システム論 | 2007/04/04
この記事では、オートポイエーシスの階層性と閉鎖性は矛盾しないという、基本的だが、全くと言って良いほど誤解されている考え方について説明します。これは、社会システムの構造を理解する上で重要なのはもちろん、社会システムの構成素をコミュニケーションとする理由を始め、さまざまな問題とかかわる非常に重要な論点です。
○目次
(1) 階層性と閉鎖性の問題
(2) マトゥラーナとヴァレラにおける作動と構成素
(3) コミュニケーション・システムにおける作動と構成素
(4) 社会システムの構成素はなぜコミュニケーションなのか
/////
(1) 階層性と閉鎖性の問題
オートポイエーシスでは、一つ一つの作動が世界全体とかかわるような形で存在しているのであり、システムそのものも、物理的には世界全体を占めるものとしてとらえられます。そして、だからこそ、システムは常に閉じているのです。(*1)
システムが閉じているというとき、階層性については議論することができません。物理的に言えば、あらゆるシステムが世界全体なのですから、そこに、階層性が見いだせるはずがないでしょう。
しかし、それにもかかわらず、ある種のシステムは、階層的に存在しているように思えます。たとえば、マトゥラーナとヴァレラは、分子レベルではなく、細胞レベルの産出関係もオートポイエーシスだと考えているわけですが、両者は、階層関係を作っているように思えます。また、コミュニケーションのシステムとしての社会は、家族、企業、国など、さまざまなレベルで存在しているように思えるわけですが、これらはやはり階層的であるように思えます。また、法システム、経済システムのようなシステムは、社会システム全体と階層構造を作っているように思えます。
では、こうしてオートポイエーシスを階層的にとらえる見方は間違っているのでしょうか。この記事では、オートポイエーシスが閉鎖的であることと、階層的であるということは、実は全く矛盾しないということを示します。
ちなみに、この記事は、以前に書いた記事「オートポイエーシスと時間」の続編として書いたものですので、前の記事と合わせて読んでいただければと思います。特に、この記事で言う「オートポイエーシス」は、河本英夫氏の主張する、広義の「オートポイエーシス」と区別される、時間的なオートポイエーシスであり、広義のオートポイエーシスには適用されないものなので、最初に、このことを確認しておきたいと思います。(*2)
*1 オートポイエーシスと時間
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html
*2 同上 (8)
(2) マトゥラーナとヴァレラにおける作動と構成素
オートポイエーシスにおいて、作動は世界全体とかかわるものとしてとらえられるわけですが、一方、生命システムのオートポイエーシスの場合、作動は分子や細胞の産出であり、分子は特定の空間的な拡がりを持つものです。ここで、「産出プロセス」である作動と、「産出されたもの」としての構成素は、区別されないといけないでしょう。というのも、産出プロセスとしての作動は、世界全体とかかわる「閉じた」ものですが、産出された物質としてシステムをとらえればそこには内部と外部があり、「開かれた」ものと言うことができるわけです。
マトゥラーナとヴァレラは、オートポイエーシスを説明するに当たって、次のように述べています。
環境とのフィードバックループを持ち、出力が入力に影響するような機械Mを考えるとする。このとき、実は、環境やフィードバックループを構成として持つ、より大きな機械M'について考えていると言うことができる。(*1)
ここで、Mを考えるのが、「構成素」の集まりとしてシステムをとらえる見方であり、M'を考えるのが産出プロセスとしての作動を考えるオートポイエーシスの見方です。
このように考えると、物理空間上に実現するオートポイエーシスが作動のレベルでの階層性を持たない一方、これが構成素のレベルで階層性を持つことを一切妨げないものであることが分かります。
たとえば、マトゥラーナとヴァレラは、分子レベルでのオートポイエーシスのほかに、これらが作る高次のオートポイエーシスとして、細胞レベルでのオートポイエーシスや、単細胞生物の個体レベルでのオートポイエーシスを考えています(*2)。また、人間のような多細胞生物の個体を構成素とするオートポイエーシスも、さらに高次のオートポイエーシスとして考えることができるでしょう(*3)。これらは明らかに「階層的」なオートポイエーシスと言うことができると思います。
ここで重要なのは、こうした階層性が構成素レベルのものであって、作動のレベルで考えれば、そこに一切の階層性が認められないということです。もちろん、オートポイエーシスは、構成素ではなく、作動としてシステムをとらえる理論ですから、直接的には「階層性が存在しない」ということが強調されるのは当然です。しかし、そのことと、構成素についての階層性は明確に区別しないといけないわけです。
特に、誤解されているように思えるのは、社会の自律性と個体の自律性の関係についてです。一部には、個体を構成素とするオートポイエーシスを考えると、オートポイエーシスとしての個体の自律性が損なわれるというような見方があるようですが、これは明らかに間違いでしょう。社会の構成素として個体を想定したとしても、それは個体の自律性を損なうようなものではないからです。(*4)(*5)
*1 [Maturana & Varela 1973 : 78]。この部分についての(若干)詳しい議論は、「オートポイエーシスと時間」の(3)を参照。
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html
*2 [Maturana & Varela 1973 : 107-111]。
*3 多細胞生物の産出からなるシステム、つまり社会について、マトゥラーナは、オートポイエーシスと呼ぶ一方[Maturana 1980 : xxiv-xxx]、ヴァレラは「化学的産出」ではないことなどを理由に、オートポイエーシスではなく、自律システムと呼んでいます[Varela 1979 : 54]。こうしたヴァレラの立場の背景には、人間を社会に従属するものとしてみなすことに対する反発があったということは良く知られていますが、理論的に考える限り、同じく物質からなる細胞と個体を区別するのは困難でしょう。
*4 マトゥラーナがこうした立場を取っていたことは良く知られていますが、単純に、ヴァレラがこうした立場を否定しているかのような見方もかなり誤解を含んでいます。たしかに、ヴァレラは、個体の集まりとしての社会をオートポイエーシスとして呼ぶことを拒否しているわけですが、それを自律システムだとすることは認めています。ここで、ヴァレラにとっても、こうした社会システムの存在が、個人の自律性を損なうものではないことは明らかなのです。ヴァレラの議論において、個体を構成素とする社会システムがオートポイエーシスかどうかという問題と、個体の自律性の問題は、論理的に分けて考える必要があるでしょう。
*5 最初に確認したように、この議論は、河本英夫氏が主張する広義のオートポイエーシスと、マトゥラーナとヴァレラの物質的なオートポイエーシスを区別することによって可能になります。詳しくは、「オートポイエーシスと時間」の(5)-(8)。
(3) コミュニケーション・システムにおける作動と構成素
