情報学 | 2009/01/26
1. 恋愛に対する二つの見方
一般に、恋愛に対する価値観は、特定の文化、コミュニティの中で形作られていくものです。日本とインドネシアで理想の男性のタイプが異なることは容易に予想されますが、それだけではありません。日本の中でも、「どのような家庭で育ったか」「どのような友人と過ごしてきたか」によって恋愛に関する価値観が大きく異なるということは良くあるでしょう。恋愛に対する価値観は社会の影響を受け、社会の中で形作られるのです。
ただ、どんなに社会の影響を強く受けたとしても、結局、「自分自身の価値観」であることには変わりません。というのも、恋愛に対する価値観は「自己産出的」な性質を持っているからです。ある人のことを好きになると、それによって、さらにその人のことを好きになる。つまり、「好き」という気持ちが、次の「好き」という気持ちを産み出すのです。こうして、自らが自らを生み出すような性質のことを「自己産出(オートポイエーシス)」と言うのですが、このことによって、私たちの心には、自分だけの恋愛に対する価値観が形作られるということができます。恋愛に対する価値観は、いわば、自分が生きてきた歴史そのものなのです。
ここで前者の見方、コミュニティの立場からの恋愛に対する価値観は、恋愛対象を(誰が一番で誰が二番目という形で)序列化する一方、後者の見方、一人一人の人間の立場からの恋愛に対する価値観は、恋愛対象を絶対的なものとして見るという違いがあります。自分としては「好きになった相手こそ世界で最高」でも、コミュニティの立場からすれば、「どこにでもいる普通の人間」ということは誰にでも経験があるでしょう。
2 恋愛対象の序列化
私たちの心は、その人が属するさまざまなコミュニティから影響を受けているわけですが、
この影響が極端になると、「そのコミュニティで共有される価値観をそっくりそのまま自分のものとして受け入れる」ということになります。たとえば、小学校で「クラスで一番もてる男の子/女の子」に人気が集中するというような状況がそれでしょう。こういった状況において、クラスのメンバ一人一人は、コミュニティの価値観を、そっくりそのまま受け入れてしまっているということになります。
こうして「コミュニティの価値観を、そっくりそのまま受け入れる」ということを「拘束」という言葉で表現することにしたいと思います。
一般に、一人一人の人間が過去に経験してきたことは一人一人違います。したがって、どのような恋愛観を持つかも一人一人違います。しかし、「コミュニティの価値観」は一つしかないので、一人一人の心がコミュニティから強く拘束を受けるようになると、必然的に恋愛対象の序列化が起きます。小学校のクラスであれば、「一番人気のある男の子」「その次に人気のある男の子」というように、順序づけが行われるのです。
とは言っても、こうした序列化はコミュニティが小規模でかつ多様性に富むものであれば、それほど大きな問題にはなりません。コミュニティの中には小さなグループ(サブコミュニティと呼ぶことができます)が複数あり、それぞれで理想の恋愛対象も異なるのが普通だからです。この場合、恋愛対象の序列化はそれほど大きな問題にはならないでしょう。
しかし、これがもっと大きな規模のコミュニティの場合、序列化は顕著になります。たとえば、マスコミュニケーションに支えられた国レベルのコミュニティにおいて、恋愛対象として理想化されるのは、直接的には俳優やコメディアン、ミュージシャン、スポーツマンといった限られた領域の人に絞られることになるからです。もちろん、これに準じる意味で、「お金のある人」「専門職の従事者」「やさしい人」「芸能人に似ている人」なども「準・理想の恋愛対象」になるかもしれませんが、多くの人は具体的に名前を挙げられることがありません。こうしたコミュニティにおいて、多くの人は「理想の恋愛対象」から外れてしまうことになるのです。
3. マスコミュニケーションの特異性
一人一人の人間にとって、マスコミュニケーションのコミュニティは、その人が属している多くのコミュニティの一つに過ぎないものであるし、マスコミュニケーションのコミュニティの価値観にしたがうかどうかも自由です。しかし、現代に生きる私たちは、他の人とコミュニケーションを取る上で、マスコミュニケーションのコミュニティの価値観、世界観に基づいてコミュニケーションをせざるをえないという状況があります。このため、マスコミュニケーションのコミュニティの価値観を、そっくりそのまま自分の価値観として受け入れる「拘束」が起きやすいのです。
