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「風の谷のナウシカ」について補足

映画・テレビ | 2009/08/26

これは補足記事です。メイン記事はこちら

 

ちょっと前に「風の谷のナウシカ」のラストについての記事(link)を書きました。そこで、ナウシカを理解する上での基本的なこと(一神教vs.多神教の問題、ニヒリズムの問題)について一通り書いたつもりでいたのですが、その後、この記事に対するいろいろな場所での反応を見ていると、一つ言い忘れたことがあることに気づきました。それは、ナウシカが「系統としての(つまり、先祖から子孫に至る)生命としてのあり方」に注目しているということです。これについて説明しないと、ナウシカのラストの問題(ナウシカvs.墓所の主の対立)についても良く分からないのではないかと思ったので、簡単に補足します。

ちなみに、この記事に「ネタバレ」の要素はそれほど多くないと思いますが、前に自分が書いた記事を前提にしないと、そもそも意味が分からないと思いますので、原作前の記事→この記事という順番で読んでいただけると幸いです。

○ 生命の縦糸と横糸

ナウシカでは、系統としての生命(先祖から子孫へという生命の流れ)が問題にされています。これは、一神教vs.多神教の問題やニヒリズムの問題ほど、セリフにはっきりと現れていませんが、ストーリー全体にわたって「部族」「氏族」といったキーワードが現れ、「子孫を残す」ことの大切さが扱われていることに見て取れるでしょう。そこでは血縁を持つ人々がその子孫を残そうとする「生命」のあり方が注目されていることが分かります。

一方、これとは別に、ナウシカにおいては多くの生命が複雑に絡み合った生態系が問題にされています。腐海の複雑な生態系が「腐海の謎」とされ、ストーリーとともに解明されるようになっていること、腐海のムシたちがテレパシーを介して集合的な意識を持っているとされていることはその一例でしょう。系統としての生命と、生態系としての生命、これは縦糸と横糸のように、ナウシカの世界の「生命」を織りなしているのです。

さて、ナウシカはラストシーンで「人間の卵」を殺して墓所の主を破壊するわけです。「人間の卵」も「ナウシカの時代の人々」も「生命」という意味で同じであるにもかかわらず、どうして人間の卵を殺したのでしょうか。その理由の一つとして、「人類の卵」が、ナウシカの時代の「生命」―つまり、先祖から子孫へという系統としての生命、多くの生物が作る生態系―と別のものとして描かれているということを無視することができないと思います。ナウシカは自分たちの生命が、自分たちと別の流れを汲む生命の手段となることを拒否したわけです。いや、むしろ「生命」というのが、系統と生態系という縦糸と横糸の関係によって初めて成り立つものだとしたら、人間の卵のようなものは生命ではないとまで言えるでしょう。

○ 生命の境界線

こういうナウシカの発想と反対なのが、「人間(生物学的種としてのヒト)」というものを科学的に規定して、その「人間」を残していこうという発想です。以前に「人を殺してはいけないということについて」という記事でも書いたのですが、「人を殺してはいけない」の境界線として科学的に定められる「人間」が採用されるようになったのは、科学が発達して科学的な「人間」の概念が確立してからのことです。現代の私たちは、国際安全保障の枠組みの中で「人権」という概念を使うのが当たり前になっていますが、これも実は、科学的な「人間」の境界線が引かれなければありえないことだったのです。

ナウシカは、こうして「科学的に定められる人間を尊重する」というような立場ではなく、まさに自分たちが投げ込まれている生命の流れを重視する立場を取ったと考えることができます。墓所の主のように、「人間の卵もナウシカも同じように人間じゃないか。より未来まで残る人間の卵の方が大切じゃないか」という主張は、明らかに「科学的に定められる人間」を尊重する立場に基づくものであり、ナウシカの生命観と明確に異なるものだということが言えるでしょう。

◎「墓派」の立場(余談)

余談ですが、こうやって区分すると、自分は立場上、墓所の主の発想も完全には否定できなくなります。自分は、科学や人権概念に基づく人間の尊重は普遍的な概念ではないが、いやないからこそ、こういった考え方を大切に守っていかないといけないと思うからです。

もちろん、「人間の卵」が、人間として尊重される対象かどうかははなはだ疑問ですが、それはあくまで架空の話の中のことなので、どう考えるかは読者の自由でしょう。「人間の卵のような憎しみを持たない人間」「そういった生命が尊重される」ことを、科学や人権と言った現代社会の「秩序」のメタファーと考え、ナウシカをそうした秩序に対する「破壊」のメタファーだと考えるとしたら、その流れで墓所の主を擁護する見方もできるのです。

