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ホメオパシーの議論、7つのQ&A

経済・政治・国際 | 2010/08/29

この記事は、「このブログで行われたホメオパシーの議論」に関するポイントの整理です。「私たちはホメオパシーをどう考えていけば良いのか」という主に社会的な問題について扱っています。

最近、ホメオパシーに関する議論が盛り上がっています。ただ、自分はある疑問を持たざるをえませんでした。「この議論はいくら盛り上がっても、ホメオパシーに大きな影響を与えないのではないか」。すでにコアな信者になっている人はもちろん、医療不信、科学不信の結果ホメオパシーに「はまる」ような人に対しても、それを防ぐ効果はないのではないかと言うことです。もちろん、「動機がないのに、なんとなくホメオパシーをやってしまう人が問題。コアな信者は切り捨てれば良い」という立場の人はいると思います。これが間違っているとは言いませんが、本当にそれだけで良いのか。そういう思いもあって、最近、科学やホメオパシーに関する記事をいくつか書きました。主なものは以下の2つです。

・ホメオパシーの否定には「科学の立場からの批判」と「相手の立場を踏まえた上での批判」の2種類があり、それを使い分けないと無駄な批判になってしまう(科学はホメオパシーを否定できない
・特定の視点とメタな視点は両立できるので、片方しか取れないと考えるのは間違い(ネットに蔓延する科学教を考える

少しでも多くの人に読んでもらいたいと思い、タイトルや冒頭部分は「釣り」(=関心を引くために、意図的に誤解させる表現)になっていますが、最後まで読めば誤解が解けるように書いたし、中身では結構大事なことを書いたつもりです。基本、第一セクションくらいまでが釣りですので、騙されやすい人はタイトルと第一セクションを読み飛ばしてください。おかげさまで「大漁」で、当然、誤解していると思われる批判もありましたが、無視できないような有意義なコメントも多数ありました。こうしたやり取りをコメント欄だけに置いておくのはもったいないので、Q&A形式で重要なポイントをまとめることにしました。ホメオパシー関連の議論が盛り上がる中、この記事が有意義なものになれば幸いです。

ちなみに、科学とは何かというような理論的な話については、この記事ではほとんど扱っていません。全ての疑問に答えられているわけではありませんが、簡単にまとめたのが、「科学はなぜ正しいと言えるのか」をまとめたこちらの記事と、上の二つ目の記事です。また、「釣り」と言っても、あくまで「誤解されやすい書き方をした」ということであって、間違ったことを書いたという意味ではないので、誤解には一通り反論しています。「付けたマッチは責任を持って消す」という責任意識でしょうか(笑)。

○具体的にホメオパシーをどう説得すれば良い?

もともとの結論としては「説得しようと思ったら、科学の限界を知らなければいけない」という話であって、「これに気をつければ説得できる」とは言っていません。ただ、書いたことの意味を明確にするために、「説得方法」をまとめるなら、以下のようになるでしょう。

1. まず、あなたたちには、あなたたちの世界観があるんですねと認める。
2. その上で、ホメオパシーが、科学とどう矛盾するのか(科学的に見たら、いかにおかしいか)ということを説明する。
3. 科学の方法論の方が優れている理由を説明する。特にホメオパシーのように「正しい」かもしれない仮説は無数にあり、それにとらわれない方が良いことを説明する。

自分の家族や恋人がホメオパシーの熱心な信者だったとき、常識的な人だったら、1は必ず言うと思います。また、知識のある人だったら3も言えるでしょう。3の中には、実際には、相手の生き方や社会の問題も入り、複雑な問題になるわけですが、いずれにせよ科学の問題だけでは無理だというのが自分が言っていることです。私のもともとの主張が、「科学って何なのかを理解して説得するべきだ」という曖昧なものになっているのもこのためです。この中には「説得を諦める」という選択肢も入るはずです。

○ホメオパシーは科学を使って説明しているんだから、科学で説得できるんじゃないか?

自分は、ホメオパシーが「今のところ科学では説明できていない未知の力がかかわっている」「本人の思い込みや実験者効果は無視できない」「治ったという体験がある」この3つの主張をしている時点で、カルト教団に接するのと同じように接しないとダメだと判断しています。なぜかというと、一つに、これらは「検証不可能」な主張であり、科学の範囲で判断できないからです。もう一つは、「治ったという体験がある」というのは科学の別次元での体験の共有を意味しており、批判すればするほど頑なになるだけだからです。

「ホメオパシーも科学を使って説明しているから、科学を受け入れるはずだ」と考える人は、おそらく疑似科学やカルトの人と対話した経験がないのだと思いますが、かなり認識が甘いです。彼らは「科学は完璧ではないが、その完璧ではない科学でさえ、自分たちを支持している」と言うロジックを使うからです。科学者が、科学を分かりやすく説明するのに、ことわざを使う場合があるけれど、それは全てのことわざを受け入れることを意味しませんよね。それと同じです。疑似科学は、「都合の良いように科学を使う」という芸当が可能なのです。まさに「疑似科学」である理由です。ホメオパシーのコアな信者を説得するのに、いくら科学的な実験を積み重ねても意味がないということです。

○「相対的な視点も取るべき」ということは、ホメオパシーを有利にするだけではないか?

私の議論は基本的に、「コアな信者を説得するためにはどうするべきか」という目的を設定して、その中で、主にホメオパシーと科学の関係を考察したものです。この目的が意味がないとか、良くないとか言う話はあるでしょうが、議論の正しさとは別です。その上で、議論の目的が良くないという「ずれた批判」はあるでしょう。

自分が言っているのは、ホメオパシーを相対化して、肯定するべきという話ではありません。科学の立場からも、メタな立場からも、ホメオパシーを批判すれば良いのということです。批判の理由や水準が違うだけであり、この両者を区別することを主張しています。それでも、「メタな立場を取ること」が、ホメオパシーを有利にするのではないかという批判があると思います。というのも、科学的な立場からの批判では「お前は間違いだ」と断言できるのに対し、メタな立場からの批判は、「こっちの方が良い」という話にならざるを得ないからです。相手次第では説得が無理だという可能性もあります。このことがホメオパシーを有利にするというはありえる批判です。

ただ、この理由でメタな説明は有害だという人は、疑似科学やカルトを甘く見過ぎだと思います。科学の立場からホメオパシーを批判したところで、コアな信者はビクともしません。また、科学に不信を抱き、治療拒否をするような人は、いくら社会的に非難されても新たにホメオパシーの信者になっていくでしょう。こういうことを踏まえれば、「メタな立場からの批判」も重要だというのは当然だと思います。

一方、「強い動機もなくホメオパシーにはまってしまう中間層」。こういう人がいたとして「科学的に批判するだけでは説得できるとは限らない」「メタな視点からもホメオパシーを批判するべき」という主張を見て、「ホメオパシーはやっぱり正しいんだ」と思うでしょうか。あまりにも現実的ではない仮定ではないかと思います。

○人が死んでいるのだから、相対的な視点を持てなどと言う悠長なことを言ってはいけない

これも私の議論に対する「ずれた批判」と言えると思います。上にも書きましたが、私が言う「相対化」は、ホメオパシーを肯定することではありません。ホメオパシーの世界観が成立していることを認めた上で、メタな立場からもホメオパシーを批判するべきだと言っているだけです。人が死んでいるからこそ、より有効な説明が必要だという考え方もできます。

