社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠

日記・コラム・つぶやき | 2010/09/04

「社会学玄論」の最新記事の中で私の記事が取り上げられています。その中で、私は「相対主義者の系譜に属する」とされてしまいました。もしこれを見て私が「相対主義者」だと誤解する人がいたら、それは「死ね」と言われるのに等しい屈辱です。ついでに社会学玄論の過去の記事を見ていたら、ニセ科学批判を批判する記事が多数あり、私の立場と根本的に違っていることが分かりました。

読者の中には社会学玄論と私の主張を一緒くたにして「相対主義」「ニセ科学批判への批判」などと考えている人がいると思うので、このあたりで立場の違いを明確にしておきたいと思います。

○ 相対主義=相対性原理主義に陥っている

私の違和感の原因は、以下の言葉に集約されています。

相対主義は、多神教であり、寛容であり、平和をもたらす使者である。

科学主義者(ニセ科学批判者)が相対主義者を嫌う根本的理由

私は相対的視点(メタな視点)の重要性を指摘している(link)という点で社会学玄論と共通です。しかし、相対的視点も一つの視点に過ぎない以上、目的もなく相対的視点の重要性を語ることができないと強調するtところが大きく異なります。相対的視点の必要性を訴えるときは、特定の立場を取った上で、その立場から相対的視点の必要性を訴えないといけないのです。私のように「相対的視点も相対化してとらえる」という立場は、「原理主義批判」と同時に「相対主義批判」の立場であり、「相対主義」ではありません。

私が、自分のホメオパシー関連の記事の一部(link)で、無理矢理「ホメオパシーの人たちを説得するために、どうすれば良いか」という問題設定をしたのはこのためです。これは相対主義のパラドックスを避けつつ、相対的視点を強調するために必要なことだからです。「疑似科学の人たちを説得するため」という目的なら、多くの人が受け入れるだろうと考え、その目的のために相対的視点を持つことの重要性を指摘しました。もちろん、「その議論の目的は間違っている」と言う人はいますが、「あなたに語っているのではない」と言えば済むことになります。また、この立場から、私はニセ科学批判をする人たちを批判していません。彼らは科学の内部の問題としてニセ科学を批判しているのであり、科学の外側からそれを否定することはできないと思われるからです。

これに対し、社会学玄論では、「相対主義は(中略)平和をもたらす使者である」と相対主義の素晴らしさが声高に謳われています。たしかに、こういう立場もあるでしょう。しかし、これは「民主党が素晴らしい」とか「軍備反対」とか言うのと同じように、一つの政治的、思想的な心情を表明しているだけです。こうした立場から相対的視点の重要性を訴えるのは、いわば「相対性原理主義」です。たしかに、かつて思想的潮流として相対主義が流行した時期はありました。しかし、今となっては時代遅れ以外の何ものでもないでしょう。「ずれた視点で語って自己満足に浸っている」と思われるのが関の山です。

ちなみに、システム論は、相対的視点と関係していますが、根本的には、相対主義と距離を置くという特徴があります。社会学玄論が「究極のラディカル・システム論者」(link)と自称しながら、なぜ相対主義に陥るのか良く分かりません。

○ 現代社会のあり方を無視している

根源的偶然性という言葉は社会学玄論のこちらのエントリーで説明されていますが、この概念自体は一般的なものです。科学は科学の法則を調べることができますが、なぜその法則が生まれたのかということについて触れることができません。法律学は法律の運用上の原理について考えることができますが、そうした原理がなぜ生まれたのか、根本的なところでは説明することができません(語ろうとすると「神話」にしかならない)。こうしたことを「根源的偶然性(未規定性)」と言います。私もホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線で、ほぼ同じ趣旨のことを簡単に説明しています。

さて、根源的偶然性に突き当たったとき。社会の外側(宗教等)にその根拠を求めるのか、求めないのかという問題はありますが、いずれの立場を取ったとしても、「それを認めるしかない」ということには変わりません。これは、私たちが議論をするコミュニケーション空間にも成り立ちます。この根源的偶然性に気づいたとき、コミュニケーション空間の前提を無視した一方的な言説は、何の意味も持たないと考えるのが普通でしょう。私たちが学問的な議論をすることができるのは、そこに学問的議論についてのコミュニケーション空間があるからであり、これは合理性によって成り立っているものです。これは否定しようもない現実なのです。