要するに、現代社会の「墓所の主」は、さまざまな問題の元凶であると同時に、科学や人権と言った素晴らしい秩序の源泉でもあります。作者の意図通り、墓所の主の悪い面に注目すればナウシカの行動に賛成できるでしょうが、作者の意図と反対に墓所の主の良い面に注目すれば、ナウシカの行動に賛成できなくなるのは当然なのです。これは前の記事にも書いたように、ストーリーにどのようなメタファーを読み込むかという問題にほかなりません。「自分には作者の意図通りのメタファーを読み込めない」という人が、ナウシカを好意的に理解できないのは仕方ないでしょう。

ただ、墓所の主はメタファーの一つに過ぎません。墓所の主を好意的に解釈するとなると、「生命」や「ニヒリズム」といった問題の解釈がかなり難しくなるでしょう。ナウシカに批判的な人は、そういったことについては無視するのだと思いますが、それはせっかくの作品を台無しにする残念な読み方であるような気がします。

○ 生命論的ニヒリズム

本題に話を戻します。

前の記事では、ナウシカがニヒリズム的な立場、つまり「他の何ものかによって初めて自分の価値が与えられるのではない」という立場を取っているということについて触れました。これは、ナウシカのストーリーのさまざまなところで出てくるキーワード「虚無」にも現れているし、ラストの墓所の主とナウシカの会話の中にはっきり現れているものです。

ただ、ナウシカのニヒリズムは、通常の意味でのニヒリズムとかなり違います。それは、ナウシカのニヒリズムは、単に「一人の人間の生き方」にとどまらず、生命としてのあり方と関係しているからです。

墓所の主「人類はわたしなしには亡びる お前達はその朝をこえることはできない」
ナウシカ「それは この星が決めること」

ここで、「この星が決めること」というのを、ナウシカのストーリー全体の中で理解すれば、それは地質的な意味での地球という星を指すのではなく、ナウシカが生きている生態系、そして祖先から子孫へという生命の流れ(系統)を指しているのは間違いないでしょう。ナウシカは墓所の主=神という価値基準によって自分たちの生命が評価されることを拒否するわけですが、そこで価値基準としての役割を引き受けるのは、通常のニヒリズムのようにナウシカ個人ではなく、生態系と系統という縦糸と横糸の織りなす「生命」にほかならならないのです。そしてその意味で、ナウシカの問題意識は、すでに通常の(個人のみを対象にした)ニヒリズムではなくなってしまっているということができるでしょう。こうしたナウシカのニヒリズムを、「生命論的ニヒリズム」とでも言うことができるのではないかと思います。

ナウシカのラストの選択も、こういう「生命」=生態系と系統という縦糸と横糸の織りなす「生命」と、それを支配しコントロールしようとする存在の対立として理解しないといけません。前の記事では、ニヒリズムとの関連について触れたのですが、こういう重要なポイントについて全く触れなかったので、補足としてこの記事を書かせてもらったものです。

本題に関して言いたいことはここまでですが、本題ではないことについてちょっとだけ補足します。

◎環境問題とナウシカ(余談)

この記事の目的である「ラストのナウシカの行動を理解する」ことからは離れますが、ここまでの話は環境問題とナウシカの関係とも関係しているので、これについて少し触れたいと思います。

良く指摘されるように、ナウシカの最初の方(映画化された部分)では、「環境との共生」といったありがちなテーマが扱われているのに対し、ラストの部分では、テーマが「いわゆる環境問題」ではなくなってしまっています。これは、ナウシカが書かれたのは、公害や森林破壊などの問題が起きる中での切羽詰まった「環境運動」(環境を守らないといけないよね)から、その矛盾を指摘する意味で、「環境問題で言う環境って結局人間に取っての環境じゃないの?」という「環境思想」が出てきた時代だということと関係しているでしょう。オームも腐海も全部人工物というのは、こういう時代の流れの中で出てきたものではないかと思います。

そういうこともあり、ラストの部分では、直接的には「いわゆる環境問題」が射程に入っていないというのが、普通の解釈でしょう。しかし、ナウシカの主張を環境問題に当てはめるとどうなるのでしょうか?自分は、以下のように考えることができるのではないかと思います。

「『生きる』ことは、科学技術や『神』のようなものの手段ではなく、それ自体、世界に意味や価値を与えるものである。ここで、『生きる』ことは個人としての生の問題だけではなく、先祖から子孫に伝わる生命の流れや生態系を含めた『生きる』ことを含む。こうした広い意味での『生きる』ことに注目すれば、環境問題も解決するのではないか」

