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恋することと情報学

情報学 | 2008/03/28

「恋」っていったい何なのでしょうか。この記事では、「情報学」という立場から「恋」について考えていきます。恋と情報は、実は非常に深い関係があるものなのです。

○恋は世界でたった一つのできごと

皆さんは、恋をしたことがありますか。恋ってとても素晴らしいことです。恋は、世界でたった一つのできごと。かけがえのないできごとだからです。たとえば、皆さんのクラスに転校生が入ってきて、その子のことをものすごく好きになったとします。その恋は、世界でたった一つしかありえないできごと。それは、とっても、とっても素晴らしいことなんです。

そういうとき、どうして、自分はその子のことを好きになったのか。そう考えたことはあるでしょうか。そう考えると、どうして「恋」が、そんなに素晴らしいことなのか、かけがえのないことなのかが、分かるのではないかと思います。

私たちは「恋」というものを考えるとき、「自分の好みのタイプはこういう子」だとか、「これこれこういう子だから好きになった」というように考えてしまいがちです。でも、だいたいそういうのは、本当に「恋」をしてない人が考えることです。本当に恋をしたら、ねぇ、理由なんてないでしょう。バチバチって電気が走って、その人のことを好きになる。

それでも、あえて好きになった理由を言うとしたら、それは「今まで自分が生きてきた世界の全て」「これから生きていく世界の全て」と言えるのではないでしょうか。今まで自分が見てきたこと、感じてきたこと、そして、自分が将来何を目指しているかということ、どういう生き方をしようとしているかということ、その全てが、たった今「恋をしている」その理由だからです。こうやって私たちが生きている「世界」そのものが、恋をしている理由なのです。

だから、私たちが恋をするとき、その理由を言葉にすることなんてできません。あるいは言葉以外の何かで表現することもできません。それは、自分の生きている世界の全てを何かで表現することなんてできないからです。これはきっと恋をしたことがある人ならみんな分かるのではないでしょうか。どんな素晴らしい詩人でも、どんな素晴らしい音楽家でも、あるいはどんな素晴らしい画家でも、恋の全てを表せた人はいません。たくさんの芸術家たちが、「恋」を少しでも表現しようとたくさんの作品を作ってきました。それは、恋が「自分が生きている世界そのもの」としてしか説明できない、かけがえのないできごとだからです。

恋はかけがえのない世界でたった一つのできごと。何かほかの言葉で言いかえたりすることはできません。他の人に代わって経験してもらったり、後になってもう一度経験したりすることもできません。もしかしたら皆さんは今までそんな恋を経験したことがないかもしれないけれど、きっといつか経験することになるでしょう。そのとき、「あぁ、これは世界でたった一つのかけがえのない恋なんだな」って思ってほしいのです。

○恋とさまざまな価値観

恋をすることは、「自分が生きている世界そのもの」。簡単に表現することができないものです。しかし、全く言葉にすることができないというわけではありません。

たしかに、人を好きになるとき「好みのタイプ」なんて関係ありません。でも、いったん好きになった人がいたら「こういうところが好き」って思ったりするでしょう。たとえば、「髪の毛の短い子だからいいな」とか「勉強ができるから素敵」とかって思ったとき、その言葉は自分が恋をした理由、つまり「自分が生きている世界そのもの」について、少しだけ説明していることになるのです。

これから、みんなが大人になると、「恋」には、もっとたくさんのことが影響するようになります。たとえば、食べ物、考え方、仕事、こういったものに関して、さまざまな好みが出てきます。こういうものを全部まとめて「価値観」というのですが、こういう価値観によって、好きになる人が決まったりするわけです。また、自分がどうやって生きていこうとか、どういう人生を歩んでいこうとか、そういうものも「価値観」ですが、そういう価値観によって、どんな人を好きになるのかが決まったりします。つまり、自分の生きてきた人生、これから生きていく人生の自分の「価値観」が「恋」に影響を与えているのです。こういう価値観を簡単に説明したものが、「好みのタイプ」だということができると思います。

