正論原理主義という病

日記・コラム・つぶやき | 2009/03/11

ウェブを中心に受賞辞退を求める動きもあったが、パレスチナで起きていることへ関心を集めた点で「有意義」な問題提起だったと見る。他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。

村上春樹さんがエルサレムに行った理由 誌上で告白

村上春樹の「正論原理主義」という言葉が、一部のブロガーから反発を受けているようです。自分はそのことをとても悲しく思っています。ネットの言論は、せいぜいその程度なのかと幻滅することになったからです。

「正論原理主義」という言葉を、ネット空間に慣れた人に説明するには「マスメディアが一方的に何かを攻撃するときの態度」というと分かりやすいでしょう。ネットコミュニケーションにおいて、マスメディアの報道姿勢は、しばしば「偏向」と言われますが、これは半分正しく、半分正しくないと思います。彼らは彼らで「客観的」な正しさを追求した結果、あのような報道を行っていると思われるからです。私たちはある固定したコミュニケーションの中で事実を理解しようとすると、しばしば一つの見方にとらわれたものになり、「原理主義的」、さらに言えば、「偏向的」なものになっていきます。マスメディアが「偏向」しているように見えるのは、まさにこうした「正論原理主義」の結果にほかならないのです。

この説明でもまだ分からないというのなら、アメリカの大量殺戮に対抗するために同時多発テロを起こした(と言われる)テロリスト、あるいはそれに対抗するために戦争をしかけたブッシュのアメリカも、「正論原理主義」と言えるでしょう。彼らも自分なりの「正義」を振りかざしているのであり、「正論」かどうかに関して批判することはできないと思います。

これは、ネット空間においても全く同じです。先日、自分が書いた記事に対して、たくさんのコメントをいただきました。自分が書いた記事は社会的に利害が対立する問題に対して、双方の主張を踏まえて結論を出すというものだったのですが、コメントのほぼ全ては一方的に関係者を攻撃するものだったのです。それらのコメントは全て、私の結論に賛同を示すものだったのですが、コメントに目を通しながら、ものすごく悲しい気分になりました。マスメディアに対する「偏向」という批判は、ネット空間にブーメランのように返ってくるということを忘れてはいけないのです。

村上春樹の「壁と卵」の譬えは、「なんだかあまり良くない譬えだな…」と思ったので、リアルタイムでコメントしなかったのですが、「壁」が意味しているのは、こうした「固定した視点」「固定した価値観」にほかならないのではないかと思います。これは、村上氏が「制度」や「暴力」ではなく、わざわざ抽象的な「システム」という言葉を選んだことから明らかでしょう。あらゆるシステムは、固定化する傾向がある。具体的に言えば、政府もマスメディアも、そしてネット空間も「壁」になりえるのです。「壁」は私たちの心の外側になるものではなく、私たちの心の中にある。ネットにしてもマスメディアにしても、そのことに気づいたとき初めて、「壁」(=原理主義的思考)を克服していくことができるのではないでしょうか。

しかし、以下のような教養のかけらもない批判が受けていることを思うと、そうした時代が来るのは、まだ遠い未来のことのように思えてきます。

「正論」の反対語が誤論なのか、邪論なのか知らんが、芸のない正論が芸術的観点から面白くないと批判されることは十分ありえるとしても、正論が正論であることを主張するという当たり前の態度を、あろうことか原理主義と呼んで恥じないその精神構造はどうなっているのだろうか?

わたしとしては、「正論原理主義」という醜悪な表現は容認できない

「正論原理主義」などという醜悪な表現が卑しくも小説家の口から

この人は、内田樹氏による「壁と卵」の解説も全く理解できていないようなので、(参考)まともに取り合っても仕方ないかもしれませんが、それにしても、この無自覚さには悲しくなります。

このブログのテーマである「情報学」とは、人間のあらゆるところに存在する「正論原理主義」を克服するための学問だと私は理解しています。「正論原理主義」を克服するとは、「正論原理主義者」のように、「現実逃避」をしたり、「現実の自分を否定して、殻に閉じこもる」ことを止めて、「絶対的な自己肯定」をすること。たしかに、多様な価値観が存在している現実から目を背け、小さな正義を振りかざすのは楽です。同じような価値観を共有できる人がいれば、つかの間の安心を得ることもできるでしょう。しかし、それこそ「弱い人間」の生き方、「自己否定」「現実逃避」の生き方にほかなりません。こうした自分を克服することによって初めて、ネットにも、マスメディアにも、そして政治にも、より良い未来があるのではないかと思います。

○参考記事

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治/情報学ブログ

村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」/活字中毒R

○追記

興味深い記事を見つけたので、追記させていただきます。基本的にこの記事と同じ趣旨のものですが、具体例などがあってとても分かりやすいと思います。

うちのこどもと、「正論原理主義」/よそ行きの妄想


お知らせ

本文で引用した「「正論原理主義」などという醜悪な表現が卑しくも小説家の口から」の記事内で、追記として再反論をいただいたので、はてな内に再々反論を掲載しました。このブログ内で紹介するようなことでもないと思うので独立した記事にはしませんでしたが、彼の記事に興味を持った方には、合わせて読んでいただければと思います。

