情報学ブログアーカイブ→2007年4月の記事をまとめて読む

運命の恋をしようよ

恋愛/情報学/日記・コラム・つぶやき | 2007/04/26

おもしろい記事をネットで見つけました。

いい男が運命の恋をして結婚したい女性像とは
http://www.beautytouch.co.jp/page08-01.html

潮凪洋介さんという方が書いた記事なのですが、文句なしで当たっています。全ての項目が自分が思っていることと同じで、まさに自分の理想の女性像だと思います。

最大の問題は、自分自身が「いい男」ではない(かもしれない)ということ。

男としては、好みの女性のタイプが「いい男に好かれるような、もてる女性」だっていうのは、明らかに良くないことでしょう。要するに、自分にはこんな「理想の女性」のハートを手中にするのは無理なのではないかと、そう思ったわけです(笑)。

ふぅ。

話は変わるのですが、「情報学って恋をすること!!」。自分の大学での講義内容をまとめた、恋愛と情報についての連載記事をブログに書こうと思って準備中です。本来、講義を欠席した学生さんへの参考資料なのですが、学内のLANで公開するだけではもったいないのでブログでも公開しようという企画。パワーポイントだけなら、すぐにでも公開できるのですが、さすがにそれだと不親切なので、文章にしようと思っています。

内容を簡単にまとめると、現代の日本の若者は恋をしてないんじゃないかということ。マスコミによって作られた「理想の女性」「理想の男性」を追い求める、「恋愛普遍主義」に陥って、目の前の人を好きになる本当の「恋」をしてないんじゃないかという問題提起です。そして、それを解決するための方法が「情報学」だというストーリー。

まぁ、本来、自分はそんなことを言うガラではないのですが、「情報」というのが対象に備わるものではなく、それをとらえる主体によって初めて成り立つ関係概念だということ。あるいは「生きること」と関係する概念だということを、大学生にも分かるように説明しようとしたら、いつの間にかそう言う話になっていました(笑)。

潮凪さんの話とはちょうど正反対なのですが、上のリンク先の記事を読んで、「理想の女性」に遠い目になっている時点ですでに負けかも(笑)。グローバリズム恐るべし^^。

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居酒屋の漫談シリーズ(4)―ドミナントストーリーとしての科学

情報学 | 2007/04/23

4/17に飲みながら後輩に話したことのメモ。

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物語論は、歴史哲学、社会学、臨床心理学など、さまざまな分野で扱われる議論である。まとめて言うと、物語論では、<心>や<社会>が物語として描かれる。

物語論で言う物語は、システム論的に言えばシステムにほかならない。システム論のシステム概念は、物語論の物語概念より広いが、ほとんどの意味で包含関係にあると言える。ただし、システム論が物語論と異なるのは、<心>と<社会>が相互循環的にとらえられるという点である。つまり、システムの独立性と閉鎖性の帰結として、<心>には<社会>の働きが含まれ、<社会>には<心>の働きが含まていることになるのである。ここで、<心>にも<社会>にも、さまざまなサブシステム(価値観、視点、見方)があり、それらは、歴史認識、常識、社会規範のようなものを作っている。これらは、それぞれ独立した物語(システム)であるということが重要である。

こういうサブシステムの関係を理解する上で重要な概念としてドミナントストーリーというものがある。ドミナントストーリーというのは、もともと臨床心理学で言われてきた概念であり、クライアントが、自己についての多数の物語を持ち得ることを前提に、通常、治療対象となるような「物語」に対して使われる。ただし、概念そのものの意味として言えば、ある物語がドミナントストーリーであることには、プラスの評価もマイナスの評価も与えるべきではない。その人にとっての主要な自己像のようなものが、ドミナントストーリーである。

さて、こうしたドミナントストーリーの概念をシステム論的に一般化すると、それが、単に<心>の問題なのではなく、<社会>の問題でもあることが分かる。つまり、社会で広く受け入れられている歴史認識、常識、社会規範などは、ある種の「ドミナントストーリー」であり、一般に、システムの自己像の形成に重要な役割を果たすサブシステムのことを、「ドミナントストーリー」と言うことができる。こういう中、現代社会において特に重視される「ドミナントストーリー」は間違いなく「科学」である。科学は、世界の起源、生命の起源について説明する。原始的な社会において、神話のような物語が果たしていた役割を、今日の社会では科学が果たしていると考えることもできる。

科学をドミナントストーリーと考えるということは、科学も一つの見方に過ぎないというような過度な相対化と、普遍的なものとしての絶対化の両方を避けようとするものである。そして、近代科学を前提にした社会がまさにここにあるということ、また、まさにそういう社会の中で私たちが生きているということそのものに注目しようとするものである。

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居酒屋の漫談シリーズ(3)―システム論の立脚点は科学でありえるのか?

