システム論 | 2010/07/15
◎種の多様性と斉一性
近くの公園を散歩していたら、こんな趣旨の看板が目に入ってきた「生物多様性の維持のため環境保護にご協力ください」。何てことはない文面なのだけれど、ふと「多様性」という言葉に引っかかってしまった。
特別天然記念物「トキ」の絶滅の話で広く知られているように、生物が種として存続していくためには遺伝子に多様性があることが不可欠である。多様性というのは「ランダムであること」「ばらつきがあること」。遺伝子の「ばらつき」がなくなり、すべての遺伝子が同じになってしまうと、生物は環境の変化に非常に弱くなって絶滅してしまうのだ。種の中の個体の遺伝子がばらつきを持つことで、初めて種は存続することができる。
しかし、「多様性」だけで種を維持していくことはできない。人工的に多様性を高めようと思ったら、放射能や紫外線を与えれば良いのだが、過度の放射能や紫外線があると奇形や死産が増え、最後は多様性がなくなって絶滅してしまう。種は、共通の特徴を持つということによって初めて成り立っているという側面もあるのだ。こうして「共通する性質を持つ」ということを「斉一性」と言う。さまざまな個体が共通する性質を持つという「斉一性」は、生物が維持されていくために重要な性質の一つである。
要するに、生物の種は「多様性」と「斉一性」、この矛盾する二つの特徴を同時に兼ね備えることによって成り立っていると言うことができる。だから、厳密に言うと、「生物多様性の維持のために環境保護にご協力ください」というのはおかしくて、「生物多様性と斉一性の維持のために環境保護にご協力ください」とでも言わないといけないかもしれない。まぁ、それが看板として適切だとは思えないけれど、あくまで理論上の話ね。
◎心の多様性と斉一性
さて、こうして「多様性と斉一性の間で初めて成り立っている」というのは生物の種についてだけ言える性質ではない。たとえば、私たちの心についても成り立っているのだ。
私たちはさまざまな立場に立ってものごとを考えることができるし、コミュニケーションの場に応じてさまざまな自分を演じ分けることができる。これは心の「多様性」と言うことができるだろう。心は「小さな自己」とでもたとえられる複数の行為パターンがゆるやかに結合したものとして見た方が適切に理解することができる場合もある。
しかし、そんな私たちも法律や職場など多くの場面で、「責任」を通した統一的な振る舞いを強いられている。また、どんな多様な行為パターンを持っていたとしても、たった一つの「身体」を共有しているという意味で、一貫した自己を持っている。こうして私たちの心が「責任」や「身体」を通して統合され、一貫した行為を行うということは、心の「斉一性」の側面として理解することができるだろう。
◎価値観の多様性と斉一性
一方、「多様性と斉一性の共存」という性質は、「価値観」についても成り立っている。
論理的に考えれば、世界に絶対的に正しいと言える価値観はなく、Aという価値観から見ればBという価値観が間違っていて、Bという価値観から見ればAという価値観が間違っているという状況が存在することになる。いわゆる「相対主義」と言われる立場である。これは、「価値観の多様性」と言い換えることができる。「多様な価値観を尊重することが重要」というのは陳腐過ぎるほど良く聞くフレーズだろう。
しかし、相対主義は根本的な矛盾を抱えていると言われる。つまり、「世の中に正しい価値観はない」という相対主義の立場を取る人は、いったいどの立場からそのように話しているのか分からないという矛盾である。相対主義は、相対主義の主張そのものによって自分自身の立場も否定しているように思えるのである(これを相対主義のパラドックスと言う)。では、「世界には絶対的な価値観がある」かというと、それはそれで論理的に正しくない。「相対主義のパラドックス」は言い換えれば「価値観の崩壊」とでも言える現実を意味している。
ただ、私たちは、言葉によって共有される<私たち>の価値観の中で世界を理解している。ここで言う<私たち>にはさまざまなものが考えられるが、極端な例が、「論理」や「人権」だろう。すなわち、世界の言語はこれほどまでに多様であるにもかかわらず、多くの人々が「論理」や「人権」といった価値観を受け入れている。もちろん、「多くの人々」とは言っても全員ではないし、「受け入れている」と言っても、それを絶対的なものとして受け入れているというわけではない。外交上、当然受け入れられると思われるような論理が通用しない謎めいた国もある。他国から軍事干渉されることを恐れて、表面的に「人権」を尊重する態度を取っている国も多いかもしれない。ただそれにもかかわらず、現代の国際秩序の中で、多くの国に「人権」を尊重しているかのように振る舞わないといけないという制約、「論理」的に外交を行っているかのように振る舞わないといけないという制約があり、それに基づいて行動しているのは事実である。まして、先進国と言われている国においては、ジャーナリストや政治家、文化人等が、「人権」や「論理」に基づいた振る舞いを要求されている。
