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三四郎池で本を読むこと、そして美しさについて

日記・コラム・つぶやき | 2007/12/06

授業のあいた時間、いつものように三四郎池のベンチで本を読んでいたら、ちょうど自分の視界を遮るように、目の前で立ち止まる女性がいました。狭い公園ならともかく、こんなほかに誰も人がいないような場所で、どうしてそんなに近くに来るのだろう。もしかしたら、自分に声をかけようとしているのだろうか。そんなふうに思いながら、本を読んでいました。

しばらくたったらまた人が来ました。若いカップル、中年女性のグループ、中国語を話す外国人、いろんな世代のいろんな人たちが、自分が本を読んでいるベンチの前で立ち止まっていき、ときには人だかりになることもありました。

いったいどうしたのでしょう。ふと、本か目を離してあたりを見ると、やっと理由が分かりました。どうもこの場所は三四郎池の中でもちょうど景色がよく見える場所で、その景色を見るために人々が立ち止まっていたようなのです。よく見るとたしかに、そのベンチから見る三四郎池は、色とりどりの紅葉が絶妙なバランスで配置されていました。これでは、立ち止まって見たくなるのも仕方ないでしょう。

もともと本を読みに三四郎池に来た自分にとって、そのベンチは座るためのものでしかなく、景色を見るためのものではありませんでした。だから、そのときの自分にとって、どんな美しい景色も意識されることがなかったのです。

でも、言い訳じみたことを言うようですが…、私たちが生きている上で感じられる美しさ、いわば「本来的な」美しさというのは、むしろ自分が本を読みながら感じていたような美しさではないかと思うのです。近代的な美意識の中で生きる私たちは、意識的に芸術的なものを見るという態度が当たり前だと思っています。わざわざ三四郎池に来て紅葉を鑑賞するということ、つまり理性的な自分が、客体としての「自然」をとらえて、それを「鑑賞する」ということに疑問すら持たなくなっているのです。

しかし、「美しさ」というのは、もっと「自分が生きること」と切り離せない形で成立しているものではないかと思います。たとえば、どんなに有名な観光地の景色でも、その場所に悪い思い出があれば、その人にとっては良い景色ではないかもしれません。それは、その人が偏った見方をしているということではなく、そもそも「美しさ」というのがそういう「歴史性」のもとで成立しているということなのです。私たちが生きる上での、「本来的な」美しさ、あるいは「本来的な」自然があるとすれば、それは、自分が生きることと密接にかかわった形での「美しさ」であり、「自然」ではないでしょうか。そうした「美しさ」や「自然」は、決して何らかの主体によって意識的に把握されるようなものではないと思うのです。(*1)

三四郎池で本を読みながら、ふとそんなことを考えました。いやまぁ、そんなことを考えた理由は、単に「周りの景色の美しさに気づかないで本を読んでいた」という体験をしたからではなく、読んでいたのが「存在と時間」という本だったからなんですが…。

*1
情報学的に言うと、こうした「美しさ」は「パターンとしての情報」あるいは西垣通の指摘する「生命情報」という概念によって説明されるものです。

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