情報学 | 2007/04/23

4/17に飲みながら後輩に話したことのメモ。

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システム論の立脚点は、理論上、「システムの存在」そのものであり、日常的な用語に翻訳すれば、「生きている私が<ある>」ということ、あるいは、「私が生きている」ということである。これに対し、「科学」は、こうしてとらえられるシステムの一つであり、それを立脚点にしてシステム論を語ることはできない。

たとえば、ある状況で、二つの価値観(=サブシステム)のどちらを取るか迷ったとする。この状況でどちらを選ぶかを考えるのを、その人の生物としての働きに還元して考えることができる。これは決して間違っていない。たしかに、そうやって考えることもできる。しかし、このように考えるとき、「生物学」というのが、社会システム(=間主観性)の産物であり、問題となる判断に先だって存在するとは言えなくなってしまう。

この問題を解決するためには、「私が生きること」つまり私のシステムにおいて、その判断がなされると考えないといけない。一般に複数のシステムの価値は相対的であり、優劣を付けることができないのであるが、<私>というシステムにおいて、判断がなされていくのである。つまり、システムの判断は、普遍的な判断ではないが、そのシステムにおける絶対的な判断である。

このとき、判断の主体は、システム一般なのだから、ヒトや科学を特別視する必要はない。こうした判断が、学問システムにおいてなされるとき、「生物学」を含めた科学が立ち現れるし、イヌにおいてなされるとき、そのイヌにとっての「生」が立ち現れる。システム論的に言えば、システムの立脚点はシステムの存在そのものであり、日常的な用語に翻訳すれば、「生きている私が<ある>」ということである。

ちなみに、西垣通は、「生物学的ヒト」を出発点にする情報理論を展開している。これについて私は、「そういう視点から考えることもできる」という意味で、受け入れることもできるが、思想的な観点から、それを字義通りに受け止めるわけにはいかない。ただし、そもそも、西垣が「生物学的ヒト」の概念を持ち出す趣旨は、「生きること」であり、「科学」を持ち出さなくても情報学の議論の本筋を変える必要はないということができる。

一方、現代社会において、なぜ、価値判断の主体として、「生物学的ヒト」や「ヒトの心」が特別視されるのかという問題については、以上の議論を前提にした上で、別に考える必要はある。これも含めて考えると、結果として西垣の議論と同じところにたどり着くことになる。

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居酒屋の漫談シリーズ(2)―技術決定論とその批判についてのシステム論的解釈

情報学 | 2007/04/23

4/17に飲みながら後輩に話したことのメモ。

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技術決定論は、一つの視点からとらえたときに、そのように見えるということで、議論として間違っているわけではない。一方、当然のことながら、それが一面的なものであるという批判は、また、正しいものである。

これは、遺伝子決定論と全く同じ構造になっている。つまり、生物学的な視点から見れば、人間の性質は全て遺伝的・先天的なものとしてとらえることができる。また、別の視点から見れば、人間の性質は全て環境的・後天的なものとしてとらえることができる。これらは両立可能であって、どちらが正しいとか、間違っているという話ではない。

佐倉統氏の比喩を借りれば、「作曲家と演奏家」の関係だと言うことができる。コンサートの演奏のどの程度が作曲家の影響によるものであり、どの程度が演奏家の影響によるものであるかを考えるのはナンセンスである。

これらは「ある視点から見ると全てその立場からとらえられる」というシステムの性質、すなわちシステムの独立性と閉鎖性の立場から理解されるものだと言える。つまり、ナイーブな技術決定論や、ナイーブな技術決定論批判はどちらも、こうした「視点=システム」の問題を無視し、単一の視点から世界全体を眺める間違いを犯している。

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居酒屋の漫談シリーズ(1)―ポストモダン思想は発生の問題を扱えないという批判について

情報学 | 2007/04/23

4/17に飲みながら後輩に話したことのメモ。

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ポストモダン思想という一般化がどこまで正しいかは分からないが、システム論について言う限り、「発生の問題を扱えない」という批判は的を射たものではない。そして、おそらく、この議論はハイデガーの影響を受けたポストモダン思想全般に当てはまる。

というのも、システム論の出発点は、「無時間的な存在」であるが、ここでは、時間軸をナイーブに仮定して、それをもとに対象を理解するような方法自体が批判されていることになる。したがって、こうした議論において、発生の問題を扱えないのは当然のことであり、
「発生の問題」をナイーブにとらえようとする態度の方が批判されるべきということになる。

ただし、情報学においては、時間の問題を議論に組み込むことで、「発生の問題を扱うような視点」についても理解することができると思われる。これは、特に進化と情報の関係についての議論に典型的に現れている。

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オートポイエーシスの階層性と閉鎖性

システム論 | 2007/04/04

この記事では、オートポイエーシスの階層性と閉鎖性は矛盾しないという、基本的だが、全くと言って良いほど誤解されている考え方について説明します。これは、社会システムの構造を理解する上で重要なのはもちろん、社会システムの構成素をコミュニケーションとする理由を始め、さまざまな問題とかかわる非常に重要な論点です。

○目次

(1) 階層性と閉鎖性の問題
(2) マトゥラーナとヴァレラにおける作動と構成素
(3) コミュニケーション・システムにおける作動と構成素
(4) 社会システムの構成素はなぜコミュニケーションなのか

/////

(1) 階層性と閉鎖性の問題

オートポイエーシスでは、一つ一つの作動が世界全体とかかわるような形で存在しているのであり、システムそのものも、物理的には世界全体を占めるものとしてとらえられます。そして、だからこそ、システムは常に閉じているのです。(*1)

システムが閉じているというとき、階層性については議論することができません。物理的に言えば、あらゆるシステムが世界全体なのですから、そこに、階層性が見いだせるはずがないでしょう。

