情報学講義(1)―情報学の視点

情報学 | 2007/06/10

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世の中にはさまざまな学問があります。法律学、経済学、生物学、化学…。そういう中で、「情報学」とはいったいどういう学問なのでしょうか。今回の講義では、情報学がどういう視点でものごとをとらえる学問なのかということを考えていきたいと思います。

・くだもの情報問題

Imgp0767右の写真を見てください。みかん一個と、リンゴ一個、ぶどう一房が書いてありますが、全部で何個でしょうか。

とりあえず、普通に考えたら、3個ということになるのではないかと思います。(ちなみに実際に写真に映っているのはオレンジです)

でもですね、スーパーや八百屋でぶどうを買ったことがある人ならわかると思いますが、ぶどうって買ってくると、いくつかが房からこぼれてきます。では、下の写真のように3粒がこぼれてきたとすると、全部で何個でしょうか?

Imgp0769ここで、二つの考え方があるでしょう。一つは、こぼれたぶどうを無視して数えるという考え方、もう一つは、こぼれたぶどうも一個として数えるという考え方です。しかし、こぼれた3個を数えないのなら、どうして、みかんやリンゴは一個なんでしょうか。考えてみれば、みかんやリンゴだって木になっているわけです。木を丸ごと数えて「一個」なら、一つ一つのみかんリンゴは数えなくてもいいんじゃないでしょうか。一方、こぼれた3個を数えるという数え方にも問題があります。こぼれた3個を数えるのなら、こぼれていない粒も数えない理由が良く分からなくなるからです。

しかし、ぶどうの粒を全部数えればそれで問題が解決するかというと、そんな単純でもありません。たとえば、みかんは皮をむくと、中にはいくつかの袋がありますよね。なんでぶどうの粒は数えるのに、みかんの袋は数えないでしょうか。

・数って意外に奥が深い?

こうやって考えると、「数を数える」ってことは非常に複雑な問題だということが分かると思います。では、どう考えれば良いのでしょうか?

Imgp0763 小学校の理科の時間に、植物の「果実」は、一つ一つが「花」に対応しているって話を習ったと思います。みかんだったら、へたのあるあたりに花びらがついていたわけですよ。リンゴの場合は、軸の反対側にごちゃごちゃっとしたのがついていますが、そのあたりに、花びらが付いていたわけです。ぶどうも同じで、一つ一つの粒が「果実」で、それぞれの果実がもともと「花」だったわけですね。

要するに、果実って観点から考えると、みかん一つ、リンゴ一つ、そしてぶどうの一粒一粒が「果実」ってことになるわけです。だから、これを全部数えていかないといけないことになります。そういう意味からこの図を見てみると、このぶどう、ちょうど40粒からできているので、全部合わせると、42個ってことになります。こうすれば、ぶどうがこぼれても数が変わることがありませんよね。

649pxplant_cell_structure_svg じゃあ、42個でOKって言いたいところなんですけど、そんな単純なものでもありません。中学校の理科では「細胞」というものを習うわけですが、「果実」という観点から考えるのであれば、「細胞」という観点から考えてもいいはずじゃないでしょうか。リンゴもみかんもぶどうも、それぞれが細胞からできているわけなので、細胞という観点から考えると、何百万個という数の細胞からできているわけです。そういう観点から見ると、この図の「全部で何個」っていう問いに対しては「数百万個」って答えても間違いではないことになると思います。もちろん、こういう果物を見て、数百万個って考える人は、ほとんどいないわけですが、一応、そうやって考えることもできるということです。(図は、植物細胞の模式図)

179pxbetadfructofuranose でも、細胞っていう観点から考えることが許されるのなら、「分子」っていう見方もできることになりますよね。結論だけ言うと、このくらいの量の果物だと、だいたい1兆の1兆倍くらいの分子になります。要するに、この図の果物には、1兆の1兆倍という途方もない数の分子が含まれていることになるわけです。もう、ここまで来ると、ほとんどバカみたいな話だと思うからも知れませんが、そういう数え方もできるということです。(図は、果物の甘さの主成分である果糖の分子式)

