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世界の情報量は求められるのか?

情報学 | 2011/02/19

先週、Science誌に、「情報を保存、通信、計算するための技術的容量」についての調査結果が掲載されたことが話題になっています(論文ニュース)。この論文によると、保存された情報は2.9億テラバイト、通信された情報は20億テラバイト、情報処理能力は6.4兆MIPSだそうです(テラはギガの1000倍で、1兆)。これだけを聞くとすごい数字のようですが、最新のハードディスクが1テラバイト単位ですので、その3億倍というのは、まぁ、妥当なところではないかという気がします。むしろ、通信量がその7倍というのは、さすがに多いな…と思いましたが。

○情報量の解釈依存性

さて、雑談はさておき、そもそもこの論文のような形で「世界中のあらゆる情報の情報量」を求めることができるのでしょうか。これは、情報学的には若干複雑な問題です。

上記の論文では、紙やフィルム、レコードに記録された情報も調査しているとのこと。しかし、そもそも紙に印刷された情報の情報量をどのように求めることができるのでしょうか。たとえば、ある本があり、そこにはイラストや写真などが一切含まれていなかったとします。ここに書かれている文字を、現在の技術でデータ化、圧縮したときの情報量は求めることができます。しかし、この本の情報量は、本当にこれだけでしょうか?紙質や印字品質の欠けを含めて情報を正確に保存しようと思ったら、一ページずつスキャナで取り込まないといけません。これは文字だけの情報よりもはるかに大きいことになります。

では、このときの読み取り解像度はどの程度にするべきか。これは、その本の媒体に対する評価によって大きく変わります。その本が、世界最初の印刷物で、紙や活字の状態まで重要だと考えられるのなら、非常に高い精度の画像情報が必要とされます。しかし、去年発売された出版物なら、フォントの種類やデザインは重要でも、それ以上の細かい情報はどうでも良いと考える人が多いでしょう。

さらに、こういうことも言えます。A4の白紙の紙があったとします。普通に考えたら、この紙の情報量はゼロです。しかし、それが事件の犯行現場に残された証拠だとしたら、その紙には多くの情報が含まれていることになります。朝食のパンは、何の情報も含んでいないように見えますが、表面の凸凹や内部の気泡の配置を記録しようと思ったら、かなり大きな情報量を持つことになります。このように、情報量というのは、解釈によって決まるものなのです。

○シャノンの情報量とシステム

これは、情報に関する特殊な意見ではありません。ビットやバイトと言った単位で表される「情報量」を数学的に定義したシャノンの理論から、自然に導かれる結論です。

シャノンは情報の定義をする上で、対象そのものに情報が備わるという見方を取りませんでした。シャノンは、送信者と受信者が、「メッセージとその表現方法の組み合わせ(コード)」について、あらかじめ合意していて、それに基づいて通信が行われるとき、「情報量」を決められると考えたからです。たとえば、A~Zの26個のアルファベットから取り出された1文字を相手に伝えるという状況を考えます。このとき、送り手も受け手もA~Zのアルファベットを理解していないといけません。そこでは、エー、ビー、シー…という概念(メッセージ)と、A, B, Cという文字(表現方法)の対応(コード)が、送り手と受け手で共有されていないといけないのです。

つまり、シャノンの理論から導かれる自然な結論は、「メッセージとその表現方法の組み合わせ(コード)」が決まらないことには、情報量を求めることができないということです。これは紙のような単なる物体の情報量は、原理的に定義できないということを意味しています。

ただし、ある人がその物体に何らかのメッセージを想定する場合は、情報量を求めることができます。たとえば、A4の紙があったとします。ある人は、紙(表現方法)にビジネス上の一般的な文書(メッセージ)が保存されていることを想定するかもしれません。その人にとって白紙の紙という形で表現された情報の情報量はゼロです。しかし、紙の研究をしている人なら、その人とは全く別の、紙質に関する情報を、メッセージとして読み取るでしょう。この人にとってA4の白紙の紙(表現方法)は情報の宝庫なのです。このように、単なる物体の情報量を決めるためには、情報をそこに記録した人が、どのようなメッセージを伝えようとしたか、情報を読み取る人がそこにどういうメッセージを想定しているかが分からないといけません。いずれも簡単には決まらない問題です。