しかし、それにもかかわらず、ある種のシステムは、階層的に存在しているように思えます。たとえば、マトゥラーナとヴァレラは、分子レベルではなく、細胞レベルの産出関係もオートポイエーシスだと考えているわけですが、両者は、階層関係を作っているように思えます。また、コミュニケーションのシステムとしての社会は、家族、企業、国など、さまざまなレベルで存在しているように思えるわけですが、これらはやはり階層的であるように思えます。また、法システム、経済システムのようなシステムは、社会システム全体と階層構造を作っているように思えます。

では、こうしてオートポイエーシスを階層的にとらえる見方は間違っているのでしょうか。この記事では、オートポイエーシスが閉鎖的であることと、階層的であるということは、実は全く矛盾しないということを示します。

ちなみに、この記事は、以前に書いた記事「オートポイエーシスと時間」の続編として書いたものですので、前の記事と合わせて読んでいただければと思います。特に、この記事で言う「オートポイエーシス」は、河本英夫氏の主張する、広義の「オートポイエーシス」と区別される、時間的なオートポイエーシスであり、広義のオートポイエーシスには適用されないものなので、最初に、このことを確認しておきたいと思います。(*2)

*1 オートポイエーシスと時間
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html

*2 同上 (8)

(2) マトゥラーナとヴァレラにおける作動と構成素

オートポイエーシスにおいて、作動は世界全体とかかわるものとしてとらえられるわけですが、一方、生命システムのオートポイエーシスの場合、作動は分子や細胞の産出であり、分子は特定の空間的な拡がりを持つものです。ここで、「産出プロセス」である作動と、「産出されたもの」としての構成素は、区別されないといけないでしょう。というのも、産出プロセスとしての作動は、世界全体とかかわる「閉じた」ものですが、産出された物質としてシステムをとらえればそこには内部と外部があり、「開かれた」ものと言うことができるわけです。

マトゥラーナとヴァレラは、オートポイエーシスを説明するに当たって、次のように述べています。

環境とのフィードバックループを持ち、出力が入力に影響するような機械Mを考えるとする。このとき、実は、環境やフィードバックループを構成として持つ、より大きな機械M'について考えていると言うことができる。(*1)

ここで、Mを考えるのが、「構成素」の集まりとしてシステムをとらえる見方であり、M'を考えるのが産出プロセスとしての作動を考えるオートポイエーシスの見方です。

このように考えると、物理空間上に実現するオートポイエーシスが作動のレベルでの階層性を持たない一方、これが構成素のレベルで階層性を持つことを一切妨げないものであることが分かります。

たとえば、マトゥラーナとヴァレラは、分子レベルでのオートポイエーシスのほかに、これらが作る高次のオートポイエーシスとして、細胞レベルでのオートポイエーシスや、単細胞生物の個体レベルでのオートポイエーシスを考えています(*2)。また、人間のような多細胞生物の個体を構成素とするオートポイエーシスも、さらに高次のオートポイエーシスとして考えることができるでしょう(*3)。これらは明らかに「階層的」なオートポイエーシスと言うことができると思います。

ここで重要なのは、こうした階層性が構成素レベルのものであって、作動のレベルで考えれば、そこに一切の階層性が認められないということです。もちろん、オートポイエーシスは、構成素ではなく、作動としてシステムをとらえる理論ですから、直接的には「階層性が存在しない」ということが強調されるのは当然です。しかし、そのことと、構成素についての階層性は明確に区別しないといけないわけです。

特に、誤解されているように思えるのは、社会の自律性と個体の自律性の関係についてです。一部には、個体を構成素とするオートポイエーシスを考えると、オートポイエーシスとしての個体の自律性が損なわれるというような見方があるようですが、これは明らかに間違いでしょう。社会の構成素として個体を想定したとしても、それは個体の自律性を損なうようなものではないからです。(*4)(*5)

*1 [Maturana & Varela 1973 : 78]。この部分についての(若干)詳しい議論は、「オートポイエーシスと時間」の(3)を参照。
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html

*2 [Maturana & Varela 1973 : 107-111]。

*3 多細胞生物の産出からなるシステム、つまり社会について、マトゥラーナは、オートポイエーシスと呼ぶ一方[Maturana 1980 : xxiv-xxx]、ヴァレラは「化学的産出」ではないことなどを理由に、オートポイエーシスではなく、自律システムと呼んでいます[Varela 1979 : 54]。こうしたヴァレラの立場の背景には、人間を社会に従属するものとしてみなすことに対する反発があったということは良く知られていますが、理論的に考える限り、同じく物質からなる細胞と個体を区別するのは困難でしょう。

*4 マトゥラーナがこうした立場を取っていたことは良く知られていますが、単純に、ヴァレラがこうした立場を否定しているかのような見方もかなり誤解を含んでいます。たしかに、ヴァレラは、個体の集まりとしての社会をオートポイエーシスとして呼ぶことを拒否しているわけですが、それを自律システムだとすることは認めています。ここで、ヴァレラにとっても、こうした社会システムの存在が、個人の自律性を損なうものではないことは明らかなのです。ヴァレラの議論において、個体を構成素とする社会システムがオートポイエーシスかどうかという問題と、個体の自律性の問題は、論理的に分けて考える必要があるでしょう。

