システム論 | 2007/03/30
この記事は、オートポイエーシスの基本的な考え方について解説すると同時に、オートポイエーシスにおける時間概念について論じるものです。
大きく言うと、二つの読み方ができると思います。
一つは、オートポイエーシスについて全く知らない方が読む入門的な記事としてです。一般的な説明とは、説明の順番を大きく変えていて、分かりやすいものになっているのではないかと思います。
もう一つは、オートポイエーシスについての議論の整理としてです。特に、この記事は、オートポイエーシスにおける時間概念について整理するものであり、マトゥラーナ&ヴァレラやルーマンの議論と、河本英夫氏の議論の関係についてもある程度分かるようになっています。また、最後の節では、システム論と情報学の関係について簡単に触れています。オートポイエーシスについて学んだけど「何となくしっくりこない」という方にも読んでいただけると幸いです。
○目次
(1) はじめに
(2) オートポイエーシスと『形式の法則』
(3) システムの閉鎖性
(4) 作動と区別
(5) システムと物理空間
(6) システムと時間概念
(7) 2つのシステム論
(8) 神経システムと時間の獲得
(9) システム論と情報学
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(1) はじめに
オートポイエーシスは、1973年にウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラによって提案された生命論、システム論であり(*1)、社会学者のニクラス・ルーマンによって社会理論として発展させられ、今日に至るまでさまざまな分野で注目されてきました。
さて、この理論の特徴は生命を「入力も出力もない」「閉じたシステム」としてとらえることにあるわけですが、これは、この理論が私たちの常識とはずいぶん離れた問題を扱っていることを示しているでしょう。というのも、常識的に考えたら、世界に「閉じたシステム」などどこにもありません。人間にしても酵母菌にしても、生物は内部と外部で入出力を行っています。ここでシステムが「閉じている」とはいったいどういうことなのでしょうか。
常識的な考えにしたがえば、システムには空間的な内部と外部の区別があり、「閉じている」ということは理解不能です。また、百歩譲って空間的な閉鎖性を認めたとしても、システムがある時間に存在するなら、システムの閉鎖性はいつか崩れると考えるのが普通であり、いずれにせよ「閉じている」というのは理解不能でしょう。
こうした問題は、オートポイエーシスの議論において、時間や空間の概念が特殊な位置づけをされているということを無視して考えることができません。そして、その中でも特に重要なのが時間概念と言うことができます。今回の記事では、オートポイエーシスが最初に提案されたマトゥラーナ&ヴァレラの論文「オートポイエーシス―生命の構成」(以下、「生命の構成」)(*2)における「オートポイエーシス」の議論をもとに、こうした問題について簡単に説明したいと思います。
*1 "Autopoiesis―the Organization of the Living" [Maturana & Varela 1973]
*2 同上
(2) オートポイエーシスと『形式の法則』
マトゥラーナとヴァレラは、オートポイエーシスの議論をするに当たって、明らかにスペンサー・ブラウンの『形式の法則』に依拠して話を進めています。というのも、「生命の構成」の冒頭は、形式の法則からの引用で始まり、それ以外にも、形式の法則の議論を前提にした表現を、非常に中心的なところで用いています。
ところが、奇妙なことに、「生命の構成」に、スペンサー・ブラウンの名前は一度も出きておらず、巻末の参考文献表でもスペンサー・ブラウンの著書は全く出現しません。この不思議な構造は、『形式の法則』がどのようなものであるかを知らないことには理解することができないでしょう。
『形式の法則』は、あらゆるものが「区別する(distinction)」という「操作(operaton)」によって始まるという基本的な姿勢に基づき、独特の記号と演算形式を提案するものです。ところが、これまた奇妙なことに、この本が指摘している演算形式は数学的に新しいことではなく、当時すでに一般的だったブール代数(真と偽という二つの値を取り得る変数についての代数的議論―And, Or, Notなどの演算子を用いる)を変形しただけのものとも言えます(*1)。それにもかかわらず、『形式の法則』が評価されるのは、こういう数学的な意味とは全く別の意味があるからです。すなわち、『形式の法則』は、新しい形式をメタファーとして「あること」が示唆するものであり、それによってこそ意味があるものなのです。
『形式の法則』の冒頭は次の文で始まります。
この本のテーマは、空間が二つに分けられ、宇宙が存在するようになる(a universe comes into being)ということについてである。(*2)
マトゥラーナとヴァレラは、この文を引用しながら出典を明示しないという奇妙な形で論文を始めているわけですが、このことは重要な意味を持っています。というのも、「生命の構成」の主題は、「生命がどのように存在するか」とも言えるわけですが、そこではシステムの「観察」が問題の中心になっています。生命はどういう意味で存在していて、観察者と関係しているのか、あるいは生命はどういう意味で観察者になりえるのかということが繰り返し問われていくわけですが、その中で、中心となるのが、スペンサー・ブラウンの提示した「区別(distinction)」あるいは「作動(operation)」概念です。
このことから、マトゥラーナとヴァレラが、スペンサー・ブラウンの『形式の法則』を、いわゆる「存在論」―認識者の存在を自明とせず、認識者の存在そのものを問い直していく議論―としてとらえていたことが分かるでしょう。
ただし、『形式の法則』そのものはあくまで「存在論」を示唆しているだけであり、決して「存在論」そのものではありません(*3)。表面的には新しい演算形式を提案しただけのものであり、それ以上のものではないわけです。このことは、マトゥラーナとヴァレラが、『形式の法則』に明らかに依拠しながら、一度も言及しないという奇妙な形式を取っていることを説明する上で非常に重要なものと言えるでしょう。
*1 スペンサー・ブラウンなんていらない/黒木 玄
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/SB/
*2 The theme of this book is that a universe comes into being when a space is severed or taken apart. [Brown 1969 : v 訳xiii]
*3 さらに言うと、「存在」ではなくて「区別」が重要だと強調しています。 [Brown 1969 : 101 訳118]
*4 情報哲学者のラファエル・カプーロは、オートポイエーシスについは触れていないものの、『形式の法則』を明確にハイデガーの『存在と時間』と関連させて議論しています。この問題意識はマトゥラーナとヴァレラが示唆的ながら明確に提示しているものだし、おそらく、スペンサー・ブラウン自身も意識していたものだと思われます。
(3) システムの閉鎖性