しかし、こうして「メッセージと表現方法の組み合わせ」が想定できる場合は、まだ良いのです。もう少し別の例を考えましょう。AさんとBさんが会話していたとします。この情報量はどの程度でしょうか。Aさんの身振り、手振り、息づかい、さまざまな情報が会話にかかわっています。しかし、かかわっていないかもしれません。この会話の情報量は測定不能としか言いようがありません。たしかに、日常会話においても、何か伝えたいこと(メッセージ)が存在して、それを伝えようとしているという場面はあるでしょう。しかし、そうしたメッセージは、多くの場合、伝えたい人が勝手にそう思っていると言う意味でのメッセージであり、二人の間で事前に共有されたメッセージ、シャノンの情報の定義に基づくメッセージとは違います。こうした状況で情報量を測定することはできないのです。

これは、私たちが「情報」と考えているほとんどあらゆることに成り立ちます。たとえば、ある「森」の情報量を考えたとします。そこに生きている生物の相互作用を情報と呼ぶのであれば、無限大とも言える非常に大きな情報がそこで交わされていることになります。しかし、警備会社の従業員なら、その森を警備するのに必要な画像データの情報量をもって、その森の情報量と考えるかもしれません。開発技師なら、森の性質や土壌の性質のデータがその森の情報量と考えるかもしれません。このように、特定の対象の情報量は、何らかの視点や見方を抜きにして考えても意味がありません。これは、シャノンの情報理論から自然に導かれる結論なのです。

○コンピュータ・システムと情報量

では、なぜ私たちは、ファイルやCD-ROMやハードディスクの容量を求めることができるのでしょうか。それは、コンピュータにはハードウェアやソフトウェアの設計上、「メッセージと表現方法の組み合わせ」(コード)が組み込まれているからです。コンピュータでは、多数の「メッセージと表現方法の組み合わせ」が世界共通で使われています。そして、こうしたコンピュータ・システムのコードに基づく限り、情報量を決めることができます。私たちが日常的に「情報量」と言うとき、多くの場合、こうした「コンピュータ・システムのコードに基づいた情報量」を意味しているのです。

では、紙やフィルムといったアナログメディアに保存された情報はどうでしょうか。先述したように、紙やフィルムに保存された情報は、シャノンの情報量の定義に厳密にしたがって客観的に情報量を決めることができません。しかし、こうした情報であっても、「一般的な用途に使うために、コンピュータが扱う情報に変換したときにどの程度の情報量になるか」を見積もることができます。これが、俗に言うところの「紙に保存された情報の情報量」です。ただし、当然のことながら「一般的な用途」と言っても人によって違うので曖昧です。メディアの情報を記録した人の意図、情報を読み取る人の視点など、さまざまな要素がそこに関わっており、客観的なものになりえないのです。

これは、厳密に言えば、CD-ROMやDVDでも同じです。CD-ROMの容量は700メガバイト程度ですが、表面の微妙な凹凸の変化に興味を持っている研究者は、それよりはるかに大きな情報量が想定することができるかもしれません。しかし、それを「一般的な用途」と言うことはできないでしょう。CD-ROMやDVDのようなデジタル媒体であれば、「一般的な用途」は明らかであり、それに基づいて正確な情報量を求めることができます。しかし、紙やレコードのようなアナログメディアの場合、人によって「一般的な用途」の解釈に差が生じ、かなり幅のある値しか求まらないことになります。

もちろん、Science誌に掲載された調査結果に意味がないとか非科学的だというわけではありません。「一般的な用途に使うために、コンピュータが扱う情報に変換したときにどの程度の情報量になるか」は、厳密には決まらないとは言え、ある程度の範囲に収まるだろうし、それに基づいて情報量を求めることには意味があると思うからです。しかし、そこで求められる情報量は、こうした理論上の限界を踏まえたものだということに、留意しなければいけません。これは「情報」を一般化して議論しようとする時に、非常に重要なポイントではないかと思います。

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WEBRONZAのホメオパシー騒動とメディアの問題

経済・政治・国際 | 2011/02/11

○WEBRONZAとホメオパシー

朝日新聞社が運営する、WEBRONZAというサイトに、海外のホメオパシー事情を肯定的に紹介する記事が掲載されました。その中で、ADHDにホメオパシーが有効であるという実験結果が紹介されているのですが、この紹介の仕方が適切ではないということが批判を受けています。