こうした考察に基づいて考えれば、コミュニケーションを構成素とする社会システムの階層性についても全く問題なく理解できることが分かります。
前の記事で述べたように(*1)、コミュニケーションを構成素とするシステムの特徴は、物質的、空間的なものに限定されていたオートポイエーシスを、非物質的なものに拡張したことにあるわけなので、マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシスのように、空間的な問題として階層性を議論することはできません。しかし、コミュニケーションは、「~についての」という形で分類することができる―少なくともそのようにとらえることができる―という特徴を持つものということはできるでしょう。
たとえば、コミュニケーションを「経済についてのコミュニケーション」「法についてのコミュニケーション」といった形に分類すれば、それぞれのコミュニケーションを構成素とするシステムを想定することができます。これは、ルーマンが機能的分化システムと呼んだシステムに相当すると思います。一方、コミュニケーションを、総務課のコミュニケーション、仙台支社のコミュニケーションといった形で分類すれば、企業組織についての階層的なシステムを考えることができるでしょう。
大きく分けると、コミュニケーションは、機能について(話題を含む)と、組織についての二つの立場から分類することができるのであり、この両者は複合的な階層構造を作っているわけです。(*2)
ここでも、作動と構成素の区別ということは重要です。作動というレベルで言えば、これらのシステムに一切の階層性はありません。これらのシステムの作動はそれぞれが世界全体とかかわるような形で存在しているのであり、社会システムと法システム、企業のシステムと総務課のシステムの間でさえ、階層性を認めることができないのです。そして、オートポイエーシスの構成素が作動である以上、このことはどんなに強調されても、強調され過ぎることはないでしょう。しかし、このことは、構成素であるコミュニケーションに注目して、その階層性を考えることを否定するものではないのです。
*1 「オートポイエーシスと時間」(5)および(8)の図1。
*2 この見方は、問題を単純化し過ぎているとも言えます。実際には、もっと複雑な階層性を考える必要があるでしょう。
(4) 社会システムの構成素はなぜコミュニケーションなのか
このことは、社会システムの構成素として「コミュニケーション」を考えないといけない理由そのものとも深く関係しています。
社会をオートポイエーシスとしてとらえるという目的に関して言えば、社会の構成素は、個体でも全く問題がないのです。一部に、個体を社会の構成素とすると個体の自律性が損なわれるため、社会の構成素はコミュニケーションでなければいけないというような主張をする人がいるようですが、これは少なくともオートポイエーシス理論の立場からは間違っています。すでに述べたように、個体を構成素する社会システムを考えたとしても、それは個体の自律性を損なうようなものではないからです。もしもこの主張を受け入れるのなら、そこで言われている「自律性」は、オートポイエーシス理論における自律性とは異なる概念だということになるでしょう。
では、社会システムの構成素をコミュニケーションとすることには、どういう意味があるのでしょうか。コミュニケーションを構成素とする社会システムと、個体を構成素とする社会システムは、どちらも理論的に正しい一方、それぞれのモデルで説明できることには大きな違いがあります。
個体を構成素とした社会システムを考える場合、そこで議論できるのは、一義的には、「個体の生成と消滅」およびそれと関連する事象についてです。たとえば、生物学的な進化の議論をしているとき、ある形質を持った生物がどれだけ生き残り易いのか、あるいは次の世代にどれだけ生まれてくるかということが問題にされるわけですが、このとき、個体を構成素とするシステムが見いだされているわけです。こういったシステムをオートポイエーシスと言うことができることは、マトゥラーナとヴァレラがオートポイエーシスと進化の関係に言及していることからも明らかです(*1)。
一方、こうした議論は、人間の社会についても当てはめることができます。出生率や死亡率の問題について議論しているとき、たとえば、戦争に言って兵士が何人死ぬはずだから、それに向けて、出生率を向上させないといけないというようなことについて議論しているとき、その人は、社会を個体を構成素としたシステムとして見ているわけです。その意味で、個人を構成素とする社会システムは、オートポイエティックなシステムと言うことができます。
しかし、このことは逆に、個体を構成素として社会を考えたときに、非常に限定した問題しか扱えなくなるということも示しています。私たちが、社会についての議論するとき、それが出生率や死亡率の問題であることはむしろ稀でしょう。自由や権利について議論しているとき、政治について議論しているとき、あるいは経済について議論しているとき、単に人間の生成・消滅だけが問題にされているわけではありません。そして、こういう状況を分析するのに必要なのが、「コミュニケーションを構成素とする社会システム」という見方なのです。(*2)
要するに、純粋にオートポイエーシスとしての成立可能性ということに言えば、個体を構成素とする社会システムと、コミュニケーションを構成素とする社会システムに優劣を付けることはできません。また、それぞれのモデルは説明できる問題が違うのであり、その意味でも優劣を付けることはできないでしょう(*3)。ただし、私たちが直面しているような多くの社会の問題を理解するためには、コミュニケーションを構成素とする社会システムのモデルが適切なのです。このことは、オートポイエーシスを理解する上でも、社会システム論について理解する上でも、非常に重要なことではないかと思います。
*1 [Maturana & Varela 1973 : 102-107]
*2 ちなみに、社会の構成素をコミュニケーションとするメリットとしては、社会分析における有効性のほかに、主観性―客観性(間主観性)の問題や、物語論、エクリチュール論などとの接続が考えられると思います。これについては話が複雑になるので、別の機会にあらためて書くことにしたいと思います。
*3 本文には「優劣を付けられない」と書きましたが、これはあくまでオートポイエーシスの理論上の問題としてです。出生と死亡の問題としてしか社会を理解できないようなモデルが、あまり有効ではないどころか、有害にもなるものだということはあらためて言うまでもないでしょう。特に、このことは、フェミニズムや優生思想との関係において重要ではないかと思います。しかしいずれにせよ、両者の優劣を決めるのは、オートポイエーシス理論の枠外の問題だということは言えるでしょう。
○参考文献
Maturana, H. R. et Vaerala, F. J. 1973 "Autopoiesis―the Organization of the Living" in [Maturana & Varela 1980]
Maturana, H. R 1980 "Preface" in [Maturana & Varela 1980]
Maturana, H. R. et Varela, F. J. 1980 "Autopoiesis and Cognition: the Realization of the Living" D. Riedel Pub.