*5 最初に確認したように、この議論は、河本英夫氏が主張する広義のオートポイエーシスと、マトゥラーナとヴァレラの物質的なオートポイエーシスを区別することによって可能になります。詳しくは、「オートポイエーシスと時間」の(5)-(8)。

(3) コミュニケーション・システムにおける作動と構成素

こうした考察に基づいて考えれば、コミュニケーションを構成素とする社会システムの階層性についても全く問題なく理解できることが分かります。

前の記事で述べたように(*1)、コミュニケーションを構成素とするシステムの特徴は、物質的、空間的なものに限定されていたオートポイエーシスを、非物質的なものに拡張したことにあるわけなので、マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシスのように、空間的な問題として階層性を議論することはできません。しかし、コミュニケーションは、「~についての」という形で分類することができる―少なくともそのようにとらえることができる―という特徴を持つものということはできるでしょう。

たとえば、コミュニケーションを「経済についてのコミュニケーション」「法についてのコミュニケーション」といった形に分類すれば、それぞれのコミュニケーションを構成素とするシステムを想定することができます。これは、ルーマンが機能的分化システムと呼んだシステムに相当すると思います。一方、コミュニケーションを、総務課のコミュニケーション、仙台支社のコミュニケーションといった形で分類すれば、企業組織についての階層的なシステムを考えることができるでしょう。

大きく分けると、コミュニケーションは、機能について(話題を含む)と、組織についての二つの立場から分類することができるのであり、この両者は複合的な階層構造を作っているわけです。(*2)

ここでも、作動と構成素の区別ということは重要です。作動というレベルで言えば、これらのシステムに一切の階層性はありません。これらのシステムの作動はそれぞれが世界全体とかかわるような形で存在しているのであり、社会システムと法システム、企業のシステムと総務課のシステムの間でさえ、階層性を認めることができないのです。そして、オートポイエーシスの構成素が作動である以上、このことはどんなに強調されても、強調され過ぎることはないでしょう。しかし、このことは、構成素であるコミュニケーションに注目して、その階層性を考えることを否定するものではないのです。

*1 「オートポイエーシスと時間」(5)および(8)の図1。

*2 この見方は、問題を単純化し過ぎているとも言えます。実際には、もっと複雑な階層性を考える必要があるでしょう。

(4) 社会システムの構成素はなぜコミュニケーションなのか

このことは、社会システムの構成素として「コミュニケーション」を考えないといけない理由そのものとも深く関係しています。

社会をオートポイエーシスとしてとらえるという目的に関して言えば、社会の構成素は、個体でも全く問題がないのです。一部に、個体を社会の構成素とすると個体の自律性が損なわれるため、社会の構成素はコミュニケーションでなければいけないというような主張をする人がいるようですが、これは少なくともオートポイエーシス理論の立場からは間違っています。すでに述べたように、個体を構成素する社会システムを考えたとしても、それは個体の自律性を損なうようなものではないからです。もしもこの主張を受け入れるのなら、そこで言われている「自律性」は、オートポイエーシス理論における自律性とは異なる概念だということになるでしょう。

では、社会システムの構成素をコミュニケーションとすることには、どういう意味があるのでしょうか。コミュニケーションを構成素とする社会システムと、個体を構成素とする社会システムは、どちらも理論的に正しい一方、それぞれのモデルで説明できることには大きな違いがあります。

個体を構成素とした社会システムを考える場合、そこで議論できるのは、一義的には、「個体の生成と消滅」およびそれと関連する事象についてです。たとえば、生物学的な進化の議論をしているとき、ある形質を持った生物がどれだけ生き残り易いのか、あるいは次の世代にどれだけ生まれてくるかということが問題にされるわけですが、このとき、個体を構成素とするシステムが見いだされているわけです。こういったシステムをオートポイエーシスと言うことができることは、マトゥラーナとヴァレラがオートポイエーシスと進化の関係に言及していることからも明らかです(*1)。

一方、こうした議論は、人間の社会についても当てはめることができます。出生率や死亡率の問題について議論しているとき、たとえば、戦争に言って兵士が何人死ぬはずだから、それに向けて、出生率を向上させないといけないというようなことについて議論しているとき、その人は、社会を個体を構成素としたシステムとして見ているわけです。その意味で、個人を構成素とする社会システムは、オートポイエティックなシステムと言うことができます。

しかし、このことは逆に、個体を構成素として社会を考えたときに、非常に限定した問題しか扱えなくなるということも示しています。私たちが、社会についての議論するとき、それが出生率や死亡率の問題であることはむしろ稀でしょう。自由や権利について議論しているとき、政治について議論しているとき、あるいは経済について議論しているとき、単に人間の生成・消滅だけが問題にされているわけではありません。そして、こういう状況を分析するのに必要なのが、「コミュニケーションを構成素とする社会システム」という見方なのです。(*2)

要するに、純粋にオートポイエーシスとしての成立可能性ということに言えば、個体を構成素とする社会システムと、コミュニケーションを構成素とする社会システムに優劣を付けることはできません。また、それぞれのモデルは説明できる問題が違うのであり、その意味でも優劣を付けることはできないでしょう(*3)。ただし、私たちが直面しているような多くの社会の問題を理解するためには、コミュニケーションを構成素とする社会システムのモデルが適切なのです。このことは、オートポイエーシスを理解する上でも、社会システム論について理解する上でも、非常に重要なことではないかと思います。