これに対し、WEBRONZA編集部では、朝日新聞本紙の久保田裕氏、ネットのニセ科学批判の中心的存在となっている菊池誠氏の批判記事を掲載したものの、元の記事を訂正・削除したり、編集部注等のコメントを入れるなどの措置をしませんでした。これがTwitterを中心に一部の人の激しい非難を浴びたのです。まとめると以下のような批判です。

a) 朝日新聞社のサイトに、いい加減な内容の記事を載せるのはおかしいし、その後、訂正しないのはおかしい。
b) 訂正や削除をしないとしても、「編集部注」「編集部からのお知らせ」などの形で反対意見があることを示すべき。
c) 編集方針上それが無理としても、関連記事へのリンクという形で反対意見を示すべき。

一部にはa)の意見もあるようですが、全体としてはb)やc)の批判がメインのようです。ただ、編集部側は、そうした措置をしないという表明をし、これが、さらに批判を呼ぶという流れになっています。

結論としては「そんなに頑なにならずに、編集部注でリンクくらい入れても良いんじゃないか」と言うのが、正直な気持ちではあるのですが、ひねくれ者の自分は、編集部側にも一理あるのではないかと思ってしまいます。

○オピニオン誌の終焉

というのも、WEBRONZAの元になった「論座」という雑誌が、特異な立ち位置に置かれたメディアだったからです。自分も、もしこの問題が、朝日新聞本紙や、AERA、週刊朝日等で起きた問題だったら、編集部注どころか、訂正記事くらい出さないといけないと思います。ただ、WEBRONZAだとどうか…。実はそんなに簡単な問題ではありません。

なぜでしょうか。ここで「論座」について少し詳しく説明することにしましょう。戦後、さまざまな論壇誌が競い合って評論を載せ、それが思想の潮流にも大きな影響を与えていた時代があったそうです。ところが、「政治の季節」の終焉とともに、こうした雑誌は衰退していきます。さらに、インターネットの普及はそれに追い打ちをかけるように作用し、21世紀に入って多くの論壇誌が廃刊になりました。そうした中、「リベラル系」に分類される論壇誌の中で、最後まで残ったのが、岩波書店の「世界」(現在も存続)と、朝日新聞社の「論座」の二つだったのです。その中でも、「論座」の特徴は、いわゆる右派、左派の両方を登場させ、「論戦」をうながすのが特徴でした。

一般に、「論壇誌」は、編集部による編集が入るものの、編集部は内容に責任を持つ立場にはありません。それが特に徹底されていたのが「論戦」を特徴とする「論座」だったのです。言葉だけを聞くと、責任を取るのが良くて、責任を取らないのが悪いという風に聞こえるかもしれませんが、政治的・社会的問題を扱う論壇誌にとって、責任を取るということは、一面的な意見しか出さないということを意味しています。これに対し、あえて責任を取らないことで、言論の自由を担保する。一般に「論壇誌」とは少なからずそうした性質を持つものであり、特に「論座」はそれが徹底されていた雑誌だったのです。編集がなされているとは言っても、正確性を基準にして編集するのではない。問題のある意見が掲載されたときは、対立意見を掲載することで、信頼を確保する。こうした編集方針によって、論座は、言論の自由を担保する役割を担っていたわけです。

ネットでもブログや掲示板のサーバー提供元は、ブログやホームページの内容の正確性に責任を持たなくても良いとされています。それと近い役割を、論壇誌が担っていたわけです。もちろん、ブログやホームページのように全てが掲載されるわけではないので、ブログやホームページとは違うし、たとえるならblogosくらいが適切かもしれません。ただ、ここではそういうことが言いたいわけではありません。インターネットがない時代、言論の自由を担保するためには、論座のように編集部が「責任」から一歩引くメディアが必要だった。その役割は、現在のブログや掲示板の果たして役割と共通するものであったということが重要だと思います。

○WEBRONZAというメディア

さて、紙媒体の雑誌「論座」は、2009年10月号をもって廃刊となりました。これには、論座のような編集スタンスがインターネットの時代にはそぐわなかったということが、無関係ではないような気がします。ネットの情報を中心に生活している現代人からすると、「編集部が責任を持たないが、議論を喚起するもの」を読みたいのなら、わざわざ紙媒体を読まなくても、ネットで十分でしょう。こうした人からすると、論座をはじめとする論壇誌は、多くの人が紙媒体に期待する「信頼」という役割を果たしていないように思えるのではないでしょうか。こうしたことと、論座の購読者が減っていったことは少なからず関係していると思うのです。