Varela, F. J. 1979 "Principles of Biological Autonomy" Elsevier
オートポイエーシスと時間/情報学ブログ
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html
○ブログ紹介
(i) なんでコミュニケイションが社会的システムの要素だといえるの?/尼克拉斯魯曼全百科
http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070112/p4
先輩の知り合いのルーマン研究者の方のブログです。もともと、(4)は別の記事にしようと思っていたものですが、この記事に絡んでみようと思って書き加えたものです。いずれにせよ、そろそろ自分もちゃんとルーマンを勉強しないとダメですね(笑)。
(ii) 人間と社会/社会学者の研究メモ
http://d.hatena.ne.jp/jtsutsui/20070220/1171982100
冒頭で、「社会は人間に還元できるか(中略)こういう問は、それが発せられる文脈によって全く答えが変わってくる」と書いてありますが、おっしゃる通りだと思います。本文の(4)で書いた通りです。
一方、
私自身はここで、「いや、人間は自分の構成物(社会)を原理的に把握できない」と言ってしまうよりも、ここでも経済学と同じく限界革命を導入して、「そんなのふつうはコストがかかりすぎて無理」というふうに考えた方が有用だと思う。
本文の冒頭に書いたように、オートポイエーシス理論は、一つ一つの作動(たとえば、人間の誕生やコミュケーションの生成)は、世界全体とかかわるような形で存在していて、作動やシステムを完全に記述するのは不可能だという事態を出発点にするわけです。「私自身は…」と書かれてある上の引用部を否定するわけではありませんが、この視点が「有用」かどうかは、やはり「それが発せられる問いによって全く答えが変わってくる」というのが、正しいところではないかと思います。
本文で書いたので繰り返しませんが一点だけ。
> あなた自身が述べておられるように、
> 構成素は産出されたものです。
> したがって、あらゆるオートポイエーシス・システムは、
> 別のオートポイエーシス・システムの構成素ではありえないのです。
山人さんはオートポイエーシスを空間的にある位置を占めるようにとらえてしまっているのではないでしょうか?
これはオートポイエーシスを理解するときに陥りやすい間違いの一つだと思います。
詳しくはリンクを貼った「オートポイエーシスと時間」、
そして本文をご覧ください。
いずれにせよ、こちらではそうした考え方が
どうして間違っているかを論拠を示して書いているわけなので、
根拠なく主張をされても、対応のしようがありません。
山人さんのコメントを読んでいると、
オートポイエーシスに対する誤解が、
非常に根の深いものであることが分かる気がします。
簡単なことなのですが。構成素はシステムによって産出されたものであるのに対して、オートポイエーシス・システム自体は他のものによって産出されたものではありえないのです。それはオートポイエーシスの定義に矛盾しますから。空間など一切関係ありません。オートポイエーシスはまず、産出プロセスによって規定されていることを理解してください。
本文を読んでもらえました??
> 構成素はシステムによって産出されたものであるのに対して、
> オートポイエーシス・システム自体は他のものによって産出されたものではありえないのです。
> オートポイエーシスはまず、産出プロセスによって規定されていることを理解してください。
当然です。これは本文でも書きました
だからこそ、オートポイエーシスと産物レベルの階層性は矛盾しないということを書いたわけです。
産物についての階層性は、オートポイエーシスからすると全て「環境」であり、
閉鎖性に影響しないという話です。
まともに議論する気がありますか?