これは、環境倫理を、人間vs.環境という形で理解するのではなく、現行世代vs.未来世代という倫理(世代間倫理)として理解しようとする潮流とも近いのですが、「生命」という観点から考えるという点で、こうした議論よりさらに先に行くものではないかと思います。

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メディアリテラシーと情報学

情報学 | 2009/08/24

自分は良く、「マスコミの言っていることが正しいとは限らない」という趣旨のことを書くので、「メディアリテラシー」を訴える人と混同されます。しかし、自分が主張していることと「メディアリテラシー」はかなり根本的なところで違っています。

「メディアリテラシー」の大切さを主張する人は、通常、確固たる「真実」が存在すると考えています。マスコミが「真実」を報道しないので、さまざまな情報を仕入れることで「真実」にたどり着くようにがんばりましょうというのが、「メディアリテラシー」の考え方です。自分は、別にこういった意味での「メディアリテラシー」の大切さを否定しているわけではありません。これはこれで非常に大切なことだと思います。

ただ、自分の場合、こういうことを言うために、わざわざブログに記事を書いているのではありません。自分がブログに記事を書くのは、もう少し大きなことを言いたいからです。それは「真実」とか「誤り」というのが、それ自体、人によって違っていたり、時代や立場によって違うかもしれないということです。これは、いわゆる「メディアリテラシー」の立場とは違ってます。メディアリテラシーは、いろいろな情報を分析することでいつか「真実」にたどり着けるという「仮説」を前提にした立場ですが、自分はそもそもそういう考え方を前提にせず、より一般的な立場でメディアについて考えようとしているからです。

ただ、このように言うと、自分はある批判にさらされることになると思います。それは、そんなことを言ったら「誤報かどうかなんて判断すらできないじゃないか」という批判です。「お前は何に基づいて、メディアを批判しているのか」という疑問には、当然答えないといけないでしょう。こうした批判に対し、自分はもう少し先まで考えています。

現代の私たちの社会というのは、それなりに共通する世界観を持っています。そして、何より重要なことは、私たちはその立場からものごとを考えざるをえないということです。どんなに「真実」を訴えても、あるいは「真実なんて存在しない」という懐疑を訴えても、結局、私たちは自分たちが使っている言語で考えるしかないし、自分たちが前提にしている常識に基づいて考えざるをえないのです。私たちは、こうした「常識」や「前提」に縛られてものごとを考えているのです。

ただ、「共通する世界観」と言っても、実はかなり多様な視点を含んでいて、正確さや正しさの度合い、普遍性の度合いに応じて、さまざまなものが含まれています。たとえば、比較的正確さが高そうな基準で「正しい報道」や「間違った報道」があったり、もう少し緩い基準で「正しい報道」や「間違った報道」があるでしょう。たしかに価値観は多様かもしれないけれど、大部分の人が感じるところの「さすがにこれは誤報だよね~」みたいなのはあります。一方、それとは別に、「報道の自由」のような価値観があります。「報道の自由」だって、別に絶対的な価値観ではないのだけれど、やはりみんなが「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」みたいに思ってるので受け入れられているのです。

では、「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」っていう常識はどういう関係にあるのでしょうか。

「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と比べると、「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」っていう常識の方が、長いスパンの問題です。たとえば、先日、サブブログの「ニュースな待合室」の記事で指摘したように(link)、バンキシャが誤報をしたということが、10年後に覆される可能性はあるけれど、「バンキシャの報道が本当に誤報だったどうかを含めて報道を考えていこう」という「報道の自由」の立場は、(ネット右翼が革命でも起こさない限り)10年後も受け入れられているでしょう。「報道の自由」は、憲法を初めとする日本という社会の制度、さらに、国際社会における民主化の潮流などに支えられたものであるのに対し、「バンキシャが誤報をした」という判断は、それに比べてはるかに緩い基盤しか持っていないからです。ただ、一方で、私たちはそもそも限られた知識の中で判断せざるをえないのであり、それを全て疑っていたら生きていくことすらできません。そうやって「生きていく上で信じている事実」という意味で、「バンキシャが誤報をした」というのは事実であると考えるしかない面もあります。たしかに「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と比べると、「さすがに報道の自由は尊重しないといけないよね~」っていう常識の方が、長いスパンの問題ですが、だからと言って、「さすがにこれは誤報だよね~」という常識に基づく判断を否定して良いわけでもないのです。