WEBRONZAは、論座の名前を受け継いで、2010年6月に始まったばかりのメディアですが、今回の騒動の経緯を見る限り、編集方針についても旧「論座」の姿勢を受け継いでいるように思えます。通常の記事も掲載するが、論壇誌的スタンスの記事もあり、それについては、筆者に断りもなく注釈を入れることはできない。これは、ある意味非常に一貫した態度だと思います。

問題は、それがWebという媒体に合ったものかということです。特に今回の騒動で取り上げられていることとの関係で言うと、以下の2点になるでしょう。

1. 紙媒体では、同じ号に掲載された関連記事が横断的に読まれるのが普通だし、継続的な読者も多い。このため、問題のある記事をそのまま掲載する代わりに、それとは別に批判記事を載せることが中立的なスタンスを保つために必要ということになる。しかし、Web媒体では記事がばらばらに読まれる一方、後から修正するのが容易。中立的なスタンスを保ったままでも、編集部注で関連記事が存在することを示したり、関連記事ととしてリンクを張ることはできるのではないか。(上記のb、cの批判と対応)
2. ネットで「編集部が責任を持たない記事」が必要なのか。それなら、ブログやブックマークサイトで十分。朝日新聞社の名前が付いているサイトが、そうした態度で編集する必要があるのか(上記のaの批判と対応)。さらに、追記までしないという頑なな編集方針を保つ必要があるのか(上記のb,cの批判と対応)。

○メディアの多様性

まず、1の論点。私は、基本的には妥当と思うし、「そんなに頑なにならずに、編集部注でリンクくらい入れても良いんじゃないか」という私の感覚も、こうした理由によるもです。ただ、これは最終的にはWEBRONZA自身の自己規定によります。WEBRONZAが、旧「論座」のスタイルをネットにそのまま持ち込もうとしていたとして、そんなものは読む価値がないとか存在しない方が良いかというと、そうは思いません。

インターネットには、ブログから学術雑誌までさまざまな編集方針のメディアがあり、記事の正確性、編集部の介与の度合いも、グラデーションのようになっています。だから、「編集部は、掲載の可否に関しては判断するが、筆者が書いた記事に後から注釈・リンクを加えない」というのは、十分ありえる編集方針です。こうした編集方針を取ることで、多様な議論が保証されるという意味はあるでしょう。また、「関連記事へのリンクはWebシステムのリニューアルで対応する問題であり、個別に対応できない」というのも「理解可能」な主張です。

ただ、そうだとしても、WEBRONZAは個人サイトではありません。正確性を重視するべき朝日新聞社のサイト内に、ブログや掲示板に近い編集方針のメディアが存在することが必要なのか。こういった批判があるでしょう。これが2番の論点です。これについて次節以降で説明します。

○ネット時代のメディアの信頼性

いったん、ちょっと話を変えます。

私は、日本のマスメディアの問題は、「間違ったことを報道する」ことではなく、「間違ったことを報道することを過度に避けるあまり、一面的報道しかできなくなる」ことではないかと思っています。これは、いわゆる「偏向報道」の問題と、「隠蔽体質」の両方につながることです。

これには、新聞記事の多くが署名記事ではないことと関係していると言われます。日本のメディアでは個人が責任を取らない代わりに、メディア全体が責任を取る。そのことは、メディアが「標準的な見解以外が書かない」ということでリスクを避けようととすることにつながるからです。また、問題が起きたときに責任の所在が曖昧になると同時に、訂正は論理的に上層部しかできないので、なかなか実現しない…といったことにもつながります。

こうした問題を解決するためには、逆説的なようですが、メディアが個別の記事に完全な責任を負わないということが必要ではないかと思うのです。いわば、新聞がブログやWEBRONZAの方に<ちょっとだけ>近づいていくということです。記者が個人として責任を持って記事を書き、新聞社はそれに「緩い」責任だけを持つ。捏造による誤報には厳しく対処するが、調査が一面的だった程度ではいちいち文句を言わない。ただし、ダメな記者は淘汰されていくし、良い記者を育てるための教育には手間を惜しまない。新聞社は、「全ての記事が正しい」と保証する代わりに、こうしたプロセス全体の公平性を保証することで信頼を得る仕組みが必要ではないかと思います。

