医療不信のリスク論

経済・政治・国際 | 2010/09/02

最近、科学の根拠についての記事をいくつか書いてきましたが、今回はちょっと話を変えて、違う観点から考えてみたいと思います。

私たちは、有効な治療を拒否するような患者の話を聞くと、「非科学的な判断」「非合理的な判断」だと考えるでしょう。しかし、「科学的前提だけに基づいて合理的判断をする個人」という仮定をしたとしても―むしろ、そう考えればこそ―有効とされる治療を拒否することが合理的と言える場合があります。

○「リスクのリスク」は評価できない

リスクを計算するとき、何らかの前提に基づいてリスクを計算しないといけません。交通事故のリスクや火力発電所の爆発事故のリスクは、個別の事故の範囲は科学的に限定されるし、将来、全く違ったパターンの事故が起きるとは思えないので、過去の事例からリスクを計算することができます。

さて、リスクがある前提に立って計算されているときも「その前提が本当に正しいのか」というリスクはあります。これには原理的に計算しようがないものです。原子力発電所で事故がある度に、「想定外の事故だった」という情報が流れますが、原子力発電所のリスク計算の前提が間違っているという未知のリスクは計算できません。また、治療の副作用のうち、現在分かっているものについてはリスクが評価されます。しかし、薬害は、通常、当初リスクと思われていなかった大きなリスクが後から顕在化することによって起きるものですから、今使われている薬に未知の問題がある可能性は否定できません。こうした「リスクの前提が間違っているというリスク」は基本的に計算不能です。

○「リスクのリスク」と医療システムへの信頼

こうした「リスクのリスク」の評価は主観的(あるいは共同主観的)なものにならざるをえません。これは「科学」とは別のレベルの問題だということが重要です。たとえば、治療法の安全性は、素朴な意味での「科学的事実」ではありません。ある治療に特定の効果がどの程度あるか、特定の副作用がどの程度あるか、生存率がどの程度高まるか、は科学的事実になりえますが、未知の副作用を含めた「安全性」は科学的事実にはなりないのです。だから、科学は信頼するが医療における「リスクのリスク」を大きく評価する人が出てくることになります。

もちろん、医療システム全体を歴史的に見て、次のように考えることもできます。「後から副作用や治療の無効性が分かったケースはあるかもしれない。しかし、現在から振り返って評価してみると、そうした『リスクのリスク』はそんなに大きくないと判断できるし、減りつつもあると考えられる。また、治療を受けないリスクよりずっと小さいと考えられる」。これはむしろ普通の人の感覚に近いでしょう。

しかし、「現在から振り返ってみると」という判断自体に「リスクのリスク」があるのがポイントです。このため、「リスクのリスク」を過大評価する人は「現在から振り返ってみると…」という判断そのものを信頼しません。これは言い換えれば、医療システムへの信頼の根拠の一つであるリスク評価が、それ自体、医療システムに対する信頼に支えられているということです。医療システムを信頼している人は、信頼→信頼→信頼という循環でより医療システムを信頼することになりますが、医療システムを信頼していない人は不信→不信→不信という循環で医療システムを一層信頼しないことになります。私たちの社会関係が「信頼」で成り立っていることを考えると、これは、ある種のコミュニケーション障害とも言える状態ですが、「科学的前提に基づいた合理的判断」という観点から考える限り、これはどうしようもない問題なのです。一般に「信頼」の問題は合理性だけで解決できないということは良く知られています。

○ 患者にとってのリスク計算

さて、実際の治療にはさまざまなレベルのリスクがあり(死亡、後遺症、美容上の欠損など)一概に言うことはできません。そして、このリスクの種類の違いが、治療を受けるかどうかの判断に重要な影響を与える場合もあります。たとえば、危険な手術を受けるかどうか判断する場合、手術を受けるリスクと受けないリスクでリスクの種類が違うため、「リスクのリスク」を全く想定しない人にとっても、難しい問題になることが多くあります。

ただ、「リスクのリスク」を重視する人は、もっと単純なケース、つまり、多くの人が治療を受けることが明らかであるような場合でも、治療を受けないという選択肢を取ることになります。こうした状況を説明するため1種類のリスクだけが問題になっているという非常に単純化されたケースを考えることにしましょう。医学的リスク判断が間違えることによるリスクを想定する患者にとって、治療と関係するリスクは以下の3つになります。

