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ホメオパシーの議論、7つのQ&A

経済・政治・国際 | 2010/08/29

この記事は、「このブログで行われたホメオパシーの議論」に関するポイントの整理です。「私たちはホメオパシーをどう考えていけば良いのか」という主に社会的な問題について扱っています。

最近、ホメオパシーに関する議論が盛り上がっています。ただ、自分はある疑問を持たざるをえませんでした。「この議論はいくら盛り上がっても、ホメオパシーに大きな影響を与えないのではないか」。すでにコアな信者になっている人はもちろん、医療不信、科学不信の結果ホメオパシーに「はまる」ような人に対しても、それを防ぐ効果はないのではないかと言うことです。もちろん、「動機がないのに、なんとなくホメオパシーをやってしまう人が問題。コアな信者は切り捨てれば良い」という立場の人はいると思います。これが間違っているとは言いませんが、本当にそれだけで良いのか。そういう思いもあって、最近、科学やホメオパシーに関する記事をいくつか書きました。主なものは以下の2つです。

・ホメオパシーの否定には「科学の立場からの批判」と「相手の立場を踏まえた上での批判」の2種類があり、それを使い分けないと無駄な批判になってしまう(科学はホメオパシーを否定できない
・特定の視点とメタな視点は両立できるので、片方しか取れないと考えるのは間違い(ネットに蔓延する科学教を考える

少しでも多くの人に読んでもらいたいと思い、タイトルや冒頭部分は「釣り」(=関心を引くために、意図的に誤解させる表現)になっていますが、最後まで読めば誤解が解けるように書いたし、中身では結構大事なことを書いたつもりです。基本、第一セクションくらいまでが釣りですので、騙されやすい人はタイトルと第一セクションを読み飛ばしてください。おかげさまで「大漁」で、当然、誤解していると思われる批判もありましたが、無視できないような有意義なコメントも多数ありました。こうしたやり取りをコメント欄だけに置いておくのはもったいないので、Q&A形式で重要なポイントをまとめることにしました。ホメオパシー関連の議論が盛り上がる中、この記事が有意義なものになれば幸いです。

ちなみに、科学とは何かというような理論的な話については、この記事ではほとんど扱っていません。全ての疑問に答えられているわけではありませんが、簡単にまとめたのが、「科学はなぜ正しいと言えるのか」をまとめたこちらの記事と、上の二つ目の記事です。また、「釣り」と言っても、あくまで「誤解されやすい書き方をした」ということであって、間違ったことを書いたという意味ではないので、誤解には一通り反論しています。「付けたマッチは責任を持って消す」という責任意識でしょうか(笑)。

○具体的にホメオパシーをどう説得すれば良い?

もともとの結論としては「説得しようと思ったら、科学の限界を知らなければいけない」という話であって、「これに気をつければ説得できる」とは言っていません。ただ、書いたことの意味を明確にするために、「説得方法」をまとめるなら、以下のようになるでしょう。

1. まず、あなたたちには、あなたたちの世界観があるんですねと認める。
2. その上で、ホメオパシーが、科学とどう矛盾するのか(科学的に見たら、いかにおかしいか)ということを説明する。
3. 科学の方法論の方が優れている理由を説明する。特にホメオパシーのように「正しい」かもしれない仮説は無数にあり、それにとらわれない方が良いことを説明する。

自分の家族や恋人がホメオパシーの熱心な信者だったとき、常識的な人だったら、1は必ず言うと思います。また、知識のある人だったら3も言えるでしょう。3の中には、実際には、相手の生き方や社会の問題も入り、複雑な問題になるわけですが、いずれにせよ科学の問題だけでは無理だというのが自分が言っていることです。私のもともとの主張が、「科学って何なのかを理解して説得するべきだ」という曖昧なものになっているのもこのためです。この中には「説得を諦める」という選択肢も入るはずです。

○ホメオパシーは科学を使って説明しているんだから、科学で説得できるんじゃないか?

自分は、ホメオパシーが「今のところ科学では説明できていない未知の力がかかわっている」「本人の思い込みや実験者効果は無視できない」「治ったという体験がある」この3つの主張をしている時点で、カルト教団に接するのと同じように接しないとダメだと判断しています。なぜかというと、一つに、これらは「検証不可能」な主張であり、科学の範囲で判断できないからです。もう一つは、「治ったという体験がある」というのは科学の別次元での体験の共有を意味しており、批判すればするほど頑なになるだけだからです。

「ホメオパシーも科学を使って説明しているから、科学を受け入れるはずだ」と考える人は、おそらく疑似科学やカルトの人と対話した経験がないのだと思いますが、かなり認識が甘いです。彼らは「科学は完璧ではないが、その完璧ではない科学でさえ、自分たちを支持している」と言うロジックを使うからです。科学者が、科学を分かりやすく説明するのに、ことわざを使う場合があるけれど、それは全てのことわざを受け入れることを意味しませんよね。それと同じです。疑似科学は、「都合の良いように科学を使う」という芸当が可能なのです。まさに「疑似科学」である理由です。ホメオパシーのコアな信者を説得するのに、いくら科学的な実験を積み重ねても意味がないということです。

○「相対的な視点も取るべき」ということは、ホメオパシーを有利にするだけではないか?

私の議論は基本的に、「コアな信者を説得するためにはどうするべきか」という目的を設定して、その中で、主にホメオパシーと科学の関係を考察したものです。この目的が意味がないとか、良くないとか言う話はあるでしょうが、議論の正しさとは別です。その上で、議論の目的が良くないという「ずれた批判」はあるでしょう。

自分が言っているのは、ホメオパシーを相対化して、肯定するべきという話ではありません。科学の立場からも、メタな立場からも、ホメオパシーを批判すれば良いのということです。批判の理由や水準が違うだけであり、この両者を区別することを主張しています。それでも、「メタな立場を取ること」が、ホメオパシーを有利にするのではないかという批判があると思います。というのも、科学的な立場からの批判では「お前は間違いだ」と断言できるのに対し、メタな立場からの批判は、「こっちの方が良い」という話にならざるを得ないからです。相手次第では説得が無理だという可能性もあります。このことがホメオパシーを有利にするというはありえる批判です。

ただ、この理由でメタな説明は有害だという人は、疑似科学やカルトを甘く見過ぎだと思います。科学の立場からホメオパシーを批判したところで、コアな信者はビクともしません。また、科学に不信を抱き、治療拒否をするような人は、いくら社会的に非難されても新たにホメオパシーの信者になっていくでしょう。こういうことを踏まえれば、「メタな立場からの批判」も重要だというのは当然だと思います。

一方、「強い動機もなくホメオパシーにはまってしまう中間層」。こういう人がいたとして「科学的に批判するだけでは説得できるとは限らない」「メタな視点からもホメオパシーを批判するべき」という主張を見て、「ホメオパシーはやっぱり正しいんだ」と思うでしょうか。あまりにも現実的ではない仮定ではないかと思います。

○人が死んでいるのだから、相対的な視点を持てなどと言う悠長なことを言ってはいけない

これも私の議論に対する「ずれた批判」と言えると思います。上にも書きましたが、私が言う「相対化」は、ホメオパシーを肯定することではありません。ホメオパシーの世界観が成立していることを認めた上で、メタな立場からもホメオパシーを批判するべきだと言っているだけです。人が死んでいるからこそ、より有効な説明が必要だという考え方もできます。

以上が直接の反論ですが、ちょっと別の視点から考えてみます。日本ホメオパシー医学協会の主張は科学的に見てめちゃくちゃな部分もありますが、最近注目されている「医療を拒否する人はホメオパシーに限らずいる」という主張はもっともです。周囲の説得にかかわらず治療拒否をして亡くなる方は、ホメオパシーと関係なく、たくさんいます。ホメオパシーがこういう人の心の拠り所になっている面はあると思います。こういう人が「たまたま」事件を起こしたというのが、彼らの主張です。

<客観的>にホメオパシーの有害性を主張するのなら、「ホメオパシーの主張が治療拒否に結びつく可能性」をいくら指摘してもダメで、最低でも「ホメオパシーの信奉者の方が、治療拒否の割合が高い」という数値的データが必要ですが、今のところこういうデータはありません。また、ホメオパシーが治療拒否を誘発するのか、治療拒否をするような人がホメオパシーに傾倒するのかという因果関係の問題もあります。普通に考えて後者の影響はかなり高い気がします。この点をホメオパシー側から反論されたら、返す言葉はありません。

自分はホメオパシーに否定的ですが、それは「ホメオパシー関連の死亡事件があった」からではなく「科学ではない」(科学的視点)からであり、「人間が生きていく上で有用ではない」(メタな視点)からです。「死亡事件があった」から「徹底的に批判せよ」というのは、マスコミの世論操作の手段として有効ですが、そのことの弊害も考えないといけないと思います。もちろん、「正しいかどうかなんかどうでもいい、世論操作こそ重要」というのならそういう立場もあるでしょうが、少なくとも自分はそういう立場とは距離を置きます。

