経済・政治・国際 | 2010/08/25
この記事は、主に科学のとらえ方、相対的視点の重要性とその限界(相対的視点だけじゃダメということ)について説明する記事です。
ホメオパシーについては「ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線」が最新ですので合わせてお読みいただけると幸いです。
○この記事を書こうと思った理由
自分は、「科学教」という言葉を好んで使う方ではなかったのですが、最近、少し考えを変えました。きっかけは、先日、以下のようなことを書いたことです。簡単にまとめると以下のような内容です。
・科学が疑似科学を否定しようとするとき、科学を受け入れている人が分かるように説明することはできるが、そうじゃない人も分かるような説明ができるとは限らない。
・ただ、否定できない状況であっても、そもそも科学とは何かということを踏まえれば、説得できるかもしれない。疑似科学を説得しようとするとき、こうして科学が置かれた状況を理解することが大切ではないだろうか。
この記事に対し、はてなブックマークのコメントには、「科学を否定するのはおかしい」と言う趣旨のコメントがたくさん付きました。自分は決して、科学を否定してるわけではないのですが…。どうも、「科学とは別の正しさもある」という考え方が、彼らに受け入れられなかったようです。
もちろん、特定の状況で科学の立場を取ることが間違っているわけではありません。科学に関する議論の大部分はこれで良いでしょう。しかし、議論の目的や対象によっては、別の視点から考えないと、議論にすらならない場合があります。こういうときにも「科学以外の立場を取るのはダメ」という立場は、「科学原理主義」「科学教」と言うことができます。
では、どうして「科学原理主義」ではいけないのでしょうか。この記事では、こういった疑問に答えるため、「科学の視点」と「科学の立場を相対化する視点」が両立するということ、こうして「メタな視点を取れること」の重要性とその限界(相対主義ではダメだということ)を説明したいと思います。
ちなみに、この記事では、「メタな視点も取れることの重要性と、その限界」一般について説明しているので科学については詳しく説明していません。これについては、ごく簡単にではありますがこちらに書いてあります(仮説と方法論の違い、科学の有用性と説明能力など)。また、議論の全体について、ホメオパシーの議論、7つのQ&A」で若干ですが補足しています
○ものごとをとらえる視点
ものごとは、どの視点で理解するかによって、違って見えることが多くあります。いくつか例を挙げますが、いずれも全く同じ構造をしていることがポイントです。
1.人を殺してはいけないのはなぜか
A:そんな理由などない。人を殺してはいけないなどというのは、今の社会で成立している恣意的な規範であって、時代や文化が変われば、成り立たなくなることもある。
B:人を殺してはいけないというのは、人間社会を成り立たせるために重要な規範。Aのような立場は、殺人を奨励していることになって許されない。
2.科学は絶対的なものか
A:科学が絶対的だとする根拠などない。科学というのは、現代社会で広く受け入れられた、有用かつ説明能力の高い方法論だが、絶対的に正しいという根拠はない。
B:科学は、現代社会において客観性を担保する唯一の方法である。Aのような立場は、疑似科学を奨励することになって許されない。
3.人権は絶対的なものか
A:国家によって保証される人権も、国際社会の調整手段としての人権も、いずれも人為的なものであり、絶対的に正しい概念ではない。
B:人権概念は、人類の叡智の集積である重要な考え方。これを否定するAの立場は、人殺しと同じ。
4.数学は絶対的真理か
A:数学は閉じた体系であって、数学の外に根拠を求めることはできない。
B:数学は科学を初めとする人間の知的活動の基盤。Aは頭がおかしい。
Aの立場では、しばしば対象を「フィクション」(=恣意的、人為的ことの比喩)と呼んだり、「底が抜けている」(=外部に根拠を求められないことの比喩)と呼んだりします。科学だって、人を殺してはいけないという規範だって、数学だって、その内部でしか根拠がない。これは、現代思想で常識中の常識です。
こうしたAの立場から考えると、Bの立場は、一見して、独善的で、非論理的であるように見えます。
しかし、Bの立場は、これはこれで重要なのです。実のところを言うと、私たちは、何らかの意味で「フィクション」であり、「底が抜けている」ものに基づいてしか、ものごとについて議論をすることができません。人間のあらゆるコミュニケーションの枠組みが、フィクションであり、底が抜けているのです。したがって、「フィクション」(=恣意的)であっても、「底が抜けている」(=外部に根拠を求められない)ものであっても、それをあえて「選び取っていく」「信頼していく」しかありません。
