人を殺してはいけないということについて

情報学 | 2007/03/05

「人を殺してはいけない」という規範は、戦争を始めとした現代社会の問題を考える上で重要な規範である一方、メディアや客観性など、コミュニケーションの特性を考える上でも重要なものです。今回の記事では、「人を殺してはいけない」という規範がどうやって成立しているか、情報学的観点から整理してみたいと思います。

(1) 社会の成立と「殺してはいけない」という規範

人は生きていく中で、さまざまなことを学習しています。こうしてはいけない、ああした方ががいいというようなことを、世界の規則として身につけていくわけです。こうした世界の規則の中に、他の人とコミュニケーションを取る上での規則もあり、それによって他の人とコミュニケーションを取ることもできます。

さて、AさんとBさんがコミュニケーションを取るとき、それを成り立たせるためには、さまざまな規則が必要です。こういった規則には、たとえば、言語や2人で挙有されている知識、そのほか相手への接し方を含むさまざまなものがあるでしょう。ここで、こういった規則を広い意味での「社会規範」(以下、この記事に限って、規範と言うときには社会規範を指します)と言うことができます。

こういった規範にはさまざまなものがあるわけですが、そこには、少なくとも、「相手を突然殺したりしない」という規範は含まれていないといけません。「殺す」というのは、コミュニケーションの可能性が断ち切る行為であり、「相手を殺してはいけない」というのは、コミュニケーションの大前提になっているからです。

したがって、あらゆるコミュニケーションが行われるとき、そこでは何らかの形で「殺してはいけない」という規範が成立していると考えることができます。

(2) さまざまな社会において「殺してはいけない」ということ

さて、社会にはさまざまなレベルのものがあり、それぞれの規範があります。たとえば、家族や地域、国など、さまざまなレベルの社会のそれぞれに規範があるわけです。

ここで、どのレベルであれ、社会が成立しているところには、「殺してはいけない」という規範があると考えられます。なぜなら、「相手を殺さない」は、安定したコミュニケーションを成り立たせる最低限の条件であり、社会の成立に必須のことだからです。

こうした規範は、基本的に裏切りに対する復讐によって守られているものと言えます。人殺しをするような人間を他の人間が殺したり、それに近い制裁を加えることで、社会の秩序を守ろうとするわけです。「自分が殺されなくなかったら、殺してはいけない」という形で、「殺してはいけない」という規範の説明をする人がいると思いますが、こういう人はこのレベルの社会での「殺してはいけない」という規範を考えているとも言えます。

一方、あるレベルの社会の規範が、その社会の外側の人間を「殺さないといけない」ということを含む場合もあります。たとえば、戦争の敵や社会秩序を乱す人間を殺してしまおうという時がこれに相当します。自分たちの社会を守るために、社会の外部を設けて、それを殺さないといけないということにするわけです。ここで重要なのは、その場合でも新たに「社会」の範囲が線引きされ、それに対しては「殺してはいけない」という規範が守られているということです。要するに、どの範囲の社会集団かは別にして、 何かしら「殺してはいけない」と言う規範が成立するというのが、このレベルの議論です。

さて、社会Aと社会Bが社会Cに含まれていて、社会Aでは社会Bの人を殺さないといけないという規範があったとします。このとき、社会Cではあいかわらず「殺してはいけない」という規範があるので、社会Aでは、社会Bの人を「殺していけない」「殺さないといけない」という価値の対立が起きることになります。たとえば、ある国に戦争を仕掛けるということになった場合、殺してはいけないという規範と、殺さないといけないという規範が対立することになるわけです。これは、社会としても、また個人の内面の問題としても起きる対立です。

(3) 国家において、「殺していけない」ということ

こうした「殺してはいけない」という規範は、語り継がれたり、時には文字として書き付けられて、その社会での明示的な規則となります。ここでは、「○○を殺して良い」としてしまったら、さまざまな人が殺されて良いということになってしまう可能性があり、社会の秩序が保てなくなるでしょう。これは、先ほどの「復讐」と立場と、少し変わってきます。明示的な規則として「殺してはいけない」が成立する以上、社会の秩序を乱すような人間がいたとしても、簡単に、「殺してしまおう」とすることはできないからです。