○ホメオパシーの批判者は、相対的視点を持った上で、あえて科学にコミットしているのであり、相対的視点を持てというのは意味がない

疑似科学に詳しい人の中には、科学の立場からの説明に絞る代わりにコアな信者の説得は諦め、良く分からずに騙される中間層を食い止めることだけを目指すという人も少なくありません。これは科学の限界を踏まえた誠実な態度です。ただ、これはあくまで「コアな信者切り捨て」を前提に許される作戦です。こういった立場を自覚している人であれば、私の議論を批判する必要はないでしょうし、自分もそういう人を批判するつもりはありません。

最近、ネットでホメオパシー問題を知った人の中には、まだ、この当たりの切り分けができていない人も多いのではないかと思います。特に、「人が死んでいるから」「ホメオパシーを有利にするから」という理由でメタな立場からの批判を拒否する人の中は、この当たりを理解していない人も多いのではないかと思います。

ちなみに、自分の友人のうち、学問的つながりの人を別にすれば、「相対的視点を持った上で、あえて科学にコミットする」立場を取れる人はかなり少数派だと思います。「科学的に間違い」と言われたら「けしからん」と反応し、「科学の相対性」と言ったら「カルト擁護か?」と反応するのが普通でしょう。「大部分の人が、相対性を理解している」というのは、正直、感覚的に納得できません。

○その方法で本当にホメオパシーの人を説得できるのか

分かりません。もともとそういうことを問題にしているわけではありません。ただ、科学を相対化していない人は、コアな信者100人に話しても一人も説得できないでしょう。実際、説得できたという話は全く上がってきません。しかし、相対化した上で説得する人は、100人のうち何人かは説得できるかもしれません。もっと多いかもしれません。少なくとも可能性があります。これは理論上の問題です。無理なのと、できるかもしれないのは違います。

○相対主義者は、自分の立場まで相対化されるので矛盾するのでは?

自分は「相対化する視点を取れることが大事」と言っているだけで、いわゆる相対主義者(何でもかんでも相対化すれば良いとする立場)ではありません。相対化する視点も踏まえながら、あえて特定の立場を取ることの重要性を主張しています。

このことは、もちろん「相対化する視点を取るべき」という主張そのものにも、ブーメランのように返ってきます。「相対化する視点を取るべき」というのも特定の視点からのものでしかありえないからです。一般に、特定の視点を取るべきという主張が成り立つのは、その視点が「有用」だからです。ホメオパシー問題の場合、「そうした立場を取ることがホメオパシーを説得する上で有用」ということで初めて相対的な視点が肯定されるのです。自分が一貫して「ホメオパシーを説得する方法を考えよう」という立場を取っているのは、こういう理由もあります。

○番外編:偉そうにああだこうだ言いやがって、とにかく釣りタイトル付けるな

・大事な問題に釣りタイトルを付けるなんて不謹慎だろ!!
・そんなの分かってるわ。釣りタイトルに騙されて時間の無駄だっただろ。時間を返せ!!

すいません。今後は気をつけます…なるべく^^。

まぁ、上の2つのように、ちゃんと分かった上での「釣り批判」は受け止めますが、実際には、全部読まないで脊髄反射的に批判した人もいたと思います。そういう人は気の毒ですが自業自得でしょう。

○おわりに(8/31追記)

最初のエントリー以来、誤読の類を否定するのでいっぱいで、「この記事では表面的にどういう問題が設定されていて、それに対してどう答えている」という話に終始してきました。つまり、「コアな信者を説得するためにどうするべきか」という(現実離れしているかもしれない)議論の目的を設定し、それに答えているのだから、間違いではないという立場です。この議論の目的を認める限り、ほとんどの批判は「誤解」になります。この記事でもその延長線上で「公式見解」をまとめました。ただ、「公式見解」における「コアな信者を説得するために」という問題を設定した理由が弱いというのは事実でしょう。誤読的な批判も少なくなってきたので、そろそろ、本来的な私の意図、本当の「書いた動機」を書きたいと思います。これは本文で書いた話(コアな信者を説得するためにどうするべきかという話)と区別されるべき、別の次元の話です。

AKB48に熱狂する若者だって、会話をすると「俺って痛いですよね~」と言います。最近元気のないネット右翼も(ごく一部の熱狂的な人間を除いて)ある種の「痛さ」を理解しているでしょう。これは、社会的にもっと共感を得られる問題でも同じです。大きな殺人事件があったとします。「裁判費用がもったない」「弁護する弁護士も同罪」という人もいますが、大部分が司法制度を尊重しています。また、同情したり社会的観点から原因を考える人もいます。現代社会で「人を殺してはいけない」という規範を共有しない人は異常ですが、一方で多くの人は規範が人為的なものであり、それでもあえてコミットしているということを自覚しているのです。知的エリート層は当然として、知的中間層もこのくらいのことには分かっているでしょう。だから、医療や外交の問題を考えるときはともかく、通常の殺人事件に関して「人を殺してはいけないという規範を相対化するべき」ことをあえて言おうとは思いません。

ただ、ホメオパシー批判はちょっと異常です。一方的な批判しか見られない。これははっきりいって気持ち悪い現象だと感じます。科学は現代社会のコミュニケーションの前提であり、これと異なるニセ科学に対し「異常」という認識を持つのは当然です。だから、どれだけ異常かを挙げることは良いのですが、「痛さの認識」もないと、カルトと一緒です。でも、専門的に疑似科学に取り組んできた人ならともかく、この問題に関して、最近、関心を持つようになった中間層が、どれだけ「痛さ」を理解しているのでしょうか。ホメオパシー批判の社会的意義を超えて、「集団的熱狂」状態になっている面もあると思います。そこで、「コアな信者を説得するために…」という問題を設定し、それについて考えることを通して、こういう「痛さ」を気づいてもらいたかったのです。端的に言えば、「こういうずれた視点も必要だよね」という話ですが、そういう言い方は今どきあまりにも陳腐で痛いので、「コアな信者を説得するために」という問題を設定したわけです。自分はブログで、「マスコミの主張と反対を書く」というポリシーでいますので、自分と同じ意見が一般的だったら逆のことを書いたと思います。

今から考えると、「この記事では表面的にどういう問題が設定されていて、それに対してどう答えている」という話に終始してしまった自分も、当初の問題意識が見えなくなっていたという意味で、ちょっと「痛かった」のではないかと思います。また、の設定が、本来の意図を伝えるのに伝わりやすいものだったか、他に方法はなかったのかは、今後検討しないといけない問題でしょう。

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ネットに蔓延する科学教を考える

経済・政治・国際 | 2010/08/25

この記事は、主に科学のとらえ方、相対的視点の重要性とその限界(相対的視点だけじゃダメということ)について説明する記事です。

ホメオパシーについては「ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線」が最新ですので合わせてお読みいただけると幸いです。

○この記事を書こうと思った理由

自分は、「科学教」という言葉を好んで使う方ではなかったのですが、最近、少し考えを変えました。きっかけは、先日、以下のようなことを書いたことです。簡単にまとめると以下のような内容です。

・科学が疑似科学を否定しようとするとき、科学を受け入れている人が分かるように説明することはできるが、そうじゃない人も分かるような説明ができるとは限らない。
・ただ、否定できない状況であっても、そもそも科学とは何かということを踏まえれば、説得できるかもしれない。疑似科学を説得しようとするとき、こうして科学が置かれた状況を理解することが大切ではないだろうか。

科学はホメオパシーを否定できない

この記事に対し、はてなブックマークのコメントには、「科学を否定するのはおかしい」と言う趣旨のコメントがたくさん付きました。自分は決して、科学を否定してるわけではないのですが…。どうも、「科学とは別の正しさもある」という考え方が、彼らに受け入れられなかったようです。

もちろん、特定の状況で科学の立場を取ることが間違っているわけではありません。科学に関する議論の大部分はこれで良いでしょう。しかし、議論の目的や対象によっては、別の視点から考えないと、議論にすらならない場合があります。こういうときにも「科学以外の立場を取るのはダメ」という立場は、「科学原理主義」「科学教」と言うことができます。

では、どうして「科学原理主義」ではいけないのでしょうか。この記事では、こういった疑問に答えるため、「科学の視点」と「科学の立場を相対化する視点」が両立するということ、こうして「メタな視点を取れること」の重要性とその限界(相対主義ではダメだということ)を説明したいと思います。