つまり、AとBの立場の違いは、根本的には、「とらえ方の違い」「立ち位置の違い」ということになります。一見するとAの立場の方が一般的で優れた意見のように思うかもしれませんが、そもそも、私たちは何らかの「視点」に立ってしか議論をすることができないことを踏まえると、どちらも対等であるとさえ言えるでしょう。
これを、論理学では「メタ」という言葉で表現します。この言葉を使うと、科学の立場からの議論に対して、科学そのものの正当性を問い直すような立場からの議論を「メタな議論」「メタな視点からの議論」と言うことになります。一般に、ある視点からの議論と、メタな視点からの議論は矛盾しません。一見して結論が異なっても、そもそも別のことを言っているのです。
○原理主義とニヒリズム
ただ、AとBは対等だとしても、「原理主義」が良いということにはなりません。同じBの立場を取るにしても、
B1 相対性を一切認めず、自分の立場だけに凝り固まる人(原理主義的)
B2 相対性を自覚した上で、あえて自分の立ち位置から語る人(非原理主義的)
これは全く異なるからです。B2の立場を取る人は、Aの立場を経由した上でB2の立場を取っているのです。したがって、Aの立場の人を批判したりしないし、(疑似科学のように)異なる立場の人にも、説得力のある説明をすることができます。時にはAの立場を取り、時にはB2の立場を取るというように、自在に立場を使い分けられるのです。疑似科学であれば、冷静に「なぜ科学は優れているのか」という説明をすることができるのが、B2の立場の特徴です。これに対し、B1の立場を取る人にとって、Aの立場は自分の存在を脅かすものとして受け止められます。Aという現実を知って恐れ、おののき、感情的に批判するしかないのです。そしてB1の立場の人は、(疑似科学のように)自分と異なる立場の人と、永遠に解決することのない不毛な争いを続けることになります。
要するに、B1の立場の問題は、特定の立場から語ることそのものではなく、ある視点からの議論と、メタな議論を区別できないことにあるのです。こうして「ある視点とメタな視点を区別できない」ために、異なる意見を感情的に批判したり、不毛な対立を引き起こしたりする人は、端的に言えば、「原理主義者」です。科学に関して言うと、「科学教信者」「科学原理主義者」ということになるでしょう。
これに対しB2の立場は、一般的な表現で言うと、「ニヒリズム」です。ここで言う「ニヒリズム」は、日常用語としてのニヒリズムと異なり、「外部に正当性の根拠を求めず、力強く生きていく」といった意味です(この意味でのニヒリズムを、能動的ニヒリズムと言う場合もあります)。また、「プラグマティズム」も、本来は「外部に正当性の根拠を求めるのではなく、実践そのものを重視する」という考え方なので、近いものがあるでしょう。ニヒリズムと、プラグマティズムは、正反対のイメージを受けますが、両方とも、メタな視点を意識しているという共通点があります。
自分がこのブログの開設以来、一貫して伝えようとしているのは、さまざまな分野におけるB2の視点の重要性なのです。
○原理主義の何が問題か
さて、「原理主義」とは何なのかが分かったところで、「科学教」「科学原理主義」に話を戻したいと思います。
科学原理主義の問題はいろいろありますが、その一つは疑似科学との関係で明らかです。というのも、科学原理主義は、疑似科学の内側の人を説得する上でも有効ではありません。科学を「あえて選び取っている」人(B2の立場の人)であれば、「あなたの言うような『正しいかもしれない』仮説は無数にあり、あえてその仮説を取り上げる意味はないのではないか」という説得ができます。しかし、科学原理主義者はこうしたメタな視点からの説得をすることができません。科学原理主義者はメタな視点を取れないため、根本的な意味で疑似科学の人と対話することができないのです。もちろん、科学原理主義者でも、「一般の人が、ホメオパシーが科学的なものであると勘違いして受け入れてしまうのを防ぐ」程度のことならできるでしょうが、それ以上のことはできないでしょう。これは、疑似科学の批判者の間でも良く知られている通りです。
とは言っても、科学原理主義が、単に科学に関する原理主義でとどまっているうちは、それほど実害がないかもしれません。科学原理主義者の疑似科学批判(特に、はてブあたりで騒いでいる人)は、疑似科学の内側には届かないとは思いますが、無視されるだけだからです。ただ、重要なのは、どのような原理主義も「メタな視点を取れない」という論理的には全く同じ構造をしているということです。したがって、科学原理主義の立場を取る人は、他の分野でも無意識のうちに、原理主義に陥ってしまう傾向が高い。このことは、社会的には疑似科学よりもずっと大きな問題ではないかと思います。
こうした「原理主義の問題」には大きく分けて、二つあります。一つは、「特定の立場に凝り固まって外部が見られなくなることによる問題」、たとえば次のようなものです。
