恋することと情報学

情報学 | 2008/03/28

「恋」っていったい何なのでしょうか。この記事では、「情報学」という立場から「恋」について考えていきます。恋と情報は、実は非常に深い関係があるものなのです。

○恋は世界でたった一つのできごと

皆さんは、恋をしたことがありますか。恋ってとても素晴らしいことです。恋は、世界でたった一つのできごと。かけがえのないできごとだからです。たとえば、皆さんのクラスに転校生が入ってきて、その子のことをものすごく好きになったとします。その恋は、世界でたった一つしかありえないできごと。それは、とっても、とっても素晴らしいことなんです。

そういうとき、どうして、自分はその子のことを好きになったのか。そう考えたことはあるでしょうか。そう考えると、どうして「恋」が、そんなに素晴らしいことなのか、かけがえのないことなのかが、分かるのではないかと思います。

私たちは「恋」というものを考えるとき、「自分の好みのタイプはこういう子」だとか、「これこれこういう子だから好きになった」というように考えてしまいがちです。でも、だいたいそういうのは、本当に「恋」をしてない人が考えることです。本当に恋をしたら、ねぇ、理由なんてないでしょう。バチバチって電気が走って、その人のことを好きになる。

それでも、あえて好きになった理由を言うとしたら、それは「今まで自分が生きてきた世界の全て」「これから生きていく世界の全て」と言えるのではないでしょうか。今まで自分が見てきたこと、感じてきたこと、そして、自分が将来何を目指しているかということ、どういう生き方をしようとしているかということ、その全てが、たった今「恋をしている」その理由だからです。こうやって私たちが生きている「世界」そのものが、恋をしている理由なのです。

だから、私たちが恋をするとき、その理由を言葉にすることなんてできません。あるいは言葉以外の何かで表現することもできません。それは、自分の生きている世界の全てを何かで表現することなんてできないからです。これはきっと恋をしたことがある人ならみんな分かるのではないでしょうか。どんな素晴らしい詩人でも、どんな素晴らしい音楽家でも、あるいはどんな素晴らしい画家でも、恋の全てを表せた人はいません。たくさんの芸術家たちが、「恋」を少しでも表現しようとたくさんの作品を作ってきました。それは、恋が「自分が生きている世界そのもの」としてしか説明できない、かけがえのないできごとだからです。

恋はかけがえのない世界でたった一つのできごと。何かほかの言葉で言いかえたりすることはできません。他の人に代わって経験してもらったり、後になってもう一度経験したりすることもできません。もしかしたら皆さんは今までそんな恋を経験したことがないかもしれないけれど、きっといつか経験することになるでしょう。そのとき、「あぁ、これは世界でたった一つのかけがえのない恋なんだな」って思ってほしいのです。

○恋とさまざまな価値観

恋をすることは、「自分が生きている世界そのもの」。簡単に表現することができないものです。しかし、全く言葉にすることができないというわけではありません。

たしかに、人を好きになるとき「好みのタイプ」なんて関係ありません。でも、いったん好きになった人がいたら「こういうところが好き」って思ったりするでしょう。たとえば、「髪の毛の短い子だからいいな」とか「勉強ができるから素敵」とかって思ったとき、その言葉は自分が恋をした理由、つまり「自分が生きている世界そのもの」について、少しだけ説明していることになるのです。

これから、みんなが大人になると、「恋」には、もっとたくさんのことが影響するようになります。たとえば、食べ物、考え方、仕事、こういったものに関して、さまざまな好みが出てきます。こういうものを全部まとめて「価値観」というのですが、こういう価値観によって、好きになる人が決まったりするわけです。また、自分がどうやって生きていこうとか、どういう人生を歩んでいこうとか、そういうものも「価値観」ですが、そういう価値観によって、どんな人を好きになるのかが決まったりします。つまり、自分の生きてきた人生、これから生きていく人生の自分の「価値観」が「恋」に影響を与えているのです。こういう価値観を簡単に説明したものが、「好みのタイプ」だということができると思います。