では、「恋」というのは価値観、あるいは好みのタイプによって完全に説明できるものなのでしょうか。そうではありません。たとえば、「自分の好みのタイプ」を自信を持って説明できる人はあまりいないでしょう。「これこれこういう子が好みのタイプだ」って思ったとしても、実際には全然違う子のことを好きになったりします。恋をすることは、「自分が生きている世界そのもの」。だから、簡単に表現することができるはずがありません。みんなも、自分の「好みのタイプ」について考え出すと、最後には良く分からなくなってしまうと思うのですが、そもそも「好みのタイプ」は簡単に説明できるものではないのです。

結局、恋はどうやっても完全に表現することなどできません。でも、考えてみれば当たり前のことです。「恋」というのは世界でたった一つのかけがえのないもの、どうやっても説明しようがないものだからです。だから、恋を説明するための「価値観」や「好みのタイプ」だって、簡単に表現することはできないのです。

○恋は自分にとってのできごと

恋は自分が生きていることそのもの。だから、恋というのはいつも、「自分にとってのできごと」です。どんなに友だちと恋の話に盛り上がっても「恋」をするのはあくまで自分です。私の恋をあなたに代わってもらうことはできないし、あなたの恋を私が代わってあげることもできません。恋は「自分自身が生きている世界のできごと」だからです。

ここでもう一つ、すごく大事なことがあります。それは、恋に関する「価値観」も、自分自身の問題だということです。たとえば、私たちの多くは、「好きな人に好かれたい」って思います。だから、好きな人に嫌われると悲しくなったりします。でもね、「好きな人に好かれたい」って思うことだって自分の価値観だし、あくまで自分自身の問題なんです。

たとえば、すごく好きな人と恋人としてうまくやっていたとします。ところが、自分の友だちも同じ相手のことを好きで、好きな人を奪われてしまったらどうでしょうか。そうすれば、誰でも悲しくなったり、怒ったり、悩んだりするでしょう。そういうとき私たちは、自分のことを振った恋人が悪いとか、友だちが悪いとかそうやって考えてしまいます。でも、考えてみたら、自分が相手のことを好きなのは、あくまで自分の価値観です。振られて嫌だと思うのも自分の価値観です。友だちのことを大切に思うのも自分の価値観。友だちに怒るのも自分の価値観です。そういう価値観と価値観がぶつかるから悩むわけだけれど、それは別に誰のせいでもなく、あくまで自分ことなんです。

それは別に、自分のことを振った恋人を責めちゃいけないとか、友だちに怒っちゃいけないとかそういうことを言っているんじゃありません。責めたいと思えば責めればいい。怒りたいと思えば怒ればいい。悩みたいと思えば悩めばいい。でも、それも全部自分の生きている世界のできごとです。だから、悩むのも自由だけど、悩まないのも自由。たとえば、失恋してすごく悩んでいるときだって、気持ち次第で、同じことをプラスに考えたりできるでしょう。そういうとき、「なんで振られちゃったんだろう」って思って悩んだり、怒ったりするのも自分だけど、「ああ、いい経験をしたな」って思うのも自分です。もちろん、実際にそういう状況に置かれたら、その状況を変えるのはとても大変です。でも、それも自分次第。自分の気持ち一つで大きく変えていけるというのが、「恋」の素晴らしいところなのです。

これからみんなが大人になってくると、仕事とか、家族とか、いろんな価値観が絡み合って、悩むことが増えていくかもしれません。でも、そういうときだって、悩んでいるのはあくまで自分です。恋というのはあくまで自分の生きている世界のできごとなんだから、自分の気持ち一つで、自在に変えていくことができる。そのことを忘れてはいけないのです。

○恋は選ぶということ

私たちが恋について悩むのは、いくつもの自分の価値観がぶつかり合うからです。たとえば好きな人に対する理想とか、自分の生き方の目標、自分自身に対する評価、そういうものがぶつかり合って、その間に挟まれて悩むわけです。

