経済・政治・国際 | 2008/10/18
「国連自由権規約委員会」の対日審査がきっかけで、死刑制度があらためて話題になるようになりました。ただ、いろいろな意見を読んでいて思ったのは、「人権」という概念を理解していない人が多いな…ということです。通常の表現を使って言えば、人権というのは、「憲法や法律、あるいは世論や文化を超越した理念」です。もちろん、人権は、人間によって「発明」された人工物であるわけですが、それでも理念としては「超越」してるのです。
しかし、この記事では、「死刑問題」を題材にしながら、一般的な議論とは少し違う形で、「人権」を説明したいと思います。それは、「人類社会というシステム(グローバルコミュニケーションシステム)に固有の価値基準としての人権」という考え方です。これは、「普遍的な理念としての人権」というのと似ていますが、より客観的・一般的な見方です。この見方を採用することで、「人権を普遍的価値としては受け入れない」という人でも人権の問題について議論したり、人権に関する国際問題に対してより現実的な対応策を議論することが可能になるのです。
たしかに、人権概念を文字通り「普遍的価値」として受け入れるのは、日本人にとって困難な面もあるでしょう。しかし、普遍的価値として受け入れなくても、その重要性には変わりません。こうした立場から、死刑制度の是非について考えていきたいと思います。
○法制度としての権利概念と死刑制度
「国」というシステムだけに注目するのなら、 死刑制度は存続と廃止は対等に考えられる選択肢です。 特に「法によって保障される権利」としての人権に注目するのなら、死刑を不当とするロジックは成り立っていないと言って良いでしょう。
なぜなら、「法によって保障される権利」としての人権は、制度的に作られたものであり、特定の条件が満たされると時に、その基盤が失われるという制度もまた、十分に考えられるからです。
死刑制度と法制度の関係を考える上では、古い英米法の概念である「アウトロー」を考えると分かりやすいと思います。古い英米法では重大な犯罪を犯し、「アウトロー宣告」を受けると、市民権を剥奪され、他の市民が食料や隠れ家を与えることですらとがめられることになります。逆に、アウトローは「殺されるべき存在」であり、他の市民はアウトローを殺しても罪に問われなかったのです。
これは端的に言えば、「共同体の構成員として認められていた人間が、構成員として認められなくなる」ということにほかなりません。これは、「共同体の構成員が持つ権利」と何ら矛盾するものではないのです。
死刑制度もこれと同様です。重大な犯罪を犯した人間が市民としての権利を剥奪され、社会によって抹殺される。これは、法制度上、何ら問題がないと言うことができるでしょう。
○人類社会の価値基準としての人権とは何か
ただ、人権には国というシステムレベルの制度としての (つまり憲法や法律によって保障される)人権のほかに、 人類社会というシステム(グローバルコミュニケーションシステム)のレベルでの人権、一般的な用語を使えば、「人類に普遍な価値」としての人権があり、 これは別のロジックに基づいて存在するということを考えなければいけません。
たしかに日本の憲法は、「基本的人権」の尊重を規定していますが、これは「より普遍的な価値としての人権を憲法でも尊重する」という意味での人権であることは、日本国憲法の前文を読めば明らかだし、これは憲法の各条文にも反映されています。
こうした「人類社会レベルでの人権」は、(国が保障する権利としての人権と同様に)完全に守られているわけではありません。しかし、完全に守られていないということをもって、「存在しない」と言うことはできないでしょう。
実際、今日では、戦争があると国際的な批判が起きます。これは一見すると当たり前のようですが、今から200年前にはそんな発想すらありませんでした。戦争というのは、一国と一国の関係か、せいぜい同盟関係の問題でしかなかったからです。戦争でどれだけ多くの人間がいかに殺されても、それに対する道義的な批判が第三国から起きることはありませんでした。
ところが、今日ではそうではありません。人権という人類共通の価値観に基づいて、不当な侵略行為が非難されるからです。チベットに対する中国政府の弾圧、グアンタナモ空軍基地でのアメリカの拷問、こういったものに対して国際的な非難の声が起きるのは、「国や人種が違っても同じ人間として共感する」という考え方、広い意味での人権意識を多くの人が持っているからなのです。「そんなのは当たり前のことで人権を持ち出すまでもない」という人もいるかもしれません。しかし、歴史的見れば、これは過去に例をみない、現代特有の非常に特異な価値観であることが分かるでしょう。