なぜ、こういう複雑な事態になるのでしょうか。それは、「さすがにこれは誤報だよね~」っていう常識と、「さすがに報道の自由は尊重しないといけないのね~」っていう常識は、別の問題だからです。だから、「バンキシャは誤報をした」いうのと、「報道の自由は大切だ」というのは、「別の視点の問題」として両立します。前回の記事の問題に関して言えば、「バンキシャが誤報」かどうかについて慎重に判断しつつ、「誤報」という判断が間違いである可能性や、報道の自由の問題もきちんと踏まえていく、そういうことが大事ではないかと思うのです。

自分が、メディアの問題や社会問題を扱うときに強調したいことの一つはこういうことです。社会の問題を考えるとき、一つの問題であっても、実は二つの以上の問題が混在している場合があります。バンキシャの問題であれば、「バンキシャの報道は誤報であったのか」という問題と、「誤報を含めた報道をどう尊重していくか」「誤報をどうやって防いでいくか」という問題です。私たちはこういうときに、どうしても一つの方向からの理解に単純化しようとしてしまう傾向にあるでしょう。そして、一方的に片方を擁護したり、逆に攻撃しようとするのです。しかし、社会の問題の多くは、そんなに単純ではありません。そして、単純ではないことを理解することが重要であることも少なくないのです。たとえば今回の問題に関して、報道の手続き上の問題を犯した日本テレビを批判することは必要かもしれませんが、一方で、行政から圧力を受けている可能性を考慮したり、報道の自由の問題について考えることは必要ではないかと思います。

一般に、自分のような主張は、あまり理解されません。なぜなら、「あいつが悪い」と一方的に誰かを攻撃するような主張の方が分かりやすいからです。これは特にマスメディアの報道に関して当てはまります。マスメディアの報道が、一方向に偏りやすいということは良く指摘される通りですが、それは、単に圧力団体の影響を受けているからではなく、「分かりやすい報道」の方が視聴率が取りやすいという、メディアの本質的な問題にも起因するものなのです。これは、マスメディアを批判する側についても全く同じです。ネットの匿名掲示板などでありがちな、マスメディアを「外国勢力の支配化にある」というように単純化された構図で理解する見方などは、その典型とも言えるでしょう。「外国勢力の支配化にある」というような単純化された見方は理解しやすいし、だからこそこういう言説は広まりやすいわけですが、こうした理解をしている限り、いつまで経ってもマスメディアの問題は解消されません。これではマスメディアの問題が、そのままネット空間に移植されるだけであり、何も変わったことにならないのです。

ではどうすれば良いのでしょうか。このブログを開設して以来、自分が一貫して訴えているのは、マスメディアや学問、ネット上のコミュニケーション、あるいはこれらに依存して成り立っている自分自身の思考が、「どのような構造をしているか」を知るということです。それは、具体的には、特定の問題に「どういう問題が混在しているかを知り、それらを分けて考える」ということです。今回取り上げたバンキシャの問題も、その一つの例なのです。こうしたことを考えるに当たって、たしかに「メディアリテラシー」は重要だし、その基礎の一つにはなるでしょうが、自分としてはもう少し大きなことを言っているということを理解していただけると幸いです。

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漫画版「風の谷のナウシカ」のラストについて

映画・テレビ | 2009/08/14

お知らせ:この記事に関する補足記事を書きました

 

「風の谷のナウシカ」は、多くの人が知っているアニメ映画ですが、この映画の原作となる漫画版の「風の谷のナウシカ」では、ラストが大きく違っているということは有名です。そして、この「マンガ版ナウシカ」は、思想史に残る重要な作品と言われる一方、根強い反対意見もあるようです。特に、ネット上で検索をすると、ほとんどの人がナウシカに批判的なコメントをしています。

自分は、最近、やっと「漫画版ナウシカ」を読むことができたのですが、ラストシーンでのナウシカの行動に共感すると同時に、「なぜ、ナウシカはあのような行動をとったのか」そして、「なぜ、ナウシカの行動が理解されないのか」ということについて、自分の学問的なバックグラウンドを踏まえて、きちんとまとめておかないといけないと強く思いました。特に、ネット上の意見が誤解に満ちたものであったため、そうした誤解を解く必要があると思ったからです。

最初に強く言っておきたいのですが、原作を読んでいない人は、この文章を読み進む前に、ぜひ原作を読んでいただきたいと思います(右のリンクからも簡単に買えます)。以下の文章は、「ネタバレ」であると同時に、「読んでないと意味が分からない」書き方をしているため、このマンガを読んでいない人にとって、百害あって一利なしの内容だと思うからです。

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