恋をして、いろんな価値観のぶつかり合いの中で悩んだとき、最後には自分で「選ぶ」ということをしないといけません。たとえば、告白しようか、告白するのはやめようか、そうやって悩んでいるとき、告白しようと思うさまざまな価値観と、告白しない方がいいと思うさまざまな価値観がぶつかりあっています。どんなに悩んでも、最後には、告白するのか、告白しないのかを決めないといけません。でも、そういうとき「正しい答え」というのはどこにもありません。どうしてでしょうか。なぜって、「正しい答え」は、自分が何かを選んだ瞬間に決まるものだからです。自分が何かを選べば、それが「正しい答え」になるけど、選ぶ瞬間まで「正しい答え」はどこにもないのです。これは、テストの問題と大きく違います。テストの問題はたいてい、選ぶ前から答えが決まっています。だから、正しい答えを選べば正解で、間違った答えを選べば間違いになります。でも、「恋」は違います。答えを選ぶまで、どこにも正解はなく、答えを選んだ瞬間、選んだ答えが正解になるのです。

どうしてこんな不思議なことになるのでしょうか。それは「恋」が、自分が生きていることそのものだからです。だから、恋に関して自分が何かを選ぶということも、自分が生きていることと同じように、かけがえのないことなんです。恋に関して何かを選ぶとき、それに代わるような「より良い」答えなどどこにもありません。選ぶということそのものが、いつもかけがえのないものだからです。

これについてももう少し、詳しく考えてみることにしましょう。私たちが何かを「選ぶ」というとき、自分が生きてきた世界、これから生きていく世界が大きく変わります。たとえば、昔、すごく嫌な経験をして、そのことをすっかり忘れてしまっていたとします。でも、新しい恋をして、恋人とそのことについて語り合えば、過去の記憶は新しい思い出になっていきます。逆に、新しい恋が始まれば、自分の未来も大きく変わります。それまで知ることとのなかった、たくさんのことを知ることできるし、今までできなかった新しい見方をすることができるようになります。私たちが何かを「選ぶ」というとき、こうして自分の生きてきた世界、これから生きていく世界を大きく変えることになるのです。

だから、恋をする上で「正しい答え」を見つけようと思っても見つけることなんてできません。恋の問題は、答えを選んだ瞬間まで「正しい答え」がなく、答えを選んだ瞬間にそれが「正しい答え」になるからです。

○恋する本当の自分

「恋」をして、いろんな価値観のぶつかり合いの中で悩んだとき、私たちは「何が本当の自分なんだろうか」って悩むことがあります。「告白して嫌われたくない自分」「友だちとの関係を壊したくない自分」「好きな人と一緒に過ごしたい自分」どれが本当の自分なのでしょうか。考えても考えても分かりません。

でもね。先に答えを言ってしまうと、そういう自分は、全部間違いなく自分で、だけど、全部本当の自分じゃないんです。考えてみると「告白して嫌われたくない」「友だちとの関係を壊したくない」「好きな人と一緒にいたい」というのは、全部自分の価値観です。だから、どれも自分。そう思っている自分は、全て間違いなく、自分自身です。でも、それは、言ってみれば「自分の一部」に過ぎません。どれも「本当の自分」ではないのです。

なぜでしょうか。価値観というのは、一つ一つが言葉で表したり、表現したりすることのできないもの。どちらが優れているとか、劣っているとかというように、比べることはできません。だから、この価値観よりも、こっちの価値観の方が、より「本当」などということはありえないのです。たとえば、「友だちとの関係を壊したくない」という価値観と、「好きな人と一緒にいたい」という価値観。どちらが「本当」のものでしょうか。そんな比較をすることには意味はありません。だって、どちらも間違いなく本当の自分の価値観だからです。でも、それが本当の自分そのものかというとちょっと違っていて、やっぱり「本当の自分の一部」に過ぎないのです。

じゃぁ、「本当の自分」はどこにいるのでしょう。それはそうやって「恋に悩んでいる自分」そのものです。「恋に悩んでいる自分」こそ、世界でたった一つのかけがえのない自分です。「告白して嫌われたくない」自分も、「友だちとの関係を壊したくない」自分も、「好きな人と一緒にいたい」自分も、全部全部含んだ本当の自分、それが、まさに今「恋に悩んでいる自分」です。さらに言うと、そうやって悩んだ結果、「こうしよう」って決めた自分もまた、「本当の自分」。要するに、「悩んでいる自分」「選ぶ自分」。それが恋する「本当の自分」なのです。

