女子教育とパノプティコン―校訓「恥を知れ」に寄せて

情報学 | 2007/06/12

(1) 恥を知れ

何度か書いているのでおなじみだと思いますが、大妻女子大学でTA(授業のアシスタント)をしています。アシスタントのくせに、「校訓」についてコメントするなど、僭越にもほどがあると思うのですが、この大学の校訓、いくらなんでもツッコミどころがありすぎなのです。

本学の校訓は「恥を知れ」です。言葉の響きに驚かれるかもしれませんが、創立者・大妻コタカは言っています。「これは決して他人に対して言うことではなく、あくまでも自分に対して言うことです。人に見られたり、聞かれて恥ずかしいことをしたかどうかと自分を戒めることなのです」。本学の就職状況が好調な理由のひとつに、この「恥を知れ」スピリッツを体現した多くの卒業生達の活躍があります。地に足の着いた「自立した女性」を育み続ける本学の学生にとって「恥を知れ」という校訓は、今もよき伝統として根付いています。

大妻女子大学HP「教育理念」
http://www.otsuma.ac.jp/gakuin/aboutotsuma/policy.html

一般的に言えば、「人に見られたり、聞かれて恥ずかしいことをしたかどうかと自分を戒めること」は、決して悪いことではないでしょう。ただ、これが女子大の校訓ということで、考えさせられてしまうのです。女子教育はどうあるべきか。さらには、教育はどうあるべきかという問題と深く関係していると思うからです。

(2) パノプティコンとは何か

「恥を知れ」。これが「自分を戒めるための言葉」だと聞いて、思想系、社会系の教育を受けた人間なら、誰も最初に思いつくのが、「パノプティコン」でしょう。

Panopticonパノプティコンは、18世紀の思想家ペンサムによって作られた概念であり、少ない運営者で効率的に刑務所を運営するためのシステムのことです(右図)。「一望監視システム」と訳されるように、中央の監視塔にいる看守を取り囲むように、円環状に居室があり、効率的に囚人を監視するようになっているのです。ただし、ペンサムのアイデアはそれだけにとどまりません。パノプティコンにおいては、光量や角度の関係から、看守は囚人を監視できるが、囚人は看守のことを見ることができないのです。このため、囚人は、次第に、「常に見られている」という感覚を抱くようになり、看守の視線を内面化して、更正していくことになるわけです。

パノプティコンの考え方は、フランスの監獄建築に取り入れられ、さらにフランスをお手本とした戦前の日本の監獄にも取り入れられてきました。特に、金沢監獄、網走監獄におけるパノプティコン様式の監獄は、博物館として再現、保存されており、それぞれ博物館明治村(愛知県犬山町)、博物館網走監獄(北海道網走市)で見学することができます。

さて、こうしたパノプティコンを、現代の文脈で「再発見」したのが、かの有名なフーコーの「監獄の誕生」です。フーコーは、近代社会における権力が、身体刑ではなく、規律・訓練になっていることを論じ、その典型的な例として、ペンサムの「パノプティコン」を指摘したわけです。

考えてみると、現代社会では至るところに監視カメラが置かれ、車の移動はNシステムで把握されています。そして、サイバー警察がその気になれば、個人のネットワーク上の行動を全て捕捉することなど簡単です。そして、そうした中で、犯罪を犯してはいけないというメンタリティができあがっていると言うこともできるでしょう。しかも、それは単に「犯罪を犯してはいけない」ということに留まりません。少なくとも私は、反政府的な言説をネット上で発言することに恐怖感を感じるし、デモや集会に気軽に行く気にはなれません。それは政府に睨まれるのが怖いからです。こうして「政治的に去勢」された若者が量産されていく…それが「情報化社会」におけるパノプティコンと言えるのかもしれません。

さて、ここであらためて、大妻女子大学の校訓「恥を知れ」を考えてみると、これがまさに、フーコーの言うパノプティコンの別の表現であることが分かります。「女性とはこうあるべき」「国民とはこうあるべき」という社会の規範を内面化することで、男性の権力に対しても、国家権力に対しても「従順」である女性を産み出すこと。これが「恥を知れ」という校訓の意味だと解釈することができるからです。まさにフーコーが「パノプティコン」という概念を用いて批判したのが、「恥を知れ」という校訓だと言うこともできるでしょう。

