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社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠

日記・コラム・つぶやき | 2010/09/04

「社会学玄論」の最新記事の中で私の記事が取り上げられています。その中で、私は「相対主義者の系譜に属する」とされてしまいました。もしこれを見て私が「相対主義者」だと誤解する人がいたら、それは「死ね」と言われるのに等しい屈辱です。ついでに社会学玄論の過去の記事を見ていたら、ニセ科学批判を批判する記事が多数あり、私の立場と根本的に違っていることが分かりました。

読者の中には社会学玄論と私の主張を一緒くたにして「相対主義」「ニセ科学批判への批判」などと考えている人がいると思うので、このあたりで立場の違いを明確にしておきたいと思います。

○ 相対主義=相対性原理主義に陥っている

私の違和感の原因は、以下の言葉に集約されています。

相対主義は、多神教であり、寛容であり、平和をもたらす使者である。

科学主義者(ニセ科学批判者)が相対主義者を嫌う根本的理由

私は相対的視点(メタな視点)の重要性を指摘している(link)という点で社会学玄論と共通です。しかし、相対的視点も一つの視点に過ぎない以上、目的もなく相対的視点の重要性を語ることができないと強調するtところが大きく異なります。相対的視点の必要性を訴えるときは、特定の立場を取った上で、その立場から相対的視点の必要性を訴えないといけないのです。私のように「相対的視点も相対化してとらえる」という立場は、「原理主義批判」と同時に「相対主義批判」の立場であり、「相対主義」ではありません。

私が、自分のホメオパシー関連の記事の一部(link)で、無理矢理「ホメオパシーの人たちを説得するために、どうすれば良いか」という問題設定をしたのはこのためです。これは相対主義のパラドックスを避けつつ、相対的視点を強調するために必要なことだからです。「疑似科学の人たちを説得するため」という目的なら、多くの人が受け入れるだろうと考え、その目的のために相対的視点を持つことの重要性を指摘しました。もちろん、「その議論の目的は間違っている」と言う人はいますが、「あなたに語っているのではない」と言えば済むことになります。また、この立場から、私はニセ科学批判をする人たちを批判していません。彼らは科学の内部の問題としてニセ科学を批判しているのであり、科学の外側からそれを否定することはできないと思われるからです。

これに対し、社会学玄論では、「相対主義は(中略)平和をもたらす使者である」と相対主義の素晴らしさが声高に謳われています。たしかに、こういう立場もあるでしょう。しかし、これは「民主党が素晴らしい」とか「軍備反対」とか言うのと同じように、一つの政治的、思想的な心情を表明しているだけです。こうした立場から相対的視点の重要性を訴えるのは、いわば「相対性原理主義」です。たしかに、かつて思想的潮流として相対主義が流行した時期はありました。しかし、今となっては時代遅れ以外の何ものでもないでしょう。「ずれた視点で語って自己満足に浸っている」と思われるのが関の山です。

ちなみに、システム論は、相対的視点と関係していますが、根本的には、相対主義と距離を置くという特徴があります。社会学玄論が「究極のラディカル・システム論者」(link)と自称しながら、なぜ相対主義に陥るのか良く分かりません。

○ 現代社会のあり方を無視している

根源的偶然性という言葉は社会学玄論のこちらのエントリーで説明されていますが、この概念自体は一般的なものです。科学は科学の法則を調べることができますが、なぜその法則が生まれたのかということについて触れることができません。法律学は法律の運用上の原理について考えることができますが、そうした原理がなぜ生まれたのか、根本的なところでは説明することができません(語ろうとすると「神話」にしかならない)。こうしたことを「根源的偶然性(未規定性)」と言います。私もホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線で、ほぼ同じ趣旨のことを簡単に説明しています。

さて、根源的偶然性に突き当たったとき。社会の外側(宗教等)にその根拠を求めるのか、求めないのかという問題はありますが、いずれの立場を取ったとしても、「それを認めるしかない」ということには変わりません。これは、私たちが議論をするコミュニケーション空間にも成り立ちます。この根源的偶然性に気づいたとき、コミュニケーション空間の前提を無視した一方的な言説は、何の意味も持たないと考えるのが普通でしょう。私たちが学問的な議論をすることができるのは、そこに学問的議論についてのコミュニケーション空間があるからであり、これは合理性によって成り立っているものです。これは否定しようもない現実なのです。