では、「恋」というのは価値観、あるいは好みのタイプによって完全に説明できるものなのでしょうか。そうではありません。たとえば、「自分の好みのタイプ」を自信を持って説明できる人はあまりいないでしょう。「これこれこういう子が好みのタイプだ」って思ったとしても、実際には全然違う子のことを好きになったりします。恋をすることは、「自分が生きている世界そのもの」。だから、簡単に表現することができるはずがありません。みんなも、自分の「好みのタイプ」について考え出すと、最後には良く分からなくなってしまうと思うのですが、そもそも「好みのタイプ」は簡単に説明できるものではないのです。

結局、恋はどうやっても完全に表現することなどできません。でも、考えてみれば当たり前のことです。「恋」というのは世界でたった一つのかけがえのないもの、どうやっても説明しようがないものだからです。だから、恋を説明するための「価値観」や「好みのタイプ」だって、簡単に表現することはできないのです。

○恋は自分にとってのできごと

恋は自分が生きていることそのもの。だから、恋というのはいつも、「自分にとってのできごと」です。どんなに友だちと恋の話に盛り上がっても「恋」をするのはあくまで自分です。私の恋をあなたに代わってもらうことはできないし、あなたの恋を私が代わってあげることもできません。恋は「自分自身が生きている世界のできごと」だからです。

ここでもう一つ、すごく大事なことがあります。それは、恋に関する「価値観」も、自分自身の問題だということです。たとえば、私たちの多くは、「好きな人に好かれたい」って思います。だから、好きな人に嫌われると悲しくなったりします。でもね、「好きな人に好かれたい」って思うことだって自分の価値観だし、あくまで自分自身の問題なんです。

たとえば、すごく好きな人と恋人としてうまくやっていたとします。ところが、自分の友だちも同じ相手のことを好きで、好きな人を奪われてしまったらどうでしょうか。そうすれば、誰でも悲しくなったり、怒ったり、悩んだりするでしょう。そういうとき私たちは、自分のことを振った恋人が悪いとか、友だちが悪いとかそうやって考えてしまいます。でも、考えてみたら、自分が相手のことを好きなのは、あくまで自分の価値観です。振られて嫌だと思うのも自分の価値観です。友だちのことを大切に思うのも自分の価値観。友だちに怒るのも自分の価値観です。そういう価値観と価値観がぶつかるから悩むわけだけれど、それは別に誰のせいでもなく、あくまで自分ことなんです。

それは別に、自分のことを振った恋人を責めちゃいけないとか、友だちに怒っちゃいけないとかそういうことを言っているんじゃありません。責めたいと思えば責めればいい。怒りたいと思えば怒ればいい。悩みたいと思えば悩めばいい。でも、それも全部自分の生きている世界のできごとです。だから、悩むのも自由だけど、悩まないのも自由。たとえば、失恋してすごく悩んでいるときだって、気持ち次第で、同じことをプラスに考えたりできるでしょう。そういうとき、「なんで振られちゃったんだろう」って思って悩んだり、怒ったりするのも自分だけど、「ああ、いい経験をしたな」って思うのも自分です。もちろん、実際にそういう状況に置かれたら、その状況を変えるのはとても大変です。でも、それも自分次第。自分の気持ち一つで大きく変えていけるというのが、「恋」の素晴らしいところなのです。

これからみんなが大人になってくると、仕事とか、家族とか、いろんな価値観が絡み合って、悩むことが増えていくかもしれません。でも、そういうときだって、悩んでいるのはあくまで自分です。恋というのはあくまで自分の生きている世界のできごとなんだから、自分の気持ち一つで、自在に変えていくことができる。そのことを忘れてはいけないのです。

