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恋愛はダブルバインドだ―ツンデレが受ける理由、そしてモテルための秘訣

日記・コラム・つぶやき | 2010/07/31

恋愛必勝テクニックはないと言われるが、それでも踏まえておかなければいけないポイントはあると思う。そして、そうしたポイントの一つが、「相手をダブルバインドに陥らせる」ということだ。

◎ダブルバインドとは何か

ダブルバインドとは何だろうか。たとえば、ある子供が「自分の意見を持ちなさい」と言われて、自分の意見を言ったとする。すると、「自分の意見を持つというのは、そんな簡単なことではない」と怒られる。このように、あるメッセージと、そのメッセージの解釈についてのメッセージ(メタメッセージ)が矛盾しており、矛盾する異なるメッセージの板挟みになっている状況をダブルバインドと言う。

グレゴリー・ベイトソンは、このダブルバインドという造語を考案し、これが統合失調症の原因になるという仮説を立てた。この仮説は、現在では支持されていないが(詳しくは末尾の「補足」を参照)、人間がダブルバインド的状況に置かれると混乱し、判断不能になる場合があるのは事実だ。

◎恋愛とダブルバインド

たとえば、こんな状況を考えてみてほしい。向こうに異性が座っている。すごい好みではないが、まぁ、結構いけてる方だ。その異性がこちらをチラっと見た気がする。なんか気になって、こちらも相手を見たら、相手は迷惑そうに目を逸らす。こんな状況で多くの人は、「あの人は自分のことを好きなのだろうか?」と頭がいっぱいになってしまうのではないだろうか。もちろん、相手があまりにも魅力的でなかったら別だが…。

同じような例は他にもいくらでも考えられる。遊び人の異性と付き合っていたとする。その異性は「あなただけを愛してる」という気持ちを伝えてくれるが、もしかしたら、他のたくさんの人に言ってるのかもしれない。こういった状況で、「本当に愛してくれているのだろうか?」と思うことで、さらにのめり込んでしまう人は少なくない。

恋愛とは少なからずダブルバインド的状況である。永遠の愛が語られるが、そうして語られた言葉の意味は永遠ではないかもしれない。そうした葛藤の中で恋愛がある。

◎ダブルバインドを設計する

だから、自分は、単なる好意を恋愛の域にまで高めるものがあるとしたら、それはダブルバインドではないかとにらんでいる。つまり、もし目当ての異性がいて、その人を自分に対して振り向かせたいのなら、意図的にダブルバインド的状況を作ることが必要なのだ。

相手に「好き」というメッセージを与えたと思ったら、その「好き」が本心ではないかのようなメタメッセージ(メッセージの解釈についてのメッセージ)を与える。逆に「嫌い」というメッセージを与えたかと思ったら、その「嫌い」が本心ではないかのようなメタメッセージを与える。このバランスをうまくコントロールすることが、恋愛に成功するためのコツではないだろうか。

たとえば、つきあう前であれば、いつも送っているメールをちょっと遅らせてみる。そうすると相手は「もしかして嫌われたのかもしれない」と思う。そこで、すかさず「ごめん、すごく忙しかったんだ」と返す。デートのときには、楽しい話で盛り上げる一方、突然相手のことを気に掛けてないかのようなそぶりをする。

ある程度深い関係であれば、抱きしめながら「愛している」と言った後、「・・なんて言ってみたりして」とふざけてみる。相手がすねて見せたら、「こう見えても照れ屋だからさ」と否定する。何とも言えない、「リア充」っぷりに、登場人物を殴りたくなってきたが、恋愛って要するにこういうことなのだ。

これがうまくできない人は、純粋な「好き」というメッセージを送ってしまう。これは言うまでもなく、恋愛に関して「キモい」と言われる人の典型だろう。逆に、全く「好き」というメッセージを送らないのもダメだ。これではそもそも恋愛が始まらない。

◎「ツンデレ」が教えてくれること

さて、こうした「ダブルバインド」をゲームやアニメ等、フィクションのジャンルとして確立させたのが「ツンデレ」である。ツンデレとは、「普段はツンツンしているけれど、たまにデレっとしたところを見せる」という意味で、ここ数年流行のジャンルだ。たとえば、ヒロインはいつも冷たい態度を取りながら、主人公から離れようとしない。たまに、優しくしてくれたことに主人公が喜ぶと、「別にあなたのことが好きってわけじゃないんだかね」とうそぶく。ツンデレはダブルバインドの典型例であり、ここには、恋愛の法則とでも言える知恵がつまっているのである。

ツンデレは「ツン:デレ」が90:10とか、99:1というように「ツン」の方に偏っているのが特徴だ。これは、男性の女性に対する片思いを再現しているので、一般人が同じことをやった場合、よほど自分自身に魅力がないと失敗する。ただ、だからといって、「ツン:デレ」を0:100にしてしまうのは良くない。一般に、「ツン」の割合を高くすればするほど、恋愛のハードルは高くなる(自分の魅力が必要になる)、だから自己評価の低い人は「デレ」の方に傾いてしまいがちだが、「ツン」の割合を低くし過ぎると、相手はそもそも恋愛感情を抱いてくれず、「キモい」と思われてしまうのだ。メッセージとメッセージの解釈についてのメッセージ(メタメッセージ)の矛盾をうまくコントロールしながら、「ツン:デレ」を適切な比率に保つのが恋愛の秘訣なのである。

では、「ツン:デレ」の比率はどのくらいがいいのか。これは一概に言える問題ではないが、自分は「ツン:デレ=7:3」くらいがいいのではないかと思っている。恋愛を極めるとは、自分自身に合った「ツン:デレ」比率を見つけることなのかもしれない。

◎補足 ダブルバインドとアスペルガー症候群

ベイトソンのダブルバインドが統合失調症の原因であるという仮説が今日でも支持されているという話は聞いたことがない。ダブルバインド的な状況(高度な文脈解釈が要求される状況)が苦手な症状としてアスペルガー症候群が知られている。

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遺伝子と文化の間

情報学 | 2010/07/22

◎遺伝子と文化の比率?

