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女子教育とパノプティコン―校訓「恥を知れ」に寄せて

情報学 | 2007/06/12

(1) 恥を知れ

何度か書いているのでおなじみだと思いますが、大妻女子大学でTA(授業のアシスタント)をしています。アシスタントのくせに、「校訓」についてコメントするなど、僭越にもほどがあると思うのですが、この大学の校訓、いくらなんでもツッコミどころがありすぎなのです。

本学の校訓は「恥を知れ」です。言葉の響きに驚かれるかもしれませんが、創立者・大妻コタカは言っています。「これは決して他人に対して言うことではなく、あくまでも自分に対して言うことです。人に見られたり、聞かれて恥ずかしいことをしたかどうかと自分を戒めることなのです」。本学の就職状況が好調な理由のひとつに、この「恥を知れ」スピリッツを体現した多くの卒業生達の活躍があります。地に足の着いた「自立した女性」を育み続ける本学の学生にとって「恥を知れ」という校訓は、今もよき伝統として根付いています。

大妻女子大学HP「教育理念」
http://www.otsuma.ac.jp/gakuin/aboutotsuma/policy.html

一般的に言えば、「人に見られたり、聞かれて恥ずかしいことをしたかどうかと自分を戒めること」は、決して悪いことではないでしょう。ただ、これが女子大の校訓ということで、考えさせられてしまうのです。女子教育はどうあるべきか。さらには、教育はどうあるべきかという問題と深く関係していると思うからです。

(2) パノプティコンとは何か

「恥を知れ」。これが「自分を戒めるための言葉」だと聞いて、思想系、社会系の教育を受けた人間なら、誰も最初に思いつくのが、「パノプティコン」でしょう。

Panopticonパノプティコンは、18世紀の思想家ペンサムによって作られた概念であり、少ない運営者で効率的に刑務所を運営するためのシステムのことです(右図)。「一望監視システム」と訳されるように、中央の監視塔にいる看守を取り囲むように、円環状に居室があり、効率的に囚人を監視するようになっているのです。ただし、ペンサムのアイデアはそれだけにとどまりません。パノプティコンにおいては、光量や角度の関係から、看守は囚人を監視できるが、囚人は看守のことを見ることができないのです。このため、囚人は、次第に、「常に見られている」という感覚を抱くようになり、看守の視線を内面化して、更正していくことになるわけです。

パノプティコンの考え方は、フランスの監獄建築に取り入れられ、さらにフランスをお手本とした戦前の日本の監獄にも取り入れられてきました。特に、金沢監獄、網走監獄におけるパノプティコン様式の監獄は、博物館として再現、保存されており、それぞれ博物館明治村(愛知県犬山町)、博物館網走監獄(北海道網走市)で見学することができます。

さて、こうしたパノプティコンを、現代の文脈で「再発見」したのが、かの有名なフーコーの「監獄の誕生」です。フーコーは、近代社会における権力が、身体刑ではなく、規律・訓練になっていることを論じ、その典型的な例として、ペンサムの「パノプティコン」を指摘したわけです。

考えてみると、現代社会では至るところに監視カメラが置かれ、車の移動はNシステムで把握されています。そして、サイバー警察がその気になれば、個人のネットワーク上の行動を全て捕捉することなど簡単です。そして、そうした中で、犯罪を犯してはいけないというメンタリティができあがっていると言うこともできるでしょう。しかも、それは単に「犯罪を犯してはいけない」ということに留まりません。少なくとも私は、反政府的な言説をネット上で発言することに恐怖感を感じるし、デモや集会に気軽に行く気にはなれません。それは政府に睨まれるのが怖いからです。こうして「政治的に去勢」された若者が量産されていく…それが「情報化社会」におけるパノプティコンと言えるのかもしれません。

さて、ここであらためて、大妻女子大学の校訓「恥を知れ」を考えてみると、これがまさに、フーコーの言うパノプティコンの別の表現であることが分かります。「女性とはこうあるべき」「国民とはこうあるべき」という社会の規範を内面化することで、男性の権力に対しても、国家権力に対しても「従順」である女性を産み出すこと。これが「恥を知れ」という校訓の意味だと解釈することができるからです。まさにフーコーが「パノプティコン」という概念を用いて批判したのが、「恥を知れ」という校訓だと言うこともできるでしょう。

(3) 2つのパノプティコン

では、「恥を知れ」という校訓は良くないのかというと、そんな単純な話でもありません。そして、私はそんな単純なことを言いたくて、この記事を書いているわけではありません。

ペンサムがパノプティコンを「自律した個人」を作るための手段とみなしていたように、パノプティコンに象徴される規律・訓練型権力=恥を知れという発想は、近代における「自律した個人」を作るために不可欠なものだったとも言えるからです。ここで、「自律」とは、日本語で「自らを律する」ことであり、英語・フランス語など西洋系の言語では、auto(自ら)+nomos(管理、法)という語源を持ちます。こうして、「自らを律する」ことによって、社会的な自由を獲得できるというのが、近代社会の理念である以上、私たちは「恥を知れ=パノプティコン」をナイーブに批判の対象とすることはできないのです。