・ 言論上の立場が一方的になってしまうという問題(偏向報道、ネット右翼等)。
・ 問題のある社会制度を放置することになる問題
・ 社会全体が政治的に不寛容になることによる問題
これは、それぞれ非常に重要な問題でありますが、一般的にも良く言われることなので、詳しくは説明しません。ただ、もう一つ重要なのが、「原理主義者が、自分のよって立つ基盤に正当性の根拠がないことに気づいてしまうことによる問題」ではないかと思います。
・ 生きる根拠の喪失による問題(自殺、引きこもり)
・ 規範の根拠の喪失による問題(動機なき大量殺人)
・ 世界の基盤の喪失による問題(カルト宗教への傾倒)
他者との交流の素晴らしさに根拠がないことを知った引きこもり、社会規範に根拠がないことを知った動機なき大量殺人者、マスコミの偏向報道を知ってネット右翼になった2ちゃんねらー、科学の限界を知ってカルト宗教に傾倒する理系学生。全て、「原理主義的な世界観」に安住していた人の行き着く先です。現代社会に生きる私たちは、それなりの知性がある人であれば、誰でも「正当性の根拠の喪失」という問題に突き当たらざるを得ないからです。
もちろん、決して、科学が悪いのではありません。B2の立場のように、能動的に科学を受け入れるのなら、科学は自分の人生を、そして社会を豊かにする重要な手段になります。しかし、「科学原理主義」を初めとする原理主義的思考は、私たちを生きることから疎外し、さまざまな問題を引き起こすのです。
○おわりに
私自身は、自分が生きる上で科学を受容しているし、自分がかかわるような社会的コミュニケーションの前提の一つとして、科学があると考えています。だから、「ホメオパシーが科学的なものであると勘違いして、受け入れてしまうのを防ぐ」活動の重要性を否定するつもりはありません。ただ、こうした活動は、朝日新聞の精力的な報道と、日本学術会議の声明で良い形で認知され、一段落が付いたのではないでしょうか。もちろん、マスコミや疑似科学批判を専門にしている方にとっては踏ん張りどきなのかもしれませんが、私たち一般のネット民が、今さら「科学の立場からの」批判を盛り上げるすることにそれほど意味があるようには思えません。
むしろこの機会に、科学や規範、制度など、自分たちがよって立つ基盤そのものを考え直すことの方が、疑似科学を批判するためにも、社会全体の制度設計や、私たち自身の生き方の観点からも、ずっとずっと大切なのではないかと思います。
○ 改訂履歴
9/3 冒頭のセクションの内容が間違っていたので「補足」で訂正していたのですが、分かりづらいので、冒頭のセクションのみ、内容そのものを書き換えました。(旧バージョン)
9/5 最後のセクションに対する批判に答える意味で若干変更(変更点は太字と削除線)
ネット上では集団ヒステリーが多く見られます。誰かが批判すれば、それにのっかる輩も多くいる。意見を明確に示せば反響も大きくなるでしょうが、気にせず、今後もメッセージを発信し続けていただきたいと思います。
誰かが言わなければならないこと、気付かなければいけないこと、世の中には沢山あるはずです。このブログからは強いメッセージ性を感じます。伝えたいことがあるのなら、最後まで貫いて下さい。応援しております。
管理人より:いつもありがとうございます。集団ヒステリーという言葉が適切かどうか分かりませんが、そういったものにどう取り組むかは、自分の重要な関心の一つです。どうぞ、これからもよろしくお願いします。
早川氏は普段の言動が専門家とは思えないほどおかしいです(言ってることが非論理的)。だから、そのエントリも叩かれました。過去の早川氏の言動を考慮せず、その件だけで擁護するのは、あなたの評価を下げますよ。
だいたい、あなたといいたいことって要約すると「お前らいじめっ子だろ」「俺は先生しエライから中立だぞ」っていう、根拠の無い上から目線の内容です。社会的に、かつ、科学的にオトナになってくださいね。
管理人より:早川氏のコメントについては、「補足2」で訂正・撤回しました。ご指摘ありがとうございました。
多分、情報学ブログさんの観察が違っているように思います。
もともと、この話の発端は、K2シロップの不投与により幼児が死亡した件です。そして、たくさんの人が非難をしているのは、子供の命に関わることだからです。別に科学を否定すること自体は、たいした問題ではありません。これが「相対論は間違ってる」な話であれば、これほどもりあがらなかっただろうことは太鼓判を押せます(^^;
なので、「ずっと穏健に科学の相対性を主張し」た早川先生が非難されるのは「子供が死ぬから(NATROM先生が端的に言い切ったように)」であり、情報学ブログさんがメタなことを議論したいのであれば、「子供の命が大事という命題の相対性」を語ればもうちょっと何が言いたいのか伝わったのではないでしょうか。科学の絶対性を否定されてヒステリックな反応といわれても、皆さんぴんと来ないというのもむべなるかなと。