じゃあ、3個っていうのが、間違いかっていうとそうでもないのです。どうしてかというと、「ある数え方」をすると、この図の果物はちょうど3個だということになるからです。

Imgp0711たとえば、「流通」という視点から果物を商品として見ることを考えましょう。ぶどうをスーパーで買うとき、1粒3円とかって売ったら、面倒でしょうがないですよね。そうなるとレジの人に手間がかかって、販売コストが高く付きます。それに、一粒ごとにばらばらになっていたら、トラックとかで運ぶのも大変で、輸送コストも高くつきます。では、「100粒で○○円」という形でパック詰めされていれば良いかというと、これはこれで扱いづらいし、数えるためのコストも余分にかかるでしょう。要するに、ぶどうは、こういった販売コスト、輸送コストという観点から、一房で1個として売られているわけです。

Imgp0729 こういう見方で上の図もう一度見てみると、みかんが1個、リンゴが1個そして、ぶどうが1個。じゃあ、こぼれたぶどうはどうなるかというと、これはそれだけでは商品としての価値がないわけだから、数え方としては0個になります。こぼれたぶどうはもとの一房と一緒に売られて始めて1個になるわけです。

最初の果物の絵を見て、「3個」って考えた人が多かったと思うのですが、それは私たちが気づかないうちにこういう視点でものごとをとらえてしまっているからです。私たちが生活する中で、みかんの花やリンゴの花を見ることはあまりないし、果物の細胞を顕微鏡で見ることもめったにないでしょう。それに対して、スーパーに行ったり、八百屋に行ったりして買いものをする機会は、それなりにあると思います。そうすると、結局、いつの間にか「流通」という視点で、ものごとを見るようになってしまっているわけです。

・情報という視点

最初に見たように、果物を「果実」としてとらえるのは、生物学の一分野である「形態学」という分野のとらえ方です。これに対して、「細胞」としてとらえるのは、同じく生物学の一分野である「細胞生物学」のとらえ方です。それから、「分子」としてとらえるのは、「化学」のとらえ方、最後の流通という観点から果物をとらえるのは広い意味での「経済学」のとらえ方だと思います。ここで重要なのはそれぞれの視点で特有の「数え方」があるということです。では、ものごとを「情報」としてとらえる「情報学」の視点から言うと、果物は何個なのでしょうか。

結論を言ってしまうと、「どれもが情報学の数え方」ということになります。考えてみれば、「果実」という視点でとらえた「42個」というのも情報だし、「細胞」という視点でとらえた「数百万個」というのも情報です。「分子」という視点でとらえた「1兆の1兆倍」というのも情報です。そして、「流通」という視点でとらえた「3個」というのも立派に情報と言えるものです。こうやって、「視点によって違って見える」のが「情報」であり、こういった考え方を扱うのが「情報学」という分野であるわけです。

これは、「情報」という概念が、「果実」や「細胞」、「分子」というような概念とは決定的に違うということを意味しています。「果実」「細胞」「分子」「商品」というのは、誰が数えても、同じ数になるはずです。もちろん、数え間違いとか、文化による数え方の違いはあるでしょうが、それぞれの状況における「正しい答え」はあるわけです。これに対し、情報の場合は、そうではありません。たまたま違うとか、数え間違いとかではなく、そもそも「とらえ方によって違う」わけです。これは「情報」というのが、とらえ方によって違うということそのものを扱うための概念なのだから当然だとも言えます。

これを別の立場で説明するとこういうことになります。つまり、「果実」「細胞」「分子」「商品」といったものは、それをとらえる人間と無関係に存在しているかのように扱われています。ところが、「情報」というのは、そもそも情報をとらえる人間と無関係に存在できないのです。たとえば、皆さんが先ほどの果物の絵に関心を持って、「いくつなのかな」って考える。そのことによって情報というものが現れてきます。つまり、情報をとらえる人間がいて初めて情報は存在できるのです。

・結局、情報学って何?