*1 [Maturana & Varela 1973 : 102-107]

*2 ちなみに、社会の構成素をコミュニケーションとするメリットとしては、社会分析における有効性のほかに、主観性―客観性(間主観性)の問題や、物語論、エクリチュール論などとの接続が考えられると思います。これについては話が複雑になるので、別の機会にあらためて書くことにしたいと思います。

*3 本文には「優劣を付けられない」と書きましたが、これはあくまでオートポイエーシスの理論上の問題としてです。出生と死亡の問題としてしか社会を理解できないようなモデルが、あまり有効ではないどころか、有害にもなるものだということはあらためて言うまでもないでしょう。特に、このことは、フェミニズムや優生思想との関係において重要ではないかと思います。しかしいずれにせよ、両者の優劣を決めるのは、オートポイエーシス理論の枠外の問題だということは言えるでしょう。

○参考文献

Maturana, H. R. et Vaerala, F. J. 1973 "Autopoiesis―the Organization of the Living" in [Maturana & Varela 1980]

Maturana, H. R 1980 "Preface" in [Maturana & Varela 1980]

Maturana, H. R. et Varela, F. J. 1980 "Autopoiesis and Cognition: the Realization of the Living" D. Riedel Pub.

Varela, F. J. 1979 "Principles of Biological Autonomy" Elsevier

オートポイエーシスと時間/情報学ブログ
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html

○ブログ紹介

(i) なんでコミュニケイションが社会的システムの要素だといえるの?/尼克拉斯魯曼全百科
http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070112/p4

先輩の知り合いのルーマン研究者の方のブログです。もともと、(4)は別の記事にしようと思っていたものですが、この記事に絡んでみようと思って書き加えたものです。いずれにせよ、そろそろ自分もちゃんとルーマンを勉強しないとダメですね(笑)。

(ii) 人間と社会/社会学者の研究メモ
http://d.hatena.ne.jp/jtsutsui/20070220/1171982100

冒頭で、「社会は人間に還元できるか(中略)こういう問は、それが発せられる文脈によって全く答えが変わってくる」と書いてありますが、おっしゃる通りだと思います。本文の(4)で書いた通りです。

一方、

私自身はここで、「いや、人間は自分の構成物(社会)を原理的に把握できない」と言ってしまうよりも、ここでも経済学と同じく限界革命を導入して、「そんなのふつうはコストがかかりすぎて無理」というふうに考えた方が有用だと思う。

本文の冒頭に書いたように、オートポイエーシス理論は、一つ一つの作動(たとえば、人間の誕生やコミュケーションの生成)は、世界全体とかかわるような形で存在していて、作動やシステムを完全に記述するのは不可能だという事態を出発点にするわけです。「私自身は…」と書かれてある上の引用部を否定するわけではありませんが、この視点が「有用」かどうかは、やはり「それが発せられる問いによって全く答えが変わってくる」というのが、正しいところではないかと思います。

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サイバネティクスとオートポイエーシス―コンピュータは生命の領域にどこまで踏み込めるのか?

システム論 | 2007/04/02

コンピュータやネットワークどういう意味で生命と同じで、どういう意味で違うのしょうか。このことは、人工知能の実現可能性ともかかわる重要な問題であり、情報技術にかかわる多くの人が興味を持つところではないかと思います。今回の記事では、サイバネティクスを起源として生まれてきたシステム論である「オートポイエーシス理論」を手がかりして、このことについて考えてみたいと思います。

○目次

(1) オートポイエーシスと文脈
(2) 作動としてのコンピュータ
(3) システムの相互作用と環境概念
(4) サイバネティクスとオートポイエーシス
(5) オートポイエーシスにおける情報概念
(6) コンピュータは生命になれるのか

/////

(1) オートポイエーシスと文脈

オートポイエーシスについては、前回の記事で基本的な説明をさせてもらいましたので(*1)、詳しくは元の記事を参照してほしいのですが、いくつか重要なポイントをまとめることにします。

オートポイエーシスは、システムを何らかの「作動」の集まりとしてとらえることで、システムを閉じたものとしてとらえるという特徴を持ったシステム論です。たとえば、コミュニケーションのつながりが社会を作っているととらえたり、タンパク質やDNAといった物質の産出プロセスのつながりが生命を作っているというように考えるわけです。

ここで重要なのは、システムの「作動」を、単に空間的にある場所に収まるものとしてとらえるのではなく、作動の文脈の全体、つまり、世界全体とかかわるものとしてとらえているという点です。作動が世界全体とかかわるものとしてとらえているとき、作動の集まりであるシステムは常に「閉鎖的」ということになるでしょう。

ただし、オートポイエーシスに大きく分けて二つの立場があります(*2)。一つはマトゥラーナ&ヴァレラのように、システムの作動を「物質の産出」に限定するとらえ方、一方、もう一つは、ルーマンのように、「物質の産出」に限らない作動を考える立場があります。この違いは、コンピュータとオートポイエーシスの関係を考える上で非常に重要なのです。

*1 オートポイエーシスと時間
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html

*2 上記の記事の (5)のあたりを参照。ちなみに、前回の記事では、主に「時間的/非時間的」という軸でオートポイエーシスを議論しましたが、今回の記事では「物質的/非物質的」という違いがメインになります。

