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トロッコ問題と情報学

情報学 | 2008/11/17

○トロッコ問題とは何か

ココログニュースの記事からたどって、Wired Visionというニュースサイトで倫理学の有名な問題が紹介されていることを知りました。具体的には記事中の以下の部分です。

5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。

多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。

しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。(中略)この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。

人間の倫理は非理性的か:「トロッコ問題」が示すパラドックス
http://wiredvision.jp/news/200811/2008111121.html

この問題、上の記事では架空の問題であるかのように扱われていますが、実際には医療倫理などで実際に問題になる状況を表しています。たとえば、救急車で運ばれてきた重症患者を受け入れると他の患者が犠牲になるというときどうすれば良いかという問題、国民全体の医療費や医療資源が限られている中、高額な費用を要する難病の患者への保険診療を認めるべきかというような問題があります。

○「トロッコ問題」の解釈

さて、記事では、この問題をカント主義と功利主義という単純化された対立の構図で理解した上で「パラドックス」と結論づけていますが、カント主義や功利主義に詳しい人の中には、これに違和感を感じた人もいるのではないでしょうか。結論から言うとこれは論理的に間違いであり、アンケートの結果に「パラドックス」などありません。なぜなら、この問題は論理的に以下の二つの問題に分割されるからです。これはどちらも生命倫理で一般的な論点です。

(1) 行為の作為性を認めるかどうかという問題(因果律の解釈の問題)
これは、生命倫理では「作為と不作為の問題」などと言われます。作為的に起こされた直接的な結果と、それによって引き起こされた副次的な結果では、価値判断が異なるのか否かという問題です。功利主義ではこれを「区別しない」という立場を取ります。区別するという立場の場合、さらに個別の問題において、複数の選択肢の作為性に区別ができるかを議論することになります。

(2) 倫理的価値は比較・加算できるかという問題
倫理的価値は比較したり、あるいは足したり引いたりできるのか否かという問題です。ちなみに、比較したり、足したり引いたりできる主張するのが功利主義です。一方、比較は許されないというのがカント主義です。ただし、カント主義は比較せざるをえない状況でどうすれば良いかについては何も言っていないので、カント主義が「行為の作為性の問題」に帰結させると考えるのは間違いです。(このほか「比較はできるが、足したり引いたりはできない」という考え方として「選好功利主義」というものがあります)

これを前提に考えると、アンケート結果は、(2)の問題に関しては「比較・加算できる」という結論。(1)の問題に関しては「区別できる」という立場を取った上で、個別の問題に応じて判断しているということになります。2つの状況を区別するのは、個別の状況で「作為・不作為を区別できるか」という立場の違いであり、全く矛盾しません。アンケート結果が「理性的ではない」という、記事中の倫理学者の判断は間違いということができます。

功利主義は本来的に「作為と不作為はすべての場合で区別されない」「倫理的判断は比較・加算できる」という立場で、「多くの人を助ける方を選ぶべき」という結論になります。一方、カント主義は通俗的には、「作為と不作為は区別できる」「倫理的判断は比較・加算できない」立場と理解されており、この立場からは「作為的な行動を起こさない方を選ぶべき」という結論になります。(これは功利主義から見たときの理解であり、本来のカント主義ではないのですが、とりあえずその問題は触れないことにしておきます)本来4つに分類すべき問題を、功利主義―カント主義という誤った分類で考えたために、おかしな結論に至ってしまったのが、引用した記事の倫理学者だったと言うことができるでしょう。

ちなみに、「作為と不作為は区別されない」「倫理的判断は比較・加算できない」という立場を取ると、答えは「判断不能」ということになります。これをまとめると以下の表のようになります。

行為の作為と不作為の区別
不可能 可能
区別されない 区別される
倫理的価値の比較・加算 可能 多くの人を助ける方を選ぶべき
(功利主義)
多くの人を助ける方を選ぶべき
(多くの人の理解)
作為的な行動を起こさない方を選ぶべき
(多くの人の理解)
不可能 判断不能 判断不能 作為的な行動を起こさない方を選ぶべき
(通俗的なカント主義)