ちなみに、この記事では、「メタな視点も取れることの重要性と、その限界」一般について説明しているので科学については詳しく説明していません。これについては、ごく簡単にではありますがこちらに書いてあります(仮説と方法論の違い、科学の有用性と説明能力など)。また、議論の全体について、ホメオパシーの議論、7つのQ&A」で若干ですが補足しています

○ものごとをとらえる視点

ものごとは、どの視点で理解するかによって、違って見えることが多くあります。いくつか例を挙げますが、いずれも全く同じ構造をしていることがポイントです。

1.人を殺してはいけないのはなぜか
A:そんな理由などない。人を殺してはいけないなどというのは、今の社会で成立している恣意的な規範であって、時代や文化が変われば、成り立たなくなることもある。
B:人を殺してはいけないというのは、人間社会を成り立たせるために重要な規範。Aのような立場は、殺人を奨励していることになって許されない。

2.科学は絶対的なものか
A:科学が絶対的だとする根拠などない。科学というのは、現代社会で広く受け入れられた、有用かつ説明能力の高い方法論だが、絶対的に正しいという根拠はない。
B:科学は、現代社会において客観性を担保する唯一の方法である。Aのような立場は、疑似科学を奨励することになって許されない。

3.人権は絶対的なものか
A:国家によって保証される人権も、国際社会の調整手段としての人権も、いずれも人為的なものであり、絶対的に正しい概念ではない。
B:人権概念は、人類の叡智の集積である重要な考え方。これを否定するAの立場は、人殺しと同じ。

4.数学は絶対的真理か
A:数学は閉じた体系であって、数学の外に根拠を求めることはできない。
B:数学は科学を初めとする人間の知的活動の基盤。Aは頭がおかしい。

Aの立場では、しばしば対象を「フィクション」(=恣意的、人為的ことの比喩)と呼んだり、「底が抜けている」(=外部に根拠を求められないことの比喩)と呼んだりします。科学だって、人を殺してはいけないという規範だって、数学だって、その内部でしか根拠がない。これは、現代思想で常識中の常識です。

こうしたAの立場から考えると、Bの立場は、一見して、独善的で、非論理的であるように見えます。

しかし、Bの立場は、これはこれで重要なのです。実のところを言うと、私たちは、何らかの意味で「フィクション」であり、「底が抜けている」ものに基づいてしか、ものごとについて議論をすることができません。人間のあらゆるコミュニケーションの枠組みが、フィクションであり、底が抜けているのです。したがって、「フィクション」(=恣意的)であっても、「底が抜けている」(=外部に根拠を求められない)ものであっても、それをあえて「選び取っていく」「信頼していく」しかありません。

つまり、AとBの立場の違いは、根本的には、「とらえ方の違い」「立ち位置の違い」ということになります。一見するとAの立場の方が一般的で優れた意見のように思うかもしれませんが、そもそも、私たちは何らかの「視点」に立ってしか議論をすることができないことを踏まえると、どちらも対等であるとさえ言えるでしょう。

これを、論理学では「メタ」という言葉で表現します。この言葉を使うと、科学の立場からの議論に対して、科学そのものの正当性を問い直すような立場からの議論を「メタな議論」「メタな視点からの議論」と言うことになります。一般に、ある視点からの議論と、メタな視点からの議論は矛盾しません。一見して結論が異なっても、そもそも別のことを言っているのです。

○原理主義とニヒリズム

ただ、AとBは対等だとしても、「原理主義」が良いということにはなりません。同じBの立場を取るにしても、

B1 相対性を一切認めず、自分の立場だけに凝り固まる人(原理主義的)
B2 相対性を自覚した上で、あえて自分の立ち位置から語る人(非原理主義的)

これは全く異なるからです。B2の立場を取る人は、Aの立場を経由した上でB2の立場を取っているのです。したがって、Aの立場の人を批判したりしないし、(疑似科学のように)異なる立場の人にも、説得力のある説明をすることができます。時にはAの立場を取り、時にはB2の立場を取るというように、自在に立場を使い分けられるのです。疑似科学であれば、冷静に「なぜ科学は優れているのか」という説明をすることができるのが、B2の立場の特徴です。これに対し、B1の立場を取る人にとって、Aの立場は自分の存在を脅かすものとして受け止められます。Aという現実を知って恐れ、おののき、感情的に批判するしかないのです。そしてB1の立場の人は、(疑似科学のように)自分と異なる立場の人と、永遠に解決することのない不毛な争いを続けることになります。

要するに、B1の立場の問題は、特定の立場から語ることそのものではなく、ある視点からの議論と、メタな議論を区別できないことにあるのです。こうして「ある視点とメタな視点を区別できない」ために、異なる意見を感情的に批判したり、不毛な対立を引き起こしたりする人は、端的に言えば、「原理主義者」です。科学に関して言うと、「科学教信者」「科学原理主義者」ということになるでしょう。

これに対しB2の立場は、一般的な表現で言うと、「ニヒリズム」です。ここで言う「ニヒリズム」は、日常用語としてのニヒリズムと異なり、「外部に正当性の根拠を求めず、力強く生きていく」といった意味です(この意味でのニヒリズムを、能動的ニヒリズムと言う場合もあります)。また、「プラグマティズム」も、本来は「外部に正当性の根拠を求めるのではなく、実践そのものを重視する」という考え方なので、近いものがあるでしょう。ニヒリズムと、プラグマティズムは、正反対のイメージを受けますが、両方とも、メタな視点を意識しているという共通点があります。

自分がこのブログの開設以来、一貫して伝えようとしているのは、さまざまな分野におけるB2の視点の重要性なのです。

○原理主義の何が問題か

さて、「原理主義」とは何なのかが分かったところで、「科学教」「科学原理主義」に話を戻したいと思います。

科学原理主義の問題はいろいろありますが、その一つは疑似科学との関係で明らかです。というのも、科学原理主義は、疑似科学の内側の人を説得する上でも有効ではありません。科学を「あえて選び取っている」人(B2の立場の人)であれば、「あなたの言うような『正しいかもしれない』仮説は無数にあり、あえてその仮説を取り上げる意味はないのではないか」という説得ができます。しかし、科学原理主義者はこうしたメタな視点からの説得をすることができません。科学原理主義者はメタな視点を取れないため、根本的な意味で疑似科学の人と対話することができないのです。もちろん、科学原理主義者でも、「一般の人が、ホメオパシーが科学的なものであると勘違いして受け入れてしまうのを防ぐ」程度のことならできるでしょうが、それ以上のことはできないでしょう。これは、疑似科学の批判者の間でも良く知られている通りです。

とは言っても、科学原理主義が、単に科学に関する原理主義でとどまっているうちは、それほど実害がないかもしれません。科学原理主義者の疑似科学批判(特に、はてブあたりで騒いでいる人)は、疑似科学の内側には届かないとは思いますが、無視されるだけだからです。ただ、重要なのは、どのような原理主義も「メタな視点を取れない」という論理的には全く同じ構造をしているということです。したがって、科学原理主義の立場を取る人は、他の分野でも無意識のうちに、原理主義に陥ってしまう傾向が高い。このことは、社会的には疑似科学よりもずっと大きな問題ではないかと思います。

こうした「原理主義の問題」には大きく分けて、二つあります。一つは、「特定の立場に凝り固まって外部が見られなくなることによる問題」、たとえば次のようなものです。

・ 言論上の立場が一方的になってしまうという問題(偏向報道、ネット右翼等)。
・ 問題のある社会制度を放置することになる問題
・ 社会全体が政治的に不寛容になることによる問題

これは、それぞれ非常に重要な問題でありますが、一般的にも良く言われることなので、詳しくは説明しません。ただ、もう一つ重要なのが、「原理主義者が、自分のよって立つ基盤に正当性の根拠がないことに気づいてしまうことによる問題」ではないかと思います。

・ 生きる根拠の喪失による問題(自殺、引きこもり)
・ 規範の根拠の喪失による問題(動機なき大量殺人)
・ 世界の基盤の喪失による問題(カルト宗教への傾倒)

他者との交流の素晴らしさに根拠がないことを知った引きこもり、社会規範に根拠がないことを知った動機なき大量殺人者、マスコミの偏向報道を知ってネット右翼になった2ちゃんねらー、科学の限界を知ってカルト宗教に傾倒する理系学生。全て、「原理主義的な世界観」に安住していた人の行き着く先です。現代社会に生きる私たちは、それなりの知性がある人であれば、誰でも「正当性の根拠の喪失」という問題に突き当たらざるを得ないからです。

もちろん、決して、科学が悪いのではありません。B2の立場のように、能動的に科学を受け入れるのなら、科学は自分の人生を、そして社会を豊かにする重要な手段になります。しかし、「科学原理主義」を初めとする原理主義的思考は、私たちを生きることから疎外し、さまざまな問題を引き起こすのです。