オートポイエーシスは、システムの存在がどのようにとらえられるかという問題と深く関係しているわけですが、そう言った問題をさておいて、純粋に「システムの閉鎖性」についての議論を「生命の構成」から拾っていくと、かなり単純なロジックから構成されていると言うことができます。「生命の構成」には以下のように書かれています。
環境とのフィードバックループを持ち、出力が入力に影響するような機械Mを考えるとする。このとき、実は、環境やフィードバックループを構成として持つ、より大きな機械M'について考えていると言うことができる。(*1)
この文章において、MではなくM'について考えるのがオートポイエーシスの視点です。要するに、通常ならシステムの環境とされているようなものも全部システムの一部だと考えるわけです。一般的な表現をすれば、システム=世界全体と言うこともできるでしょう。
ここで重要なのは、この議論が、システムの「構成(organization)」と密接に関係しているということです。
オートポイエーシス理論では、システムは、作動(operation)によって構成されていると考えます。生命システムの場合、作動とは産出です。細胞が細胞を生み出したり、タンパク質が別のタンパク質を生み出すというようなとき、新しい細胞やタンパク質の産出(production)が作動であり、こうした作動によってシステムが成立していると言うことができます。
ここで、すぐ上に書いたこと(MとM'の関係)から、「作動」というのは、単に物質的な産出関係だけを指すのではなく、産出にかかわる因果律の全体を指していることが分かります。物理的な空間をとらえるような視点でオートポイエーシスを考えたとき、システムは世界全体と言えるわけですが、一つ一つの作動もまた、世界全体とかかわるような形でとらえることができるのです。世界全体とかかわるような形で存在している作動によって構成されるシステムは、当然のことながら、世界全体とかかわるような形で存在しているわけです。
これはいわゆる「文脈依存性」として議論されてきたことを別の形で表現していると言うこともできるでしょう。私たちが生命現象について考えるとき、どうしても、細胞やタンパク質のような物質的なものだけに注目してしまいがちです。ところが、オートポイエーシス理論においては、こうした物質的な産出関係の文脈を含んだ因果律の全体として「作動」をとらえているわけです。こうした「文脈」をとらえる世界観を定式化したのが、オートポイエーシスだと言うこともできると思います。
「システムの閉鎖性」「システムの入出力の不在」と言ったオートポイエーシスの性質は、以上のような観点から、比較的容易に理解することができるわけです。
*1 If one says that there is a machine M, in which there is a feedback loop through the environment so that the effects of its output affect its input, one is in fact talking about a larger machine M's which includes the environment and the feedbackloop in its defining organization. [Maturana & Varela 1973 : 78]
(4) 作動と区別
「生命の構成」のポイントは、単にこうしたシステムの閉鎖性をとらえるということではなく、システムの作動(operation)が、システムの存在を規定(define)するものとされているということです。そしてこのことは当然、作動の全体であるシステムの構成(organization)が、システムの存在を規定するということにもなります。
オートポイエティック・システムは、そのシステムに固有のオートポイエティックな構成によって、そしてそれによってのみ単位体(unity)である。つまり、システムの作動は、自己産出のプロセスを通してシステム自らの境界を特定(specify)するのである。(*1)
オートポイエティック・システムは、そのオートポイエティックな構成によって単位体(unity)として規定(define)される。(*2)
ここで、作動=区別(distinction)が、「境界を特定する」ということに注目する必要があるでしょう。ここで注意しないといけないのは、この文章中の「境界(boundary)というのが、決して空間的な境界(機械Mの物理的な境界)ではなはなく、論理的な境界だということです。
これは、若干分かりづらい事態ですが、このことを理解するためには、次のように考えれば良いでしょう。システムの作動は、定義上、常にシステムの内部です。ここで言う「内部」というのは、物理的な空間の問題ではないわけですが、そうだとしたらどういう意味での「内部」なのでしょうか。これを理解するためには、「作動」に対して、論理的な意味で「作動ではないもの」が想定されていて、それに対して「作動」があると考えるほかありません。つまり、ある「作動」が生まれるより前には、「作動」と「作動ではないもの」の区別はないわけですが、「作動」が生まれることによって、「作動」と「作動ではないもの」の「区別(distinction)」が引かれるわけです。
たとえば、「心」というシステムを考えると、私たちが考え得るあらゆるものは自分の心の内側の問題です。地球の裏側のできごとも、宇宙の果てのできごとも、全て「心」というシステムの内部の問題だと考えることができるでしょう。ところが、私たちがあることについて考えるとき、考えていないものは心の「外側」になるわけです。私たちは心の外側について考えることはできません。しかし、論理的には「外側」を想定することができ、これを表現すると「システムの作動によってシステムの境界が引かれる」ということになるわけです(*3)。
こういった非空間的な「内部」と「外部」の関係を、マトゥラーナとヴァレラは「位相的」呼んでいるわけですが、これは別の言い方をすれば「論理的」なものでもあり、明らかにスペンサー・ブラウンの『形式の法則』に由来するものです。オートポイエーシスではしばしば「作動はシステム/環境を区別する」というような言い方がされるわけですが、この区別が、空間的な「内部」と「外部」ではないことには留意する必要があるのです。
*1 Autopoietic machines are unities because, and only because, of their specific autopoietic organization : their operations specify their own boundaries in the processes of self-production. [Maturana & Varela 1973 : 81] [Varela 1979 : 15]
*2 An autopoietic system is defined as a unity by its autopoietic organization. [Maturana & Varela 1973 : 88]
*3 このようにしたとらえられた「外側」もまた、システムの内側ではないかという批判は当然考えられると思います。これを厳密に考えるのなら、可能的/現実的という形而上学の問題意識に至ることになるでしょう。ただし、これは一般的なオートポイエーシスの議論からは離れるため、ここではそういう問題があるということを指摘するのに留めることにします。