(3) 2つのパノプティコン

では、「恥を知れ」という校訓は良くないのかというと、そんな単純な話でもありません。そして、私はそんな単純なことを言いたくて、この記事を書いているわけではありません。

ペンサムがパノプティコンを「自律した個人」を作るための手段とみなしていたように、パノプティコンに象徴される規律・訓練型権力=恥を知れという発想は、近代における「自律した個人」を作るために不可欠なものだったとも言えるからです。ここで、「自律」とは、日本語で「自らを律する」ことであり、英語・フランス語など西洋系の言語では、auto(自ら)+nomos(管理、法)という語源を持ちます。こうして、「自らを律する」ことによって、社会的な自由を獲得できるというのが、近代社会の理念である以上、私たちは「恥を知れ=パノプティコン」をナイーブに批判の対象とすることはできないのです。

大妻女子大学の創立者、大妻コタカは、1908年(明治41年)に大妻女子大学の前身となる裁縫学校を始めたわけですが、これはまさに日本に「近代」がやってきた時代のことでした。こうした時代状況にあって、恥を知るというのは、その時代における「自律した女性」の表現にほかならなかったと考えることもできるでしょう。「恥を知れ」は現代の文脈で読まれるべきではなく、あくまで「近代の草創期」という明治の文脈で読まれなければいけないものなのです。

つまり、パノプティコン=「恥を知れ」は、近代社会の草創期、つまり、ペンサムや大妻コタカの時代には、個人の自律のために重要なものだったということができるでしょう。

しかし、そうだだとしても、今日のように複雑化した民主主義の社会において、権力に疑いを持たずに内面化することが単純に肯定されるはずがありません。警察を含めた政府の働き、マスコミの報道、こういったものを時には批判的にとらえてこそ、現代における「自律した個人」が成り立つと言えるからです。

大きく言えば、現代社会の私たちは「パノプティコン」をめぐる二重の状況の中で存在していると言うことができるでしょう。私たちは、「パノプティコン」に象徴される権力作用のおかげで、ペンサムの言うような「自律」的な個人であることができる一方、同じ「パノプティコン」によって自由が束縛され、国家によって管理されているからです。ここで、前者のパノプティコンを「自律のためのパノプティコン」、後者のパノプティコンを、「抑圧としてのパノプティコン」として区別することができます。

Janusvaticanこの両者は、決して、権力作用=パノプティコンの2分類ではなく、2つの顔を持つローマ神話の神ヤヌス(右写真)のように、同じことの2つの側面を表現したものです。たとえば、子どもが、誰も見ていなくても宿題をするようになる。ここで、そのことによって、「自律的な個人」としての自由が獲得されると考えるのなら、「自律のためのパノプティコン」の側面が注目されていると言えるし、それ自体が子どもを拘束する権力作用であると考えるのなら、「抑圧としてのパノプティコン」が強調されていることになるでしょう。現代社会は、こうした2つの顔を持つパノプティコンの中で、成立しているのです。

(4) パノプティコンの呪縛

さて、こうしたパノプティコンの二重性は、現代社会が抱えるさまざまな矛盾にそのまま現れています。

たとえば、近代以降の概念である「教育」は、子どもが「自律的な個人」になるための規範作用と考えることができるでしょう。しかし、「自律的な個人」としての教育を受けた子どもが、「自律的な個人」として、学校の方針に反発しようとしたらどうでしょうか。「自律性」を盾に「管理教育粉砕」と言う生徒に対し、学校側は「規則を守ることこそが自律性」として反発することでしょう。このとき、生徒達は、学校の規則を「抑圧としてのパノプティコン」として見ている一方、学校側は「自律のためのパノプティコン」としてとらえていることになるわけです。