以上が直接の反論ですが、ちょっと別の視点から考えてみます。日本ホメオパシー医学協会の主張は科学的に見てめちゃくちゃな部分もありますが、最近注目されている「医療を拒否する人はホメオパシーに限らずいる」という主張はもっともです。周囲の説得にかかわらず治療拒否をして亡くなる方は、ホメオパシーと関係なく、たくさんいます。ホメオパシーがこういう人の心の拠り所になっている面はあると思います。こういう人が「たまたま」事件を起こしたというのが、彼らの主張です。

<客観的>にホメオパシーの有害性を主張するのなら、「ホメオパシーの主張が治療拒否に結びつく可能性」をいくら指摘してもダメで、最低でも「ホメオパシーの信奉者の方が、治療拒否の割合が高い」という数値的データが必要ですが、今のところこういうデータはありません。また、ホメオパシーが治療拒否を誘発するのか、治療拒否をするような人がホメオパシーに傾倒するのかという因果関係の問題もあります。普通に考えて後者の影響はかなり高い気がします。この点をホメオパシー側から反論されたら、返す言葉はありません。

自分はホメオパシーに否定的ですが、それは「ホメオパシー関連の死亡事件があった」からではなく「科学ではない」(科学的視点)からであり、「人間が生きていく上で有用ではない」(メタな視点)からです。「死亡事件があった」から「徹底的に批判せよ」というのは、マスコミの世論操作の手段として有効ですが、そのことの弊害も考えないといけないと思います。もちろん、「正しいかどうかなんかどうでもいい、世論操作こそ重要」というのならそういう立場もあるでしょうが、少なくとも自分はそういう立場とは距離を置きます。

○ホメオパシーの批判者は、相対的視点を持った上で、あえて科学にコミットしているのであり、相対的視点を持てというのは意味がない

疑似科学に詳しい人の中には、科学の立場からの説明に絞る代わりにコアな信者の説得は諦め、良く分からずに騙される中間層を食い止めることだけを目指すという人も少なくありません。これは科学の限界を踏まえた誠実な態度です。ただ、これはあくまで「コアな信者切り捨て」を前提に許される作戦です。こういった立場を自覚している人であれば、私の議論を批判する必要はないでしょうし、自分もそういう人を批判するつもりはありません。

最近、ネットでホメオパシー問題を知った人の中には、まだ、この当たりの切り分けができていない人も多いのではないかと思います。特に、「人が死んでいるから」「ホメオパシーを有利にするから」という理由でメタな立場からの批判を拒否する人の中は、この当たりを理解していない人も多いのではないかと思います。

ちなみに、自分の友人のうち、学問的つながりの人を別にすれば、「相対的視点を持った上で、あえて科学にコミットする」立場を取れる人はかなり少数派だと思います。「科学的に間違い」と言われたら「けしからん」と反応し、「科学の相対性」と言ったら「カルト擁護か?」と反応するのが普通でしょう。「大部分の人が、相対性を理解している」というのは、正直、感覚的に納得できません。

○その方法で本当にホメオパシーの人を説得できるのか

分かりません。もともとそういうことを問題にしているわけではありません。ただ、科学を相対化していない人は、コアな信者100人に話しても一人も説得できないでしょう。実際、説得できたという話は全く上がってきません。しかし、相対化した上で説得する人は、100人のうち何人かは説得できるかもしれません。もっと多いかもしれません。少なくとも可能性があります。これは理論上の問題です。無理なのと、できるかもしれないのは違います。

○相対主義者は、自分の立場まで相対化されるので矛盾するのでは?

自分は「相対化する視点を取れることが大事」と言っているだけで、いわゆる相対主義者(何でもかんでも相対化すれば良いとする立場)ではありません。相対化する視点も踏まえながら、あえて特定の立場を取ることの重要性を主張しています。

このことは、もちろん「相対化する視点を取るべき」という主張そのものにも、ブーメランのように返ってきます。「相対化する視点を取るべき」というのも特定の視点からのものでしかありえないからです。一般に、特定の視点を取るべきという主張が成り立つのは、その視点が「有用」だからです。ホメオパシー問題の場合、「そうした立場を取ることがホメオパシーを説得する上で有用」ということで初めて相対的な視点が肯定されるのです。自分が一貫して「ホメオパシーを説得する方法を考えよう」という立場を取っているのは、こういう理由もあります。

○番外編:偉そうにああだこうだ言いやがって、とにかく釣りタイトル付けるな

・大事な問題に釣りタイトルを付けるなんて不謹慎だろ!!
・そんなの分かってるわ。釣りタイトルに騙されて時間の無駄だっただろ。時間を返せ!!

すいません。今後は気をつけます…なるべく^^。

まぁ、上の2つのように、ちゃんと分かった上での「釣り批判」は受け止めますが、実際には、全部読まないで脊髄反射的に批判した人もいたと思います。そういう人は気の毒ですが自業自得でしょう。

○おわりに(8/31追記)

最初のエントリー以来、誤読の類を否定するのでいっぱいで、「この記事では表面的にどういう問題が設定されていて、それに対してどう答えている」という話に終始してきました。つまり、「コアな信者を説得するためにどうするべきか」という(現実離れしているかもしれない)議論の目的を設定し、それに答えているのだから、間違いではないという立場です。この議論の目的を認める限り、ほとんどの批判は「誤解」になります。この記事でもその延長線上で「公式見解」をまとめました。ただ、「公式見解」における「コアな信者を説得するために」という問題を設定した理由が弱いというのは事実でしょう。誤読的な批判も少なくなってきたので、そろそろ、本来的な私の意図、本当の「書いた動機」を書きたいと思います。これは本文で書いた話(コアな信者を説得するためにどうするべきかという話)と区別されるべき、別の次元の話です。

AKB48に熱狂する若者だって、会話をすると「俺って痛いですよね~」と言います。最近元気のないネット右翼も(ごく一部の熱狂的な人間を除いて)ある種の「痛さ」を理解しているでしょう。これは、社会的にもっと共感を得られる問題でも同じです。大きな殺人事件があったとします。「裁判費用がもったない」「弁護する弁護士も同罪」という人もいますが、大部分が司法制度を尊重しています。また、同情したり社会的観点から原因を考える人もいます。現代社会で「人を殺してはいけない」という規範を共有しない人は異常ですが、一方で多くの人は規範が人為的なものであり、それでもあえてコミットしているということを自覚しているのです。知的エリート層は当然として、知的中間層もこのくらいのことには分かっているでしょう。だから、医療や外交の問題を考えるときはともかく、通常の殺人事件に関して「人を殺してはいけないという規範を相対化するべき」ことをあえて言おうとは思いません。

ただ、ホメオパシー批判はちょっと異常です。一方的な批判しか見られない。これははっきりいって気持ち悪い現象だと感じます。科学は現代社会のコミュニケーションの前提であり、これと異なるニセ科学に対し「異常」という認識を持つのは当然です。だから、どれだけ異常かを挙げることは良いのですが、「痛さの認識」もないと、カルトと一緒です。でも、専門的に疑似科学に取り組んできた人ならともかく、この問題に関して、最近、関心を持つようになった中間層が、どれだけ「痛さ」を理解しているのでしょうか。ホメオパシー批判の社会的意義を超えて、「集団的熱狂」状態になっている面もあると思います。そこで、「コアな信者を説得するために…」という問題を設定し、それについて考えることを通して、こういう「痛さ」を気づいてもらいたかったのです。端的に言えば、「こういうずれた視点も必要だよね」という話ですが、そういう言い方は今どきあまりにも陳腐で痛いので、「コアな信者を説得するために」という問題を設定したわけです。自分はブログで、「マスコミの主張と反対を書く」というポリシーでいますので、自分と同じ意見が一般的だったら逆のことを書いたと思います。