(5) システムと物理空間
では、オートポイエーシスにおいて、物理的な空間は問題にならないのかというと必ずしもそうではないのです。マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス理論において、システムの作動=産出ですが、マトゥラーナとヴァレラは「産出」を物質的な産出に限定してます。そして、産出される物質については、空間的な拡がりを持つのです。したがって、マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス理論においては、システムは常に物理的な空間に実現(embody)するわけです。(*1)
ただし、オートポイエーシスに物理空間への実現が必要かということについては、必ずしも統一した見解があるとは言えません。ニクラス・ルーマンは、システムの作動として、コミュニケーションや思考(自己コミュニケーション)を考えました。コミュニケーションや思考は、たしかに「産出」するものですが、それは物質的なものではなく、したがって、コミュニケーションや思考が作るシステムは、物理空間上に実現することはありません。ルーマンの立場からすれば、システムの物理空間上の実現は必須のものではないわけです。
一方、ヴァレラは、システムの作動として「産出」「変形」「記述」などを挙げ(*2)、物質的な産出関係によるシステムのみを「オートポイエーシス」と呼び、他の作動の場合は「自律システム(autonomous system)」あるいは「構成的閉鎖性(organizational closure)=作動的閉鎖系(operational closure)」と呼ぶことを提案しています。
オートポイエーシスに対するヴァレラの限定的な解釈は、ルーマンの用語法と明らかに異なるもので、ヴァレラはその意味でルーマンに対して批判をしています。しかし、これはあくまで言葉の定義の問題であり、理論上の対立があるわけではないと考えることもできるでしょう。むしろ重要なのは、ヴァレラの主張から逆に明らかなように、オートポイエーシス(あるいは自律システム)の成立に、物質的な産出関係や、それが物理空間上に成立することは必須ではないということではないかと思います。そういう意味で、この記事では、ルーマンと同じく、「オートポイエーシス」という用語を広く解釈し、物理空間上の実現は必須ではないという立場を取ることにしたいと思います。
*1 ちなみに、ヴァレラの"Embodied Mind"という著書のタイトルは、「身体化された心」と訳されていますが、これは明らかにオートポイエーシスが物理空間に「実現」することと関係している用語です。
*2 The processes that specify a closed organization may be of any kind and occur in any space defined by the properties of the components that constitute the processes. Instances of such processes are produtioon of components, descriptions of events, rearrangement of elements, and in general, computations of any kind, whether natural or man-made. [Varela 1979 : 55]
(6) システムと時間概念
オートポイエーシスについての基本的な考え方の紹介が終わったところで、やっと本題に入ります。オートポイエーシスと時間はどういう関係にあるのかという問題です。
物理空間上に成立するオートポイエーシス、すなわち、物質の産出を作動とするシステムにとって、ある状況でシステムが破壊されることがあるのは当然のことと言うことができます。
こうしたシステムにおいては、システムの補償できる範囲を超えて、システムの作動に対する物理的な障害があったときにシステムが分解する、すなわち、オートポイエーシスではなくなる、というような形でシステムが構成されているのである。(*1)
システムが物理空間に実現している以上、システムには始まりと終わりがあることは当然とも言えるでしょう。
では、物理空間上に実現していないシステムの場合、時間概念は無視できるのでしょうか。結論から言えば、作動(operation)の概念は、マトゥラーナやヴァレラにおいても、ルーマンにおいても、時間的に「ある点」を占めるものとしてとらえられていることが分かります。特にルーマンの場合、コミュニケーションが、接続、連鎖していくというようなとらえ方をしているわけですが、これは明らかに、時間概念を前提にして作動をとらえていることになるでしょう。
もちろん、ここで言う時間軸が「どういう時間軸か」ということについては、あらかじめ前提にされているわけではありません。たとえば心というシステム(主観的時間意識)や、社会というシステム(客観的時間意識)によって、それぞれの「作動」がとらえられると言えるでしょう。しかし、それにもかかわらず、作動は、あらかじめ何らかの時間軸における「ある点」を占めるものとしてとらえられているわけです。
これは当然のことと思うかもしれませんが、空間概念と比較してみると、その特徴が分かります。すでに述べたように、システムの作動は、一般に空間的に特定の位置を占めるものとして扱われているわけではなく、世界全体と関わるような形で成立しています。どういう空間軸の中で成立しているかが決まっていないのはもちろん、空間的な位置づけそのものが規定されていないのです。空間的に位置づけられるのは、産出プロセスの結果生まれた産物、つまり物質だけです。
これに対し、時間に関しては、初めから時間軸上のある点を占めるかのように扱われています。もし、作動が無時間的なものであるなら、任意の2つの作動は相互に関係をもたないといけないでしょう。言い換えれば、作動を決める、未来の事象(いわゆる予測)と、過去の事象(いわゆる経験)を区別することはできないのです。しかし、マトゥラーナとヴァレラにおいても、ルーマンにおいてもこうした議論はなく、ナイーブに過去の作動によって次の作動が決まるものとされているのです。このことは、マトゥラーナとヴァレラがシステムの進化や歴史性について論じるとき、明らかに時間を一方向的に論じていること、また、ルーマンがシステムの作動を「接続」「連鎖」としてとらえていることからも明らかでしょう。
このことは、スペンサー・ブラウンとの関係に基づいて考えることもできます。スペンサー・ブラウンの『形式の法則』の議論は、無時間的、無空間的なものです。このうち、物質的な産出プロセスとしてのオートポイエーシスは、物理空間に「実現」するものであるにしても、一般のオートポイエーシス(自律システム)は、空間的に実現することは必須ではありませんでした。そしてだからこそ、「生命の構成」では物理空間での「実現(embodiment)」が強調されているわけです。ところが、時間的な「実現」についてはこうした議論を経ず、あらかじめ前提にされてしまっているわけです。