これは決して、60年代の学生運動の話ではありません。現代の教育をめぐる問題、さらに、司法制度にまつわる多くの問題が、これと深く関係しているからです。たとえば、今日の教育に関する議論では、教育現場に対する政府の権限の強化、道徳教育の強化などによって、生徒の「自律性」を高めようとする人たちと、生徒の自主性を尊重した主体的な学習によってこそ「自律性」が確保できると考える人たちがいます。これも、教育を通して強制的に規律を教えていくことを、「自律のためのパノプティコン(近代的個人の自律のために必要なもの)」として見るか、「抑圧のためのパノプティコン(個人を抑圧するもの)」として考えるかという違いに起因するものだと言うことができるでしょう。

また、これは警察権限の強化、マスコミに対する政府管理の強化によって、社会の安定をもたらそうという人たちと、マスコミの報道に批判的な目を持つメディリテラシー能力によってこそ個人の自律性が担保されると考える人の対立にもそのまま当てはまります。警察権限の強化を目指す人は、権力作用の「自律のためのパノプティコン」としての側面に注目し、メディアリテラシー能力の向上を目指す人は、権力作用の「抑圧としてのパノプティコン」としての側面に注目しているのです。

さて、いずれにせよ、これらの意見の対立は、どちらの主張も正しく、どちらも正しくないと言うことができるます。どちらの主張も、社会の規範や権力作用(パノプティコン)が持つ二つの顔の一つだけに注目するものだからです。そして、だからこそ、社会全体として見たときに、どちらの選択をすれば良いか分からなくなってしまっています。私たちはこうして常に「2つのパノプティコン」をめぐる矛盾した状況に置かれているのです。

グレゴリー・ベイトソンは、こうした矛盾した状況を一般に「ダブルバインド(二重拘束)」と呼びました。たとえば、「人の言うことをそのまま受け入れるのではなく、きちんと考えて行動しなさい」と子どもに命令したとします。このとき、子どもは、この命令に対して素直に従うと、命令の内容には逆らうことになってしまうでしょう。ベイトソンは、こうした状況で、人が統合失調症に似た症状になることを指摘するのです。考えてみると、現代社会は、「パノプティコン」をめぐるダブルバインドに陥っているということができるかもしれません。ダブルバインドのことを短く「呪縛」と呼ぶとしたら、こうした現代社会の状況を「パノプティコンの呪縛」と呼ぶこともできるでしょう。

(5) 女子教育の矛盾とコタカの呪い

こうした「パノプティコンの呪縛」は、社会のあらゆる局面に存在しているものだとしても、それがもっとも極端な形で表れているのは、女子教育かもしれません。

たとえば、女子大学で、ほとんど例外なく教育方針として挙げられるのが「女性の自律」ということです。しかし、「自律」が意味しているのは明らかに曖昧で、とらえどころがないものです。大きく言うと、いわゆる良妻賢母教育を行っている大学では、社会の規範や権力作用を肯定することを「女性の自律」と呼び、フェミニズムを強調する大学では、社会の規範や権力作用を批判することが「女性の自律」だと教えると言えるかもしれません。しかし、どんなに良妻賢母教育を謳っている大学でも、それが大学である以上、男性的権力や国家権力に対して疑問を持つことを教えないわけにいきません。一方、どんなにフェミニズム的価値観や、権力に対する批判を強調する大学でも(そんな大学が実在するのかは知りませんが)教育機関である以上、「人間として」の規範を教えないわけにはいけないでしょう。こうした中、学生たちは必然的にダブルバインド的状況に置かれることになるわけです。

しかも、これは大学の教育課程の中だけ話ではありません。現代の女性は、さまざまな状況で「自律した女性」と「従順な女性」という二つの矛盾した女性像をされます。たとえば、就職活動において、女子学生は「自律した女性」としての側面をPRしながら、「従順な女性」としての一面も見せなければいけない。大学の教育課程の中でどんなに純粋培養的に、「良妻賢母的女性像」あるいは「フェミニスト的女性像」を作り上げたとしても、一歩社会に出れば、その理想は打ち砕かれ、「パノプティコンの呪縛」に投げ込まれてしまうわけです。