大妻女子大学の創立者、大妻コタカは、1908年(明治41年)に大妻女子大学の前身となる裁縫学校を始めたわけですが、これはまさに日本に「近代」がやってきた時代のことでした。こうした時代状況にあって、恥を知るというのは、その時代における「自律した女性」の表現にほかならなかったと考えることもできるでしょう。「恥を知れ」は現代の文脈で読まれるべきではなく、あくまで「近代の草創期」という明治の文脈で読まれなければいけないものなのです。

つまり、パノプティコン=「恥を知れ」は、近代社会の草創期、つまり、ペンサムや大妻コタカの時代には、個人の自律のために重要なものだったということができるでしょう。

しかし、そうだだとしても、今日のように複雑化した民主主義の社会において、権力に疑いを持たずに内面化することが単純に肯定されるはずがありません。警察を含めた政府の働き、マスコミの報道、こういったものを時には批判的にとらえてこそ、現代における「自律した個人」が成り立つと言えるからです。

大きく言えば、現代社会の私たちは「パノプティコン」をめぐる二重の状況の中で存在していると言うことができるでしょう。私たちは、「パノプティコン」に象徴される権力作用のおかげで、ペンサムの言うような「自律」的な個人であることができる一方、同じ「パノプティコン」によって自由が束縛され、国家によって管理されているからです。ここで、前者のパノプティコンを「自律のためのパノプティコン」、後者のパノプティコンを、「抑圧としてのパノプティコン」として区別することができます。

Janusvaticanこの両者は、決して、権力作用=パノプティコンの2分類ではなく、2つの顔を持つローマ神話の神ヤヌス(右写真)のように、同じことの2つの側面を表現したものです。たとえば、子どもが、誰も見ていなくても宿題をするようになる。ここで、そのことによって、「自律的な個人」としての自由が獲得されると考えるのなら、「自律のためのパノプティコン」の側面が注目されていると言えるし、それ自体が子どもを拘束する権力作用であると考えるのなら、「抑圧としてのパノプティコン」が強調されていることになるでしょう。現代社会は、こうした2つの顔を持つパノプティコンの中で、成立しているのです。

(4) パノプティコンの呪縛

さて、こうしたパノプティコンの二重性は、現代社会が抱えるさまざまな矛盾にそのまま現れています。

たとえば、近代以降の概念である「教育」は、子どもが「自律的な個人」になるための規範作用と考えることができるでしょう。しかし、「自律的な個人」としての教育を受けた子どもが、「自律的な個人」として、学校の方針に反発しようとしたらどうでしょうか。「自律性」を盾に「管理教育粉砕」と言う生徒に対し、学校側は「規則を守ることこそが自律性」として反発することでしょう。このとき、生徒達は、学校の規則を「抑圧としてのパノプティコン」として見ている一方、学校側は「自律のためのパノプティコン」としてとらえていることになるわけです。

これは決して、60年代の学生運動の話ではありません。現代の教育をめぐる問題、さらに、司法制度にまつわる多くの問題が、これと深く関係しているからです。たとえば、今日の教育に関する議論では、教育現場に対する政府の権限の強化、道徳教育の強化などによって、生徒の「自律性」を高めようとする人たちと、生徒の自主性を尊重した主体的な学習によってこそ「自律性」が確保できると考える人たちがいます。これも、教育を通して強制的に規律を教えていくことを、「自律のためのパノプティコン(近代的個人の自律のために必要なもの)」として見るか、「抑圧のためのパノプティコン(個人を抑圧するもの)」として考えるかという違いに起因するものだと言うことができるでしょう。

また、これは警察権限の強化、マスコミに対する政府管理の強化によって、社会の安定をもたらそうという人たちと、マスコミの報道に批判的な目を持つメディリテラシー能力によってこそ個人の自律性が担保されると考える人の対立にもそのまま当てはまります。警察権限の強化を目指す人は、権力作用の「自律のためのパノプティコン」としての側面に注目し、メディアリテラシー能力の向上を目指す人は、権力作用の「抑圧としてのパノプティコン」としての側面に注目しているのです。

さて、いずれにせよ、これらの意見の対立は、どちらの主張も正しく、どちらも正しくないと言うことができるます。どちらの主張も、社会の規範や権力作用(パノプティコン)が持つ二つの顔の一つだけに注目するものだからです。そして、だからこそ、社会全体として見たときに、どちらの選択をすれば良いか分からなくなってしまっています。私たちはこうして常に「2つのパノプティコン」をめぐる矛盾した状況に置かれているのです。