○倫理を理解する視点の問題

以上が、一般的な生命倫理の論点に基づいて「トロッコ問題」を分析したものですが、同じことを情報学の立場から考えてみたいと思います。

情報学では「情報は観察者とともにある」ということを主張します。これは倫理の問題に関して言うと「倫理的問題の解釈は、どのような視点からそれを理解するかによって異なる」ということになります。

これを上記の二つの論点に当てはめると、次のようになります。

(1) 一般に、倫理的価値は比較も加算もできないが、特定の視点から見れば比較や加算ができるとみなされる場合もある。たとえば、社会にとっての問題として倫理を理解する場合、特に政策的問題などに関しては「倫理的価値は比較・加算できる」というモデルが必要になる場合が多い。しかし、個人の倫理的判断は、「目の前にいる人が大事」といったことを含めてなされているので、単純な比較や加算はできない。

(2) 一般には作為・不作為の区別はできないが、特定の価値判断に基づいて考えれば作為・不作為の区別ができるとみなされる場合もある。たとえば、金持ちが施しをしなかったことによって人が死ぬことになった場合、現代の社会制度では罪を問われないが、過去の社会では必ずしもそうとは言えない。

つまり、どちらの項目に関しても「上の表の分類そのものが成り立たない」というのが情報学からの解答になります。さらに言うと、一般の状況については、左下の「判断不能」だけど、特定の状況に関しては、4つのいずれの立場も取りうるというのが、情報学的な結論ということになるでしょう。

これは、「トロッコ問題」に明確な答えがあると考える人、あるいは明確な答えがほしいと考える人にとっては納得がいかない答えになるかもしれません。しかし、そもそも倫理的問題に関しては「与えられた情報だけで答えが決まるのかどうか」という問題があることを忘れてはいけません。情報学の立場に基づけば、この問いに対する答えが常にNOなのです。答えが決まらない問題に対して、ごちゃごちゃ議論しても、議論することそのものが無意味だ、とそういうことができるでしょう。

○情報学的な考え方

さて、こうした「情報学的な考え方」は、一見すると役に立たないように思えます。「結論が出ないのなら議論すること自体、意味がないのではないか」という人もいるでしょう。しかし、そうではありません。情報学的な考え方は、「ある問題と別の問題が混同されている」ということを明確にしたり、個人の倫理的判断の多様性を説明することができるからです。

たとえば、ある看護師が、目の前の患者を助けるためにとっさの判断をした結果、より多くの人が死ぬことになったとします。これは救急外来の現場などでは常にありえる問題でしょう。こういうとき、「明確な結論を導くタイプの議論」(記述倫理学的視点)は、その判断が正しかったのか、間違ったのかという峻別をします。ここでもし、その看護師の判断が、その結論と合致していれば良いわけですが、もし合致していなかった場合、その看護師は「倫理的に望ましくない行為をした」ということになるでしょう。こうした倫理的問題の現場に置かれた人の悩みに、「明確な結論を導くタイプの議論」は何も答えを与えてくれません。しかし、情報学のような視点(メタ倫理学的視点)によれば、そうした倫理的判断の多様性そのものを理解することができるのです。

こうした状況でしばしば行われる間違いが、「個人の倫理的判断」と「政策的判断」といった情報学的には「異なる視点」に属するものが混同されることでしょう。たしかに政策的には、多くの人を助けるような判断を医療関係者に促す制度が必要です。しかし、それは個別の倫理的判断とは無関係なのです。これは情報学的視点に基づけば当然のことですが、一般には完全にと言って良いほど混同されています。

ここでは詳しく説明できませんが、このほかさまざまな状況で、倫理の問題の混乱を解きほぐす効果があるのが、「情報学的視点」なのです。

今日、生命倫理や医療倫理というと、「明確な結論を導くタイプの議論」が幅を聞かせており、それを大きな観点から分析する議論はほとんどありません。あっても意識調査がせいぜいであり、「倫理的問題の構造」そのものに立ち入るような議論はないのです。こういった状況で、「倫理的問題はどういう構造になっているか」を知るために必要なのが、「情報学」という学問だと言うことができます。

引き続き、このブログに関心を持っていただけると幸いです。

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