○おわりに

私自身は、自分が生きる上で科学を受容しているし、自分がかかわるような社会的コミュニケーションの前提の一つとして、科学があると考えています。だから、「ホメオパシーが科学的なものであると勘違いして、受け入れてしまうのを防ぐ」活動の重要性を否定するつもりはありません。ただ、こうした活動は、朝日新聞の精力的な報道と、日本学術会議の声明で良い形で認知され、一段落が付いたのではないでしょうか。もちろん、マスコミや疑似科学批判を専門にしている方にとっては踏ん張りどきなのかもしれませんが、私たち一般のネット民が、今さら「科学の立場からの」批判を盛り上げるすることにそれほど意味があるようには思えません。

むしろこの機会に、科学や規範、制度など、自分たちがよって立つ基盤そのものを考え直すことの方が、疑似科学を批判するためにも、社会全体の制度設計や、私たち自身の生き方の観点からも、ずっとずっと大切なのではないかと思います。

○ 改訂履歴

9/3 冒頭のセクションの内容が間違っていたので「補足」で訂正していたのですが、分かりづらいので、冒頭のセクションのみ、内容そのものを書き換えました。(旧バージョン

9/5 最後のセクションに対する批判に答える意味で若干変更(変更点は太字と削除線)

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科学が論理ではないけど正しい理由

| 2010/08/10

科学は論理では示されないし、間違えることもある。さすがに科学の現場にいる人は、何となくでも分かっている人が多いのだろうけど、みんながみんなそういう知識を持っているわけではない。今後、こういう話題に触れたときのためにも、簡単に説明しておきたいと思う。ちなみに、実際の内容は「科学は論理ではないし、間違えることもあるのに正しいと思われているのはなぜか」といった内容なのだが、元になった議論が「科学は論理か」だったので、タイトルが「論理ではない」になっている。

◎仮説推量

科学は実験によって仮説の正しさを証明すると言われるが、実験はそれだけで仮説の正しさを示すとは限らない。

たとえば、「水は分子でできている」という仮説を科学がどうやって示すかを考えてみる。科学は、「水は分子でできている」という仮説が正しいことを示すために、実験をし「水は分子でできている」という仮説が、観察1,2,3...nを説明できることを示す。これを「仮説推量」という。

ただ、仮説推量は「間違った結論を導くパターン」の典型であり、間違える可能性もある。たとえば、「スパゲティ・モンスターが全てを司っている」という仮説でも、1,2,3...nを説明できる。というように「仮説推量」はあくまでたくさんある仮説の一つを提示するだけであり、それが正しいということが証明されたわけではない。

つまり、実験によって仮説は論理的に示されないし、間違える可能性もある。*1

◎科学的方法論

では、なんで科学的知識は正しいと思われているのか。それは、科学が科学として独自の方法論を持って、その中で正しさを追求しているから。

ただ、科学的知識は、どのような方法論を使おうとも、直接的には現在の科学的知識によって検証されているだけである。科学的知識の条件に「検証可能性」があると言われるが、検証可能性とは、将来、新たな科学的知識が見つかったときには、それによっても検証される「可能性」であり、その結果、間違いだとされるかもしれないということを含んでいる。

つまり、科学は論理的な正当性を持たないし、実際、科学的方法論に基づいて得られた知識が、後で間違いだとされる場合がある。

◎社会的受容

科学の方法論は、論理的に正しくなく、しかも実際問題として、間違える可能性があるのになぜ受け入れられているか。

科学は、神や幽霊といった説明よりも、はるかに精緻に世界を説明してくれる(説明能力)*2。また、人間の生活を豊かにしてくれる(有用性)。こうしたことによって、私たちは検証可能性を初めとする科学の方法論が優れていると考え、それを信頼して生きている*3。ここで大事なのが、「説明能力」や「有用性」は、「合法性」とか「道徳性」と同じように、時代・文化によって変わる、普遍性のない概念だということ。だから、科学の方法論を受け入れるかどうかは、やはり論理的な問題ではない。

これは、科学を受け入れないが、矛盾しない知識の体系がありえること、科学はそうした知識の体系を否定することができないということを意味している。こうしたものの正当性は、根本的には「説明能力」や「有用性」によって判断するほかないが、これは科学の問題ではない。

ちなみに、ここで、ありがちな誤解に注意しておかないといけない。「社会的受容」を、科学の個別の知識に当てはめて、「科学的知識は、文化的・社会的問題に決まる」としてしまう誤解がある。こんなことを言ったら、当然、科学者は猛反発するだろう。社会的に受容されているのは、検証可能性を初めとする科学の方法論全体であって、個別の科学的知識ではない。あくまで、個別の科学的知識の正しさは、科学の方法論によって確保されており、その科学の方法論の全体が、社会的に受容されることで正当性を確保している。

また、科学が(個人で、あるいはコミュニティで)完全に受容されてしまった状態では「社会的受容」がされていることが見えなくなってしまうので、科学の方法論が真理探求の絶対的原則であるかのように見えることが多い。

◎まとめ

科学の正当性は「仮説推量」「科学的方法論」「社会的受容」という段階を経て確保されていて、いずれも論理の問題ではないし、絶対的な正しさを主張するものでもない。科学に関する誤解のいくつかは、この3つを混同してしまうことから来ている。

ちなみに、以上の議論で「論理」というのは、「科学の論理」とか言うときの論理と意味が違うので注意。


*1 上の説明は、科学的知識のうち主に「理論」に関する知識に当てはまるもの。「沸点上昇」「高温超伝導」のように「現象」に関する知識は、「帰納」によって示される。帰納は論理的には間違いを導く場合があるが、経験的に正しい結論を導くものとされる。
*2 「説明能力の高さ」は、科学的方法論の一部でもある。科学的方法論において、科学的知識は、「その知識がない場合と比べて、現象がより良く説明できる」ものでなければいけない。ただ、本文では、科学的方法論における個別の科学的知識の「説明能力の高さ」と、科学全体の「説明能力の高さ」を分けて考えている。
*3 「信じている」と言うと反発する人がいるが、「信頼」と「信じている」の違いは、社会的な評価の問題。「社会的評価」の是非そのものを議論しているときに、両者を区別しろというのは、議論の趣旨を理解してないからだと思う。「信頼」と言ってしまうと、結論を先取りしていることになる。

◎修正履歴

8/10初版 (link)
8/12第二版 (link) コメント欄の議論を元に、自信がなくなった部分を削除。後で良く考えてみたら、間違ってはないという判断に達したが、分かりづらかったことには変わらない。
8/13 第三版 1段落目の「ちなみに..」の部分と注を付けたのが主な修正点。それに合わせて他の部分も若干修正。

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「科学はホメオパシーを否定できない」への批判に反論する

経済・政治・国際 | 2010/08/09

この記事は、「科学はホメオパシーを否定できない」に関連する細かい議論についてのものです。重要なものは元記事に追記しているので、まずはそちらをお読みください。ホメオパシー関連の議論は「ホメオパシーの議論、7つのQ&A」が今のところ一番まとまっています。

先日書いた「科学はホメオパシーを否定できない」はものすごい数のアクセスをいただいたのですが、誤解に満ちたコメントが多かったことに驚きました。ちゃんとした批判だったら嬉しいのですが、批判の方向性が違うのです。自分としては「そうそう、まさにそういうつもりで書いたんですよ」というものが半分以上、残りの多くも誤解していているものコメントが大部分でした。やっぱり、こういう話はネットでは難しいのかなと思ったり、自分の文章の下手さを反省したりしました。

そんなところ、発声練習というブログを運営するnext49さんの、「『情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できない』に賛同できない点」、という記事を見つけました。この記事は、はてなブックマークにあったような誤解をまとめたような記事で、まとめてして非常に良くできているのです。これを参考にしながら、前の記事の解説をしていきたいと思います。

さて、最初は発声練習の記事と関係ないのですが、基本的なところから説明します。

◎タイトルについて

前回の記事において、本文では、「科学的」な(科学の立場からの)ホメオパシーの否定と、ホメオパシーの立場からの否定という言葉を分けた上で、科学はホメオパシーを「科学的」には否定できるが、ホメオパシーの立場からも分かるような否定をできないと結論づけています。タイトルの「科学はホメオパシーを否定できない」というのは、ホメオパシーの立場からの否定の話であり、「科学的」な(科学の立場からの)否定の話ではありません。

これに関して、next49さんを初めとする大部分の人は意図通りに読んでくれたと思うのですが、一部見当違いのコメントがあったので、念のため確認しておきます。

◎ホメオパシーが科学であると偽装していることについて

ということで本題です。

ニセ科学に関する問題が起こるのは、科学でないものが科学を装うから。なぜ、科学を装うかといえば、科学の権威主義的側面を利用して、知識が少ない人を騙そうとするため。ここが、問題。ホメオパシーは完全にニセ科学の条件を満たしている。(参考:ニセ科学を問題にするとはどういうことか)