今から考えると、「この記事では表面的にどういう問題が設定されていて、それに対してどう答えている」という話に終始してしまった自分も、当初の問題意識が見えなくなっていたという意味で、ちょっと「痛かった」のではないかと思います。また、の設定が、本来の意図を伝えるのに伝わりやすいものだったか、他に方法はなかったのかは、今後検討しないといけない問題でしょう。

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コメント

今回の談話の発表の意義は 新規にホメオパシーを知る人に対して予め効果が無いものであるという情報を提供することが最大の目的だと理解しています。欧州では、欧州では、と協会は主張していますが、欧州の現況は「病膏肓に入」った状態だと思います。
「気休め」に過ぎないレメディを摂取することで「好転反応」が出る、そのような説明が必要になるのは「摂取した」「摂取している」人たちです。今回の談話は「そもそもレメディをただの砂糖球だと理解してその値段で引き取って摂取することを 本当に 理解しているのか」と これまでホメオパシーを知らなかった人に情報提供することに最大の意義があるのではないでしょうか。
大抵のカルトに対して 「まず 話を聞いて相手を受容する」ところから始めると 木乃伊取りが木乃伊になるのが落ちです。本件も同じだと考えます。
ですから まず 「あなたと私とは 立場も意見も異なる」と線を引いてしまうことが自衛にとっては大事です。相手を理解する余裕など存在していません。それくらい病んだ状況に対して 一般の方が踏み込むのは かなり危険です。
「私なら出来る」と考える人が出てきたら危険だと思います。
ご家族で 嵌った方を見つけたら 症状に対しては 迷わず 病院を受診していただいてください、とご案内するのが最も適切だと思われます。

管理人より:「コアな信者を切り捨てるべき」という批判に対しては、すでに「議論の目的が違う」と答えました。議論の正しさという観点から言えば、この立場は変わりません。「一般の人が説得するのは不可能だし危険」という面もあるにせよ、「やはり、説得するにはどうすれば良いか」と考える人がいたとして、それに答えるのが議論の目的だからです。

ただ、それを踏まえて、「議論の目的」があまりにも現実離れしているのではないかとか、間違っているのではないかという批判はありえます。これについては、きちんと考えないといけないと思います。

中途半端に理解している人が説得しようとすると逆に説得される危険性があるというのは、たしかにそうでしょう。危険性はゼロではありません。ただ、注意を喚起することは大切であるにせよ、それを過大視するのはどうかと思います。というのも、ホメオパシーのコアな信者が簡単に自分の考えを変えないのと同じように、ホメオパシーを説得しようとする人も、そんな簡単に考えを変えないと思われるからです。

さて、現代の社会は「ホメオパシーを一方的に批判して対話を拒否する」というまさに、amatouさんの主張通りの状態になっています。たしかに、ホメオパシーは「対話を拒否して、一方的に変なことを言う人たち」かもしれませんが、ホメオパシーからしたら、私たちも「対話を拒否して、一方的に変なことを言う人たち」なのです。こういう状況をどうにかしないといけないというのが話の背景にあります。これに関することは本文の最後にも追記したのでご覧ください。

投稿: amatou | 2010/08/30 13:36:23

はじめて書きこみします。エントリを読んで勉強させて頂いています。
各エントリのコメント欄の感想ですが、一連のエントリの冒頭から「カルトにはまった人を説得するには」としてあれば読者としては分かりやすかったかと感じます
エホバの・・・にはまった人間に「科学」の視点からでは説得できない、ホメオパジーについても、ということ。

>すでにコアな信者になっている人はもちろん、医療不信、科学不信の結果ホメオパシーに「はまる」ような人に対しても、それを防ぐ効果はないのではないかと言うことです。

ここについては、本エントリのように「直接会って説得できる方法を議論する」のならともかく「ネットで情報を発信する」方法であれば、これまでホメオパシーを知らなかった人に情報提供することに最大の意義を見いだすことになりますし、直接会って説得しても難しいコアな信者を切り捨てるのはやむをえないのではないかと。
「ネットで情報を発信する方法」と「直接会って説得する」方法では射程にいれるべき対象が異なってしまうかと。

>科学的な立場からの批判では「お前は間違いだ」と断言できるのに対し、メタな立場からの批判は、「こっちの方が良い」という話にならざるを得ないからです。

ここも私には疑問に感じました。カルトからの脱出が最終目的ですから、説得においては「現在の状態の否定」になります。
「良い」という言葉にもよるのですが、メタな立場・科学以外の立場であっても「こっちの方が良い」とはそうそう言えず(カルト側は無責任に「こっちの方がこんなに良い」と言えますが、「良いことばかりではない現実」に戻す側としては)、とっかかりはともかく内容としては「現在の状態(=その個人ではない)の否定」であり「(現在の個人(=カルトの世界観ではない)と現実に戻ってくる個人への肯定」になるかと。

管理人より:1つめと2つめに関してはいずれも同意です。また、これを受けて本文に「追記」を書かせてもらったので、ご覧になっていただけると幸いです。

3つめは非常におもしろい、かつ本質的な論点だと思います。自分の本文で「メタな視点なら、共有できるはず」という説明をしていますが、よりラジカルに言えば、「そもそも共有していないところから、相手の立場でどう説明するか」(メタな視点などない)ということになり、北風さんの立場になると思います。これに関して批判するつもりはなくて、むしろ、実は言っていることは同じではないかと思います。「相手の立場で説明できる」のであれば、かりにそうであればですよ、メタな視点、メタなコミュニケーションの前提を共有しているはずじゃないかというのが自分の言い方だからです。「メタな視点など共有していない」と言うことになれば、「説得など不可能」ということになります。一般に、カルトから離脱する人もいるわけだから、「共有しているはずだ」というのが自分の言い方です。

投稿: 北風Mk-2 | 2010/08/30 22:02:41

情報学ブログさん

最初のエントリと要望がありましたが、こっちのエントリの方が話がしやすいので、こちらのエントリにレスを付けます。お互いの考え方の何が違うかが明確にしやすいかと思いましたので。

私はコアな人の説得については、基本的には無理筋だと思っています。なぜなら人は信じたい物しか信じない・目に入らないという性質があるため、ある物事を信じ切ってしまった人は、よほど大きなショックでも無い限り考え方を変えることはできないと思うからです。なので、
> 「ホメオパシーも科学を使って説明しているから、科学を受け入れるはずだ」
なんてことは毛頭考えていません。ただ、
> 「メタな立場からの批判」
も無力であると考えます。コアな人は「科学」を受け入れないのと同様に「メタな立場からの批判」も受け入れないのではないでしょうか?なので、

> ただ、科学を相対化していない人は、コアな信者100人に話しても一人も説得できないでしょう。実際、説得できたという話は全く上がってきません。しかし、相対化した上で説得する人は、100人のうち何人かは説得できるかもしれません。もっと多いかもしれません。少なくとも可能性があります。これは理論上の問題です。

これにすごく違和感があります。科学を相対化していない人がコアな信者を説得できたという話は全く上がってきてないのは確かだと思いますが、同じく相対化した上で説得できたという話も全く上がってきていないと思います。(情報学ブログさんが実例を作り出す事ができれば別ですが)
私には相対化した上で説得しても、説得できる可能性は0だと思えるのですが、情報学ブログさんが片方を0、もう片方を0ではないと考え、それを「理論上の問題」と言い切る理由を教えていただけますか?