批判していただけるのならありがたいのですが、
全く噛み合っていない議論で、どう対応して良いものか分かりません。
山人さんが仰るのは、オートポイエーシスである個人システムが、オートポイエーシスである社会システムの構成素であることはありえない、という意味だと思われます。確かに、オートポイエーシスの構成素としてオートポイエーシスを考えることは通常できない、という典型的な批判がありますね。
おそらく、
>社会をオートポイエーシスとしてとらえるという目的に関して言えば、社会の構成素は、個体でも全く問題がないのです。一部に、個体を社会の構成素とすると個体の自律性が損なわれるため、社会の構成素はコミュニケーションでなければいけないというような主張をする人がいるようですが、これは少なくともオートポイエーシス理論の立場からは間違っています。
を捉えてのことでしょう。
確かに、オートポイエーシスの構成素は「行為」か「コミュニケーション」か、いずれと捉えるべきかは大きな論点ですが、「個体」や「個人」を構成素にする学説は自分は聞いたことがないのですね……。「行為者」(個体、個人)ではなく「行為」「コミュニケーション」という現象を想定することで、現象に現象を自己言及させて論じるのがオートポイエーシス論だと思うので、通常は「個体」を構成素にすることはできないのではないですか。
……まあこれも、おそらく言葉のあやだとは思いますけどね。
情報学ブログさんは、生物学的・有機的なオートポイエーシス単位体としての「個体」ではなく(もちろん個体的客体でもなく)、現象としてあらわれる「行為」の集合を「個体」と呼んでいるか、あるいは、(あまり詳しくありませんが)「構造化する構造」や「ハビトゥス」概念を援用して一般的なシステム論では排斥される「行為者」を社会システムに組み込む手法をとっているかのいずれかでしょう。情報学ブログさんが批判しているのは後者の見解のように思えますが、いかがでしょうか。
> 山人さんが仰るのは、オートポイエーシスである個人システムが、
> オートポイエーシスである社会システムの構成素であることはありえない、
> という意味だと思われます。
> 確かに、オートポイエーシスの構成素として
> オートポイエーシスを考えることは通常できない、
> という典型的な批判がありますね。
繰り返しになりますが…、
用語法上、一般にシステムの構成素は産出プロセスの産物だとされます。
したがって、「作動」の集まりとしてのオートポイエーシスが、
他のシステムの構成素にならないというのは当然でしょう。
したがって、山人さんのおっしゃることは文面としてはその通りです。
しかし、それは、システムによって産み出される産物の全体が、
他のシステムの構成素になることを妨げるものではなく、
本文の立論とは全く噛み合ってないのです。
> オートポイエーシスの構成素として
> オートポイエーシスを考えることは通常できない
という主張は、表面的には正しいのですが、
その意味がほとんど誤解されて理解されていると言うのが私の主張です。
> 「個体」や「個人」を構成素にする学説は自分は聞いたことがないのですね……。
本文にも書いたと思いますが、
これは、私のオリジナルではなく、
オートポイエーシスの創始者であるマトゥラーナの立論です。
こうした、マトゥラーナの主張は、
その真意が曲解された上で批判されているので、
そうした誤解を解く意味で書いたのが、
この記事と言うこともできると思います。
> 「行為者」(個体、個人)ではなく「行為」「コミュニケーション」という
> 現象を想定することで、
> 現象に現象を自己言及させて論じるのが
> オートポイエーシス論だと思うので、
> 通常は「個体」を構成素にすることはできないのではないですか。
誤解のないように言うと、
自分は、「社会システム論」における
社会システムの構成素に個人や個体を採用するべきだなどと
言っているわけではないのです。
本文でも書いたように、個体を構成素とするシステムは、
個体の生成消滅を議論するときに立ち現れてくるシステムですから、
「社会システム」ではなく、
「個体集団システム」「生物社会システム」などと言った方が
良いかもしれません。
私が主張しているのは、こうしたシステムが、
社会システムの代替になるということではなく、
オートポイエーシスの定義を満たしているということです。
これは、あくまで「オートポイエーシスとは何か」という理論上の問題を
整理するために論じていることであって、
それ以上でも以下でもないのです。
バベルさんがどういう次元で「現象」という用語を
使っているのか分からないのですが、
その言葉を借りれれば、
個体の生成消滅は、十分に「現象」であると言うことができると思います。
いずれにせよ、個体の生成消滅のシステムを、オートポイエーシスと言うことに、
全く問題はありません。
ちなみに、行為かコミュニケーションかという問題系は、
システム論と社会学との接続を考えたときに生まれてくる
社会学上の問題であって、
システム論の観点から、その違いはそれほど問題にならないと考えています。
> 情報学ブログさんは、生物学的・有機的なオートポイエーシス単位体
> としての「個体」ではなく(もちろん個体的客体でもなく)、
> 現象としてあらわれる「行為」の集合を「個体」と呼んでいるか、
> あるいは、(あまり詳しくありませんが)「構造化する構造」や
> 「ハビトゥス」概念を援用して一般的なシステム論では排斥される
> 「行為者」を社会システムに組み込む手法をとっているかのいずれかでしょう。
> 情報学ブログさんが批判しているのは後者の見解のように思えますが、
> いかがでしょうか。
本文を読んでいただければ分かると思うのですが、
そのいずれでもありません。
生物学的、物質的な意味での、「個体」を構成素とするのが、
「個体の生成消滅のシステム」としての社会システムです。
これは、通常、集団遺伝学などの生物学の議論に用いられるものであって、
社会学的な議論と接続できるものではありません。
そこで、「行為」などの話を持ち出すのはナンセンスでしょう。
ちなみに、バベルさんは、
コミュニケーション・システムとしての社会システムの階層性について
どうお考えでしょうか?
