秋葉原通り魔事件と負け組とニートと

経済・政治・国際 | 2009/02/15

今は新卒一括採用ゲームでの勝利が人材価値を保証しない。叩き上げで獲得した専門性が人材価値をもたらす時代だ。なのに教育界や親がいまだに『いい学校・いい会社・いい人生』である。教育界はこの「勘違い」で飯を食う利害当事者だし、親はかつての常識から抜けられない。

厳しい家庭で優等生として孤独に過ごした加藤容疑者は、進学上の「敗北」を過大に受けとって「挫折」した。成績よりも友達がいないことを心配しない大人たちのダメさに問題を感じる。ネットの影響だのPCゲームの影響だのという議論は笑止だ。

某全国紙に掲載されるはずだった秋葉原通り魔事件のコメント/MIYADAI.com Blog
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=65

自殺サイトに書き込みをする、「自殺志願者」の中で一定のカテゴリーを形成するようなグループとして、20代~30代くらいの男性で、自分の能力の低さを悩みの理由に挙げるいわゆる「負け組」の意識を持つ人がいます。こうした人に共通する特徴としては、

1. 高い学歴(たとえば大卒以上)がある
2. 自分の理想とする仕事(典型的には、責任のある正社員ホワイトカラー)へのこだわりがあり、その仕事に就けないことで、自分の存在が否定されたかのように思う。

というような傾向があるように思えます。

こうした人の多くは、自分には能力がない、だから生きる意味がないと考えてしまっており、本人が生きる意味と直結するほど重要なものとして考えている「能力」が、実は特定の価値観によるもの過ぎないというは忘れられてしまっているのです。つまり、本人が「自分の能力」の問題だと思っているのは、多くの場合、「自分の能力が、今、自分が前提にしている価値観と矛盾している」ということに過ぎないわけですが、そのことに気づかないために、「生きる意味がない」という結論に至ると言うことができるでしょう。

もちろん、この分析を自分の能力に関して悩んでいる全ての人に当てはめられるとは思いません。しかし、少なくとも「自分には能力がないから生きる意味がない」と考えている全ての人の問題は、こうした「能力と価値観の矛盾」だということは言えるのではないかと思います。

これは、いわゆる「NEET」の問題とも直結しています。NEETの問題は、当初、「本人のやる気の問題」と言われ、次第に、「雇用問題」と言われるようになったわけですが、「雇用問題」と言っても、単純に労働市場の需給バランスの問題ではないことは明らかでしょう。企業はホワイトカラーの正社員を必要としなくなっている一方、3Kと言われるような一部の職場は、不況と言われる現在でも、相変わらず人手不足という状況だからです。

NEETの背景には、「価値観のずれ」という問題があります。つまり、高校受験、大学受験を経て、就職する、そういう流れの中で「最低限、こういう仕事をしないといけない」という価値観が形作られます。こうした価値観の中には「責任のあるホワイトカラーの仕事がしたい」という価値観や、ステレオタイプ的な「やりがいのある仕事がしたい」という価値観があるでしょう。多くの努力と引き替えに得た「大卒」という学歴に対して、それを活かせないような仕事に就くことは彼らにとって自己否定とも言えることであり、その過程でこうした価値観が生まれてくるのは当然とも言えます。

ところが、実際に大学を卒業してみると、そうした価値観に合う仕事がないのです。「責任のあるホワイトカラーの仕事」にしても、学生がステレオタイプ的に考えるような「やりがいのある仕事」にしてもパイは限られています。それに対してあぶれた人は、「やりたい仕事に就くことができない」として、労働市場からドロップアウトしていくことになります。

端的に言えば、彼らは自分自身に「責任のあるホワイトカラーの仕事」あるいは「やりがいのある仕事」をするという非常に厳しい条件を課しているにもかかわらず、その価値観に見合うだけの卓越した能力がないということが問題なのです。これも、先ほどの自殺サイトの場合と同じく、「自分の能力と価値観の矛盾」の問題とまとめることができるでしょう。

////

さて、1年近く前の事件に対して何を今さらと思われるかもしれませんが、こうした話の流れで、去年6月の秋葉原通り魔事件について少々コメントしたいと思います。この事件に関して、加藤被告の進学上の挫折が本人の人格形成に大きな影響を与えたという議論がありますが、これはまさに「自分の能力と価値観の矛盾」の問題だと思うからです。

「負け組は生まれながらにして負け組」「私は要らない人」「他人に仕事と認められない底辺の労働」-。東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、殺人未遂の現行犯で逮捕された派遣社員、加藤智大容疑者(25)は犯行前、携帯電話の掲示板にこのような書き込みを続けていた。

【特報 追う】より高給、より望む職求め県外へ
http://sankei.jp.msn.com/region/tohoku/aomori/080612/aom0806120257000-n1.htm

