「障害は個性」という見方と障害者排斥

経済・政治・国際 | 2009/01/29

1. 障害者排斥論の背景

昨日、電車に乗っていたら意味不明のことを大声で叫んでいる人がいました。それを見て自分は「自分の子どもがこうなったらどうしよう」「自分の愛する人がこうなったらどうしよう」、さらには「自分がこうなったらどうしよう」と思い、ものすごく悲しい気分になりました。障害というのは誰もがなる可能性があるものです。自分もなる可能性があるし、自分の親族もなる可能性があります。最近の障害者を排斥するような風潮を見るにつけ、こういう視点を持つことの大切さを感じるものです。

さて、このことを通してふと思ったのが、障害者運動等を通して、ある時期から強調されるようになった「障害も個性」という見方です。歴史的に言うと、この考え方は1957年に発足した脳性マヒの障害者の団体「青い芝の会」の主張として知られており、それ以降、我が国で学問的に障害者の問題、自己決定権の問題を扱うときには外すことのできない論点となりました。ただ、こうした考え方が一般に流布したのは、1999年に先天性四肢切断の男性、乙武洋匡氏が「五体不満足」を公開した時代まで待たなければいけないかもしれません。ベストセラーとなった「五体不満足」を通して、多くの人が障害者を受動的でかわいそうな存在とする認識が誤りだったと考え、障害者の主体的な生き方に目を向けるようになったからです。

しかし、こうした障害者に対する見方の変化は必ずしも障害者にとって嬉しいものではありませんでした。某週刊誌が、ベストセラー作家となった乙武洋匡氏の経済的に豊かな暮らしを取り上げた批判的な記事を掲載するなど、「障害者排斥」とも言える見方も、同時に一般的になっていったからです。インターネットコミュニティの出現は、このことをさらに加速させていきました。極端な方向に傾きがちと言われる匿名掲示板の2ちゃんねるだけではなく、より一般的な層が参加していると思われるSNSのmixiでも、障害者に対して排斥的な記事が多く見られるようになったのです。

この背景に、障害者を「かわいそうなもの」「自分より下のもの」として見る見方があるということは、「青い芝の会」をめぐる議論の歴史から容易に想像できます。すなわち、障害者を「かわいそうなもの」「自分より下のもの」として見る見方は、良くも悪くも障害者福祉の感覚的な基盤として、あるいは障害者排斥への防波堤として機能していたのです。そうした見方が失われたところに、障害者福祉への無理解、障害者排斥への傾倒が起きるのは必然的だったと言えるでしょう。

こうした見方を、理論面から批判するのはたやすいことです。障害者の権利は「かわいそうなもの」「自分より下のもの」という感情によってではなく、「主体的な権利」として認めなければいけない。こういう主張も分からないことはありません。「かわいそうなもの」「自分より下のもの」という感情によってしか障害者をいたわれない人々の偏狭な考え方、権利意識の低さを批判する見方にも一定の正当性があると言えるでしょう。

しかし、単純にそのように主張する人はあまりにも現実を見ていないのではないでしょうか。現実に「障害は個性」と言うことが、障害者の政治的立場を危うくするのであれば、公の場でそのような発言をすることの意味そのものを問い直さなければいけない。さらに言えば、そのような発言を支えている理論そのものを問い直さなければいけないと思うからです。

この議論は、「青い芝の会」の主張に対し、障害者や支援者の立場から反発があったことにさかのぼります。「障害者の自立」を叫ぶ「青い芝の会」の主張が、結果として障害者へのケアの切り下げにつながるということは、当時から言われていたことだからです。実際、「青い芝の会」の主張は、部分的に受け入れれば、結果として福祉予算の切り下げにつながる面もあり、そうした意味で、「利用」されてきた面も少なからずあるのです。今日、「障害は個性」という見方が普及するとともに、障害者のケアの切り下げ論や、それにともなう悪平等論が台頭してきたのは、こうした古くからの危惧が現実になったに過ぎないということもできるでしょう。

2. 「機会平等」の政治性

「機会平等」という考え方があります。人間には能力がある人とない人がいて、それらの人が異なる「結果」になっても仕方ないが、均等に「機会」があたえられるのなら平等だと言えるという考え方です。これに対し全ての人が同じ「結果」を得なければいけないというのが「結果平等」です。ただ、「機会」の平等と「結果」の平等は程度問題だということを忘れてはいけません。