逆に言えば、このことから、オートポイエーシスを特徴づけるのが、実は「時間概念」だということができます。つまり、無時間的、無空間的なスペンサー・ブラウン的存在論に時間概念を導入し、「作動」が時間軸に沿って並べられるようにとらえられているのが「オートポイエーシス」だと言うことができるでしょう。
このことは、オートポイエーシスの議論において、本来的に時間そのものについては問題にできないということを示していると言えます。時間軸上のオートポイエーシスは大前提であり、時間軸がどのように成立するかについては別の議論を採用する必要があります。たとえば、時間意識の生成について議論するのであれば、オートポイエーシスの議論は使えないのです。
*1 all of them, however, will be organized in such a manner that any physical interference with their operation outside their domain of compensations will result in their disintegration: that is , in the loss of autopoiesis. [Maturana & Varela 1973 : 81][Varela 1979 : 16]
*2 A historical phenomenon is a process of change in which each state of the successive states of a changing system arises as a modification of a previous state in causual transformation, and not de novo as an independent occurence. Accordingly, the notion of history may either be used to refer to the antecedents of a given phenomenon as the succession of events that gave rise to it, or it may be used to characterize the given phenomenon as a proess. [Maturana & Varela 1973 : 102]
(7) 2つのシステム論
システムの作動を、時間的にある点を占めるものとしてとらえる見方は、「一般的な」オートポイエーシス理論において前提になっているわけですが、ここで注意しないといけないことがあります。
この記事では、オートポイエーシスにおけるoperationという単語に作動という訳を当てたわけですが、スペンサー・ブラウンについて議論するときは、操作という訳語を当てました。しかし、言うまでもなく、両者は同じものです。そして、スペンサー・ブラウンの『形式の法則』に基いて言えば、operationはそもそも無時間的な「操作」を意味する言葉なのです。
この立場から前の節の議論をとらえ直すと、マトゥラーナやヴァレラ、ルーマンは、スペンサー・ブラウンの無時間的な作動(操作)の概念に時間の要素を含めることで、オートポイエーシスを打ち立てたと言うことができると思います。
しかし、これは逆に言えば、オートポイエーシスには必ずしも時間性は不要ということを示しているとも言えるでしょう。マトゥラーナやヴァレラ、ルーマンにおいて、作動が時間的にとらえられているというのが事実としても、それを再解釈して無時間的な作動(操作)に基づくシステム論を構築することは可能です。そして、この立場を取るならば、時間意識の生成についても、システム論の枠内で考えることができるでしょう。
こうした立場からオートポイエーシスを発展させようとした論者に、河本英夫がいます。
オートポイエーシス・システムは産出的作動を反復するシステムである。だがそれはあらかじめ直線上に設定された時間軸(ニュートン的時間)の上を時刻を追うように動くシステムではない。そのような時間は、システムの作動に先立って、観察者があらかじめシステムの外に設定しておいたものに過ぎない。(*1)
要するに、河本にとって、作動は無時間的なものです。河本のような立場からすると、ルーマンのような「コミュニケーションの接続」ということは理解不能になるのであり、河本のシステム論と時間的作動を前提にした通常のオートポイエーシスとは区別しないといけません。しかし、河本の議論はシステム論の発展形としては十分ありえる態度だし、特に時間意識の問題を扱うためには有用なものです。河本の議論をオートポイエーシスと呼ぶかどうかは言葉の定義の問題ですが少なくともシステム論と言えることは間違いないでしょう。(*2)
ここでこの2つのシステム論を区別することは決定的に重要なことだと言うことができます。たとえば、システムを作動の接続、連鎖としてとらえているのに、システムは無時間的だと考えたりすると、システム論そのものが理解不能になってしまうからです。オートポイエーシスをめぐる混乱の一つはこの「2つのシステム論」を混同しているという点だと言えるでしょう。
ただし、2つのシステム論の関係には、もう少し複雑な要素が絡んでいます。これについて次の節で論じます。
*1 [河本 1995 : 279-280]。ちなみに、河本自身は、時間の扱いについて若干混乱していて、この直後で「時間は感性の先験的形式である(河本 1995 : 281)」と認識論的解釈をしています。ちなみに、河本氏は、この直後で「時間は感性の先験的形式である(河本 1995 : 281)」と認識論との関係を指摘しています。(直前の削除箇所を削除し、そこからここまでを追加、行輔さんのコメントによる 6/14)
*2 ここで時間的なシステム論(通常のオートポイエーシス)に対して、河本のシステム論を無時間的なシステム論と言うことにします。ここで、無時間的なシステム論が存在論的であるのに対し、時間的なシステム論が、少なくとも部分的に認識論的であるということもできると思います。
(8) 神経システムと時間の獲得
オートポイエーシスについて考える上で、誤解されやすいのが、「生命の構成」の付録である「神経システム」や、本来「生命の構成」と別の論文である「認知の生物学」との関係です。
「生命の構成」の本論は、物質的、時間的なオートポイエーシスについて議論されているのですが、付録の「神経システム」ではわざわざオートポイエーシスと区別した上で、無時間的、非物質的なシステムとしての神経システムについて述べられてるし、これと同じことは「認知の生物学」でも述べられています。オートポイエーシスが時間的なシステムであることは、こうした本の構成からも明らかなのですが、一般には、この区別がほとんどなされておらず、これがオートポイエーシスに対する誤解につながっているわけです(*3)。河本の議論は、こうした神経システムの議論にまでオートポイエーシスを拡大するものとして位置づけられるわけです。
ついでに言うと、もう一つ複雑なのは、神経システムが時間的にも非時間的にもとらえられるということです。特に、マトゥラーナとヴァレラは、神経システムの議論において、「時間概念が獲得」されるということを議論していますが、「時間概念が獲得」されて、神経の発火の「接続」として神経システムをとらえるとき、そこではすでに時間概念が導入されています。これはルーマンの社会システム論の原型とも言えると思います。
