科学が論理ではないけど正しい理由

| 2010/08/10

科学は論理では示されないし、間違えることもある。さすがに科学の現場にいる人は、何となくでも分かっている人が多いのだろうけど、みんながみんなそういう知識を持っているわけではない。今後、こういう話題に触れたときのためにも、簡単に説明しておきたいと思う。ちなみに、実際の内容は「科学は論理ではないし、間違えることもあるのに正しいと思われているのはなぜか」といった内容なのだが、元になった議論が「科学は論理か」だったので、タイトルが「論理ではない」になっている。

◎仮説推量

科学は実験によって仮説の正しさを証明すると言われるが、実験はそれだけで仮説の正しさを示すとは限らない。

たとえば、「水は分子でできている」という仮説を科学がどうやって示すかを考えてみる。科学は、「水は分子でできている」という仮説が正しいことを示すために、実験をし「水は分子でできている」という仮説が、観察1,2,3...nを説明できることを示す。これを「仮説推量」という。

ただ、仮説推量は「間違った結論を導くパターン」の典型であり、間違える可能性もある。たとえば、「スパゲティ・モンスターが全てを司っている」という仮説でも、1,2,3...nを説明できる。というように「仮説推量」はあくまでたくさんある仮説の一つを提示するだけであり、それが正しいということが証明されたわけではない。

つまり、実験によって仮説は論理的に示されないし、間違える可能性もある。*1

◎科学的方法論

では、なんで科学的知識は正しいと思われているのか。それは、科学が科学として独自の方法論を持って、その中で正しさを追求しているから。

ただ、科学的知識は、どのような方法論を使おうとも、直接的には現在の科学的知識によって検証されているだけである。科学的知識の条件に「検証可能性」があると言われるが、検証可能性とは、将来、新たな科学的知識が見つかったときには、それによっても検証される「可能性」であり、その結果、間違いだとされるかもしれないということを含んでいる。

つまり、科学は論理的な正当性を持たないし、実際、科学的方法論に基づいて得られた知識が、後で間違いだとされる場合がある。

◎社会的受容

科学の方法論は、論理的に正しくなく、しかも実際問題として、間違える可能性があるのになぜ受け入れられているか。

科学は、神や幽霊といった説明よりも、はるかに精緻に世界を説明してくれる(説明能力)*2。また、人間の生活を豊かにしてくれる(有用性)。こうしたことによって、私たちは検証可能性を初めとする科学の方法論が優れていると考え、それを信頼して生きている*3。ここで大事なのが、「説明能力」や「有用性」は、「合法性」とか「道徳性」と同じように、時代・文化によって変わる、普遍性のない概念だということ。だから、科学の方法論を受け入れるかどうかは、やはり論理的な問題ではない。

これは、科学を受け入れないが、矛盾しない知識の体系がありえること、科学はそうした知識の体系を否定することができないということを意味している。こうしたものの正当性は、根本的には「説明能力」や「有用性」によって判断するほかないが、これは科学の問題ではない。

ちなみに、ここで、ありがちな誤解に注意しておかないといけない。「社会的受容」を、科学の個別の知識に当てはめて、「科学的知識は、文化的・社会的問題に決まる」としてしまう誤解がある。こんなことを言ったら、当然、科学者は猛反発するだろう。社会的に受容されているのは、検証可能性を初めとする科学の方法論全体であって、個別の科学的知識ではない。あくまで、個別の科学的知識の正しさは、科学の方法論によって確保されており、その科学の方法論の全体が、社会的に受容されることで正当性を確保している。

また、科学が(個人で、あるいはコミュニティで)完全に受容されてしまった状態では「社会的受容」がされていることが見えなくなってしまうので、科学の方法論が真理探求の絶対的原則であるかのように見えることが多い。

◎まとめ

科学の正当性は「仮説推量」「科学的方法論」「社会的受容」という段階を経て確保されていて、いずれも論理の問題ではないし、絶対的な正しさを主張するものでもない。科学に関する誤解のいくつかは、この3つを混同してしまうことから来ている。

ちなみに、以上の議論で「論理」というのは、「科学の論理」とか言うときの論理と意味が違うので注意。


*1 上の説明は、科学的知識のうち主に「理論」に関する知識に当てはまるもの。「沸点上昇」「高温超伝導」のように「現象」に関する知識は、「帰納」によって示される。帰納は論理的には間違いを導く場合があるが、経験的に正しい結論を導くものとされる。
*2 「説明能力の高さ」は、科学的方法論の一部でもある。科学的方法論において、科学的知識は、「その知識がない場合と比べて、現象がより良く説明できる」ものでなければいけない。ただ、本文では、科学的方法論における個別の科学的知識の「説明能力の高さ」と、科学全体の「説明能力の高さ」を分けて考えている。
*3 「信じている」と言うと反発する人がいるが、「信頼」と「信じている」の違いは、社会的な評価の問題。「社会的評価」の是非そのものを議論しているときに、両者を区別しろというのは、議論の趣旨を理解してないからだと思う。「信頼」と言ってしまうと、結論を先取りしていることになる。

◎修正履歴

8/10初版 (link)
8/12第二版 (link) コメント欄の議論を元に、自信がなくなった部分を削除。後で良く考えてみたら、間違ってはないという判断に達したが、分かりづらかったことには変わらない。
8/13 第三版 1段落目の「ちなみに..」の部分と注を付けたのが主な修正点。それに合わせて他の部分も若干修正。

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コメント

二重盲験の話・科学は説明能力が高い世界を説明する理論の一つに過ぎないという話の関連です。

科学は、「科学的手法」とでも言うような方法論の側面と、その「科学的手法」により蓄積・集約された「科学理論」の側面があり、私は科学の本質は「科学的手法」にあると考えています。

科学の重要なお作法(科学的手法)の一つに、新しい説を提唱する側が立証責任を持つというルールがあります。このルールそのものは何らかの科学理論から生み出された物では無いです。
(既存の「科学理論」が全く無い0の状態からでも、何らかの説を唱える人に立証責任を持たせる事はできますよね?)

この新しい説を提唱する側が立証責任を持つと言うのは、「科学」にとって非常に重要なルールなのです。再現性とか検証可能性とか言う話がありますが、検証と言うのは本質的に、ありとあらゆる条件を同一にした検証というのがあり得ないため、立証したい側がその立証したい説の前提に基づき、コントロールすべき条件を明らかにし、検証を行うものなのです。
この条件をコントロールすれば同じ結果が得られますよ、という事を立証責任を持つ側が明らかにし、他の人がその実験デザインに基づいて追試を行い、再現性が確認される事で、(実験デザインも含めた)新しい説の正しさが確認される訳です。

二重盲検法の話で、否定したい側がいくらでも否定できるという話を分かりにくく説明されていましたが、そんなのは科学の常識です。その常識があるからこそ、科学には「新しい説を提唱する側が立証責任を持つ」というルールが存在するのです。情報学ブログさんはその常識をもったいぶった形(決して理解しやすいとは思えない形)で説明をするので、多くの人から二重盲検法や科学を理解していないと言われたのだと思います。

新しい説を提唱する側が立証責任を持つというルールがあるからこそ、科学は、長期的に見て真実に近づく事が約束されていると考えます。(情報学ブログさんは説明能力が高い/低いという表現を使いますが、私はその表現が好きでないので、敢えて真実に近い/遠いという表現をしています。意味する内容に大きな差はないとは思いますが。)
逆に、新しい説を提唱する側が立証責任を持つというルールが無いと、ある意味、「言った者勝ち」の状態になります。その場合は、真実に近いづいていく事が当然保証されません。
立証責任の壁を乗り越えた説のみが生き残る、立証責任の壁を乗り越えられていない説はその時点では正しくないと扱うという科学のルールがあるからこそ、科学は他の疑似科学やニセ科学、オカルト等と一線を画す存在になっていると考えます。
真実により近い事、より正確に結果を予測できる事を「正しい」として考えると、科学が「正しい」とされるのは、単に現状ある色々な理論の中で(たまたま)一番説明能力が高いからではなく、「科学的手法」により、真実に近づいていく事が約束されているから、将来も含めより「正しく」なる事が約束されているから「正しい」とされると考えています。