もちろん、いったい恋に落ちたら「この人のことを好きな自分が、本当の自分」だって思うのは間違っていないと思います。でも、そこで大事なのは、「この人のことを好き」だと思ったのは、あくまで自分自身だということ、自分自身が悩んだり選んだりした結果、今の自分があるということです。だから、悩んだり選んだりして、今、恋をしている自分。そういう自分は、間違いなく、本当の自分なのです。

○恋をすること、前を向くこと

恋をする上で「選ぶこと」「悩むこと」が大事だというのは分かっていても、選ぶことや悩むことを先送りにして、いつのまにか時間が経っている、ということはないでしょうか。たとえば、新しい恋に踏み出さないといけないと思いつつ、なかなか実行に移せないとき。暴力的な恋人と別れようと思いながら、なかなか別れようと言い出せないとき。いつも恋人に対してひどい態度を取ってしまう自分を変えようと思っても、なかなか変えることができないとき。

私たちはいったんこういう状況になると、そこからなかなか抜け出すことができません。こういうとき、私たちは、一つの価値観に閉じこめられてしまい、「選ぶ」ということができなくなっているのです。そして、自分自身が生きている世界から追い出されているような状態になっています。ここで、「自分が生きている世界から追い出される」というのは、自分とは関係ないところで、自分の世界が勝手に進んでしまい、自分は何もすることができないというような状況です。私たちはしばしば、こうやってある価値観に「閉じこめられた」ようになり、「自分の生きている世界から追い出されて」、何も選ぶことができないような状況に置かれてしまうのです。
これがさらにひどくなっていくと、「絶望」という状態になります。人は、絶望をするとき、自分の価値観の中に閉じこめられてしまい、そこから出てくることができなくなってしまっています。絶望している人は、もう何も選ぶことができません。もちろん、恋をすることもできません。ただ、つらい気持ちの中で、時間が過ぎていくのを待っているのです。そういうとき、自分に今の状況を変えることができると言われても、到底、信じることができないでしょう。

「絶望」というとうほどではなくても、こうやって「選ぶ」ことを先送りにしていたり、「選ぶ」気力さえ起きないという状況は誰にでもあるのではないかと思います。こういうとき、自分が閉じこめられているのは「自分の価値観」なのですが、なかなかそのことに気づくことはできません。学校や家族、あるいは自分の能力や社会の状況が、そういう自分の状況の原因であるように思ってしまうのです。何もかもを学校や家族、自分の能力や社会のせいにしてしまう。そういう経験は誰にでもあるのではないかと思います。
でも、考えてみると、やっぱり自分の価値観は自分の価値観です。そして、自分を一つの価値観に閉じこめているものは、ほかでもなく自分自身なのです。そうであるなら、どんなにひどい絶望に置かれている人であっても、そこから逃れる力を持っているということになります。「選ぶ」という力は、全ての人に平等に与えられているものなのです。

では、私たちはそういう状態から抜け出すためにどうすれば良いのでしょうか。それを一言で言えば、自分自身について知るということ、今、自分が生きている世界について知るということです。でも、ここで「自分を知る」というのは、勉強したり考えこんだりたりすることだけを言うのではありません。たとえば、感動するということ、そして、恋をするということでも「自分を知る」ということはできます。なぜでしょうか。私たちが、「選ぶ」気持ちを失っているとき、一つの価値観にとらわれて狭い世界しか目に入らなくなってしまいます。しかし、感動したり恋をしたりすることによって、もっと広い世界があるということ、自分はそういう広い世界に生きているということを知ることができます。だから、感動することや恋をすることによって、今の自分から一歩新しい自分に踏み出していくことができるのです。