情報学ブログさんも書かれていたように、私も、コアな人の説得はカルト教団に接するのと同じでないと無理だと考えています。カルト教団のはまっている人の説得は、ベースに密な人間関係(強い信頼関係)が必要であり、ネット上だけではどんな方法でも無理だと考えています。ネット上にしても実生活にしても、コアな人への対応方法については、科学の相対化云々は瑣末な問題ではないでしょうか?


では、なぜ情報学ブログさんを批判しているかと言うと、
> メタな立場からの批判は、「こっちの方が良い」という話にならざるを得ないからです。このことがホメオパシーを有利にするというはありえる批判です。

まさにこれです。
コアな人を除いて考えます。

「科学に不信を抱き、治療拒否をするような人」はほぼコアな人と同じであり、科学を相対化した説得を試みても、科学が相対的であるという部分だけを都合よく解釈し、「科学に不信」を抱いている事を正当化するだけでは無いでしょうか?

> 「強い動機もなくホメオパシーにはまってしまう中間層」。こういう人がどれだけいるのか疑問

とありますが、これはそれなりに居るのでは無いでしょうか?マスコミでは、ホメオパシーは「ロハス」と近い感じでファッション的に取り上げられる事が多かったようですし、芸能人ではまっている人が「自然志向」として好意的に雑誌で取り上げられていたようです。それを見て軽い気持ちで始めた人も一定数いると考えるのが妥当では無いでしょうか?

そして、こういう自然志向な人は、「科学はホメオパシーを否定できない」を読んでも、「科学は相対的」である事を表面的にしか理解できないのでは無いかと思います。「なんかよく判らんけど科学が間違っていてホメオパシーが正しい可能性もあるんだ」と思い「ホメオパシーの効果を実感した」という体験があれば、ホメオパシーを肯定する方向になびく可能性があるのでは無いでしょうか?
こういう層には、権威からの完全否定が一番効くと思われます。そういう意味では学術会議会長の談話は画期的であり、かつ効果も大きいと思います。一方、私達のような末端の立場で出来る事と言えば、地道に否定し続けるという水際作戦しか無いんじゃないかと考えています。

最後に、ホメオパシーは単なるカルト宗教では無く、科学の皮を被ったカルトだと思います。その分、余計に性質が悪いとは思うのですが、逆に科学の皮を被っているからこそ、科学的な視点で否定し続ける事が案外重要なんじゃないかと思ったりもします。

投稿: 門前の小僧 | 2010/09/01 2:49:30

○門前の小僧さんへの応答

基本的なことを確認します。一連の記事は、「コアな信者を説得するためにどうするべきかという話」です。だから、そんなのどうでも良いと思う人は読まなければ良いというのが基本的な態度です。議論の中身そのものに対する批判だとしたら、「コアな信者を説得するのは難しい」、「中間層が問題」、「社会的に悪い影響を与える」と言うのは、見当違いです。それは別の人が議論すれば良いということです。議論の棲み分けの問題です。

その上で、議論の目的の設定と、それに続く議論全体が「意味がない」とか「社会的にマイナスだ」という批判があるでしょう。これは、批判としてありえると思います。ただ、これは議論の中身とは別のメタな議論です。たとえば、「戦争の時は人殺しが奨励される」という指摘に対し、「そうかもしれないが、その言葉を勘違いして殺人する奴が出るから、そんなことを書くな」という批判です。こういう類の批判だというのなら、批判としては成り立っていると思います。おっしゃっていることは基本的にこうした「メタな批判」として理解しました。

まず、「意味がない」について考えます。「コアな信者の説得なんてできないんだから、議論自体が意味がない」という批判です。これに対し、その判断は主観的な問題だと答えます。カルト信者を家族に持っている人は、どんな小さな可能性でも探ろうとするかもしれません。そういうのを踏まえて「議論すること自体が意味がない」というのは言い過ぎだと思います。また、「ネットでは意味がない」対しては「実際に話すかどうかを別にしても、話すのを踏まえて議論するから議論の意味がある」というのが答えです。むしろ、最近のネットの議論は、「どうせ直接話すわけじゃないんだから、一方的に書いておけば良い」という発想になっている気がします。それこそ「机上の空論」ではないでしょうか。

一方、「社会的にマイナス」について。誤解される可能性まで含めれば、マイナスの影響はあるかもしれません。しかし、大手メディアやアルファブロガーならともかく、RSS登録者が300人もいないような弱小ブログで、それを問題にするのはどうでしょう。むしろ、内容(設定された目的に対する議論の中身)が間違っているわけではないなら、多様な意見を取り上げることの意義の方が大きいと思います。

ちなみに、「意味がない」とか「社会的にマイナスだ」とか言うメタな批判には、もっと根本的な反論もあります。「コアな信者をどう説得するか」という問題を設定して議論をしたということと、書いた目的が「コアな信者をどう説得するか」であるかは別かもしれないということです。「コアな信者をどう説得するか」という議論をすることで、他の目的を達成しようとしている場合はあるはずです。その場合、実際に説得できなくても、その議論に意義があるという場合はあると思います。そして、後者の「書いた目的」については、私は開示する義務を負ってないのが議論のマナーでしょう。不誠実なようですが、この論法は「メタな批判」に対する一般的な反論です。

いずれにせよ、議論におつきあいいただきありがとうございます。関係ないですが、「自然志向」と関連して、近いうちに医療不信に関する記事を掲載するつもりです。今度は「科学的説明の限界」ではなく、「科学的に考えているにもかかわらず、医療不信に落ちってしまう原因」という、かなり趣向の違う話です。

投稿: 情報学ブログ | 2010/09/01 18:31:07

コメントに回答ありがとうございました。
しかしながら、コメント・追記を読んでもよく分からない点がありました。補足など頂けましたら助かります。
>自分の本文で「メタな視点なら、共有できるはず」という説明をしていますが、
「メタな視点」「共有」ということが具体的にはどういうことかよく分かりませんでした。
例えば、本文中に「人間が生きていく上で有用ではない」(メタな視点)とありますが、ホメオパシーにはまっている方はそうは思っていないでしょう。(だからカルトである所以ですが) メタな視点が「こちらのゴール」であれば、それを相手が認めて同意してくれることが説得の完了ですから、「共有」を「認める・同意する」ととると、そもそも説得の必要がないことになり文意がとれません。
また「共有できる」とありますので、「できる」ように努める(視点を持っていない側)のは「説得する側」なのか「説得される側」なのか。
この2つの言葉に関して理解できていませんのでどういうものなのかについて補足願えませんでしょうか?