かつて流行した相対主義は、合理性一辺倒だった時代に、それに対する批判として成り立っていたものです。合理性一辺倒が問題だと社会的に了解されることが、ナイーブな相対主義に意味を与えていたのです。ところがいったん、相対主義が一般的になり、「合理性一辺倒」が過去のものになると、相対主義は無効になります。こうした状況では「特定の目的のために相対的視点の重要性を語る」しかないのです。

もちろん、違う見方もできます。現在、議論をしているコミュニケーション空間を超越するものとして、「相対主義」を置くという立場です。つまり、今、議論をしているコミュニケーション空間は「仮」のものであり、どこかに相対主義を理解してくれる人がいるはずだ。自分は、相対主義を理解してくれるコミュニケーション空間に身を置いており、この人たちとは本気で議論する気はないのだ。こう考えるのなら、社会学玄論で取られている立場も分かります。しかし、残念ながら「相対主義を理解してくれるコミュニケーション空間」など、現代社会のどこにも…正確に言えば、本棚の本の中にしか…ありません。かつてはあったかもしれませんが、消滅してしまったのです。

○ ニセ科学批判を不当に批判している

科学は、現在という時点において「何が科学的で何が科学的ではないか」を判断するロジックを持っています。これは、科学の根拠付けとも、根源的偶然性(link)とも全く別の問題であり、科学の外側の問題ではなく、科学の内側の問題です。科学じゃないものを科学という人たちに対して、「それは科学ではない」というのは当然のことなのです。

たしかに、大槻義彦あたりは、この一線を越えている面があり、そのためにニセ科学批判が低レベルのものだと見られていた時代もありました。しかし、菊池誠氏がこの点に関して根本的に間違っているとは思いません。過去の発言の中に「一線を越えてしまった」ものがあるという批判もあるようですが、少なくとも大部分はそうではないと思います。菊池氏がフォロワーを増やしているのは、このあたりの「謙虚さ」によるものだと理解しています。だから、私は一連の記事でもニセ科学批判の主流の人たちを批判せず、ネットで集団的熱狂に陥っている人の一部が「一線を超えている」ということだけを批判しました。社会学玄論では、こういった人たちが一緒くたに批判されているように思えます。

社会学玄論の立場は、私がネットに蔓延する科学教で批判した「ある立場の議論とメタな議論を区別できない」主張=原理主義ではないでしょうか。つまり、「科学の立場からの批判」と「メタな立場からの批判」をごっちゃにして、「科学の立場からの批判」を批判しているのが社会学玄論であるようにも思えます。もしそうだとしたら、まさに「相対性原理主義」に陥っているのではないかと思います。

○議論の前提となる合理性すら否定してしまっている

私は、ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線において、宗教と科学を分離する脱呪術化、近代合理性のあり方を踏まえた上で、その限界について議論しました。科学はホメオパシーを否定できないで、「ホメオパシーを説得する」という議論の目的を設定したのも、一見して「合理的」と思われる視点を前提にして、その目的の達成のためには、限界の把握が必要だという議論です。

ところが社会学玄論の論宅氏は、こちらの記事のコメント欄で、

「脱呪術化・合理化した近代社会だからこそスピリチュアルカウンセラーや占い師は批判的に見られるにすぎません。彼らを批判する人は、近代人として科学的価値観を道徳として内面化しているわけです」

と述べています。これは一面的には正しい。正しいのだけれど、ここで「合理化した近代社会」をナイーブに否定してしまうと、議論の基盤そのものが崩れてしまいます。「こいつはスピリチュアルカウンセラーと同じように、変なことを言っているのに過ぎないんだ」と思われて終わりでしょう。私たちは、「脱呪術化・合理化した近代社会」を前提に議論しているのだから当然です。論宅氏の議論は、思考実験としてはおもしろいかもしれませんが、相手の議論とかみ合っていないのです。