「男女の性差を決めているのは文化的要因か、遺伝的要因か」という議論があります。たとえば、以下のような主張を聞いたことはないでしょうか。

・男女の性差は遺伝的に決まる面があるのは事実。男女で得意な分野が違うことは当然。したがって、性別役割分業は肯定される。(遺伝的要因重視)
・遺伝的に決まる男女の性差(セックス)があるにしても、社会的な役割を決めているのは文化的に作られた性差(ジェンダー)にほかならない。したがって、性別役割分業は肯定できない。(文化的要因重視)

女性がほとんどの職業に従事するように今日では、一見して、後者の主張が受け入れられているようにも見えます。しかし、「たまたま男性的な能力に優れている少数の女性が男性と同じ職業に就くのは良いが、それは大多数の女性に成り立つものではない」といった主張もあり、理論的な論争に関しては決して決着が付いたわけではないのです。

ここで、この論争をまとめると以下のようになるでしょう。

1. 性差は「遺伝子」「文化」の両方の影響で決まる
2. 性差は「遺伝子」によってのみ決まる
3. 性差は「文化」によってのみ決まる

常識的に考えると1が正しそうです。とりあえず、このことには疑問を感じないことにしましょう。そうすると、次に考えつくのが以下のような疑問です。「性差は『遺伝子』『文化』の両方の影響で決まるとしたら、その比率はどのくらいか?」。ただ、結論から言うと、遺伝子と文化の比率はどうやっても求めることができません。これはなぜでしょうか?今回の記事では、このことをもとに、遺伝子と文化の関係について考えていきたいと思います。

◎性差の数値化

性差に与える遺伝子と文化と影響を数値化できない理由の一つとして、そもそも性差を数値化するのが困難ということがあります。たとえば、「家事への適性」は数値化できるでしょうか。たしかに、単位時間当たりに大根の千切りをいくつ作れるかということは数字で表すことができるかもしれませんが、「家事への適性」とはそんな単純なことではないはずです。一般に性差と言われているものの大部分は数値化が困難である以上、比率を数値化できないのは当然のことです。

ただ、これは解決不能な問題ではありません。「100m走をどれだけ早く走れるか」「知能テストでの空間把握能力がどの程度かと言うように、非常に限定した能力だけを扱えば、その能力に関しては性差を客観的に求めることができるかもしれないからです。これはいわゆる「性差」よりはかなり狭い意味になりますが、それでも全く意味がないわけではないでしょう。

◎遺伝子から文化への影響関係

では何が問題なのでしょう。重要なポイントは、遺伝子と文化の影響関係にあります。


図1

図2

図1のように、遺伝子と文化がそれぞれ性差に影響していたとします。ここで、文化を数値化するのは不可能ですが、遺伝子と性差はある程度数値化できるので、統計的手法を使えば、遺伝子:文化の比率を求めることができます。

しかし、実際には図1は正しくありません。男女の性差に関しては、図2のように遺伝子→文化という影響関係があり、この影響を実験的・統計的に取り除いたり、数値化したりするのは不可能なのです。

たとえば、遺伝的に男として生まれた子供は、その文化において男として育てられます。もし、周囲の人が男であることに目をつぶって育てたと主張したとしても、無意識のうちに男として見ているということは否定できないでしょう。したがって、遺伝子→文化の影響を取り除くことは不可能です。一方、影響そのものを取り除くことはできなかったとしても、その影響を数値化することができれば、統計的手法によって遺伝子:文化の比率を求めることができます。しかし、「性差」でも数値化することは難しいのに、まして「文化」を数値化することは不可能でしょう。つまり、遺伝子→文化の影響を数値化することは不可能なのです。

これと正反対なのが、教育における遺伝子と環境の比率の問題です。教育においても一般には、遺伝子→環境という影響関係があり、この影響を実験的・統計的に取り除いたり、数値化するのは不可能です。ただし、教育の場合、双生児を対象にした研究をすることで、これが可能なのです。これは近年注目されている里親双生児研究に明らかです。里親双生児とは、異なる家に里親に出された一卵性双生児のことです。こうした双生児は全く同じ遺伝子を持つ一方、環境に関しては違うので、統計的手法を使って、遺伝子:文化の比率を求めることができるのです。


性差に関して里親双生児研究と同じ条件で調べるためには、一卵性双生児(性は必ず同一)が、異なる家に里親に出され、片方は男として、片方が女として育てられたというような状況を想定しなければいけませんが、こんな特殊な状況は世界にいくつもないと思われ、したがって統計的な研究をすることはほぼ不可能でしょう。遺伝子:文化の比率を求めることはどうやってもできないのです。

佐倉統は、『進化論の挑戦』の中で、遺伝子と文化の関係を「作曲家と演奏家の関係」に譬えています。あるコンサートで音楽を聴いたとき、そのどこまでが作曲家のおかげでどこまでが演奏家のおかげか、割合を数値的に決めるのが不可能だということはちょっと考えれば分かるでしょう。一般に、X→Yという影響関係をなくすことも数値化することもできない場合、XとYのZに対する影響の比率を求めることは不可能なのです。

◎世代を超えた影響関係

さて、ここまでの話では、単に人間の一生を取り上げて、遺伝子→文化という影響を取り除いたり数値化したりできないことを示してきました。しかし、もし何らの方法でこれに成功したとしても、遺伝子:文化の比率を求めることはできません。それは、遺伝子と文化は世代を超えて相互に関係しあっているからです(図3)。

図3

まず、私たちの文化で女性と男性を区別するのは、言うまでもなく遺伝的差異がベースになっています。遺伝的性差がなければ、文化的な性差が生まれなかったと考えるのは当然のことであり、これを否定する人はいないでしょう。

