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クリスマスという記号

日記・コラム・つぶやき | 2010/12/24

クリスマスソングが聞こえてくると、不思議な気持ちになります。世界中の人が、《クリスマス》という記号を介して、素敵な音楽を作ったり、絵を描いたり、おいしいものを作ったりしていると思うから。そのことで、この素晴らしい音楽やイルミネーションや食べ物があるのだと思うから。

それらは全て、人の営み。人が泣いたり笑ったり、愛情を表現したり、そういったものを、《クリスマス》という記号が結びつけ、私たちの目の前の《クリスマス》を作っているのです。もちろん、《クリスマス》という記号は、格差社会とか商業主義とか、マニュアル化された恋愛とか、一神教とか、いろんなものとも関係しているし、そこで静かに泣いている人がいることも忘れてはいけません。でも、そういうことも含みこむような懐の広さが、人間にはあるような気がします。

そのことに思いを馳せる度、あぁ、人っていいな。人って素晴らしいなって思います。そして、そうやって思えることに、幸せを感じます。

今年も、《クリスマス》に乾杯。

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書評:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』について

書籍・雑誌 | 2010/12/07

○意外にも低評価のサンデル

マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の売り上げは、相変わらずすごい勢いだ。発売から5ヶ月以上も経っているのに、多くの書籍売り上げランキングで上位をキープしている。

しかし、マスコミ等での取り上げられ方について言う限り、評価の大部分は「類いまれなる講義の名手」というもので、内容への評価は少ない(link)。こうした評価には、「内容は大したことはないが、講義力が素晴らしいので優れた講義であるように見えるだけだ」というやっかみが多少なりとも含まれているのだろう。ただ、こうしてサンデルが低い評価を受ける理由は分からないこともない。なぜなら、サンデルの本は、表面的な分かりやすさにかかわらず、誤解されやすい要素に満ちているからだ。

○サンデルはリバタリアンを批判していない

その一つが、サンデルは、普通の意味でリバタリアニズム(自由主義の一種)を批判していないということである。たしかに、サンデルはリバタリアニズム批判の旗手として知られているし、この本のかなりの部分はリバタリアニズム批判に費やされているように思える。しかし、よく読めば分かるように、サンデルは、「リバタリアニズム的な政策を採用する」ことを少しも批判していない。極端な例を出すことで、リバタリアニズムが正義の原則とはなりえないことを示しているだけなのだ。

これは、サンデルに批判されたリバタリアンは次のように言えば良いということを意味している。「たしかに、リバタリアニズムは正義の原則にはなりえないけれど、多くの場合に有効である。政治的議論の結果、「共通善」として選ばれるのは、多くの場合リバタリアニズムにほかならない」。このように反論すれば、サンデルはこの主張に対して、中立を保つだろう。そういう意味で、サンデルが具体的な政策論としてのリバタリアニズム批判をしているわけではないのである。

そもそもサンデルの主張は、「リバタリアニズム的政策が優れている」と主張する<普通の>リバタリアンに対する批判ではない。サンデルはそういう相手を論敵として想定していないのである。リバタリアニズムに関するこの本の主張は以下の通りだ。

功利主義であれ、リバタリアニズムであれ、何らかの倫理原則によって、正義が導かれるという考え方は間違っている。

これは「正義が、何らかの原則から導かれる」という考えにとらわれていた人には、目から鱗が落ちるような議論と言えるかもしれない。ただ、逆に、正義が、何らかの原則から導かれるという主張を「机上の空論」としか思っていない多くの人にとって、「スリリングだけど無害な論理パズル」としてしかとらえられなかったのではないだろうか。こうしたことが、「類まれなる講義の名手」という低い(?)評価につながっているのかもしれない。

ただ、サンデルの主張は、決して「スリリングだけど無害な論理パズル」ではない。私たちの多くは、政治的・倫理的問題について議論するとき、限られた事例を元に正しいと考える原理原則から、全ての正義が導かれるという錯覚に陥ってしまう傾向にあるように思える。こうした議論の場において、「正義は何らかの原則から導かれるものではない」ということは、非常に重要な前提となる可能性があるだろう。

○なぜ、アリストテレスなのか?