事実、科学は数々のパラダイムシフトを経験し、より真実に近づいていっています。その数々のパラダイムシフトは、全て立証責任を全うしてきているのです。これは疑似科学・ニセ科学・オカルトには真似できない芸当です。

こんな事を書くと、私もかとうさんのように「科学絶対主義」というレッテルを貼られそうですが、現時点では科学より優れた「真実に近づく方法」が見つかっていないとは思っていますが、それが唯一無二であるとは思っていません。今後より良い方法論が出てくる可能性もあると思っていますので、現在の科学(的手法)が「絶対」だとは思っていません。この考え方もおそらく科学哲学の常識の範疇だと思います。

あと、真実により近い事、より正確に結果を予測できる事を「正しい」としない文化・時代が来れば科学は正しくなくなるとは思いますので、そういう意味では科学は普遍的でないかもしれませんが、日本語としては、真実により近い事や正確に結果を予測する事と正しい事は似たような意味だと思いますので、「正しい」事を「正しい」としない文化・時代という事になりますね。それってなんでしょうね?

最後に、非常に長文になってしまいましたし、うまく説明できている自信もありませんが、できれば枝葉末節の表現にとらわれず、全体を理解していただいた上でコメントをいただければと思います。

投稿: 門前の小僧 | 2010/08/11 2:22:36

わざと挑発的なタイトルにしたのかもしれませんが、「正しい」というのは<真理>、<真実>なのか<事実>なのか、分かりづらく勘違いされる方もいらっしゃるので、「科学が論理ではないけど妥当な理由」ぐらいの方がいいのではないでしょうか。

これらの混同はわりと高学歴の人の間でも良く見られる現象で、議論をいたずらに混乱させるので、注意しなければならないと思います。

<事実>というのはその時代のある分野において最も妥当であると考え得る(社会的に受容し得る)こと。一方で<真理>は時代や場所を超えて永久に"正しい"こと。

だから
『科学が(個人で、あるいはコミュニティで)完全に受容されてしまった状態では「社会的受容」がされていることが見えなくなってしまうので、科学の方法論が真理探求の絶対的原則であるかのように見えることが多い。』
という事なのですが、まさにこのような状態に置かれている我々現代人は(皮肉なことに特に現場から離れている人間であるほど)科学=事実=真理="正しい"というドグマに陥っています。

その為、このようなタイトルですと、この記事の内容についても「科学は論理ではないけれども真理である」というような主張と勘違いをなさる方が出ていらっしゃるだろうし、内容の理解も妨げかねないと思います。

投稿: 手習い | 2010/08/11 9:21:28

○門前の小僧さんのコメントへの応答

コメントありがとうございます。ほとんどの指摘が、本文で書いたことと両立すると思います。大部分は、本文で書いたことの解説的なコメントだと理解しました。以下、「どう両立するか」ということをメインにしながら、違いについてにも説明していきたいと思います。

長文失礼します。

> 科学は、「科学的手法」とでも言うような方法論の側面と、
> その「科学的手法」により蓄積・集約された「科学理論」の側面があり、
> 私は科学の本質は「科学的手法」にあると考えています。

これは本文で書いたことと全く同じです。科学の正しさを考える上では、科学的知識ではなく、科学的手法全体の正しさが大事だというのが、本文で言いたかったことの一つですので、この点では完全に一致していると思います。

> 科学の重要なお作法(科学的手法)の一つに、新しい説を提唱する側が立証責任
> を持つというルールがあります。このルールそのものは何らかの科学理論から生
> み出された物では無いです。
> (既存の「科学理論」が全く無い0の状態からでも、何らかの説を唱える人に立証
> 責任を持たせる事はできますよね?

検証可能性は「科学的手法の一つ」と書いたので、他の科学的手法を否定しているわけではありません。立証責任のルールは重要な科学的手法の一つだと思います。ただ、立証するというとき、その前提には科学的知識があります。現在の科学的知識の範囲で立証するわけです。そういう意味で論理的には、正しいとは限らない。しかし、科学的手法が全体として優れているから、科学は正しいのだというのが本文の結論です。おっしゃっていることは、私が書いたことと、全く矛盾しないし、趣旨としても近い。ただ、最後の括弧内は違うのではないかと思います。

> 検証と言うのは本質的に、ありとあらゆる条件を同一にした検証というのがあり得な
> いため、立証したい側がその立証したい説の前提に基づき、コントロールすべき
> 条件を明らかにし、検証を行うものなのです。
> この条件をコントロールすれば同じ結果が得られますよ、という事を立証責任を
> 持つ側が明らかにし、他の人がその実験デザインに基づいて追試を行い、再現性
> が確認される事で、(実験デザインも含めた)新しい説の正しさが確認される訳
> です。

これも本文の「仮説推量」のプロセスを、より詳しく説明していただいただけで、矛盾するわけではありません。私は、どんな実験で仮説が示されても、形式論理的には、その仮説が示されたことにならないということを本文で言ったのです。この「形式論理的には」というのが日常の感覚と合わないのではないかと思いますが、あくまで「形式論理的には」ということです。形式論理的には目の前のコップの存在も証明できないのです。科学は、「だって、コップはあるじゃないか」っていきなりいきますが、それは「形式論理では示せない」って言うのが自分の指摘です。

> 真実により近い事、より正確に結果を予測できる事を「正しい」として考えると
> 、科学が「正しい」とされるのは、単に現状ある色々な理論の中で(たまたま)
> 一番説明能力が高いからではなく、「科学的手法」により、真実に近づいていく
> 事が約束されているから、将来も含めより「正しく」なる事が約束されているか
> ら「正しい」とされると考えています。

ほとんどの部分に同意します。「科学的方法論」が優れているために、科学的知識が「真実に近づいていく」ように見えるという社会的評価が、まさに科学の正しさの理由なのだというのが、本文の結論です。だから、現代社会に生きている私たちにとって、「たまたま」説明能力が高いのではなく、「正しく」なると思われている唯一の体系だと理解しています。これも同じです。

ただ、問題なのは「真実」とは何かということであり、一つ上の段落で、「~と思われている」とか「~ように見える」という表現を使ったことです。たしかに、私たちには真実に近づいているように見える。この感覚は完全に共有しています。しかし、真実であるという保証はない。これはなぜだろうという疑問が根底にあります。そこで、科学が「真実に近づいている」と判断するのは、科学自体の問題ではなく、社会的問題だということ。そう考えなければ科学の正当性は理解できないだろうというのが、私の指摘です。

ちなみに、仮定として「絶対的真理」を置くことはできます。これについては最後にあらためて説明します。

> 真実により近い事、より正確に結果を予測できる事を「正しい」としない
> 文化・時代が来れば科学は正しくなくなるとは思いますので、そういう意味では
> 科学は普遍的でないかもしれませんが、日本語としては、真実により近い事や正
> 確に結果を予測する事と正しい事は似たような意味だと思いますので、「正しい
> 」事を「正しい」としない文化・時代という事になりますね。それってなんでし
> ょうね?

