メディアリテラシーと情報学

情報学 | 2009/08/24

自分は良く、「マスコミの言っていることが正しいとは限らない」という趣旨のことを書くので、「メディアリテラシー」を訴える人と混同されます。しかし、自分が主張していることと「メディアリテラシー」はかなり根本的なところで違っています。

「メディアリテラシー」の大切さを主張する人は、通常、確固たる「真実」が存在すると考えています。マスコミが「真実」を報道しないので、さまざまな情報を仕入れることで「真実」にたどり着くようにがんばりましょうというのが、「メディアリテラシー」の考え方です。自分は、別にこういった意味での「メディアリテラシー」の大切さを否定しているわけではありません。これはこれで非常に大切なことだと思います。

ただ、自分の場合、こういうことを言うために、わざわざブログに記事を書いているのではありません。自分がブログに記事を書くのは、もう少し大きなことを言いたいからです。それは「真実」とか「誤り」というのが、それ自体、人によって違っていたり、時代や立場によって違うかもしれないということです。これは、いわゆる「メディアリテラシー」の立場とは違ってます。メディアリテラシーは、いろいろな情報を分析することでいつか「真実」にたどり着けるという「仮説」を前提にした立場ですが、自分はそもそもそういう考え方を前提にせず、より一般的な立場でメディアについて考えようとしているからです。

ただ、このように言うと、自分はある批判にさらされることになると思います。それは、そんなことを言ったら「誤報かどうかなんて判断すらできないじゃないか」という批判です。「お前は何に基づいて、メディアを批判しているのか」という疑問には、当然答えないといけないでしょう。こうした批判に対し、自分はもう少し先まで考えています。

現代の私たちの社会というのは、それなりに共通する世界観を持っています。そして、何より重要なことは、私たちはその立場からものごとを考えざるをえないということです。どんなに「真実」を訴えても、あるいは「真実なんて存在しない」という懐疑を訴えても、結局、私たちは自分たちが使っている言語で考えるしかないし、自分たちが前提にしている常識に基づいて考えざるをえないのです。私たちは、こうした「常識」や「前提」に縛られてものごとを考えているのです。

ただ、「共通する世界観」と言っても、実はかなり多様な視点を含んでいて、正確さや正しさの度合い、普遍性の度合いに応じて、さまざまなものが含まれています。たとえば、比較的正確さが高そうな基準で「正しい報道」や「間違った報道」があったり、もう少し緩い基準で「正しい報道」や「間違った報道」があるでしょう。たしかに価値観は多様かもしれないけれど、大部分の人が感じるところの「さすがにこれは誤報だよね~」みたいなのはあります。一方、それとは別に、「報道の自由」のような価値観があります。「報道の自由」だって、別に絶対的な価値観ではないのだけれど、やはりみんなが「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」みたいに思ってるので受け入れられているのです。

では、「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」っていう常識はどういう関係にあるのでしょうか。

「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と比べると、「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」っていう常識の方が、長いスパンの問題です。たとえば、先日、サブブログの「ニュースな待合室」の記事で指摘したように(link)、バンキシャが誤報をしたということが、10年後に覆される可能性はあるけれど、「バンキシャの報道が本当に誤報だったどうかを含めて報道を考えていこう」という「報道の自由」の立場は、(ネット右翼が革命でも起こさない限り)10年後も受け入れられているでしょう。「報道の自由」は、憲法を初めとする日本という社会の制度、さらに、国際社会における民主化の潮流などに支えられたものであるのに対し、「バンキシャが誤報をした」という判断は、それに比べてはるかに緩い基盤しか持っていないからです。ただ、一方で、私たちはそもそも限られた知識の中で判断せざるをえないのであり、それを全て疑っていたら生きていくことすらできません。そうやって「生きていく上で信じている事実」という意味で、「バンキシャが誤報をした」というのは事実であると考えるしかない面もあります。たしかに「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と比べると、「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」っていう常識の方が、長いスパンの問題ですが、だからと言って、「さすがにこれは誤報だよね~」という常識に基づく判断を否定して良いわけでもないのです。

なぜ、こういう複雑な事態になるのでしょうか。それは、「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と、「さすがに報道の自由は尊重しないといけないのね~」っていう常識は、別の問題だからです。だから、「バンキシャは誤報をした」いうのと、「報道の自由は大切だ」というのは、「別の視点の問題」として両立します。前回の記事の問題に関して言えば、「バンキシャが誤報」かどうかについて慎重に判断しつつ、「誤報」という判断が間違いである可能性や、報道の自由の問題もきちんと踏まえていく、そういうことが大事ではないかと思うのです。

自分が、メディアの問題や社会問題を扱うときに強調したいことの一つはこういうことです。社会の問題を考えるとき、一つの問題であっても、実は二つの以上の問題が混在している場合があります。バンキシャの問題であれば、「バンキシャの報道は誤報であったのか」という問題と、「誤報を含めた報道をどう尊重していくか」「誤報をどうやって防いでいくか」という問題です。私たちはこういうときに、どうしても一つの方向からの理解に単純化しようとしてしまう傾向にあるでしょう。そして、一方的に片方を擁護したり、逆に攻撃しようとするのです。しかし、社会の問題の多くは、そんなに単純ではありません。そして、単純ではないことを理解することが重要であることも少なくないのです。たとえば今回の問題に関して、報道の手続き上の問題を犯した日本テレビを批判することは必要かもしれませんが、一方で、行政から圧力を受けている可能性を考慮したり、報道の自由の問題について考えることは必要ではないかと思います。

一般に、自分のような主張は、あまり理解されません。なぜなら、「あいつが悪い」と一方的に誰かを攻撃するような主張の方が分かりやすいからです。これは特にマスメディアの報道に関して当てはまります。マスメディアの報道が、一方向に偏りやすいということは良く指摘される通りですが、それは、単に圧力団体の影響を受けているからではなく、「分かりやすい報道」の方が視聴率が取りやすいという、メディアの本質的な問題にも起因するものなのです。これは、マスメディアを批判する側についても全く同じです。ネットの匿名掲示板などでありがちな、マスメディアを「外国勢力の支配化にある」というように単純化された構図で理解する見方などは、その典型とも言えるでしょう。「外国勢力の支配化にある」というような単純化された見方は理解しやすいし、だからこそこういう言説は広まりやすいわけですが、こうした理解をしている限り、いつまで経ってもマスメディアの問題は解消されません。これではマスメディアの問題が、そのままネット空間に移植されるだけであり、何も変わったことにならないのです。

ではどうすれば良いのでしょうか。このブログを開設して以来、自分が一貫して訴えているのは、マスメディアや学問、ネット上のコミュニケーション、あるいはこれらに依存して成り立っている自分自身の思考が、「どのような構造をしているか」を知るということです。それは、具体的には、特定の問題に「どういう問題が混在しているかを知り、それらを分けて考える」ということです。今回取り上げたバンキシャの問題も、その一つの例なのです。こうしたことを考えるに当たって、たしかに「メディアリテラシー」は重要だし、その基礎の一つにはなるでしょうが、自分としてはもう少し大きなことを言っているということを理解していただけると幸いです。

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