#私も相対主義の話は出落ちで発展性も何も感じられないので勘弁して欲しいと思うくちでございますがm(..)m
管理人より:重要な論点だと思います。
「人権も相対的」というのは、本文で明確に書いていますよね?命の大切さも、時として相対的に考えなければいけない場合は多数あります(安全保障や、末期医療など)。たしかに、「ホメオパシーの擁護」と「人命の尊重」が単純に比べられる状況だったら、後者の方を取るべきだと思いますが、「本当に単純な問題なのだろうか」と考えられるのが、相対的視点です。
日本ホメオパシー協会の主張はめちゃくちゃな部分も多いですが、最近注目されている「医療を拒否する人はホメオパシーに限らずいる」という主張はもっともです。客観的にホメオパシーの<有害性>を主張するのなら、ホメオパシーの主張のあら探しをしても無駄で、「ホメオパシーの信奉者の方が、医療拒否の割合が高い」という数値的データが必要です。ところが、そんなもの見たことがありません。「一人死んだ」という理由でホメオパシーを攻撃するのなら、エホバの証人や排外主義を批判した方がよほど有意義です。
自分はホメオパシーに否定的ですが、それは「ホメオパシー関連の死亡事件があった」からではなく「科学ではない」(科学的視点)からであり、「人間が生きていく上で有用ではない」(メタな視点)からです。「死亡事件があった」から批判し、それ以外の視点を寄せ付けない。これは、マスコミの偏向報道に乗っかる人と同じ発想であり、現代社会の大きな問題です。こういう人を批判するために、本文を書いたと理解していただければ幸いです。
どうやら私も本文を読まずに批判した人間として扱われたようですね
それはともかく
レメディの効果を巡って
B2の立場の科学者がホメオパスを説得する場合の具体的内容について例示してください
医療はご専門外でしょうから説得内容の詳細の不備はかまいません。ただB1の立場の科学者(リアリティのある人物にしてください。空想世界にしかいないような極端な科学原理主義者では無意味)の場合との相違が分かるようにお願いします
本文中のB2科学者の擬似科学への対応は抽象的過ぎてさしたる意味がなく、またB1科学者との相違がなぜ生じるのか説明に乏しかったので、以上お願いします
管理人より:具体的な科学者を挙げろという指摘については、本文を読んでいただければ分かるように、「はてなブックマークに科学原理主義的な態度で書き込む人がいた」というのが話の出発点であり、批判対象が科学者だと明示はしていません(cf. 本文の補足1)。また、「B2科学者の擬似科学への対応は抽象的過ぎてさしたる意味がなく…」に関しては、どうして意味がないのか明確にしていただけないと、答えようがありません。
あなたにとっての「科学」の定義を書かずに、こんなエントリーを書いても無意味ですね。
大変誠実なエントリだと思いますが、おそらく彼らは
耳を貸さないでしょうね(既に「文章を読んでないけど
否定する」といっているはてなブックマークの連中が
いるようです)。あきれますね。
はてブ系の一部には何を言っても無駄なひとが多いですよ。
今後は余り気にされない方がいいと思います。
一部のネット利用者の異様さに関しては中川淳一郎氏の「ネットは馬鹿と暇人のもの」、菅原琢氏の「世論の曲解」という新書に詳しいです。ご一読を。
管理人より:自分がこのブログでテーマにしていることの一つは、「マスコミ」や「ネット」がいずれも、一方的な意見に傾いて他の視点を受け入れなくなる状況をどう解決すれば良いのかという問題です。どうかこれからも、一緒に考えていただけると幸いです。ちなみに、「世論の曲解」おもしろそうなので今度読んでみます。
では私の前のコメント中の「B2の科学者」等を「科学の相対性を理解しつつ科学を受容している人」と、「B1の科学者」等を「リアリティのある科学原理主義者」とした上で、再度ご回答をお願いします
はてブ云々は貴方が具体的に該当コメント等を示さない限り反則です(だから藁人形論法と言われるんです)
なお科学と擬似科学との摩擦ということが現実に生じている以上、具体的例示に結び付く可能性がない議論は、当面意味がないとされても仕方がないでしょう
貴方がより具体的な「レメディを巡るホメオパスとの対話」を例示すれば済む話です
管理人より:本当に補足を読んでいただいたのでしょうか?この記事で批判したいのは「主張」であって、「人」ではありませんだから、あえて「はてブのコメント」を話の出発点にしたのです。はてブのコメントなら、該当するものを見つけられる限り自由に批判対象を設定できるためです。「リアリティのある誰かを批判しようとしているはずだ」と勝手に解釈して批判するあなたこそ藁人形論法に陥っています。それから、疑似科学との対話については、本文で例示していているのに、さらに例示を求めるのなら、その理由を明確に述べるのがマナーでしょう。漠然と「具体的ではない」とか言われても答えようがありません。まさか、小説形式にしないと理解できないとかそういうことですか?