今、世の中には、さまざまな不幸な状況に置かれている人たちがいます。戦争の中で生まれてきた子どもたち、食べるものものないような貧しさの中で生きている人たち。また、一見豊かそうに見える人々も、実はさまざまな問題を抱えている場合が少なくありません。そういうとき、私たちはいつの間にか、自分が世界を変える力を持っているということを忘れてしまっているものです。そして、自分自身のことを、ただ、流れに身をまかせる小さくて弱い存在にしか思えなくなってしまっているものです。しかし、そういうときでも、たった一つの恋が、その状況を大きく変えることがあります。人は恋をすることによって、今見ている世界よりも、もっと広い世界に目を向けることができるからです。人は恋をすることによって、自分が抱えるさまざまな問題を、自分自身の力で変えていく力があるということを感じることができるからです。

恋は世界でたった一つのかけがえのないできごと。そこから全ての生命が始まり、全ての新しい物語が始まります。だから、もう一度、恋をしてみませんか。きっとそこから、新しい何かが始まるのではないかと思います。

○あとがき

「恋することと情報学」というタイトルなのに、本文では一度も「情報」という言葉を使わなかったので、拍子抜けした人がいたかもしれません。種明かしをすると、「恋」というのが「情報」のことで、「世界」というのが「システム」と呼ばれているものを表しています。だから、この記事は最初から最後まで、情報学について説明したものなのです。最初は、こういった情報学についての説明もつけ加えながら、交互に話を進めるような形で書き始めたのですが、専門用語を使うと、どうしても難しくなってしまうため、結局、今の形にすることにしました。もっと情報学について勉強したいという人のためには、またあらためて別の記事を書ければと思っています。

ちなみに、比較的近い内容について、1年ほど前に書いたのが以下の記事です。本文にも少し出てきた「選ぶこと」については、こちらの方で詳しく説明してあります。

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

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Informationの語源と情報学

情報学 | 2008/03/24

英語のinformationは、「知らされたもの→知識、考え→情報」というような語源を持つ語ですが、これにはさらに大きく二つの由来が考えられるようです。

一つは、現代の英語に残っているinform=知らせるという語に由来する語源です。Oxford English Dictionary(OED)には1387年の文献からの引用として、「5冊の本が、人々のinformationのために、天国から降りてくる」というものがあります。この用法は、OEDで「知らせるということ」あるいは、教育や訓練において「心に何かを形作ること」という意味に分類されています。informationの語根となる動詞、informもほぼ同様で、「心に形を与える、訓練する、教える」と言った意味であり、OEDには「その男は賢かったので、王のところに言って、informしようとした(1330)」という用例が記されています。

さて、このinformは「何かに形を与える、何かの考えを形作る」という意味のラテン語の単語"infomare"に由来するわけですが、これがもう一つの由来と関係しています。ラテン語には、「概念や考え」を意味する"informatio"という語があるからです。実は、こちらの方が、現代におけるinformationの意味に近いと考えることもできます。

つまり、現代的な意味でのinformationは、英語のinform由来と、ラテン語のinformatio由来の両方が考えられるわけです。

一般には、前者の"inform"由来という説が強調されますが、実際問題、この両者を区別するのはあまり意味がないのではないかと思います。というのも、ニュートン(1643-1727)ですらラテン語で論文を書いていたことからも分かるように、この時代のラテン語は、ヨーロッパの学問の共通言語という側面の強いものだったからです。ラテン語文化圏の「時代の雰囲気」の中で、現代にもつながるinformationの用法が生まれてきたと考える方が正しいのではないでしょうか。

ここで、語の由来に関して、「直線的な系譜を取って変化していく」ものとして理解する考え方と、「コミュニケーションの全体の中で語の意味が生まれてくる」と理解する考え方の、2つの考え方があることが分かります。前者の考え方からすると、informationの由来が、informなのか、informatioなのかということが問題になるわけですが、後者の考え方からすれば、この両者の違いは問題になりません。「ラテン語文化圏のコミュニケーション」の全体の中で、informationの用法が生まれてきたと考えれば良いからです。

情報学では、コミュニケーションの全体が作るシステムを「社会システム」と呼び、その中で、言葉や情報がダイナミックに変化していく状況について考察します。informationという語の由来についての議論は、そのまま「情報学的」な問題として理解できるわけです。この例で言えば、「ラテン語文化圏のコミュニケーション」の全体を作るのが、「社会システム」であり、「ラテン語文化圏のコミュニケーションシステム」とでも呼ぶことができます。そのシステムの中で、infomationという語が生まれたと考えれば良いのです。さらに、informationという英語の単語がもとになり、20世紀後半における、「英語文化圏のコミュニケーションシステム」の中で、現代において用いられる「パターンとしての情報」という意味や、informatics(情報学)という単語が生まれてきたということも、情報学的に理解することができるでしょう。