そして、こうした明示的な規則の体系として成立しているのが、近代の社会です。近代社会では、構成員に「権利」や「責任」の主体となる法的な人格があるとされ、それをもとに、さまざまな制度が成り立っていると考えます。こうした「権利」や「義務」の概念によって、構成員を「殺してはいけない」という規範を考えたり、その規範を守らなかった人間への制裁がとらえられるわけです。

ここでは、当然のことながら、「殺してはいけない」の範囲として、「国民」というラインが強く意識されるようになります。「国民」というラインの内側では「殺してはいけない」一方、それより外側では、必要に応じて「殺してはいけない」かどうかが決められるのが、国家における「殺してはいけない」という規範だと考えることができます。

こうした国家レベルでの「殺してはいけない」を成り立たせているのが、「法制度」や「司法制度」の全体です。これは、要するに、「殺してはいけない」の説明として、「法律で決まっているかダメなんだよ」「刑務所に入って人生めちゃくちゃになるぜ」っていうような話を取り上げるような議論を考えればいいでしょう。

これは一番常識的なとらえ方で、私たちが「殺してはいけない」と言うとき、刑事裁判にしても、ワイドショーにしても、主に、この立場からとらえられていると言えます。

(4) 「殺してはいけない」にまつわる国家の問題

さて、国民を殺してはいけないと言っても、これはあくまで国の秩序を保つためであり、当然例外もあります。たとえば「社会の秩序を守る」ために、特定の構成員を「社会の外側」に追いやり、「殺さないといけない」とする例があるでしょう。これには、古い英米法の概念であるアウトローや、死刑囚が当てはまります。

ここでは、当然「価値の対立」が起きます。死刑制度の是非について議論があるのは良く知られていることだと思いますが、これは、「死刑囚を除いた社会」を維持するための「殺してはいけない」という規範を重視するのか、「死刑囚を含む社会」における「殺してはいけない」という規範を重視するかの対立であり、結局、すでに述べた「価値の対立」の一つの例だということが分かります。

(5) 現代において、「殺してはいけない」ということ

かつて自分の国の国民以外については、同じ人間でも、「殺しても良い人間」と「殺してはいけない人間」が区分けされていたと言えます。帝国主義の以前の世界を考えれば良いでしょう。ところが、現代では、経済的利益とか、宗教的対立、そういうことを前面に出して戦争することはできません。この背景には、かつて、社会ごとに別れていた「価値観」が、グローバル化し、世界全体が一つの「価値観」で、ものをとらえるようになったということがあるでしょう。

ここで重要なのが、「科学的世界観」の役割です。世界のあらゆる人が「科学」を初めとする「客観的な視点」をもとに考えるようになり、「人類」という新たな社会ができあがったとも言えます。ここで、「科学的視点」というのは、科学を正確に理解しているかどうかとはほとんど関係ありません。たとえば、自分にはお金がないが、本来は医学の力で必ず治るものなんだと考える人は、医学に対する知識とは関係なく、「科学」の世界観を受け入れているわけです。

こうした現代において、「殺してはいけない」の範囲は、一応、「生物としてのヒト」であることを主な基準として設けられていると言えるでしょう。つまり、「人類社会」の構成員は殺してはいけない。どんなみすぼらしい格好をしていても、教育が遅れていても、「生物としてのヒト」であり、「人類社会の秩序を大きく乱さない」のならば、その人を殺してはいけない。これが、現代の人類社会の根底にある考え方です。

これを制度的に支えるのが、「人権」という考え方です。「生物としてのヒト」に固有の権利として「人権」を考え、それに基づいて「人を殺してはいけない」という規範を考えることに、現代の社会の特徴があると言えるでしょう。

これは非常に重要なことで、こうした見方によって戦争が少なくなり、先進国を中心に、<比較的>平和な社会がもたらされたと言えます。たとえば、理不尽な人殺しを国家が許していたりしたら、国際社会から非難を浴びることになる。これが、現代における「殺してはいけない」という規範だと言えます。

(6) 「殺してはいけない」にまつわる現代の問題

さて、価値観のグローバル化は、一応、「人類社会の秩序を大きく乱さない」「生物としてのヒト」という二つの条件からなる境界線で、人間の生存を認めることになり、これは、さまざまな面で、人類にプラスになったことも事実です。しかし、負の面もないわけではありません。それは、本来、文化によって、社会によって、多様であるはずの価値観が、全て一つの基準でとらえられ、それに反するものが排除されるような世の中になったということです。