こう読むと、あなたはかとうさんとは異なり、私の立場と同じなのではないかと思います。「社会的受容」のところで書いたことを分かりやすく説明していただいたと思っています。

ちょっと納得いかないかもしれませんが、この文章の中で「日本語として」っていうのが重要だと思います。「日本語として」というのは、私たちの社会の常識では、一般理解ではと言い換えられると思います。
(一般に、言語というのは社会の共通認識を反映しますので)私たちの社会の常識では、科学が正しくないとする考えは理解できません。何と言っても、現代社会のコミュニケーションの前提には科学があるので、それが否定された状態というのは簡単には想像できないのです。だから、それを想像しようとすると「それってなんでしょうね?」っていう話になります。自分もそう思います。こうして、普通の日本語で話すと良く分からないので、論理の立場から説明すると、説明できるということです。本文で書いたのはそんな話です。

したがって、ここまでの話は全部、私の議論を別の観点から説明していただいただけで全く矛盾していません。大きく議論の趣旨をとらえれば全く同じと言っても良いと思います。同じことを説明するのに私は「論理」を出発点に説明し、あなたは、もっと直感的な言葉で説明したということだと思います。

最後に「科学が真実に近づいている」(ように見える)という時に、絶対的真理を仮定できるかという話をしたいと思います。

絶対的真理を仮定してもしなくても、科学の正しさは説明できるし、科学的手法が優れているということは説明できる。両方の立場の人が、同様に研究について議論をすることができるし、両方の立場の人が、同じように科学の良さを享受し、ニセ科学を批判することもできます。そうだとしたら、絶対的真理を仮定する根拠はないだろうというのが私の言い分です。

「絶対的真理」を仮定することは、仮定しても仮定しなくても同じことになるものを仮定する必要がないという意味で、「スパゲティモンスター」を仮定するのと同じです。仮定しても仮定しなくても同じことになるものを仮定しないというのは、科学的手法が導く結果の一つだと思いますが、こうした立場からは、スパゲティモンスターも絶対的真理の存在も示されません。

ただ、科学者が個人としてより良い生き方をするために、科学が絶対的真理を目指していることを仮定した方が良いというのなら、これについては否定しようがないのです。つまり、「絶対的真理」の主張を否定するつもりはないが、それは、個人の信条の問題であり、学問的議論の対象とならないじゃないかというのが私の主張です。

ちなみに、あなたような主張は、おっしゃる通り、一般的な科学哲学の範疇で絶対的真理を仮定しているわけではないと理解しています。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/11 9:26:10

○手習いさんのコメントへの応答

議論そのものを否定するような批判的なコメントが多かったので、
こういうコメントを見るとほっとします。

基本的には、もっともな指摘だと思います。
タイトルをどうするべきかという結論以外、
おっしゃっていることは全面的にその通りだと思って検討しました。

ただ、ブログの記事は論文ではなく、
タイトルはある程度自由に付けて良いと思います。
また、おっしゃる通り「正しい」は多義的であり、間違いというわけではないでしょう。
このため、とりあえずこのままにします。
必要に応じて本文に補足することを検討したいと思います。

ご指摘大変ありがとうございました。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/11 10:04:04

科学とニセ科学(疑似科学)のグレーゾーンについて関心を持ち、マイナスイオンを中心にいろいろと調べているSSFSと申します。

>科学には「新しい説を提唱する側が立証責任を持つ」というルールが存在するのです

これはハインズあたりが言いだしっぺのようですが、二重の意味で間違った言い分です。科学にはそんなルールはありません。

1つは「立証責任」という言葉は法律(裁判)用語であり、訴えた側と訴えられた側の双方が最善を尽くして争ってなお、裁判官がどちらが正しいか確証を持てない場合に、当事者の一方がこうむる不利益を指します。有限の時間で決着をつけなければいけない裁判の便法であり、長い時間をかけて真理を追究する科学にはなじまない概念です。もちろん、科学用語としては定義されていません。

2つめは仮に「立証責任」を「立証すべき責任」と置き換えても間違っています。科学の長い歴史では、提唱者が立証できなかったことが後の世で証明されて定説となったケースがあまたあります。典型的なのはウェゲナーの大陸移動説。高温超電導も提唱者はメカニズムを説明できなかったのに、ノーベル賞を受賞しています。

「新しい説を提唱する側が立証責任を持つ」とは、ニセ科学を撃退するために、ニセ科学批判者が声高に唱えますが、以上のように根拠のない流言に過ぎません。ニセ科学を撃退したければ、自分たちで証拠を集めて丁寧に説明すべきですが、残念ながらニセ科学批判者は怠惰なうえ、居丈高な発言を繰り返すだけです。これは情報学ブログさんご自身がつい最近経験されたことだと思います。

投稿: SSFS | 2010/08/11 22:32:43

科学は「真理」の設計図を読み取る一手法であると理解しています。

一方実業の世界ではマーケティングとやらがあって、「売れる為」を日々研究しています。もちろんマーケティングは結果論は別として論理で説明ができません。「明日何が売れるのかを論理的に説明する」という命題には例えば天気や気温はあるかもしれません。しかし天気や気温は短期目標であり、設備投資の指標とは相容れません。

科学は広い意味の論理世界の一部であるという主張に、非常に納得しています。さらに論理で片付けられない世界もあるわけで。

困ったことにマーケティングの世界では科学的事実をつまみ食いします、例えば「ビタミンを摂れば健康だ」「日本食は健康だ」みたいなやつです。ムーブメントを醸成し消費を促すのがマーケティングであり、事実はどうでもいいというのが本音でしょう。貴ブログでホメオパシーの内情を推察されていましたがそのとおりだと思います。

そのことを科学至上主義者がどうやら理解できない阿呆だということが分かります。多分理系技術系に科学信奉者が多いと思われますが彼らは現業では「マーケは知らん」という態度なのではないしょうか。

実際「デザインが優れている」という理由で売れた商品を科学はごく狭い観点(例えば心理学やUDや)からでしか論評できないと思います。科学のフィールドは極狭い分野であるということをガツンと述べられていたと感じました。

投稿: wood | 2010/08/11 22:50:24

○SSFSさんのコメントへの応答

コメントありがとうございます。

門前の小僧さんのコメントの中にあった、立証責任のルールについては、「検証」一般の議論として、説明しました。本文では、「科学の方法論」という形でひとまとめにしており、本題とは無関係だからです。ただ、おもしろい話題だとは思いますので、思ったことを書きます。

おっしゃる主張について今まで考えたことがなかったので、結論については保留にしますが、納得いかない点があります。

まず、現象と理論は区別するべきだと思います。現象は、帰納によって経験的に正しさが分かります。これに対し、理論は仮説推量によって分かるものであり、経験だけでは正しさが分かりません。

さて、高温超伝導は、現象であり、科学的に示すのにメカニズムの理解は不要です。このため、メカニズムが分からなくても現象が独立した発見となったのです。一方、大陸移動説は理論であり、仮説が現象を説明するというだけでは、正しいと考える根拠となりません。そこで、メカニズムなどを示すことが必要です。実際、大陸移動説は、メカニズムが分かるまで受け入れられていなかったのはこのためです。異なる例を恣意的に結びつけて、「立証責任のルールなどない」とおっしゃっているようですが、これには賛同できません。

一方、本文で書いた「科学の方法論」というのは、科学のコミュニケーションのルールの一種であって、論理体系のようなものではありません。だから、裁判と似たようなことが行われていても、何ら不思議なことではないと思います。

> ニセ科学批判者は怠惰なうえ、居丈高な発言を繰り返すだけです。
> これは情報学ブログさんご自身がつい最近経験されたことだと思います。

自分は、ニセ科学批判の問題というより、Webでは「斜め読みして適当に批判する」っていう人が多いことが原因だと理解しています。これはニセ科学批判かどうかには関係ないでしょう。ブログで「科学的ではない人がいたとしたら…」「科学を受け入れてない人にとっては…」こういう話を書くと、見当違いの反応が返ってくるということは良い勉強になりました。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/12 0:52:56

情報学ブログさんが科学について大きく誤解している訳では無い事は理解できました。
そうなると、最初(二つ前)のエントリがやはり疑問です。

最初のエントリについて、ホメオパシーのビリーバーをどう説得したら良いかについて提案していると言っていましたが、ホメオパシーのビリーバーを説得するのに、形式論理学まで立ち戻り、科学を相対化する事が、本当に有効だと考えているのですか?
一つ前のエントリに一石さんが付けられたコメントの通り、単に「釣り」が目的で、元々、現在の日本で発生しているホメオパシーの問題について真面目に考えるつもりが無かったと言う事でしょうか?