語源を考えるときに、その言葉を話す人々のつながり(コミュニケーション・システム)を考えるのは、決して情報学の専売特許ではなく、これに近い考え方は言語学でも見られます。むしろ、「直線的な系譜を取って変化する」と考える見方は、言語学の世界でも時代遅れとも言えるものです。ただ、語源とシステムの関係は、情報学的な考え方を理解する上での良い例にはなっているのではないかと思います。

まぁ、「情報学(informatics)という語の語源をもとに、情報学について説明する」となると、無駄に話が複雑になるわけですが、これはこれで茶目っ気があっておもしろいと思うのは、自分だけでしょうか。

○参考記事

informationの語源
http://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/reference/words/inf_orign.htm

○補足

このタイトルを見て、古代ギリシャ語のeidos(質料)=form(ラテン語)と、informationの関係について期待した人もいたかもしれません。ただ、残念ながら、語源的に言うと、この両者にはかなり隔たりがあるようです。ちなみに、アリストテレスの「質料/形相」とウィナーの「物質-エネルギー/情報」を対応付ける見方は、吉田民人「自己組織性の情報科学―エヴォルーショニストのウィナー的自然観(link)」pp.191-192などに見られます(該当箇所の発表は1967年)。

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[質問箱] 容姿を褒めることは差別になるのか?

学問・資格 | 2008/03/03

気まぐれで「質問箱」シリーズを始めてみました。今回はブログとは別の場所でお聞きした質問に対する回答ですが、今後は、読者のみなさまからのコメントにもお答えできればと思っています。

○質問

人の容姿を褒めることは差別だと思いますが、この考えには矛盾を感じることもあります。いったい人の容姿を褒めることは差別と言えるのでしょうか?

○回答

職場で部下の容姿を褒めることがセクハラだと思われたり、ミスコンを問題にするような議論があることを受けた質問ではないかと思います。

まず、公共の場で異性の容姿を褒めるのと、個人的に褒めるのは根本的に違うことでしょう。上司が部下を、容姿を前面に出して評価することが、差別的だと思われる場面があったとしても、バーで隣に座った異性の容姿の褒めることが差別的と思う人はいません。容姿を褒めることが差別的だと思われるのは、常に公共の場においてです。「きれいですね」と言ったとき、「たしかに私はきれいかもしれないけれど、その言い方は、容姿が良くない人に対する差別だ」などと言われたら、ジョークにしか思えないでしょう。

ただ、公共の場で容姿を問題にしたら、ただちに差別的かというと、そういうわけではないと思います。実際、社会には、運動能力や経済手腕、芸術など、さまざまな能力について評価する制度があります。しかし、そういう制度があるからといって、その能力において、劣っている人が差別されているという人は、ほとんどいないでしょう。 容姿についての褒めるというのも、同じようなものだと考えることもできます。

なぜ、「容姿」に対する評価が議論を呼ぶかというと、「容姿」が、社会における人の評価の基準として時として「無視されるべきもの」という文化があるからです。特に、企業や、行政機関といったコミュニケーションの単位では、「容姿にかかわらず人を評価する」ことで、一人一人の能力を最大限に活用しようとする場合が多いと思いますが、こういう状況では、ミスコンを含め、「容姿の話題」は 好ましくないとされるのです。

特に、家父長制だった社会において、女性の社会参画が進められるようになるという移行期においては、女性の「容姿」が家父長制とリンクしてとらえられてしまい、容姿に対する評価がタブー視されるような場面も出てくるでしょう。というのも、家父長制の社会において、女性の能力は「貞淑さ」「家事遂行能力」「容姿」など限られた側面でしかとらえられていなかったのであり、女性の社会参画が進められる過程においては、これ以外の女性の側面を強調するために、容姿など家父長制の時代と共通して評価される能力が過小評価されるからです。