○ おわりに:相対主義の罠

いろいろ批判的な書き方をしましたが、社会学玄論の立場は、立場としてはありえるので、全面的に間違っていると言うつもりはありません。しかし、それはナイーブな「相対主義=相対性原理主義」であり、現代の社会学、特に社会システム論の立場を取る社会学者とは大きく異なるのではないかと思います。また、こうした立場からニセ科学批判を取り上げても、単にニセ科学やスピリチュアルなものと同一視されるだけではないでしょうか。それは、少なくとも私の立場と大きく異なるものです。

相対主義は、相対的視点を取ろうとする人が陥りやすい罠です。また、「相対主義の罠」の回避そのものは理論的にできるとしても、「どうやって実効性のある議論をするか」というテクニックは、あいかわらず難しいままであり、これについて私はまだまだ未熟です。今後も、そうした練習を兼ねて、ブログの記事を書いていければと思っています。

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ホメオパシーは魂を救うか―宗教と科学の境界線

経済・政治・国際 | 2010/09/03

ホメオパシーは、現代医療で「リスクの問題」として無視されてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与える役割をはたしてきたと言えます。しかし、現代社会においてこうした「宗教と科学の越境」は許されるのでしょうか。現代の医療からこうした要素を排除するべきなのか。そもそも排除できるのか。こういった問題について考えていきたいと思います。

○「リスク」が取りこぼすもの

前回の記事で書いたように、医療にはリスクがつきものです。ある治療を受けたとき、治らない人、副作用が出る人は必ずいるのです。風邪で使われる薬の副作用のリスクはわずかですが、治療を受けても受けなくても、数十パーセントのリスクで死ぬというような病気もあります。

どのようなケースでも、治るかどうかは統計の問題です。治らない場合は、統計上のサンプル(一症例)として扱われ、そこには何の意味づけもされません。そして、「意味づけをされない」ことは、客観的な医療を実現するために欠かせないことです。

これは、病院に行って病気が治ったという体験しか持ってない人には、大した問題ではないかもしれません。しかし、「もうあなたは治りません」「ずっとこの苦しみに耐えながら生きるしかない」と言われた場合、どうでしょうか。医学的に言えば、「治らない」のは「一症例」であり統計上の問題です。言い換えれば、医療で扱われている苦しみは無人称の<誰のものでもない苦しみ>であり、<私の苦しみ>ではないのです。そうした中、患者自身も、代替可能な非人間的存在、単なる記号として扱われていることに、否応なく気づかされることになります。

人は、「治るため」「将来のため」というように、何らかの意味づけがある苦しみに耐えられても、「何の意味もない」「統計上の一サンプルに過ぎない」苦しみに耐えるのは苦手です。意味づけされない「終わりなき日常」にすら耐えられない私たちが、意味づけされない「終わりなき苦しみ」を耐えるのは困難でしょう。意味づけされた苦しみを生きる3ヶ月と、意味づけされない苦しみを生きる6ヶ月。もし、二つしか選択肢がないのなら、前者を選ぶのは当然です。

余命の短い子供に対し、親が「治ったら遊びに行こうね」と励ますことがあります。しかし、これは子供だから可能なことです。大人は「ウソを付く」ことによって、子供の苦しみに意味づけをしたのです。しかし、現代社会に生きる大人が、同じような意味づけを受けることは困難でしょう。末期ガンが治らないという場合にしても、慢性の疾患が治らないという場合にしても、多くの大人は、その現実を知ることになるからです。

○人間性の回復としての…

最近話題になっているホメオパシーは、まさに人々のこうした要求に応えるものです。ホメオパシーは、物質が1分子が残らなくなるまで希釈した砂糖玉(レメディ)が「荒唐無稽」なものとして注目されていますが、もう一つのポイントが「好転反応」です。好転反応とは、レメディによって自然治癒力が高まったとき、一時的に出てくる症状の悪化だとされます。