あと、もう一つ、

>> (既存の「科学理論」が全く無い0の状態からでも、何らかの説を唱える人に立証
>> 責任を持たせる事はできますよね?
>ただ、最後の括弧内は違うのではないかと思います。

違うと思う理由、根拠を教えてください。

ちなみに、私は

>ただ、立証するというとき、その前提には科学的知識があります。
>現在の科学的知識の範囲で立証するわけです。

とは考えていません。立証の前提には必ずしも「科学的知識」が必要では無いと考えます。その立証が求められているコミュニティ内で共通の経験があれば立証は可能だと考えています。
まあ、この書き振りは「形式論理学」まで立ち戻る立場をとっている情報学ブログさんからしてみれば不満の残る内容でしょうが、その辺は一旦無視していただいて、上記の「違うと思う理由、根拠」の回答をお願いします。


あと、私自身は「絶対的真理」はあるとの立場をとっています。加えて、「形式論理学」まで立ち戻って科学を相対化する事について否定的な立場をとっています。理由は、その立場をとる方が、この社会(私が存在している社会)に対して良いと考えているからです。
私にとって科学は、知的好奇心を満たす物でもありますが、この社会で生きている関係上、社会との関わりも常に意識したいと思っています。

投稿: 門前の小僧 | 2010/08/12 1:27:42

> 立証の前提には必ずしも「科学的知識」が必要では無いと考えます。
> その立証が求められているコミュニティ内で共通の経験があれば立証は可能だと考えています。

実はちょっと自信がなくなってきました。あのように書いたのは、「経験的知識の根拠をたどろうとすると、無限後退or循環論法に陥る」「科学的知識は経験的知識」という二つの理由からです。ここから導かれると思ってさくっと書いたのですが…。科学的知識の根拠をたどったとき、全ての科学的知識がいったん直感的経験に還元され、そこから先が循環論法なのだとしたら、本文の記述が適切だったかは疑問です。とりあえず取消し線にしました。ちなみに、二つ理由を挙げたうちの一つなので、これを削除しても全体の流れは保たれます。

> 科学を相対化する事について否定的な立場をとっています。理由は、その立場をとる方が、この社会(私が存在している社会)に対して良いと考えているからです。

「科学を相対化することには否定的だけれど、その理由は、この社会に対して良い」というのは、少なくともこの記事の本文の主張そのものとは矛盾しません。実は、この記事の本文では、科学を相対化するべきともそうじゃないとも言っておらず、それは社会的な問題だと言っているだけです。この帰結は、あなたのように、科学を絶対的なものとして見た方が良いということにもなるし、そうじゃないということにもなります。科学の絶対性を、「殺人はいけない」のような社会の規範として考えるのなら、ほとんど異論はありません。実際、今の社会はそういう形で成り立っています。現在、科学の立場からのニセ科学批判が、社会的にはほとんど疑問に付されることなく、普通に受け入れられているのはこのためでしょう。自分はこういう状況を変えるべきだと思っているわけではないので、そういう意味で「科学を相対化することについて否定的」です。(つづく) 

> ホメオパシーのビリーバーをどう説得したら良いかについて提案していると言っていましたが、
> ホメオパシーのビリーバーを説得するのに、形式論理学まで立ち戻り、
> 科学を相対化する事が、本当に有効だと考えているのですか?

ただ、科学を相対化する視点を持てるということは重要だと思います。その理由は、同時に上に引用した部分の答えにもなっているはずです。

科学を相対化してない人は、「科学的知識」によっていつかは相手の主張を変えられると考え、できなければ、「あいつらは変な奴だ」とレッテルを貼るしかありません。しかし、相対化している人は、科学的知識によって相手の主張を変えられなくても、別の方法によって、相手の主張を変えられることはあるということが分かります。前の記事では単純化して、「科学的に説明してダメな人には、メタな問題として説明する」という図式で説明しましたが、もっと実践的には、両方を取り混ぜて話すことが有効ということになると思います。「あなたの言っていることは正しいかもしれないけれど、同じように正しいかもしれないことはたくさんある。その中であえてそれを選ぶ理由はないじゃないか」という説明は、科学を絶対視する人からは出てこない言葉です。実際、一方的なレッテル張りで相手の態度を硬化させてしまうような言い方をする人も多い気がします。一方、もっと進めた相対化のパターンとして、共存をはかる(疑似科学は否定しないが、科学的医療を否定しないでねという)ということも考えられますが、こういう主張をするに当たっても、科学的な説明とメタな説明の関係を理解していることは必要です。

いずれにせよ、科学に対してどのような立場を取った方が良いかは科学の問題ではなく、社会の問題です。こういうことを踏まえた上で、それでも「科学を相対するべきではない」という人がいて、しかもその人が、それが社会的な問題だということを自覚しているのであれば、とりあえず、ここではそれ以上言うつもりはありません。もちろん、科学を相対化するべきか、どの程度相対化した方が良いのかという、さらにメタな議論についてのコミュニケーションは成り立つと思います。しかし、それは、「夫婦別姓を認めるべきか」と同じように難しい問題であり、多数派工作をすることができたとしても、全員を説得することは原理的に不可能であるように思われるからです。

本題と関係ない話ですが、最後に補足したいことがあります。「形式論理にまで戻り科学を相対化」という言葉がありましたが、以上のような説明の仕方は、科学を相対化する説明の一つです。自分としては、「論理との違いに注目した、科学の相対性の説明」くらいで理解してもらえればと思っています。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/12 18:15:07

もう一度強調しておきますが、科学には「新しい説を提唱する側が立証責任を持つ」というルールなんて存在しません。科学のどんな教科書にもそんな文言はないはずです(一応、かなりチェックしました)。ニセ科学を排除するための主張を過度に一般化したため、結果として誤った主張になっています。

高温超電導について言えば、提唱者はこの分野の素人だったため、実験に致命的な不備がありました。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kairo14.htm

この分野に底意地が悪い科学者が集まっていたならば、「お前の説は根拠が不十分」と斬り捨てて終わっていたはずです。実際には多くの科学者が関心を持ち、提唱者の「立証すべき責任」を度外視し、みんなでよってたかって追試をして不備を補い、ノーベル賞をとらせてあげるに至りました。みんなして役に立つ知見を積み上げるのが、あるべき科学の姿でしょう。

大陸移動説についても、提唱者のウェゲナーは立証できなかったのに、その後のメカニズムの解明で提唱者としての栄誉を受けています。これは提唱者に「立証責任のルールなどない」の立派な証拠です。

最近の事例では、人為的な温室効果ガスの排出による地球温暖化説が挙げられます。これも提唱者は19世紀の科学者だと言われていますが、さっぱり検証されていないのに、広く世の中にまかり通っています(それはそれで問題ですが)。とにかく、科学の世界に立証責任のルールはありません。

>一方、本文で書いた「科学の方法論」というのは、科学のコミュニケーションのルールの一種であって、論理体系のようなものではありません。だから、裁判と似たようなことが行われていても、何ら不思議なことではないと思います。

科学の世界には裁判官はいません。裁判のアナロジーで考えるのはやめたほうがいいでしょう。

>自分は、ニセ科学批判の問題というより、Webでは「斜め読みして適当に批判する」っていう人が多いことが原因だと理解しています。

適当な斜め読みで批判されてはたまりません。もっと怒った方がいいのでは。

投稿: SSFS | 2010/08/13 2:23:59

○SSFSさんのコメントへの応答2

お話をしていて、以下の結論に達しました。提案しているのが単なる観察結果や実験結果の場合、主張する側に立証責任があります。これは科学のルールというより、議論のルールと言った方が良いと思います。そうしないと有意義な議論ができないからです。一方、ある仮説が、観察結果や実験結果をより良く説明するという場合、ただちに科学的知識とはされないものの、仮説として受け入れられる場合があります。仮説に関しては、提案者に立証責任があるというわけではありません。ただ、その根拠となる観察結果や実験結果に対しては、主張した側に立証責任があると言えます。(ちなみに、科学論文では観察結果や実験結果とそこから予想される結論、仮説が明確に区別されているのが普通です)