ちなみに、私の最初の話は、「こういう視点も持たなければいけない」という話であり、分かりづらいというので具体例を出しただけです。したがって、もともと全ての人を説得できるという話ではありません。

「科学の方が有用」にはさまざまな理由が考えられますが、「有用性」は人それぞれなので、理論的に言えば、全く違う目的を考えている人にこの方法は通じません。このあたりのことは、こちらの記事で書いた通りです。標準医療で6ヶ月生きながらえるよりも、ホメオパシーで3ヶ月生きたいという人はいるはずで、この場合、説得も何も個人の価値観としか言いようがないと思います。ただ、全ての人がそこまで明確に考えているわけではありません。より長く生きたいという気持ちは多くの人が持っているわけなので、そういう価値観は何らかの意味で共有されて場合が多いでしょう。そこに訴えていくことはできるはずだという話です。また、ホメオパシーが持っている機能の一部を、宗教に代替させることで、「科学(+宗教)の方が有用」という可能性もあります。

さらに、「こういう視点を持たないといけない」ことの具体策として「諦める」場合もあるでしょう。どういう場合に諦めないといけないかを知ることも、「こういう視点を持つ」ことが重要な理由の一つです。「具体的な説得」だけを想定した書いたわけではありません。

>「相手の立場で説明できる」のであれば、かりにそうであればですよ、メタな視点、メタなコミュニケーションの前提を共有しているはずじゃないかというのが自分の言い方だからです。
上とも関係しますが、外国で人と接すると、日本内の人とは意識してはいなかったがたくさんのものを共有していたのだということを痛感します。
そういう意味では「説得する側とされる側」では、多くの「視点・コミュニケーションの前提」は当然共有していると思います。(メタな視点 については、先に書いたように私が理解できていません。共有 はここでは先に書いた意味で使っています)
ホメオパシーにはまった人だって、交通事故にあったり骨折したりすれば病院にいくでしょう。常識・客観的判断・科学的知識についても相当のものを共有できているのです。
その中で、「ない」「ある」を考える必要があるのは「説得するのに必須のもの」になるでしょうがそれは何でしょう?
また、コメント欄から、カルトに対する説得の方法のところに疑問が生じました。
>1. まず、あなたたちには、あなたたちの世界観があるんですねと認める。
>2. その上で、ホメオパシーが、科学とどう矛盾するのか(科学的に見たら、いかにおかしいか)ということを説明する。
>3. 科学の方法論の方が優れている理由を説明する。特にホメオパシーのように「正しい」かもしれない仮説は(省略)
1.は説得においてなぜ必要なのでしょう?
説得において相手との信頼関係が重要になります。最初にkる必要な事項としては「批判されるべきはあなたたちでなく○○である」「あなたたち個人への非難ではない」ということ、肉親・友人などであれば「あなたは私にとって大事な存在である」ということを明確にすることで、以前のコメントで「現状の否定」「個人の肯定」と書いた部分です。これは、「批判はあなた個人に向けられたものではなく、あなたを否定しているわけではない」ことをはっきりさせるために必要です。
「あなたたちには、あなたたちの世界観があるんですねと認める」ことは説得の何をするために必要なんでしょうか?
カルトへの説得においてこれは必要ないでしょう。

1は言い換えれば、「あなたがそういう立場を取るのも分かる」ということです。そういう意味では、「批判されるべきはあなたたちでなく○○である」「あなたたち個人への非難ではない」とはかなり近いのではないかと思います。

仮にニセ宗教のカルトがあって既存宗教の○○上人を利用して「○○上人はこう言っていた、これは~」などと宗教の方針・姿勢や○○上人の言動からも噴飯ものの解釈などがされていたら、相対化(そんな解釈もありえる)や、世界観があると認めるなんてことはなく、「○○上人の言動や宗教のあり方からそれはありえない」としてエセ宗教を批判するし、説得において「現状の否定」のためにカルトを批判する際に使用するときに「批判のあり方」を変える必要はないとは思われませんか? ここで「そんな世界観もある」「そういう解釈もありうるよ(3.)」などとする必要性は全くない。
ニセ科学の噴飯のものの「科学?」についても、上と全く同じです。

ちなみに、これはホメオパシーとはあまり関係ないと思います。「「○○上人の言動や宗教のあり方からそれはありえない」としてエセ宗教を批判する」これは「相手の世界観を認めた上でその矛盾を指摘する」手法と言えますが、ホメオパシーは本質的には矛盾しようのないように体系を作っていますので、この手法は使えないと思います(これが元々のエントリーのメインの話だったと思います)。「科学じゃない」ということはできますが、「そんなの分かってる」と返されるだけです。

あと「痛さ」についていえば、「説得すること」は説得する側よりされる側に「痛み」を強要します。

「痛さ」というのは、「自分があえてそれにコミットしていることの恥ずかしさの自覚」といった意味の若者言葉で「シニシズム」と近い概念です。「痛さ」と、普通の意味での「痛み」とは全く違う概念ですが、全然別の話ということになら分かります。

ホメオパシーで肉親を危険にさらした(あるいは悪い結果をもたらした)方を「現実に戻す」ことは、「自分がそうしたということを認識する痛み」を伴います。そうした痛みからの現実逃避としてあちら側に残っている方もいるでしょうし、そうした方は「科学的な正しさ」などは共有できていますが、そこを言ってもこちら側に戻ってはこないでしょう。
「現実逃避の先から痛みを感じてこちら側に戻ってくる」ことがはたして「良い」のか?簡単には「こちら側の方が良い」とはいえません。

これは上に貼ったリンク先で書いたことと近いでしょうね。価値観の問題として治療拒否をする場合はありますが、そういう場合でも、「科学的に考えた方が良い」という価値観、つまり、「生きた方が良い」という価値観、「そのためにはこうした方が良い」という話は説得可能性があります。そこで「あなたは科学ではない」と言ったところで見当違いの話だというのが、自分の最初の話です。

批判についてはそもそも批判は一方的(ワンウェイ)です。「一方からの資料のみで・・・」など「検証が足りない」「ピントがずれている」とかであれば問題点そのものの形で指摘すべきだと思います。量的な問題(ホメオパシ批判側に偏る)ということであれば、それは対カルトでむしろ必要・有効だと思います。「ホメオパシーなんて知らなかったけど連日のニュースで耳にした。問題ありそう」などという人が多ければそれは成功といっていいです。
カルトにはまった人を戻すのは大変です。適当に抽出した100人のうち1人がカルトにはまったとして、ネット・ニュースの効果もあって大多数が阻止できたからよし?ではないですよね。量でいえば、対カルトで阻止するには一方的でいいと感じます。

ネットで騒げば伝わるというのはネットで集団的熱狂に陥る人の妄想で、実際にはそんなに単純ではないと思います。実際のところ、ホメオパシーは科学かどうかと別の意味で、医療に重要な役割を果たしている面もあると思います。したがって、ホメオパシーをどう批判するかにかかわらず、少なくとも「科学の立場からの批判」がどこまで可能で、どこまで不可能かをわきまえる必要はあります。科学の立場からの批判が届かないところは社会的な問題です。別の記事でも書いたように科学の有用性は社会の問題であり、単純な問題ではありません。この立場から批判するということは複雑な社会の問題に立ち入るということです。これは少なくとも今のネットの議論では不十分なところだと思います。

投稿: 北風Mk-2 | 2010/09/01 22:35:37

情報学ブログさん

> 「コアな信者の説得なんてできないんだから、議論自体が意味がない」という批判です。

ちょっと違います。「コアな信者の説得には、メタな視点は役にたたないだろう。コアな信者を説得できるかどうかは、論理の問題では無く、個人としての信頼関係等による感情の問題だろう」という批判です。

ただ、私もその判断にきちんとした根拠を提示できていないので、「主観的な問題」とされても致し方ないかとは思います。

これ以上の議論は実りがなさそうなので、この件について議論するのは私も止めたいと思いますが、最後に二つだけ言っておこうかと。(特に議論を求めている訳では無いので、返答不要です。)

管理人より:そう言う指摘ならもっともだと思います。当初の記事では、本来一面的なことを全てであるかのように書いてしまったところがあったのですが、これは私の不注意によるものであり、批判は免れません。本来書くべきだったのは、以下のようなことだったと思います。最新版より引用しますが、これは門前の小僧さんとの議論の成果も踏まえたものでもあり、同意してもらえるのではないかと期待しています。