好転反応は科学的には、正しい判断を曇らせるものです。そして、この理由で、危険なものとして扱う人も少なくありません。しかし、好転反応のポイントは、「苦しみに対する意味づけ」とも言えます。「この苦しみは治るためのプロセスなんだ」と考えることは、現代医療で「リスクの問題」としてゴミのように掃き捨てられてきた患者の苦しみに「意味づけ」を与えてくれます。ホメオパシーは、現代医療で代替可能な非人間的存在として扱われてきた患者が、代替不能性=人間性を回復する手段と言うこともできるのです。

そして、こうした「苦しみに対する意味づけ」は、もう一つの効果を期待できるかもしれません。それは、「苦しみに対する意味づけ」によって、本当に自然治癒力が高まるという効果です。この効果は、科学的に立証できないわけではないかもしれませんが、現代の社会でこれを立証するのはかなり困難です。薬の直接的効果と異なり、少なくとも「効果がないこと」を簡単に示すことはできません。

さて、こうした「苦しみに対する意味づけ」は、通常なら宗教の役割です。「過去の罪の償い」「来世で幸せになるための手段」表現はいろいろありますが、多くの宗教が「苦しみに対する意味づけ」をしていることには変わりません。ところが、日本では、宗教に対する嫌悪感が強く、「病気の問題を解決するのに宗教を頼るのは危険」と考えている人は多いと思います。こういう人が、医療における「意味づけされない苦しみ」に突き当たった時、唯一取れる手段が「ホメオパシー」であるという面は、少なからずあるでしょう。

○科学と宗教の境界線

こう言うと、まるで手放しでホメオパシーを推奨しているように思われそうですが、そういうわけではありません。ちょっと違う観点から考えたいと思います。

「脱呪術化」という概念があります。これは、近代化された社会において、占いや呪術のように非合理的なものが取り除かれることを指す社会学の概念です。さて、「脱呪術化」というのは、一見すると、宗教がなくなることのように思えるかもしれませんが、そうではありません。実際、「脱呪術化」されたと言う欧米でもキリスト教がなくなったわけではありません。「脱呪術化」というのは、単純に言えば宗教と社会(政治、法律、経済を含む、さまざまな社会関係)の分離であり、科学について言えば、宗教と科学の分離です。

科学の場合、どんなに世界の法則を明らかにしたとしても、原理的に科学が把握できない、科学の外側の領域が存在します。その代表例が「法則の根拠」と「精神の領域」です。まず、科学は法則によって現象を説明することができても「なぜ法則が作られたのか」を説明することはできません。そこで「世界の法則」を作ったのが神だという立場を取った上で、「神が作った世界の法則」を探求しようとするのが現代の科学者です。これは、キリスト教社会で科学が発達した理由の一つだとされています。また、科学は、「苦しみの意味づけ」のような精神の問題を扱うことはできません。客観的な検証の対象とならないからです。こうした問題もまた宗教の領域と考えることで、宗教は科学と両立しようとしてきました。

こうして、人間が把握できる世界の限界を定めて、「宗教」をその外側に追い出す、これが「脱呪術化」と言うことができるでしょう。こうした「宗教と科学」の境界線を決める主導権を握ってきたのは科学の側であり、宗教の側ではなかったということは興味深いことです。科学の発展に応じて、宗教はその外側に追いやられてきたのです。こうして宗教を科学の外側に追いやることで作られたのが、近代的な合理的な精神であるとされます。日本ではしばしば誤解されるように、宗教的なものを否定することが合理性ではないのです。

これは日本の宗教でもおおむね同じです。日本の宗教は、キリスト教ほど明確な脱呪術化の過程を経ていないわけですが、それでもある程度は脱呪術化されています。病気の治療に当たっての、精神的な安定や自然治癒力の向上を訴える宗教はあっても、「医者に行かなくても良い」という宗教は一般的ではありません。

ただ、そうした中、科学では説明できないような問題を扱う「科学もどき」もあって、これは「疑似科学」と呼ばれます。これと反対に、宗教でありながら、科学や社会に反するような宗教があり、これは「カルト」(反社会的宗教)と呼ばれます。つまり、宗教と科学、宗教と社会の境界線が設けられている現代社会において、この両者の境界線をまたぐような存在が、「カルト」と「疑似科学」と言うことができます。

このように考えると、「ホメオパシー」がなぜ問題視されるのかも分かると思います。ホメオパシーは、科学を名乗っていながら宗教的な領域に手を出している。一方、宗教的な問題を扱っていながら、医療の否定という反社会的な方向に進む可能性を持っている。こうした「科学と宗教の越境」こそが、ホメオパシーが批判される理由だと考えることができます。

○医療に何を求めるのか?