しかし、マスコミュニケーションのコミュニティは、他のコミュニティと根本的に違う点があります。それは、多くの人は、マスコミュニケーションのコミュニティの価値観を受け入れながら、実際にはそのコミュニケーションに参加していないということです。たとえば、テレビで、俳優やコメディアンが「誰が理想の恋人か」という話をしているのを見る多くの人は、そこで自分が話題にされると思っていません。<芸能界>という舞台の上で理想の恋愛が語られるのを、指を加えて見ているだけなのです。
こうなると、人間は必然的に卑屈になります。たとえ恋人ができても、「芸能人に比べれば大したことがない相手だ」ということになるし、自分自身に対しても「芸能人に比べれば大したことがない」ということになるでしょう。こうして、マスコミュニケーションのコミュニティから強い疎外感、劣等感を味わいながら生きているのが現代の若者ということができるかもしれません。
4. マスコミュニケーションの相対化
ただ、そうとは言っても、多くの人は、マスコミュニケーションによって作られた恋愛に対する価値観を、少なくともある程度は相対化して見ています。
たとえば、「アイドル」と言われるタレントは、テレビの中で常に持ち上げられ、「理想の男性/女性」として描かれるという特徴があります。これは、他の出演者のセリフや、編集の仕方など、さまざまな場面で徹底しているのです。しかもそれは芸能事務所の政治力やテレビ局の方針などにも強く左右されています。このことはマスコミュニケーションに詳しい人なら誰でも知っていると思いますが、そうではなくても、注意深くテレビを見ていれば何となく気づくことができるでしょう。すなわち、多少の知識と注意力がある人にとって、マスコミュニケーションのコミュニティの恋愛に対する価値観が「作られたもの」であることは明らかなのです。
こうしてマスコミュニケーションを相対化して見ることができる人は、自分に芸能(ショウビジネス)で成功する能力がなかったとしても、また、自分の恋人が芸能人ではなかったとしても、必ずしも自分を卑下したり、疎外感を味わって生きたりする必要がありません。
しかし、不幸なのは、こうした視点を持たない人、つまり、マスコミュニケーションのコミュニティの価値観に疑問を抱くことなく、そっくりそのまま自分のものとして受け入れてしまっている人でしょう。こうした人は、恋人ができても「芸能人に比べれば大したことがない」と思う以外にないし、自分自身に対しても「芸能人に比べれば大したことがない」と劣等感を感じ続けて生きていくことになるからです。こうした感覚は、現代の若者の全てとは言わないまでも、かなりの人が持ち合わせているのではないかと思います。
5. 自分自身について知るということ
こうした人がマスメディアに押しつけられた恋愛観から自由になるためには、「私たちの価値観は、マスメディアの影響を強く受けているということ」、「マスメディアは、それ自体、かなり特殊な形で恋愛に対する価値観を押しつけてくるものだということ」を正しく理解する以外にありません。現代社会でより良い恋愛をするためには―つまり目の前の人に本当に恋するためには―マスメディアについて知ること、また、その影響を受ける自分自身について知ることが重要なのです。
大きく言えばこれは、「自分自身について知る」ということにほかなりません。なぜならここで「マスメディア」というのは、「私」の外側にあるマスメディアではなく、「私」の内側の、つまり私の心の一部として、私を拘束するマスメディアだからです。再びまとめれば、「私の中のマスメディア」が、いったいどのようなものなのか、私にどのような影響を与えるかを知ることこそが重要ということになるでしょう。
もちろん、「自分自身について知る」というのは、決して簡単なことではありません。それは自分自身の変革を伴うし、しばしば痛みも伴うからです。でも恋愛っていつもそういうことじゃないでしょうか。今の恋人との関係をより良くしていくために、あるいは、夢にさえまだ見ぬ恋人と出会うために、ほんの少しでも、そんなことを考えられると良いのではないかと思います。
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