グレゴリー・ベイトソンは、こうした矛盾した状況を一般に「ダブルバインド(二重拘束)」と呼びました。たとえば、「人の言うことをそのまま受け入れるのではなく、きちんと考えて行動しなさい」と子どもに命令したとします。このとき、子どもは、この命令に対して素直に従うと、命令の内容には逆らうことになってしまうでしょう。ベイトソンは、こうした状況で、人が統合失調症に似た症状になることを指摘するのです。考えてみると、現代社会は、「パノプティコン」をめぐるダブルバインドに陥っているということができるかもしれません。ダブルバインドのことを短く「呪縛」と呼ぶとしたら、こうした現代社会の状況を「パノプティコンの呪縛」と呼ぶこともできるでしょう。

(5) 女子教育の矛盾とコタカの呪い

こうした「パノプティコンの呪縛」は、社会のあらゆる局面に存在しているものだとしても、それがもっとも極端な形で表れているのは、女子教育かもしれません。

たとえば、女子大学で、ほとんど例外なく教育方針として挙げられるのが「女性の自律」ということです。しかし、「自律」が意味しているのは明らかに曖昧で、とらえどころがないものです。大きく言うと、いわゆる良妻賢母教育を行っている大学では、社会の規範や権力作用を肯定することを「女性の自律」と呼び、フェミニズムを強調する大学では、社会の規範や権力作用を批判することが「女性の自律」だと教えると言えるかもしれません。しかし、どんなに良妻賢母教育を謳っている大学でも、それが大学である以上、男性的権力や国家権力に対して疑問を持つことを教えないわけにいきません。一方、どんなにフェミニズム的価値観や、権力に対する批判を強調する大学でも(そんな大学が実在するのかは知りませんが)教育機関である以上、「人間として」の規範を教えないわけにはいけないでしょう。こうした中、学生たちは必然的にダブルバインド的状況に置かれることになるわけです。

しかも、これは大学の教育課程の中だけ話ではありません。現代の女性は、さまざまな状況で「自律した女性」と「従順な女性」という二つの矛盾した女性像をされます。たとえば、就職活動において、女子学生は「自律した女性」としての側面をPRしながら、「従順な女性」としての一面も見せなければいけない。大学の教育課程の中でどんなに純粋培養的に、「良妻賢母的女性像」あるいは「フェミニスト的女性像」を作り上げたとしても、一歩社会に出れば、その理想は打ち砕かれ、「パノプティコンの呪縛」に投げ込まれてしまうわけです。

これは明らかに、大妻コタカの時代とは異なる状況でしょう。大妻コタカの時代、社会の規範や権力作用=「恥を知れ」は、「自律のためのパノプティコン」として肯定されていれば良かったわけですが、現代社会において、そういった一方的な教育は現実的ではありません。こうした中、大妻女子大学だけではなく、女子大学がの多くが、行き場を失っているのではないかと思います。大妻女子大学の学生たちが冗談交じりで使う言葉を借りて言えば…「コタカの呪い」とでも言うのでしょうか。それは女子教育における「パノプティコンの呪縛」の別の表現であり、女子大学が、「近代」と「現代」との間で板挟みになっていること、あるいは、「現実」と「理想」との間で板挟みになっていることの別の表現だと言えるかもしれません(*1)。

*1
学生に聞いたところ、この言葉は何か嫌なことがあったときに「それってコタカの呪いじゃない?」というように使うもので、あまり深い意味はないということです。

(6) 情報学とパノプティコン

さて、ここで、このブログのテーマである情報学の視点から、「パノプティコンの呪縛」を考えると、全く違ったことが分かります。

情報学における情報は、観察主体と独立して存在しているわけではなく、何らかのシステム(視点)との関係でとらえられものです(*1)。こうしたシステム(視点)の中でも代表的なものとして、「社会システム」と「心的システム」があるわけですが、一般にさまざまな問題は、この両者の関係、つまり、「社会的なとらえ方」と「心的なとらえ方」の関係として理解されるものです。たとえば、子どもがテーブルマナーを覚えるというとき、テーブルマナーは間違いなく「社会的」に構築されたものであり、社会の権力作用と言うことができます。しかし、同じことを、子どもの立場で考えると、子どもは自らの「心的」な世界の中で、最適な行動を行い、学習しているだけだと考えることもできるでしょう。

これは、言語や法律を始め、さまざまな社会の制度、規範、知識などについて当てはまりまります。一般に、社会の権力作用は、「社会的」なものであると同時に「心的」なものであり、この二重性の中で成立しているものです。そして、これは先ほど「パノプティコンの呪縛」と呼んだものと全く同じことなのです。つまり、権力作用に二重の意味が与えられること―パノプティコンの呪縛―は、情報学的な「情報のあり方」についての議論の、単なる応用問題だと考えることもできるでしょう。