(2) 作動としてのコンピュータ

PCを自作したことがある人なら、コンピュータはCPU、ハードディスク、マザーボード、メモリといった要素に分解できるものだと考えるかもしれません。このようにとらえる限り、コンピュータはオートポイエーシスではないでしょう。この場合、システムは作動としてではなく、単に「もの」の集まりとしてしかとらえられていないからです。

しかし、全く別のとらえ方をすることもできます。たとえば、パソコンのCPUでは機械語の「命令」が次々に解釈されています。一つ一つの命令の解釈は、最終的にメモリやハードディスクへの読み書きにつながったり、計算につながったりするわけですが、CPU自体は、ひたすら命令を解釈しているに過ぎません。そして、次にどのような命令を解釈するかは、一義的にその前の命令の解釈の結果によります。コンピュータの起動によって最初の命令が解釈され、その命令によって次々に新しい命令が解釈されるというプロセスの全体としてコンピュータをとらえることができるでしょう。これを「命令解釈のシステム」と言うことにします。

一方、同じようなことは、もっと別のレベルでも行われています。一般にプログラムは、「関数」と言われるプログラムの小さなまとまりの集まりとして書かれているのですが、プログラムが動くときには、常にさまざまな関数が呼び出されています。関数を呼び出すのは、別の関数であり、関数呼び出しの全体としてプログラムが動いているのです。コンピュータのOSが起動するとき、最初の関数が呼び出され、それを契機としてさまざまな関数が呼び出され続ける、そういうシステムとしてコンピュータを考えることもできます。これを「関数呼び出しのシステム」と言うことにします。

ここで、重要なことは、命令解釈や関数の呼び出しを、世界全体とかかわっているものとしてとらえることができるという点です。たとえば、今、あなたのコンピュータでどのような命令が解釈され、どのような関数呼び出しが起きるかは、あなたの行動はもちろん、そこから離れた場所にいる筆者の行動にも大きく影響されています。私がこの記事を書かなければ、あなたのコンピュータは今とは別の命令を解釈しているのは間違いないでしょう。一方、あなたのコンピュータの命令解釈や関数呼び出しは、あなたの行動に影響を与えるし、それによって世界を変えることがあるかもしれません。コンピュータの命令解釈や関数呼び出しをこうした形でとらえるのなら、それは明らかに自律的な作動であり、その全体としてのシステムは、オートポイエーシスとしてとらえることができるでしょう。(*1)

このことは、コンピュータだけではなく、ネットワークについても成り立ちます。ネットワークは、分かりやすいところで言えば、パケットと呼ばれるデータのまとまり(携帯電話の課金システムと関係しているので、専門家ではなくても、多くの人が知っていることでしょう)の送信のシステムとみなすことができます。たとえば、Webサーバーに「これこれこうしたデータを送って」というパケットを送れば、それに対して、要求した内容のデータが送られてくるわけです(*2)。ここで、送られてきたパケットの内容次第で、次に送られるパケットが決まるという意味で、パケット送信のシステムとしてのネットワークシステムは自律的なシステムと言えます。

ここでも重要なのは、送られてきたパケットの内容次第で、次に送られるパケットが決まると言っても、前に送られてきたパケットの内容だけから、次のパケットの内容が決まるわけではないということでしょう。そこには、コンピュータを操作する人間を含めた、さまざまな要素がかかわっています。たとえば、イラク戦争が勃発すれば、世界中のネットワークで、イラク戦争とかかわるパケットが送られるわけです。また、たった一つパケットによって、世界が混乱に陥ることだって考えられるでしょう。こういった世界全体とのかかわりを含めてシステムの作動=パケット送信としてとらえれば、それは自律的なシステムとしか言いようがないわけです。こういう意味で、コンピュータのネットワークもまた、自律的なシステム、オートポイエーシスと言うことができると思います。

*1 本文では、機械語レベルの命令解釈と、関数呼び出しという2つの例を出したわけですが、実際にはもっと多くの階層からなっています。一部のCPUでは、機械語としての命令を解釈するために、内部で別の命令(マイクロコード)が解釈されているし、Windowsのシステムであれば、COMモジュールの呼び出しやDLLの呼び出しなどがあります。これらの中にはコンピュータが起動している最中、ずっと自律的に作動しているものもあれば、そうではないものもあるわけですが、いずれにせよ、何らかの形で自律的なシステムを作っていると考えることもできます。

*2 ネットワークは通常もっと複雑な階層からなるシステムとしてとらえられます。Webサーバーの作動は、通常もっと高次の階層でとらえられるわけですが、ここでは全てパケットに単純化しています。

(3) システムの相互作用と環境概念

オートポイエーシス理論で言われる「環境」の概念は、通常の用法と違っていて分かりづらいので、あまり使わないようにしているのですが、一般的な議論と接続する上で、簡単に指摘しておくことにします。

オートポイエーシスの作動には、「環境とシステム自身を区別する」という働きがあるわけですが、これはコンピュータについても成り立っています。作動は、作動がそれ自体作動であるのに対して、作動ではないものが作動ではないと言う意味で、「環境とシステム自身を区別する」からです。一部では、「環境とシステム自身を区別する」という言葉が一人歩きして、生気論的、神秘的なものとして理解されているような気がするのですが、これは本来、作動の定義から必然的に導かれる考え方であって、完全に機械論的なものです。いすれにぜよ、オートポイエーシスとそうではないものを区分するようなものではないわけです。(*1)