一方、文化→遺伝子はどうか。こちらに関しては、「文化的性差がなければ遺伝的性差は存在しない」とまで言うことができないでしょうが、理論的にはさまざまな影響が予想されます。たとえば、女性の方が100m走を走る速さが遅いことは、人類の歴史を通して、女性が文化的に抑圧されてきたからだという仮説は十分考えられます。科学的に証明するのは難しいでしょうが、逆に否定するのも困難です。少なくとも言えることは、世代を超えた文化→遺伝子という影響にはさまざまな可能性があり、それを否定することはできないということです。そして、この影響を否定することができないということは、やはり統計的な手法で影響関係を分析することが不可能であるということを示しているのです。

このことは、遺伝的性差を重視する人が、「性差は全て遺伝子のみで決まっている。文化も含めて遺伝子の問題だからだ」という主張したり、文化的性差を重視する人が「性差は文化によって決まるもの。遺伝的な影響は本質ではない」と主張することと関係しています。遺伝子と文化が相互に影響しあう以上、遺伝子を中心に考えればすべて遺伝子の問題として考えられるし、文化を中心に考えればすべて文化の問題として考えられるのです。したがって、このどちらの主張も否定することはできません。遺伝的性差と文化的性差の対立は、いわば、一つの問題に対する二つの見方の対立に過ぎないと言うこともできるでしょう。

◎文化と遺伝子の関係をどう理解するのか

一般に、何かに影響を与える要因が複数あったとき、それらによる影響の割合を決めることができるとは限りません。もちろん、決めることができる場合もありますが、それはむしろ特殊な状況なのです。なぜでしょうか。原因(影響を与える要因)とは、「ある視点からものごとを見る」ことで明らかになるものに過ぎないからです。Aという観点から見たときはXという原因が浮かび上がり、Bという観点から見たときはYという原因が浮かび上がる。このとき、XとYを比較することはできません。これらはそもそも別の観点から見たときに原因であり、比較すること自体が不可能だからです。

遺伝子と文化の関係も、この一例に過ぎません。性差は遺伝子という観点から理解することもできるし、文化の観点から理解することもできるのです。これはどちらも間違っているわけではありませんが、その影響を比較することはできません。

これを、先日の記事(システムの多様性と斉一性)で書いたシステムという用語を使って説明するなら、遺伝子と文化はそれぞれシステムを構成しているということになるでしょう。一般にシステムというのは、ある対象を特定の視点で見ることで初めて立ち現れてくるものであり、異なる視点から見えるシステムを数値的に比較することは不可能なのです。

性差をめぐる議論が混乱する原因は、こうした「視点の問題(システムの違い)」が無視されているからにほかなりません。性別役割分業の議論がまさにシステム論の問題なのはもちろん、パートナーとの喧嘩の原因も、もしかしたら、こうしたシステム論的な問題かもしれないのです。もちろん、だからと言って、システム論を理解すれば、世界中の男女の喧嘩が解決するかというと、さすがにそれはどうかと思いますが…。遺伝子と文化の関係はなかなか奥が深い議論です。

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出生前診断は優性政策か?

経済・政治・国際 | 2010/07/20

◎遺伝的保守主義

こんな思考実験を考えたことはないだろうか。

もし、非常に福祉が充実した世の中になって、障害者が全く不自由なく生活でき、普通と同じように子供を作れる世の中になったとする。このとき、長期的に見て、社会は障害者だらけにならないだろうか?

おそらくこれは正しい。この仮定が成り立つような状況が近いうちに来ることはないし、したがって、あくまで思考実験なのだけど、仮定が成り立つ限りにおいて正しい。

なぜ、健常者が健康な体で生まれてきたか。それは、障害の遺伝子を持つ胎児が流産によって生まれて来なかったり、障害を持って生まれてきた人が子供を作らないことが多いなど、障害の遺伝子が子孫を残す確率が低いからにほかならない。もし、こういうメカニズムが一切働かず、障害を持つ遺伝子が子孫を残す確率と健常な遺伝子が子孫を残す確率が同じだとしたら、遺伝子は次第にランダムになり、すべてが障害を持った遺伝子になってしまう。健常者が健常でいられるのは、障害者の遺伝子が子孫を残すことができないで途絶えていくからにほかならない。

ここで、大きく二つの立場があると思う。

一つは、

a) 「社会が豊かになって障害者を支えられるようになり、その結果障害者が増えるのであれば問題ない。障害者が増えることで社会的に問題があるのなら分かるが、『問題がない』という前提で、障害者が増えることをどうして否定する必要があるのだろうか?
その発想こそ差別じゃないか。」

という立場だ。これは、障害者福祉論に多い立場だが、理論的で非常に説得力がある。

一方、もう一つは、

b) 「そうとは言っても、自分の子供、孫たちが障害者というのできれば避けたい」

という立場だ。財政的な費用が解決され、子供を産むことに支障がなくなっても、障害が障害ではなくなるわけではなく、不自由な暮らしを強いられることに変わりない。できれば自分の子供や孫が障害者になることを避けたい、というのは別に変わった意見ではないだろう。これは全くもって感覚的で、a)に比べると論理性を見る影もない。でも、実際には多くの人はb)を支持するのではないだろうか。こうした立場を「遺伝的保守主義」とでも言うことにしよう。遺伝的保守主義は差別か、あるいは現代社会で許されるのかということについては次の節以降で取り上げる。ただ、とりあえず、ここで確認しておきたいのは、b)のように考える人は、実際にはそれなりの数に上るのではないかということである。遺伝的保守主義が差別だと叫ぶのは簡単だが、これが感覚的な問題である以上、遺伝的保守主義そのものを否定するのは困難なのである。

◎平等と遺伝子

遺伝的保守主義の立場は、しばしば、障害者には断種や不自由な暮らしを強いるべきという結論を導くものとされる。しかし、これは誤解である。かりに遺伝的保守主義の立場を取ったとしても、必ずしも障害を持って生まれてくる可能性の高い胎児を人工妊娠中絶したり、障害者には断種や不自由な暮らしを強いるべきことは肯定されない。

というのも、遺伝的保守主義は、理論的には、

障害を持つ遺伝子が子孫を残す数<<<健常な遺伝子が子孫を残す数
(左辺より右辺の方がずっと多い)