つまり、マトゥラーナは、最初に非物質的、無時間的な神経システムの議論(a)、それが時間概念を獲得することによる、非物質的、時間的な神経システムの議論(b)をしています。それをもとにヴァレラとともに物質的、時間的なオートポイエーシス論(c)を提示したわけですが、ここから非物質的、時間的なオートポイエーシス(d)を提示したのがルーマンであり、それを再び非物質的、無時間的なシステム(e)に拡大したのが河本の議論だとまとめることができるでしょう。ここで河本は(a)-(e)のシステム論を全てオートポイエーシスと呼んでいるわけですが、システムを作動の接続、連鎖としてとらえる限り、どんなに拡大解釈したとしても(b)-(d)しかオートポイエーシスと言えないのです。そして、そう理解しない限り、「作動の接続」というオートポイエーシスの基本的な考え方が理解できないでしょう。これは言葉の定義の違いであると言えなくもないわけですが、少なくとも、両者の立場は区別する必要があるわけです。
*1 たとえば以下の論文では、オートポイエーシスが無時間的なシステムだとされていますが、その論拠となる注32(p.117)、注47(pp. 119-120)の引用先は、「認知の生物学」であり、注33(p.117)の引用先は「神経システム」です。ところが、あたかもオートポイエーシスについての議論であるかのように扱われているのです。これは単にオートポイエーシスの定義の問題であって、大きな問題ではないとも言えるわけですが、社会システムとの関係についての混乱を回避する上ではやはり重要なポイントだと言えるでしょう。
土谷 幸久2003 「オートポイエーシス的生存可能システムモデルの基礎的研究」http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/3679/5/Honbun-06_chapter04.pdf
また、(河本ではなく)マトゥラーナ&ヴァレラのオートポイエーシスに言及しながら、それが無時間的だとしているネット上のリソースには以下のようなものもあります。
松岡正剛の千夜千冊『オートポイエーシス』 ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1063.html
自律型システム論・自己組織性
http://www.bekkoame.ne.jp/~kmakoto/autopoi/autonomy.html
(9) システム論と情報学
良く指摘されるように、システム論と情報概念の関係は、ベイトソンによる情報の定義「差異を生みだす差異(a difference which makes a difference)」(*1)から強く示唆されるものです。しかし、両者は簡単につなげられるようなものではなく、この関係について論じるためには、「情報とは何か」ということが厳密に問われなくてはいけないでしょう。ここでは、時間的/無時間的なシステム論の区別をもとにして、システム論と情報概念の関係について簡単に触れたいと思います。
時間的/無時間的なシステムの作動に、意味するもの―意味されるものの関係はあるのでしょうか。たとえば、時間的にとらえられている(つまりルーマンの社会システムように作動の接続としてとらえられる)、神経の発火のシステムがあったとします。ここで、神経の発火というのは、ある種のパターンであり、システムそのものからも、システムの観察者からもパターンとしてとらえられると言うことができるでしょう。しかし、システムの作動がパターンということは、逆に言うと、そのパターンで表現されている「何か」があるということにもなり、そこには意味するもの―意味されるものの関係が想定されていることになります。もちろん、神経の発火のパターンそのものも、それで意味されているものについても、完全にとらえることはできません。システムの作動によって「世界全体とかかわるような形で」意味するもの―意味されるものの関係があるだけです。しかし、この両者の関係があるということそのものは否定することができないでしょう。コミュニケーションにしても、物質の産出にしても、これと全く同じことが成り立っています。
ところが、スペンサー・ブラウンの議論では、こうした意味するもの―意味されるものの関係は想定されていません。では、システムの作動に、意味するもの―意味されるものの関係は必須なのでしょうか。そうではないのでしょうか。
一般に、システムの作動が時間的に実現するとき、要するに作動が時間軸上にとらえられているとき、システムの作動は何らかの形でパターンとしてとらえられている必要があるでしょう。そうでない限り、時間軸上でとらえることができないからです。これに対し、システムの作動が無時間的にとらえられているのであれば、作動がパターンであるかは任意になります。
この議論は、明らかに「情報」についての議論です。スペンサー・ブラウンにおける無時間的・無記号的な作動を、「存在としての情報」と呼ぶとすると、そこに意味するもの―意味されるものの関係を導入することで、無時間的・記号的な「パターンとしての情報」が成立することになります(*2)。そしてそこに、時間概念を導入することで、記号的・時間的な情報、つまり「(狭義の、つまり時間的な)作動としての情報」がとらえられることになるでしょう(*3)。
では、「パターン」はどのように成立し、どのように認識されるものなのでしょうか。(削除、4/11 19:02)これはこの記事の範囲を大きく超えるため、別の機会に論じることにします。しかし、いずれにせよ、システム論における時間の問題は、「情報とは何なのか」という「情報についての問い」と深く関係しているものなのです。最後に、このことを指摘して、この記事を終わりにしたいと思います。
*1 Bateson, Gregory 1972 "Steps to An Ecology of Mind" Chandler. 佐藤良明訳 1990 『精神の生態学』思索社
*2 情報をパターンとしてとらえる見方は、吉田民人 1992「情報・情報処理・情報化社会」社会情報1-1,pp.31-53など。ちなみに、吉田は『形式の法則』を訳した大澤、宮台の師匠であり、翻訳を勧めたことでも知られています。この経緯については、[Brown 1969 : 訳171]。
*3 なぜ、オートポイエーシスの作動をわざわざ「作動としての情報」と呼ばないといけないのでしょうか。一般的に、情報概念として有名なものとして、「パターンとしての情報」と「メッセージとしての情報」があるわけですが、この両者をつなぐ中間的な存在が、オートポイエーシスの作動であり、議論の整理のためには、これをパターンやメッセージと区別される、「作動としての情報」とする必要があるのです。これについては、別の機会に詳しく論じたいと思います。
○引用文献
Brown, G. Spencer 1969 "Laws of Form" Allen & U 大澤真幸、宮台真司訳 1987「形式の法則」朝日出版社
Maturana, H. R. et Vaerala, F. J. 1973 "Autopoiesis―the Organization of the Living in [Maturana & Varela 1980]
Maturana, H. R. et Varela, F. J. 1980 "Autopoiesis and Cognition: the Realization of the Living" D. Riedel Pub.