○恋は選ぶということ

私たちが恋について悩むのは、いくつもの自分の価値観がぶつかり合うからです。たとえば好きな人に対する理想とか、自分の生き方の目標、自分自身に対する評価、そういうものがぶつかり合って、その間に挟まれて悩むわけです。

恋をして、いろんな価値観のぶつかり合いの中で悩んだとき、最後には自分で「選ぶ」ということをしないといけません。たとえば、告白しようか、告白するのはやめようか、そうやって悩んでいるとき、告白しようと思うさまざまな価値観と、告白しない方がいいと思うさまざまな価値観がぶつかりあっています。どんなに悩んでも、最後には、告白するのか、告白しないのかを決めないといけません。でも、そういうとき「正しい答え」というのはどこにもありません。どうしてでしょうか。なぜって、「正しい答え」は、自分が何かを選んだ瞬間に決まるものだからです。自分が何かを選べば、それが「正しい答え」になるけど、選ぶ瞬間まで「正しい答え」はどこにもないのです。これは、テストの問題と大きく違います。テストの問題はたいてい、選ぶ前から答えが決まっています。だから、正しい答えを選べば正解で、間違った答えを選べば間違いになります。でも、「恋」は違います。答えを選ぶまで、どこにも正解はなく、答えを選んだ瞬間、選んだ答えが正解になるのです。

どうしてこんな不思議なことになるのでしょうか。それは「恋」が、自分が生きていることそのものだからです。だから、恋に関して自分が何かを選ぶということも、自分が生きていることと同じように、かけがえのないことなんです。恋に関して何かを選ぶとき、それに代わるような「より良い」答えなどどこにもありません。選ぶということそのものが、いつもかけがえのないものだからです。

これについてももう少し、詳しく考えてみることにしましょう。私たちが何かを「選ぶ」というとき、自分が生きてきた世界、これから生きていく世界が大きく変わります。たとえば、昔、すごく嫌な経験をして、そのことをすっかり忘れてしまっていたとします。でも、新しい恋をして、恋人とそのことについて語り合えば、過去の記憶は新しい思い出になっていきます。逆に、新しい恋が始まれば、自分の未来も大きく変わります。それまで知ることとのなかった、たくさんのことを知ることできるし、今までできなかった新しい見方をすることができるようになります。私たちが何かを「選ぶ」というとき、こうして自分の生きてきた世界、これから生きていく世界を大きく変えることになるのです。

だから、恋をする上で「正しい答え」を見つけようと思っても見つけることなんてできません。恋の問題は、答えを選んだ瞬間まで「正しい答え」がなく、答えを選んだ瞬間にそれが「正しい答え」になるからです。

○恋する本当の自分

「恋」をして、いろんな価値観のぶつかり合いの中で悩んだとき、私たちは「何が本当の自分なんだろうか」って悩むことがあります。「告白して嫌われたくない自分」「友だちとの関係を壊したくない自分」「好きな人と一緒に過ごしたい自分」どれが本当の自分なのでしょうか。考えても考えても分かりません。

でもね。先に答えを言ってしまうと、そういう自分は、全部間違いなく自分で、だけど、全部本当の自分じゃないんです。考えてみると「告白して嫌われたくない」「友だちとの関係を壊したくない」「好きな人と一緒にいたい」というのは、全部自分の価値観です。だから、どれも自分。そう思っている自分は、全て間違いなく、自分自身です。でも、それは、言ってみれば「自分の一部」に過ぎません。どれも「本当の自分」ではないのです。

なぜでしょうか。価値観というのは、一つ一つが言葉で表したり、表現したりすることのできないもの。どちらが優れているとか、劣っているとかというように、比べることはできません。だから、この価値観よりも、こっちの価値観の方が、より「本当」などということはありえないのです。たとえば、「友だちとの関係を壊したくない」という価値観と、「好きな人と一緒にいたい」という価値観。どちらが「本当」のものでしょうか。そんな比較をすることには意味はありません。だって、どちらも間違いなく本当の自分の価値観だからです。でも、それが本当の自分そのものかというとちょっと違っていて、やっぱり「本当の自分の一部」に過ぎないのです。