「情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できない」に賛同できない点/発声練習

また、コメント欄では、熱烈な信奉者を説得するのは無理にしても、大多数の中間層が、これ以上間違った方向に行かないことが重要だという指摘をいただきました。

自分はいずれも大賛成です。日本ホメオパシー協会によるベンベニスト論文の引用の仕方は、詐欺と言われても仕方ないでしょう。「科学ではないのに科学であることを装っているニセ科学」に対しては、科学の立場からそれが科学ではないと言えば良いのです。これは非常に重要なことです。

ただね、こういう批判だけで批判したつもりになることに反対なのです。たしかに、日本のホメオパシー協会は、不用意な発言をしていると思いますが、ホメオパシーの賛同者には多様な人々がいます。ホメオパシーの本家とも言える、欧州やアメリカにも根強い人気があります。こういう状況で、相手の細かい「戦術ミス」のようなものを取り上げて批判することは本質的ではありません。日本ホメオパシー協会は潰れても、他のホメオパシー信奉者が「あれは間違っている」と言って勢力を伸ばすかもしれません。何よりホメオパシーの信奉者には素朴な科学不信、医療不信がある場合が多いので、この程度の話は受け入れないケースが多いでしょう。つまり、表面的な批判は、批判として正しいかもしれないけれど、「致命傷を与えていない」ために、ゾンビのように生き返ってくる可能性が高いのです。

以前、ある先生に次のようなことを言われたことがあります。

「批判をするときは相手の主張を、最高のところで捕まえて、それを批判しなければいけない」

たとえば、相手に議論上のミスがあったら、助け船を出す。それで相手の主張のもっともコアなところをあぶり出し、その上でそれを否定する。ゲームでたとえて言うなら「雑魚キャラは放っておいて、ボスを倒す」みたいな発想と言えば良いでしょうか。自分が言っているのはそういうことです。安易にニセ科学としてホメオパシーを批判して終わりにするのではなく、もっと本質的な問題としてホメオパシーについて考えてみようという話です。

ちなみに、このことと、「ホメオパシーは科学ではない」と訴えることの重要性とは別です。それはそれで行っていけば良いのです。これは役割分担の問題とも言えます。

◎本当に疑似科学の信奉者を説得できるのか

これとの関係で、本当に疑似科学の信奉者を説得できるのかという立場からの批判がありました。前回の記事では、

「科学者が疑似科学の信奉者を説得するために語りかけるとしたら次のようなものでなければいけません

科学も疑似科学も、所詮、世界を説明する理論の一つに過ぎない。しかし、科学の方が圧倒的に説明能力が高いのだから、私たちは科学の方を信じるべきではないだろうか

科学はホメオパシーを否定できない/情報学ブログ

と書いたのですが、これに対して、「結局、説得できないじゃないか」という反論をいただきました。絶対に反論できないというのは違うと思いますが、限られた時間の中で「説得できないことも多いじゃないか」ということについては、否定するつもりがありません。これについてはやはり、next49さんの次の指摘がまとまっています。

一方で、ホメオパシー信奉者を論理的に説得することのコストは高いので、それよりも、ホメオパシーを信奉するに至った個人的経緯を解きほぐしてあげたほうが、ホメオパシー信奉者をホメオパシーから引き離すのには有効なように思える。

「情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できない」に賛同できない点/発声練習

私の言ったような方法で疑似科学信奉者を説得するコストが高いというのはその通りです。なぜなら、疑似科学信奉者に、科学に関する幅広い知識を教えないといけないし、疑似科学のロジックをある程度理解しないといけないからです。

でも、「ちゃんと対話できるんだ」っていうこと。私はこれが重要だと思っています。科学と疑似科学の関係を普通に考えていくと相対主義に陥ってしまいます。お互いに対話が成立しないで終わり。それに対し、たとえ道は遠くても、いつか必ず分かり合える時が来るんだっていうのが自分の意見です。「個人的経緯を解きほぐす」方法にはさまざまなものがあると思いますが、「対話できる可能性」があるからこそ、そういう手法が使えるという可能性もあります。

「たとえ道は遠くても、いつか必ず分かり合える時が来る」っていうのを「机上の空論。議論するだけ無駄」って考える人もいるかもしれませんが、そういう人とは議論が平行線となり噛み合わないと思います。それは、どこまで言葉の力に希望を持つかという主観的な問題だからです。

◎二重盲検法の議論の目的( next49さんからの二度目の批判(link)を受けた追記(8/10)

まず、二重盲検法の話が、どうして出てきたかを説明したいと思います。

科学を受け入れていない人は、『実験に関わった特定の人物が悪影響を与えた』という主張を、正当化できる可能性がある

これを示すために可能性の一つを挙げただけです。

だから、next49さんの二度目の批判のように、「別の実験のデザインをすれば良い」というような反論があるなら、私はそれに対して、科学を受けて入れていない人にとっての、別の説明の例を挙げれば元の主張を維持できます。

結論に関しては、「(相手の出方によっては)科学はホメオパシーを否定できない」と補ってもらっても良いでしょう。科学的には中身のない主張ですので、科学的に反論しようとしてもあまり意味がないと思います。悪魔の証明という奴ですね。

◎ 二重盲検法に対する前回の記事の説明

その上で、前回の記事の二重盲検法の説明が間違っているのではないかという批判を多数いただいたので、これに対して、説明したいと思います。

二重盲検は、患者と治療にかかわる人、結果を診断する人が全て、「プラセボかどうか」を分からない状態で行う試験です。だから、

二重盲検法の特徴は「患者の思い込み」や「治療者の思い込み」が治療結果に与える効果(プラセボ効果)を排除する点にあり、試験対象のものが科学的なものか、呪術的なものかを選ばない。

「情報学ブログ:科学はホメオパシーを否定できない」に賛同できない点/発声練習

これは全くその通り。試験対象がどのようなものかにかかわらず、正しい結果を得るための手法です。自分はこういう話をしているのではありません。試験対象を選ばないということと、「どのような人でも受け入れる」ことは別です。自分が言ったのは二重盲検を受け入れない発想の人がいるという話であって、ホメオパシーのレメディが特殊だという話ではありません。

実際の臨床試験の流れをご存じない方にはイメージが沸きづらかったかもしれませんが、二重盲検試験にはコーディネーターがいるのが普通です。たとえば、13番のサンプルは本物で25番のサンプルは偽薬(もちろん、この関係はランダム)というというようなひも付けをするコーディネーターがいるということです。どのようにひも付けしたかは、実際に患者、患者に接する医師や薬剤師には知らされません。

さて、「13番のサンプルが本物」というようにひも付けたときに、そのときのコーディネーターの気持ちが、薬に作用し、その状態を薬が保持するなんて考えられませんよね。だから、二重盲検は成り立っています。患者、医師、薬剤師がプラセボかどうかを知らなければ、コーディネーターの意識が試験の結果に影響するとは思えません。

ただ、コーディネーターは、対象となる薬が、プラセボなのかどうかを知っています。もし、この「知っている」ことが結果に影響するのなら二重盲検は成り立たなくなってしまいます。そもそも、「患者、医師、薬剤師がプラセボかどうかを知らなければ、コーディネーターの意識が試験の結果に影響するとは思えない」というのは、「物質に意思や感情が記憶されない」という当たり前の事実に依拠しています。普通に考えたら、物質は物質なのです。しかし、ホメオパシー信奉者は、通常の物質の概念を否定している。こういう立場に立たれてしまうと、科学はそれを論理的に否定することができないという話です。

前の記事で想定したのはこんな流れだったのですが、あまり一般的な議論ではなく、言葉っ足らずだったという批判は免れないと思います。

◎二重盲検法に対するもう一つの説明

ちなみに、前回の記事とは違う流れでも、「科学がホメオパシーの信奉者を論理的に否定できない」という同じ結論を導くことが可能です。こちらの方が分かりやすい一方、実際のホメオパシーの主張にも近いと思うので、ついでにもう一つ書いておきます。

一般に、患者や治療者の感覚が、治療の上で重要な役割を果たしているという主張を肯定したり否定したりするのに、二重盲検を使うことができません。たとえば、「はり療法」の場合、二重盲検にできないことが明らかです。また、通常の保険医療として医師によって行われている治療法の一つに「神経ブロック」というものがありますが、これも理論上、二重盲検にできないものです。「口に含むとスッとすることで元気になる」という飲み物の効果も二重盲検にできません。