という条件が満たされるべきことを主張するだけであり、障害を持つ遺伝子が子孫を残す数をゼロにするべきと主張するわけではないからである。だいたい、今の日本で、多くの身体障害者は圧倒的に生きづらく、簡単に子供を作ったりできる状況ではない。どんなに障害者に手厚い福祉を施したところで、

障害を持つ遺伝子が子孫を残す数<<<健常な遺伝子が子孫を残す数

という条件が変わることはないだろう。経済的な支援によって左辺が10倍やそこらになったからと言って、この関係は変わらないのだ。この条件が圧倒的に満たされている(満たされてしまっている)現在のような社会において、障害者に対する福祉を手厚くすることに、ためらいはないはずだ。

一方、私たちの社会は、遺伝子が保たれれば、それで存続するかというとそうではない。
平等、人権、こういった価値を捨ててしまえば、社会は争乱状態になり、遺伝子どころの騒ぎではなくなるだろう。こうして私たちの社会が存続していくための重要な価値のである「平等」や「人権」は、社会が、障害者に対して、健常者と同じように扱うべきこと。たとえば、遺伝的な原因以外で障害を持った障害者に対する福祉を手厚くするのであれば、遺伝的な原因で障害を持った障害者に対しても同じような福祉を保障しなければいけないことを示している。これは私たちの社会が安定して存続するためのコストとも言えるだろう。こうして「平等」や「人権」を重視する考え方を「制度的保守主義」と言うことができる。

つまり、障害者福祉は、制度的保守主義(人権や平等の観点)の立場から要請される一方、遺伝的保守主義(自分の子供は健常者であってほしい)に反している。遺伝的保守主義と制度的保守主義は矛盾しているのだ。まとめると以下の二つの価値観の対立の問題ということになるだろう。

・ 子供や子孫が障害を持って生まれてくることは避けるべき(遺伝的保守主義)
・ 障害者にも人権を認めるべき(制度的保守主義)

ただし、この対立の結論は明からである。制度的保守主義(人権や平等の観点)から非常に重要である一方、遺伝的保守主義(自分の子供は健常者であってほしい)からは大したマイナスにならない。しかも、遺伝的保守主義は論理的な結論ではなく、個人の価値観のレベルの問題である。したがって、両者のバランスを考えたら、障害者に対する差別をなるべくなくしていくということが取られるべき選択肢ということになる。

この問題に関して、人類が犯した大きな誤りが優性政策だったと言える。優性政策とは、

障害を持つ遺伝子が子孫を残す数<<<健常な遺伝子が子孫を残す数

という状態を人為的に作り出すために、人権や平等と言った価値を切り捨てようという議論だ。これは、ナチス・ドイツやアメリカなど多くの国において、障害者に対する断種や虐殺などが行われたことをきっかけに問題になったものである。優性政策は現在では繰り返してはならない人類の暗い過去として理解されており、こうした立場を肯定する人は誰もいないと言って良い。なぜ、優性政策が間違っていたかというと、それはこうした政策において、価値観の問題であるはずの遺伝的保守主義(自分の子供は健常者であってほしい)が過大に重視され、制度的保守主義(人権や平等の観点)が無視されていたからにほかならないのだ。

◎出生前診断

ただ、ここで忘れてはいけないのが、これはあくまで「バランスの問題」だということである。

今日、出生前の胎児に対して遺伝子診断をし、あらかじめ重い障害を持って生まれ来るとされる胎児を人工妊娠中絶する「出生前診断」が盛んに行われている。これは遺伝的保守主義(自分の子供は健常者であってほしい)や財政の観点からは支持されるが、障害者福祉を推進する人から反対されることがある。出生前診断は、障害者に対する差別を助長するという立場だ。出生前診断に反対する人は、それを「現代の優性政策」と呼ぶ。正確に言うと、出生前診断に賛成する人の多く(全てではない)は、社会的に出生前診断を強制することを主張しているわけではなく、実際に出生前診断を行うかどうかは個人の判断にするべきという主張が主流だ。これに対して反対派は、障害者に対する差別を防止する立場から、それを禁止するべきと主張しているのだ。

こうして出生前診断に反対する意見に対して自分は「ちょっと待ってくれ」と言いたい。優性政策が問題にあるとされるのは、人権や平等の観点からであるが、それは優性政策が「生きている人の人権や権利」を犯すからである。ところが、出生前診断は、生きている人の権利を侵すわけではない。もちろん、人によっては、まだ生まれてこない胎児にも生きている人と同じレベルの権利を認めるべき(したがって、どんな理由であろうとも人工妊娠中絶は認められるべきではない)という立場の人もいるだろうが、全ての人がそう考えているわけではない(特に日本ではかなり少数派)というのは言うまでもないことだろう。

つまり、出生前診断の是非は、以下の2つのいずれの価値観を重視するべきかという問題である。

・ 子供や子孫が障害を持って生まれてくることを避けるべき(遺伝的保守主義)
・ 胎児にも生きる権利を認めるべき(生殖的保守主義)

この対立は、優性政策の場合とかなり異なる。優性政策の場合、片方が一部の人の価値観の問題で、片方が社会にとって非常に重要な価値観の問題だった。ところが、出生前診断の場合、いずれも「微妙」な問題である。こちらの場合、簡単に結論を出すことはできない。特に、日本のようにキリスト教文化が浸透しておらず、人工妊娠中絶に寛容な国においては、出生前診断を一律に悪と決めつけることはできないだろう。

そしてそうだとしたら、翻って、遺伝的保守主義が差別だという理由は何だろうか。自分の子供や子孫は健常者として生まれて欲しい。これは、エゴと言うかもしれないが、現実に多くの人が共有している感覚である。優性政策の場合は、人間社会が守るべき価値である「人権」や「平等」と矛盾するために、この感覚を抑圧することが求められたが、同じことが出生前診断に成り立つとは言えないのである。