じゃぁ、「本当の自分」はどこにいるのでしょう。それはそうやって「恋に悩んでいる自分」そのものです。「恋に悩んでいる自分」こそ、世界でたった一つのかけがえのない自分です。「告白して嫌われたくない」自分も、「友だちとの関係を壊したくない」自分も、「好きな人と一緒にいたい」自分も、全部全部含んだ本当の自分、それが、まさに今「恋に悩んでいる自分」です。さらに言うと、そうやって悩んだ結果、「こうしよう」って決めた自分もまた、「本当の自分」。要するに、「悩んでいる自分」「選ぶ自分」。それが恋する「本当の自分」なのです。

もちろん、いったい恋に落ちたら「この人のことを好きな自分が、本当の自分」だって思うのは間違っていないと思います。でも、そこで大事なのは、「この人のことを好き」だと思ったのは、あくまで自分自身だということ、自分自身が悩んだり選んだりした結果、今の自分があるということです。だから、悩んだり選んだりして、今、恋をしている自分。そういう自分は、間違いなく、本当の自分なのです。

○恋をすること、前を向くこと

恋をする上で「選ぶこと」「悩むこと」が大事だというのは分かっていても、選ぶことや悩むことを先送りにして、いつのまにか時間が経っている、ということはないでしょうか。たとえば、新しい恋に踏み出さないといけないと思いつつ、なかなか実行に移せないとき。暴力的な恋人と別れようと思いながら、なかなか別れようと言い出せないとき。いつも恋人に対してひどい態度を取ってしまう自分を変えようと思っても、なかなか変えることができないとき。

私たちはいったんこういう状況になると、そこからなかなか抜け出すことができません。こういうとき、私たちは、一つの価値観に閉じこめられてしまい、「選ぶ」ということができなくなっているのです。そして、自分自身が生きている世界から追い出されているような状態になっています。ここで、「自分が生きている世界から追い出される」というのは、自分とは関係ないところで、自分の世界が勝手に進んでしまい、自分は何もすることができないというような状況です。私たちはしばしば、こうやってある価値観に「閉じこめられた」ようになり、「自分の生きている世界から追い出されて」、何も選ぶことができないような状況に置かれてしまうのです。
これがさらにひどくなっていくと、「絶望」という状態になります。人は、絶望をするとき、自分の価値観の中に閉じこめられてしまい、そこから出てくることができなくなってしまっています。絶望している人は、もう何も選ぶことができません。もちろん、恋をすることもできません。ただ、つらい気持ちの中で、時間が過ぎていくのを待っているのです。そういうとき、自分に今の状況を変えることができると言われても、到底、信じることができないでしょう。

「絶望」というとうほどではなくても、こうやって「選ぶ」ことを先送りにしていたり、「選ぶ」気力さえ起きないという状況は誰にでもあるのではないかと思います。こういうとき、自分が閉じこめられているのは「自分の価値観」なのですが、なかなかそのことに気づくことはできません。学校や家族、あるいは自分の能力や社会の状況が、そういう自分の状況の原因であるように思ってしまうのです。何もかもを学校や家族、自分の能力や社会のせいにしてしまう。そういう経験は誰にでもあるのではないかと思います。
でも、考えてみると、やっぱり自分の価値観は自分の価値観です。そして、自分を一つの価値観に閉じこめているものは、ほかでもなく自分自身なのです。そうであるなら、どんなにひどい絶望に置かれている人であっても、そこから逃れる力を持っているということになります。「選ぶ」という力は、全ての人に平等に与えられているものなのです。

