情報伝達と「心」―動物に心はあるのか?

情報学 | 2009/02/18

チリの高速道路で轢かれた犬を、別の犬が路肩まで引きずっていくというYoutubeの映像が話題になっています。この映像に関して書かれたブログの中に、以下のようなものがありました。

助けに行ったって事は、事故にあって傷ついているとか
そこに居たら危険だって理解してるって事でしょ?
大変だ!助けなきゃ!って気持ちがあるんだね
レスキュー犬★/ミカンのohana

心というものは、人間だけしかないと考えられているが、仲間を助けるという行動は心などというよりも、本能なのかもしれない。
Instinct/shine

こういった日記に学問的にコメントをするのは、申し訳なくもあるのですが、これを読んで、ふと、「犬に心はあるのか」という問題について書こうと思ったのです。

いったい、犬に「心」はあるのでしょうか?結論から言えば、「とらえ方によって違う」ということになるのではないかと思います。これは当たり前のように思うかもしれませんが、情報学的には非常に重要なことです。

○心の定義の限界

現代の科学者は、「心」というものを科学的な研究対象とし、「心があるかないか」を客観的な基準によって決めようとしました。たとえば、「心があるのは人間だけだ」、「いや、霊長類にも心がある」といったようなものです。しかし、デイヴィッド・チャーマーズが「意識のハードプロブレム」という言葉で批判したように、こうした研究は決して実証的な研究にはなりえなかったのです。たとえば、「犬に心がある」という研究は、「犬を感情移入しているのに過ぎない」という理由で批判されていたわけですが、では人間に感情移入をしないで、「人間に心がある」ということを言えるのかというと、それも微妙なのです。

このことは「哲学的ゾンビ」という言葉によって端的に示されます。哲学的ゾンビとは、「他の人から見ると普通の人間と同じように振る舞うが、他の人と同じような経験を持たない。したがって心を持たない」という存在です。チャーマーズが主張したのは、実証的な研究から、人間は「哲学的ゾンビではない」という証明をすることができないということでした。つまり、犬も人間も哲学的ゾンビに過ぎないかもしれず、いわば、感情移入をすることによって初めて「心がある」と見なされているのに過ぎないのです。

○情報解釈と心

さて、情報解釈という点について、人間と動物は多くの共通点を持っています。人間も動物も、「生きる」ということによって、自律的に情報解釈をしているからです。このことを生物学的な表現で言えば、さまざまな情報は、「その情報を解釈することで、自分の生存にプラスになる」という「生きるための情報」だと言うことになるでしょう。この意味から言えば、情報とは全て「生物にとっての情報」「私にとっての情報」であるとまとめることができるのです。

ただ、この意味での情報は、「それぞれの個体に固有の情報」であって、人に伝えたり、書き留めたりすることのできない情報です。これに対し、人間のような生き物では、情報伝達を行います。情報伝達を行う人間の場合、「自分と同じように情報解釈する存在」を、他の存在と違う性質があるものと考え、コミュニケーションを行うことになるでしょう。ここで「自分と同じように情報解釈する」とは言い換えれば「心がある」ということにほかなりません。こうしてコミュニケーションを通して、「自分と同じようい情報解釈をする」という理解が生まれてくるとき、初めて「心」の存在が立ち現れてくるというのが、情報学の立場からの「心」の理解ということになるのではないかと思います。

○犬に心はあるのか?

こうした立場から、冒頭の映像の犬に心があると言えるのか考えてみたいと思います。一般的な理解にしたがえば、「shine」のブロガー氏が言っているように、「心というものは、人間だけしかないと考えられている」ということになるでしょう。生物学的に、本能と心は対立する概念ではないので、「本能」というのは言い過ぎですが、心を想定しなくても説明できる学習行動として犬の行動を説明することはできると思います。

ただ、仲間の犬を助けるという犬の行動が、「人間と何か共通するものがある」として犬に対する共感を持ちながら映像を見ることもできます。これには、「ミカン の ohana」のブロガー氏の「大変だ!助けなきゃ!って気持ちがあるんだね」というコメントが端的に表しているでしょう。このように犬を見るとき、その人は犬に心を見いだしているということになると思います。

要するに、冒頭で引用した二つのブログの記事はどちらも間違っているわけではないのです。

○「心とは何か」にまつわる問題

こうした「心があるかどうかはとらえ方次第」という見方に対しては、「それじゃ議論する意味がないじゃないか」という人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。

「心があるかどうかは科学的に決められる」という見方によれば、「脳死の人に心があるか?」という問題、「重度の痴呆の人に心があるか?」という問題も、「科学的」に決められることになるでしょう。「科学的な結論」では、基本的にその人の「能力」や「機能」に焦点が当てられます。たとえば、「他の人とコミュニケーションする能力がないのなら、心などあるとは言えない」というような「科学的な結論」が導かれるのです。こうした「科学的な結論」は、脳死の人はもちろん、植物状態の患者、痴呆の患者、精神障害者に対しても治療を停止して医療費を節約したり、彼らの身体を臓器移植等の「医療資源」として活用することを可能にしていくものです。

しかし、心というのがそもそもコミュニケーションや社会的な関係によって成り立つものだとしたら話が違います。たとえば、脳死の人は脳幹の機能はなくても、手を握ったら握り替えしてくるというような反応をすることができるわけですが、これをある種の「コミュニケーション」とするのなら、別の意味で「心」があることになるからです。このように理解するなら、かりに、脳死の人からの臓器移植を認めるとしても、「心のない物体(死体)」からの臓器移植ではなく、「生きている人に対する合法的な殺人」として理解されないといけないことになるでしょう。こうした見方は、森岡正博が『脳死の人』で指摘したように、脳死臓器移植に対するより手厚いサポートの必要性を訴えていくことや、場合によっては脳死臓器移植の廃止論に結びつきます。

こうした「心とは何か」という問題は、医療の場だけの問題ではありません。「外国人には心なんてない」という排外主義、「犯罪者には心はない」という犯罪厳罰化論はもちろん、生活保護や障害者福祉を巡る議論にも、「心」の問題が絡んでいるからです。

「心」の問題とは、「コミュニケーション可能性」の問題であり、「共感可能性」の問題にほかなりません。人は、自分が「コミュニケーションできる範囲」「共感できる範囲」を定め、その外側に対しては共感することを拒否するわけですが、その範囲こそ、私たちが「心がある」と考える対象の範囲だからです。時には暖かく、時には残酷な働きをする「心」の概念。「心」について良く知るとは、こうした社会の問題について知ることにほかならないのではないかと思います。

○関連記事

今から2年ほど前に、かなり近いテーマで書いた記事です。

人を殺してはいけないということについて/情報学ブログ

○参考記事

“ヒーロー犬”の行動に、襟を正す人々/ココログニュース ブログ発

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