> 疑似科学の信奉者を説得するために語りかけるとしたら、
> 大きく言って次のような趣旨のものになるはずです。
>
> 「科学も疑似科学も、所詮、世界を説明する枠組みの一つに過ぎない。
> しかし、科学は説明能力が高く、有用なのに対し、
> 疑似科学は私たちが生きていく上で有用ではないし、説明能力も高くないではないか」
>
> もう少し立ち入って言えば、「正しいかもしれない仮説はたくさんあり、
> それにいちいち構っていたら切りがない」ということになるでしょう。
> この説明は、ホメオパシーのように、検証不可能な考え方にとらわれている人にも、伝わる可能性があります。
> ただ、「説明能力が高い」とか「有用」というのは、客観的な問題ではなく、
> これは相手の生き方や宗教観などに立ち入った説得にならざるをえないのも事実です。
> 疑似科学の人たちを説得するとは、こういった複雑な問題なのです。

科学の相対性については私も理解しているつもりで、科学が相対的でないのは、「少なくとも現在の日本においては」等の限定のための注釈を入れていましたが、最近読んでいる本には、経験科学の普遍性が述べられており、私も認識を改める必要がありそうだなと感じています。まだ途中までしか読んでいないのですが、情報学ブログさんも興味と時間があれば読んでみてはいかがでしょうか?
本のタイトルは「科学がきらわれる理由」です。
http://www.amazon.co.jp/dp/4791755545

現代の日本で、学問的、社会制度的な議論の前提には科学があります。これは通常、否定する必要がないし、否定しても仕方ないことです。ただ、疑似科学のような問題を考える限り、科学のほかに「正しいかもしれない体系」があるという意味での相対性を理解することは重要です。その上で、それらと科学がどう違うのかを考えれば良いのです。科学と疑似科学の違いは、社会的な判断としては明らかですが、個人レベルでは自明ではないということが、問題を複雑にしているのではないかと思います。

ちなみに、科学の普遍性を主張する議論は、ずっと昔からあって、科学の草創期にはそういうナイーブな考えが主流だったわけですが、現代では、一般的ではないと理解しています。ただ、実際にはいろいろ複雑な議論があるようで、全部把握できているわけではありません。最近、この科学の問題にあらためて関心を持って勉強しているところですので、教えていただいた本も読んでみようと思います。

私の考え・立場からすると、「科学はホメオパシーを否定できない」はやっぱり正しくなくて、「科学はホメオパシーを(否定はできるけど)説得できない」であれば良かったかなと思います。
実際、情報学ブログさんが問題として指摘できているのは「説得できるかどうか」であるようですし。

言っていることは分かりますが、あの記事の趣旨としてはちょっと違うと思います。この記事の冒頭でもまとめたと思いますが、「科学を前提にして否定できても、科学を前提にしなければ否定できない。でも、こういうことをちゃんと理解すれば、もしかしたら、説得できるかもしれない」ということだからです。説得できると言うのは言い過ぎですが、説得できないというのも間違いだと思います。

ちなみに、現代社会で、「科学はホメオパシーを否定できない」と言ったら、「科学的に否定できない」を指すじゃないかという指摘についてはその通りです。あえて、普通じゃない意味で「否定」という言葉を使ったのがポイントで、それこそが、この記事の冒頭で書いた「釣り(=読者の気を引くために誤解させる表現)」だったわけです。最後まで読めば誤解が解けるように書いたつもりだったのですが、議論のまずさのために、最後まで誤解が解けなかったとしたら、それは自分の責任でしょう。

投稿: 門前の小僧 | 2010/09/07 1:16:21

情報学ブログさん

議論を止めると言いながら、もうちょっとだけ書く事をお許しください。

> 「科学も疑似科学も、所詮、世界を説明する枠組みの一つに過ぎない。
> しかし、科学は説明能力が高く、有用なのに対し、
> 疑似科学は私たちが生きていく上で有用ではないし、説明能力も高くないではないか」

この言い方で引っかかるのは、あくまで現状の説明能力しか問題にしていないことです。

私は(も?)それなりに長いサラリーマン人生を歩んでいるのですが、その経験の中で得たのが、現状も大事だけど、現在の状態を作った、また今後の状態を左右するシステム(方法論)こそ重要だということです。
運・不運により現状は左右されますし、運の影響の大きさは無視できないレベルだと思います。しかしながらシステムは重要ですし、自分たちが関与できるのもシステムの善し悪しだけです。(運・不運はそれこそ神のみぞ知るですから)

システムの違いに着目すると、科学と疑似科学の違いは決定的です。その違いが決定的な理由は詳しくは述べませんが(情報学ブログさんが求めるのであれば、その点についても議論もしたいと思います)、結果としてホメオパシーはハーネマンがその体系・方法を提唱してから殆ど進化できていない一方、医療は非常に大きな進歩を遂げているという事実があります。その違いを産んでいるのは科学のシステム(方法論)そのものだと思います。

情報学ブログさん自身はその点を理解しているのかもしれませんが、科学の有用性を言及する場合には、その点を相手に理解させるように言うのが重要だと思うからこそ、ここまでしつこく情報学ブログさんにからみました。科学の相対性を述べるのであれば、現状の理論の有用性に加え、進歩するためのシステムを内包している点に言及していただきたいというのが私の思いです。

管理人より:科学の方法論については、他の記事で門前の小僧さんと議論した内容だと思うので、私の立場は理解していただけたと思っていました。その上で言われているのだと思いますが、話が複雑になっているので、念のため、私の言葉で言い直します。

引用部の「科学の説明能力が高く、有用なのに対し…」という部分は、他のエントリーからも分かるように、「科学の方法論」について述べている部分です。つまり、現実の科学は間違いも含んでいるし、個別の科学的知識には有用とは思えないものもあります。しかし、その方法論は素晴らしいので、今後もより良くなっていくことが期待できるということです。…(1)

ただ、こうした科学の方法論の素晴らしさは、社会的な問題です。あえて言うのなら「説明能力」とか「有用性」でしょうが、いずれも多義的な概念で簡単には説明できないのです。こうした科学の素晴らしさは、大部分の人によって共有されているわけですが、何らかの理由(たとえば「この薬は効いたという体験」)によって、「私は違う」と言う人がいると、その人を説得することができません。これが、上で私が書いたことだと言えます。…(2)

まぁ、そうなんですが、最初の記事では(1)と(2)が分離してないので分かりづらいということですよね。引用していただいた部分は、修正を経たものですが、それでもやはり分かりづらいと。そういうご指摘であればもっともだと思います。記事全体の議論の流れもあるので、今さら微修正で直せると思っていないし、だからこそ、別のエントリーを立てたのですが…。これは今後の課題として検討させていただきます。

いずれにせよ、有意義な議論ができて感謝しています。懲りずに、また遊びに来ていただけると幸いです。

投稿: 門前の小僧 | 2010/09/08 23:33:48

門前の小僧さんも書かれていますが、ここは気になる文ですね。

> 「科学も疑似科学も、所詮、世界を説明する枠組みの一つに過ぎない。

現に今ネットを通じて、このようなコメントを書いているわけですが、それを可能にしているのは、「科学」により支えられている「技術」です。
「説明する枠組み」であると同時に「現代社会を構成する要素の根幹」でもあるわけで、私個人としては「説明の」恩恵もさりながら、「生活していく上での「科学」の成果によるものからの」恩恵を多く享受しているので、「枠組みの一つに過ぎない」とはとても言えません。