たとえば、次のような因果関係を考えたとします。

Equality_of_opportunity

このとき、「生育環境は人によって違うけれども、教育機会は能力よってのみ決まらなければいけない」とするのなら、ある種の「能力」(図の赤字)に注目した「機会平等」です。ここで「生育環境」是正されるべきものとしてみなされているのです。これが、一般的な意味での「教育の機会平等」でしょう。一方、収入は「教育機会(学歴)」と「職種」と「能力」の違い(図の青字)によってのみ決まらないといけないが、それ以外の要因によって決まってはいけないと考えるのが、一般的に理解されている「経済的な機会平等」です。しかし、理論上は「出生状況が違っても、生育環境は平等でなければいけないという「機会平等」もありえます(生まれてすぐ親から引き離して育てるというユートピア的平等社会)。また、教育にかかわらず収入は平等でなければいけないという議論もあります(学歴差別是正の議論)。これらのうち、理論的にはどれが正しいというわけではありません。現代社会では無数の「機会平等」の一つが訴えられているだけなのです。

これは障害に関しても同じです。特定の障害を「是正するべき機会の不平等」と考えるのであれば、福祉など特別な措置を通して是正していくべきということになります。一方、「障害は個性」であり、是正するべき不平等ではないとするのなら、現在の制度は「障害者を優遇し過ぎる」「逆差別だ」ということになるのです。

重要なのはこれらの線引きが、普遍的に決まるのではなく、政治的に決まるものに過ぎないということでしょう。「障害者の権利」は、障害者が普遍的に持っていたものではなく、歴史の中で勝ち取られてきたものです。もちろん、「全ての人が平等に生存権を持つ」という理念そのものは、現代社会(少なくとも日本の社会)において、広く認められたものであり、それを疑う人はあまりいないでしょう。しかし、その線引きはあくまで恣意的なものであり、それは政治、さらに言えば世論によって決まっていくものなのです。そうであれば、世間の反発を促すような形で、「障害は個性」と訴えていくことが本当に正しいのか疑問でしょう。匿名掲示板である2ちゃんねるだけではなく、本名を公開して発言しているSNSのmixiでも障害者排斥の風潮が見られるということを、障害者運動の関係者は重く受け止めなければいけないのではないかと思います。

3. 生き方の問題と制度の問題

では、障害者は、「障害は個性」という主張を慎み、かわいそうな存在として卑下されながら生きていかなければいけないのでしょうか。自分はそうは思いません。なぜなら、「一人の人間の生き方の問題と社会の制度の問題は別」であり、「個性」という言葉の意味も、それによって変わってくるからです。

社会の制度の問題として言えば、「障害は個性ではなく、是正されるべき機会の不平等だ」ということになるし、障害者はそう主張するべきでしょう。そこでは「かわいそう」という見方を甘んじて受けなければいけない場合もあるかもしれません。しかし、一人の人間の生き方の問題として言えば、自分が生きている世界は、かけがえのないたった一つの世界であり、「誰と比べて良い・悪い」というようなものではありません。また、健常者が一人の障害者に接するときも、そうした相手の立場を尊重しながら接するということも重要です。それをあえて「個性」というのであれば、「個性」ということもできるでしょう。これは一見して矛盾するように思うかもしれませんが、そうではないのです。それは一般に、「一人の人間の生き方の問題」と「社会の制度の問題」は別のものであり、どちらの視点を取るかによって、ものごとは全く違った形で見えてくるものだからです。

今日の障害者排斥の背景には、障害者や障害者論を語る人々が、こうした障害をめぐる2つの視点の区別―情報学的に言えば社会システムと心的システムの区別―に無自覚だったということがあるのではないでしょうか。たとえば、「障害者である自分は、自分のかけがえのない世界を生きているし、自分は自分のことを『かわいそう』だと思っていない。でも、その背景には、社会の暖かい眼差しがあるということを忘れてはいない」。こういう言説が一般的になれば、社会の障害者に対する見方も現在と違うものになったはずです。ところが、障害者はしばしば自分自身を「かわいそうな存在」なのか「自立的な存在なのか」という2者択一で理解しようとしてしまいます。こうなると、「かわいそうな存在として卑下して生きる」か、「自立的な存在として周りを突っぱねて生きる」かという結果になるのです。そして、後者の側面のみが強調されることで、社会的に「障害者排斥」という結果を導いてきたと言えるでしょう。

これは、理論的には「青い芝の会」以来続いてきた伝統的な問題です。しかし、「障害は個性」という見方がマスコミの報道やインターネットコミュニティの出現に伴って一般的になり、現実に「障害者排斥」の流れにつながってきたという意味で、今日的な問題と言うことができるでしょう。こうした中、障害者運動が「情報学的な」変革を迫られていることは、「情報の時代」としての現代の特質を端的に表していると言えるかもしれません。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(5件) | トラックバック(0件)

コメント

 はじめまして。いまだに、mixiでは徒党を組んで障害者差別キャンペーンをしています。

 参考までにこちらをご覧ください。

http://plaza.rakuten.co.jp/nikkannaozo/diary/201009220002/

http://plaza.rakuten.co.jp/nikkannaozo/diary/201009220001/

投稿: 日刊NANZO編集委員会 | 2010/09/25 12:13:25

一般的には常識とされている普遍的なテーマ、例えば

 真実は一つだけ
 怒りは自然な感情
 戦争は無くならない
 虐められる側にも原因がある
 この世に絶対や奇跡や偶然はある
 自己チュー人間ほど自尊心・自己愛が強い

