出生前診断は優性政策か?

経済・政治・国際 | 2010/07/20

◎遺伝的保守主義

こんな思考実験を考えたことはないだろうか。

もし、非常に福祉が充実した世の中になって、障害者が全く不自由なく生活でき、普通と同じように子供を作れる世の中になったとする。このとき、長期的に見て、社会は障害者だらけにならないだろうか?

おそらくこれは正しい。この仮定が成り立つような状況が近いうちに来ることはないし、したがって、あくまで思考実験なのだけど、仮定が成り立つ限りにおいて正しい。

なぜ、健常者が健康な体で生まれてきたか。それは、障害の遺伝子を持つ胎児が流産によって生まれて来なかったり、障害を持って生まれてきた人が子供を作らないことが多いなど、障害の遺伝子が子孫を残す確率が低いからにほかならない。もし、こういうメカニズムが一切働かず、障害を持つ遺伝子が子孫を残す確率と健常な遺伝子が子孫を残す確率が同じだとしたら、遺伝子は次第にランダムになり、すべてが障害を持った遺伝子になってしまう。健常者が健常でいられるのは、障害者の遺伝子が子孫を残すことができないで途絶えていくからにほかならない。

ここで、大きく二つの立場があると思う。

一つは、

a) 「社会が豊かになって障害者を支えられるようになり、その結果障害者が増えるのであれば問題ない。障害者が増えることで社会的に問題があるのなら分かるが、『問題がない』という前提で、障害者が増えることをどうして否定する必要があるのだろうか?
その発想こそ差別じゃないか。」

という立場だ。これは、障害者福祉論に多い立場だが、理論的で非常に説得力がある。

一方、もう一つは、

b) 「そうとは言っても、自分の子供、孫たちが障害者というのできれば避けたい」

という立場だ。財政的な費用が解決され、子供を産むことに支障がなくなっても、障害が障害ではなくなるわけではなく、不自由な暮らしを強いられることに変わりない。できれば自分の子供や孫が障害者になることを避けたい、というのは別に変わった意見ではないだろう。これは全くもって感覚的で、a)に比べると論理性を見る影もない。でも、実際には多くの人はb)を支持するのではないだろうか。こうした立場を「遺伝的保守主義」とでも言うことにしよう。遺伝的保守主義は差別か、あるいは現代社会で許されるのかということについては次の節以降で取り上げる。ただ、とりあえず、ここで確認しておきたいのは、b)のように考える人は、実際にはそれなりの数に上るのではないかということである。遺伝的保守主義が差別だと叫ぶのは簡単だが、これが感覚的な問題である以上、遺伝的保守主義そのものを否定するのは困難なのである。

◎平等と遺伝子

遺伝的保守主義の立場は、しばしば、障害者には断種や不自由な暮らしを強いるべきという結論を導くものとされる。しかし、これは誤解である。かりに遺伝的保守主義の立場を取ったとしても、必ずしも障害を持って生まれてくる可能性の高い胎児を人工妊娠中絶したり、障害者には断種や不自由な暮らしを強いるべきことは肯定されない。

というのも、遺伝的保守主義は、理論的には、

障害を持つ遺伝子が子孫を残す数<<<健常な遺伝子が子孫を残す数
(左辺より右辺の方がずっと多い)

という条件が満たされるべきことを主張するだけであり、障害を持つ遺伝子が子孫を残す数をゼロにするべきと主張するわけではないからである。だいたい、今の日本で、多くの身体障害者は圧倒的に生きづらく、簡単に子供を作ったりできる状況ではない。どんなに障害者に手厚い福祉を施したところで、

障害を持つ遺伝子が子孫を残す数<<<健常な遺伝子が子孫を残す数

という条件が変わることはないだろう。経済的な支援によって左辺が10倍やそこらになったからと言って、この関係は変わらないのだ。この条件が圧倒的に満たされている(満たされてしまっている)現在のような社会において、障害者に対する福祉を手厚くすることに、ためらいはないはずだ。

一方、私たちの社会は、遺伝子が保たれれば、それで存続するかというとそうではない。
平等、人権、こういった価値を捨ててしまえば、社会は争乱状態になり、遺伝子どころの騒ぎではなくなるだろう。こうして私たちの社会が存続していくための重要な価値のである「平等」や「人権」は、社会が、障害者に対して、健常者と同じように扱うべきこと。たとえば、遺伝的な原因以外で障害を持った障害者に対する福祉を手厚くするのであれば、遺伝的な原因で障害を持った障害者に対しても同じような福祉を保障しなければいけないことを示している。これは私たちの社会が安定して存続するためのコストとも言えるだろう。こうして「平等」や「人権」を重視する考え方を「制度的保守主義」と言うことができる。

つまり、障害者福祉は、制度的保守主義(人権や平等の観点)の立場から要請される一方、遺伝的保守主義(自分の子供は健常者であってほしい)に反している。遺伝的保守主義と制度的保守主義は矛盾しているのだ。まとめると以下の二つの価値観の対立の問題ということになるだろう。

・ 子供や子孫が障害を持って生まれてくることは避けるべき(遺伝的保守主義)
・ 障害者にも人権を認めるべき(制度的保守主義)

ただし、この対立の結論は明からである。制度的保守主義(人権や平等の観点)から非常に重要である一方、遺伝的保守主義(自分の子供は健常者であってほしい)からは大したマイナスにならない。しかも、遺伝的保守主義は論理的な結論ではなく、個人の価値観のレベルの問題である。したがって、両者のバランスを考えたら、障害者に対する差別をなるべくなくしていくということが取られるべき選択肢ということになる。