「正論原理主義の病」に関連して再々反論

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コメント

内田樹氏の「解説」ではなくて同氏による恣意的な解釈でしょう。また貴殿が述べておられる「壁」の解釈もまた然り。ガザで殺された人々は、そんな抽象的な「壁」によって殺されたのでしょうか。もしそのような意味で村上氏が言ったとしたら、むしろそれは戦争犯罪の隠蔽に加担したとさえ言えるかもしれません。私には、村上氏の「正論原理主義」というレッテル貼りは、彼の後ろめたさからくるものとしか思えません。彼は、わざわざ「(イスラエル)大統領の顔がこわばってきた」と述べているのも、イスラエルにサービスしたんじゃないよ、という言い訳めいていますね。
今回の授賞の効果は、イスラエルが政治的に得点したということではないでしょうか。何しろ、今まで戦争犯罪者と言われていた国が、弱い「卵」の見方と自称する文化人に賞を授け、大統領と握手した様子を世界中に配信できたのですから。

投稿: む | 2009/03/13 12:45:52

> 内田樹氏の「解説」ではなくて同氏による恣意的な解釈でしょう。

内田さんの解説は、特殊な言葉を使っていると思うかもしれませんが、
今日の言論界では一般的な議論です。
恣意的な解釈というのなら、
むしろ、村上氏が「一般的ではない意味で発言していた」ということを
示す必要があるでしょう。

村上氏の言う「システム」が、
狭い意味での「制度」や「暴力」を意味するわけではないという理由は
簡単ではありますが、本文にも書きました。
もしも違うというのなら、
その部分にきちんと反論していただければと思います。

> 村上氏の「正論原理主義」というレッテル貼り

本文では「正論原理主義」という考え方が
正当なものであるという理由を説明しました。
そして、これはこの記事の本題とも言えることです。
村上氏のスピーチの解釈は、
話のついでに書いたことであり、
百歩譲って間違いであるとしても、
この部分に関して譲るつもりはありません。

「正論」を言うことが視野の狭い「原理主義」的な
思考になりがちだということは、
民主主義の国の国民の一人一人が持つべき
重要な視点だと思います。
もし、それを「レッテル貼り」というのであれば、
きちんと反論していただければと思います。

おっしゃることは、一方的なご自身の意見の吐露に過ぎず、
議論として全く噛み合ってないと思うのですが、
いかがでしょうか?

投稿: 情報学ブログ | 2009/03/13 13:27:45

記事拝見しました。

実は、、、時代遅れなこと甚だしく、最近エルサレム賞のスピーチを知りました。
また、その副産物として「正論原理主義」に関するコメントも知りました。

私も村上さんのご意見に同意(というかシンパシー?)を感じたので、
ブロガーの批判に悲しいものを感じていましたので、
書かれている記事の内容に共感、というか勉強させて頂きました。
(特に、壁≒固定化した価値観、という解釈はなるほどと思いました)

村上さんがネットの正論原理主義を怖いと感じる理由は、
「卵」である「個々人の個性や生き方」が「Web上でやりとりされる
論理あるいは言葉といったの一つの尺度で、この世に生を受けた
唯一の自分という個性をつぶされてしまうこと」だと思います。

ここで重要なのは、個人の考えていることは必ずしも論理化あるいは
言語化されていない、される必要がないということ(目的によるが)。

こう考えると、言語化の達人である小説家の村上さんがこう言って
いるのが、面白いですね。

村上さんの小説はほとんど読んだことがないのですが、確かに
「説得的な文章」というよりは「文脈から何かを感じ取って」みたいな
ところがある気もします。
漠然と、まるごとでいいから、私の伝えたいことを、あなたの感じた
ままに感じて欲しい、という感じでしょうか。

Web上で暗黙知は伝えにくいし、まぁ仕方ないですよね。
他の方のコメントの中にある言葉ですが「恣意的」でいいじゃないですか、
いち卵なんだもの。

私は、そう思います。

よくわかんなくてすみません。
Webなので伝わりません、という言い訳はしません(笑)

投稿: racoo | 2009/08/05 11:42:15

初めて拝見しました。

『正論原理主義』であった私は大好きな人々と対立、又は偽善的に共感したフリをせざるをえない人生でした。

価値観には「位相と個性」がある。
又その価値観の裏付けに「思想と哲学」なんというか「パラダイム」あると学びました。

思想・価値観と云うテーマで少し勉強しました。

ダイアローグ「対話」が必要だという事も合わせて学びました。

立場が違えば、価値観が違えば、正論が変わってくる。

「洞察」と「分析」
「主観」と「客観」

相手の立場に立てない自己正当化。

主体的自己批判なしの客観的他者批判()。

こういう事に決まりが付いていないから、他者を「頭ごなしに!」批判する事ができるのかな・・・?

投稿: 求道 | 2010/11/11 17:40:17

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