「いい学校に入り、いい会社に入る」という価値観で育った加藤被告が、進学上の挫折を味わったときに、耐えられない矛盾を心に抱えることになったことは想像に難くないでしょう。その後、正社員を退職し、派遣社員として働いていた加藤被告が自分のことを「他人に仕事と認められない底辺の労働」と考えるに至った背景として、こうした「価値観」の問題があることは明らかだと思います。

この事件の原因としてしばしば派遣社員という雇用形態や、その待遇の低さなどが問題として取り上げられましたが、このように考えると「雇用形態」や「待遇」の問題はほとんど関係ないということが予想されるでしょう。たとえ正社員という雇用形態であったとしても、あるいは待遇が多少良かったとしても、加藤被告が自分の仕事を「他人に仕事と認められない仕事」と考えた可能性は高いし、逆に、派遣社員という雇用形態のままで、かつ待遇が悪かったとしても、こうした価値観の矛盾を抱えていなければ、殺人という結末に至ることはなかったと思われるからです。

むしろ、この事件に何か反省点を見い出すのであれば、それは、冒頭で宮台氏も指摘するような、教育を通して植え付けられる硬直化した「価値観」の問題ではないかと思います。

自分は、『いい学校・いい会社・いい人生』が勘違いとまで言うつもりはありません。『いい学校』が、ある意味における人生の可能性を広げるのは事実だし、そういう価値観も重要なものであることは間違いないでしょう。しかし、すでに実質的な「大学全入時代」が到来する中、「全入」する学生の全員に「責任のあるホワイトカラーの仕事」やステレオタイプ的な「やりがいのある仕事」という幻想を与え続ける余裕はないのです。いつまでも、そうした価値観にこだわっていれば、多くの若者が加藤被告と同じような心の闇を抱えながら生きていくことになるだけではないかと思います。

多くの場合、若者の価値観は柔軟です。大人が提供する価値観がどんなに硬直的なものであっても、ほとんどの若者は、それぞれの状況に適応し、友人同士のコミュニケーションの中で自分の居場所を見つけていくことでしょう。しかし、全ての人がそういう能力を身につけているわけではありません。大人が提供する価値観を素直に受け止めてしまうような、加藤被告のような若者にとって、現代社会はどこにも居場所のないものになっているのです。

彼らにとって必要なのは、そうした価値観を「一つの見方」として相対化できるような柔軟な発想の仕方にほかなりません。最初に自殺サイトの例で見たように、自分の価値観を価値観であると相対化できない人は、その価値観から自分の生きる意味そのものを評価し、最終的には「生きる意味はない」という結論にまで至ることになります。しかし、そうした見方が「一つの見方」に過ぎないということに気づけば、そうした考えから抜け出すことができるのです。

これは加藤被告一人の問題ではありません。「負け組」という言葉に象徴される価値観の矛盾は、自殺やNEETの問題と深く関わっているだけでなく、統計には表れないような形で、多くの人々が心の重荷に感じていることだと思われるからです。こうした価値観の矛盾に適切に対処できるような「複眼的な思考法」を、教育、特に、高校や大学の情報教育を通して、制度的に教えていくことが、ますます必要になっているのではないかと思います。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(2件) | トラックバック(0件)

コメント

私から見るとホワイトカラーの仕事もブルーカラーの

仕事も同じ様に思えます。と言うか男性の(私は男性ですが)仕事全てが人間を

仕事の奴隷にする事に思えます。

投稿: ニート | 2011/11/17 6:33:02

革新的な技術に携わったり考察する仕事であったり、重要度や期待度や成功報酬が高いなど、厚遇される仕事は誰もが就きたがります。
一方で、流れ作業の一部で単調であったり、失敗は許されないが一部品のように取って代わられやすく、トップダウンで一切の苦言や稟議さえも却下されて報酬が低く、冷遇されている仕事は誰もが就きたがりません。

厚遇されている仕事に就いている人は、財産などの富があり自信に溢れていますから、生活にゆとりがあり行動力もあって人間関係の幅も広がります。
冷遇されている仕事に就いている人は、財産などが限られており劣等感を常に感じていますから、生活の行動範囲は狭くなりやすく狭隘な心に陥りやすくなります。

生活の糧として仕事をしている人が大方だと思いますが、しかしながら生きる上で多くの時間を仕事に費やしますので、蟠りがなく無難に適応できる仕事に就くことは重要なのだと思います。

投稿: M | 2011/11/18 21:59:03

コメントを書く

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
(トラックバックは記事投稿者が公開するまで表示されません。)

情報学ブログをRSSで購読する

Googleで購読 はてなRSSで購読 livedoor Readerで購読 Bloglinesで購読 My Yahoo!に追加

その他のRSSリーダー

管理人のつぶやき