では、「パノプティコンの呪縛」を解くために、私たちはいったいどうすれば良いのでしょうか。それは、情報学的に言えば明白です。私たちが自らの自律性を保つために必要なのは、そうして自らが置かれた「システムの構造」について知ることにほかならないからです。ここで言う自律性は、単にメディアリテラシーや権力批判という意味での自律性でもなければ、近代社会の価値観を受け入れるという意味での自律性でもありません。これらの自律性を相対化する別の意味での、もう一段高次な「自律性」が必要とされているのです。

そもそも、私たちは「パノプティコンの呪縛」という状況から逃れることはできません。なぜなら、その「呪縛」は社会の問題であると同時に、<私>というシステムの構造の問題でもあり、私たちが現代社会に「生きること」と関係する本質的な問題だからです。もしそれを否定するのなら、「死」を選ぶしかないでしょう。しかし、私たちは「パノプティコンの呪縛」について知り、その上で主体的に行動することはできます。自らが矛盾した状況に投げ込まれているということを意識し、その上で生きていくことができます。そして、そのことによって、自らが疎外された世界から「主体性」を取り戻すことができるのです(*2)。

*1
詳しくは、「情報学講義(1)―情報学の視点/情報学ブログ」などを参照
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/1_89e1.html

*2
このあたりの議論は、「物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治/情報学ブログ」を参照。
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

(7) 現代における、もう一つの「恥を知れ」

こうして、自らが生きる世界の構造を理解することで、主体性を取り戻すこと。それを一言で言えば、「『恥』を知れ」ということになるかもしれません。しかし、これは、大妻コタカが用いた原義における、近代的な意味での「恥を知れ」、つまり社会の権力作用を内面化するという意味での「恥を知れ」ではありません。「社会の権力作用を内面化する自分がいる」ということ、すなわち、「恥」に象徴される社会の構造そのものを相対化して意識し、自ら主体的に生きていくことを目指すのが、現代的な意味での「『恥』を知れ」なのです。。

こうした意味で「『恥』を知る」ためには、社会のあり方についての、また、自分自身についての幅広い知識が必要なことは言うまでもありません。社会の権力作用について、あるいは自分の内面について理解するためには、情報学はもちろん、法律、経済、歴史、社会学、心理学など、さまざまなことを学ぶ必要があるからです。情報化社会における自律した個人を育成するためのキーワード、それが、現代的な意味での「『恥』を知れ」だと言えるかもしれません。

しかし、現実の大学教育はどうでしょうか。「実学重視」の名のもとに教養科目は削られ、「資格試験対策講座」のようなものが、大学を席巻しつつあります。そうした中で目指されているのは、もはや「自律した個人」ではなく、企業や政府の言うことを素直に聞く「従順な若者」にほかならないのです。

こうして迷走する大学教育の中で、その矛盾をもっとも正面から受け止めているのが、「自律した女性」の育成を謳う「女子大学」ではないでしょうか。他の大学では疑いを抱くことすらなく「従順な若者」の育成されたとしても、女子大学においては「女性」にまつわる社会の状況が、それを許さないからからです。もしそうだとすれば―だとすればですが―、「大学改革」の出発点となるのも「女子大学」かもしれません。女子大の教育に対して何の権限もない自分ではありますが、今後の展開を楽しみに見ていきたいと思っています。

○関連する記事

http://blog.goo.ne.jp/sports-cheers/e/d5908ff6b920c5b86b1422dabad5ac40
http://ichigaya.keizai.biz/headline/150/?ref=rss

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情報学講義(1)―情報学の視点

情報学 | 2007/06/10

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世の中にはさまざまな学問があります。法律学、経済学、生物学、化学…。そういう中で、「情報学」とはいったいどういう学問なのでしょうか。今回の講義では、情報学がどういう視点でものごとをとらえる学問なのかということを考えていきたいと思います。

・くだもの情報問題

Imgp0767右の写真を見てください。みかん一個と、リンゴ一個、ぶどう一房が書いてありますが、全部で何個でしょうか。

とりあえず、普通に考えたら、3個ということになるのではないかと思います。(ちなみに実際に写真に映っているのはオレンジです)

でもですね、スーパーや八百屋でぶどうを買ったことがある人ならわかると思いますが、ぶどうって買ってくると、いくつかが房からこぼれてきます。では、下の写真のように3粒がこぼれてきたとすると、全部で何個でしょうか?

Imgp0769ここで、二つの考え方があるでしょう。一つは、こぼれたぶどうを無視して数えるという考え方、もう一つは、こぼれたぶどうも一個として数えるという考え方です。しかし、こぼれた3個を数えないのなら、どうして、みかんやリンゴは一個なんでしょうか。考えてみれば、みかんやリンゴだって木になっているわけです。木を丸ごと数えて「一個」なら、一つ一つのみかんリンゴは数えなくてもいいんじゃないでしょうか。一方、こぼれた3個を数えるという数え方にも問題があります。こぼれた3個を数えるのなら、こぼれていない粒も数えない理由が良く分からなくなるからです。

しかし、ぶどうの粒を全部数えればそれで問題が解決するかというと、そんな単純でもありません。たとえば、みかんは皮をむくと、中にはいくつかの袋がありますよね。なんでぶどうの粒は数えるのに、みかんの袋は数えないでしょうか。

・数って意外に奥が深い?