これに対し、「薬」の場合は、二重盲検法が有効だと一般的には思われています。薬は本人の意識とは別の形で効くのであると考えるのが普通だからです。しかし、「本人が薬だと意識することで効果を現す」という作用機序を考えた場合、二重盲検法は何も言えなくなってしまいます。たとえば、「砂糖玉に特別の措置を施す+本人の微妙な意識」が治療に重要だとすると、「二重盲検をすると効果が消えてしまう」という主張が成り立つことになります。普通に科学的な発想の人であれば、薬物を摂取することによる治療法において、「本人の微妙な意識」が治療に重要な働きをしていると考えません。それは誤認を防ぐために「排除するべき要因」です。ところが、その前提を共有していない人を説得するのに、二重盲検は使えないのです。

一方、「本人の微妙な意識」が治療上重要だという仮説に基づいたとしても、「特定の条件では二重盲検が成功する」という主張は成り立ちます。前回の記事の言葉で言うと「相手の土俵で相撲を取って、それでも勝つ」ということです。その意味で言うと、ベンベニストの論文は正しく、いまだに間違っていることは証明されていないという、ホメオパシー側の主張も成り立つことになります。

つまり、科学は科学が通常立っている前提に立てば、ホメオパシーに効果がないということを示せるが、科学が通常立っている前提に立っていない人に対してホメオパシーに効果がないことを説明できないのです。

ちなみに、これと関連して「再現性」という問題があります。一般に科学では「誰がやっても同じ結果になる」「何度やっても同じ結果になる」という再現性を正しさの条件とします。この立場を取ると、「患者や治療者の感覚が、治療の上で重要な役割を果たしているという仮説」については肯定も否定もできません。科学は再現性を重視することで、間違っているかもしれないものを排除しつつ、私たちの生活に有用な事実を取り出すことができますが、この立場を取ることで、肯定も否定もされなくなってしまうものも多数あるのです。

大きく言うと、科学というのは「世の中にはウソだかマコトだか分からないものがたくさんあるが、そこから特定の基準で『これは間違いなく正しい』と言えるものを選んでいこう」という発想です。だから、科学が科学の基準で「選ばなかった」ものに対しては、「真実かどうか保留」なのであり、「間違っている」と否定できるわけではありません(もちろん、「科学的ではない」と言うことはできますが、それと間違っていると証明することは別です)。ほとんど偽物という世の中で、本物だけを売っているセレクトショップが大繁盛していると、そういう状況を考えてみれば良いでしょう。科学が言えるのは、他の店で商品を買おうとする人に対して、「そんなの信用できないから買うのをやめなよ。世の中にどれだけ詐欺的なお店が多いのか知っているの?」と言うことです。「そっちの店の商品は全部偽物だ」と断定することまではできないということです。科学には自分の店で扱っていない商品が本物かどうかを判断するすべがないのです。

まぁ、いろいろ言いましたが、結論はそんなに不思議なことではありません。「科学を受け入れていない人は、科学的な説明を聞いても納得できない」ということは感覚的に理解できると思いますが、それが単に感覚的なものではなく、ちゃんと根拠を持っている話だっていうことを指摘しただけです。ごく普通の話なんですが、まだ納得いかないでしょうか?

◎おわりに

以上、next49氏による批判には、一通り反論させてもらったところです。また、はてなブックマークにあった批判のかなりの部分は、この説明で対応できると思います。

ただ、それが全てというわけではありません。批判の中には、こうした話とは一線を画すべき、もっと本質的な批判もありました。ただ、それらはこの場で「ちょっと書く」というような内容ではありません。ほとんどの批判にはコメント欄で応答してあるので、興味を持たれた方は、そちらを見ていただければと思います。

ただ、科学の限界(検証可能性)についてだけは、重要なポイントなので以下に追記させていただきました。(8/10)

◎科学における検証について( next49さんからの二度目の批判(link)を受けた追記(8/10)

おわりに:信じる、信じないという言い方を止めて欲しい

(中略)「人は間違える」という基本的な認識にたって試行錯誤を重ねて積み重ねられた方法論やその方法論に従って蓄積された事実、その事実を整合的に説明するために構築された仮説をひっくるめて「科学」と呼んでいるだけです。
常に検証可能に作ってあるのが科学の方法論や仮説、収集した事実なので、基本は検証すれば良いのです。ですが、我々には知力や財力、時間に限りがあり検証しきれない部分があります。

これは本質的な問題で、かつ納得できません。どうも「検証可能」という概念について違う理解をしているようです。

科学で言う検証というのは、「既存の科学的知識を前提にした検証」です。実験の場合はあまり問題ではないかもしれませんが、理論的な問題の場合、大きな問題です。たとえば、光は粒子か波動か、その両方かというように、選択肢があれば、そのうちどれが正しいのかを検証できますが、それ以外の可能性を排除するという意味での検証は不可能です(悪魔の証明です)。科学的知識は、「その時点の科学的知識によって考えられる可能性を否定する」という意味でのみ検証されているであり、「あらゆる可能性を否定してする」意味で検証されているわけではないのです(科学は悪魔の証明ができると言っているわけではないということ)。実際、時代が下って新たな理論が提示され、過去の理論が否定されることは良くあります。next49さんの言うように、人的・金銭的な限界から検証されていないものもありますが、それ以前に原理的に「現在の科学的知識」を前提にしてしか検証されていないのです。それでも、将来の検証には開かれているというのが「検証可能性」によって科学を正当化する議論です。

だから、検証可能性によって科学を正当化する議論は、そもそも「現在の科学は間違っているかもしれない」という含意を持っています。それでも、信頼に足るのが科学だかということです。これは科学の検証可能性に関する一般的な議論でしょう。「間違っているかもしれない」けれど、信頼することを「信じる」と表現するのは、ごく普通の日本語表現だと思います。

もう少し補足しておくと、こういう時に「信じる」をどこまで拡げるかは程度の問題です。「目の前にディスプレイがある」にも使えます。だって、ないかもしれない。科学的に検証しようと思っても、無限後退に陥ります。「秤はそこにあるのか」「重さの概念は実在するのか」。ディスプレイだって「ある」って信じているのです。自分は「目の前のディスプレイの存在」は信じるに足る事実だと思っているし、科学も信じるに足る事実だと思っています。

○追記

8/10 next49さんからの二度目の批判(link)を受けて補足しました。青字の部分3カ所です。

8/10これに対してnext49さんからお返事をいただき、お互いに納得できる結果になりました。(元の文章が分かりづらかったという意味では、自分の責任なのですが、その点については大人の対応をしてだき、ありがとうございました。)

8/11 話が複雑になってしまい、後から全文読むのも大変だと思うので、短く読める文章を書きました。話の流れは違いますが、議論としてはかなりかぶっています。科学が論理ではないけど正しい理由/情報学ブログ

8/29 ホメオパシー関連の議論を「ホメオパシーの議論、7つのQ&A」で整理し直しました。

9/2 メイン記事と整合性が取れなくなっているところを変更、削除しました。変更前の記事はこちらに保存してあります。

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科学はホメオパシーを否定できない

経済・政治・国際 | 2010/08/08

この記事は、「科学がホメオパシーを否定する」というとき、「科学の立場から否定する」こととと「科学とは何なのかを踏まえて否定する」ことを区別をしないといけないということ。もし、ホメオパシーのコアの信者を説得しようと思うのなら、このことを理解することが重要だということを主張しています。

ホメオパシーについては「ホメオパシーは魂を救済するか?―宗教と科学の境界線」が最新ですので合わせてお読みいただければと思います。

Image By Tiffany Farrant,
licenced under
Creative Commons

自分はホメオパシーを擁護するつもりは全くないし、正直、そんなものなくなれば良いと思っています。でも、ホメオパシーの間違いを科学の立場から「証明できる」ということは疑問です。むしろ、「ホメオパシーを否定できる」と考える誤解が、ホメオパシーのような疑似科学の問題をより大きなものにしている面もあると思うのです。この記事では、こういう立場から、なぜ科学はホメオパシーを否定できないのかを考えていきたいと思います。

◎科学とは何なのか

まず、一般的なことから説明したいと思います。科学の本分という記事でも書いたように、科学の知識や手法は「世界を説明する理論(認識の枠組み)」の一つです。本来、「世界を説明する枠組み」には無数のものがあります。超能力、幽霊、UFO、とにかくさまざまなものが世界を説明してくれるわけですが、科学は、こうした「世界を説明する枠組み」の一つに過ぎないのです。しかし、その説明能力が高いこと、有用であることが、科学が科学である理由です。科学は多くの疑似科学が説明できない、車や原子力発電所、健康からコンピュータの仕組みまで説明し、実現することができるのであり、だからこそ、他の「世界を説明する枠組み」と比べて圧倒的に受け入れられているのが現代社会と言えます。