SSFSさんが挙げられた2つの例は、いずれもこのことから説明できます。

> 提唱者のウェゲナーは立証できなかった

ウェゲナーは、大陸移動説を想定しない場合よりも、想定した方が、より良く説明できる観察結果を提示しました。このため、メカニズムが解明されるまで科学的知識としては受け入れられなかったものの、科学的に意味のある「仮説」を提示したとされたのです。つまり、ウェゲナーは大陸移動説そのものに立証責任を果たしてないとは言え、その元になった観察結果に関しては立証責任を果たしています。一方、マイナスイオンの場合、想定しない場合よりも、想定した場合の方が、より良く説明できる実験結果があるのでしょうか。そうした例すらないため、マイナスイオンは科学的に意味のある仮説と理解されていないと言えます。

> 実験に致命的な不備がありました

科学では、検証のクオリティが何段階にも分かれており、論文には他の評価と合わせて掲載が決まるのが普通です。検証のクオリティが低いものに関しては、後で否定されることも少なくありません。こうした場合、表面的な実験結果と、そこから導かれる結論は区別しなければいけません。高温超伝導の場合も、提案者は、本来導きたい結論(高温超伝導)に関して立証責任を果たしていないものの、実験結果に関しては立証責任を果たしており、このために科学的仮説として受け入れられたと言えます。これは、マイナスイオンとは違うと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/13 10:34:23

門前の小僧さんと主さんへの横レスです。


私はブログ主さんが「相対化することによってどういう帰結が導かれるか」に
ちょっと無神経ではないだろうか?と感じます。


現状では相対化する事によって何が起こるかと言うと、
主流派で土台のしっかりしている(とされる)科学を少数派であるホメオパシーや代替医療と同レベルまで落とし、そこから議論を再出発することにならざるを得ないからです。
究極的には「どっち信じてるかだけの問題でしょ」で喧嘩別れするしかなくなります。
(「科学のほうが説明能力が高い」ってのは解決策にはなりませんよね?)


そこを
>もちろん、科学を相対化するべきか、どの程度相対化した方が良いのかという、
>さらにメタな議論についてのコミュニケーションは成り立つと思います。
>しかし、それは、「夫婦別姓を認めるべきか」と同じように難しい問題であり、
>多数派工作をすることができたとしても、全員を説得することは原理的に
>不可能であるように思われるからです。

こう結論付けてしまうのであれば(そうするしかない=具体的には法整備って気もしますが、個人の裁量まで踏み込まなくてはならないので現実難しいですね)、
結局なんの結論もでない、さらには相対化するぶんホメオパシー側に味方しているという謗りを受けてもしょうがないと思います。


「斜め読みして適当に批判する」というのが、どのようなものを指しているのかわかりませんが、意識的or無意識的にそのような部分にひっかかった人が多いのでは?


主さんのコメ2010/08/12 18:15:07
>「形式論理にまで戻り科学を相対化」という言葉がありましたが、
>以上のような説明の仕方は、科学を相対化する説明の一つです。
>自分としては、「論理との違いに注目した、科学の相対性の説明」
>くらいで理解してもらえればと思っています。

とその前段で主さんの主張はほぼ同意で充分に理解しているつもりですが、 
現 在 進 行 形 で 犠 牲 者 が で て い る 問 題 に対しては、
一連のエントリは、論旨がわかりにくいandちょっと軽率な内容かなと思いました。


科学的根拠が無効なんてのは、実際問題、当事者はもっと実感してます、ハイ。

投稿: 一石 | 2010/08/13 12:40:11

「立証責任」という法律用語について先に解説しましたが、それを理解してらっしゃらないようですね。科学の世界でこの用語は持ち出すのは甚だ不適切ですし、常識ですらありません。大陸移動説も高温超電導も、「結果良ければすべてよし」的な解釈は間違っています。もう1度、最初から勉強しなおすべきでしょう。

マイナスイオンは想定も何も、実在して測定もされているのですから、 情報学ブログさんが何を言わんとしていることが意味不明です。こちらも勉強しなおすべきでしょう。

投稿: SSFS | 2010/08/14 23:59:02

> 一石さん

コメントを付ける記事を間違えているのではないかと思いますが、そのまま応答します。一石さんはどのような読者を想定しているのでしょうか。

たまたまホメオパシーの助産師と当たってしまったというような普通の患者であれば、「科学はホメオパシーを否定できない」を読んで、ホメオパシーを受け入れることはないと思います。こういう人たちは、普通に科学を受け入れているのであり、あの程度の記事で心が動くことはないでしょう。

一方、熱心にホメオパシーを実践しているような人は、「科学は信頼できない」ということを嫌というほどたたき込まれているはずなので、「科学はホメオパシーを否定できない」は当たり前の内容です。むしろ、「科学を信頼するべき」の説明の方が目新しいものだと思います。

一石さんの言うことは分からないこともありませんが、具体的にどのような対象を想定しているのか、さっぱり分からないし、はっきり言って机上の空論です。ネット上でメタな議論を提示することそのものを批判する意見は、科学の立場からホメオパシーを批判する人の自己満足に過ぎないと思うし、そこには正直、何かに狂信的な人に出会ったのと同じ恐ろしさを感じています。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/15 10:32:34

ひとつ,重ねて確認したいのですが,
池田さんのお考えでは,ホメオパシーは科学を全否定して尚
正当化されるものなのですか?


以前,私がコメントで質問した際には,

ホメオパシーは一貫した論理を持っているとは考えていない,
ホメオパシーは科学を「詐称」している,

そう仰っておられたので,私は池田さんも,ホメオパシーが
科学を中途半端に援用した上で議論されているものと
理解なさっていると思っていました.


もし,上と違う理解なのでしたら,改めてそれが
どういう形の議論になるのかを教えていただきたいです.


メタな議論そのものは結構ですが,私には池田さんの議論が
ことホメオパシーに対しては,適用の余地がないというか
それこそ,「机上の空論」を展開しているだけに見えます.

投稿: khiroaki | 2010/08/15 21:48:27

情報学ブログさん

>科学を相対化してない人は、「科学的知識」によっていつかは相手の主張を変えられると考え、できなければ、「あいつらは変な奴だ」とレッテルを貼るしかありません。しかし、相対化している人は、科学的知識によって相手の主張を変えられなくても、別の方法によって、相手の主張を変えられることはあるということが分かります。

ここに全く同意できません。いくつかの間違いが含まれていると考えます。
科学の相対性について深いレベルで理解している人間も「あいつらは変な奴だ」とレッテルを貼る事が正しいと考える事がよくあります。少なくとも私は、レッテル貼りに肯定的です。理由はそれが社会全体をよくしていく上で重要だと考えるからです。殺人に肯定的な人間を隔離するのと同様と考えます。かけられるコストの問題もあります。
科学の相対性について深く理解していても、その相対性を見せる事で、ホメオパシーのようなニセ科学的な言説を行う人間を説得できるとはとても思えません。なぜなら、ホメオパシーを信じる事ができるのは、科学が相対的であり絶対的に正しい訳ではないからではなく、客観的かつ論理的な思考力が足りないからだと考えます。
少なくとも現在の日本の社会において、客観的かつ論理的な思考力があれば、物理的な現象(形而下)の探求について科学の方法論は絶対的に正しいという共通理解に到達できると考えます。それぐらいの絶対性を科学は有していると私は考えます。
客観的かつ論理的な思考力が足りない人間に、科学の相対性を示した上で世界を一番うまく説明できるのは科学だと言っても、「科学は世界をうまく説明できていない」と言われるだけでは無いでしょうか?ホメオパシーに対する肯定的な意見の代表的なものに、「私には効果があった」というものがありますよね。

実際問題、今回の一連のエントリーにつけられたコメントの中には、明らかに論理的に間違っている事を述べながら科学が相対的である事に賛成するようなものがいくつか目につきました。科学を安易に相対化する事の弊害だと思います。

科学について深く理解している人は、科学の相対性をきちんと理解しつつ、科学の絶対性を説いていると考えます。その辺を情報学ブログさんは誤解をしているのでは無いでしょうか?