私たちの普段の生活の中での問題、あるいは仕事上の問題、政策決定上の問題は、全て「情報」にかかわる問題です。

たとえば、企業で重要な判断をまかせられるようになったとき、あるいは就職や恋愛、病気など、人生の中で重要な判断をしなければいけなくなったとき、あるいは人間関係について悩んで何らかの判断が必要になったときを考えてみてください。こういうとき、そうした「判断」の材料は、常に「情報」であり、それをどうやって解釈して判断していくかということも結局、「情報についての問題」です。

こうした「情報についての問題」は、私たちが「生きていく」ことと関係するもっとも本質的な問題であり、人類の始まり、さらには生命の始まりから、存在したと言うこともできるでしょう。しかし、「情報についての問題」が、特に注目され、重要視されるようになったのは、言うまでもなく、デジタル化した情報が社会に流通し、蓄積されていく、「情報化社会」の出現と関係しています。「情報化社会」の現代だからこそ、「デジタル情報とは何か」「コンピュータの情報処理は人間の情報処理とどう違うのか」「情報の意味とは何か」といったことを含めて情報の意味を整理し、理解する、情報学の視点が注目されているわけです。情報学は、こうした「情報化社会」という時代背景の中で生まれてきた学問と言うこともできます。

ただし、大きく言えば、やはり、私たちが直面するあらゆる問題は「情報」についての問題であり、あらゆる判断は、「情報」に関する判断です。ここで、「情報についての問題」をどのように解釈し、そこでどのように判断をすれば良いかの手がかりとなるのが「情報学」と言えるでしょう。ここでは、デジタル情報や情報化社会の視点も踏まえながら、私たちが生きていく上での情報がとらえ返されることになります。

では、ものごとを「情報についての問題」としてとらえる情報学の視点とはどのようなものなのでしょうか。ものごとを情報の問題としてとらえるというのは、それをとらえる視点(システム)との関係で理解するということであるし、そういう中でどうやって「判断」を行えば良いかを理解するということです。

たとえば、皆さんが企業で重要な判断をまかせられたとき、あるいは自分の人生の中で重要な判断をすることになったとき、それぞれの選択肢が、どういう利益につながるかという「経済」の視点でものごとをとらえることは、もちろん非常に重要なことです。また、それぞれの選択肢を取ったときに、どういう法律上の問題が起きるのかということを理解することは、当然、大事なことです。しかし、企業にしても、個人にしても、重要な判断が、法律の観点だけから、あるいは経済の観点だけから単純に決められるようなケースはまずありません。経済の視点だけを取っても、さまざまなとらえ方があるし、そこには人間関係や法律など複雑な問題が関わってきます。そう言う中で、どうやって判断していくかということ。これは、間違いなく、「情報」の問題だと言えるわけです。さまざまな観点から理解される複雑な状況を整理し、判断をしていく。そのためのスキルが「情報学」だと言うことができるでしょう。

もちろん、「いろいろな視点からとらえることが大切ですよね」って、言うだけだったら誰だってできます。そしてそれだけだったら、わざわざ情報<学>なんて面倒なことを学ぶ必要なんてないでしょう。しかし、そうではないのです。ものごとに対するいろいろな視点がどういう関係にあるのか、また、そう言う中で「判断をする」ということがどういうことなのかを学問的に考えるのが情報学だからです。たとえて言えば、「お金って大事ですよね~」っていうのは、経済学の視点と関係していますが、それだけでは経済学ではありません。「法律を守らないといけませんね~」というのは、法律学の視点と関係していますが、それだけでは法律学ではありません。学問には、それぞれの分野のものごとのとらえ方があり、それに基づいて考えることで、他の人にはない世界が開けてくることが大事なのです。同じように、情報学には情報学の見方があり、それによって、それぞれの状況でどのように問題を分析し、どのように判断すれば良いかということが見えてくるわけです。