たとえば、幽霊を見たという人が「自分の体験を説明づけるものとして科学は不十分だ、幽霊は存在するのだ」と言ったとします。これを否定するのにどんな実験をすれば良いのでしょうか。実は幽霊を否定する実験などありません。それは科学の範囲外の問題なのです。科学者は「科学の常識では幽霊など存在しない=科学では幽霊を説明できない」と言うだけで、論理的に幽霊を否定する材料を持っていません。たまたま、「あれは幽霊を想定しなくても、ガラスに映った影だってことで説明できるじゃないか」と言って相手が理解してくれればそれで良いのですが、こんな風に納得ができる形で説明できることは稀でしょう。

ではなぜ私たちの多くは幽霊を信じないか。幽霊を信じる人は幽霊らしきものを見たときに、「これは幽霊という形で説明できる」と考えるのに対し、科学を信じる人は、幽霊らしきものを見たときに、「あれは自分には理解できないが、何かしら科学で説明できるかも」と考えるのです。科学を信じている人だって多くの場合、本当に何が起きたか理解しているわけではない。それにかかわらず、「科学で説明できる」と言う私たちは、本質的には「信じている」ことに変わらないでしょう。科学者だって、身の回りに起きる全てのことについて、科学的に考えているわけではないのですが、宗教ならともかく、幽霊を信じている人はあまりいません。

それにも関わらず、「科学の方が正しい」と思うのは、幽霊よりも科学の方が、説明能力が高く、有用であるからにほかなりません。科学は幽霊だけではなく、超能力も、車もコンピュータも説明できるのに対し、幽霊は幽霊しか説明できません。また、幽霊は全然社会を豊かにしてくれないけれど、科学は社会を豊かにしてくれます。こうした事実によって、私たちは科学を受け入れているのです。(参考:科学が論理ではないけど正しい理由

◎「実験」の正当性

この点に関して、一見するとホメオパシーは幽霊と違うように思うかもしれません。なぜならば、幽霊を否定する実験を組むのは不可能である場合が多いのに対し、ホメオパシーを否定する実験ならできるからです。たとえば、ホメオパシーのレメディ(ホメオパシーの治療に使われる砂糖玉)とプラセボ(普通の砂糖玉)を比較して、レメディとプラセボで差がないことを示せば、ホメオパシーに効能がないことが証明できるかのように思えます。

一般に、こうした実験では、「患者の思い込み」や「治療者の思い込み」が治療結果に与える効果を排除するために、二重盲検試験という方法が使われます。二重盲検試験では、患者はもちろん、患者に直接接する治療者(医師や薬剤師)も、プラセボを与えたのか本来の薬を与えたのか分からない状態にして実験が行われるのです。私たちは、こうした二重盲検試験の手法を使うことで、ホメオパシーの信奉者に、ホメオパシーが間違いであることを説得できるかのように思ってしまいがちでしょう。

しかし、これは微妙です。なぜならば、ホメオパシーの信奉者が、通常の二重盲検試験の正当性を受け入れるとは思えないからです。このことを示すのが、ホメオパシーの正しさを証明するために科学雑誌に論文を投稿したベンベニスト博士と科学者とのやりとりです(詳細についてはこちらが良くまとまっています。「水の記憶」事件/Skeptic's Wiki)。ホメオパシーを擁護するベンベニストの論文に対して科学者らが再現実験を行い、その結果、ベンベニストの論文が否定されました。これに対してベンベニストは「実験に関わった特定の人物が悪影響を与えた」と主張するのです。これは、私たちの常識からすると理解できないものですが、科学を受け入れていない人にとってはありえる反論です。なぜなら、通常行われている二重盲検試験は、ある「科学的」な前提に立っているからです。「物質による治療には物質の性質だけが影響する」。言い換えれば、気持ちとか感情など、物質以外のものが記憶されることはないということや、心理的効果は治療に本質的ではないことなどが、通常の二重盲検試験の前提になっています。これは、私たちのように普通に科学を受けて入れて生きている人間にとっては当たり前のことですが、この前提を否定している人にとっては意味がありません。ホメオパシーのように科学を受け入れない人が、二重盲検法で行われた特定の実験の正当性を否定するのは、仕方ないことなのです。ここで、「実験デザインを工夫すれば良い」というのはその通りですが、ここで言いたいのはそういうことではありません。ここで挙げたのは「科学を受け入れていない人は、私たちが当然、科学的と思っていることでも納得しない」ということの一例であり、実験条件を変えたら、別の例を出してくるだけの話だからです。

ちなみに、「ホメオパシーは科学に基づいた説明もしているのだから、科学的批判を受け入れなければいけない」という主張は、あくまで科学を前提にした批判に過ぎないものです。なぜなら、彼らは「科学は間違っているが、科学でさえ支持していると言っただけ。本来の説明は別だ」言い逃れることができるからです。こうして、科学をいいとこ取りで好き放題に使い、批判されたら切り捨てられるというのは、疑似科学の特徴とも言えるでしょう。科学者が、諺(ことわざ)に基づいて科学的事実を説明したからと言って、全ての諺を受け入れたことにならないのと同じです。

つまり、科学者は、二重盲検試験を使っても、ホメオパシーのような科学を受け入れていない人に、その考え方の間違いを示すことができません。ただ、科学者たちは決して間違ったことをしたわけではありません。科学者たちが行ったのは、「ホメオパシーが科学の土俵で科学を否定することを阻止する」、あるいは「ホメオパシーが科学を詐称することを否定する」ことであり、「ホメオパシーの土俵に攻め込んでいく」ことではなかったからです。つまり、科学者はホメオパシーを否定したと言っても、所詮「科学的」に否定しただけであり、科学からホメオパシーを排除し、科学を守ったのに過ぎないのです。

(補足:ここで言っているのは、「科学を受け入れていない人は、科学的に説得したところで、どうとでも言い逃れることができる」という話であって、具体的なホメオパシー信奉者が、科学的な説明で納得するかどうかとは別です。普通に科学の立場で説明しても理解できない人、熱心な信奉者を対象とした話です。それ以外についてはこの記事の議論の対象外です。)

◎どうすれば疑似科学の信奉者を説得できるか?

これは、科学とホメオパシーを初めとする疑似科学の関係を考える上で非常に重要なポイントです。科学者が、疑似科学を科学的に否定したと言う場合があります。しかし、どんなに「科学的」に否定されたとしても、それはあくまで科学の立場から否定しただけです。科学の立場からの否定に対して、疑似科学の信奉者は「こいつらは何も分かってないな」と言うことになります。こうして、両者の間の断絶はいつまでたってもなくなりません。

だからといって、自分が言っているのは「疑似科学も科学と同じように受け入れよう」ということではありません。科学と疑似科学には「説明能力」「有用性」について違いがあり、このために、現代社会的での受け入れられ方も大きく違うからです。ここで、疑似科学の信奉者を説得するために語りかけるとしたら、大きく言って次のような趣旨のものになるはずです。

「科学も疑似科学も、所詮、世界を説明する枠組みの一つに過ぎない。しかし、科学は説明能力が高く、有用なのに対し、疑似科学は私たちが生きていく上で有用ではないし、説明能力も高くないではないか」

もう少し立ち入って言えば、「正しいかもしれない仮説はたくさんあり、それにいちいち構っていたら切りがない」ということになるでしょう。この説明は、ホメオパシーのように、検証不可能な考え方にとらわれている人にも、伝わる可能性があります。ただ、「説明能力が高い」とか「有用」というのは、客観的な問題ではなく、これは相手の生き方や宗教観などに立ち入った説得にならざるをえないのも事実です。疑似科学の人たちを説得するとは、こういった複雑な問題なのです。(参考:ホメオパシーは魂を救うか―宗教と科学の境界線

しかし、社会的にはどれだけの人がこういったことを正しく理解しているのでしょうか。こうして、私たちが「科学って何なのか」をきちんと理解していないことは、疑似科学をめぐる問題を一層大きくしている可能性もあります。ホメオパシーのような疑似科学をめぐる問題を解決するためには、私たち一人一人が、科学の本質を正しく見極められるようになることが必要なのかもしれません。

○まとめ(8/12追記)

・科学が疑似科学のようなものを否定しようとするとき、科学を受け入れている人が分かるように説明することはできるが、そうじゃない人も分かるような説明ができるとは限らない。

・ただ、否定できない状況であっても、そもそも科学とは何かということを踏まえれば、説得できるかもしれない。疑似科学を説得しようとするときは、こうして科学が置かれた状況全体を理解することが大切ではないだろうか。

◎関連サイト

ホメオパシーについて朝日新聞が詳報/NATROMの日記
→ポイントを絞った反論。正直、これで言い尽くされていると思います。

日本ホメオパシー医学協会にダメだしされる/kikulog
→朝日新聞にコメントが掲載された大阪大学の菊池先生のコメントです。ホメオパシー協会が、菊池先生のコメントに(意味不明の)反論をしたことに触れられています。