では、私たちはそういう状態から抜け出すためにどうすれば良いのでしょうか。それを一言で言えば、自分自身について知るということ、今、自分が生きている世界について知るということです。でも、ここで「自分を知る」というのは、勉強したり考えこんだりたりすることだけを言うのではありません。たとえば、感動するということ、そして、恋をするということでも「自分を知る」ということはできます。なぜでしょうか。私たちが、「選ぶ」気持ちを失っているとき、一つの価値観にとらわれて狭い世界しか目に入らなくなってしまいます。しかし、感動したり恋をしたりすることによって、もっと広い世界があるということ、自分はそういう広い世界に生きているということを知ることができます。だから、感動することや恋をすることによって、今の自分から一歩新しい自分に踏み出していくことができるのです。

今、世の中には、さまざまな不幸な状況に置かれている人たちがいます。戦争の中で生まれてきた子どもたち、食べるものものないような貧しさの中で生きている人たち。また、一見豊かそうに見える人々も、実はさまざまな問題を抱えている場合が少なくありません。そういうとき、私たちはいつの間にか、自分が世界を変える力を持っているということを忘れてしまっているものです。そして、自分自身のことを、ただ、流れに身をまかせる小さくて弱い存在にしか思えなくなってしまっているものです。しかし、そういうときでも、たった一つの恋が、その状況を大きく変えることがあります。人は恋をすることによって、今見ている世界よりも、もっと広い世界に目を向けることができるからです。人は恋をすることによって、自分が抱えるさまざまな問題を、自分自身の力で変えていく力があるということを感じることができるからです。

恋は世界でたった一つのかけがえのないできごと。そこから全ての生命が始まり、全ての新しい物語が始まります。だから、もう一度、恋をしてみませんか。きっとそこから、新しい何かが始まるのではないかと思います。

○あとがき

「恋することと情報学」というタイトルなのに、本文では一度も「情報」という言葉を使わなかったので、拍子抜けした人がいたかもしれません。種明かしをすると、「恋」というのが「情報」のことで、「世界」というのが「システム」と呼ばれているものを表しています。だから、この記事は最初から最後まで、情報学について説明したものなのです。最初は、こういった情報学についての説明もつけ加えながら、交互に話を進めるような形で書き始めたのですが、専門用語を使うと、どうしても難しくなってしまうため、結局、今の形にすることにしました。もっと情報学について勉強したいという人のためには、またあらためて別の記事を書ければと思っています。

ちなみに、比較的近い内容について、1年ほど前に書いたのが以下の記事です。本文にも少し出てきた「選ぶこと」については、こちらの方で詳しく説明してあります。

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

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コメント

人は何故恋をするのか・・。
そんな古今東西の永遠の命題を、大変分かりやすく、分析されており、面白く読ませていただきました。
なるほど、と頷くことが多かったです。

投稿: miduki | 2008/06/22 12:10:13

 初めまして。

 この記事を含め2件の文章を読ませて頂きました。結果、私の『価値観』が微かな違和感を感じたのでコメントさせて頂いております。

 漠然としか表現できず恐縮ですが、このブログは情報学を啓蒙することが目的なのでしょうか?その真意は頻発する『自分の価値観』を基軸に主体の感情を説明して見せること?さらに云えば、ここでの表現すらその手法で行けば、筆者だけの価値観に基づく表現というパラドックスに陥りそうですが(表現した時点で表現者の価値観や自意識や無意識までが表現されるとも捉えておりますが。。。)少し意図があやふやでブレているような気がしてなりません。

 冒頭の

>「情報学」という立場から「恋」について とあとがきから

「情報学」が落としどころなのだと云う意図は見えますが、哲学・神学・宗教学、ひいては量子力学などの立場から見ると、情報学ありきのブログだということを前提である表現として、『生きる意味』や『恋』などを比喩的に用いられるには欠落が多すぎるように感じます。

 例えば、生物学的に見ると人間の生きる意味は、自分そのものが意味である以前に『子孫を増やす』というさらに大きな意思の一つが働いているのかもしれない。又、『恋』は遺伝子レベルでとらえると『子孫を増やす』為にそのような感情のシステムが何らかの意思により刷り込まれているのかもしれない。