Varela, F. J. 1979 "Principles of Biological Autonomy" Elsevier
河本英夫1995『オートポイエーシス―第三世代システム』青土社
○関連ブログ・サイト
オートポイエーシス序の口/貧乏独学ノ記
http://d.hatena.ne.jp/precariat/20061220/p1
(3番目の注にこの記事と関係することが書いてあります)
ご批判ありがとうございます。大変鋭い指摘であり、該当の注は変更させていただきました。
ただ、河本さんの読みとしては、行輔さんの解釈も語弊があるような気がします。
河本さんが言っていることを私の言葉で言い直すと、「時間というのは対象システムではなく、観察システムに属するもの」ということでしょう。これは、「作動の無時間性」という河本さんの議論とは矛盾せず、「河本氏自身の時間の扱いとはまた別」と言い切ることもできなくなります。
情報ブログさんのおっしゃるとおり、「時間は観察システムに属するもの」という主張とそれ以前に展開される「作動の無時間性」は矛盾しませんね。
変更にあるとおり、「認識論との関係を指摘している」という表現が適切だと思います。
「また別」という言葉を自分でも曖昧なまま使っていたようです。
自分の専攻が芸術系ということもあって河本氏の存在論的なオートポイエーシスにばかり傾倒し、今までは「何を学んでいるんだ」と聞かれてもしっかりと説明できないことがよくあったのですが、情報ブログさんの整理された解説のおかげで、自分が学んでいるものがオートポイエーシスを巡る議論のどのあたりにあるのかを再確認できました。
一年以上前の記事へのコメントですみません。
大変興味深く読まさせていただきました!
オートポイエーシス・システムの数学的モデルは作れないだろうか?という疑問から,
http://plaza.rakuten.co.jp/QMIND/diary/200704290000/#comment
にあるようなことを考え,「時間」の問題にいきあたり,検索エンジンでこの記事に出会いました。なるほど,さまざまなオートポイエーシス論があり,オートポイエーシス・システムの「時間」についていろいろな立場があるわけですね?
コメントありがとうございました。
いくつかの論点について応答させていただきたいと思います。
> オートポイエーシス・システムの数学的モデルは作れないだろうか?
オートポイエーシスの数学的モデルは複雑な問題をはらんでいると思います。
というのも、オートポイエーシスは、
「記述不可能」という事態を出発点にしているからであり、
数学的記述も不可能というのが、一応の前提だからです。
特に、オートポイエーシスは本来的に、
時間関係、因果関係の記述不可能性というのを含んでいるため、
ナイーブな数学的記述にはなじまないということも言えるでしょう。
オートポイエーシスをナイーブに数学的に記述しようとする試みを行った場合、
そこで記述されているのは、
実は、オートポイエーシスの記述ではなくなっているというケースが多いのではないかと思います。
ただ、記述の限界を、数学的形式で表現することはできるでしょう。
この場合、オートポイエーシスという事態を、
何らかのシステムの「射影(projection)」した結果ということになると思います。
そのことを留意した上で言えば、
数学的記述は不可能ではないかもしれません。
この場合、本文でも言及したスペンサー・ブラウンが
参考になるのではないかと思います。
> (リンク先のオートポイエーシスについての記事について)
リンク先のブログで、オートポイエーシスの生成・消滅について議論されていたようなので、
これについて少し説明します。
山下さんが的確に説明されていたように、
マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス理論について言えば、
オートポイエーシスは、生成し、消滅するものです。
しかし、これでは全く説明になっていないというのは、
Ged4244さんが指摘されていた通りです。
どうもお二人の議論は、平行線をたどっていたのではないかと思います。
自分は、あえて断言するのですが、
オートポイエーシスには、(本来的に)始まりも終わりもありません。
ただし、ここで言うオートポイエーシスは、
本文で言う、「無時間的」オートポイエーシスであり、
「存在としての」オートポイエーシスです。
「存在としての」オートポイエーシスの特徴について言うならば、
そこにはどうやっても始まりも終わりもないのです。
なぜでしょうか?