日本ホメオパシー医学協会の御意見/新小児科医のつぶやき
→非常に充実した反論。ここまでするかというくらいしっかり反論しています。ホメオパシー協会の主張が同じページの中でも矛盾していることが良く分かります。

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「存在することに価値がある」って本当だろうか

情報学 | 2010/08/04

「存在することに価値がある」というのは、良く聞く表現です。しかし、一方で、何だか胡散臭い印象も持つ言葉ではないでしょうか。この記事では「存在することに価値がある」という言葉が使われる場面をいくつかに分類し、それぞれについて検討してみたいと思います。

◎<私>にとっての存在の価値

一般に、価値というのは「誰にとって」という限定と無関係に成立できない概念です。たとえば、<私>にとっての価値、<あなた>にとっての価値、<社会>で共有される価値といった形です。

そこでまず<私>にとっての存在の価値について考えることにしましょう。

価値の議論をするとき、通常は「どういう観点からの価値」かを踏まえて価値という言葉が語られます。お金を得るために価値がある、健康で生きるために価値がある、生存確率を上げるために価値があるといった形です。ただ、こうした価値は、常に「価値のないもの」との対比の中での価値です。つまり、存在の全てに価値があるということには絶対にならないのです。

では、「存在することに価値がある」とはどういうことでしょうか。もっと根源的に、価値ということを考えるのなら、つまり「どういう観点からの価値」かを踏まえないで価値を考えるのなら、<私>が生きる世界のあらゆるものは、<私>にとって価値があります。なぜならば、その世界によって私は生きているからです。朝日の光の感覚、手に触れるタオルの感覚、こういったものは全て私が生きるための感覚であり、朝日やタオルもまた、私が生きるために価値があるものです。また、腐った生ゴミは「捨てる」という行動を促しているという意味で価値があるし、大嫌いなあの人も自分を成長させてくる意味で価値があります。そう考えると、まさに、世界のあらゆる「存在」に価値があるということになるでしょう。

もちろん、これは私たちの感覚とはあまり合いません。実際の私たちは、「特定の観点からの価値」から存在を取捨選択し、これは価値がある、これが価値がないということを決めているからです。そうしなければ私たちは生きていくことすらできないでしょう。ただ、もっとも根源的なところで言えば、「世界のあらゆるものに価値がある」ということになります。

そして、こういう「価値」の中でも、もっとも絶対的なところに位置づけられるのが、「<私>という存在」にほかなりません。あらゆる価値を与える、価値の源泉、それが「<私>という存在」だからです。「全ての存在に価値がある」という根源的価値にしても、特定観点からの価値にしても、それらの価値を与え、価値判断の主体となるのは「<私>という存在の価値」にほかならないのです。こうした「<私>という存在の価値」については、以前書いた「生きる意味について」という記事の中で書いたので、詳しくはこちらに譲ることにします。

◎<私>にとっての他者の価値

では「他者」はどうでしょう。つまり、<あなた>にとって私、<私>にとってのあなたはどうかという問題です。たしかに、<私>にとっての根源的な価値という意味からすると、石ころや生ゴミにも価値があるので、<あなた>にも価値があることになります。しかし、<あなた>の価値が、石ころや生ゴミと同じというのでは、やはり納得できないでしょう。

こうして「人間の価値が石ころや生ゴミと同じような価値しか持たない」(場合がある)というのは、必ずしも間違いではありません。たとえば、この文章を読んでいるあなたにとって、私に絶対的な価値はなく、文章を書いてくれる「道具」でしかないという見方もできます。人間は自分自身にとって絶対的な価値がありますが、他人にとっては石ころのような道具としての価値、あるいは、風景のように漠然とした意味での価値しか持っていないとも言えるのです。

ただ、これはあまりにも感覚と合いません。そこで、哲学者の中には「他者の尊重」の感覚をベースにして、人間の存在そのものの価値を考える人もいます。「コミュニケーションをしている相手を殺せるだろうか?殺せないのは相手に価値があるからだ」こういう議論です。こうした、「他者の尊重」をベースにした価値は、原理的にコミュニケーションが成り立たない人を排除するわけですが、福祉論などでは、脳死の人や重度心身障害者にも非言語的なコミュニケーションが成り立っており、したがって他者として尊重されるのだという議論がありますが、それはこの流れを汲むものです。

さて、これは「人間存在には価値がある」という話として良いのですが、文字通り言うと「存在一般に価値がある」という話と、かなりずれるのではないかと思います。なぜなら、存在そのものというより、あくまで「<私>から見てコミュニケーションが成り立つ」という限定付きの価値だからです。ただ、しばしばこういう意味での価値が、「存在することそのものの価値」として語られてしまっていることには注意が必要でしょう。

◎<社会>にとっての他者の価値

以上のような<私>にとっての価値に対して、<社会>にとっての価値は、ちょっと話が違ってきます。

「<社会>にとっての価値」の中でも典型的なものとして、「全ての人間に対する人権」という考え方からくる価値があります。「全ての人間に対する人権」という考え方は、社会的、制度的に決まるもので、原理的な意味では絶対ではありません。しかし「全ての人間に対する人権」の概念は、制度的な意味で(これは「フィクションとして」とたとえられます)、「人間存在そのものに価値がある」ということを主張します。

この意味での価値は、存在そのものに対する価値ではなく、「人間」存在に対する価値です。だから、結局のところ「人間かどうか」で線引きがされます。人間とはされない存在は、「全ての人間に対する人権」では守られないのです。したがって、これに関しても「存在そのものの価値」とは、かなり話がずれるのではないかと思います。ただ、これについても「存在そのものの価値」という言葉でくくられてしまっていることがあるので、これについても十分、注意しなければいけないでしょう。

◎<社会>にとっての存在の価値

さて、「全ての人間に対する人権」は、所詮「特定の観点からの価値」に過ぎません。「<私>にとっての価値」の話をしたとき、「特定の観点によらない根源的な価値」があったのと同じように、「<社会>にとっての価値」についても、「特定の観点によらない根源的な価値」があっても良さそうです。

こういう議論は、かつて、環境思想や、一部の情報倫理の思想などに部分的に見られました。なぜ、鎮守の森を守らなければいけないのか、なぜ、著作権を守らなければいけないのかを、「存在そのものの価値」に求めるのです。ただ、この発想は、強烈な批判を浴びたのです。なぜなら、こういった発想では、「鎮守の森も公害も同じように守る」「優れた作品の著作権も、ウィルスメールも同じように守る」ということになって、何も言ってないのと同じことになるからです。こうした思想に対しては、「結局、人間の観点から環境を見ているのに過ぎないのではないか」という批判があり、今日ではむしろこちらの方が主流です。

ただ、政策的な問題にとらわれなければ、「<社会>にとっての存在そのものの価値」という考え方は無意味ではありません。たとえば、「公害の存在によって人間そのものがより良くなっていくのだ」「ウィルスメールによってセキュリティ技術が向上する」こういう「存在の根源的な価値」を見いだす立場というのは当然あって、そういう立場からすれば、「存在そのものに価値がある」ということになるからです。政策論ではなく、人間存在のあり方に関する問いとして言うなら、「<社会>にとっての存在」そのものに価値があるという見方は十分ありえるということです。これに関連することを、「風の谷のナウシカ」についての記事(その1その2に書いたので、こちらも合わせてお読みいただけると幸いです。

◎まとめ

一般に、存在そのものの価値という場合、理論的には、やはり最初に挙げたように<私>にとっての存在の根源的価値という立場を取るのが一般的です。また、最後のように<社会>にとっての存在の根源的価値という立場もあることはあります。ただ、いずれにせよ、こうした立場は、「人間の生き方」「人間存在のあり方」を扱うことはできても、具体的な社会問題と絡ませるのは困難です。

一方、存在一般ではなく、人間存在の価値だけを扱えば良いのであれば、他にも議論の持って行き方があります。これは、福祉や人権などの形で具体的な政策とも深く関わっています。ただ、この場合、「存在そのものの価値」とは言いながらも、実際には存在に境界線を引いていることが重要です。「こいつとはコミュニケーションを取れない」「こいつは人間ではない」とレッテルを貼られれば、その存在には価値がないことになってしまうからです。

私たちは「存在そのものに価値がある」という言葉を、曖昧なスローガンのように使ってしまいがちです。しかし、実際にはこの言葉にはさまざまな意味があり、それぞれ全く異なる結論を導くのです。「存在そのものに価値がある」というとき、このあたりがうまく区別されてない場合が多いのではないでしょうか。こうした言葉のトリックに惑わされないためには、自分がどのような「存在」を扱っているか、どのような「価値」を扱っているかを、きちんと見極めることが重要ではないかと思います。

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