個体を構成素とするシステムをオートポイエーシスと認めないとすると、
コミュニケーション・システムの階層性についても、
良く分からなくなってしまうはずです。
バベルさんは、ルーマンの社会システム論を前提に、
オートポイエーシスを論じているのだと思いますが、
本文の議論で、社会システム論と接続可能なのは、
この点になるのではないかと思います
議論が錯綜してきたので項目立てて思考を整理してみます。
1.僕は、「個体を構成素とした社会システムを考える場合、そこで議論できるのは、一義的には、「個体の生成と消滅」およびそれと関連する事象についてです」という本文を読んだため、情報学ブログさんが社会システムの構成素として、「個体」を想定しているのかと勘違いしてしまいました。ありえる読み方の一つに進化論的な生物学的システムの構成要素として「個体」という言葉を使用しているかもしれないとは思いましたが……。ここで言及される「個体」も有機的な閉じられた作動・産出プロセスとしての「個体」ではなく、その産物・構成素の集合としての「個体」という意味合いなんでしょう。そのように理論構成されれば、「個体」に「個体」を自己言及させるやり方でオートポイエーシスを記述することも可能でしょうね。僕はこれを否定したつもりはありません。
進化論的なシステムについてはあまり考えたことがないのでこれ以上の言及は控えておきたいと思います。
ところで、マトゥラーナの主張と言いますが、どの本で言及されていたか分かりますか。僕は「オートポイエーシス――生命の有機構成」しか読んだことがないので、それ以外は知識不足で、よく分かりませんね
2.オートポイエーシスの定義・成立要件の限界についてははっきりとした文献は見つかりませんので、オートポイエーシスの定義論を語るのは有益でした(一般に流布するオートポエーシス①自律性②個体性③境界の自己決定④入力と出力の不在は僕は成立要件ではないと思ってます)。一般的な成立要件をまとめあげるとどうなるか、僕は未だによく分かりませんがね……。まあこれは今後の研究を待て、ということでしょうか。
3.閉鎖性と階層性の考え方ですが、ほぼ情報学ブログさんと同じような考え方です。あるシステムをオートポイエーシス・システムと呼びたい場合、当該システムは作動上の閉鎖性を確保しつつ、認知上の開放性を確保しなければなりません。作動レベルでは全体論的(ホーリスティック)に構成素は構成素に自己言及して閉じられますが、認知レベルでは構成素は構成素同士で選択・結合状態にあると考えています。ただ僕はこれを「階層性」とは呼びません。上位階層に対して自律的で下位階層に対して従属的なヒエラルキーとしてシステムを観察する場合(つまりオートポイエーシスとしてシステムを観察しない場合)のみ、「階層性」を言うことができると考えているからです。
もちろんマトゥラーナらは『オートポイエーシス――生命の有機構成』の中で、一部、階層的なヒエラルキーモデルを採用している部分があります。マトゥラーナの原典解釈としてこれを争うつもりはありません。
ただ僕は河本英夫よりのオートポイエーシスの解釈を行う関係上、システムは内部観測の視点から作動上の閉じを確保し、システム/環境差異を作り出すと考えています。認知世界・環境世界に属する構成要素は相互に選択・結合状態(「未規定な複雑性」が「構成された複雑性」にまで縮減された構成素が散らばっている状態)にあると考えてはいますが、それぞれの構成要素が自律・従属、目的・手段という形式で結合することまでを承認するわけではありません。
まあシステム論に内部観測論をどこまで読み込むかの解釈の対立だと思います。
4.「現象」は「構成素」と置き換えて読んでください。
> > 個体を構成素とした社会システムを考える場合、
> > そこで議論できるのは、一義的には、「個体の生成と消滅」およびそれと関連する事象についてです
> 情報学ブログさんが社会システムの構成素として、「個体」を想定している
たしかに本文で特に説明をせずに「社会システム」という言葉を使ったのは、
分かりづらかったかもしれません。
ただ、本文でも書いたように、「少子化対策」や「優生政策」について
議論する人にとって、
社会の構成素はやはり個体でしょう。
この意味での「社会」が社会学的な「社会」ではないことは言うまでもありませんが、
「社会」ではないと言い切ってしまうのは、
早急すぎるのではないかと思います。
そういう意味で、本文では、「個体を構成素とする社会システム」
「コミュニケーションを構成素とする社会システム」という区分を設けたわけです。
本文の(4)-*3でも書いたように、私自身は、決して、
「個体を構成素とする社会システム」として社会をとらえることを
肯定しているわけではありません。
> ところで、マトゥラーナの主張と言いますが、どの本で言及されていたか分かりますか。
> 僕は「オートポイエーシス――生命の有機構成」しか読んだことがないので、
> それ以外は知識不足で、よく分かりませんね
本文、(2)の注3で、まさにその本から引用しています。邦訳だとp.35以降なので、
確認していただければと思います。
ちなみに、この部分の細かい部分は微妙な点もあると思います。
ここまでの議論から分かっていただけると思いますが、
とりあえず、私がマトゥラーナを擁護しているのは、
「個体を構成素とするシステムがオートポイエーシス」という点だけだと
理解していただければ幸いです。
> ありえる読み方の一つに進化論的な生物学的システムの構成要素として「個体」という
> 言葉を使用しているかもしれないとは思いましたが……。
> ここで言及される「個体」も有機的な閉じられた
> 作動・産出プロセスとしての「個体」ではなく、
> その産物・構成素の集合としての「個体」という意味合いなんでしょう。
おっしゃるとおりですね。
自分が書いたのもその趣旨です。
> 2.
その通りだと思います。
実は自分もそうした問題意識を持っているのですが、
いまだに考えが整理されていません。
機会があれば、まとめられるといいと思っています。
> ただ僕はこれを「階層性」とは呼びません。
> 上位階層に対して自律的で下位階層に対して従属的なヒエラルキーとしてシステムを観察する場合
> (つまりオートポイエーシスとしてシステムを観察しない場合)のみ、
> 「階層性」を言うことができると考えているからです。
たしかに、そういう言い方もできると思います。
これは言葉の定義の問題でしょう。
本文でも、作動についての階層性(通常の意味での階層性)はないが、
産物についての階層性はありえるということを書きました。
両者を明確に区別した上での「階層性」であれば、問題ないのではないかと思います。
> 認知世界・環境世界に属する構成要素
このあたりでおっしゃっていることが良く分からなかったのですが、
上記の表現には特に違和感を感じました。
河本さんも言っていると思いますが、
構成素(産物)はシステムの作動からすると常に環境ということになると思います。
> 「現象」は「構成素」と置き換えて読んでください。
了解です。納得しました。
ほぼ議論は解消したようですが、残っている一点だけ。
構成素(産物)は常に環境世界を構成する……んー、ここらへんはいつもよく分からないのですが。用語法の問題のような気もします。
たとえば、河本英夫『オートポイエーシス』p231にはこんな記述があります。