まず、「人類社会の秩序を大きく乱さない」という条件について言うと、ある価値観に基づいて人を線引きし、それに外れた人間を殺していく、「テロリズム」と「対テロ戦争」の両方の問題は、まさに現代的な問題です。

一方、「生物としてのヒト」という条件について言うと、科学が線引きする「ヒト」の範囲は、相変わらず曖昧ということが重要です。こういう中で、脳死臓器移植の問題、さらに、重度心身障害者、重度の痴呆の人を保険診療の対象から外したり、臓器移植用の臓器提供に利用しようという動きがあるでしょう。これは、<科学的>と信じられている認知能力や脳の機能を、「ヒト」であることの判断基準だと考えたことによって起きた問題だと言えます。

これらも全て、「人を殺してはいけない」という規範をどのレベルでの社会でとらえるかという、価値の対立の問題と言えるでしょう。

(7) 「人を殺してはいけない」をどう考えるべきか

ここまでに見てきたように、「人を殺してはいけない」という規範はさまざまなレベルで存在しており、それらはお互いに対立するものです。実際には、国家レベルでの「殺してはいけない」という規範もその中で複雑に対立するものだし、人類社会のレベルでの「殺してはいけない」も複雑に対立するものです。こうして対立する規範は、それぞれ一つの「価値基準」であり、どれが正しいと自明に判断することはできません。価値基準同士の優劣を付けるのはまた、価値基準であり、絶対的な価値基準はないのです。だからこそ、現代のさまざまな問題が起きていると言えるでしょう。

こうした対立は、一般的には、政治的な判断の問題とも言えますが、これはそのまま私たちの内面の問題でもあります。というのも、私たち一人一人は、これらの複雑な社会の規範の全てを自分の内面の問題として持っており、その中で判断を強いられているからです。私たちが、人を殺す、殺さないにかかわる判断をするとき、さまざまなレベルでの「殺してはいけない」「殺さないといけない」が絡んでおり、そうした中で私たちは判断をしているわけです。

ここで、人間や社会が、「殺す」あるいは「殺さない」という判断をするとき、そこでは常に、何らかの価値が優先され、別の価値を切り捨てるという「価値判断」が行われていることになるわけです。たとえば、現代において、ある国に戦争を仕掛けて誰かを殺そうとするとき、殺そうとしている相手を含めた人類社会の構成員を殺してはいけないという人類社会の規範が捨てられ、殺そうとしている相手を除いた人類社会の秩序を守るという規範が優先されているわけです。これは、テロリズムと対テロ戦争の両方に当てはまる構図でしょう。

では、どうすれば良いのでしょうか。一般論としては述べられないということを示してきた以上、一般論として「人を殺してはいけない」ということは言えません。しかし、それでも最低限言えることがあるとすると、自分がどういう「価値判断」をしているかに自覚的になるべきだということです。これは、一人の人間においても、社会においても同じです。たとえば、ある社会が戦争に踏みだそうとするとき、また、ある人が戦争に踏みだそうという政治的な判断に賛成の一票を入れるというとき、それがどういう価値判断なのかということに自覚的になる必要はあります。それが本当の意味で「選択する」ということだからです。もし、そうでなければ、選択しなければいけない現実から逃れ、惰性に流されているだけとも言えるでしょう。

では、自らの選択に自覚的になるとは、いったいどういうことなのでしょうか。

(8) 「人を殺してはいけない」と共感すること

さて、この記事の最初に戻って言えば、「人を殺してはいけない」という規範は、コミュニケーションが成り立つための条件でした。

一般に、コミュニケーションが成り立つためには、何らかの形で相手と同じ性質を持っているということが必要であり、それは言い換えれば「相手に共感できる」ということでもあります。同じ社会の構成員であるとは、すなわち相手に共感できることであり、どういう意味で共感できるかによって、さまざまなレベルでの社会が形作られていると言うことができます。すでに、「人が殺してはいけない」という規範が、コミュニケーションが成り立つあらゆるところに成立しているということを述べたわけですが、これは、論理的に「相手への共感」が成り立つあらゆるところに存在しているものだと言い換えることができます。共感できる相手を殺してはいけないのです。

このことは私たちの実感とも非常に良く合っています。殺人犯の死刑が主張されるとき、「いかに非人間的か」ということが訴えられます。テロリストを殺そうとする対テロ戦争や、世界でテロを支援してきたアメリカへのテロを主張する人も、結局、相手が「いかに非人間的な存在か」ということを訴えます。脳死臓器移植を推進する人は、脳死の人の生理的な性質が「非人間的」だということを主張します。