「始まり」や「終わり」というのは、
何らかの「記述」によって初めて立ち現れてくるものだからです。
たとえば、オートポイエティックなシステムAがあったとします。
システムAを時間意識を持つシステムBが観察し、
システムAがシステムBに射影されたとき、
初めて時間が立ち現れ、「始まり」や「終わり」が立ち現れます。
しかし、システムAそのものに、時間はないということです。
ただし、システムAが、「自己観察」することができ、
さらに「時間意識」を持つような
特殊なシステムである場合は話が別です。
この場合、システムAには、システムAにとっての「時間」、
システムAにとっての「始まり」や「終わり」が成立することになるになるでしょう。
こういったシステムに関して言う限り、
システムは、自らにとっての「始まり」や「終わり」を認知することになります。
こうした、自己観察を行えるシステムと
そうではないシステムの区別をはっきりさせないと、
オートポイエーシスは理解不能なものになってしまうのではないかと思います。
話は変わりますが、
オートポイエティックなプロセスの記号化は、
言うまでもなく、情報学では中心的な論点です。
(ノイマン型コンピュータが典型ですね)
ただし、これはオートポイエーシスに相対するものとして扱われます。
たとえば、上記のように、「始まり」と「終わり」を想定することは
すでに記号化であり、オートポイエーシスと異なる発想とまで言うこともできると思います。
(ただし、この議論はオートポイエーシスの歴史から言うと暴論です。
本文でも書いたように、オートポイエーシス理論は、
無記号的・無時間的なシステムをベースにしながら、
時間性だけを組み込むことによって生まれてきているからです。
本文では、オートポイエーシスを
「時間的」なものとして扱っているのに対し、
このコメントでは、「無時間的」な特徴を強調しているので、
若干、用語法に齟齬があります。)
情報ブログさん
ありがとうございます!
>オートポイエーシスは、「記述不可能」という
>事態を出発点にしているからであり、
>数学的記述も不可能というのが、一応の前提だからです。
この「記述不可能」というのは,
>オートポイエーシスは本来的に、時間関係、
>因果関係の記述不可能性というのを含んで
>いる
ということ,すなわち,オートポイエーシスが「時間」その他の要因によって決定できないという意味で「記述不可能」ということでよいのでしょうか?
逆に「時間」「物理的空間」「構成素」「コード」などがオートポイエーシス・システム(たち)によって決定される,すなわち「時間」その他の要因がオートポイエーシス・システム(たち)の関数になっていると見ることができるのではないかと思っているのですが…そしてそう考えることで,数学的モデル化(あるいは「オートポイエーシス論」の形式化)が可能になるかもしれないと考えています。
>本文でも言及したスペンサー・ブラウンが
>参考になるのではないか
ずいぶん昔に『形式の法則』を買って読んだのですがいまひとつピンときませんでした。もう一度読み直してみます!
>自分は、あえて断言するのですが、
>オートポイエーシスには、(本来的に)始まり
>も終わりもありません。
リンク先の議論において私も同じことに思い至りました。
>ただし、システムAが、「自己観察」する
>ことができ、さらに「時間意識」を持つ
>ような特殊なシステムである場合は
>話が別です。
この場合「自己観察」しているシステムは元のシステム A とは異なるシステムと思っていたのですが,それは誤解なのでしょうか?
>(ノイマン型コンピュータが典型ですね)
オートポイエーシスとノイマン型コンピュータは対極にあると思っていましたので,
>ただし、これはオートポイエーシスに相対する
>ものとして
扱われないことがある,という方が意外です!
>オートポイエーシス理論は、
>無記号的・無時間的なシステムをベースにしな
>がら、時間性だけを組み込むことによって生ま
>れてきている
このことは「時間」をどう位置づけるかによって矛盾なくあつかえますよね?
>>オートポイエーシスは、「記述不可能」という
>>事態を出発点にしているからであり、
>>数学的記述も不可能というのが、一応の前提だからです。
>
> この「記述不可能」というのは,
>
>>オートポイエーシスは本来的に、時間関係、
>>因果関係の記述不可能性というのを含んで
>>いる
>
> ということ,すなわち,オートポイエーシスが「時間」その他の要因によって決定できないという意味で「記述不可能」ということでよいのでしょうか?
「オートポイエーシスが「時間」その他の要因によって決定できない」
というのは曖昧な表現であり、
意味することを理解することができませんでした。
そもそも、オートポイエーシスというのは、
「対象のシステムの全体像を記述できないが、
それにもかかわらず、何らかの形でシステムは存在している」
というときに、記述できないという事態を説明するための理論とも言えます。
したがって、厳密に言えば「オートポイエーシスは何ものによっても決定されない」という
「記述」もできないのです。
「オートポイエーシスがどのように決定されているのか分からない」というのが正しい表現であり、
これが「記述不可能性」ということになります。
> 逆に「時間」「物理的空間」「構成素」「コード」などがオートポイエーシス・システム(たち)によって決定される,すなわち「時間」その他の要因がオートポイエーシス・システム(たち)の関数になっていると見ることができるのではないかと思っているのですが…そしてそう考えることで,数学的モデル化(あるいは「オートポイエーシス論」の形式化)が可能になるかもしれないと考えています。
記述不可能なのがオートポイエーシスである以上、
記述した瞬間に、それはオートポイエーシスではなくなってしまうというのが事実だと思います。
そのため、数学的モデル化は非常に困難だと思います。
ただし、前にも書いたように、記述不可能という事態をモデル化することは可能でしょう。
オートポイエーシスのモデル化は、
あくまでこの点に注目してなされるべきだというのが自分の立場です。
> ノイマン型コンピュータ
ノイマン型コンピュータと対極的なものとして、
作動が非同期的で、かつ、信号伝達が量子化されているような、
ニューラルコンピュータを想定したらどうでしょうか。
この場合、一つ一つの回路の作動が完全に規定されていたとしても、
全体の挙動は記述不可能になるでしょう。
>>ただし、システムAが、「自己観察」する
>>ことができ、さらに「時間意識」を持つ
>>ような特殊なシステムである場合は
>>話が別です。
>
> この場合「自己観察」しているシステムは元のシステム A とは異なるシステムと思っていたのですが,それは誤解なのでしょうか?