さて、こうした「人権」概念は、欧米である時期に「発明」された概念であり、厳密な意味で「普遍的なもの」かというと疑問ではないかと思います。そこには、さまざまな思想的・宗教的背景を読み取ることもでき、「たまたま現代において一般的になっているに過ぎない見方」と考えることもできます。
しかし、由来はどうであれ、私たちはこうした「人権」によって守られているということを忘れてはいけません。たとえば、日本人が外国で不当な扱いを受けないよう、日本が外国に要求するとき、近隣諸国が日本に侵攻することに対する国際的な圧力を要求をするとき、こうした「人権」に基づいてそうした要求をすることになるからです。
これは、いわば「人類社会」という社会において認められている、あるいは認められつつある共通の価値観としての人権です。私たちは「国」レベルの権利としての人権と同時に、こうした「人類社会(=グローバルコミュニケーションシステム)」レベルでの人権を考えないといけないのです。
こうした「人類社会の価値基準としての人権」を尊重するか無視するかは、大きく言えば、国それぞれの問題と言えます。憲法の理念を無視して、「人権なんてアホらしい、日本には日本の伝統がある」と言うのは自由です。しかし、日本が現代の国際社会で責任ある地位を負うためには、また、日本に対する安全保障上の脅威に対して、国際社会からの圧力を期待するためには、こうした価値観を尊重していることを表明する必要があるでしょう。国から保護を受けようとするのなら、法律にしたがわなければいけないのと同じように、現代の(もしかしたら偏っているかもしれない)国際社会の価値観によって、多少なりとも自国民も守ろうとするのであれば、グローバルな価値観としての「人権」を尊重する必要があるのです。
○人類社会の価値基準としての人権と死刑制度
こうした「人類社会の価値基準としての人権」ということを考えるのなら、死刑の問題は全く違った視点から理解されます。
「人類社会」という視点から言えば、「国」というのは完璧なものではなく、常に偏ったり、抑圧したりする可能性のある存在です。これは、民主主義の国でも同じです。日本人の多くは、一部の国が民主主義の形を取りながら、腐敗や汚職によって実質的に一部の人間に牛耳られているということを知っているし、日本の行政や司法も、完全に公平ではないということも知っています。
それだけではありません。かりに一切の冤罪がない「完璧」な制度だったとしても、その価値観は、その社会に固有なものに過ぎないのです。たとえば、最近「レイプをされた」ことを理由に死刑になったイラン人の少女が話題になりましたが、多くの非イスラム圏の人が「信じられない」と感じたことではないかと思います。そう考えると、「凶悪な殺人犯を死刑にするべき」という考えを「野蛮」だと考える人がいるというのも理解できない話ではありません。
つまり、国というのは、そもそも「不完全な存在」だし「時代や文化によって変わるもの」です。これに対し、「人類社会の価値基準としての人権」(いわゆる人権)は、より普遍的、絶対的なもの。だから、「不完全」で「移ろいやすい」国という存在が、「人類社会の価値基準としての人権」を犯すことができないというのが、「人権」の一番根本的な部分ではないかと思います。
死刑制度について言うとどうでしょう。「国家」は時に国民や居留民に刑罰を与えることがあるわけですが、それは「反論の機会が保障されている限りにおいて、また生命が保障される限りにおいてでなければいけない」というのが、今日一般的な「人権」の考え方です。ここでは、国家が「不完全な存在」であること「時代や文化によって変わるもの」であることが考慮されています。たとえば、レイプをされて罰せられたイランの少女も、もし刑罰が無期懲役であったら、いつか体制が変わって社会の価値観が変わったときに釈放されるかもしれません。また新しい証拠が発見され、再審理を受けるということがあるかもしれません。しかし、死刑であれば、こうした可能性は絶たれてしまいます。
確認しなければいけないのは、ここで問題になっているのが、決して目先の「冤罪」ではなく、もっと理念的な問題だということです。「冤罪」は減らさないといけないものだし、ゼロに近づけないといけないものです。だから、「限りなくゼロに近づいている」という信頼があれば、死刑も問題ないという結論になるでしょう。しかし、これはすべて「国レベルでの人権」に注目した議論に過ぎないのです。
「死刑と人権」が議論されるとき、そうではなく「人類社会レベルでの人権」と「刑罰制度そのもの」が比較されているということを忘れてはいけません。裁判は間違う可能性があり、どんなに公平に行われても新しい証拠によって結論が覆される場合がある。それだけでなく、その時代、その文化における価値観は絶対ではなく、移り変わる可能性がある。こうした中、絶対的価値としての「人権」だけは守られるべきだというところに、「人権」の意味があるからです。