単一の価値観の正しさを信じている人からすれば、むしろ人権を尊重しない独裁国家や、論理的ではない身勝手な人々を排除しないといけないと感じるかもしれない。しかし、そもそも人々の価値観が多様でばらばらだということを前提に考えれば、緩やかながら多くの人々が共通する価値観を受け入れているということは奇跡とも言える現象ではないだろうか。
一般に、私たちの価値観は多様であるが、コミュニケーションが成り立つ範囲で価値観の斉一化が起きている。ここで「コミュニケーションが成り立つ範囲」というのには、家族、友達、会社、趣味のサークル、特定の言語を話す人、論理的な議論をする人、人権を前提にした国際秩序…といった様々なものがあるだろう。先ほど挙げた「人権」と「論理」はそうした「コミュニケーションが成り立つ範囲」の一つに過ぎない。さまざまな「コミュニケーションが成り立つ範囲」において、多様性を保ちながらも斉一的な価値観が成立しているのである。
私たちは、こうして「コミュニケーションが成り立つ範囲」で成り立っている価値観によって、世界を理解しているのであり、この価値観は、多様性と斉一性の両方を併せ持っている。これは、「相対主義のパラドックス」において問題にされた「価値観の多様性はどのような価値観から主張できるのか」という問いに対する答えにほかならない。つまり、価値観もまた、多様性と斉一性という相反する性質の中で成り立っているのである。
◎ システムという概念
以上、「生物の種」「心」「価値観」という3つの対象について、多様性と斉一性という二つの性質が成り立っていることを示してきたが、これらはいずれも「システム」と言われているものである。このことは非常に不思議な事態である。なぜなら、「生物の種」「心」「価値観」、それぞれにおける「多様性」の意味はかなり異なるし、「斉一性」の意味もかなり異なる。全く異なるシステムが、「多様性と斉一性」という性質を持つのは偶然なのだろうか、それともシステムには何か一般化できる特徴があり、それによって「多様性と斉一性」という性質がもたらされているのだろうか。この問いに完全な答えはないが、半分くらいであれば説明することができる。
そもそもシステムとは何だろうか。システムの定義にはさまざまなものがあるが、一般に以下の状況で使われる言葉である。
(1) 複数の要素A、B、C…によって構成される全体としてのSがあり、さらに、個別の要素ではなく全体Sとしての挙動が問題にされるというときの全体S
ここで、「全体Sとしての挙動が問題にされる」とはどういうことだろうか。たとえば、遺伝子の全体が生物の種を作る、というとき、「遺伝子が何か」ということは、とりあえず理解可能なものとして、問題にされていないが、生物の種が全体としてどのように変化するかは良く分からないということである。そういう前提の元で対象が語られている時、全体Sは、「システム」ということができる。たとえば、CPUやハードディスクといった部品の集合としてコンピュータ(コンピュータ・システム)を見るとき、個別の部品の動作は単純だが、全体として複雑な動作をするということが注目されている。
ただし、「システム論」という分野では、システムの中でも主に、異なる要素A、B、C…の全体としてのシステムSではなく、同じ種類の要素Cの全体としてのシステムSが扱われることが多い。特に、同じ種類の要素Cが、個別に把握することができず、統計的、全体的にしか扱うことができないとき、システムの概念が用いられる。まとめると、以下のように定義できるだろう。
(2) 統計的・全体的にしか扱うことができない多数の同じ種類の要素Cによって構成される全体Sがあって、全体Sとしての挙動が問題にされるというときの全体S
先ほど、生物の種、心、価値観はいずれも、この意味でのシステムと言えるものである。
◎システムをどのように理解するか