「心的システムは、みずからの構成素を連続的に産出することによって自己の境界を区切る。構成素を産出する作動をつうじて、同時にシステムの環境を区切り、システムの自己を環境とを区分する。電柱の向こうに青空が見える。しかし青空で区切られた手前が世界のすべてであって、青空の向こうには何もないなどとは誰も思わない。青空の向こうは、心的システムの作動によって区切られた位相学的外部であって、これを心的システムの環境という」
ここでは、明らかに「青空で区切られた手前」を自己、「青空の向こう」を他者・環境世界・認知世界と規定しています。
これは、位相空間論というマトゥラーナ達の考えが根底にあるのでしょう。位相空間内部に区分される自己(オートポイエーシス・システムの実現)と、位相空間外部に区分される環境という考え方です。オートポイエーシス・システムは確かに産出関係によって閉鎖的に規定され、産物関係は常に環境世界に置かれます。しかし、産出関係によって規定されたところのシステムが「実現」されるためには、位相空間内部に投影されなければならず、この位相空間内を環境とは区別されたところの「自己」と呼称するのではないでしょうか。
そうすると、構成素は常に環境世界に属しますが、位相空間の領域では構成素は位相空間内/外に振り分けられる、と考えるのではないでしょうか。
……まあ、産出関係だけで把握するのがオートポイエーシスだ、という理解と衝突するかもしれませんがね。いっぱい恥を欠くのも大事ってことで、ひとつ笑。
> ほぼ議論は解消したようですが、残っている一点だけ。
そうですね(笑)。
ちなみに、前半と後半で少し違う論点に思えたので、
別にコメントします。
まず、前半については…、
> たとえば、河本英夫『オートポイエーシス』p231にはこんな記述があります。
> 「心的システムは、みずからの構成素を連続的に産出することによって
> 自己の境界を区切る。
> 構成素を産出する作動をつうじて、
> 同時にシステムの環境を区切り、
> システムの自己を環境とを区分する。
> 電柱の向こうに青空が見える。
> しかし青空で区切られた手前が世界のすべてであって、
> 青空の向こうには何もないなどとは誰も思わない。
> 青空の向こうは、
> 心的システムの作動によって区切られた位相学的外部であって、
> これを心的システムの環境という」
> ここでは、明らかに「青空で区切られた手前」を自己、
> 「青空の向こう」を他者・環境世界・認知世界と規定しています。
ここでの河本さんの記述は全く問題ありません。
また、「青空の向こう」が認知世界というのはちょっと分からなかったのですが、
他者や環境世界であることは問題ないでしょう。
ただし、それはあくまで作動の全体としてのシステムにおける
「システム/環境」の区別であって、
「構成素」についての「内部」と「外部」ではないのです。
バベルさんのおっしゃることを最大限に汲んで言えば、
たしかに、「構成素はシステムの環境」という一般的な言い方は、
適切ではないという批判はありえると思います。
河本さんの「青空」のたとえを借りれば、
システムの構成素は、「青空」でも「青空の向こう」でもなく、
それとは全く別の次元のものだと言った方が適切ではないかと思うからです。
ただし、そう理解したとしても、
「構成素」に「システム/環境」の区別があるという主張は
受け入れることができないでしょう。
一方、後半について言えば、
> しかし、産出関係によって規定されたところのシステムが
> 「実現」されるためには、位相空間内部に投影されなければならず、
> この位相空間内を環境とは区別されたところの
> 「自己」と呼称するのではないでしょうか。
文面からして、一般のオートポイエーシスではなく、
自己言及システムとしての心的システムについての記述だと思います。
まず、マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシスのように、
物理空間上に実現するオートポイエーシスに関して、
オートポイエーシスの実現(embodiment)に必要なのは、
構成素を含めたシステムの産出関係が
物理空間に投射(projection)されることです。
この場合、物理空間上の構成素に、
システム論的な意味での「システム/環境」の区別がないのは明らかでしょう。
これは、本質的に心的システムの場合でも同じなのです。
まず、心的システムが他のシステムから観察されるということを考える場合、
システムの位相空間と区別される
「観察者の位相空間」上に、
構成素を含めた産出関係が投射(projection)されると考えられます。
これは、投射される空間が違うだけで、
理論上は全く同じなので、
「システム/環境」についての扱いは、
完全にマトゥラーナ・ヴァレラと同じということになります。
一方、システム自身の位相空間に、
産出関係が投射されるという状況を考えることもでき、
これがご指摘の論点だと思います。
この場合、構成素を含めた産出関係が、
位相空間内に投射されるということになるでしょう。
この場合、投射されたシステムは、「自己像」です。
この場合、投射された構成素(産物)は、
位相空間内で成立することができるでしょう。、
これは、バベルさんの言うとおりです。
しかし、かりにそうだとしても…、
a)
位相空間内に成立する「構成素の投射」は、
あくまで、投射される前の構成素とは異なります。
そして、投射される前の構成素は、相変わらず、
システムの位相空間の外部の問題でしかないわけです。
b)
一方、投射された方の位相空間で考えたとしても、
結局、「構成素の投射」のほかに、「もとの位相空間の投射」を
考えないといけなくなります。
ここで、「構成素の投射」は「もとの位相空間の投射」の
外部にあるということを含めて投射されるわけなので、
結局、a)の問題を回避することはできないのです。
ただし、
> そうすると、構成素は常に環境世界に属しますが、
> 位相空間の領域では構成素は位相空間内/外に振り分けられる、
> と考えるのではないでしょうか。
この文面を、「投射された構成素」と「投射される前の構成素」の
違いとして理解するのなら、一応正しいと言うことはできるでしょう。
しかし、これを「振り分けられる」というように表現するのは、
どうやっても問題でしょう。
また、それを修正したとしても、この議論は、
非常に特殊な状況について扱っているものになるだけであり、
オートポイエーシスを理解する上で、
本質的なものではないと思います。
/////
ちなみに、システムと環境の区別の問題については、
以下の記事の(4)でも、簡単に書かせてもらっています。
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html
お二人の議論を伺っていると、どうもオートポイエーシス論というものが、非常に複雑な方向に誤解されてしまっているように思われます。マトゥラーナや、ルーマン、河本さんの定式に誤解を招く点が多いせいかも知れませんが。一度自分なりの仕方で定式をやり直してみると問題が見えてくるかも知れません。「構成素の投射」とは、何を意味するのでしょう?外部からの観察が不可能なことは、オートポイエーシス・システムの基本的な性質のはずですが?