こうやって考えると、「数を数える」ってことは非常に複雑な問題だということが分かると思います。では、どう考えれば良いのでしょうか?

Imgp0763 小学校の理科の時間に、植物の「果実」は、一つ一つが「花」に対応しているって話を習ったと思います。みかんだったら、へたのあるあたりに花びらがついていたわけですよ。リンゴの場合は、軸の反対側にごちゃごちゃっとしたのがついていますが、そのあたりに、花びらが付いていたわけです。ぶどうも同じで、一つ一つの粒が「果実」で、それぞれの果実がもともと「花」だったわけですね。

要するに、果実って観点から考えると、みかん一つ、リンゴ一つ、そしてぶどうの一粒一粒が「果実」ってことになるわけです。だから、これを全部数えていかないといけないことになります。そういう意味からこの図を見てみると、このぶどう、ちょうど40粒からできているので、全部合わせると、42個ってことになります。こうすれば、ぶどうがこぼれても数が変わることがありませんよね。

649pxplant_cell_structure_svg じゃあ、42個でOKって言いたいところなんですけど、そんな単純なものでもありません。中学校の理科では「細胞」というものを習うわけですが、「果実」という観点から考えるのであれば、「細胞」という観点から考えてもいいはずじゃないでしょうか。リンゴもみかんもぶどうも、それぞれが細胞からできているわけなので、細胞という観点から考えると、何百万個という数の細胞からできているわけです。そういう観点から見ると、この図の「全部で何個」っていう問いに対しては「数百万個」って答えても間違いではないことになると思います。もちろん、こういう果物を見て、数百万個って考える人は、ほとんどいないわけですが、一応、そうやって考えることもできるということです。(図は、植物細胞の模式図)

179pxbetadfructofuranose でも、細胞っていう観点から考えることが許されるのなら、「分子」っていう見方もできることになりますよね。結論だけ言うと、このくらいの量の果物だと、だいたい1兆の1兆倍くらいの分子になります。要するに、この図の果物には、1兆の1兆倍という途方もない数の分子が含まれていることになるわけです。もう、ここまで来ると、ほとんどバカみたいな話だと思うからも知れませんが、そういう数え方もできるということです。(図は、果物の甘さの主成分である果糖の分子式)

じゃあ、3個っていうのが、間違いかっていうとそうでもないのです。どうしてかというと、「ある数え方」をすると、この図の果物はちょうど3個だということになるからです。

Imgp0711たとえば、「流通」という視点から果物を商品として見ることを考えましょう。ぶどうをスーパーで買うとき、1粒3円とかって売ったら、面倒でしょうがないですよね。そうなるとレジの人に手間がかかって、販売コストが高く付きます。それに、一粒ごとにばらばらになっていたら、トラックとかで運ぶのも大変で、輸送コストも高くつきます。では、「100粒で○○円」という形でパック詰めされていれば良いかというと、これはこれで扱いづらいし、数えるためのコストも余分にかかるでしょう。要するに、ぶどうは、こういった販売コスト、輸送コストという観点から、一房で1個として売られているわけです。

Imgp0729 こういう見方で上の図もう一度見てみると、みかんが1個、リンゴが1個そして、ぶどうが1個。じゃあ、こぼれたぶどうはどうなるかというと、これはそれだけでは商品としての価値がないわけだから、数え方としては0個になります。こぼれたぶどうはもとの一房と一緒に売られて始めて1個になるわけです。

最初の果物の絵を見て、「3個」って考えた人が多かったと思うのですが、それは私たちが気づかないうちにこういう視点でものごとをとらえてしまっているからです。私たちが生活する中で、みかんの花やリンゴの花を見ることはあまりないし、果物の細胞を顕微鏡で見ることもめったにないでしょう。それに対して、スーパーに行ったり、八百屋に行ったりして買いものをする機会は、それなりにあると思います。そうすると、結局、いつの間にか「流通」という視点で、ものごとを見るようになってしまっているわけです。

・情報という視点

最初に見たように、果物を「果実」としてとらえるのは、生物学の一分野である「形態学」という分野のとらえ方です。これに対して、「細胞」としてとらえるのは、同じく生物学の一分野である「細胞生物学」のとらえ方です。それから、「分子」としてとらえるのは、「化学」のとらえ方、最後の流通という観点から果物をとらえるのは広い意味での「経済学」のとらえ方だと思います。ここで重要なのはそれぞれの視点で特有の「数え方」があるということです。では、ものごとを「情報」としてとらえる「情報学」の視点から言うと、果物は何個なのでしょうか。