疑似科学を盲目的に信じている人と、
科学を盲目的に信じている人には、
対して差がないなと思いました。
学が付いている時点で、真理になどなり得ないと思うんですけどね。
科学をホンキで学ばれている人なら、私なんかより
「多様性」の素晴らしさをご存知なハズなのになぁ。
と、B1の人たちに向けてポツリ。
具体性を考えてなかったってことですね
「冷静に『なぜ科学は優れているのか』と説明することができる」という文言が具体的ですか
「『『正しいかもしれない』仮説は無数にあり…意味はないのではないか』という説得」とやらは科学原理主義者にも可能であり、また具体性・擬似科学への説得力に欠けると思います
管理人より:具体的に考えてないのではなく、あなたの批判に対して、私には追加の具体例を出す義務がないと言っているだけです。批判に対してそのまま応えるのではなく、「無意味な批判だ」と返したわけです。もし、あなたが「この記事は有意義で素晴らしい。もっと議論を発展させるために、具体例について考えてみましょう」と言うのなら、違う対応になったと思います。
「科学原理主義者にも可能」かどうかは科学原理主義者の定義次第ですね。私は「相対的視点に立てない人、安易に相対主義を批判する人」を原理主義としているわけですから「科学原理主義者にも可能」ということにはなりません。
ポストモダンをかじった人(貴方がどうかは知らない)には、他人の主張の正当化根拠が実は相対的なものに過ぎないと批判することには熱心でも、じゃあどうすればいいのと聞かれたら沈黙・逆切れする人が多いんですよね
少なくとも現在の擬似科学批判の主流は、そのような相対主義をくぐり抜けて(科学が絶対ではないと自覚して)きたものなんです
典型的な藁人形論法ですね。この記事で問題にしているのは、「疑似科学を批判する人」ではなく、「安易に相対主義を批判する人」です。きちんと、相対主義をくぐり抜けている人は、相対主義を批判しません。きくち氏もそうでしたね。next49さんも、細かい議論上の問題について指摘があっただけで、「相対主義批判」はしていません。私が批判しているのは、きくち氏やnext49氏ではなく、あなたのように、「相対主義者は、疑似科学批判を批判している」と勝手に解釈して、藁人形論法で相手を批判するような人です。こういう人は、「科学的視点」と「メタな視点」を区別できていない。頭では分かっていても、議論の場では実践できていないのだと思います。
ホメオパシーを批判するなら相手の主張を最高のところで捕まえて云々と言われていた方が、原理主義者を俎上にあげて(厳密にはあがってないけど)得意になられても困ります
ちなみに藁人形論法は直接的には対立意見・主張を対象として行うものであり、常に特定個人を限定する必要はない(例「共産主義者は〜と主張しているが…」)
貴方が原理主義的主張を探してくればいいだけでしょう(あってもごく少数だと思いますが。私に探させて「そんな主張はなかった」と言えなんて悪魔の証明もどきは要求しませんよね)
私は「共産主義者」のように、既存のグループを指定した批判すら行っていません。「こういう主張をする人が原理主義者」とした上で、それを批判しているのだから、その主張がそれなりに見つかる限り、藁人形論法になりようがないのです。
やはり日本語能力の残念な方だったのですね
next49・きくち両先生の厳しい批判を貴方が「仮説推量を分かりやすく」とか「好意的なコメント」など自分に都合よく解釈したり、相手に呆れられているだけなのに「議論は収束」などと言われていたので薄々分かっていたのですが…
どうもお騒がせいたしました。より一層のご活躍を期待しております
あなたのような視点からすれば、next49さんやきくち氏の意見もそうやってしかとらえられないのでしょう。あなたの日本語把握能力が問題とは思いませんが、議論の仕方、論理のあり方についてはもう少し勉強された方が良いと思います。
全然関係ないですが、いわゆるポストモダン系(正確に言うと、現象学系)は個人的にはあまり好きではありません。言っていることはおおむね正しいと思いますが、議論に発展性がないと思うからです
> ポッペリアンさん
木を見て森を見ず、みたいになってるかと。
少し落ち着かれた方が良いと思いますよ。
ご自身が批判されたと勘違いして、
関係ない方向に議論が行っているだけです。
ポッペリアンさんとの議論を拝見するに
ここでは論理自体を扱っており、社会問題を現実に解決すべく議論するのでないってことでいいのですね。ブログ主さんの議論にはあまりリアリティを必要としない様に見えますので
(議論で派生した多様な意見のうちの解決策はあくまでも副産物ってことで)
管理人より:これはちょっと違うと思います。ポッペリアンさんとのやり取りについては、直接返答したのでそちらをご覧ください。
極端な言い方すれば、主さんはAの視点を言いたいがために衆目の集まる場所に
「人殺しするのもありだろ、だって~(以下、理由)」って書き込んだようなもの。
社会規範として当然「んなわきゃないだろ」ってツッコミが来たのを全てB1にカテゴライズしてるように見える
はてぶなんかパッと見で反論くるのにそんな人たちが多かったのを指して「蔓延する科学教」って言ってません?