> お二人の議論を伺っていると、
> どうもオートポイエーシス論というものが、
> 非常に複雑な方向に誤解されてしまっているように思われます。
投射、あるいは射影(projection)の概念は、マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシスを理解する上での鍵となる重要概念の一つです。
今までの議論でバベルさんと対立する点はありましたが、バベルさんが、オートポイエーシスの原典にきちんと当たられていて、こうした概念も念頭に置いておられるために、議論は有意義なものになったと思っています。
> 「構成素の投射」とは、何を意味するのでしょう?
> 外部からの観察が不可能なことは、
> オートポイエーシス・システムの基本的な性質のはずですが?
コメントで簡単に書くような簡単なことではないのですが、システムの外部からの観察と、「射影(projection)」は、深く関係している概念です。たしかに、「外部からの(完全な)観察が不可能」なのは事実ですが、一切の観察が不可能というわけではないことが重要であり、そこで出てくるのが「位相空間」「射影」という数学のメタファーです。これはオートポイエーシス理論の根幹とも言える重要な概念です。もしこれを否定、あるいは無視するなら、(生命論としての)オートポイエーシスは単なる不可知論や神秘主義であって、学問的な理論としての価値はなくなるでしょう。
もちろん、河本さんのように、ひたすら内的な問題としてオートポイエーシスを理解すれば話は別で、それはそれで一貫することになるわけですが、これとマトゥラーナ&ヴァレラのオートポイエーシスを混同するわけにはいかないと思います。
参考までに、
「具体的なオートポイエティック・システムとの相互作用について述べるとき、私たちはシステムを私たちの操作の空間に射影し、この射影を記述しているのである。このようなことが可能になるのは、私たちは、オートポイエティックな空間には属さずにシステムを構成する要素の性質を通して、オートポイエティック・システムの構成素と相互作用するからである。したがって、私たちは、システムの構成素を修正することによってオートポイエティックの構造を修正していることになる。しかしながら、私たちの記述がたどることができるのは、オートポイエティック・システムをオートポイエティックな空間に射影したものではなく、私たちの記述空間(space of description)に射影したものの次々に起こる変化なのである。」[Maturana & Varela 1973 : 89-90, 訳88相当]
>情報学ブログさん
構成素をシステムの側から記述すると位相空間内部に「投射」される、という理解でやはりいいんですね。「投射された構成素」と「環境世界の構成素」は明らかに異なるものですが、「構成素が構成素に自己言及する」という言い方を残したい関係上、前者も単純に「構成素」と記述したいですね。
やはり用語の問題のような気がします。
>山人さん
僕と情報学ブログさんの対話が成立していることから分かるように、おそらく我々の理解のほうが原典解釈としては正しいはずです。
「外部からの観察が不可能」というのはオートポイエーシス論の正しい記述ですが、これは単純な不可知論として理解してはならないというのは鉄則です(一種の不可知論ですが)。そうでなければ、オートポイエーシス論は、位相空間というありもしない幻想の中でだけで閉じられた酷く陳腐なイデア論に成り下がるでしょう。
ルーマンのマニアである社会学者・三谷さんと論争した者です。 素朴実在論者かつ構造構成主義者のダライ・トマスといいます。
そもそもオートポイエティック・システムは目に見えるものなのでしょうか?観察可能なのは、三次元体としての感覚的個物だけです。観察とはいったい何なのか、そこから議論をはじめないと外部も内部もないと思います。普通に論理的に考えれば、観察は観察対象を外部に前提としています。外部に存在する感覚的個物は観察でき、そのようにして自然科学は発展しました。
しかし、システムやコミュニケーションのように目に見えないものがあたかもあるように思えるのは、自然科学的には脳内神経反応による錯覚に起因しています。 道徳や規範などを論じておられますが、これら全ては実体ではなく、感覚的個物である脳神経が構成したものであり、幻覚・錯覚の1つです。システム論の前提である区別も脳による1つの幻覚・錯覚です。
システム論者は本当の意味で唯物論者を論破していないと思います。
> バベルさん
ちょっと誤解を与えたかもしれないので
確認するのですが、
オートポイエーシスの自己言及性と、
そこから生まれてくる高次の自己言及性は区別されるのが普通です。
「投射された構成素」と「環境世界の構成素」の区別は、
前者の問題としては全く成り立っていないわけですが、
後者の問題としては一応正しいと考えることができるというのが、
上のコメントの趣旨です。
要するに、「オートポイエーシス全般の性質」として言うなら、
いずれにせよ、「環境世界の構成素」という表現は、
正しくないのではないかと思います。
それを踏まえた上であれば、バベルさんの主張に異存はありません。
> ダライトマスさん
おっしゃることは全てシステム論の射程に入っています。
そういったことを踏まえてできたのが、オートポイエーシス論なのです。
ただ、この記事はシステム論についてゼロから解説するようなものではなく、
以下の記事をお読みになっていることを前提に書いているので、
ダライトマスさんのおっしゃる論点については、
きちんと触れられていません。
オートポイエーシスと時間
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html
まずは、こちらの記事をお読みになっていただければと思います。
ダライ・トマスです。お返事ありがとうございます。心を事例にとり、空間以外の内外区別を論じられていた点に興味を持ちました。心=意識が作動したら、意識しているものとそうでないものの区別を論理的に想定せざるを得ないというのはよくわかります。意識内容の内と外ですね。また、そのような境界は空間上での区別と異なるというのも理解できます。心には、定義上、空間的広がりはありません。むしろ、空間的広がりがないからこそ、空間上の内外区別を観察しえると言えるでしょう。そもそも(三次元体/非三次元体)という区別に準拠して観察することは、三次元体を越えた観察点からしかわかりませんから。その意味で、私が素朴実在論者と名乗ることは自らを否定する区別に準拠しているのかもしれません。だから私は、素朴実在論の反対項である構造構成主義も自らマークして思考しています。二刀流です。