サンデルは、こうしたことを踏まえて「政治についての議論がどうあるべきか」について論じる。サンデルは「正義が、何らかの原則から導かれる」という見方に対する対立意見として、アリストテレスの「徳」や「共通善」に基づく政治のあり方を提示するのである。ただ、これが不自然だと感じた読者は少なくなかったのではないだろうか。「正義は倫理原則によって導かれるものではない」という主張の明晰さからすると、急に歯切れが悪くなっていると感じた人は多かったはずだ。たしかに、「正義は倫理原則によって導かれるものではなく、アリストテレスの『徳』や『共通善』としか言いようがないものだ」という主張は分からないこともない。しかし、「徳」や「共通善」の内実がはっきりしていない以上、「正義は倫理原則によって導かれるものではない」という主張に対して、何も有意義な論点を追加していないという見方もできるだろう。

サンデルに対するこうした疑問に答えるために、サンデルの議論の背景を簡単に見ていくことにしたい。

一般に、現代思想でアリストテレスという言葉が出てきたら、対立意見として「あるもの」が前提にされていると考えて良い。それは、「プラトン」である。プラトンは、私たちが見ている世界(物質界)とは別に、本当の実在(イデア界)があり、私たちが見ている世界は本当の実在(イデア界)を影絵のように写した出したものに過ぎないと考えた(洞窟の比喩)。こうして、私たちが見ている現実の向こう側に、「ほんとうの」真実があるという考え方を「プラトニズム」と言う。正義に関して言えば、「本当の正義」がどこかにあり、私たちはそうした「本当の正義」を目指すべきであるということになる。

一方、プラトンの弟子のアリストテレスは、プラトンの思想に異を唱え、私たちが見ている現実こそが実在であると考えた。正義について言うと、正義についての議論を超えた本当の正義などない。だからこそ、正義についての議論のあり方が重要だと言うことになる。

こうした、プラトンとアリストテレスの対立は、遠く20世紀の哲学に強い影響を与えた。特に、ハイデガーは、プラトニズムを批判し、アリストテレスを擁護する中で、独自の哲学を構築したが、ハイデガーの描いた「プラトニズム批判」の枠組みは20世紀の思想家に広く受け継がれていったのである。このハイデガーの弟子で、現代の政治哲学に大きな影響を与えたのが、ハンナ・アーレントだ。アーレントは、全体主義や衆愚政治への批判を試みる中で、「公共領域」の復権を主張したのであるが、ここで持ち出されたのも、プラトン vs.アリストテレスの構図だった。アーレントは、市民がプラトン的な「観照的生活」ではなく、アリストテレス的な「活動的生活」をする社会、アリストテレスが目指したように、全ての市民が主体的に政治に参加する社会を構想するのである。

こうしたアーレントの主張は、サンデルの主張とも極めて近い。実際、サンデルが使う「公共領域」という言葉は、アーレントの用語を意識してのものだと考えて間違いないだろう。しかし、アーレントとサンデルは、大きく違う点がある。それは、アーレントは、人間の尊厳を前提にして「公共領域」について議論しているという点である。尊厳ある人間が作る公共領域という考え方は、自由主義の思想、ロールズやカントと矛盾するわけではなく、むしろそれらを部分的に要請してさえしており、これがアリストテレスに対する自然な解釈でもあることは、荒木勝氏からも指摘されている(link)。しかし、サンデルは、こうした人間の尊厳も、「正義は倫理原則によって導かれるものではない」という形で相対化しようとしているので、アーレントとは根本的に相容れないのである。

○ 物語としての正義

単純に考えると、このことは、サンデルの議論の重大な弱点になっているようにも思える。たしかに、サンデルの議論は、「正義が何らかの原則に基づくものではない」ということを重視するという意味で、プラトニズム批判としてのアリストテレスの立場を徹底している。しかし、それがあまりにも徹底されているために、「公共領域」や、それによって作られる「共通善」の基盤も分からなくなってしまうという側面もあるのだ。「サンデルの議論はもっともだが、公共領域ついての議論は諦めるべきだ」という批判を、簡単に無視することはできないだろう。