たぶん書き込んだ人たちほとんどがB2の認識を前提として書いてますよ。
これはネットのように延々と長文書かないのが基本の世界では当然の事。
(これがネット世論になるって議論はありかもしれませんが)
これB1にいれるのは適切でないと思うんですが。
私は前エントリで「相対化する事はホメオパシーを有利にするだけでは?」というコメントをし「相対化のメリットだけを述べているので、リスクも併記すべきでは?」というB2的な主旨のことを書いたつもりだったのですが(私の文章の拙さからでしょうが)狂信的なB1にカテゴライズされてしまったようです。
自分は、一度も「人殺しするのもありだろ」って書いてないと思います。「人殺しがなぜいけないの?」という子供に対し、「社会秩序の維持のために必要」という答えが普通だとして、変わった子供は納得いかないで反論してくるかもしれません。これに対して、どう答えましょうかという話をしているんです。それに対して、あなたのような人は、「そういう奴らは放っておけ、その説明がかえって人殺しに<有利>になる」と批判しているのだと思います。
たしかに、どんな主張でも一部分を取り上げたり、曲解したりする人はいますから、私の主張を曲解してそういう解釈をする人がいるかもしれません。ただ、ホメオパシーの場合、コアな層は基本的に科学に疑問を持っており、科学をそのまま受け入れていない人です。こういった人を「切り捨てれば良い」というのは、社会的には看過できる態度ではないと思います。また、「切り捨てれば良い」という主張をする人は、やはり「異なる立場からの説明」を受け入れないという意味で原理主義的(B1的)だと思います。
たしかに、このあたりのロジック、つまり、「相対化する事がホメオパシーを有利にする」という主張がなぜ原理主義的かという話は、この記事では全く触れていませんが
発言する側と受け取る側とに齟齬がある場合どう解決すべきなんでしょうかね
最後にひとつ聞いておきたいのですが
「科学教でのB1層の人って現実にどれくらいいると思ってるんですか?」
ちょっと表現が錯綜していますが、「本文で言うところの科学教=B1に相当する人は現実にどのくらいいるか?」という趣旨の質問だと理解しました。数値的には分かりません。ただ、私が学問関係以外で日常的に出会う人のかなりの部分はそうだと理解しています。
他の方々との議論をここでするのは非礼だと承知してますが、ブログ主にはお許しを賜りますよう
コロさんへ
私は、科学の相対性を認めていますが、主さんの「科学」の概念規定自体は違うと考えています
前エントリで「社会的受容」の観点から、それではダメだという結論に至るように議論を進めていこうとしたのですが、主さんに事実上拒絶されました
そこでこのエントリでは、擬似科学と科学との具体的討論(レメディを巡るホメオパスとB2との対話)を、B1と比較しつつ主さんに示してもらうことによって、私がその不備を指摘しながら、主さんの科学概念を修正していただこうと思ってました
ただどうも主さんが何やかんやとおっしゃり、話が前に進まなくなったということです
一石さんへ
私は、主さんが示してくれるはずの具体的な議論の内容を吟味することにより、科学哲学の大問題である科学と非科学の境界設定問題にまで踏み込んでいければ、もしかしたら主さんの科学概念を修正していただけ、さらに科学と擬似科学とがいかに対話していくべきかについてヒントくらい得られるのでは、と思っていました
したがって私が関心のある問題は、実は社会的実践ではなく論理自体なのです
ただしこのエントリのようなテーマでは、社会的実践と隔絶された論理自体を議論しても意味がないと思って、コメントを繰り返したわけです
しかし主さんが私のコメントの枝葉にこだわられたため、徒労感重く、去りゆくことを決めたのです
コロさん、一石さん、有り難うございました
管理人より:自分がいなくても勝手に議論が進んでいくのが理想だと思っていますので、遠慮は不要です。詳細は上に書いのたで繰り返しませんが、一点だけ。自分個人の目標、このブログを開設した目的は、論理ではなく社会的実践です。ただ、あなたのように誤解したコメントを付ける人に、社会的実践の話をしても議論が錯綜するだけなので、まずは論理の話をするのが適切だと考えたということです。
お返事有難うございます。
別に、科学に対して主さんがどう思っていようと自由じゃないでしょうかね。
固執してようと、軽視していようと、自由では。
なので、
「ポッペリアンさんが主さんの思想を矯正したい」
のに、
「主さんが材料を集める」
というのは、些か横柄では。
科学が他のエセ科学と同じ、
「one of them」かどうかは、
ご自身の知識と判断によって決めればよい事では。
でも、今までの主さんのエントリをごらんになって、
科学を主さんが「one of them」だと思っている、と読まれたなら、随分な誤解をされてると思いますよ。
#前々回の題名に、脊髄反射しちゃったと言われても仕方ないと思います。
主さんの思考回路が理解できないのであれば、
「主さんは科学を軽視してなど居ない」
と思って、
再度読まれてみては如何でしょうか?