> しかし、科学は説明能力が高く、有用なのに対し、
> 疑似科学は私たちが生きていく上で有用ではないし、説明能力も高くないではないか」

前の文で「所詮、世界を説明する枠組みの一つに過ぎない。」としてなければ、読者として「有用」の行間に「技術からの恩恵」を読むだけなんですが。
あと、「説明能力」をどうとるかによるのですが、ある意味、疑似科学の「説明能力」はむしろ高いと言えます。「魂を救うか」のエントリにありますように「苦しみへの意味づけ」とか「カウンセリング」ではできず疑似科学の方が「説明」できてしまうわけで。

管理人より:門前の小僧さんのコメントは、今まで私たちがさんざん議論したことであり、門前の小僧さんには私たちの共通見解をまとめていただいたと理解しています。なので、門前の小僧さんのコメントを私に対する批判として理解した上で、それに乗っかられても困るのですが、念のため確認します。

1. 現在の科学に間違いが含まれているかどうか、他に正しいかもしれない体系の可能性があるかどうかとは無関係に、科学の方法論は非常に優れており、科学的知識はより優れたものになりつつあると思われる。
2. ただし、1の「優れている」という結論は社会的なものである。社会的に共有されているのは事実だが、それを受け入れない人にはどうすることもできない。たとえば、未来の予測も踏まえた説明ができるのは科学だが、包括的に説明するのは科学ではない。また、精神的充足という意味での有用性は、科学ではないものの方が高いことが多い。
3. 私たちの社会で科学は非常に重要な議論の前提であり、学問的・社会的議論を行うときは、科学が前提になっている。ただし、特定の問題(疑似科学等)について考えるとき、その前提に自覚的になることも重要。

これは、一連のエントリー(とコメント欄)で私が主張してきたことです。

投稿: 北風Mk-2 | 2010/09/09 2:02:27

批判というつもりではなく、疑問点なのですが。

>これは、一連のエントリー(とコメント欄)で私が主張してきたことです。

乗っかったような形にはなっていますが、先のコメントの疑問は、今回のコメントの1~3についても同様に当てはまります。

先のコメントでは、「技術」の観点をあえて切って、「説明」という非常に限定された視点で「科学と疑似科学」をみる(考察では、社会的なもの などの広い視点でみているのに)のはなぜか?という疑問を書いています。

>ただし、1の「優れている」という結論は社会的なものである。社会的に共有されているのは事実だが、それを受け入れない人にはどうすることもできない。

ここも同様で、「科学」が社会的である所以の多くは、「科学により支えられている技術が生活に欠かせないものとして入り込んでいる=社会に必須のものとなっている」ことにあります。いくら優れていようが、一部の人間だけのものであれば「社会的」にはなりえない。
そうした観点からみれば、「それを受け入れない人にはどうすることもできない」ということは全くない。「それを受け入れない人でも無意識に科学の恩恵を享受している(できる)」という形で影響を与えています。
これは、「疑似科学」ではとうてい真似することのできない力=優れている点 なのですが、「社会的」といいながら、そこらをあえて無視するのは何故か?という疑問です。

管理人より:前半については、元記事でも上の説明でも、「説明能力」と「有用性」を対等に扱っているので、ご指摘は当てはまらないと思うのですが、どういうことでしょうか?

一方、後半について。科学と言っても、全てを受け入れるor受けいれないという2択ではないと思います。たとえば、ホメオパシーは本質的には科学と矛盾しない体系、つまり、基本的には科学に基づいて生きて、特定の状況でのみ、科学を補う形でホメオパシーを用いるということが可能な体系です。医療について言えば、「科学的判断のみ」と「科学+ホメオパシー」の選択は、社会的なものにならざるをえないということです。

投稿: 北風Mk-2 | 2010/09/09 20:30:45

>一方、後半について。科学と言っても、全てを受け入れるor受けいれないという2択ではないと思います。

主語がわかりにくいですが、「人」であれば非合理な考えをとることもありますし「骨折なら医者にかかるが、病気ならホメオパシーに頼る」というような、認識という点でも恩恵あるいは有効性という点でも2択ではないでしょう。
もし、主語が「科学という体系」であれば受け入れるか受け入れないかの2択でしょう。

>たとえば、ホメオパシーは本質的には科学と矛盾しない体系、つまり、基本的には科学に基づいて生きて、特定の状況でのみ、科学を補う形でホメオパシーを用いるということが可能な体系です。

ここは人により認識が変わるのでしょう。
ブログ主様は矛盾しない体系とお考えだということは分かりました。私やホメオパシーを疑似科学としている方は「科学と矛盾しない体系」とは考えていませんが。(「レメディが偽薬効果以上の効果を持つ所以」の説明が科学と矛盾しない体系?という点など)

「矛盾しない」という言葉の取り方次第です。だから、「つまり」以下で言い換えました。矛盾しないという表現が気に入らないのなら、撤回しても構いません。言葉にとらわれても意味がありませんので。

ホメオパシーが科学ではないのに科学を名乗っていれば、一般的な意味では「矛盾する」ということができます。これは最初の記事から一貫して言っていることです。また、有効性の認定基準が異なるということに注目すれば矛盾すると言えます。これも当然です。そういう話をしているのじゃないということです。

投稿: 北風Mk-2 | 2010/09/12 21:36:34

>たとえば、ホメオパシーは本質的には科学と矛盾しない体系、つまり、基本的には科学に基づいて生きて、特定の状況でのみ、科学を補う形でホメオパシーを用いるということが可能な体系です。医療について言えば、「科学的判断のみ」と「科学+ホメオパシー」の選択は、社会的なものにならざるをえないということです。

「矛盾しない」にそれほど多くの意味があるとは思えませんが、そこに拘るのも本意ではないので。
コメントからすると、「体系」という言葉にあるのかもしれませんね、私は、つまり~以降が、正直よく理解できていません。
「体系がどうであれ、使えないもの(要素)はないわけじゃないよね」という話ではないと思うので、レイヤーが違うという話なのか、「体系」そのものの話なのか。

1.レイヤー
「科学」という体系以外にも、「宗教」「呪術」という体系はあって、これらは「レイヤーが違う」ので、矛盾する・しないということが無意味です。
「科学+呪術(おまじない)」は共存できますので、「偽科学的な呪術=ホメオパシー」としてのレイヤーの話ともとれます。
2.「体系」
 ホメオパシーという体系 について、本や公式の協会の公式見解(HPで確認可)などから判断できたものを対象で書きます。「協会の見解から推定されるホメオパシーの体系」は「科学を補う形でホメオパシーを用いるということが可能な体系」である否かは上記から判断すれば、そうはなっていないように判断されます。
正規の治療を受けた上で、薬効のないレメディを飲んでも、どうということはなく、それは社会的なものでもなく「どうぞご自由に」の領域です。K2シロップの例など問題になってているのは、「正規の薬を飲んでない」=「科学を補う形でホメオパシーを用いていない」のであって、その体系自体が「科学を補う形でホメオパシーを用いることが可能」なのかというと疑問です。

3.上に書いた、もの・要素の話
客観的な第3者からみて「科学を補う形で用いること可能な要素(レメディなど)がないでもないね」(「体系」でなく、要素の話)としてなら、理解できないわけではないのですが。

管理人より:話が錯綜していますが、もともとの話は、あなたの主張です。「「それを受け入れない人でも無意識に科学の恩恵を享受している(できる)」から科学以外の価値基準で考えるのはおかしい」という話ですよね。私は、それが間違っているという話を出したわけです。