さて、ここで少し話を戻します。もし、現代が、「脱呪術化」が成し遂げられた社会だとしたら、私たちは医療に対して、冷徹なリスク計算に基づいた合理的な治療だけを求めれば良い、そうではない部分は、宗教に求めるべきだということになります。科学と宗教を越境したホメオパシーは批判されてしかるべきでしょう。これがまさに「近代合理精神に基づいた医療」です。

ただ、ここまでの「脱呪術化」の議論が、あくまで理想的な近代社会について述べたものだということは、注意しないといけません。たしかに日本は前近代と比べれば「脱呪術化」されたかもしれません。しかし、日本は、多くの人が神社にお参りもすれば、占いもする、チャペルで結婚式をするという、いわゆる多神教的な社会です。そして、「ことさらに意味を与えない」宗教には寛容でも、苦しみに意味づけを与えるような宗教には寛容ではありません。人間が把握できる世界の限界を明確に定めた上で、その外側の領域=宗教の領域に、意味や根拠を求めるキリスト教と異なり、もっと曖昧で多様な意味や根拠の中で生きているとも言えます。こうして科学と宗教の境界が曖昧なのが、私たちの文化の特徴とも言えるでしょう。

こういう状況で、本当に合理主義的な「科学と宗教の分離」が可能なのか、また、そうした医療が良いのか、という問題はあると思います。これは前回の記事の内容とも関係しています。前回の記事では、患者が医療の「リスク」(医学的に評価されるリスク)と、「リスクのリスク」(医学的なリスク評価が間違えるリスク)を区別できないために、治療に失敗した人が医療不信に陥ってしまうという話を書きました。これはより一段立ち入って考えれば、「医療に救いを求めてしまう患者」の問題とも言い換えられます。救いにリスクがあってはいけないので、救いがなければ他の救いを求めてしまうのです。こういう患者は、神社や占いと対等のものとして医療を見ているとも言えますが、こういう患者の求めに医療はどこまで応えれば良いのでしょうか。苦しみに意味づけを与えるような宗教に不寛容な社会で、医療が意味づけを与えなければ、誰がそれを与えるのでしょうか。

もし、こういう「科学と宗教の越境」がある程度なら仕方ないことだとしたら…、単に「科学と宗教の越境」という理由でホメオパシーを批判することができるのか疑問です。最近話題になっているような社会的に好ましくない「越境」、医療を否定してしまうような「越境」を牽制しつつ、専門知識のある医師等によって、適切にコントロールされた状態でホメオパシーを利用することこそが有効という結論もありえます。具体的には、医師の診断によって、治る見込みのない患者等、ホメオパシーが適切と思われるケースのみ、「やさしいウソ」としてホメオパシーを使うというものです(太字部分追記)。これは最近、批判の矢先に立っているホメオパシー医学協会とは別団体の、ホメオパシー医学会の主張とも近いものです。

個人的には、これもちょっと行き過ぎで、「医療が『救い』という宗教的なものに足を踏み入れざるをえないとしても、その境界線が患者側に分かるようにしないといけない」あたりが妥当だと思います。いろいろ問題があることを承知で、現代社会ではこのあたりで妥協せざるをえないのではないかというのが自分の立場です。ただ、これは「社会の中での合理的な価値」を重視する私の政治的立場によるものであり、立ち入って考えれば、さらに複雑な議論が必要でしょう。これは、宗教を信仰していない人にとって「科学と医療の越境を禁止する」立場とほとんど変わらないので、上に挙げた問題はほとんどそのまま残ります。ガンの不告知の是非などともつながる問題であり、「自己決定権 vs パターナリズム」の問題として長く続けられてきた論争とも関係します。