ここで、「要素ではなく全体Sとしての挙動が問題にされる」とはいったいどういうことなのだろうか。たとえば、目の前の石ころが、どうして石ころとして成り立っているのだと考えたら、場合によっては非常に複雑な問題である。物性物理学者だったら石を構成する原子同士が電磁気的な力で複雑に相互作用することで石として成り立っているということを考えるかもしれないけれど、普通はそんなこと考えない。遺伝子とか、行為パターンとか、価値観だって、見方によって複雑な問題だけれど、とりあえず「そういうものだよね」っていうことで納得するわけだ。「心」だって「生物種」だって「世界」だって同じで、普通は、それを要素に分解して理解しようとはしない。ただ、「とりあえずそういうものだ」としか考えないはずである。
でも、ある視点からすれば、やはり石ころは原子によってできている、生物の種は遺伝子によって成り立っている。こうして、「とりあえずそういうものだよね」として理解されている全体としてSと、同じく「とりあえずそういうものだよね」として理解されている要素があり、「ある視点から見たときに、Sが複数の要素によって成り立っているものとして理解できる」とき、Sがシステムとして見えるのである。「石ころは複数の原子によってできているよね」とか、「生物の種は複数の遺伝子によって成り立っているよね」とか言う見方をすることによって、初めてシステムと要素という関係が見えてくるのだ。要するに、システムがシステムとして成り立っている理由は、システムの側にあるわけではなく、システムを観察する認識の仕組みの方にあると言える。
◎システムと非システムの間
このように言うと、システムというのは非常に特殊なものであるかのように思うかもしれないが、そうではない。なぜなら、世界のあらゆるものは何らかの意味で「システム」と呼ぶことができるものだからである。
私たちがある対象について説明しようとしたり、より深く理解しようとしたりすると、結局のところ「複数の要素に分解して考える」ことになる。こういうことを言うと、「自分は違う」って人がいそうだけど、実は、そういう人でも結局のところ分解の仕方が違うだけで、「要素に分解して考えている」ことには変わらないのだ。たとえば、ある人間がいたとする。その人間を理解するために、メスでバラバラにして理解しようとするのが解剖学者。細胞まで分解してフローサイトメトリーという機械で分析するのは細胞学者や分子生物学者かもしれない。こういう立場は、しばしば「要素主義」「還元主義」と言って批判にされるけれど、要素主義を批判する人だって、実は別の要素主義に過ぎない。その人にいろいろ質問を投げかけて、返ってきた反応で理解しようとする人は、「質問に対する反応」という同じ種類の要素に分解して理解しようとしているのに過ぎないし、その人の生い立ちをたどることでその人を理解しようとする人は、その人を「因果関係」という同じ種類の要素に分解して理解しようとしているのに過ぎない。結局のところ、どの場合も「分解して理解しようとしている」ことには変わらず、分解の仕方が違うだけなのだ。「分解して理解しようとする」ことの反対は、石があったときにただ石として理解するように、「ありのままの対象として受け入れる」ことだが、「何かについて説明する」というとき、すでに要素主義や還元主義に一歩踏み出しているのである。ある人間を理解しようとするとき、石ころのように「ただ人そのもの」として理解して納得できる人はあまりいないだろう。
つまり、こうまとめられる。世の中に認識に先立つシステムなど存在しない、しかし、私たちが何か特定の対象を取り上げて理解しようとしたり、説明しようとしたりするとき、私たちはその対象を同じ種類の要素に分解して理解している。そこで見いだされているのは、まさに、システム論が対象とする「同じ種類の要素によって構成されるシステム」にほかならないのだ。私たちが何かを理解しようとしたり、説明したりするとき、そこには常にシステムが見いだされていることになる。つまり、システムと非システムの境界線はどうやってもシステムの側にはなく、システムを観察する観察者の側にあるのである。
◎システムの多様性と斉一性
そうだとすると、「なぜ、システムには多様性と斉一性があるのか」という問題の答えは、少しだけ光が見えてきたような気がしないだろうか。端的に言うと、「それもまた、人間の認識の問題」というのが答えである。
私たちは、ある対象をシステムとして見るとき、何らかの要素に分解して、その全体としてシステムを見ている。ただ、要素がどのようにシステムを作っているかは、たいてい完全には分からない。時には単純化したモデルに基づいて数式を立てたりするけれど、それで完全に分かるわけではないのだ。原子と石、遺伝子の生物種の関係だって同じ。さまざまな理論があるものの、完全に記述できる理論はない。
