に解決することのない不毛な争いを続けることになります。 要するに、B1の立場の問題は、特定の立場から語ることそのものではなく、ある視点からの議論と、メタな議論を区別できないことにあるのです。こうして「ある視点とメタな視点を区別できない」ために、異なる意見を感情的に批判したり、不毛な対立を引き起こしたりする人は、端的に言えば、「原理主義者」です。科学に関して言うと、「科学教信者」「科学原理主義者」ということになるでしょう。 これに対しB2の立場は、一般的な表現で言うと、「ニヒリズム」です。ここで言う「ニヒリズム」は、日常用語としてのニヒリズムと異なり、「外部に正当性の根拠を求めず、力強く生きていく」といった意味です(この意味でのニヒリズムを、能動的ニヒリズムと言う場合もあります)。また、「プラグマティズム」も、本来は「外部に正当性の根拠を求めるのではなく、実践そのものを重視する」という考え方なので、近いものがあるでしょう。ニヒリズムと、プラグマティズムは、正反対のイメージを受けますが、両方とも、メタな視点を意識しているという共通点があります。 自分がこのブログの開設以来、一貫して伝えようとしているのは、さまざまな分野におけるB2の視点の重要性なのです。 ○原理主義の何が問題か さて、「原理主義」とは何なのかが分かったところで、「科学教」「科学原理主義」に話を戻したいと思います。 科学原理主義の問題はいろいろありますが、その一つは疑似科学との関係で明らかです。というのも、科学原理主義は、疑似科学の内側の人を説得する上でも有効ではありません。科学を「あえて選び取っている」人(B2の立場の人)であれば、「あなたの言うような『正しいかもしれない』仮説は無数にあり、あえてその仮説を取り上げる意味はないのではないか」という説得ができます。しかし、科学原理主義者はこうしたメタな視点からの説得をすることができません。科学原理主義者はメタな視点を取れないため、根本的な意味で疑似科学の人と対話することができないのです。もちろん、科学原理主義者でも、「一般の人が、ホメオパシーが科学的なものであると勘違いして受け入れてしまうのを防ぐ」程度のことならできるでしょうが、それ以上のことはできないでしょう。これは、疑似科学の批判者の間でも良く知られている通りです。 とは言っても、科学原理主義が、単に科学に関する原理主義でとどまっているうちは、それほど実害がないかもしれません。科学原理主義者の疑似科学批判(特に、はてブあたりで騒いでいる人)は、疑似科学の内側には届かないとは思いますが、無視されるだけだからです。ただ、重要なのは、どのような原理主義も「メタな視点を取れない」という論理的には全く同じ構造をしているということです。したがって、科学原理主義の立場を取る人は、他の分野でも無意識のうちに、原理主義に陥ってしまう傾向が高い。このことは、社会的には疑似科学よりもずっと大きな問題ではないかと思います。 こうした「原理主義の問題」には大きく分けて、二つあります。一つは、「特定の立場に凝り固まって外部が見られなくなることによる問題」、たとえば次のようなものです。 ・ 言論上の立場が一方的になってしまうという問題(偏向報道、ネット右翼等)。 ・ 問題のある社会制度を放置することになる問題 ・ 社会全体が政治的に不寛容になることによる問題 これは、それぞれ非常に重要な問題でありますが、一般的にも良く言われることなので、詳しくは説明しません。ただ、もう一つ重要なのが、「原理主義者が、自分のよって立つ基盤に正当性の根拠がないことに気づいてしまうことによる問題」ではないかと思います。 ・ 生きる根拠の喪失による問題(自殺、引きこもり) ・ 規範の根拠の喪失による問題(動機なき大量殺人) ・ 世界の基盤の喪失による問題(カルト宗教への傾倒) 他者との交流の素晴らしさに根拠がないことを知った引きこもり、社会規範に根拠がないことを知った動機なき大量殺人者、マスコミの偏向報道を知ってネット右翼になった2ちゃんねらー、科学の限界を知ってカルト宗教に傾倒する理系学生。全て、「原理主義的な世界観」に安住していた人の行き着く先です。現代社会に生きる私たちは、それなりの知性がある人であれば、誰でも「正当性の根拠の喪失」という問題に突き当たらざるを得ないからです。 もちろん、決して、科学が悪いのではありません。B2の立場のように、能動的に科学を受け入れるのなら、科学は自分の人生を、そして社会を豊かにする重要な手段になります。しかし、「科学原理主義」を初めとする原理主義的思考は、私たちを生きることから疎外し、さまざまな問題を引き起こすのです。 ○おわりに 私自身は、自分が生きる上で科学を受容しているし、自分がかかわるような社会的コミュニケーションの前提の一つとして、科学があると考えています。だから、「ホメオパシーが科学的なものであると勘違いして、受け入れてしまうのを防ぐ」活動の重要性を否定するつもりはありません。ただ、こうした活動は、朝日新聞の精力的な報道と、日本学術会議の声明で良い形で認知され、一段落が付いたのではないでしょうか。もちろん、マスコミや疑似科学批判を専門にしている方にとっては踏ん張りどきなのかもしれませんが、私たち一般のネット民が、今さら「科学の立場からの」批判をすることに意味があるようには思えません。 むしろこの機会に、科学や規範、制度など、自分たちがよって立つ基盤そのものを考え直すことの方が、疑似科学を批判するためにも、社会全体の制度設計や、私たち自身の生き方の観点からも、ずっとずっと大切なのではないかと思います。