<私>にとっての、夕日という情報について

日記・コラム・つぶやき | 2008/03/01

昨日は仕事が早く終わる日だったので、ひさしぶりに荒川に散歩に行きました。夕方になると、さすがに風も冷たくなってきたので、そろそろ帰ろうと思って、来た道を戻ると、土手の向こうにきれいな夕日が見えました。

夕日というと自分は、あるひどく個人的な体験を思い出します。それは、たしか中学生のとき。学校の帰りに、空き地の向こうに見える夕日を見て、すごいきれいだなって思ったことです。たったそれだけのことです。たったそれだけなのですが、そのとき自分は、大人になっても、この感動を持ち続けられるのだろうか。そう思って、ものすごく不安な気分になりました。

思春期の微妙な感情とか、一言で言えばそういうことなのかもしれないけれど、それは自分の中でものすごく大きなことで、夕日を見るたびに、いつもそのことを思い返すのです。それをうまく言葉にすることはできないけれど、大人になって、手に入れたもの、失ったもの、いろいろ挙げるとして、手に入れた一番大きなものは、そのときと違ったように夕日を見ることができることことだと思うし、失った一番大きなものは、そのときと同じように夕日を見ることができないことだと思います。

だからというわけではないですが、夕日に感動することができる限り、まだまだ新しいことに挑戦できるし、まだまだいろいろなことをやり直せる、そんな気がしてきます。昨日も、自分が目の前の夕日に感動することができる、そのことがすごく嬉しくて、沈みゆく夕日をずっと、ずっと、眺めていました。

さて、自分が「情報」について説明するとき、「情報はいつも世界でたった一つのかけがえのない情報」「情報の文脈は、それをとらえる自分自身の全て」というような言い方をします。一般に、情報はどうやっても記述できない全体性であり、自分自身が生きているということそのものと関係しているのです。ただ、理論的にはあらゆる情報が自分が生きていることそのものと関係しているとしても、いつもそう実感できるとは限りません。多くの情報は、辞書的に言いかえられたり、メールで送信できるものとして扱われている情報であり、そこに「自分が生きていることそのものが映し出されている」と言われても、なかなか実感できないでしょう。

ただ、そうではない、「自分が生きていることそのものと関係している」と実感できるような情報と出会えることがあります。それは、窓から入ってくる風、枯れ草の中から顔を出しているユキノシタの葉、あるいは、紅茶に浸したマドレーヌであるかもしれません。それは、人によって違うかもしれないけれど、自分にとって「夕日」というのは、まさにそういう情報なのです。人が泣いたり笑ったり、感動したり、そういうことと切り離せない、世界でたった一つのかけがえのない情報。情報というのは常にそういうものなのですが…「夕日」という<私>にとっての情報が、そのことを端的に示してくれているような気がします。

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コメント

小学生のころ,父と自転車で近所を走っていたとき。 きのこ公園あたりで父は自転車を止めて,山の上にのっている夕日を指差しました。
『ゆう、10数えてごらん。10数える頃には夕日は沈むよ』

結局沈むまで10を3回くらい数えましたが。


自然の興味深さをはじめ,思っていた以上に夕日は早く沈むことを教えてもらいました。

社会人になって,仕事柄夕日を見る機会はめっきり減ってしまいましたが,それでも休日,外で風にあたりながらみる夕日をみるときは足が止まります。

投稿: ゆう | 2008/06/16 2:28:01

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