だから、私たち人間が注目できるのは、「要素の性質のばらつきがシステムにどのような影響を与えているか」ことと「要素に共通する性質がシステムにどのような影響を与えているか」この2種類しかないのだ。これは言い換えれば多様性と斉一性にほかならない。(原子と石の関係を扱う)統計力学だろうと、(遺伝子と生物の種の関係を扱う)集団遺伝学だろうと結局のところ、「要素に共通する性質(斉一性)」、「要素の性質のばらつき(多様性)」に関する学問に過ぎない。
システム論が扱うシステムは、主に、A、B、C…というように異なる要素によるシステムではなく、統計的、全体的にしか扱うことができない同じ種類の要素Cによって構成されるシステムである。ここで、システムの要素が「同じ種類」と言えるということは、その時点で、何らかの共通する性質(斉一性)が見いだされているということにほかならない。何てことはない。システムはシステムとして観察された時点で「斉一性」が見いだされており、それがシステムの成り立ちに重要なものとして理解されているのである。
一般に、私たちがSという対象を説明しようとするとき、その対象を「同じ種類の要素C」によって説明し、要素C同士の共通性が見いだされていないといけない。たとえば、生物の種を、遺伝子をもとにして説明しようとするとき、遺伝子同士の共通点が見いだされていることを前提である。また、ある人の特徴を説明するのに、さまざまな事例を集めて説明しようとした場合、その事例に共通する性質が見いだされていること前提である。いずれの場合、説明が行われた時点(システムとみなされた時点)で斉一性が見いだされており、さらに、それがシステムの成り立ちに重要なものとして理解されているのだ。
一方、要素の差異に関して議論しようとすると、統計的、つまり、「ばらついているかばらついていない」か、あるいは「どのようにばらついているのか」という観点からしか分析できない。ここでは、多様性の観点からシステムを見ていることになるのである。
とは言っても、全てのシステムで多様性がシステムの成り立ちに必須であるかというとそうではない。たとえば、統計力学では、原子の挙動の違い(多様性)が石ころの成り立ちを考える上で重要だと考えるが、高校で習うような古典的な化学では、原子に共通する性質だけから石ころの性質を説明しようとする。この場合は、斉一性は問題にされているが、多様性は問題にされていない。実際には多様性があるが、石ころの成り立ちには関係しているとみなされてはいないのである。一方、ある人の特徴を説明するのに、その人が「おっちょこちょい」という事例だけを集めた場合、やはり「斉一性」は問題にされているが、多様性の方は問題にされていない。実際の事例は多様であるけれど、その人の特徴を説明する上で、多様性は問題になっていないのだ。
ただ、遺伝子によって成り立っている生物の種、行為パターンによって成り立っている心、価値観によって成り立っている世界、といったものを扱うときには、やはり、「多様性」が問題になっている。これがどうしてかということについては「自然の不思議」としか言いようがないが、いずれにせよ、人間はある種のシステムを「多様性と斉一性」によって成り立っているものと見なしているのである。ここで比喩的に「生命」という言葉を使うのであれば、こうしたシステムを「生命的システム」とでも言うことができるだろう。多様性と斉一性の両方によって成り立っているシステムは、あたかも生命体のようにとらえどころがなく、自律的に変化するように見えることが多いからだ。
(3) 統計的・全体的にしか扱うことができない多数の同じ種類の要素Cによって構成される全体としてのSがあって、全体Sとしての挙動が問題にされるというときの全体Sのうち、要素Cの多様性がSの成立に必須であるもの。(生命的システム)
こうして、システムには、「斉一性だけが問題にされるシステム(非生命的システム)」と「斉一性と多様性の両方が問題にされるシステム(生命的システム)」の両方があることになる。生物の種、心、価値観という3つのシステムが、「多様性と斉一性」という特徴を持っているのは、たまたま私が「多様性と斉一性」を見いだしているシステム(生命的システム)を選んだからに過ぎないとも言える。しかし、こうしたシステムが多く存在するということは、やはり自然の摂理とでも言うしかないだろう。
「多様性と斉一性」という問題は、こうしたシステムに関する議論の深みにつながっているのだ。
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