これは明らかに、大妻コタカの時代とは異なる状況でしょう。大妻コタカの時代、社会の規範や権力作用=「恥を知れ」は、「自律のためのパノプティコン」として肯定されていれば良かったわけですが、現代社会において、そういった一方的な教育は現実的ではありません。こうした中、大妻女子大学だけではなく、女子大学がの多くが、行き場を失っているのではないかと思います。大妻女子大学の学生たちが冗談交じりで使う言葉を借りて言えば…「コタカの呪い」とでも言うのでしょうか。それは女子教育における「パノプティコンの呪縛」の別の表現であり、女子大学が、「近代」と「現代」との間で板挟みになっていること、あるいは、「現実」と「理想」との間で板挟みになっていることの別の表現だと言えるかもしれません(*1)。

*1
学生に聞いたところ、この言葉は何か嫌なことがあったときに「それってコタカの呪いじゃない?」というように使うもので、あまり深い意味はないということです。

(6) 情報学とパノプティコン

さて、ここで、このブログのテーマである情報学の視点から、「パノプティコンの呪縛」を考えると、全く違ったことが分かります。

情報学における情報は、観察主体と独立して存在しているわけではなく、何らかのシステム(視点)との関係でとらえられものです(*1)。こうしたシステム(視点)の中でも代表的なものとして、「社会システム」と「心的システム」があるわけですが、一般にさまざまな問題は、この両者の関係、つまり、「社会的なとらえ方」と「心的なとらえ方」の関係として理解されるものです。たとえば、子どもがテーブルマナーを覚えるというとき、テーブルマナーは間違いなく「社会的」に構築されたものであり、社会の権力作用と言うことができます。しかし、同じことを、子どもの立場で考えると、子どもは自らの「心的」な世界の中で、最適な行動を行い、学習しているだけだと考えることもできるでしょう。

これは、言語や法律を始め、さまざまな社会の制度、規範、知識などについて当てはまりまります。一般に、社会の権力作用は、「社会的」なものであると同時に「心的」なものであり、この二重性の中で成立しているものです。そして、これは先ほど「パノプティコンの呪縛」と呼んだものと全く同じことなのです。つまり、権力作用に二重の意味が与えられること―パノプティコンの呪縛―は、情報学的な「情報のあり方」についての議論の、単なる応用問題だと考えることもできるでしょう。

では、「パノプティコンの呪縛」を解くために、私たちはいったいどうすれば良いのでしょうか。それは、情報学的に言えば明白です。私たちが自らの自律性を保つために必要なのは、そうして自らが置かれた「システムの構造」について知ることにほかならないからです。ここで言う自律性は、単にメディアリテラシーや権力批判という意味での自律性でもなければ、近代社会の価値観を受け入れるという意味での自律性でもありません。これらの自律性を相対化する別の意味での、もう一段高次な「自律性」が必要とされているのです。

そもそも、私たちは「パノプティコンの呪縛」という状況から逃れることはできません。なぜなら、その「呪縛」は社会の問題であると同時に、<私>というシステムの構造の問題でもあり、私たちが現代社会に「生きること」と関係する本質的な問題だからです。もしそれを否定するのなら、「死」を選ぶしかないでしょう。しかし、私たちは「パノプティコンの呪縛」について知り、その上で主体的に行動することはできます。自らが矛盾した状況に投げ込まれているということを意識し、その上で生きていくことができます。そして、そのことによって、自らが疎外された世界から「主体性」を取り戻すことができるのです(*2)。

*1
詳しくは、「情報学講義(1)―情報学の視点/情報学ブログ」などを参照
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/1_89e1.html

*2
このあたりの議論は、「物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治/情報学ブログ」を参照。
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

(7) 現代における、もう一つの「恥を知れ」

こうして、自らが生きる世界の構造を理解することで、主体性を取り戻すこと。それを一言で言えば、「『恥』を知れ」ということになるかもしれません。しかし、これは、大妻コタカが用いた原義における、近代的な意味での「恥を知れ」、つまり社会の権力作用を内面化するという意味での「恥を知れ」ではありません。「社会の権力作用を内面化する自分がいる」ということ、すなわち、「恥」に象徴される社会の構造そのものを相対化して意識し、自ら主体的に生きていくことを目指すのが、現代的な意味での「『恥』を知れ」なのです。。