○日本における死刑の是非
では、死刑は絶対に廃止するべきなのでしょうか。この質問に対して、自分は「そうとは限らない」と言うことしかできません。
なぜなら、「人類社会レベルでの価値基準」の一つである「人権」が、「絶対的権利」として尊重されることを要求していると言っても、それは必ずしも「国レベルの法制度」がそうした価値基準にしたがうべきであるということを意味しないからです(倫理的問題は、該当するシステムそのものでのみ意味を持つものです)。「人権概念は、たまたま現代の世界で通用している恣意的概念であり、日本はそんなものを受け入れない」と突っぱねるのも一つの選択肢です。
しかし、人類社会の価値観と国レベルでの価値観は無関係ではありません。国レベルの問題として言うならば、「人類社会の価値基準である人権を受け入れるかどうかは」というもう一つ別の問題があるからです。「人類社会の価値基準である人権」を投影する「国レベルでの価値観としての人権」。これと、死刑存続に結びつくさまざまな価値観の折り合いをどう付けていくかが、「国」としての「死刑存廃問題」と言えるのです。
これは最終的には、国民が決める問題であるとしか言いようがないでしょう。ただ、今の日本人のどれだけが、この問題の背景を理解した上で死刑について議論しているのでしょうか。どれだけの人が「人類社会の価値基準としての人権」という考え方を理解しているのでしょうか。そして、こうした考え方が、権力の抑圧に対抗しうる唯一の概念として歴史的に認められてきたということを、どれだけの人が知っているのでしょうか。
こうしたことが十分に理解され、それでも死刑が支持されるのなら、日本としては「死刑存続」が適当と言えると思います。あくまで、それによってもたらされるコストの大きさが忘れられていない限りではありますが…。
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ずろちこるなさん
> はたして本当にそうでしょうか?
自分はそうではないと思います。
人権が相対的なものだということは、
本文の全体を通して前提にしていたはずなのですが、
ちゃんと本文を読んでいただいたのでしょうか?
本文では、人権が相対的なものだとして、
それでも守らなければいけない理由を説明しました。
上記の引用部分は、「人権という立場に立てば…」
という意味で書いた部分であり、
自分の最終的な主張を書いた部分ではありません。
社会(=模範)というのは国家、全体主義からの視野
そもそも社会から言うと私達は国民一般
でも一般人という人は日本中どこにも、一人も存在していない
誰が一般人なのか?
全体主義であの国、この国の死刑制度の差異を論じたところで何んの意味があるというのだろうか
国家?日本ですか?
日本とはどこが日本なのか?
日本に日本は存在していません。
多元多様な場所の総体が日本なのです。
北方領土が変換されたら、今と違った日本なのです。
社会からみると
死刑制度は犯罪抑止にはならないという
それは本当か?
これは嘘です。
冤罪という言葉がそもそも死刑廃止の誘導言葉であるということに気が付いてほしい
本来は事実誤認と言わなければならない
事実誤認というと、犯罪者が一人、被害者が一人で殺害されて目撃者も居ない場合。
加害者のみの証言と物的証拠しかない
殺そうと思って殺害したとしても「殺すつもりはなかった」と言えば傷害致死になるケースもあります。
これも事実誤認なのです。
犯罪者でないのに犯罪者として扱われるのも事実誤認です。
冤罪と何故、限定しなければならないのか?
事実誤認はあってはならないこと
人が行う捜査、裁判、確かに事実誤認が生れるのです。
でも、冤罪だけにするのは話にならない特殊思想への誘導論法でしかないのです。
死刑廃止論と少年法存続論となると
全く信じられない解釈論や言葉を使うのが特徴ですから、よくよく言葉を見極めて頂きたい。
さて
死刑は明らかに犯罪抑止になります。
その証拠はメキシコを見れば一目瞭然です。
国民が死刑復活を望んでも、それを主張すれば殺害されるから主張できなくなっている状態です。
死刑の無いブラジルの刑務所が殺人の場になっているのも周知の通りです。
死刑は殺人犯罪の抑止になっています。
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「その時代、その文化における価値観は絶対ではなく、移り変わる可能性がある。こうした中、絶対的価値としての「人権」だけは守られるべきだというところに、「人権」の意味があるからです。」
何らかの価値についての思考あるいは発話を、いずれかの時代、文化等からの影響をまったく被ることことなしに、行うことが出来る人間が存在すると仮定するならば、「絶対的価値としての人権」も存在しうると思うのですが、はたして本当にそうでしょうか?