医学的に知られている治療を受けるリスク:r1
医学的に知られている治療を受けないリスク:r2
医学的なリスク判断が間違えることによるリスク(リスクのリスク):p

治療を受けることによるリスクr1と治療を受けないことによるリスクr2は医学的に分かるものであり、治療を受けるリスクr1の方が治療を受けないリスクr2よりも小さい(r1 < r2)という関係にあります。このとき、

患者が見積もる治療を受けるリスク:R1=r1+p
患者が見積もる治療を受けないリスク:R2=r2
患者が治療を受ける条件:R1 < R2 ←→ r1+p < r2 ←→ p < r2-r1
(厳密にはR1=1-(1-r1)×(1-p)=r1+p-r1×pだが、通常、最後の項は無視できる)

となります。

式だけだと分かりづらい人も多いと思うので、言葉でも簡単に説明しましょう。医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを十分に小さく見積もる「普通の」人であれば、医学的に知られているリスク(r1、r2)だけを比較して治療を受けるかどうかを決めます。医学的には治療を受けるリスクr1の方が小さい(r1 < r2)ので、常に治療を受けるという選択肢を取ることになるでしょう。

しかし、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを大きく見積もる人は、治療を受けることによるリスクと医学的なリスク判断が間違えることによるリスクの合計(r1+p)が、治療を受けないことによるリスクr2を下回らなければ治療を受けるという判断をしません。言い換えれば、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpと治療を受けることによるリスクの減少(r2-r1)を比較し、治療を受けることによるリスクの減少(r2-r1)が、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを上回った時(p < r2 – r1)だけ治療を受けるという選択肢をすることになるのです。

たとえば、治療を受けることによるリスクr1が8%、 治療を受けないことによるリスクが40%であり、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpが50%と見積もられる場合を考えてみます(右図)。こうした患者は、治療を受けることによるリスクr1と医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpの合計(58%)が、治療を受けないことによるリスクが40%よりも高いため、「治療を受けない」という選択をすることになります。もちろん、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを少なく見積もる「普通の人」は、間違いなく治療を受けるという選択をすることになるでしょう。

○ リスクを回避することの「リスクのリスク」

こうした「リスクのリスク」の見積もりにはさまざまなものがあります。どんなに確実で有効な治療でも絶対に受け入れないという人はいるわけですが、そういう人にとって、「リスクのリスク」は、100%近いものとされていると考えることができます。ただ、もう少し穏当に1/100とか1/1000程度の「リスクのリスク」(医学的なリスク判断が間違えることによるリスク)を想定している人を考えることにします。

こういう人は、生死にかかわる病気になったとき、一般の人と同じ判断をするわけですが、少ないリスクを回避するような処置に関しては、違う判断をすることになります。たとえば、ある処置を受けなければ1/2000のリスクで死に、受ければそれを防げたとします。ここで、「リスクのリスク」を「1/1000で死ぬ」と見積もる患者がいたとすると、その患者は、その治療を受けないということになるでしょう。これは患者にとってはある意味「合理的」な判断です。

ちなみに医師はどうでしょうか。医師にとって1/2000のリスクは、一日1人該当する患者を診察すると5年に一人は死ぬということです。それで多額の損害賠償を負ったり、医師生命を絶たれたりすると考えれば、とてつもなく大きなリスクに感じられるでしょう。一方、治療を担当する一般の医師は、後になってその処置の副作用が判明しても責任を問われないため、「リスクのリスク」は無視し、1/2000のリスクだけを考えれば良いのです。こうして、医療システムを信頼していない患者と医師の間には、埋めることのできない認識の差が生まれることになります。

○ リスクと信頼

さて、ここまでの議論に対し、多くの人はある疑問を感じたのではないでしょうか。それは、「リスクのリスク」なんて、そんな面倒なことを考えている人は多くないのではないか。私たちは、もっと漠然と医療を信頼しているし、医療に対して不信を抱く人は、もっと漠然とした不安を抱いているのではないかということです。

これはもっともです。冒頭で書いたように、ここまでの話は、「科学的前提だけに基づいて合理的判断をする個人」という仮定でなされたものです。だからこそ、「リスク」と「リスクのリスク」を区別した上で、「リスクのリスク」を大きく見積もるという議論が可能になりました。ただ、実際には「リスクのリスク」の厳密に区別して理解するくらいの合理的思考ができる人であれば、経験的理由で「リスクのリスク」をそれほど大きく見積もる必要はないという、判断に至るケースの方が多いでしょう。