結論を言ってしまうと、「どれもが情報学の数え方」ということになります。考えてみれば、「果実」という視点でとらえた「42個」というのも情報だし、「細胞」という視点でとらえた「数百万個」というのも情報です。「分子」という視点でとらえた「1兆の1兆倍」というのも情報です。そして、「流通」という視点でとらえた「3個」というのも立派に情報と言えるものです。こうやって、「視点によって違って見える」のが「情報」であり、こういった考え方を扱うのが「情報学」という分野であるわけです。

これは、「情報」という概念が、「果実」や「細胞」、「分子」というような概念とは決定的に違うということを意味しています。「果実」「細胞」「分子」「商品」というのは、誰が数えても、同じ数になるはずです。もちろん、数え間違いとか、文化による数え方の違いはあるでしょうが、それぞれの状況における「正しい答え」はあるわけです。これに対し、情報の場合は、そうではありません。たまたま違うとか、数え間違いとかではなく、そもそも「とらえ方によって違う」わけです。これは「情報」というのが、とらえ方によって違うということそのものを扱うための概念なのだから当然だとも言えます。

これを別の立場で説明するとこういうことになります。つまり、「果実」「細胞」「分子」「商品」といったものは、それをとらえる人間と無関係に存在しているかのように扱われています。ところが、「情報」というのは、そもそも情報をとらえる人間と無関係に存在できないのです。たとえば、皆さんが先ほどの果物の絵に関心を持って、「いくつなのかな」って考える。そのことによって情報というものが現れてきます。つまり、情報をとらえる人間がいて初めて情報は存在できるのです。

・結局、情報学って何?

私たちの普段の生活の中での問題、あるいは仕事上の問題、政策決定上の問題は、全て「情報」にかかわる問題です。

たとえば、企業で重要な判断をまかせられるようになったとき、あるいは就職や恋愛、病気など、人生の中で重要な判断をしなければいけなくなったとき、あるいは人間関係について悩んで何らかの判断が必要になったときを考えてみてください。こういうとき、そうした「判断」の材料は、常に「情報」であり、それをどうやって解釈して判断していくかということも結局、「情報についての問題」です。

こうした「情報についての問題」は、私たちが「生きていく」ことと関係するもっとも本質的な問題であり、人類の始まり、さらには生命の始まりから、存在したと言うこともできるでしょう。しかし、「情報についての問題」が、特に注目され、重要視されるようになったのは、言うまでもなく、デジタル化した情報が社会に流通し、蓄積されていく、「情報化社会」の出現と関係しています。「情報化社会」の現代だからこそ、「デジタル情報とは何か」「コンピュータの情報処理は人間の情報処理とどう違うのか」「情報の意味とは何か」といったことを含めて情報の意味を整理し、理解する、情報学の視点が注目されているわけです。情報学は、こうした「情報化社会」という時代背景の中で生まれてきた学問と言うこともできます。

ただし、大きく言えば、やはり、私たちが直面するあらゆる問題は「情報」についての問題であり、あらゆる判断は、「情報」に関する判断です。ここで、「情報についての問題」をどのように解釈し、そこでどのように判断をすれば良いかの手がかりとなるのが「情報学」と言えるでしょう。ここでは、デジタル情報や情報化社会の視点も踏まえながら、私たちが生きていく上での情報がとらえ返されることになります。

では、ものごとを「情報についての問題」としてとらえる情報学の視点とはどのようなものなのでしょうか。ものごとを情報の問題としてとらえるというのは、それをとらえる視点(システム)との関係で理解するということであるし、そういう中でどうやって「判断」を行えば良いかを理解するということです。

たとえば、皆さんが企業で重要な判断をまかせられたとき、あるいは自分の人生の中で重要な判断をすることになったとき、それぞれの選択肢が、どういう利益につながるかという「経済」の視点でものごとをとらえることは、もちろん非常に重要なことです。また、それぞれの選択肢を取ったときに、どういう法律上の問題が起きるのかということを理解することは、当然、大事なことです。しかし、企業にしても、個人にしても、重要な判断が、法律の観点だけから、あるいは経済の観点だけから単純に決められるようなケースはまずありません。経済の視点だけを取っても、さまざまなとらえ方があるし、そこには人間関係や法律など複雑な問題が関わってきます。そう言う中で、どうやって判断していくかということ。これは、間違いなく、「情報」の問題だと言えるわけです。さまざまな観点から理解される複雑な状況を整理し、判断をしていく。そのためのスキルが「情報学」だと言うことができるでしょう。