しかし、サンデルはこうした批判に対する反論を準備しているように思える。それに該当するのが、9章で述べられているマッキンタイアの議論だ。マッキンタイアは、アリストテレスの哲学を引くという点でアーレントと共通しているが、アーレントと若干異なり、以下のように論じるのである。

「『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ(『これからの「正義」の話をしよう』p.286)」

この議論から直接的に言えることは、自由主義も功利主義も、公共領域も、こうした物語の一つに過ぎないということである。これを突き詰めるのなら、「公共領域」の必要性は、人間社会において「たまたま」そうした物語が語られているという理由でのみ正当化されることになる。このとき、サンデルの主張はかなり弱いものになる代わりに、矛盾なく理解することができるだろう。

ただ、実際には、マッキンタイアの議論はそこにとどまらない。マッキンタイアの議論によれば、物語は「たまたま」そこにあるものではなく、私たちが、参加し、形作っていくものである。このことは、物語の成立において「公共領域」が要請されるという議論にも結びつく。つまり、サンデルは、マッキンタイアというクッションを置くことで、「正義は倫理原則によって導かれるものではない」という主張と、公共領域の議論の間の矛盾を解消しようとしているのである。

しかし、本当にこの議論が正しいのかは検討が必要だろう。なぜなら、正義が物語だとしても、それを意図的に作るべきなのか、作るべきだとして、どのように作るべきかは結局、別の(メタな)正義の問題になってしまうからである(cf. 自然主義的誤謬)。

たとえば、ある共同体の物語として封建制があり、その共同体の構成員がその物語に誇りを持っていたとしていたとしたら、政治的討議は要請されないのではないだろうか?これは、決して机上の空論ではない。たとえば、「正義と自由」のために、イラクやアフガニスタンを「解放」し、民主主義国家を樹立することは正しいのか。教祖を絶対と崇めるカルトの信者を「解放」することは正しいのか。こういった問題と関わっているからである。もし、公共領域の重要性が、正義の問題として理論的に導かれるものであるのなら、これらの行いも正当化されなければいけないかもしれない。しかし、正当化するとしたら、それは単純な「自由」の擁護とどう違うのだろうか。結局、民主制というメタな物語に無自覚にコミットしているだけではないだろうか。

これと同様のことは、もっと身近な問題にも当てはまる。現代のように多くの人が政治への積極的な参加を求めていない状況で、政治の公共領域を確保するために、政治への参加を強制されることは良いのだろうか。たとえば、裁判員ですら、国民負担が問題視されるわが国で、より積極的な政治参加を国民に強制することに対する同意が得られるとは思えない。要するに公共領域は、リバタリアニズムや功利主義と同じように、「個別には正しいと思われる面が多かったとしても、正義の原則とはなりえない」ものであり、マッキンタイアの言う「物語」の一つに過ぎないものと考えた方が適切ではないだろうか。残念ながら、サンデルはこうした批判に答えられていないように思える。

そうとは言っても、このことを理由にして、サンデルを低く評価することに私は反対だ。というのも、この点に関して、整理された結論を提示することができた哲学者は、今のところほとんどいないからである。たしかに、サンデルの議論は十分ではないかもしれないが、今のところもっとも優れた議論の一つであることに変わらないのだ。

大きく言うと、この問題は、いわゆる「相対主義のパラドックス」、より突っ込んで言うなら自己言及やシステム論の問題である。そして、ハーバマス=ルーマン論争における討議 vs.信頼の問題として、散々議論されてきたこととも関連している。そういう意味で、この本のオビ文を、日本のシステム論の第一人者である宮台真司氏が引き受けていることは興味深い(link)。サンデルは今後、目を離すことができない思想家である。


○関連ブログ紹介

マイケル・サンデル教授の特別講義「Justice」に出席してきた/誠 Biz.ID

書籍ではなく、講義についての記事だが、サンデルの講義の内容を詳しく紹介している。ネット上で読めるリソースを探しているという方にはおすすめ。ただし、理論的な面についてはほとんど詳しく触れていないので、理論面に興味がある人は、本を買うしかないだろう。