ここで、これ以上詳しく論じることはしませんが、少なくとも言えることがあります。それは、これが科学の問題ではなく、社会の問題だということです。ホメオパシーは科学ではないというところまでは科学の問題だとしても、そこから先には、さまざまな議論が絡み合っているのです。

○関連記事

NATROM氏が似た論点の記事を書かれています。ホメオパシーは患者の苦しみに「意味づけ」を与えてきたというのが私の論点ですが、患者に「ぬくもり」も与えてきたということだというのがリンク先の趣旨です。いずれも、合理主義的な医療では不可能だという意味では私の論点を補足するものだと言えます。

「冷たい」標準医療は「ぬくもりある」代替医療に勝てない

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医療不信のリスク論

経済・政治・国際 | 2010/09/02

最近、科学の根拠についての記事をいくつか書いてきましたが、今回はちょっと話を変えて、違う観点から考えてみたいと思います。

私たちは、有効な治療を拒否するような患者の話を聞くと、「非科学的な判断」「非合理的な判断」だと考えるでしょう。しかし、「科学的前提だけに基づいて合理的判断をする個人」という仮定をしたとしても―むしろ、そう考えればこそ―有効とされる治療を拒否することが合理的と言える場合があります。

○「リスクのリスク」は評価できない

リスクを計算するとき、何らかの前提に基づいてリスクを計算しないといけません。交通事故のリスクや火力発電所の爆発事故のリスクは、個別の事故の範囲は科学的に限定されるし、将来、全く違ったパターンの事故が起きるとは思えないので、過去の事例からリスクを計算することができます。

さて、リスクがある前提に立って計算されているときも「その前提が本当に正しいのか」というリスクはあります。これには原理的に計算しようがないものです。原子力発電所で事故がある度に、「想定外の事故だった」という情報が流れますが、原子力発電所のリスク計算の前提が間違っているという未知のリスクは計算できません。また、治療の副作用のうち、現在分かっているものについてはリスクが評価されます。しかし、薬害は、通常、当初リスクと思われていなかった大きなリスクが後から顕在化することによって起きるものですから、今使われている薬に未知の問題がある可能性は否定できません。こうした「リスクの前提が間違っているというリスク」は基本的に計算不能です。

○「リスクのリスク」と医療システムへの信頼

こうした「リスクのリスク」の評価は主観的(あるいは共同主観的)なものにならざるをえません。これは「科学」とは別のレベルの問題だということが重要です。たとえば、治療法の安全性は、素朴な意味での「科学的事実」ではありません。ある治療に特定の効果がどの程度あるか、特定の副作用がどの程度あるか、生存率がどの程度高まるか、は科学的事実になりえますが、未知の副作用を含めた「安全性」は科学的事実にはなりないのです。だから、科学は信頼するが医療における「リスクのリスク」を大きく評価する人が出てくることになります。

もちろん、医療システム全体を歴史的に見て、次のように考えることもできます。「後から副作用や治療の無効性が分かったケースはあるかもしれない。しかし、現在から振り返って評価してみると、そうした『リスクのリスク』はそんなに大きくないと判断できるし、減りつつもあると考えられる。また、治療を受けないリスクよりずっと小さいと考えられる」。これはむしろ普通の人の感覚に近いでしょう。

しかし、「現在から振り返ってみると」という判断自体に「リスクのリスク」があるのがポイントです。このため、「リスクのリスク」を過大評価する人は「現在から振り返ってみると…」という判断そのものを信頼しません。これは言い換えれば、医療システムへの信頼の根拠の一つであるリスク評価が、それ自体、医療システムに対する信頼に支えられているということです。医療システムを信頼している人は、信頼→信頼→信頼という循環でより医療システムを信頼することになりますが、医療システムを信頼していない人は不信→不信→不信という循環で医療システムを一層信頼しないことになります。私たちの社会関係が「信頼」で成り立っていることを考えると、これは、ある種のコミュニケーション障害とも言える状態ですが、「科学的前提に基づいた合理的判断」という観点から考える限り、これはどうしようもない問題なのです。一般に「信頼」の問題は合理性だけで解決できないということは良く知られています。