こういう立場からすると、システムの相互作用についても明確に理解することができるでしょう(*2)。前述したさまざまなシステムは、それぞれ他のシステムから見ると「環境」となるわけです。一般に、異なる2つのシステムは相互にとって環境だとするのが、オートポイエーシスの考え方です。

このことは、当然のことながら、コンピュータ以外のものを含めたシステムとの関係についても成り立ちます。たとえば、コンピュータとユーザのやりとりのシステムを考えたとき、このシステムは、命令解釈のシステムとしてのコンピュータからすると「環境」ということになります。もちろん、コンピュータとユーザのやりとりというシステムからすると、命令解釈のシステムは、環境になるでしょう。

*1 詳しくは「オートポイエーシスと時間」(4)を参照
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html

*2 この前の段落の「オートポイエーシスの作動には、」以降、この注の箇所まで、追加しました(2007/4/4 15:45)。

(4) サイバネティクスとオートポイエーシス

さて、こうしてコンピュータをオートポイエーシスとする見方は、オートポイエーシスの常識からかけ離れていると思う人がいるかもしれません。というのも、マトゥラーナとヴァレラは、オートポイエーシスを生命論として提示したのであり、コンピュータがオートポイエーシスとするのは、この前提を完全に覆すものだからです。

しかし、私は決して変わったことを提案しているわけではないのです。この記事の冒頭に掲げたように、オートポイエーシスには二つの解釈があります。マトゥラーナとヴァレラは、「物質の産出」としてのオートポイエーシスを考えたのに対し、ルーマンはより広い意味でのオートポイエーシスを考えました。マトゥラーナとヴァレラは、システムの作動を「物質の産出」に限定することで、オートポイエーシスを生命論として構築しようとしたのであり、この条件を外したルーマンのようなオートポイエーシスは、すでに生命論とは言えないということができるでしょう。

要するに、コンピュータ・システムやネットワーク・システムの作動は、新しい物質を産み出すようない以上、マトゥラーナとヴァレラの言う生命論的なオートポイエーシスではありません。しかし、それがルーマン的な意味での非生命論的なオートポイエーシスであることに、何ら問題はないのです。

ここで重要なのが、オートポイエーシスが、歴史的にサイバネティクスを踏まえて提示されたものであるということです。つまり、オートポイエーシス理論において、コンピュータをシステムとするような見方はすでに前提になっていたのであり、それをモデルとした上で、「物質の産出」を条件とする生命論としてのオートポイエーシスが提示されたと言えるでしょう。特に、ヴァレラは、オートポイエーシスを、積極的にサイバネティクスのモデルで説明しています(*1)。そして、このことは、特にヴァレラが、ルーマンのようなオートポイエーシスの拡大解釈に批判的だったことと関係しているかもしれません。「物質の産出」という条件を外してオートポイエーシスを考えるルーマンの議論は、ヴァレラにとっては、「先祖返り」のようなものであり、感覚的にも許し難かったのかもしれない、という解釈ができるからです。(*2)

その意味で、コンピュータがオートポイエーシスだというのは、決して特殊な結論ではなく、歴史的に見て当然のことであるとも言えるでしょう。これは、オートポイエーシスを非物質的なものにまで拡大したことの必然的な帰結と言うことができるからです。

*1 ヴァレラがオートポイエーシスのモデルにサイバネティクスを採用していることについては、[Varela 1979 : 9]。ちなみに、[Maturana & Varela 1973]では、サイバネティクスとの関係について触れられていません。

*2 余談ですが、機械語の命令(instructions)は、命令の種類を示す、オペコード(operation code)と、その命令が対象とするデータを表すオペランド(operand)に分けられるとされます。自然言語における動詞と目的語の関係で、動詞に相当するのがoperation code、目的語に相当するのがoperandです。要するに、機械語の命令というのは、そもそもoperationを行うものであるわけですが、operationという単語は、オートポイエーシスの作動を示すoperationでもあります。これについてVarelaは何も指摘していませんが、機械語は『形式の法則』より以前、コンピュータのかなり初期からあったものであることを考えると、単なる偶然ではないかもしれません。

(5) オートポイエーシスにおける情報概念

では、コンピュータと社会システムはどういう意味で共通していて、どういう意味で異なるのでしょうか。これを考えるために、もう一度、オートポイエーシスの議論について整理しておくことにしましょう。

この記事では、オートポイエーシスを、マトゥラーナとヴァレラのような物質的、生命論的ななものと、ルーマンのように非物質的、非生命論的なものに分けて議論してきました。ただ、正確に言うと、「物質的」ではないシステムの出発点は、ルーマンというわけではありません。前の記事でも書いたように、マトゥラーナとヴァレラは、非物質的なシステム、つまりオートポイエーシスではないシステムを扱っており、その例として神経システムを例示しています。ルーマンの非物質的なオートポイエーシスは、神経システムに近いものです。

ここで、コンピュータと神経システムはどのように違うのでしょうか。これを考えるためには、前の記事の最後ので指摘したようなシステム論と情報概念との関係について触れないわけにはいきません。