こうした意味で「『恥』を知る」ためには、社会のあり方についての、また、自分自身についての幅広い知識が必要なことは言うまでもありません。社会の権力作用について、あるいは自分の内面について理解するためには、情報学はもちろん、法律、経済、歴史、社会学、心理学など、さまざまなことを学ぶ必要があるからです。情報化社会における自律した個人を育成するためのキーワード、それが、現代的な意味での「『恥』を知れ」だと言えるかもしれません。

しかし、現実の大学教育はどうでしょうか。「実学重視」の名のもとに教養科目は削られ、「資格試験対策講座」のようなものが、大学を席巻しつつあります。そうした中で目指されているのは、もはや「自律した個人」ではなく、企業や政府の言うことを素直に聞く「従順な若者」にほかならないのです。

こうして迷走する大学教育の中で、その矛盾をもっとも正面から受け止めているのが、「自律した女性」の育成を謳う「女子大学」ではないでしょうか。他の大学では疑いを抱くことすらなく「従順な若者」の育成されたとしても、女子大学においては「女性」にまつわる社会の状況が、それを許さないからからです。もしそうだとすれば―だとすればですが―、「大学改革」の出発点となるのも「女子大学」かもしれません。女子大の教育に対して何の権限もない自分ではありますが、今後の展開を楽しみに見ていきたいと思っています。

○関連する記事

http://blog.goo.ne.jp/sports-cheers/e/d5908ff6b920c5b86b1422dabad5ac40
http://ichigaya.keizai.biz/headline/150/?ref=rss

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コメント

私の会社にも大妻女子大出身の同僚がおりますが、己に対して「恥を知れ」なるほどよく分かります。

投稿: TORIO | 2007/06/14 21:30:33

はじめまして、偶然検索で通りかかりました。千代田の大妻高校の生徒です。
以前大学の校舎にお邪魔した時に吹き抜けがあったような気がするのですが、同じような吹き抜けが中高の校舎にもあり、各階から全ての廊下が見渡せるようになっているのです。これも恥を知れというパノプティコンの体現なのだと思います。

管理人より:千代田の方にはお邪魔したことがないので初めてうかがいましたが、それは興味深いですね。情報、ありがとうございます。ちなみに、唐木田の方に、そういう仕組みはありませんでした。

投稿: じぇいけー | 2011/01/08 0:30:44

 トット・クリアと申します。
 
 フーコーの理論は西洋社会の道徳意識には適用可能ですが、東洋社会の「恥」とは異なります。良妻賢母は儒教道徳からきている極めて東洋的なものです。
 西洋人と東洋人とでは、言語構造が異なり、自我の構造も異なりますので、日本の女子大をフーコーの理論で把握することはナンセンスです。日本は恥の文化であり、世間体を大切にします。
 西洋の近代化理論よりも、内容的には歴史学とか民俗学の知識で考えるべきことです。学術的にいうと、分析対象と方法にずれが指摘できます。少し強引な議論かと思います。

管理人より:両者の議論の由来が異なるというのは分かります。しかし、だからと言って無関係と考えたり、両者を単純に別のものとするのはかなり強引だと思います。

管理人より:おっしゃるようなことを考えるのであれば、むしろ、西洋の近代化の中で生じたと言われる規律訓練型権力が、東洋の儒教の精神の中にすでに存在していた可能性、それが儒教文化圏の近代化に果たした役割。そういったことを考える方がよほど有意義な議論ではないでしょうか。たしかに、それは歴史学や民俗学の議論と重なりますが、それを経ないと本文のようなことを書けないというわけではないと思います。

投稿: トット・クリア | 2011/01/08 14:35:34

とてもいい記事なのですがただ一点、ペンサムではなくてベンサム、ジェレミー・ベンサム= イギリスの功利主義者です。直されたほうがよろしいと存じます。

投稿: 老婆 | 2014/10/06 20:17:18

とても興味深く読ませて頂きました。
有難うございました。

投稿: 通りすがり | 2017/01/17 11:52:47

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