○ 患者にとってのリスク計算

さて、実際の治療にはさまざまなレベルのリスクがあり(死亡、後遺症、美容上の欠損など)一概に言うことはできません。そして、このリスクの種類の違いが、治療を受けるかどうかの判断に重要な影響を与える場合もあります。たとえば、危険な手術を受けるかどうか判断する場合、手術を受けるリスクと受けないリスクでリスクの種類が違うため、「リスクのリスク」を全く想定しない人にとっても、難しい問題になることが多くあります。

ただ、「リスクのリスク」を重視する人は、もっと単純なケース、つまり、多くの人が治療を受けることが明らかであるような場合でも、治療を受けないという選択肢を取ることになります。こうした状況を説明するため1種類のリスクだけが問題になっているという非常に単純化されたケースを考えることにしましょう。医学的リスク判断が間違えることによるリスクを想定する患者にとって、治療と関係するリスクは以下の3つになります。

医学的に知られている治療を受けるリスク:r1
医学的に知られている治療を受けないリスク:r2
医学的なリスク判断が間違えることによるリスク(リスクのリスク):p

治療を受けることによるリスクr1と治療を受けないことによるリスクr2は医学的に分かるものであり、治療を受けるリスクr1の方が治療を受けないリスクr2よりも小さい(r1 < r2)という関係にあります。このとき、

患者が見積もる治療を受けるリスク:R1=r1+p
患者が見積もる治療を受けないリスク:R2=r2
患者が治療を受ける条件:R1 < R2 ←→ r1+p < r2 ←→ p < r2-r1
(厳密にはR1=1-(1-r1)×(1-p)=r1+p-r1×pだが、通常、最後の項は無視できる)

となります。

式だけだと分かりづらい人も多いと思うので、言葉でも簡単に説明しましょう。医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを十分に小さく見積もる「普通の」人であれば、医学的に知られているリスク(r1、r2)だけを比較して治療を受けるかどうかを決めます。医学的には治療を受けるリスクr1の方が小さい(r1 < r2)ので、常に治療を受けるという選択肢を取ることになるでしょう。

しかし、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを大きく見積もる人は、治療を受けることによるリスクと医学的なリスク判断が間違えることによるリスクの合計(r1+p)が、治療を受けないことによるリスクr2を下回らなければ治療を受けるという判断をしません。言い換えれば、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpと治療を受けることによるリスクの減少(r2-r1)を比較し、治療を受けることによるリスクの減少(r2-r1)が、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを上回った時(p < r2 – r1)だけ治療を受けるという選択肢をすることになるのです。

たとえば、治療を受けることによるリスクr1が8%、 治療を受けないことによるリスクが40%であり、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpが50%と見積もられる場合を考えてみます(右図)。こうした患者は、治療を受けることによるリスクr1と医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpの合計(58%)が、治療を受けないことによるリスクが40%よりも高いため、「治療を受けない」という選択をすることになります。もちろん、医学的なリスク判断が間違えることによるリスクpを少なく見積もる「普通の人」は、間違いなく治療を受けるという選択をすることになるでしょう。

○ リスクを回避することの「リスクのリスク」

こうした「リスクのリスク」の見積もりにはさまざまなものがあります。どんなに確実で有効な治療でも絶対に受け入れないという人はいるわけですが、そういう人にとって、「リスクのリスク」は、100%近いものとされていると考えることができます。ただ、もう少し穏当に1/100とか1/1000程度の「リスクのリスク」(医学的なリスク判断が間違えることによるリスク)を想定している人を考えることにします。

こういう人は、生死にかかわる病気になったとき、一般の人と同じ判断をするわけですが、少ないリスクを回避するような処置に関しては、違う判断をすることになります。たとえば、ある処置を受けなければ1/2000のリスクで死に、受ければそれを防げたとします。ここで、「リスクのリスク」を「1/1000で死ぬ」と見積もる患者がいたとすると、その患者は、その治療を受けないということになるでしょう。これは患者にとってはある意味「合理的」な判断です。

