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科学とニセ科学の関係

情報学 | 2009/03/17

ニセ科学批判は、科学と同様にそれ自体が目的ではなく、道具にしかすぎない。科学が悪用されると、甚大な被害が人々にもたらされるのと同様に、ニセ科学批判も悪用されると、ニセ科学よりも大きな被害をもたらすおそれがある。もちろん、ニセ科学批判の善用もありうるので、善用は肯定するとして、悪用については批判するということになる。

ニセ科学批判の善用・悪用/社会学玄論

自分は「科学」を客観的・絶対的に肯定するつもりはありませんが、それでも「ニセ科学」には批判的です。

たしかに、引用した「社会学玄論」の記事にあるように、科学というのは、普遍的・絶対性な正しさを持つものではありません。しかし、それは現代社会に生きる私たちにとっての「言葉」であり、現代社会が共有する「認知世界」でもあります。一般に、ある事実や説明が「科学的であるかどうか」は時代とともに変わるものであり、普遍的な「科学的事実」などないわけですが、それぞれの時代の研究の動向に即して、それぞれの時代における「科学的事実」があると考えることができます。

こうした「科学」と反するものに対して、科学の側から「それは科学ではない」するのは至極当然のことでしょう。ただし、科学というのは、「それは科学で説明できない」ということを主張することができても、「科学的にありえない」ということはできません。「科学的にありえない」と言えたとしたら、それはせいぜい「今の科学では経験的にそう考えた方が良いとされている」という意味であり、論理的な意味で「科学的にありえない」と言うことはできないのです。

さて、「ニセ科学」というのは、字義通りに言えば、科学ではないにもかかわらず科学であると主張するような理論のことです。これは科学的に間違いであることが示すことができます。ただし、そこで示されるのは、ニセ科学が「科学的にありえない」ということではありえません。すでに述べたように、「科学的にありえない」という主張は科学的な主張ではないからです。しかし、ニセ科学批判は、その時代の科学に基づき、ニセ科学が「科学的な主張ではない」と主張することはできます。「ニセ科学批判」がこうした自身の限界について理解しているとき、それは「科学的」に(=科学という視点に立てば)正しいものだし、人間にとって有効なものではないかと思います。

たしかに、一部の「ニセ科学批判」が「科学的にありえない」という主張と、「科学的な主張ではない」という主張を混同しているのは事実だと思いますが、「社会学玄論」の記事のように、ひたすら相対主義的な立場を取ることは(理論的には可能でも)、あまり有用な考え方とは思えません。

むしろ、この手の、通俗的な相対主義の見方は、実は「普遍的な真理」の存在を無意識のうちに前提にしていると思います。たしかに「普遍的真理」を仮定するのなら、その立場から見て、科学とニセ科学はどちらが正しいというものではないということになるでしょう。しかし、私はそうは考えません。「真理」そのものが、何らかのコミュニケーションの単位の認知世界(たとえば、科学コミュニケーションシステムの認知世界)においてしか成立しない以上、「普遍的な真理から見たら、どちらも相対的」という通俗的な相対主義の言説自体が意味のないものだと思うからです。「科学」は論理的には一つに視点に過ぎないが、現代社会では有用なものとしてたしかに成立しているもの。そのことを認めた上で、その立場から何が議論できるかということを考えた方が有意義な議論が可能になるのです。

自分が「情報学」として構築しようとしているのは、こうして「問題によって自在に準拠軸を設定しつつ、適切な議論を行っていく」ことを可能にする思考のフレームワークです。ニセ科学の問題は、こうした自分の立場を端的に表していると思い、取り上げさせていただいたものです。

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少子化と子育ての価値観

経済・政治・国際 | 2009/03/17

社会人向けのWEBマガジンサイト『ヨルコ×ヨルタ』を運営するサイバーマップ・ジャパンは16日(月)、社会人男女を対象にした"婚活"の調査結果を発表した。同調査によると"婚活に必要なもの"は、男女ともに「積極性」(女性41%、男性42%)がもっとも多かったが、女性の次点が「時間」「運」(ともに13%)なのに対し、男性は「お金」(24%)という回答がランクイン。なかには「仕事がこの不景気で給料も安く、結婚するにもそれがネックで踏み切れないのが現状」という切実な声もあり、先行き不透明な景気不安が、男性の婚活心理に影響を与えていることが垣間見える結果となった。

男性の婚活、"経済力"が心理的重圧に

自らの「経済力」を理由に結婚したがらない男性が多いというのは良く言われる話です。この背景には、女性が結婚相手の男性に経済力を求める傾向があるということがあるでしょう。そのために、男性からすると、「お金がないと相手に高い条件を求めることができない」ということになってしまうのです。

これは、現実としては当たり前のように思うかもしれませんが、理由を考えると意外に不思議ではないでしょうか。「お金なんてなくても結婚できるじゃない」という見方もできるからです。Beckerのモデルによると、結婚は共同生活によって、生活コストを下げるためのものとして理解されます。そうだとしたら、社会全体として低所得な男性が増えたとしても、結婚市場の需要と供給のバランスで、男性に要求される所得の水準が低くなるだけであり、それが初婚の遅れを招くことはないはずでしょう。