そういう意味で、「情報学」ほど多くの人に直接関わっている学問はないでしょう。現代社会で、経済や法律について全く知らなくて生きていくわけにはいかないでしょうが、ある程度の知識があれば、周りの人に頼んだり任せたりすることだってできます。しかし、会社でどんなに優秀な部下や同僚がいたとしても、プライベートでどんなに優しい友だちがいたとしても、最後に何か「判断」するのは、結局「自分」しかないわけです。そう言う意味で、「情報」について学ぶとういことは、時代や立場を越えて絶対的に必要になる能力だということができると思います。

○改訂記録

6/11→果物の図を全て写真に差し替え。スーパーの写真(2枚)を追加。
6/11→「結局、情報学って何?」の前半を全面的に修正。

○画像の引用元

植物細胞の画像
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Plant_cell_structure_svg.svg
果糖の分子式
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Beta-D-Fructofuranose.svg

●情報学講義

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コメント

はじめまして。mixiのコミュに参加させていただきました。

大変興味がある分野ですね。
また、他のエントリではシステム構築に言及されているあたりも共感できます。
「りんごクラスって言ったって、八百屋のシステムを作るときと植物図鑑を作るときじゃ全然設計が違うだろ?」みたいなことは常々考えています。
システム設計にも、当然、いい設計と悪い設計があって、いい設計っていうのは、積み重ねられてきたノウハウに裏打ちされていると思います。デザインパターンみたいな。
そういった部分に、技術面だけでなく、数学とか哲学とか言語学とか情報学とか…といったアカデミックな面からのアプローチを試みたいと思っています。

余談ですが、そんなことを、最近mixiの哲学系コミュに書いたら、一部の人から思いっきり反発くらいまして。
どうも今の哲学は暇人の道楽に成り下がっているらしく、「他人から学べるものではない」「答えが出るものではない」らしいです。
そりゃ、人生とかを哲学してしまえばそうなるのかもしれませんが、こっちにとって重要なのは、哲学が営々と培ってきた「世界の見方・分析手法」なのであって、現代哲学の目的自体には興味がありません…とか言ったら「トピ違いなので帰れ」とか。嫌われたもんです。

長文失礼しました。

投稿: シャノン | 2007/11/12 17:41:39

コメントありがとうございます。

> 「りんごクラスって言ったって、八百屋のシステムを作るときと植物図鑑を作るときじゃ全然設計が違うだろ?」みたいなことは常々考えています。

これは非常に重要な問題ですね。
八百屋では、リンゴは「商品」のサブクラスですが、
植物図鑑では、「植物」のサブクラスです。
当然、全く違う扱いをされることになるでしょう。

コンピュータの処理概念としての「オブジェクト」と、
人間が考えるメタファーとしての「オブジェクト」は
かなり違うものなのに、
そのあたりが混同されているというのは大きな問題だと思います。

> システム設計にも、当然、いい設計と悪い設計があって、いい設計っていうのは、積み重ねられてきたノウハウに裏打ちされていると思います。デザインパターンみたいな。
> そういった部分に、技術面だけでなく、数学とか哲学とか言語学とか情報学とか…といったアカデミックな面からのアプローチを試みたいと思っています。

情報学の応用として、デザインパターンのようなものを考えるのは、
難しいかも知れませんが、
オブジェクト概念の「限界」に自覚的になりつつ、
設計するというのには、もしかしたら使えるかもしれません。