以上、ポッペリアンさんへ。
以下、戯言。
主さんが科学をその他大勢と一緒と考えているかどうかと、
このメタなお話とは、全然関連性がないと思ってます。
別に、材料は科学じゃなくてもいい話だと思いますし。
では、主さんの登場を待つということで、
横から失礼いたしましたm(_ _)m
管理人より:自分のあの説明を読んで、「科学がone of them」だと解釈したとしたら、まさに「科学についての議論とメタな議論を区別できていない」発想、本文で言うところの原理主義的な発想ですよね。このコメントを読んで納得した気がしました。
「異なる論理階型のものを区別しないといけない(=あるレベルの議論とメタな議論を区別しないといけない)」というのは、理屈の上では誰でも分かるのです。だけど、実生活上、これは非常に難しい問題です。自分もそういう間違いをに気づく瞬間はたくさんあったし、今も同じ間違いを犯しているかもしれません。なかなか根の深い問題です。
議論したいというより単なる感想ですが、読んでいて何かすごくモヤモヤします。
このモヤモヤの正体は何だろうと考えたところ、全体としては相対主義的なことを言っているのに、ここでいうB1の考え方については、はっきりとよくないものであるという立場をとっているためだと思いました。
科学(や他の何らかの思想)を信じる人が、自分の思想の相対性を自覚すべきであるというのであれば、非原理主義者は、非原理主義の相対性を自覚すべきで、原理主義を徹底的に攻撃することはできないように思います。
これに関していろいろ原理主義のデメリットを述べられていますが、これらの理由は私にはピンときません。
管理人より:マスコミでもネットでも「あいつが悪い」みたいな分かりやすい構図を描き、一体感を得ようとする主張が受けます。私の主張はそういう構図を批判するものなので、「もやもや」がなくならないのでしょう。ちなみに、相対主義の相対性は本文の主要なテーマで、それを乗り越える形の議論になっています。
ブログ主さん、ポッペリアンさんコメントありがとうございます。
主さんからのレスへの返答です。
>それに対して、あなたのような人は、「そういう奴らは放っておけ、
>その説明がかえって人殺しに<有利>になる」と批判しているのだと思います。
部分的にしかあっていません。「有利になる」と書いたのは確かですが、
「そういう奴らは放っておけ」というのは少なくとも私の意見ではありません。
>「相対化する事がホメオパシーを有利にする」という主張がなぜ原理主義的かという話
次エントリも拝見しましたが、「メタな説明が有害=原理主義的」このように主張されるなら確かに原理主義的でしょう。
私の主張は「配慮の足りないメタな説明は有害」ですよ。
違いわかりますよね?
私の主張は、「相対的化することでホメオパシーに有利になる可能性が高いため、その危険性に配慮すべき」です。
そして私の読解力では何度読んでもブログ主さんがそれを示しているとは思えません。
少なくとも「説明能力が高い」などという噴飯物の解決策で相殺されるとは考えられません。
ホメオパシー関連の他のエントリもふくめ、拝見させていただきましたが、
主さんはもう少し落ちついて各書き込みを読まれたほうが良いのではないのですか?
ある意見に勝手に何かを付け足して暴論に仕立て上げたり、他人の意見に具体的反証を求めるわりに自分の言説には既に説明しているとの主張のみで終わるなど、誠実な議論をなされようとしているとは思えません。
他人の書き込みを曲解や斜め読みと批判する前に、ご自分の身を振り返った方がよいかと思います。
一臨床医として最後に。
何故批判が多いのかというと、具体的な状況改善策がないわりに誤解を招きかねない言説を弄している点なのでしょう。功罪で功が全くなければ邪魔とみられてもしょうがない。
この題材で相対化、メタな議論なんてのは、もう何周も前に終わってる話。
それをするのがダメとはいわないが自覚はすべき。
管理人より:自分が言っているのは「コアなホメオパシー信者を説得するためには」という話で、この議論の「目的」が現実的かどうかには直接言及していません。単なる「思考実験」なのか、「大事な家族を説得する時に使える話」なのか、それは受け止め方次第です。「その説明では、結局説得できないじゃないか?」には、「そうかもしれないが、そう言うしかないよね。じゃぁ、無視すればいいって言うんですか?」と言うことになります。「そんなの分かっている」というコメントには、「別にあなたを対象に語っているのではないですよ」と返してきました。別に斬新なことを書いたと主張したつもりはありません。「そんなことを書くな」と言う人は、やはり何か「誤解/曲解」しているか「原理主義に陥っているか」のどちらかだと思わざるをえません。
ちなみに、ホメオパシーに関しては、こちらの記事であらためてまとめました→ホメオパシーの議論、7つのQ&A
>管理人より:本文にはそういうことも書きましたよね。
ちょっとよくわからない。
今回のエントリでは具体的に何行目から何行目ですか?