要するに、今日の晩婚化、少子化は、Beckerのモデルに基づく自由な「結婚市場」を想定することでは理解できないのです。では、結婚市場において市場原理を妨げる要因とはなんでしょうか。もちろん文化的な要因を挙げればきりがないでしょうが、経済的な問題に絞れば、「養育に関する価値観と現実のギャップ」が重要な問題として挙げられるのではないかと思います。

今の日本では、教育を義務教育まで、食費や被服費など最低限で済ませれば、二人の大人の所得で一人や二人の子どもを育てるのは無理なことではありません。そして、それでも問題ないという価値観を持っている人(これはおそらく、親の学歴や社会階層に依存します)であれば、結婚をためらう理由はあまりないでしょう。

しかし、多くの中流階級の人々は、自ら、最低でも「ホワイトカラー正社員」以上のステータスを持つ仕事に就きたいと考え、自分の子どもにも同様の条件を満たした仕事をさせたいと考えています。ところが、今の日本で、子どもを大学に行かせて、それなりの評価を受けた大学に行かせようとすると、子どもを育てるのに必要な経済力は非常に高いものになっています。公立の小学校・中学校のみの場合と比べ、私立中学・高校、大学の学費、これに塾などの費用を加えただけで、最低一人当たり100万円/年の増加は避けられなくなるでしょう。しかも、今の日本では、親の世代(20代~30代)でさえ、「ホワイトカラー正社員」以上のステータスの仕事に就くのは簡単ではなく、厳しい競争に晒されています。こうした状況で確実に「ホワイトカラー正社員」以上の仕事ができるような教育を施そうと思ったら、必要な投資は莫大なものになってしまうのです。

つまり、「ホワイトカラー正社員以上の仕事をして一人前」という価値観を持った「中流」意識のある男女にとって、結婚相手は、この条件を満たす経済力を持っている相手に限られることになるわけですが、多くの人がそれだけの経済力を手にしていない。ここに少子化・晩婚化の原因があるのではないかと思います。

ではどうすれば良いのでしょうか。二つの解決策があると思います。一つは、「追加の教育投資をしなくても、本人の能力を活かすような教育を受けられる」ようなシステムを構築すること。もう一つは、「ホワイトカラー正社員」でなくても、安定した生活ができるような社会保障システムを構築することです。いずれにせよ、社会福祉の充実こそが、晩婚化・少子化を食い止めるために必要だということになります。今回取り上げた話は、厳密に言えば「こういう側面もあるのではないか」という仮説であり、実証的な議論ではありませんが、「少子化」の問題が、一般に思われているよりも複雑な議論だということは分かるのではないかと思います。

さて、少子化の問題には、別の複雑な問題が関係しています。純粋に日本企業の国際競争力の向上を考えるのであれば、理論上は、「移民や短期労働者を受け入れ、少子化はそのまま、福祉もそのまま」という社会が一番優れているということになるでしょう。しかし、それはあたかも人間が経済活動の手段となっているような世の中。目的と手段の関係を逆転させているような気がしてなりません。「結婚をしたい人が結婚をできる」「子どもを産みたい人が子どもを産める」ようにすることは、単に少子化を解決するためだけではなく、「人間が人間らしく生きられる社会」を作っていくためにも必要ではないかと思うのです。

自分には、こうした複雑な問題を解きほぐして全て解決するだけの知識も能力もありませんが、間違いなく言えるのは―多くの社会の問題がそうであるように―少子化の問題はまさに「価値観の問題」だということではないでしょうか。

○参考記事

[日記]高学歴女性の未婚問題/pal-9999の日記

○関連記事

秋葉原通り魔事件と負け組とニートと/情報学ブログ
→「ホワイトカラー正社員」という価値観の問題について、少し前に書いた記事で、この記事の内容と深く関係しています。

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正論原理主義という病

日記・コラム・つぶやき | 2009/03/11

ウェブを中心に受賞辞退を求める動きもあったが、パレスチナで起きていることへ関心を集めた点で「有意義」な問題提起だったと見る。他方、「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている。

村上春樹さんがエルサレムに行った理由 誌上で告白

村上春樹の「正論原理主義」という言葉が、一部のブロガーから反発を受けているようです。自分はそのことをとても悲しく思っています。ネットの言論は、せいぜいその程度なのかと幻滅することになったからです。

「正論原理主義」という言葉を、ネット空間に慣れた人に説明するには「マスメディアが一方的に何かを攻撃するときの態度」というと分かりやすいでしょう。ネットコミュニケーションにおいて、マスメディアの報道姿勢は、しばしば「偏向」と言われますが、これは半分正しく、半分正しくないと思います。彼らは彼らで「客観的」な正しさを追求した結果、あのような報道を行っていると思われるからです。私たちはある固定したコミュニケーションの中で事実を理解しようとすると、しばしば一つの見方にとらわれたものになり、「原理主義的」、さらに言えば、「偏向的」なものになっていきます。マスメディアが「偏向」しているように見えるのは、まさにこうした「正論原理主義」の結果にほかならないのです。