投稿: 門前の小僧 | 2010/08/17 3:07:50

○khiroakiさんのコメントへの応答

> 池田さんも,ホメオパシーが
> 科学を中途半端に援用した上で議論されているものと
> 理解なさっていると思っていました.

ホメオパシーに関しては、この記事のテーマ外ですので、適切な記事にコメントを付けてください。おっしゃることについては、「~反論する」の方で詳しく書いたので、そちらを読んでいただければと思います。日本ホメオパシー協会のHPなどを見ると、おかしいと思うことは多いのですが、そういう部分の批判だけをしていれば良いという立場には反対です。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/17 8:35:12

○門前の小僧さんのコメントへの応答

> 科学の相対性について深いレベルで理解している人間も「あいつらは変な奴だ」と
> レッテルを貼る事が正しいと考える事がよくあります。

もちろん、状況次第ではそういうことあると思います。それを否定しているわけではないということは、繰り返し述べてきたはずです。

> 科学について深く理解している人は、科学の相対性をきちんと理解しつつ、科学の絶対性を説いていると考えます。

当然です。「深く理解している」人であれば、私の記事を見て「当たり前のこと」と思うでしょうが、そういう人に向けて書いた記事ではないということです。何も誤解していません。理解しているからこそ、いろいろなレベルでの「正しさ」を使い分けているのだと思います。ただ…、

> ホメオパシーを信じる事ができるのは、科学が相対的であり絶対的に正しい訳ではないからではなく、
> 客観的かつ論理的な思考力が足りないからだと考えます。

それは客観的とか論理的とか言う言葉の意味次第です。客観的というとき、普通は「ある前提に立った客観性」が問題にされます。また、これは「論理」についても同じです。まさにこの記事で書いたように、何も前提にしない論理は科学を肯定しません。一定の前提に立った論理が、科学のある部分で使われているだけです。だから、「ある意味での」客観性、「ある意味での」論理性ということについて言えばおっしゃる通りだし、さまざまな「正しさ」を使い分けられる人が、あえてそういう言い方をするのなら、そういう場合もあるかもしれません。しかし、それは私の主張と何も矛盾しないと思います。

> 少なくとも現在の日本の社会において、
> 客観的かつ論理的な思考力があれば、物理的な現象(形而下)の探求について
> 科学の方法論は絶対的に正しいという共通理解に到達できると考えます。

これも「現在の日本の社会」として何を想定するかによります。

> ホメオパシーに対する肯定的な意見の代表的なものに、
> 「私には効果があった」というものがありますよね。

ちなみに、これはここまでの話で全く触れなかった話ですが、重要な問題です。科学の根拠は本質的には人間にとっての「共通経験」です。こうした共通経験から複雑なプロセス、複雑なフィルターを経て得られるのが科学的知識です。さて、ホメオパシーの人々は大きく言えばホメオパシーが「私に効果があった」と考える人々の集まりですが、これは、非常に根本的なところで、科学の客観性の根拠と並置されるような強さを持っています。だから、これを否定してしまうと、科学の「客観性」の根拠も否定することになります。「私に効果があった」は、いわば、彼らにとっての、フィルターのかかっていない生の客観性なのです。だからこそ、日本ホメオパシー協会の説明の拙さを指摘しても、彼らには意味がなかったりするのだと思います。

自分ならこう言います。「あなたの言うことは正しいように見えるかもしれないけれど、同じように正しいように見えることはいくらでも作ることができる」。科学を相対化できていない人は、こういう説明をすることができないのではないかと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/17 9:06:27

はじめまして
科学の相対性に関するお考えをもう少し詳しくご説明いただけないでしょうか
科学的認識体系にもその根源には論証不可能な形而上的なものがあり、また科学的認識が世界のすべてを説明できるわけではない、よって科学も相対的なものである。
これくらいの話なら浅学非才の私にも分かります。
しかしだからといって科学も数ある認識体系の"one of them"に過ぎないのでしょうか
科学的認識体系とある特定の宗教的認識体系との間には、何らの本質的差異はないのでしょうか

投稿: ポッペリアン | 2010/08/18 9:24:17

> 科学の相対性に関するお考えをもう少し詳しくご説明いただけないでしょうか

…ということですが、

> 科学的認識体系とある特定の宗教的認識体系との間には、何らの本質的差異はないのでしょうか

これに関する限り、本文の記述に付け加えることは特にありません。結論としては「どのレベルで話をするかによる」ということです。本文の項目分けで言う、仮説推量や科学的方法論の問題として言うと、相対的としか言いようがないものですが、社会的受容を踏まえて言うと、必ずしも相対的ではないというのが本文で書いたです。

私たちの言語は社会的なものであり、言語で「正しい」と言ったとき、それは社会的判断です。それを不問に付す立場からすれば、科学が相対的に見えないのは事実だと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/18 14:48:36

社会的に受容されているかどうかというのは、0か1かの問題ではなく、程度の問題ですよね(あるいは多数決の問題)?つまり相対的な比較の問題ですよね
だから「本質的差異」についてのブログ主のご見解を伺いたかったのですが…

投稿: ポッペリアン | 2010/08/18 15:25:51

「本質」という言葉の取りようによりますが、社会的に受容されているかを無視すれば、差異はないでしょう。本文で書いた通りです。

ただ、社会的受容を無視するというのは、科学の方法論の有用性や説明能力を無視するということを含みます。有用性や説明能力を無視した議論が「本質的」と言えるかどうかは、本質的という言葉の使い方次第です。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/20 0:16:53

私が「社会的受容を無視していい」と述べてますか?

ブログ主が「社会的受容を踏まえていうと、必ずしも相対的ではない」と言われるので、その「社会的受容」なるものも相対的比較の問題ではないか、そのような相対的比較の問題を離れて科学とそれ以外のものを区別できるものはないのか、とお訊ねしているわけです。
主観的印象ですが、世間の多くの人々は「二重盲検法」なる言葉を知らず、「神の子イエスは我々の罪を購うために十字架に…」「西方浄土にまします阿弥陀如来の本願が…」と信じている人も少なからずいるはずです。
そしてブログ主はご存知ないかもしれませんが、それらの世界観も一定の「説明能力」を有しています。
ブログ主は「『社会的受容』というのは多数決のことではなく…」と言い訳されるのかもしれませんが、ならば用語の定義は予め明確にしておくべきです。
もちろん私の「本質」の語の用法も曖昧です。
「『Aの本質はαである』というときの本質とはいかなる意味か、そもそもAの本質なるものを規定することは可能か」という問題提起はありえます。
しかしこの場合の「本質」の用法は、それこそ社会的に受容されているというべきでしょう(まさしく言語論が関係してくる世界なのかな?)。
以上、科学が相対的であるか否かについて社会的受容に拠って判断するというブログ主のご見解への卑見です。

投稿: ポッペリアン | 2010/08/20 12:11:43

情報学ブログさん

>> 科学の相対性について深いレベルで理解している人間も「あいつらは変な奴だ」と
>> レッテルを貼る事が正しいと考える事がよくあります。
>
>もちろん、状況次第ではそういうことあると思います。それを否定しているわけではないということは、繰り返し述べてきたはずです。

私には、レッテル貼りを批判しているように見えましたが違うのでしょうか?
私は情報学ブログさんが「レッテル貼りは良くない」「ホメオパシーに理解を示す事(間違っていないと伝える事)がホメオパスを説得する上で重要だ」と主張しているように思えたのですが、違うのであれば、どのように違うかを明確にしていただけますか?