本文の「「ホメオパシーが科学的なものであると勘違いして、受け入れてしまうのを防ぐ」活動の重要性を否定するつもりはありません。」という記述と同じ趣旨だと思いましたが、違うようならあらためて教えてください
>「原理主義者が、自分のよって立つ基盤に正当性の根拠がないことに気づいてしまうことによる問題」
>・ 生きる根拠の喪失による問題(自殺、引きこもり)
>・ 規範の根拠の喪失による問題(動機なき大量殺人)
>・ 世界の基盤の喪失による問題(カルト宗教への傾倒)
>他者との交流の素晴らしさに根拠がないことを知った引きこもり
>社会規範に根拠がないことを知った動機なき大量殺人者
>マスコミの偏向報道を知ってネット右翼になった2ちゃんねらー
>科学の限界を知ってカルト宗教に傾倒する理系学生。
>全て、「原理主義的な世界観」に安住していた人の行き着く先です。
引きこもりになろうと思っても、なかなかなれないよ。素質がないとね。
殺人をやろうと思っても、なかなかできないよ。素質がないとね。
自己愛的なネット右翼になろうとおもっても、なかなかできないよ。素質がないとね。
カルト宗教にはまろうとおもっても、なかなかできないよ。素質がないとね。
だってボク、全部失敗したもん。
引きこもりは1時間で失敗したな。
「コイツ、ぶっ殺してぇ!」と思う奴はいないわけじゃないけど、実際出来ないよ。
ネット右翼は、傍目から見ると実にイタイよ。マジで。
カルト宗教そのものには関わったことがないけど、昔友人にアムウェイに誘われたことはある。
なんか勧誘の口調が実に胡散臭い。
当然断った。
その後そいつらがなんかボクのことを
ボロクソにいってたと友人にいわれたが、
どうせ勧誘に失敗したからムカついてただけだろ、
それより、オマエこそ正気か?といったら、
ムカついたらしくしばらく口を利かなかった。
困った奴だと思ったが、仕方が無いので、
ほうっておいた。
生きるのに根拠は必要ない。
何かするのに規範は必要ない。
この世界に基盤は必要ない。
それがボクの実感。
そう思えない人が少なからずいるのは知ってるが
きっとどっか身体が悪いんだろう。
まずいくつか。
~7つのQ&Aも読んでません。
一石ではありません。
このブログには、ウィキペディアの次に訪れました。
ネット上であると思いますが、よく分からない反発
をかっているようなので。
日本においては特定の宗教を信仰している人、
~教(徒)いう表現は
事実上差別用語になっているともいます。
それが「原理主義者」なり”相対主義者”であれ。
(海外に行くときは、とりあえず「仏教徒」ということを
お勧めします。)
あと、いくにんかの人には、
原理主義→イスラム原理主義→9.11
と連想されたのではないでしょうか?
私は、“ヨハネの黙示録”を本気で研究している人
程度にとらえましたが。
カギ括弧をつけても、意をくみ取ってくれない人もいます。
定義をしつこいほど、大きな文字で繰り返さないと。
あと、わたしのような
冒頭の、~魂~、科学は~を読んでない人も。
ちなみに前者については、私は唯物論者です。
科学と疑似科学について語るならば、
クーンのパラダイムと、ポパーの反証主義、
それぞれの、意見・反論に対して、
先回りして回答を用意しておくべきではないでしょうか?
昔、『現代思想の冒険者たち』で読みました。
Wikipedhiaを読み返しました。
不毛な論争で、
原理主義-受動的ニヒリズム-能動的ニヒリズム
についての議論が進まなかったことに不満があります。
勝手な想像ですが、現在でもそれぞれの間で
揺れているのではないでしょうか?
あと、“メタ~”について語るならば、
科学を題材にするより、論理学・数学
を題材にすべきだと思います。
「ラッセル」からのリンクでつながるはずです。
(私の関心の中心ではありません)
管理人より:たしかに、「メタ」の概念は、ラッセルのタイプ理論で定式化されて時代の主流になった面はあります。ただ、もともと一般的な状況で使われる概念です。「科学」と「科学についての議論」、「経済(お金の動き」と「経済についての議論(経済学)」と言った形です。そういう意味の「メタ」も大切だというのが、私の根本的な主張です。
ちなみに、ニヒリズムで話が盛り上がらなかったのは、たしかに残念でしたね。
知った上て語られたのであれば、失礼しました。
「有効な反論」を見つけるため、
少しネットサーフィンをしてみます。
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池田徳正さんが「ネットに蔓延する科学教を考える」という記事を書かれている。 http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-1933.html 自分は科学を技術知の延長線上に考えるプラグマティズム的立場だし、 宗教的には科学を「世俗知」とみなす立場に近いので、 (http://blogs.yahoo.co.jp/katsuya_440/61048157.html を参考にして欲しい) 決して科学教信者ではないが、 「科学教........ 続きを読む
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管理人より:本文にはそういうことも書きましたよね。