この問題に関して、人類が犯した大きな誤りが優性政策だったと言える。優性政策とは、

障害を持つ遺伝子が子孫を残す数<<<健常な遺伝子が子孫を残す数

という状態を人為的に作り出すために、人権や平等と言った価値を切り捨てようという議論だ。これは、ナチス・ドイツやアメリカなど多くの国において、障害者に対する断種や虐殺などが行われたことをきっかけに問題になったものである。優性政策は現在では繰り返してはならない人類の暗い過去として理解されており、こうした立場を肯定する人は誰もいないと言って良い。なぜ、優性政策が間違っていたかというと、それはこうした政策において、価値観の問題であるはずの遺伝的保守主義(自分の子供は健常者であってほしい)が過大に重視され、制度的保守主義(人権や平等の観点)が無視されていたからにほかならないのだ。

◎出生前診断

ただ、ここで忘れてはいけないのが、これはあくまで「バランスの問題」だということである。

今日、出生前の胎児に対して遺伝子診断をし、あらかじめ重い障害を持って生まれ来るとされる胎児を人工妊娠中絶する「出生前診断」が盛んに行われている。これは遺伝的保守主義(自分の子供は健常者であってほしい)や財政の観点からは支持されるが、障害者福祉を推進する人から反対されることがある。出生前診断は、障害者に対する差別を助長するという立場だ。出生前診断に反対する人は、それを「現代の優性政策」と呼ぶ。正確に言うと、出生前診断に賛成する人の多く(全てではない)は、社会的に出生前診断を強制することを主張しているわけではなく、実際に出生前診断を行うかどうかは個人の判断にするべきという主張が主流だ。これに対して反対派は、障害者に対する差別を防止する立場から、それを禁止するべきと主張しているのだ。

こうして出生前診断に反対する意見に対して自分は「ちょっと待ってくれ」と言いたい。優性政策が問題にあるとされるのは、人権や平等の観点からであるが、それは優性政策が「生きている人の人権や権利」を犯すからである。ところが、出生前診断は、生きている人の権利を侵すわけではない。もちろん、人によっては、まだ生まれてこない胎児にも生きている人と同じレベルの権利を認めるべき(したがって、どんな理由であろうとも人工妊娠中絶は認められるべきではない)という立場の人もいるだろうが、全ての人がそう考えているわけではない(特に日本ではかなり少数派)というのは言うまでもないことだろう。

つまり、出生前診断の是非は、以下の2つのいずれの価値観を重視するべきかという問題である。

・ 子供や子孫が障害を持って生まれてくることを避けるべき(遺伝的保守主義)
・ 胎児にも生きる権利を認めるべき(生殖的保守主義)

この対立は、優性政策の場合とかなり異なる。優性政策の場合、片方が一部の人の価値観の問題で、片方が社会にとって非常に重要な価値観の問題だった。ところが、出生前診断の場合、いずれも「微妙」な問題である。こちらの場合、簡単に結論を出すことはできない。特に、日本のようにキリスト教文化が浸透しておらず、人工妊娠中絶に寛容な国においては、出生前診断を一律に悪と決めつけることはできないだろう。

そしてそうだとしたら、翻って、遺伝的保守主義が差別だという理由は何だろうか。自分の子供や子孫は健常者として生まれて欲しい。これは、エゴと言うかもしれないが、現実に多くの人が共有している感覚である。優性政策の場合は、人間社会が守るべき価値である「人権」や「平等」と矛盾するために、この感覚を抑圧することが求められたが、同じことが出生前診断に成り立つとは言えないのである。

むしろ、出生前診断は、

障害を持つ遺伝子が子孫を残す数<<<健常な遺伝子が子孫を残す数

という条件を満たすための措置の一つであり、この措置が認められている限り、遺伝的保守主義を否定する合理的で理知的な人だけではなく、大多数を占めると思われる遺伝的保守主義者も「今、生きている障害者」に対する福祉を否定することができなくなる。民主主義の社会では、福祉も民主的に決まる政策の一つであることを考えれば、このことはむしろ障害者福祉の利益になる。出生前診断は、遺伝的保守主義の立場から、障害者福祉に反対する人に対する対抗策になりえるのである。

◎人が生きるということ

一般に、全ての遺伝子が生き残っていくとしたら、遺伝子はランダムになってしまい、(健常者も障害者も含め)人間は生まれてこなくなってしまう。私たちの生は、「子孫を残さずに消えていったたくさんの遺伝子」に支えられて初めて成り立っているのだ。たとえて言うなら、「屍で踏み固められた大地の上」で生きているのが私たちということになる。どんなに人間が平等に生きていける社会を作ったとしても、遺伝子を平等にすることができないのである。むしろ、遺伝子の不平等によって初めて、人間社会で平等という価値を尊重することが可能になっているとも言えるだろう。これは、決して変えることのできない生命の摂理にほかならない。

出生前診断の場合は、ちょっと複雑だが、基本的には同じ議論が成り立っている。自分の子供や子孫は障害を持たないで生まれて欲しい。これは個人の価値観の問題かもしれないが、現実には多くの人が共有しており、民主主義の政策決定で主導権を握っている。しかも、これは非常に感覚的な問題であり、教育によってこの状況を変えるのは困難である。そして、彼らの感覚を充足させるためには、子孫を残すことができない、言わば差別を受ける遺伝子が必要なのだ。一方、私たちの社会の制度的な原理である「平等」や「人権」は、現実に生きている障害者が「不自由なく生活でき、普通と同じように子供を作れる世の中」を目指すことを要請している。そうだとしたら、現実に生きている障害者の平等や人権を守るために、胎児の段階で障害を持った遺伝子を排除することを許容するのは仕方ないことではないだろうか。これは「屍で踏み固められた大地の上」でしか生きていくことができない生命としての、受け入れざるを得ない宿命ではないかと思う。

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