確かに時間がポイントですね。先ほどの心の例でいうと、意識の内と外は、時間的にあとからわかるということになりますね。意識が作動している時には、自らの内外区別については盲目としか言いようがありません。後から、あれこれが意識の外にあったと気づきます。現在の観察点から過去を観察することで、わかります。あるいは、他者という異なる観察点から指摘されて自己の内外区別がわかる場合があります。他者と時間は、空間的延長をもたない境界=意味システムを観察するための道具だと言えましょう。もっと簡単に、意識とは時間の流れ=連続作動である、と言い切ったほうがすっきりとします。
確かに、レヴィナスなどの他者論においても、他者は外部でありつつも、空間的に外という意味を超越しています。ただし、いかなる区別からもはみ出る観察不可能な存在として定義されています。むしろ区別を絶対的に否定し、コミュニケーションの頓挫をもたらすものが本当の外部かもしれません。人間にとっては死がそれですね。つい最近まで脳という空間的延長がある物体に全てを還元する思考にはまっていましたが、考え直したいと思います。下のブログに影響を受けてそう考えていました。思想を暫時転向したいと思います。ありがとうございます。
http://musai.blog.ocn.ne.jp/jijimusai/2007/04/post_0713.html
>ダライ・トマスさん
河本先生は心の位相学的外部という表現をとっておられますが、内部観測論の観点からは内部/外部という対立は解消され、境界そのものが消滅するはずです。そうであるとすると、心は内部であり、仮に心の外部という表現が可能であるとすれば、過去に回顧的に観察するか、あるいは同時間でも他者の視点から自己の心を観察するかしかないでしょう。前者も後者も現前する自己以外の地点からの観察である点で共通します。
レヴィナスの他者論も仰る通り同様の思考形式をとるのでしょう。しかし、レヴィナスは自己/他者というコミュニケーションの断絶を「責任」によって埋めます。確かに、自己と他者はコミュニケーションとして断絶せざるを得ませんが、自己は他者に対して責任を負い、他者に対して応えていく必要があります。レヴィナスの他者論の秀逸な部分でしょう。
オートポイエーシス論における他者論も僕はレヴィナス流に解釈すべきだと思います。自己システムと他者システムはそれぞれ内部観測の視点から観察すると相互に環境世界へ区分しあい、自己から他者は「見えない」し、他者から自己も「見えない」です。が、自己と他者は環境世界において相互に前提し、相互浸透の関係にある限度で、「自明に出会いつづけている」ということができます。
自己/他者を対立項として相互に排斥するのではなく、自己/他者を相互に前提にしあう関係性を理論化したのがオートポイエーシス論だと言えるでしょう。
このような「相互浸透アプローチ」は最近、かなり評価が高まっている気がします。
はっきり申し上げて、「システムの射影」ならわかりますが、「構成素の射影」というのは、何のことかわかりません。構成素は外部からの観察が可能だからです。構成素は環境から成っていますから。相互浸透がこれです。システムと環境の関係は常に構成素を介し、環境とシステムの間に直接の関係は存在しません。これが、システムそのものが観察不可能である理由の一つです。ただし、システム自身の立場からは、システム自身の作動が体験できます。ただし、これは自己観察ではありません。観察する自己と観察される自己はまったく別のもののはずです。
オートポイエーシスにおける認知の問題は、マトゥラーナの議論からして再考されるべきであろうと、私は思っています。そもそも、神経システムによるオートポイエーシス的な認知ということは言えるのかどうかすら。マトゥラーナやヴァレラは神経生理学者であるため、生理学的に捉えすぎてしまっているのでは、というのが私の疑念です。神経の電位がどうなろうが、それは生命システムの構成素の変化に他ならないはずです。だとするならば、認識はまったく別のシステムの構成素になるはずなのです。オートポイエーシスの論理を一貫させようとするなら、認知にはマトゥラーナのものとは異なる説明が必要になるでしょう。
> はっきり申し上げて、「システムの射影」ならわかりますが、「構成素の射影」というのは、何のことかわかりません。構成素は外部からの観察が可能だからです。
基本的にはおっしゃる通りだと思います。
「産出関係」そのものは観察不能であるのに対し、「産出関係」を射影され、外部から観察可能になったものが「構成素」ということができるでしょう。したがって、おっしゃる通り「構成素の射影」というのはおかしな表現だと思います。
ただ、元のコメントでは、あえて「構成素を含めた産出関係」という表現をしています。ここで言う構成素というのは、普通の意味での構成素と違うと理解していただければと思います。たしかに、議論を無駄に複雑にしているという批判はまぬがれないと思いますが、バベルさんのやりとりというローカルな状況で使ったものです。
> オートポイエーシスにおける認知の問題は、マトゥラーナの議論からして再考されるべきであろうと、私は思っています。そもそも、神経システムによるオートポイエーシス的な認知ということは言えるのかどうかすら。
このあたりの話はその通りだと思います。そもそも、「神経システムがオートポイエーシスかどうか」というのは微妙な問題であり、一般的な理解に反して、マトゥラーナとヴァレラは、神経システムをオートポイエーシスとみなしていません。このあたりの話は、本文にリンクを貼った「オートポイエーシスと時間」の方で書かせてもらったので、そちらを参照していただけると幸いです。
漫画版「風の谷のナウシカ」のラストについて
に対する
進撃のナウシカさんのコメント
「風の谷のナウシカ」について補足
に対する
異邦人さんのコメント
世界の情報量は求められるのか? (2011/02/19)
WEBRONZAのホメオパシー騒動とメディアの問題 (2011/02/11)
クリスマスという記号 (2010/12/24)
書評:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』について (2010/12/07)
社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠 (2010/09/04)
残念ながら、個人が社会システムの構成素であることは原理的にありえません。あなた自身が述べておられるように、構成素は産出されたものです。したがって、あらゆるオートポイエーシス・システムは、別のオートポイエーシス・システムの構成素ではありえないのです。オートポイエーシス・システムはそれ以外のものによって産出されたものではありえませんから。