ちなみに医師はどうでしょうか。医師にとって1/2000のリスクは、一日1人該当する患者を診察すると5年に一人は死ぬということです。それで多額の損害賠償を負ったり、医師生命を絶たれたりすると考えれば、とてつもなく大きなリスクに感じられるでしょう。一方、治療を担当する一般の医師は、後になってその処置の副作用が判明しても責任を問われないため、「リスクのリスク」は無視し、1/2000のリスクだけを考えれば良いのです。こうして、医療システムを信頼していない患者と医師の間には、埋めることのできない認識の差が生まれることになります。

○ リスクと信頼

さて、ここまでの議論に対し、多くの人はある疑問を感じたのではないでしょうか。それは、「リスクのリスク」なんて、そんな面倒なことを考えている人は多くないのではないか。私たちは、もっと漠然と医療を信頼しているし、医療に対して不信を抱く人は、もっと漠然とした不安を抱いているのではないかということです。

これはもっともです。冒頭で書いたように、ここまでの話は、「科学的前提だけに基づいて合理的判断をする個人」という仮定でなされたものです。だからこそ、「リスク」と「リスクのリスク」を区別した上で、「リスクのリスク」を大きく見積もるという議論が可能になりました。ただ、実際には「リスクのリスク」の厳密に区別して理解するくらいの合理的思考ができる人であれば、経験的理由で「リスクのリスク」をそれほど大きく見積もる必要はないという、判断に至るケースの方が多いでしょう。

むしろ、多くの人は医療システムに対する信頼をもっと漠然とした意味で理解しており、「リスク」と「リスクのリスク」は区別していません。たとえば、薬を飲んでも良くならない、副作用が出てしまうというのは多くの場合、「リスクのリスク」ではなく「リスク」、つまり、医学的にも把握されているリスクの問題です。つまり、そのことはリスクの小さい別の治療を受けない理由にならないはずです。しかし、こうした「リスク」を「リスクのリスク」と区別しない人は、リスクが小さいはずの別の治療も拒否することになってしまうわけです。この状況は、「医療に対する過度の期待が裏切られた」と言うのが一般的な表現でしょうが、それは言い換えれば「リスク」と「リスクのリスク」を区別せずに、小さい「リスク=リスクのリスク」を期待したのが裏切られたということです。

ここで、「リスクのリスク」は、客観的には求まらないということを思い出してください。また、「リスクのリスク」は信頼の問題であり、「信頼→信頼→信頼」、あるいは「不信→不信→不信」という循環を形作っていることを思い出してください。たとえば、「リスク」の問題を「リスクのリスク」と区別せず、治療を受けるリスクが一般に1/10くらいだと見積もる人がいたとします。この思考のプロセスは合理的ではないかもしれませんが、いったん「リスクのリスクを大きく見積もる」という結論に至ると、「不信→不信→不信」という循環が生じてしまいます。この循環そのものは合理的な判断なので、該当する治療のリスクの小ささ、つまり、「この治療は安全で、メリットが大きいですよ」ということをいくら伝えても、患者は聞く耳を持たなくなるわけです。

これを示したのが、右の図です。黒い矢印は「合理的思考」で赤い部分は「非合理的思考」を表しています。赤い矢印は間違っているにしても、それが生み出す黒い矢印の循環はある意味合理的なものであり、簡単には否定できないのです。この場合、その人自身の過去をたどって赤い矢印をあぶり出さないと、この循環から抜け出すことはできないでしょう。

いずれにせよ、医療不信には、さまざまな要素が相互に関係しており単純化して考えることはできません。しかし、そうした要素の一つとして、こうしたリスクをめぐる問題があるということは、考えないといけないのではないかと思います。

ちなみに、このことは、直接的には患者が「リスク」と「リスクのリスク」を区別することができれば、「不信→不信→不信」の循環に入らずに済むという対策の有効性を示唆します。ただ、実際にはそんなに単純な問題ではありません。次回の記事ではこういった論点の一つについて論じることにします。

次回の記事:
ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線

○関連記事

本文の一部は以下の記事を参考にして書きました。ただし、議論そのものは全く別の目的のものであり、批判とか肯定とかそういう趣旨のものではありません。

ホメオパスの成功体験が悪性リンパ腫を見落とさせた/NATROMの日記

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