ただし、こうしたメディアは読者にとって良いことずくめではありません。こうしたメディアが存在するためには、複数の記事が矛盾していたり、時には確実ではないことを許容する態度が読者に必要だからです。間違った論評があるかもしれないけれど、繰り返しそうした記事を書く記者は退場させられる。そのプロセス全体を信頼するということです。これは、ネットだけではなく新聞についても読者が自ら記事の正しさを判断し、取捨選択する能力を問われるということを意味しています。もちろん、正確性だけが求められる記事もあるでしょうが、調査記事や論説記事については多様な視点を許容する。こうして、新聞の内部に正確性のグラデーションを認めることが、報道の正確性を高めるし、ジャーナリズムの質的向上にもつながるのではないかと思います。

さて、以上は新聞本紙の話であって、WEBRONZAの話ではありませんが、そろそろ話を戻したいと思います。

こうしたことを考えるとき、「朝日新聞社のサイトなのだから、(記事の選択を通して、また編集部注の形で)正確性が保たれなければいけない」というロジックが、正しいのかは疑問でしょう。新聞本紙の中でも、正確さの高い情報とそうではないものの両方が許容されなくてはいけないし、さらに、サイト内に、本紙の論説よりも、さらに自由な論壇メディアがあっても良いと思うからです。内容に間違いが含まれていても議論を喚起するためにあえて載せ、責任は著者個人に取ってもらう。ただし、その記事の選択には、メディアとしてのプライドが掛かっている。こうしたメディアの必要性は、ネットが一般的になっても変わらないものではないかと思います。

たしかに、ネットの発達に伴って、私たちが、「朝日新聞」のような新聞社のブランドに求めるもが「正確さ」に特化してきているという傾向があると思います。ただ、これは新聞におもしろい記事がないという低評価の裏返しであり、重要な情報はネットで仕入れれば良いという理解の裏返しです。この傾向が続く限り、新聞社は無難な情報を伝える仕事しかできなくなるし、ジャーナリズムは一層衰退していくでしょう。むしろ、正確さ以外の価値を探っていくことが、ジャーナリズムの向上のためにも必要だと思うのです。

○変わるもの、変わらないもの

ただ、こうした新しいメディアのあり方を模索しようとするのであれば、より一層、「対立記事へのリンク」を加えたり、「このページは朝日新聞の記事ではありません」というコメントを入れる、あるいは編集部注を入れる際のルールを決めるといった工夫が重要になってくるでしょう。これは、「正確さのグラデーション」を読者に適切に伝えるために必要なことです。そう考えると、冒頭に掲げた批判のうち、aはともかく、bやcは、聞く価値のある批判と言えます。

自分は別に、そうした工夫をしないことが、ただちに不当だとか不正だとか言うつもりはありません。だいたい、組織というのはそんなに簡単には変わらない。論座の伝統を受け継ぐWEBRONZAも、Web媒体になったからといって編集方針を急に変えられない。それは一般には必ずしも悪いことではありません。そうした「変化の遅さ」が、メディアとしての信頼性、安心感を与えているという面もあるからです。WEBRONZAにも今の頑なな編集方針を続けて、信頼を失うリスクを負う権利があるし、それを守ることにはメディアの多様性を尊重するという大きな意味があります。変わった方が良いというのと、変わることを要求できるかは別の問題なのです。

これは、究極的には、WEBRONZAや朝日新聞がどのようなメディアであろうとするかという自己規定の問題。周囲の雑音に惑わされず、WEBRONZAや朝日新聞自身が判断するべき問題です。ただ、問題の構造そのものは朝日新聞だけではなく、どのメディアにも言えること。今回の問題が、メディアのあり方についての、より大きな議論に結びついていけばと思っています。


・補足
WEBRONZAのツイートを見て不思議なのはADHDの件について直接言及していないということです。だから、(まさかとは思うが)編集部が批判を理解していないのではないかという疑念が生じ、それが反発を受ける理由の一つになっているのではないかと思います。理解していないのなら、まずは理解してから判断するべきであることは言うまでもありません。ただ、WEBRONZAの編集部は一人ではないし、ツイート以外の状況からすれば、「理解した上で対応を考えている」と思われます。本文はこれを前提に書いています。

・変更履歴
初版(201/2/11)
現行(2011/2/14)

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