『これからの「正義」の話をしよう』/ペンギンはブログを見ない

法律関係に詳しい方らしく、法学の理論的な話とサンデルを関連させているのが興味深い。

[書評]これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(マイケル・サンデル)/極東ブログ

サンデルの議論は、直接、ナショナリズムを肯定するわけではないが、ナショナリズムと対立関係にあるリバタリアニズム的、リベラリスト的価値観を否定することで、結果として、ナショナリズムを肯定する方向を向いている。finalvent氏は、こうしたサンデルの議論の背景として、サンデルが「国家」を軽視していること指摘する。これは、非常に重要な論点ではないかと思う。

市場原理批判の常識 - 『これからの「正義」の話をしよう』/池田信夫

リバタリアンでもある経済学者、池田信夫氏による書評。短い文章だが、サンデルとリバタリアニズムとの関係については過不足なく説明している。サンデルに対して、リバタリアニズムの立場から、まともに「反論」をしてしまう素人がいる中で、「こうした批判に対してコミュニタリアンが十分な答を用意していないことも、著者は正直に認める」と適切に整理をしている。また、「日本ではよくも悪くも「伝統」とか「国益」といった曖昧な価値を絶対化し、それを基準にして「格差」や「品格」を論じる傾向が強い。こうした低次元のパターナリズムに対しては、本書が前半で提示しているリバタリアンの立場からの批判で十分である」という部分には全面的に賛同したい。

理の不安 - 書評 - これからの「正義」の話をしよう/404 Blog Not Found

小飼弾氏による書評。大部分は内容に立ち入った話ではないので、賛成も反対もないのだが、以下の部分だけはどうかと思う。「この文言だけ見れば、非実在青年を法で積極的に保護したりするのは正しいことのように見えるが、著者の真意は真逆である。政治が道徳に関与するということは、政治もまた理の不安に耐えなければならないことを意味するのだから」。いやいや。サンデルの主張に基づけば、非実在青少年の保護も「可能性としてありえる」ということになる。それ以上でも以下でもない。だから、「真意は真逆」と言うのはさすがに言い過ぎなのではないだろうか。おそらく、小飼弾氏としては、池田信夫氏の指摘のような「低次元のパターナリズム」への批判として受け止めたのだろう。だとすれば、無理矢理その方向で解釈できないこともないが、「真意は真逆」というのは不用意ではないかと思う。

米国におけるリベラリズムとリバタリアニズムのルーツ/MIYADAI.com Blog

宮台氏の「オビ文」に対しては批判が多い。しかし、ベストセラーのオビ文として適切かどうかはともかく、言っていることそのものは正しいと思う。宮台氏がなぜあのようなオビ文を書いたのかは、以下のTwitterのつぶやき(link)を読むと分かる。

その意味で、僕はサンデルの「市民的徳」論も、「再帰的リバタリアンとしてのパターナリズム」という文脈で読みます。かかる文脈は、彼の主著2冊が、「リベラリズムへの原理的批判」⇒「コミュニタリアニズムの歴史的正当化」という順序で書かれたところに瞭然だと考えます。米国史の中で読むのが大切。」。

「再帰的リバタリアンとしてのパターナリズム」というのは、私が本稿で指摘したように、正義のあり方についての(メタな)正義を根拠なく押しつけようとしているということであり、専門用語を使って短く言うと宮台氏のようになる。そして、その結論にたどりつかせるための補助線が、「リバタリアニズムと共同体主義は意外に近い」という宮台氏の話である。私の文章では、「アリストテレス→アーレント」という別の補助線を使ったが、これは思想史に対する関心の違いと読者層の違いによるもので、サンデルに対する理論的な理解は同じと言えるだろう。私は宮台氏の話にうなずきながら、勉強させていただく立場だが、そんな「3周くらい先を言っている」話をオビ文に書いても、理解されないのは仕方ないのかもしれない。

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