その上で言うと、たとえば医療以外の面に関しては普通の人と同じように生き、医療については一切受けいれないでホメオパシーを使うという生き方もありえますよね。これについてはYESですか?NOですか?これはホメオパシーの主張とは関係ありません。科学の恩恵を受けながら、一部は受け入れないという生き方はほかにも無数に考えられます。もちろん、もっと穏健な生き方もあります。基本的には科学的治療を受け入れ、効かないときのみホメオパシーを使うと言ったものです。ただ、どのような選択肢を取るにせよ、「基本的には科学の恩恵を受けながら、特定の分野で科学じゃないものを使う」ことは可能です。というより、大部分の人はそのように生きているのではないかと思います。

投稿: 北風Mk-2 | 2010/09/13 19:45:22

>「「それを受け入れない人でも無意識に科学の恩恵を享受している(できる)」から科学以外の価値基準で考えるのはおかしい」という話ですよね。私は、それが間違っているという話を出したわけです。

ああ、そう誤解されていたのですか。
「科学以外の価値基準で考えるのはおかしい」という机上の空論を弄ぶ気などさらさらないのですが。

>>一方、後半について。科学と言っても、全てを受け入れるor受けいれないという2択ではないと思います。
>主語がわかりにくいですが、「人」であれば非合理な考えをとることもありますし「骨折なら医者にかかるが、病気ならホメオパシーに頼る」というような、認識という点でも恩恵あるいは有効性という点でも2択ではないでしょう。

実際に次のコメントに上のように書いておりますので、実際にも「科学以外の価値基準で考えるのはおかしい」などとは書いていないですが。

>その上で言うと、たとえば医療以外の面に関しては普通の人と同じように生き、医療については一切受けいれないでホメオパシーを使うという生き方もありえますよね。これについてはYESですか?NOですか?

その答えは上に引用されたコメントですでに書いているわけで、いまさら問われてもなあ、とは思います。
「可能か否か」といえば「可能」でしょうが、それが何か?ということで。

>>「科学も疑似科学も、所詮、世界を説明する枠組みの一つに過ぎない。

背景は、上のコメントに対して、「科学」には「説明」と「技術」という点がありますが、とコメントした流れですね。
ブログ主様は後で、「説明」と「有用性」を対等に扱っているとコメントされていますので、そういう意図ではなかったと思われますが、

>> ただし、1の「優れている」という結論は社会的なものである。社会的に共有されているのは事実だが、それを受け入れない人にはどうすることもできない。

というところが、「説明」の方に偏った見方に読めて

「どうすることもできない、ということはなく、「それを受け入れない人でも無意識に科学の恩恵を享受している(できる)」こと自体が、「優れている」ということじゃないの?

と書いたまでのことです。

>>ただ、どのような選択肢を取るにせよ、「基本的には科学の恩恵を受けながら、特定の分野で科学じゃないものを使う」ことは可能です。というより、大部分の人はそのように生きているのではないかと思います。

思いますというか、現実的に、可能か否かといえば「可能」でしかないし、大部分の人もそのように「生きている」と言い切れる、議論の余地がない大前提ですね。

上のことが、

>>たとえば、ホメオパシーは本質的には科学と矛盾しない体系、つまり、基本的には科学に基づいて生きて、特定の状況でのみ、科学を補う形でホメオパシーを用いるということが可能な体系です。医療について言えば、「科学的判断のみ」と「科学+ホメオパシー」の選択は、社会的なものにならざるをえないということです。

の部分で言いたかったことであれば、「大前提のことなどわざわざ言うことでもないでしょうから、+αした部分にこそ言いたいことがあるんだろうなあ」、と私が深読みしてこじらせてしまったのかとは思います。

まぁ、一覧の記事で、自分としては「ごく当たり前のことを言っている」というつもりなのです。たしかに、不用意なことを書いて混乱をさせたり、後から訂正したりと、てんやわんやでしたが、気持ちとしてはずっと一貫しています。そんな議論におつきあいいただき、ありがとうございました。

実のところを言うと、今回の騒動ではいろいろ反省しまして、最近科学哲学を勉強しなおしているところです。また、懲りずにコメントをいただけると幸いです。

投稿: 北風Mk-2 | 2010/09/15 21:14:00

議論に対して斜めから入ってくる感じで申し訳ないのですが、北風Mk-2さんと共感する部分があったのでコメントします。

私も(は?)科学を相対化する意見については、科学の恩恵を享受しながらそれを認識出来ていない青臭さを感じます。
インターネットを介してブログで意見を表明し、コメント欄で議論を交わす事など、まさに科学の恩恵があっての事です。それなのに、そこで科学が相対的であるという意見を述べるのは、なんというか、親の脛をかじって生きていながら親の事を批判的に見ているような学生の青臭さをイメージしてしまいます。
ただ、ホメオパシーを信じている人に感じるのはもっと幼い印象です。ホメオパシーを深く信じる事が出来るのは、自分の経験を過剰に信じる事が出来る人で、客観性という概念を理解出来ない人ではないかと思います。学生以前の自分と他人の境界を意識できないレベルの幼児期に近い印象を持っています。(誤解を生みそうな書き方をしていますが、その人自身が幼児であると言っているのではなく、世界とか社会という物に対する認識の枠組みが成熟していないという意味です。)

で、最初の議論に戻ると、幼児に対して学生の認識を持ち出すのが幼児の説得に有効かどうかという話になると思うので、私はそうではなく、親のような立場から毅然と間違っている物は間違っていると言い続ける事が大事では無いかという立場です。ただ、親子のような信頼関係がそこにはないと、なかなか本当の成長は望めないかなとも考えている次第です。

かなり強引な論理に感じるかとおもいますが、たまには感覚に近い部分の物言いをするのも有益だと思いましたので、あえてそのまま書く事にしました。

科学というのは、それなりの思考の訓練がないと理解できないものだと思います。その点、ホメオパシーなどは、そうした訓練がずっと少なくて済むというのは言えると思います。だから、科学を理解している人から見ると、「子供」のように見えるのは仕方ないことだと思います。ただ、訓練によって理解できるというのは、そこだけを取れば怪しい新興宗教にもそういうものがあります。同じだと言うつもりはありませんが、「どう同じで、どう違うか」を考えることは重要です。

さて、そうとは言っても、科学を丸ごと否定すれば、議論の前提が崩れてしまうのであり、そうした議論に実用上のメリットはないでしょう。たしかに、そうした議論は、「親の脛をかじって生きていながら親の事を批判的に見ているような学生」のようなものとも言えます。しかし、門前の小僧さんには繰り返し言ったと思いますが、自分は科学を相対化して、疑似科学と対等だと言うつもりはなく、科学的思考の範囲内で、科学の限界を理解することが大事だと考えています。科学というのは、インターネット上の議論に限らず、私たちの議論の前提であり、出発点です。だからこそ、科学の社会的位置づけを考える上で、科学とは何なのかとか、その限界は何なのかとかそういう議論も必要なのです。

もし、本当の「親」であれば、ダメな子供を見たとき「どうしてこの子はこのように考えるのだろうか」と考えたり、「どういう教え方が良いのだろうか」「この子の将来を考えたとき、どこまで教える必要があるのだろうか」こういったことを考えると思いますが、私の議論はそういう方向性を目指すものとも言えます。

投稿: 門前の小僧 | 2010/09/16 23:04:28

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