むしろ、出生前診断は、

障害を持つ遺伝子が子孫を残す数<<<健常な遺伝子が子孫を残す数

という条件を満たすための措置の一つであり、この措置が認められている限り、遺伝的保守主義を否定する合理的で理知的な人だけではなく、大多数を占めると思われる遺伝的保守主義者も「今、生きている障害者」に対する福祉を否定することができなくなる。民主主義の社会では、福祉も民主的に決まる政策の一つであることを考えれば、このことはむしろ障害者福祉の利益になる。出生前診断は、遺伝的保守主義の立場から、障害者福祉に反対する人に対する対抗策になりえるのである。

◎人が生きるということ

一般に、全ての遺伝子が生き残っていくとしたら、遺伝子はランダムになってしまい、(健常者も障害者も含め)人間は生まれてこなくなってしまう。私たちの生は、「子孫を残さずに消えていったたくさんの遺伝子」に支えられて初めて成り立っているのだ。たとえて言うなら、「屍で踏み固められた大地の上」で生きているのが私たちということになる。どんなに人間が平等に生きていける社会を作ったとしても、遺伝子を平等にすることができないのである。むしろ、遺伝子の不平等によって初めて、人間社会で平等という価値を尊重することが可能になっているとも言えるだろう。これは、決して変えることのできない生命の摂理にほかならない。

出生前診断の場合は、ちょっと複雑だが、基本的には同じ議論が成り立っている。自分の子供や子孫は障害を持たないで生まれて欲しい。これは個人の価値観の問題かもしれないが、現実には多くの人が共有しており、民主主義の政策決定で主導権を握っている。しかも、これは非常に感覚的な問題であり、教育によってこの状況を変えるのは困難である。そして、彼らの感覚を充足させるためには、子孫を残すことができない、言わば差別を受ける遺伝子が必要なのだ。一方、私たちの社会の制度的な原理である「平等」や「人権」は、現実に生きている障害者が「不自由なく生活でき、普通と同じように子供を作れる世の中」を目指すことを要請している。そうだとしたら、現実に生きている障害者の平等や人権を守るために、胎児の段階で障害を持った遺伝子を排除することを許容するのは仕方ないことではないだろうか。これは「屍で踏み固められた大地の上」でしか生きていくことができない生命としての、受け入れざるを得ない宿命ではないかと思う。

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システムの多様性と斉一性

システム論 | 2010/07/15

◎種の多様性と斉一性

近くの公園を散歩していたら、こんな趣旨の看板が目に入ってきた「生物多様性の維持のため環境保護にご協力ください」。何てことはない文面なのだけれど、ふと「多様性」という言葉に引っかかってしまった。

特別天然記念物「トキ」の絶滅の話で広く知られているように、生物が種として存続していくためには遺伝子に多様性があることが不可欠である。多様性というのは「ランダムであること」「ばらつきがあること」。遺伝子の「ばらつき」がなくなり、すべての遺伝子が同じになってしまうと、生物は環境の変化に非常に弱くなって絶滅してしまうのだ。種の中の個体の遺伝子がばらつきを持つことで、初めて種は存続することができる。

しかし、「多様性」だけで種を維持していくことはできない。人工的に多様性を高めようと思ったら、放射能や紫外線を与えれば良いのだが、過度の放射能や紫外線があると奇形や死産が増え、最後は多様性がなくなって絶滅してしまう。種は、共通の特徴を持つということによって初めて成り立っているという側面もあるのだ。こうして「共通する性質を持つ」ということを「斉一性」と言う。さまざまな個体が共通する性質を持つという「斉一性」は、生物が維持されていくために重要な性質の一つである。

要するに、生物の種は「多様性」と「斉一性」、この矛盾する二つの特徴を同時に兼ね備えることによって成り立っていると言うことができる。だから、厳密に言うと、「生物多様性の維持のために環境保護にご協力ください」というのはおかしくて、「生物多様性と斉一性の維持のために環境保護にご協力ください」とでも言わないといけないかもしれない。まぁ、それが看板として適切だとは思えないけれど、あくまで理論上の話ね。

◎心の多様性と斉一性

さて、こうして「多様性と斉一性の間で初めて成り立っている」というのは生物の種についてだけ言える性質ではない。たとえば、私たちの心についても成り立っているのだ。

私たちはさまざまな立場に立ってものごとを考えることができるし、コミュニケーションの場に応じてさまざまな自分を演じ分けることができる。これは心の「多様性」と言うことができるだろう。心は「小さな自己」とでもたとえられる複数の行為パターンがゆるやかに結合したものとして見た方が適切に理解することができる場合もある。

しかし、そんな私たちも法律や職場など多くの場面で、「責任」を通した統一的な振る舞いを強いられている。また、どんな多様な行為パターンを持っていたとしても、たった一つの「身体」を共有しているという意味で、一貫した自己を持っている。こうして私たちの心が「責任」や「身体」を通して統合され、一貫した行為を行うということは、心の「斉一性」の側面として理解することができるだろう。

◎価値観の多様性と斉一性

一方、「多様性と斉一性の共存」という性質は、「価値観」についても成り立っている。

論理的に考えれば、世界に絶対的に正しいと言える価値観はなく、Aという価値観から見ればBという価値観が間違っていて、Bという価値観から見ればAという価値観が間違っているという状況が存在することになる。いわゆる「相対主義」と言われる立場である。これは、「価値観の多様性」と言い換えることができる。「多様な価値観を尊重することが重要」というのは陳腐過ぎるほど良く聞くフレーズだろう。

しかし、相対主義は根本的な矛盾を抱えていると言われる。つまり、「世の中に正しい価値観はない」という相対主義の立場を取る人は、いったいどの立場からそのように話しているのか分からないという矛盾である。相対主義は、相対主義の主張そのものによって自分自身の立場も否定しているように思えるのである(これを相対主義のパラドックスと言う)。では、「世界には絶対的な価値観がある」かというと、それはそれで論理的に正しくない。「相対主義のパラドックス」は言い換えれば「価値観の崩壊」とでも言える現実を意味している。