 『恋』も『生きる意味』もおっしゃるように、どのような学問でも説明できないという事には完全に賛成いたしますが、だからこそ学問が生まれ、個々の価値観や意識を超えたところで過去から永劫繰返されるであろう『生きる意味』という答えの無い問いにふと立ち返るときがあるのではないのでしょうか?乱暴ですが全ての学問はそこから始まっているのかも?人智を超えた何かへの畏怖を感じながら。。。

追伸

私自身は上に挙げたような学問をまっとうした者では決して御座いませんし、宗教家でも御座いません。

 

投稿: Gian | 2008/08/15 1:57:45

Gianさま

コメントありがとうございます。
一部におっしゃっていることの意味が取りづらい部分もありましたが、
理解できた範囲で返答させていただきます。

> 例えば、生物学的に見ると人間の生きる意味は、
> 自分そのものが意味である以前に『子孫を増やす』という
> さらに大きな意思の一つが働いているのかもしれない。
> 又、『恋』は遺伝子レベルでとらえると『子孫を増やす』為に
> そのような感情のシステムが何らかの意思により刷り込まれているのかもしれない。

これは、自分が「情報学的視点」と呼んでいる見方に対し、
「それを超えた視点」の例として、「生物学」を取り上げているということでしょうか。
もしそうだとしたら、それは、すでに織り込み済みのものであり、
本文に対する批判にはなりえないものです。

たとえば、進化は、すべての説明する根本法則のようなものではなく、
対象をある特定の視点から分析する手法の一つでしかありません。
これを言い換えれば、「生物学」というのが、
情報学的な意味での「視点」や「価値観」の一つであるということになります。

しかし、このことは決して、
「人智を超えたものへの畏怖」と矛盾するわけではありません。
情報学的な理解方法は、
世界が「人智を超えたもの」であるということを出発点にするものだからです。
むしろ一般的には、生物学や経済学のようなもので、
「生きる意味」や「恋をする理由」が説明されると考える方が普通でしょう。
それを探すことこそが学問だと思われている節さえあります。
そうではないというのが、自分が言っていることです。

私たちが言葉を使ってものごとを考えるとき、
それが経験的なものであっても、学問的なものであっても、
ものごとを一面的にしかとらえていません。
しかし、私たちはしばしばそのことを忘れがちなのも事実です。
たとえば、恋や人生を、
「生物学」や「経済学」をもとに理解するのも一つの理解方法だけれど、
そうした学問がどれだけ精緻な議論を行っているかどうかにかかわらず、
私たちが生きる上での「恋」は、あくまで私たちが生きる上での「恋」だし、
私たちが生きる上での「生きること」、あくまで私たちが生きる上での「生きること」なのです。

もし自分が書いた文章が、
「一人でじっくり考えていけば、恋や人生についての結論が得られる」というように
解釈されていたとしたら、
Gianさんのような理解になるのかもしれませんが、
それは全くの誤解です。
むしろ、自分はその正反対のことを主張しているのです。

投稿: 情報学ブログ | 2008/08/15 22:10:11

皆さんの書き込みは、ハイレベルだな、と感じました。 私は、言葉に造詣は深くないのですが、それでも疑問はあり、疑問に私自身ひっかかっています。 神が居るかどうかは別として、人間が宇宙の総てを論じるような存在ではないと思います。  では、ペットとしての愛玩動物は、わが子のこと以上に、大切に思い、食べ物として飼育されている、牛や豚は美味しいと食べるのでしょうか?  ペット以上の犬・猫と松坂牛の違いは、人間の感情面として、どこが違うのでしょうか?  稚拙ですが、この疑問は常に私の中にあります。  ちなみに私は牛肉は大好きです。  はは

投稿: 中 | 2009/08/19 20:34:17

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