具体的に思いつかないので、
あまりはっきりしたことは言えませんが…。

> 余談ですが、そんなことを、最近mixiの哲学系コミュに書いたら、一部の人から思いっきり反発くらいまして。
> どうも今の哲学は暇人の道楽に成り下がっているらしく、「他人から学べるものではない」「答えが出るものではない」らしいです。
> そりゃ、人生とかを哲学してしまえばそうなるのかもしれませんが、こっちにとって重要なのは、哲学が営々と培ってきた「世界の見方・分析手法」なのであって、現代哲学の目的自体には興味がありません…とか言ったら「トピ違いなので帰れ」とか。嫌われたもんです。

何とも言えないところですが、
基本的に「分析手法」と言えるようなものは、
すでに哲学ではないのかもしれません。
「分析手法」というと、客観的で素晴らしいように思うかも知れませんが、
必ずしもそうではないのです。
世界をとらえる一つの見方に過ぎないとも言えるからです。
自分の議論が「分析手法に過ぎない」と言われることに納得できない人たちが
哲学というものをやっていると言えるかもしれません。
そうだとしたら、「哲学が営々と培ってきた世界の見方・分析手法」というのは、
語義矛盾なのです。

逆に、情報学は「分析手法」でありたいと思っています。
情報学は、さまざまな学問が「分析手法」に過ぎないことを指摘するという意味で、
哲学と共通する視点を持っているわけですが、
自らを例外にしないという意味で、
哲学とは一線を画しているのだと思います。

投稿: 情報学ブログ | 2007/11/16 2:49:13

レスありがとうございます。

> 情報学の応用として、デザインパターンのようなものを考えるのは、
> 難しいかも知れませんが、
> オブジェクト概念の「限界」に自覚的になりつつ、
> 設計するというのには、もしかしたら使えるかもしれません。

例えば、非常に基本的なことですが、オブジェクト指向を知っている人のどれだけが、オブジェクト指向と集合論の関係を考えたことがあるだろう? と思うのです。
そこで経験だけでなくアカデミックな方面からの知識があるのとないのとでは、出来上がるものに差が出てくるのではないかな? と思います。

本題ではありませんが、哲学について。
mixiの哲学コミュでは、「哲学とは、科学でも信仰でも答えを出せない、自分だけの疑問を探究すること」と位置づけられているらしいです。
哲学者が何を考えたかを学ぶことは哲学ではなく哲学史であり、それはその哲学者に固有の問題であるから、学んでも哲学の役には立たない、と言われてしまったのです。

投稿: シャノン | 2007/11/19 15:25:44

大学院で基礎情報学をやってるものです。
記事、すごく参考になりました。
第二回も楽しみにしてます(^_^)。

投稿: おーらむ | 2007/12/10 22:32:10

先日講談社新書 長谷川宏著「丸山真男をどうよむか」を読んでいたら面白い文章に当たりました。丸山は福沢諭吉ついて「かれは東洋社会のの停体制の秘密を数理的認識と独立精神の2社の件所のうちに探り当てたのである。」(同94頁)。ではアメリカの覇権がなくなり、かつまたBRISCと呼ばれる成長セクターの様子も怪しくなっている現在我々は情報学に何を期待すべきか。いうまでもなく前述の数理的認識とはニュートンの完成した力学的物理学体系である。これに対し前世紀中盤に完成した、コンピューターは物理でなく記号論理数学の産物であり、福沢時代とは意味合いを異にしていいる。しかし、科学的認識(現在では哲学的認識も入っているが)21世紀をリードしていく根底認識であることは変わりがない。では19世紀の科学的認識を成り立たせていた独立精神に対し、情報的認識を成り立たせている精神的基盤は何であろうか、ニュートンに時代にはロックやホッブズやカントがその担い手として登場した。では21世紀の情報的認識が支配する時代に入った今その基盤となる哲学は何であろうか、ガタリなどのポストモダンがそれに挑戦したが、果たせずについに、フランスのポストモダンの中心人物はついにデリダはでなくなってしまった。では次の担い手はだれでどのような哲学を出すのであろうか。かつもくして観察してみたいと思う。

投稿: 矢野 喜彦 | 2008/07/25 0:47:27

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