ただ、私たちは、言葉によって共有される<私たち>の価値観の中で世界を理解している。ここで言う<私たち>にはさまざまなものが考えられるが、極端な例が、「論理」や「人権」だろう。すなわち、世界の言語はこれほどまでに多様であるにもかかわらず、多くの人々が「論理」や「人権」といった価値観を受け入れている。もちろん、「多くの人々」とは言っても全員ではないし、「受け入れている」と言っても、それを絶対的なものとして受け入れているというわけではない。外交上、当然受け入れられると思われるような論理が通用しない謎めいた国もある。他国から軍事干渉されることを恐れて、表面的に「人権」を尊重する態度を取っている国も多いかもしれない。ただそれにもかかわらず、現代の国際秩序の中で、多くの国に「人権」を尊重しているかのように振る舞わないといけないという制約、「論理」的に外交を行っているかのように振る舞わないといけないという制約があり、それに基づいて行動しているのは事実である。まして、先進国と言われている国においては、ジャーナリストや政治家、文化人等が、「人権」や「論理」に基づいた振る舞いを要求されている。

単一の価値観の正しさを信じている人からすれば、むしろ人権を尊重しない独裁国家や、論理的ではない身勝手な人々を排除しないといけないと感じるかもしれない。しかし、そもそも人々の価値観が多様でばらばらだということを前提に考えれば、緩やかながら多くの人々が共通する価値観を受け入れているということは奇跡とも言える現象ではないだろうか。

一般に、私たちの価値観は多様であるが、コミュニケーションが成り立つ範囲で価値観の斉一化が起きている。ここで「コミュニケーションが成り立つ範囲」というのには、家族、友達、会社、趣味のサークル、特定の言語を話す人、論理的な議論をする人、人権を前提にした国際秩序…といった様々なものがあるだろう。先ほど挙げた「人権」と「論理」はそうした「コミュニケーションが成り立つ範囲」の一つに過ぎない。さまざまな「コミュニケーションが成り立つ範囲」において、多様性を保ちながらも斉一的な価値観が成立しているのである。

私たちは、こうして「コミュニケーションが成り立つ範囲」で成り立っている価値観によって、世界を理解しているのであり、この価値観は、多様性と斉一性の両方を併せ持っている。これは、「相対主義のパラドックス」において問題にされた「価値観の多様性はどのような価値観から主張できるのか」という問いに対する答えにほかならない。つまり、価値観もまた、多様性と斉一性という相反する性質の中で成り立っているのである。

◎ システムという概念

以上、「生物の種」「心」「価値観」という3つの対象について、多様性と斉一性という二つの性質が成り立っていることを示してきたが、これらはいずれも「システム」と言われているものである。このことは非常に不思議な事態である。なぜなら、「生物の種」「心」「価値観」、それぞれにおける「多様性」の意味はかなり異なるし、「斉一性」の意味もかなり異なる。全く異なるシステムが、「多様性と斉一性」という性質を持つのは偶然なのだろうか、それともシステムには何か一般化できる特徴があり、それによって「多様性と斉一性」という性質がもたらされているのだろうか。この問いに完全な答えはないが、半分くらいであれば説明することができる。

そもそもシステムとは何だろうか。システムの定義にはさまざまなものがあるが、一般に以下の状況で使われる言葉である。

(1) 複数の要素A、B、C…によって構成される全体としてのSがあり、さらに、個別の要素ではなく全体Sとしての挙動が問題にされるというときの全体S

ここで、「全体Sとしての挙動が問題にされる」とはどういうことだろうか。たとえば、遺伝子の全体が生物の種を作る、というとき、「遺伝子が何か」ということは、とりあえず理解可能なものとして、問題にされていないが、生物の種が全体としてどのように変化するかは良く分からないということである。そういう前提の元で対象が語られている時、全体Sは、「システム」ということができる。たとえば、CPUやハードディスクといった部品の集合としてコンピュータ(コンピュータ・システム)を見るとき、個別の部品の動作は単純だが、全体として複雑な動作をするということが注目されている。

ただし、「システム論」という分野では、システムの中でも主に、異なる要素A、B、C…の全体としてのシステムSではなく、同じ種類の要素Cの全体としてのシステムSが扱われることが多い。特に、同じ種類の要素Cが、個別に把握することができず、統計的、全体的にしか扱うことができないとき、システムの概念が用いられる。まとめると、以下のように定義できるだろう。

(2) 統計的・全体的にしか扱うことができない多数の同じ種類の要素Cによって構成される全体Sがあって、全体Sとしての挙動が問題にされるというときの全体S

先ほど、生物の種、心、価値観はいずれも、この意味でのシステムと言えるものである。

◎システムをどのように理解するか

ここで、「要素ではなく全体Sとしての挙動が問題にされる」とはいったいどういうことなのだろうか。たとえば、目の前の石ころが、どうして石ころとして成り立っているのだと考えたら、場合によっては非常に複雑な問題である。物性物理学者だったら石を構成する原子同士が電磁気的な力で複雑に相互作用することで石として成り立っているということを考えるかもしれないけれど、普通はそんなこと考えない。遺伝子とか、行為パターンとか、価値観だって、見方によって複雑な問題だけれど、とりあえず「そういうものだよね」っていうことで納得するわけだ。「心」だって「生物種」だって「世界」だって同じで、普通は、それを要素に分解して理解しようとはしない。ただ、「とりあえずそういうものだ」としか考えないはずである。

でも、ある視点からすれば、やはり石ころは原子によってできている、生物の種は遺伝子によって成り立っている。こうして、「とりあえずそういうものだよね」として理解されている全体としてSと、同じく「とりあえずそういうものだよね」として理解されている要素があり、「ある視点から見たときに、Sが複数の要素によって成り立っているものとして理解できる」とき、Sがシステムとして見えるのである。「石ころは複数の原子によってできているよね」とか、「生物の種は複数の遺伝子によって成り立っているよね」とか言う見方をすることによって、初めてシステムと要素という関係が見えてくるのだ。要するに、システムがシステムとして成り立っている理由は、システムの側にあるわけではなく、システムを観察する認識の仕組みの方にあると言える。