要するに、人を殺してもいいとされる状況では、常に「相手に対して共感できない」ということが強調されるわけです。これは、「人を殺してはいけない」という規範の成立からしても当然のことだと言えるでしょう。

(9) 共感プロセスと抑圧プロセス

このことを、殺す、殺さないという価値の対立に当てはめて考えると、また違ってことが見えてきます。

たとえば、現代において、ある国に戦争を仕掛けて誰かを殺そうとする状況を考えます。このとき、殺そうとしている相手を含めた人類社会の構成員を殺してはいけないという人類社会の規範は相変わらず存在するわけです。つまり、殺そうとしている相手に対しても共感することができます。そして、だからこそ、そうした相手を「殺さないといけない」というとき、こうした共感プロセスを「抑圧」しないといけないわけです。戦争の時に、相手がいかに非人間的かが強調されるのはこうした理由によるものなのです。

しかし、こうした抑圧された共感プロセスは、相変わらずその人に、また、社会に残っていくことになります。たとえば、自分の国が戦争を行ったというとき、その国の人は、戦場での悲惨な状況を聞いて、葛藤することになるでしょう。戦争を支持するような政党に投票した人であればなおさらです。人に対する共感プロセスはどんなに抑圧しても抑圧しきれない。これは、死刑の問題、脳死臓器移植の問題、戦争の問題など、「人を殺してはいけない」にまつわるあらゆるの根底にある重要な問題ではないかと思います。

(10) 共感すること、さまざまな視点を取ること

では、どうすれば良いか。ここで最低限言えるのは、すでに述べたように、「自分の選択に自覚的になること」です。「人が殺していけない」という規範に自覚的になるとは、相手の生き方、あるいは相手に共感している自分に自覚的になるということだと言い換えることもできるでしょう。もちろん、時としてそうした共感プロセスを抑圧して戦争に進まないといけないこともあるかもしれません。しかし、その場合でも、自分が共感プロセスを抑圧していること、そして、抑圧された価値観があるということには自覚的でなければいけないのではないかと思います。

たとえば、第二次世界大戦前の日本やドイツの国民が、イラク戦争前のアメリカの国民が、こうしてある価値を取って別の価値を捨てるという価値判断にどれだけ自覚的だったでしょうか。国民は、社会の雰囲気に流され、むしろ選択することから疎外されたような状態で戦争に突き進んでいったのではないでしょうか。一方、自らの利益のために殺人をしようとする人は、その人の生き方の中で捨てられる価値にどこまで自覚的になっているでしょうか。むしろ、状況に流され、自らが選択することから疎外されていたのではないでしょうか。

こういった状況で自らの価値判断に自覚的になるとは、要するに、殺される相手にも一つの人生があり、生き方があるということに自覚的になることだと言い換えることもできます。相手を殺すという判断をするときに、殺される相手の人生について考えられる「自分」にも自覚的でなければならない。これはある意味大変なことです。しかし、現実にそういう判断を迫られる状況に置かれるのなら、そういう自覚から逃げてはいけないのではないでしょうか。それは、選択することから疎外されがちな私たちが、「選ぶ」ことを自らの手に取り戻すために必要なことであるように思われるのです。

たとえば、戦争を推進するような政党に一票を入れるとき、自分の行動が人殺しにつながることを自覚しないといけない。これはそうした一票を入れることを否定しているわけではありません。政治とはそういうものです。しかし、そのことには自覚的でなければ、単に状況に流されているだけでしょう。また、止むに止まれぬ状況で人を殺さないといけないというとき、それがどういう判断かに自覚的にならなければ、本当の意味で「殺す」という選択をしたことにはならないと思います。

「価値の対立」に自覚的になるとは、その選択を自ら選び取るということ。自らの選択を自らのものとして取り戻すということです。そしてそのために必要なのが、相手の人生を含めた「さまざまな視点を取ること」にほかならないのではないかと思います。