などといった命題の間違いとその論拠を解説しています
義務教育では殆ど教えない哲学です。是非ご一読ください

感情自己責任論  http://sky.geocities.jp/dwhsg178/

今後益々のご活躍を期待しています
突然失礼しました

投稿: hajime | 2011/02/20 19:54:49

障害者論も確かに見直しを迫られているのだと思います。私は、今日までの障害者論を論じる視点が、すでにマルクス主義的な歴史人間観に染まった、その枠から一歩も出られていない議論に終始してしまうのを残念に思い、その克服のためにもっと、歴史をマルクス主義的な見方から解放して、西欧的な歴史人間論を祖先祭祀の道という日本人の根源的な心、御霊信仰のところから再考している南出喜久治氏の「国体護持総論」に注目してみております。本能論、道徳論、規範論、国法学法理論、歴史論、大東亜戦争論、政治経済論、エネルギー食料の問題を総論的に論じておられる南出喜久治氏のこの「国体護持総論」を出色の人類への思想的な大きな貢献として、大変高く評価したいと思います。

マルクス主義的な従来の歴史教育において、私たちは歴史を少なくとも日本の歴史をかなり単純な階級闘争史観的で書き換えられてしまって来て、障害者も、何か現在の北朝鮮のように、生まれるとすぐに殺されてしまってきたかのように、近代になっても、障害者がなにか忌むべきものであるかのように、考えられてきたかのように思いがちですが、本当にそうだったのか。

大東亜戦争末期に障害者の抹殺計画が出て来たというのは本当なのだろうか。沖縄戦の日本軍による住民集団自決強要事件や南京大虐殺や従軍慰安婦のような明らかに捏造されたマルクス主義的な歴史改竄の一つなのではないか。

日本人の規範意識、御霊信仰、道徳的道義的な高邁さは先の東北大震災後の被災者の行動に世界が瞠目したとおりであり、現在の共産主義シナやマルクス主義者の道徳的に退廃した目を通した議論が、本当にまっとうなものになるとは思えません。

日本人は障害者を家庭家族で面倒を見て来たのが事実のところであり、そして近年のように障害者やお年寄りを厄介者扱いにするような風潮が出てきたのも、単に日本人の家族主義的な愛情に基づく障害者に対する温かい心や介護を忘れさせられてきた戦後の教育の産物にすぎず、まさに、西欧的な個人主義的な発想と感覚でしか論じられてこなかった大きな欠点があったと思います。

家族の存在を欠落させた障害者自立論とか、障害者福祉論とかいうものは戦後的な特異な議論であるに違いなく、老人や障害者の介護政策の歴史を詳しくは知りませんが、保守系の政治家が家庭介護にこだわってきたのも、きっとこのような日本の家族主義的な温かい親子兄弟姉妹の心の絆が無視されていくことへの抵抗ではなかったかと想像します。

障害者論もまたその他のすべての問題と同様に、もう一度我が国において神代の時代から続く祖先祭祀や皇祖皇宗の伝統文化から捉え直して、日本人の直毘のこころから論じ直す必要があるのだと思います。

投稿: アミダ | 2012/04/16 18:45:57

障害者を隔離する座敷牢は沢山ありましたよ?
近代の障害者隔離政策は「共産主義を批判した」フーコーの著作を読めば?

投稿: | 2012/10/11 1:35:16

大日本帝国には国民優生法がありました。戦後になると国力増強と中絶の権利、障害者の幸福追求権を健常者が決めることを国会が主導しました。母体保護法は保守派でなく社会党が提出し強制断種も行われています。

今でもですが、女性の人権>障害者の人権だったというわけです。

これを見ても分かるように国家が積極的に関わりだしたのは戦後なのです。というのも戦前は曽和義弌のように「民も昔に遡れば神の御来である、それを断種すると伝ふことは・・・徹頭徹尾ユダヤ思想である」一定のブレーキがあったからです。

(何でユダヤ教が障害者を差別するようになったかは長くなるのでここで書けません。エマニュエル・トッド著、「世界の多様性」「移民の運命」に書いてある、家族構造が作り出す価値観である普遍主義と差異主義が齎す結果に気を付けて読んでください。)

将来は遺伝子治療や診断が一般的になるので憲法14条に遺伝を入れないと、また排斥に動くのではないのでしょうか?産むのは自己責任だから国家は個性を面倒を看ない。私はこう言って福祉を削減してくると予想してます。

投稿: kayumi | 2013/07/21 16:31:53

コメントを書く

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
(トラックバックは記事投稿者が公開するまで表示されません。)

情報学ブログをRSSで購読する

Googleで購読 はてなRSSで購読 livedoor Readerで購読 Bloglinesで購読 My Yahoo!に追加

その他のRSSリーダー

管理人のつぶやき