◎システムと非システムの間

このように言うと、システムというのは非常に特殊なものであるかのように思うかもしれないが、そうではない。なぜなら、世界のあらゆるものは何らかの意味で「システム」と呼ぶことができるものだからである。

私たちがある対象について説明しようとしたり、より深く理解しようとしたりすると、結局のところ「複数の要素に分解して考える」ことになる。こういうことを言うと、「自分は違う」って人がいそうだけど、実は、そういう人でも結局のところ分解の仕方が違うだけで、「要素に分解して考えている」ことには変わらないのだ。たとえば、ある人間がいたとする。その人間を理解するために、メスでバラバラにして理解しようとするのが解剖学者。細胞まで分解してフローサイトメトリーという機械で分析するのは細胞学者や分子生物学者かもしれない。こういう立場は、しばしば「要素主義」「還元主義」と言って批判にされるけれど、要素主義を批判する人だって、実は別の要素主義に過ぎない。その人にいろいろ質問を投げかけて、返ってきた反応で理解しようとする人は、「質問に対する反応」という同じ種類の要素に分解して理解しようとしているのに過ぎないし、その人の生い立ちをたどることでその人を理解しようとする人は、その人を「因果関係」という同じ種類の要素に分解して理解しようとしているのに過ぎない。結局のところ、どの場合も「分解して理解しようとしている」ことには変わらず、分解の仕方が違うだけなのだ。「分解して理解しようとする」ことの反対は、石があったときにただ石として理解するように、「ありのままの対象として受け入れる」ことだが、「何かについて説明する」というとき、すでに要素主義や還元主義に一歩踏み出しているのである。ある人間を理解しようとするとき、石ころのように「ただ人そのもの」として理解して納得できる人はあまりいないだろう。

つまり、こうまとめられる。世の中に認識に先立つシステムなど存在しない、しかし、私たちが何か特定の対象を取り上げて理解しようとしたり、説明しようとしたりするとき、私たちはその対象を同じ種類の要素に分解して理解している。そこで見いだされているのは、まさに、システム論が対象とする「同じ種類の要素によって構成されるシステム」にほかならないのだ。私たちが何かを理解しようとしたり、説明したりするとき、そこには常にシステムが見いだされていることになる。つまり、システムと非システムの境界線はどうやってもシステムの側にはなく、システムを観察する観察者の側にあるのである。

◎システムの多様性と斉一性

そうだとすると、「なぜ、システムには多様性と斉一性があるのか」という問題の答えは、少しだけ光が見えてきたような気がしないだろうか。端的に言うと、「それもまた、人間の認識の問題」というのが答えである。

私たちは、ある対象をシステムとして見るとき、何らかの要素に分解して、その全体としてシステムを見ている。ただ、要素がどのようにシステムを作っているかは、たいてい完全には分からない。時には単純化したモデルに基づいて数式を立てたりするけれど、それで完全に分かるわけではないのだ。原子と石、遺伝子の生物種の関係だって同じ。さまざまな理論があるものの、完全に記述できる理論はない。

だから、私たち人間が注目できるのは、「要素の性質のばらつきがシステムにどのような影響を与えているか」ことと「要素に共通する性質がシステムにどのような影響を与えているか」この2種類しかないのだ。これは言い換えれば多様性と斉一性にほかならない。(原子と石の関係を扱う)統計力学だろうと、(遺伝子と生物の種の関係を扱う)集団遺伝学だろうと結局のところ、「要素に共通する性質(斉一性)」、「要素の性質のばらつき(多様性)」に関する学問に過ぎない。

システム論が扱うシステムは、主に、A、B、C…というように異なる要素によるシステムではなく、統計的、全体的にしか扱うことができない同じ種類の要素Cによって構成されるシステムである。ここで、システムの要素が「同じ種類」と言えるということは、その時点で、何らかの共通する性質(斉一性)が見いだされているということにほかならない。何てことはない。システムはシステムとして観察された時点で「斉一性」が見いだされており、それがシステムの成り立ちに重要なものとして理解されているのである。

一般に、私たちがSという対象を説明しようとするとき、その対象を「同じ種類の要素C」によって説明し、要素C同士の共通性が見いだされていないといけない。たとえば、生物の種を、遺伝子をもとにして説明しようとするとき、遺伝子同士の共通点が見いだされていることを前提である。また、ある人の特徴を説明するのに、さまざまな事例を集めて説明しようとした場合、その事例に共通する性質が見いだされていること前提である。いずれの場合、説明が行われた時点(システムとみなされた時点)で斉一性が見いだされており、さらに、それがシステムの成り立ちに重要なものとして理解されているのだ。

一方、要素の差異に関して議論しようとすると、統計的、つまり、「ばらついているかばらついていない」か、あるいは「どのようにばらついているのか」という観点からしか分析できない。ここでは、多様性の観点からシステムを見ていることになるのである。

とは言っても、全てのシステムで多様性がシステムの成り立ちに必須であるかというとそうではない。たとえば、統計力学では、原子の挙動の違い(多様性)が石ころの成り立ちを考える上で重要だと考えるが、高校で習うような古典的な化学では、原子に共通する性質だけから石ころの性質を説明しようとする。この場合は、斉一性は問題にされているが、多様性は問題にされていない。実際には多様性があるが、石ころの成り立ちには関係しているとみなされてはいないのである。一方、ある人の特徴を説明するのに、その人が「おっちょこちょい」という事例だけを集めた場合、やはり「斉一性」は問題にされているが、多様性の方は問題にされていない。実際の事例は多様であるけれど、その人の特徴を説明する上で、多様性は問題になっていないのだ。

ただ、遺伝子によって成り立っている生物の種、行為パターンによって成り立っている心、価値観によって成り立っている世界、といったものを扱うときには、やはり、「多様性」が問題になっている。これがどうしてかということについては「自然の不思議」としか言いようがないが、いずれにせよ、人間はある種のシステムを「多様性と斉一性」によって成り立っているものと見なしているのである。ここで比喩的に「生命」という言葉を使うのであれば、こうしたシステムを「生命的システム」とでも言うことができるだろう。多様性と斉一性の両方によって成り立っているシステムは、あたかも生命体のようにとらえどころがなく、自律的に変化するように見えることが多いからだ。