むしろ、多くの人は医療システムに対する信頼をもっと漠然とした意味で理解しており、「リスク」と「リスクのリスク」は区別していません。たとえば、薬を飲んでも良くならない、副作用が出てしまうというのは多くの場合、「リスクのリスク」ではなく「リスク」、つまり、医学的にも把握されているリスクの問題です。つまり、そのことはリスクの小さい別の治療を受けない理由にならないはずです。しかし、こうした「リスク」を「リスクのリスク」と区別しない人は、リスクが小さいはずの別の治療も拒否することになってしまうわけです。この状況は、「医療に対する過度の期待が裏切られた」と言うのが一般的な表現でしょうが、それは言い換えれば「リスク」と「リスクのリスク」を区別せずに、小さい「リスク=リスクのリスク」を期待したのが裏切られたということです。

ここで、「リスクのリスク」は、客観的には求まらないということを思い出してください。また、「リスクのリスク」は信頼の問題であり、「信頼→信頼→信頼」、あるいは「不信→不信→不信」という循環を形作っていることを思い出してください。たとえば、「リスク」の問題を「リスクのリスク」と区別せず、治療を受けるリスクが一般に1/10くらいだと見積もる人がいたとします。この思考のプロセスは合理的ではないかもしれませんが、いったん「リスクのリスクを大きく見積もる」という結論に至ると、「不信→不信→不信」という循環が生じてしまいます。この循環そのものは合理的な判断なので、該当する治療のリスクの小ささ、つまり、「この治療は安全で、メリットが大きいですよ」ということをいくら伝えても、患者は聞く耳を持たなくなるわけです。

これを示したのが、右の図です。黒い矢印は「合理的思考」で赤い部分は「非合理的思考」を表しています。赤い矢印は間違っているにしても、それが生み出す黒い矢印の循環はある意味合理的なものであり、簡単には否定できないのです。この場合、その人自身の過去をたどって赤い矢印をあぶり出さないと、この循環から抜け出すことはできないでしょう。

いずれにせよ、医療不信には、さまざまな要素が相互に関係しており単純化して考えることはできません。しかし、そうした要素の一つとして、こうしたリスクをめぐる問題があるということは、考えないといけないのではないかと思います。

ちなみに、このことは、直接的には患者が「リスク」と「リスクのリスク」を区別することができれば、「不信→不信→不信」の循環に入らずに済むという対策の有効性を示唆します。ただ、実際にはそんなに単純な問題ではありません。次回の記事ではこういった論点の一つについて論じることにします。

次回の記事:
ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線

○関連記事

本文の一部は以下の記事を参考にして書きました。ただし、議論そのものは全く別の目的のものであり、批判とか肯定とかそういう趣旨のものではありません。

ホメオパスの成功体験が悪性リンパ腫を見落とさせた/NATROMの日記

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コメント

この中の「治療を受ける・受けない」の表に具体的な数字(%)が記載されていますが、根拠のある数字なのですか?
例えばという数字(%)であるのなら、その旨をちゃんと記載しないと又誤解を呼ぶのでは。

管理人より:どうもありがとうございます。本文に追記させてもらいました。

投稿: 健太 | 2010/09/02 12:02:54

大変参考になりました。
ただこの部分に引っかかったので、コメントさせてください。(本筋とは関係ないことは分かっています。)
>治療を担当する一般の医師は、後になってその処置の副作用が判明しても責任を問われないため、「リスクのリスク」は無視
たとえ裁判的な意味合いでリスクがないとしても、(大部分の)医者は患者を殺したくないのが普通だと思います。「リスクのリスク」があることも意識して治療しているはずです。
>埋めることのできない認識の差
があるとすれば、一般的な患者との差と同様に、「医療システムを信用しているかどうか」でしょう。
(医者はもちろん医療システムを信頼しているだろうので)

管理人より:コメントありがとうございます。「この薬は正式に承認されているが、効果が怪しいのではないか」と本気考えた医師がいたとして、「承認されている以上、どうせ裁判になることはない」と考えて使い続けはしない。もしかしたら、こういうことを想定されているのかもしれませんが、これについては全くその通りだと思います。もし、これを否定しているように受け止められたとしたら、そうではないということを確認しておきたいと思います。

これに対し、自分が書いたのは、大きく言うと、「ある制度の元で相手に何を期待するか?」という制度設計の話です。上の説明で言うと、仮定の部分の「この薬は正式に承認されているが、効果が怪しいのではないかと本気で考える」、裁判上、制度上の動機を話題にしたのです。もちろん、医師は裁判だけを気にして治療をしているわけではないわけではないでしょうが、制度設計の観点から、そういった動機を持つようになっていません。こうした状況で、「リスクのリスク」を大きく見積もる患者が、「どうせ医者は私たちのことを考えてくれない」と思ってしまうのではないか…ということが「埋めることのできない認識の差」という言葉で言いたかったことです。たしかに、「本文だけでそこまで分かるか!」というお叱りなら、その通りですが…。