前の記事で指摘したように、(時間的な)神経システムとコンピュータ、さらに生命システム(狭義の物質的なオートポイエーシス)、ルーマン的システム(心的システムや社会システム)と言った「時間的システム」の全てに共通するのは、作動を「パターン」としてとらえることが必須だという点でした(*1)。そして、この点に関しても、結局のところ、コンピュータと神経システム、生命システム、ルーマン的システムに違いはないのは明らかでしょう。ただし、両者には「パターン」の性質に決定的な違いがあります。それは、コンピュータ以外の時間的システムにおいては、パターンの意味が可塑的であるのに対し、コンピュータの作動の場合、パターンの意味が固定的であるという点です。(*2)

これは、この記事の最初で論じた「文脈」という言葉の解釈と深く関係しています。すでに述べたように、システムの作動が世界全体とかかわって成立しているということ自体に注目するのなら、コンピュータの作動は文脈依存的でしょう。しかし、パターンとその意味の関係、要するに意味するもの―意味されるものという二つの「情報」の関係に注目すれば、コンピュータにおいて、意味するもの―意味されるものの関係が固定的であるのに対し、生命システム・神経システム・ルーマン的システムにおいては、この関係が可塑的、文脈依存的であることが分かります。そして、この点において初めて、コンピュータと、他のシステムの違いを見いだすことができるのです。つまり、コンピュータと生命システム・神経システム・ルーマン的システムの違いは、システムの作動を「パターンとしての情報」とし、意味するもの―意味されるものの関係としてとらえる情報学の視点によって、初めて理解されると言うことができるでしょう。

*1 以下の記事の(9)を参照。
オートポイエーシスと時間
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_7571.html

*2 情報の意味の固定化のプロセスについては、[西垣 1999]に詳しいでしょう。西垣は、情報を「生命情報」「社会情報」「機械情報」に分類した上で、生命にとってのパターンである「生命情報」が固定化されて「機械情報」となっていくプロセスについて論じています。

(6) コンピュータは生命になれるのか

ここで、以上の考察をもとに、この記事のタイトルである「コンピュータはどこまで生命の領域に踏み込めるか」という問題について考えてみたいと思います。

コンピュータと、神経システム・生命システム、心や社会といったシステムとの間の本質的違いは、そこで扱われている情報の意味が固定化されているかどうかという点においてでした。ということは「意味」を固定化しないような情報を扱えるようなコンピュータを作れば、そこでは、神経システムや、生命システム、心や社会と同じ意味でのオートポイエーシスが実現されていると言うことができるでしょう。

人工知能の研究で名を馳せたウィノグラードは、後に自己批判として論理操作の体系としてのコンピュータが、こうした文脈の問題を簡単には扱えないということを論じます(*1)。これを、この記事の議論に引きつけて言えば、次のようになるでしょう。つまり、生命システムや人間の心が扱う情報、つまり、可塑的な意味を持つ情報は、たった一つの情報であっても、現在のコンピュータが扱うような固定的な情報で表すと、莫大なものになります。したがって、生命システムや神経システム、心や社会の働きは、コンピュータを擬似的に再現(エミュレート)するのに膨大な計算量が必要で、ごく単純なシステムであってもその一部しかとらえることができないでしょう。現在一般的な、論理操作をベースとするコンピュータを前提にする限り、何らかの形で生命のプロセスを擬似的に再現(エミュレート)することができたとしても、それはある限定的な状況においてでしかないのです。

ただし、これは論理的には、将来、より生命に近いコンピュータが実現する可能性を否定するわけではありません。ウィノグラードの議論も、上記の私の議論も、あくまで「論理操作」をベースとするコンピュータの話であり、将来、そうではないタイプのコンピュータが出現すれば、この前提自体が覆されるからです。具体的には、意味の可塑性を、エミュレートとしてではなく、直接的に扱う技術が開発されれば、従来の人工知能の枠組みを超えた、新しいタイプのコンピュータを作ることができるでしょう。

そうなったとき、私たちはコンピュータと知的な会話を楽しんだり、新しい製品を開発させたり、小説を書かせたりすることができるのでしょうか。あるいはそのとき、コンピュータは、人間と対等に意見を言ったり、権利を主張したりするのでしょうか。

これについては、今ここで答えることはできません。というのも、今のところ「意味の可塑性」を直接的に扱うコンピュータが開発されているという話は聞いたことはなく、その意味で、「コンピュータは生命になれるのか」とい問いも、未来に属するものと考えるほかないからです。

*1 [Winograd & Flores 1986]。ちなみに、ウィノグラードはこの中でマトゥラーナの神経システムやオートポイエーシスについても言及しています(同書、第4章)。

○参考文献

Maturana, H. R. et Vaerala, F. J. 1973 "Autopoiesis―the Organization of the Living in [Maturana & Varela 1980]

Maturana, H. R. et Varela, F. J. 1980 "Autopoiesis and Cognition: the Realization of the Living" D. Riedel Pub.

Varela, F. J. 1979 "Principles of Biological Autonomy" Elsevier

西垣通 1999『こころの情報学』ちくま新書

Winograd, T. et Flores, F. 1986 "Understanding Computers and Cognition: A New Foundation for Design" Ablex Pub. 平賀譲訳 1989『コンピュータと認知を理解する―人工知能の限界と新しい設計理念』産業図書

オートポイエーシスと時間/情報学ブログ
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