>> 科学について深く理解している人は、科学の相対性をきちんと理解しつつ、科学の絶対性を説いていると考えます。
>
>当然です。「深く理解している」人であれば、私の記事を見て「当たり前のこと」と思うでしょうが、そういう人に向けて書いた記事ではないということです。

深く理解している人の多くが、ブログ主さんの記事を見て「記事に書いてある事がおかしい」「良くない」と批判しており、「当たり前のこと」とは思わなかったようだと私は理解していますが、違いますか?
もう一つ、深く理解していない人こそが、ブログ主さんの記事を見て、浅いレベルで「科学は(安易に)相対化できるものだ」と誤解していると考えますが、違いますか?


>> ホメオパシーを信じる事ができるのは、科学が相対的であり絶対的に正しい訳ではないからではなく、
>> 客観的かつ論理的な思考力が足りないからだと考えます。
>
>それは客観的とか論理的とか言う言葉の意味次第です。

客観的とか論理的の意味次第である事を理解しているので、その後で「日本の社会において」という話をしています。「客観的」「論理的」は通常の日本語の意味における「客観的」「論理的」という意味で考えれば良いです。

前にも書いたと思うのですが、少なくとも現在の日本の社会では、科学は相対的でないものと考えます。なぜなら科学にはそのシステムの中に自らの間違いを訂正する仕組みを内包しており、その仕組みに基づき多くの観測事実・理論を積み上げてきているからです。その他のニセ科学等とは一線を画すものです。それを理解せずして科学を安易に相対化するのは、正しく科学を理解していないと言う批判を免れえないと考えます。

私の意見に対して、よく「私の主張と何も矛盾しないと思います」と返答がありますが、私の主張は、「あなたの主張には良い効果が無いし、逆に科学に対する誤解を広めるなど、多くの害がある」という事です。ブログ主さんの主張の論理的な正しさはあまり問題にしていません。

私が前回付けたコメントの
> 実際問題、今回の一連のエントリーにつけられたコメントの中には、明らかに論理的に間違っている事を述べながら科学が相対的である事に賛成するようなものがいくつか目につきました。科学を安易に相対化する事の弊害だと思います。

の所についても考えを答えていただけますか?

情報学ブログさんが、「社会的な影響なぞ興味ない。論理的に正しければそれでよい。」という立場をとられるのであれば、これ以上何かを言うのを止めます。どうなのでしょうか?


あと、客観性の話ですが、
> ちなみに、これはここまでの話で全く触れなかった話ですが、重要な問題です。科学の根拠は本質的には人間にとっての「共通経験」です。こうした共通経験から複雑なプロセス、複雑なフィルターを経て得られるのが科学的知識です。さて、ホメオパシーの人々は大きく言えばホメオパシーが「私に効果があった」と考える人々の集まりですが、これは、非常に根本的なところで、科学の客観性の根拠と並置されるような強さを持っています。だから、これを否定してしまうと、科学の「客観性」の根拠も否定することになります。

科学ではホメオパシーの「私に効果があった」と言う体験は否定しませんが、それが客観的な事実であるという主張は否定するでしょうね。だからといって、「科学の「客観性」の根拠も否定すること」にはなりません。より多くの観測事実に基づき判断する事が「客観性」ではないのでしょうか?こんなレベルの主張をされると、情報学ブログさん自身も科学について正しい理解ができていないのではと心配になります。

投稿: 門前の小僧 | 2010/08/21 16:50:39

○門前の小僧さんのコメントへの応答

> 私は情報学ブログさんが「レッテル貼りは良くない」「ホメオパシーに理解を示
> す事(間違っていないと伝える事)がホメオパスを説得する上で重要だ」

レッテル貼り=科学の立場から批判することとも言えます。その意味からすれば、科学の立場から批判することと、メタな立場から批判することの両方が大切だというのは、「『科学はホメオパシーを否定できない』に対する批判に反論する」で明確に書いたはずです。大きく言えば、「レッテル貼りをするモード」と「レッテル貼りをしないモード」をきちんと切り替えられるようになるべきだという話です。

一方、多くの人は、科学を絶対視するために、「科学の立場からの批判」と「メタな批判」の区別すらできていません。こうした意味での「レッテル貼り」は問題だと指摘したのです。要するに「レッテル貼り」という言葉が2つの意味で使われており、レッテル貼りB=「レッテル貼りAをするモード」と「レッテル貼りAをしないモード」を切り替えられないこと、という関係にあったのです。普通に読めば分かると思ったのですが…。

> 深く理解している人の多くが、ブログ主さんの記事を見て「記事に書いてある事
> がおかしい」「良くない」と批判しており、「当たり前のこと」とは思わなかっ
> たようだと私は理解していますが、違いますか?
> もう一つ、深く理解していない人こそが、ブログ主さんの記事を見て、浅いレベ
> ルで「科学は(安易に)相対化できるものだ」と誤解していると考えますが、違
> いますか?

私は、科学に関して正しく理解しており、さらに文章をきちんと読んだ人による批判的コメントは一件もなかったと理解しています。また、文章が分かりづらいという意味での批判的コメントには補足等で答えたつもりです。一方、「浅いレベルで「科学は(安易に)相対化できるものだ」と誤解している人」などいたとは思えません。安易も何も、科学が(ある側面から)相対化できるというのは、現代社会で、教養を持った人にとっての共通認識だし、そういう認識を持つ人が誤解しているというのも意味不明。…というのが私の立場です。

しかし、あなたはこういう私の立場を受け入れてないのでしょう?そもそも、今、私たちは(科学について)「深く理解している」とは何かについて話し合っているのではないでしょうか。「深く理解している」という言葉が指すのがあなたの言う通りの意味だったら、上の引用は正しいでしょう。一方「深く理解している」という言葉が指すのが私の考える意味だったら、上の引用は間違いです。つまり、上の引用はいわゆる「論点先取」の意味のない主張であり、低俗な自慰行為に過ぎません。

> それを理解せずして科学を安易に相対化するのは、正しく科学を理解していないと言う
> 批判を免れえないと考えます。

> より多くの観測事実
> に基づき判断する事が「客観性」ではないのでしょうか?

客観性に関してはいろいろ書いてありますが、話が全く意味のない方向に進んでいると思います。客観性という言葉の定義が違うと言っているのに、あなたはあなたの指定した客観性についての議論をしているだけです。私としては「そういう言葉の定義ならそういう議論になるでしょうね」というだけです。ご不満かもしれませんが、「矛盾しない」としか言いようがありません。どうも勘違いされているようですが、「矛盾しない」というのは、自己弁護のつもりで書いているのではなく、率直に言えば、「あなたは批判のつもりかもしれませんが、批判になっていませんよ」ということ、「議論になっていませんよ」ということです。

その上で、ちょっとだけ補足します。科学の社会的な受容を踏まえて、「客観的」というのなら、あなたのような言い方になると思いますが、科学の社会的な受容を踏まえない「客観的」という言い方もできます。つまり、直感的経験だけに基づいた客観性、科学のフィルターを経ない客観性というのも考えられます。直感的経験に基づいた客観性というのは、私があると言って、あなたがあると言う、みんなあると言うなら、客観的にあると言えるということです。これを単純に拡張すれば、私が暑いと言って、あなたが暑いと言う、みんながあると言うなら、客観的に暑いと言えるということになるでしょう。たしかに、科学の方法論では前者は受け入れて後者は受け入れません(後者の場合、たとえ人数が多くても、客観的ではなく主観的であるとされます)。しかし、科学の方法論を前提にしないで、そんな区別ができますか?と自分は言ってるのです。科学の成立以前にも、「客観的」という言葉が「みんなが暑いと言っても、客観的に暑いとは言えない」という形で使われていたのか、現代社会で科学的思考に慣れていない人が、「客観的」という言葉をどう使っているか、などを考えれば答えは自明だと思います。