この説明でもまだ分からないというのなら、アメリカの大量殺戮に対抗するために同時多発テロを起こした(と言われる)テロリスト、あるいはそれに対抗するために戦争をしかけたブッシュのアメリカも、「正論原理主義」と言えるでしょう。彼らも自分なりの「正義」を振りかざしているのであり、「正論」かどうかに関して批判することはできないと思います。

これは、ネット空間においても全く同じです。先日、自分が書いた記事に対して、たくさんのコメントをいただきました。自分が書いた記事は社会的に利害が対立する問題に対して、双方の主張を踏まえて結論を出すというものだったのですが、コメントのほぼ全ては一方的に関係者を攻撃するものだったのです。それらのコメントは全て、私の結論に賛同を示すものだったのですが、コメントに目を通しながら、ものすごく悲しい気分になりました。マスメディアに対する「偏向」という批判は、ネット空間にブーメランのように返ってくるということを忘れてはいけないのです。

村上春樹の「壁と卵」の譬えは、「なんだかあまり良くない譬えだな…」と思ったので、リアルタイムでコメントしなかったのですが、「壁」が意味しているのは、こうした「固定した視点」「固定した価値観」にほかならないのではないかと思います。これは、村上氏が「制度」や「暴力」ではなく、わざわざ抽象的な「システム」という言葉を選んだことから明らかでしょう。あらゆるシステムは、固定化する傾向がある。具体的に言えば、政府もマスメディアも、そしてネット空間も「壁」になりえるのです。「壁」は私たちの心の外側になるものではなく、私たちの心の中にある。ネットにしてもマスメディアにしても、そのことに気づいたとき初めて、「壁」(=原理主義的思考)を克服していくことができるのではないでしょうか。

しかし、以下のような教養のかけらもない批判が受けていることを思うと、そうした時代が来るのは、まだ遠い未来のことのように思えてきます。

「正論」の反対語が誤論なのか、邪論なのか知らんが、芸のない正論が芸術的観点から面白くないと批判されることは十分ありえるとしても、正論が正論であることを主張するという当たり前の態度を、あろうことか原理主義と呼んで恥じないその精神構造はどうなっているのだろうか?

わたしとしては、「正論原理主義」という醜悪な表現は容認できない

「正論原理主義」などという醜悪な表現が卑しくも小説家の口から

この人は、内田樹氏による「壁と卵」の解説も全く理解できていないようなので、(参考)まともに取り合っても仕方ないかもしれませんが、それにしても、この無自覚さには悲しくなります。

このブログのテーマである「情報学」とは、人間のあらゆるところに存在する「正論原理主義」を克服するための学問だと私は理解しています。「正論原理主義」を克服するとは、「正論原理主義者」のように、「現実逃避」をしたり、「現実の自分を否定して、殻に閉じこもる」ことを止めて、「絶対的な自己肯定」をすること。たしかに、多様な価値観が存在している現実から目を背け、小さな正義を振りかざすのは楽です。同じような価値観を共有できる人がいれば、つかの間の安心を得ることもできるでしょう。しかし、それこそ「弱い人間」の生き方、「自己否定」「現実逃避」の生き方にほかなりません。こうした自分を克服することによって初めて、ネットにも、マスメディアにも、そして政治にも、より良い未来があるのではないかと思います。

○参考記事

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治/情報学ブログ

村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」/活字中毒R

○追記

興味深い記事を見つけたので、追記させていただきます。基本的にこの記事と同じ趣旨のものですが、具体例などがあってとても分かりやすいと思います。

うちのこどもと、「正論原理主義」/よそ行きの妄想


お知らせ

本文で引用した「「正論原理主義」などという醜悪な表現が卑しくも小説家の口から」の記事内で、追記として再反論をいただいたので、はてな内に再々反論を掲載しました。このブログ内で紹介するようなことでもないと思うので独立した記事にはしませんでしたが、彼の記事に興味を持った方には、合わせて読んでいただければと思います。

「正論原理主義の病」に関連して再々反論

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[ご挨拶] 累計アクセス数が30万件を突破

日記・コラム・つぶやき | 2009/03/09

本日、ブログへの累計アクセス数(PVベース)が30万件を突破いたしました。2007/1/14の開設以来、一日あたり平均388件のアクセスになります。

ブログは読者の皆様とのコミュニケーションの場であり、皆様からいただくコメントやリンクを通して成長していくもの。まだ、それほどアクセスが多いブログではありませんが、ゼロから始めてここまで来られたのは読者の皆様のおかげであり、大変感謝しています。

今後とも情報学ブログをよろしくお願いします。

○参考(16:40現在のアクセスの内訳)

括弧内はPCサイト/携帯サイトの順番です。

情報学ブログ(71467/10370)
ニュースな待合室(173203/33968)
のりねこのラプソディ(8551/1850)

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