○ 情報学と「殺してはいけない」

以上で、「殺してはいけない」という規範についての話は終わりですが、最後に情報学との関係について補足します。

一般に、規範はさまざまな価値の対立としてとらえることができます(末尾リンク)。たとえば、脳死臓器移植の問題は、少なくとも部分的には、「生きている(ように見える人)を殺してはいけない」(生命の尊重)という価値と、「本人の決めたことを尊重するべき」(自由の尊重)「臓器移植を受ける人を延命させるべき」(生命の尊重)というような価値の対立と言えるでしょう。このほか、多くの生命倫理の問題は、「自由の尊重」と「生命の尊重」という価値の対立としてまとめられます。一方、環境倫理の問題は、「経済の発展」という価値と、「社会の持続」という価値の対立と言えるかもしれません。もちろん、実際にはもっと複雑な価値の対立が絡んでいるので、こんなに単純ではないわけですが、いずれにせよ、こういった価値の対立として問題をとらえていくことができるわけです。

こういう中「殺してはいけない」という規範は少し特殊な位置づけにあります。一般に価値の対立は、一つの社会システムの中で複数の価値の対立と言えます。しかし、「殺してはいけない」という規範の場合は、特定の「殺してはいけない」が特定の「社会」の範囲で一対一で対応するような、非常に分かりやすい関係になっているのです。したがって、「人を殺してはいけない」という問題について考えるとは、そのまま、コミュニケーションの特性、社会の特性について考えることになります。

たとえば、本文で述べたように、「殺してはいけない」という規範の範囲が、共同体→国家→人類社会という順番で広がってきたことは、文字、印刷やマスコミュニケーションといったメディアの問題として理解することができます。大ざっぱに言えば、文字によってルールが明文化されることによって法制度が生まれ、印刷技術の発達によって近代国家が生まれたわけです。さらに、通信の発達によって、世界が一つになったことは、「人類社会」の成立とも密接な関係があると言えるでしょう。

また、同じことは、「客観性」の問題としても整理することができます。共同体レベルの客観性が、国家のレベルでの客観性となり、さらに、人類社会の問題として普遍的な「客観性」がとらえられているということは、本文で取り上げた「人を殺してはいけない」の問題と、完全にパラレルに起きているものなのです。

いずれにせよ、「人を殺してはいけない」という規範は、情報学の問題関心と非常に深いところでつながるものです。
それは、コミュニケーションのあり方を分析するツールとなると同時に、戦争や生命倫理を初めとする、グローバリズムを初めとする現代社会の問題を考える上での重要な要素となるものなのです。

○関連記事

規範が価値の対立として成立しているということについては、簡単ではありますが、以下の記事で説明しました。

規範とは何か
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_ed02.html

価値の対立に自覚的になることで、「選ぶ」ことから疎外されている私たちが、「選ぶ」ことを取り戻すことができるのだという話は以下の記事で説明しています。

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

人権とは何かという基本的な話について、以下の記事で解説しています。

権利の条件に義務があるって本当ですか?
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_1fa0.html

○関連サイト

非常に興味深い内容でした。他の記事でオートポイエーシスに言及していることから考えても、、情報学とはかなり深いところでつながっているのではないかと思います。

西洋道徳の本質は暴力。
http://mercamun.exblog.jp/6329988
普遍道徳としての人権思想は可能か? 
http://mercamun.exblog.jp/

社会システム論者の宮台真司さんの本を紹介しながら、「人を殺してはいけない」という規範について扱ったブログです。

なぜ人を殺してはいけないのか? ~成熟社会を生きる作法~
http://blog.atamista.com/?eid=255577

以下のブログも非常に冷静な分析だと思いました。一つ目は哲学的、二つ目は社会科学的な分析ですが、この記事と共通する部分も大きいと思います。

何故、人を殺してはいけないのか?
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/5c34c96ab0d398f52c1daa20ab61b835/74

なぜ人を殺してはいけないのか
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.htm

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コメント

Yes, really. And I have faced it. We can communicate on this theme.

投稿: ipod to computer transfer | 2010/08/15 17:52:18

人を殺してはいけない理由

 差別社会では、国民は家畜でした。
 自由社会では、「・・・全構成員は、全体の不可分の存在であることにする。」(J.Jルソーの社会契約論)という社会契約の条文による。
 社会契約論の理想を実現した国がアメリカだという。自由の国の『自由』とは、差別から開放された状態であり、『平等』も差別が無ければ、機会が平等になる。よって『自由』と『平等』は同じ意味です。
 『差別』とは、存在の否定であるといえよう。(WIKIPEDIAより)
 自由社会は、存在を肯定し、個人の生命と財産を守る。
 死刑がある国は、自由度が低いと言える。

投稿: 松本栄司 | 2010/08/27 2:44:51

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