もちろん、「いろいろな視点からとらえることが大切ですよね」って、言うだけだったら誰だってできます。そしてそれだけだったら、わざわざ情報<学>なんて面倒なことを学ぶ必要なんてないでしょう。しかし、そうではないのです。ものごとに対するいろいろな視点がどういう関係にあるのか、また、そう言う中で「判断をする」ということがどういうことなのかを学問的に考えるのが情報学だからです。たとえて言えば、「お金って大事ですよね~」っていうのは、経済学の視点と関係していますが、それだけでは経済学ではありません。「法律を守らないといけませんね~」というのは、法律学の視点と関係していますが、それだけでは法律学ではありません。学問には、それぞれの分野のものごとのとらえ方があり、それに基づいて考えることで、他の人にはない世界が開けてくることが大事なのです。同じように、情報学には情報学の見方があり、それによって、それぞれの状況でどのように問題を分析し、どのように判断すれば良いかということが見えてくるわけです。

そういう意味で、「情報学」ほど多くの人に直接関わっている学問はないでしょう。現代社会で、経済や法律について全く知らなくて生きていくわけにはいかないでしょうが、ある程度の知識があれば、周りの人に頼んだり任せたりすることだってできます。しかし、会社でどんなに優秀な部下や同僚がいたとしても、プライベートでどんなに優しい友だちがいたとしても、最後に何か「判断」するのは、結局「自分」しかないわけです。そう言う意味で、「情報」について学ぶとういことは、時代や立場を越えて絶対的に必要になる能力だということができると思います。

○改訂記録

6/11→果物の図を全て写真に差し替え。スーパーの写真(2枚)を追加。
6/11→「結局、情報学って何?」の前半を全面的に修正。

○画像の引用元

植物細胞の画像
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Plant_cell_structure_svg.svg
果糖の分子式
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Beta-D-Fructofuranose.svg

●情報学講義

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情報学講義―目次

情報学 | 2007/06/10

「情報学講義」目次次の記事

「情報学講義」というタイトルで、情報学についての基礎的な解説の連載を始めます。対象として、大学の1年生~2年生以上を想定していますが、読むのに特別な知識は必要ありません。高校生くらいから理解できる分かりやすい内容にしたいと思っていますので、気軽に読んでいただければと思います。その代わり、学問的な議論がラフになることは、ご了承ください。

以下が全体の目次です。随時更新していくので、リンクを貼っていただける方は、なるべくこの記事にお願いします。

目次

情報学講義(1)―情報学の視点
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/1_89e1.html

情報学講義(2)―情報の文脈依存性
(近日公開予定)

情報学講義(3)―情報とシステム
(近日公開予定)

ちなみに、実際に大学で行っている講義と完全に一致するわけではなく、あくまでバーチャル講義です。念のため。

●情報学講義

「情報学講義」目次次の記事

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ネット社会の匿名性と分散型セキュリティーの思想

情報学/日記・コラム・つぶやき | 2007/06/08

大妻女子大学という女子大で授業のアシスタント(TA)の仕事をしているのですが、昼休みの女子大ほど居心地の悪い場所はありません。最初は、他の男性TAと食堂に行ったりしたのですが、女子学生ばっかりで、落ち着かない落ち着かない。講師室も外人の先生が多いせいか、どことなく落ち着かないのです。女性の先生にそのことを言ったら、「女子大なんだから、しょうがないんじゃないんですか?」と笑われてしまいました。たしかに、女子大の昼休みでウキウキしている男がいたら、キモイという噂もありますが、やはりこの落ち着かなさは、どうにかしたいものなのです。

では、なんでそんなに居心地が悪いのでしょうか?たとえば、自分が学生として通っている大学では、当然のことながら、周囲に「溶け込む」=匿名的な存在でいることができます。これは、講師をしている共学の大学でも同じで、服装や見かけは、他の大学生とあまり変わらないので、完全に周囲に「溶け込む」ことができるわけです。ところが、女子大ではそうではありません。女子大において、自分は年齢的にも性別的、あるいは服装的に「特異な存在」としてのラベルが貼られており、女子学生に「溶け込む」ことは不可能です。そこで「居心地が悪い」のは当然ということになるでしょう。

一般的に言えば、私たちは「個人として尊重されたい」という気持ちと「匿名的な存在でいたい」という相反する気持ちの間で生きているのであり、「匿名性」が完全に失われ、常に注目されるような状況では、「居心地が悪い」と感じるわけでしょう。例を挙げれば、日本でヨーロッパ系の外国人が「ガイジン」として見られて「居心地が悪く」感じたり、障害者が周囲から奇異な目で見られることで、「居心地が悪く」感じるというようなことがあると思います。もちろん、私たちは、人に「見られる」ことを快感に思うこともあり、これは人間としての基本的な欲求の一つです。しかし、どんなに「見られる」ことが好きでも、何らかの形でプライベートな部分は守りたいという気持ちは持っており、日常の生活の全てが継続的に見られることに耐えられる人はほとんどいないでしょう。そしてそうした匿名性がなくなるとき、人は「居心地が悪い」感覚を覚えるのではないかと思います。

