居酒屋の漫談シリーズ(3)―システム論の立脚点は科学でありえるのか?

情報学 | 2007/04/23

4/17に飲みながら後輩に話したことのメモ。

/////

システム論の立脚点は、理論上、「システムの存在」そのものであり、日常的な用語に翻訳すれば、「生きている私が<ある>」ということ、あるいは、「私が生きている」ということである。これに対し、「科学」は、こうしてとらえられるシステムの一つであり、それを立脚点にしてシステム論を語ることはできない。

たとえば、ある状況で、二つの価値観(=サブシステム)のどちらを取るか迷ったとする。この状況でどちらを選ぶかを考えるのを、その人の生物としての働きに還元して考えることができる。これは決して間違っていない。たしかに、そうやって考えることもできる。しかし、このように考えるとき、「生物学」というのが、社会システム(=間主観性)の産物であり、問題となる判断に先だって存在するとは言えなくなってしまう。

この問題を解決するためには、「私が生きること」つまり私のシステムにおいて、その判断がなされると考えないといけない。一般に複数のシステムの価値は相対的であり、優劣を付けることができないのであるが、<私>というシステムにおいて、判断がなされていくのである。つまり、システムの判断は、普遍的な判断ではないが、そのシステムにおける絶対的な判断である。

このとき、判断の主体は、システム一般なのだから、ヒトや科学を特別視する必要はない。こうした判断が、学問システムにおいてなされるとき、「生物学」を含めた科学が立ち現れるし、イヌにおいてなされるとき、そのイヌにとっての「生」が立ち現れる。システム論的に言えば、システムの立脚点はシステムの存在そのものであり、日常的な用語に翻訳すれば、「生きている私が<ある>」ということである。

ちなみに、西垣通は、「生物学的ヒト」を出発点にする情報理論を展開している。これについて私は、「そういう視点から考えることもできる」という意味で、受け入れることもできるが、思想的な観点から、それを字義通りに受け止めるわけにはいかない。ただし、そもそも、西垣が「生物学的ヒト」の概念を持ち出す趣旨は、「生きること」であり、「科学」を持ち出さなくても情報学の議論の本筋を変える必要はないということができる。

一方、現代社会において、なぜ、価値判断の主体として、「生物学的ヒト」や「ヒトの心」が特別視されるのかという問題については、以上の議論を前提にした上で、別に考える必要はある。これも含めて考えると、結果として西垣の議論と同じところにたどり着くことになる。

はてなブックマークに追加 del.icio.usに追加 POOKMARK Airlinesに登録 livedoorクリップへ追加 @niftyクリップへ追加 Buzzurlにブックマーク newsingにピックアップ Choixに投稿 Furlへ追加 Blinklistへ追加 Redditに投稿 twitterでReTweet

固定リンク | コメント(0件) | トラックバック(0件)

コメント

コメントを書く

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
(トラックバックは記事投稿者が公開するまで表示されません。)

情報学ブログをRSSで購読する

Googleで購読 はてなRSSで購読 livedoor Readerで購読 Bloglinesで購読 My Yahoo!に追加

その他のRSSリーダー

管理人のつぶやき