ただ、本来、そのコミュニケーションの単位(地域、文化、企業、部署など…)において、容姿が重要な意味を持つのなら、容姿を評価することには何ら問題ないとされるはずです。たとえば、観光産業で成り立っている発展途上国では、日本で経済手腕や芸術に関する表彰が行われるのと同じような意味で、公的なミスコンが行われたりするわけだし、コンパニオンの派遣会社や、ある種の飲食店では、管理能力の優れた経営者が評価されるのと同じような意味で、優れた容姿の持ち主が評価されるかもしれません。

要するに、容姿を褒めて良いかどうかは、時と場合によるとしか言いようがないのではないのではないかと思います。

ではなぜ、最初のような疑問が生じるのでしょうか。それは、「容姿を褒めて良いかどうか」ということを、全ての状況で普遍的な規範ととらえ、YES/NOに答えを単純化しようとするからです。情報学的にに言えば、社会における「~して良いか」という規範は、それぞれのコミュニケーションの単位(地域、文化、企業、部署など…)において決まるものであり、全ての状況で普遍的な規範として考えること自体が、誤りだと言うことができます。

(ある方の質問に対し、実際に自分がお答えした内容を加筆修正したものです。ただし、質問文は趣旨が伝わる範囲で、全面的に書き直しています)

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<私>にとっての、夕日という情報について

日記・コラム・つぶやき | 2008/03/01

昨日は仕事が早く終わる日だったので、ひさしぶりに荒川に散歩に行きました。夕方になると、さすがに風も冷たくなってきたので、そろそろ帰ろうと思って、来た道を戻ると、土手の向こうにきれいな夕日が見えました。

夕日というと自分は、あるひどく個人的な体験を思い出します。それは、たしか中学生のとき。学校の帰りに、空き地の向こうに見える夕日を見て、すごいきれいだなって思ったことです。たったそれだけのことです。たったそれだけなのですが、そのとき自分は、大人になっても、この感動を持ち続けられるのだろうか。そう思って、ものすごく不安な気分になりました。

思春期の微妙な感情とか、一言で言えばそういうことなのかもしれないけれど、それは自分の中でものすごく大きなことで、夕日を見るたびに、いつもそのことを思い返すのです。それをうまく言葉にすることはできないけれど、大人になって、手に入れたもの、失ったもの、いろいろ挙げるとして、手に入れた一番大きなものは、そのときと違ったように夕日を見ることができることことだと思うし、失った一番大きなものは、そのときと同じように夕日を見ることができないことだと思います。

だからというわけではないですが、夕日に感動することができる限り、まだまだ新しいことに挑戦できるし、まだまだいろいろなことをやり直せる、そんな気がしてきます。昨日も、自分が目の前の夕日に感動することができる、そのことがすごく嬉しくて、沈みゆく夕日をずっと、ずっと、眺めていました。

さて、自分が「情報」について説明するとき、「情報はいつも世界でたった一つのかけがえのない情報」「情報の文脈は、それをとらえる自分自身の全て」というような言い方をします。一般に、情報はどうやっても記述できない全体性であり、自分自身が生きているということそのものと関係しているのです。ただ、理論的にはあらゆる情報が自分が生きていることそのものと関係しているとしても、いつもそう実感できるとは限りません。多くの情報は、辞書的に言いかえられたり、メールで送信できるものとして扱われている情報であり、そこに「自分が生きていることそのものが映し出されている」と言われても、なかなか実感できないでしょう。

ただ、そうではない、「自分が生きていることそのものと関係している」と実感できるような情報と出会えることがあります。それは、窓から入ってくる風、枯れ草の中から顔を出しているユキノシタの葉、あるいは、紅茶に浸したマドレーヌであるかもしれません。それは、人によって違うかもしれないけれど、自分にとって「夕日」というのは、まさにそういう情報なのです。人が泣いたり笑ったり、感動したり、そういうことと切り離せない、世界でたった一つのかけがえのない情報。情報というのは常にそういうものなのですが…「夕日」という<私>にとっての情報が、そのことを端的に示してくれているような気がします。

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