さて、若干話は変わるのですが、これはネット社会における匿名性の問題とも関係しています。インターネットのアクセス履歴、クレジットカードの利用履歴、ポイントカードでの購入履歴など、私たちの個人情報は、国家や一部の大企業に完全に管理される世の中になっています。私たちの一つ一つの行動は完全に記録されており、技術的な意味で匿名性は全くと言ってなくなっているわけです。

しかし、重要なのは、そうした状況でも、私たちはそれほど強く「居心地の悪さ」を感じないということかもしれません。というのも、多くの場合、一人一人の個人情報は、たくさんのデータの一つとして記録されているだけであり、何か問題でも起こさない限り、一人一人の個人情報が注目されることはないからです。だからこそ、私たちは「居心地の悪さ」を感じずに生きていると言うことができるでしょう。

ただし、ひとたび国家から疑いをかけられる、信用情報を照会されるといった状況になったとき、一瞬にして「匿名性」は失われます。ある種の権力を持った人間であれば、インターネットのアクセス履歴、クレジットカードの利用履歴、ポイントカードでの購入履歴は簡単に手に入れることができるし、それによってあなたの行動や嗜好は全て把握されることになります。多くの人はそういう状況に対して、「恐ろしさ」や「居心地の悪さ」を感じるでしょう。しかし、同時に、「まさか自分がそういう状況に陥ることはない」と感じている人が多いのも事実です。言わば、こうした葛藤の中で、現代に生きる私たちのメンタリティがあると言えるかもしれません。

ここで話がさらに複雑なのは、そうした「権力」を持てるのが、国家だけではなく、あらゆる組織や人間―企業や犯罪者でもあるということです。私たちは、常に外部から不当に監視されている可能性がある。かつてであれば、「国家権力の横暴を制限しないといけない」ということで、人々の意見が一致したところでしょうが、現代の場合、そうはいかないのです。権力による不当な管理を避けるために、別の権力を強化しないといけない。そうした中で、警察権力の強化という社会の流れが起きているとも言えます。

しかし、これは明らかに問題に対する本質的な解決策ではありません。警察と企業が癒着していたら、警察が不当な捜査を行っていたら、警察のシステムが犯罪者によって不当に利用されたら…。その場合、「警察権力の強化」は、かえって社会不安の原因になるわけでしょう。そもそも、現代社会における匿名性の喪失、監視社会化の問題は、「情報の一極集中」という問題に起因するものです。したがって、これに対抗するために、警察権力を強化という別の形での「情報の一極集中」を推進するのは、明らかに矛盾した「時代遅れ」な方法なのです。

ではどうすれば良いのでしょうか?普通に考えたら、答えは一つしかないでしょう。情報の管理を分散化すること。具体的に言えば、現在、サーバーで一極的に行われている情報セキュリティを、クライアント(PCや携帯などの電子デバイス)レベルで分散して行う、「分散型セキュリティ」を導入していくことです。

こうした「分散型セキュリティ」の概念は、単に政治的な問題ではなく、ネットワーク社会を安定して運営するために不可欠な概念です。というのも、一般に、情報の一極集中は、そのシステムの運用に関する大きなリスク(システムリスク)をもたらします。たとえば、企業の場合、どんなにセキュリティーを強固にしても、システムの誤作動によるリスクや、経営幹部やネットワーク担当者がミスを犯したり、悪意を持つことによるリスクは避けられません。また、電子商取引において、取引のベースとなるシステムが一極集中していれば、サーバーがダウンしたときに、社会は大混乱に陥るリスクを抱えることになるでしょう。こうしたリスクを軽減するのに必要なのが、「分散型セキュリティ」であり、これは次世代のIT技術のキーワードとなる、非常に重要な概念です。

こういう視点から見ると、ネット社会の混乱を「警察権力の強化」で対応しようという発想は、情報化社会の本質に無理解な、間違った考え方であるということが明確に分かるのではないかと思います。そもそも、ネットワークの匿名性の問題は、「情報の一極集中」がもたらす「システムリスク」の一例である以上、「分散型セキュリティ」でクリアされるべき問題であって、警察権力の強化によって解決されるべき問題ではありません。むしろ、警察権力の強化は、別の形での情報の一極集中、別の形での「システムリスク」を産み出すものです。先ほど挙げたような、警察と企業との癒着、警察による不当な捜査や、犯罪者による不当なシステムの利用…という問題は、単に政治的な問題として理解されるべきではなく、こうした「システムリスク」の一例として理解されるべきことが分かるでしょう。

ちなみに、最近、女子大に行くとき、昼休みには、次の授業の教室に早く行って、ひっそりとミクシィとにつなぐのが習慣になっています。「大学側には書き込み内容が筒抜けなんだろうな」と思いながらですが…。当分、この「居心地の悪さ」が解消することはなさそうです。

○関連記事

なぜか大妻女子大学でTAをしています
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_f03d.html

情報自由論/東浩紀
http://www.hajou.org/infoliberalism/index.html

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