こういう話をしているときに、

> こんなレベルの主張をされると、情報学ブログさん自身も科学について正しい理解ができていないので
> はと心配になります。

というのは見当違いです。

それから最後に社会的影響について。この記事は、論理的な話がメインですので、コメント欄の議論も、それに絞りたいと思います。ホメオパシー等に関しては、適切な記事に再コメントしてください。

投稿: 情報学ブログ | 2010/08/22 16:46:58

情報学ブログさん

> 大きく言えば、「レッテル貼りをするモード」と「レッテル貼りをしないモード」をきちんと切り替えられるようになるべきだという話です。

折り合えない感じがしますが、きちんと切り替えられる人も、「レッテル貼りしないモード」を取るメリットがない場面では「レッテル貼りをするモード」を取り続けるというだけだと考えてます。


> 一方、「浅いレベルで「科学は(安易に)相対化できるものだ」と誤解している人」などいたとは思えません。

他人のコメントだったので、敢えて指摘はしていませんでしたが、例えば、科学の相対化について納得している方のコメントの中に次のようなコメントがありました。

> 科学で否定できると考えている人は、
> 科学でこの世の全てを説明できると「信じて」居る人では。

あまりに論理的でないコメントだと思いました。ある理論を科学で否定できると主張する人が、何故科学でこの世の全てを説明できると「信じて」居る人になるのでしょうか?

科学で判っている事について正しいと主張する事と、科学で判らない事はないと主張する事は全く違う事
です。そんな主張をされる方が、科学について深く理解しているとは到底思えませんでした。このコメントを見て、この一連のエントリの弊害を感じましたし、そのコメントに対する情報学ブログさんのコメントにも失望を覚えました。

管理人より:そちらこそ誤解しています。この話、そもそも「否定」には2種類あるという話から来ています。「科学が科学を受け入れていない人にも分かるように疑似科学の問題を説明できるのか?できると考える人は、科学で全てを説明できると信じているのではないか」という皮肉で、ごく普通のことが書いてあるだけです。やはり、ホメオパシーの議論は、ホメオパシーの記事でしていただかないと、議論があらぬ方向に行ってしまうと思います。

> 安易も何も、科学が(ある側面から)相対化できるというのは、現代社会で、教養を持った人にとっての共通認識だし、そういう認識を持つ人が誤解しているというのも意味不明。…というのが私の立場です。

確かに安易な相対化と言うのがどういう事かをきちんと言っていなかったですね。

科学は、物理的な現象(形而下の事柄)について解き明かす方法論として、現状最も優れた方法論となっていると考えます。「現状」と書いたように、未来永劫にわたって「最も優れ」ているかどうかは不明ですし、そういう意味で科学が相対化可能なのは共通認識です。
しかしながら、現状における最も優れた方法論であるため、現在あるその他のニセ科学・疑似科学とは比べ物になりません。現存する物理的な現象を説明する方法論の中では絶対的な存在であると考えます。
その点を誤解して、現存する他の物理的な現象を説明する方法論と並び立つものと考える事を、私は安易な相対化と考えています。
安易な相対化をしてしまうと、「見方を変えれば、物理的な現象を説明する理論として、科学よりもホメオパシーが正しくなる事もありうる」という考え方になり、それは明らかに「誤解」であると考えています。

確認すると、自分の主張は、「相対化される」という視点と、「科学は、有用性、説明能力etc.の観点から優れている」という視点のいずれも取れるという話ですよね。「いずれの視点も取れる」ことの重要性については、新たな記事を書いたところなので、ご覧いただけると幸いです。それでも「安易な相対化」とおっしゃるのでしょうか。ちなみに、第一セクションの「記事を書いた動機」は、こちらの議論と関係ないので無視してください。

> 客観性という言葉の定義が違うと言っているのに、あなたはあなたの指定した客観性についての議論をしているだけです。

元々の主題はホメオパシーを科学で否定できるかどうかという話だと思うので、ホメオパシーを信じている人と「客観性」の定義が共通かどうかが問題であり、メタな議論をしたい情報学ブログさんとの定義が同じかどうかは問題で無いと考えています。
ホメオパシーを信じて居る人でも、物理的な現象においては絶対的な真実があるという立場を取っているのが通常だと思われます。そういう意味では「絶対的な真実」=「客観性」として、客観性について共通の「定義」にたって議論ができると考えます。ホメオパシーは基本的に「科学」を装っています。事実、日本学術会議会長の談話に対するホメオパシー側(ホメジャや振興会)の批判も「科学的でない」「科学を判っていない」という形の批判ですよね。

> そういう意味では「絶対的な真実」=「客観性」として、客観性について共通の「定義」にたって議論ができると考えます。
これは間違いだと思います。「真実」の基準が違うからです。違う基準に基づいている人に説明できないという話しです。ちなみに、自分は、「科学的でない」「科学を判っていない」という指摘は正当だと言っています。ただ、この説明では分からない人がいるというのが、「科学はホメオパシーを否定できない」という言葉の意味です。やはりすれ違った議論をしているのです。

> それから最後に社会的影響について。この記事は、論理的な話がメインですので、コメント欄の議論も、それに絞りたいと思います。ホメオパシー等に関しては、適切な記事に再コメントしてください。

この一連のエントリがうむ社会的影響についてコメントしているつもりなので、不適切なコメントとは思っていないのですが、ブログ主の意志は尊重したいと思います。
情報学ブログさんとして、この一連のエントリがうむ社会的影響について議論する用意があるんのであれば、どのエントリにコメントすれば良いか指定してください。(最初のエントリでしょうか?)

社会的影響を含め、ホメオパシー関連の議論は、ホメオパシー関連の記事でお願いします。どれでもかまいませんが、できれば最初のエントリーがありがたいです。

投稿: 門前の小僧 | 2010/08/26 2:12:07

興味深く読ませていただきました。

少し分からないところがあるので、質問させて下さい。

科学が論理的でないにも関わらず、高い説明能力があるのがあるのでしょうか?
論理的に正しくないのであれば、支離滅裂なものになってしまうように思われます。

管理人より:科学が内部で論理を持っているかどうかを問題にしているのではなく、「正当性の根拠を論理だけに求められない」という話をしています。ブログのエントリーですので、挑発的な書き方をしていますが、普通に言うとそういうことです。

仮説推量以外の科学的方法論って、どういうものがあるのでしょうか?
天文学などの観測による帰納法が主となる立証分野があるので、「仮説推量」と「科学的方法論」を分けたのでしょうか?
前述の2つを特に区別する理由が思い当たりません。

天文学でも既存の理論に基づいて観測する場合は帰納ですが、新たに理論を作る場合は仮説推量になります。さて、帰納ではなく仮説推量を取り上げたのは、仮説推量は論理で説明されないだけでなく、直感にも反するため、「正しいとは限らない」という端的な説明になるからです。一方、たしかに、仮説推量は科学的方法論の一部ですが、「仮説推量」の問題と「検証」の問題を分けるために、別項目にしました。もちろん、合わせて説明することもできます。

タイトルにある「科学が論理ではないけど正しい」とまとめでの「科学の正当性」は同じ意味で使われているのでしょうか?
正当性があることと正しいことは別物だと思われます。
社会的に受容されることと、正当性が認められることと、科学的方法論および知識の正しさを、どう切り分けて捉えていらっしゃるか、補足頂けるとありがたいです。

タイトルの「正しい」はあえて曖昧な言葉になっており、本文で「正当性」と言い直しています。さて、社会的な受容を相対化して見る見方と、社会的に受容された状態を踏まえた見方はどちらも間違っていないと思います。この両者を使い分けることが重要だと思います。

投稿: tenod | 2010/08/26 2:39:21

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