ちなみに、裁判の上で、医師が「リスクのリスク」をゼロと見積もることを認めるのは当然です。医師は膨大な治療に関する知識の正当性を一つずつチェックすることなどできないので、それを信頼することを認められなければ、何もできなくなってしまうからです。

投稿: okata | 2010/09/02 22:40:56

医療では下の1.の部分での不振というか医療拒否も多いのではないかとは思います。

1.医者-患者でのゴールのすりあわせ
 医者のゴールと患者のゴールが一致するとは限りません。
そのため、すりあわせして、医者のゴールを理解してもらうことが必要になります。
ただ、「治療を受けること」が患者の当初の希望を実現させるとは限らない場合=患者の当初の期待に応えられない 場合が存在します。
例えば、末期がんで、医者の側としては、「○○年延命させる」ことが当初のゴールになるでしょう。患者の側としては、当初は「がんの完治」をゴールと考えているでしょう。

このゴールのずれを認めることができず、患者が治療を拒否し、上の例であれば、「がんの完治」をうたった代替治療にはまったり医療拒否したりすることはあるでしょう。

2.すりあわされたゴールを実現する方法とリスク
  すりあわされたゴールを目指す「治療を受ける」ことを決める場合、ゴールを実現する方法(複数の場合もある)についてリスクを考えて選択することになります。
この場合は、本文にあるような話になりますが、結局のところ「何もしない」を含めて何かを選択することになります。

管理人より:コメントありがとうございます。

これについては、おっしゃる通りです。冒頭に書いたように、この記事の議論は「科学的知識に基づいて合理的判断をする求める患者」が前提だし、さらに、医師とのコミュニケーションもうまくいっているという理想的状況を想定しています。しかし、最後にも書いたようにこの仮定は正しくありません。したがって、取りこぼしている点がたくさんあります。医療不信の原因としては、医師と患者のコミュニケーションの失敗、目的の違いなども、重要な論点だと思っています。こういった論点の一つについては今日中にアップする記事でも議論する予定です。

 医療にも、代替医療にも、医療拒否することにも、何もしないことにも、リスクがあり、本文のような考え方をするならばそれぞれに「リスクのリスク」も考えることになります。 本文中であれば、r1のみに「リスクのリスク」がかかるわけではなく、医学的に知られている「治療を受けない場合のリスクは40%」というのも医学的判断によるリスクなので「リスクのリスク」がかかるはずなのですが、それを無視しているのはよく分からないところです。
それを加味した場合、順位の逆転がそうそう起こるものであるのかは補足説明がほしいです。

結果として、そういう問題ではないのですが、おっしゃる通り、分かりづらい面はあったかもしれません。全体として「医療不信に陥っている人」にとっての主観的なリスクを問題にしたので、「治療を受けないことのリスク」についてのリスクのリスクは問題にする必要がないと考えたのですが、本文の記述がそれに対応するものになっていなかったのは事実で、そこから来る誤解は私の責任です。

おっしゃっていることは具体的には次のようなことだと思います。病気Xがあったとします。そして治療法Aが開発され有効であることが分かったとします。このとき、治療法Aが未知の副作用Bを引き起こすリスクのリスクpのほかに、病気Xは、無関係と思われていた別の病気Yを引き起こすことによるリスクのリスクp'を想定しないといけないという話だと思います。

これはたしかにそうかもしれません。p'を過大評価する人は、病気を必要以上に怖がり、必要もない治療を受けるという行動を取ることになります。こういう人はたしかにいます。ただ、重要なのは、「治療を受けること」のリスクのリスクpと、「治療をうけないこと」のリスクのリスクp'は独立だということです。そして、本文で言っているのはp1を大きくみつもるような人が「存在する」ということなので、全体の論旨として間違っているというわけではありません。

そうなのですが、本文ではp1とp2を区別しなかったので、p1=p2、あるいはp1≒p2と考える人もいたでしょう。そうだとすると、北風さんの指摘のような指摘になります。時間があったら修正するかもしれません。

投稿: 北風Mk-2 | 2010/09/03 1:55:46

本文の最後に「この話と山口のビタミンK事件は関係ない」という趣旨のことを書いたのですが、事実認識に間違いがあるという指摘をいただきました。本題と無関係の内容だったため、削除しました。

http://twitter.com/HayakawaYukio/status/22874202105

投稿: 情報学ブログ | 2010/09/03 19:46:07

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