(3) 統計的・全体的にしか扱うことができない多数の同じ種類の要素Cによって構成される全体としてのSがあって、全体Sとしての挙動が問題にされるというときの全体Sのうち、要素Cの多様性がSの成立に必須であるもの。(生命的システム)

こうして、システムには、「斉一性だけが問題にされるシステム(非生命的システム)」と「斉一性と多様性の両方が問題にされるシステム(生命的システム)」の両方があることになる。生物の種、心、価値観という3つのシステムが、「多様性と斉一性」という特徴を持っているのは、たまたま私が「多様性と斉一性」を見いだしているシステム(生命的システム)を選んだからに過ぎないとも言える。しかし、こうしたシステムが多く存在するということは、やはり自然の摂理とでも言うしかないだろう。

「多様性と斉一性」という問題は、こうしたシステムに関する議論の深みにつながっているのだ。

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科学の本分

情報学 | 2010/07/15

サッカーワールドカップの勝敗をタコ(蛸)がすべて事前に予測して見事当たった、と騒がれている。会う人ごとに、『タコの超能力ですか?』と聞かれて、返答に困った。その中には、難関大学の工学部や法学部卒の、日頃私の尊敬する人たちも含まれていたから驚きあきれた話である。

【タコの超能力?】/大槻義彦のページ

サッカーの試合結果をドイツの水族館のタコが予想し、見事に的中させたということが話題になっています。

さて、こういう話があると、「そんなことは科学的にありえない」というコメントを出す科学者がいます。しかし、そういうコメントを出す人は、科学を本当に理解していない科学者なのでしょう。そういう自分も決して、「タコによるサッカーの試合結果の予想」を信じているわけではないし、上に引用した文章にも大賛成です。そういう意味では、ナイーブな科学者たちと結論は同じなのですが、理由が「科学的にありえない」ではないのです。自分なら、同じ状況で「タコの超能力を前提にしなくても、科学で十分説明できる」と考えます。

これは似ているようですが根本的に違います。超常現象に出会って、「科学的にありえない」という人は、科学は「起こらないことを証明できる」と信じているのだと思います。しかし、どうでしょう。科学を成り立たせているのは「実験」や「観察」にほかなりませんが、科学者は過去に一度でも「まだ起こっていないこと」について実験したり、観察したりしたことがあったでしょうか。科学がベースにしているのは「過去に起きた事実」であり、「起きていないこと」ではありません。一般に、ある現象が起きないということを証明することは、いかなる科学によってもできないのです。

こう聞いて、残念だと感じたり、感情的に反発する科学者は、科学の役割を勘違いしています。現代社会においては、「そんなことを前提にしなくても、科学で十分説明できる」という言葉が、伝家の宝刀のように強い意味を持っており、そのことこそ、科学の「すごさ」を表しているからです。

世界を説明する理論にはさまざまなものがあります。一般に、迷信とか宗教とか言われているものはいずれも「世界を説明する理論」であり、その意味からしたら、科学はこうした「世界を説明する理論」の一つに過ぎません。タコによるサッカーの試合結果の的中を「超能力」というのも、こうした説明の一つであり、それが間違っていることを直接証明するのは不可能と言っても良いでしょう。しかし、科学というのは、その説明能力が圧倒的に優れているのです。かつては、神や幽霊の仕業だと思われていた不思議な現象を、科学によって、より納得できる形で説明できる。その事実こそが、現代社会における「科学」の地位を確固たるものにしてきたと言えるでしょう。たしかに、超能力という説明でも、タコによる試合結果の予想くらいなら説明することができます。しかし、超能力では、車や原子力発電所、コンピュータの仕組みを説明することができないのです。これが科学との決定的な違いです。科学は、タコによる試合結果の予想はもちろん、車や原子力発電所、コンピュータの仕組み、その他あらゆることを説明できる。こうして、科学が、世界のあらゆることに一貫性のある説明を与えていることこそ、「科学」による説明の優位性をもたらしているのです。

もう少し具体的に考えてみましょう。私たちは一見して科学では説明できない現象に出会うと、「これは科学では説明できないすごい現象となんだ」と思って驚きます。科学以外に世界を説明する重要な理論があるのではないかと疑うからです。しかし、科学者が科学的な説明を与え、「そんなことを前提にしなくても、科学で十分説明できる」と言われると、「やっぱり科学で説明できるんだ」と安心するわけです。ここで前提になっているのは、「科学」と、「科学以外」の圧倒的な力の差、説明能力の差にほかなりません。たしかに、世の中には「科学以外」によっても説明できるものがあります。しかし、現代社会に生きる私たちは、科学に対して絶大な信頼を寄せており、科学の説明能力の高さを理解しています。だから、「科学」によっても「科学以外」によっても説明できることなら、「科学」による説明を選ぶわけです。

つまり、科学者は超常現象に出会ったときに、「そんなことは科学的にありえない」と言うことを証明する必要がありません。科学の性質上、「そんなことは科学的にありえない」ということは、どうやっても証明することができないのですが、無理して証明しようとする必要はないのです。ただ単に、「そんなことを前提にしなくても、科学で十分説明できる」と言えば良い。そうすれば、人々はその説明を信じてくれるからです。この事実こそ、現代社会における科学の特権的な地位を表していると言えるでしょう。

超常現象に出会ったときに、科学の本分を忘れて「そんなことは科学的にありえない」という非科学的なことを言う科学者は、こうした科学のもっている「すごさ」に無自覚ではないのではないかと思います。科学者として一流と言われるために必要なのは、科学という枠組みの中で黙々と仕事をすることであって、科学の枠組みを理解していることではない以上、仕方ないことなのかもしれませんが…。

ちなみに、誤解のないように言っておきますが、冒頭に引用した記事を書いた大槻教授が科学の枠組みを理解していないと言ってるわけではありません。あくまで一般的に、そういうことを言う科学者が多いという話です。

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