かつて流行した相対主義は、合理性一辺倒だった時代に、それに対する批判として成り立っていたものです。合理性一辺倒が問題だと社会的に了解されることが、ナイーブな相対主義に意味を与えていたのです。ところがいったん、相対主義が一般的になり、「合理性一辺倒」が過去のものになると、相対主義は無効になります。こうした状況では「特定の目的のために相対的視点の重要性を語る」しかないのです。

もちろん、違う見方もできます。現在、議論をしているコミュニケーション空間を超越するものとして、「相対主義」を置くという立場です。つまり、今、議論をしているコミュニケーション空間は「仮」のものであり、どこかに相対主義を理解してくれる人がいるはずだ。自分は、相対主義を理解してくれるコミュニケーション空間に身を置いており、この人たちとは本気で議論する気はないのだ。こう考えるのなら、社会学玄論で取られている立場も分かります。しかし、残念ながら「相対主義を理解してくれるコミュニケーション空間」など、現代社会のどこにも…正確に言えば、本棚の本の中にしか…ありません。かつてはあったかもしれませんが、消滅してしまったのです。

○ ニセ科学批判を不当に批判している

科学は、現在という時点において「何が科学的で何が科学的ではないか」を判断するロジックを持っています。これは、科学の根拠付けとも、根源的偶然性(link)とも全く別の問題であり、科学の外側の問題ではなく、科学の内側の問題です。科学じゃないものを科学という人たちに対して、「それは科学ではない」というのは当然のことなのです。

たしかに、大槻義彦あたりは、この一線を越えている面があり、そのためにニセ科学批判が低レベルのものだと見られていた時代もありました。しかし、菊池誠氏がこの点に関して根本的に間違っているとは思いません。過去の発言の中に「一線を越えてしまった」ものがあるという批判もあるようですが、少なくとも大部分はそうではないと思います。菊池氏がフォロワーを増やしているのは、このあたりの「謙虚さ」によるものだと理解しています。だから、私は一連の記事でもニセ科学批判の主流の人たちを批判せず、ネットで集団的熱狂に陥っている人の一部が「一線を超えている」ということだけを批判しました。社会学玄論では、こういった人たちが一緒くたに批判されているように思えます。

社会学玄論の立場は、私がネットに蔓延する科学教で批判した「ある立場の議論とメタな議論を区別できない」主張=原理主義ではないでしょうか。つまり、「科学の立場からの批判」と「メタな立場からの批判」をごっちゃにして、「科学の立場からの批判」を批判しているのが社会学玄論であるようにも思えます。もしそうだとしたら、まさに「相対性原理主義」に陥っているのではないかと思います。

○議論の前提となる合理性すら否定してしまっている

私は、ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線において、宗教と科学を分離する脱呪術化、近代合理性のあり方を踏まえた上で、その限界について議論しました。科学はホメオパシーを否定できないで、「ホメオパシーを説得する」という議論の目的を設定したのも、一見して「合理的」と思われる視点を前提にして、その目的の達成のためには、限界の把握が必要だという議論です。

ところが社会学玄論の論宅氏は、こちらの記事のコメント欄で、

「脱呪術化・合理化した近代社会だからこそスピリチュアルカウンセラーや占い師は批判的に見られるにすぎません。彼らを批判する人は、近代人として科学的価値観を道徳として内面化しているわけです」

と述べています。これは一面的には正しい。正しいのだけれど、ここで「合理化した近代社会」をナイーブに否定してしまうと、議論の基盤そのものが崩れてしまいます。「こいつはスピリチュアルカウンセラーと同じように、変なことを言っているのに過ぎないんだ」と思われて終わりでしょう。私たちは、「脱呪術化・合理化した近代社会」を前提に議論しているのだから当然です。論宅氏の議論は、思考実験としてはおもしろいかもしれませんが、相手の議論とかみ合っていないのです。

○ おわりに:相対主義の罠

いろいろ批判的な書き方をしましたが、社会学玄論の立場は、立場としてはありえるので、全面的に間違っていると言うつもりはありません。しかし、それはナイーブな「相対主義=相対性原理主義」であり、現代の社会学、特に社会システム論の立場を取る社会学者とは大きく異なるのではないかと思います。また、こうした立場からニセ科学批判を取り上げても、単にニセ科学やスピリチュアルなものと同一視されるだけではないでしょうか。それは、少なくとも私の立場と大きく異なるものです。

相対主義は、相対的視点を取ろうとする人が陥りやすい罠です。また、「相対主義の罠」の回避そのものは理論的にできるとしても、「どうやって実効性のある議論をするか」というテクニックは、あいかわらず難しいままであり、これについて私はまだまだ未熟です。今後も、そうした練習を兼ねて、ブログの記事を書いていければと思っています。

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