自己観察するシステム、そうではないシステムを両方オートポイエーシスとしてとらえた上で、
それを分類する立場から「自己観察」について論じたのが引用された部分です。
したがって、「システムAが、「自己観察」することができ」というのはレトリックの問題であり、
上記の指摘は、見当違いではないかと思います。
ちなみに、最初、おっしゃっていることが分からなかったのですが、
おそらく想定されているのは山下さんの解釈ではないかと思います。
山下解釈の妥当性については触れませんが、
自分が言っているのは、オートポイエーシスの「分類」の問題なので、
山下解釈とも矛盾しないはずです。
>>オートポイエーシス理論は、
>>無記号的・無時間的なシステムをベースにしな
>>がら、時間性だけを組み込むことによって生ま
>>れてきている
>
> このことは「時間」をどう位置づけるかによって矛盾なくあつかえますよね?
おっしゃっていることの意図が分からなかったのですが、
「時間」を観察者の方の問題だとすることで、
矛盾なく扱うことはできます。
情報ブログさん
曖昧な表現のコメントで申し訳ございません。それにもかかわらず丁寧におこたえ下さりありがとうございます!
>「オートポイエーシスがどのように決定されて
>いるのか分からない」というのが正しい表現で
>あり、
>これが「記述不可能性」ということになりま
>す。
「オートポイエーシスがどのように決定されて
いるのか分からない」という「表現」は「記述」ではないのですね?もしそうであれば,私が考えていた「数学的モデル化」は,
>ただし、前にも書いたように、記述不可能とい
>う事態をモデル化することは可能でしょう。
でおっしゃられている「モデル化」に相当するもののようです。
「オートポイエーシスが「時間」その他の要因によって決定できない」
において,
「オートポイエーシスの「挙動」がなにかの変数の関数として,「予測」できない」(これも曖昧でしょうか?)といった事態を表そうとしていました。で,
「「時間」その他の要因がオートポイエーシス・システム(たち)の関数になっている」
つまり,オートポイエーシス全体の集合(もしこの集合自体が確定しないとすれば,あるものがオートポイエーシスであるのか,そうでないのかすら確定しないということになってしまいますよね?この集合の確定すら「記述」なのでしょうか?そもそも「オートポイエーシス理論」はオートポイエーシスについての「記述」ではないのでしょうか?)によって「時間」や「構成素」などは「決定」される。そう見ることで---オートポイエーシスを「記述」しているのではなく---オートポイエーシス(たち)によって「時間」「物理空間」「構成素」などが「決定」されるようなモデルが構成できるのではないかと思っているのです。
もう少しいうと,この「モデル」では「オートポイエーシス全体の集合」自体は無定義とします(つまりもちろんのことですが,オートポイエーシスとはなにかの定義すらしません)。
すなわち,十分な個数(必要なら無限個)の要素をもつ集合をひとつ用意し(内容的には「オートポイエーシス全体の集合」を部分集合にもつ集合となります),この集合から構成される集合上の関数として「時間」「物理空間」「構成素」「コード」などを定義していくわけです。
意図しているのは「オートポイエーシス理論」の「形式化」になると思います。「オートポイエーシス」の「形式化」ではありません。
「射影」といってもよいのですが,「射影」というとどうしても「次元」が極端に落ちて「実体」の十分な表現にならないという印象があり,「形式化」という表現をしました。「オートポイエーシス理論」自体は少なくとも「言語」で「表現」されていて,「形式化」によっても十分表現できる程度の「厳密さ」をもちあわせているように感じたからです。その「理論」にいろいろな「解釈」があったとしても,それぞれの「解釈」に応じた「モデル」が構成できる程度の「厳密さ」が。
>おそらく想定されているのは山下さんの解釈で
>はないかと思います。
なるほど,いろいろな解釈があるわけですね。
>上記の指摘は、見当違いではないかと思います。
私が確認したのは,上述のような「モデル」において,「オートポイエーシスシステム全体の集合」の各要素に前もってさまざまな属性を与えず,なるべく単純にできないだろうか?と考えていたためです。
それぞれのオートポイエーシスを平等に扱えた方が表現が単純で見通しがよくなるかなと思ったのです。
「自己観察」するオートポイエーシスとそうでないオートポイエーシスを分類すると,「自己観察の自己観察」をするオートポイエーシスとそれ以外のもの,「自己観察の自己観察の…」と(もしかすると)無限の分類をしなければならなくなるのではないかと考え,それは厄介だなと思ったのです。
そして,
「「自己観察」するシステムと元のシステムは異なる」
のであれば,式
「A SR B」
によって,
「A は B を「自己観察」する。」
を表す,としてやると,関係 SR が「オートポイエーシス全体の集合」上にどう定義されるかだけを考えれば「自己観察」を扱えるようになり,無限の分類から解放されるのではないかと思ったのです。
>「時間」を観察者の方の問題だとすることで、
>矛盾なく扱うことはできます。
意図がわかりにくくてすみませんでした。質問の意図は上述のような「モデル」において,事前にはなんの属性も与えられていないある集合のいくつかの要素(これらは「無時間的」です)の間の関係(たとえば「観察する」「観察される」)の上に「時間性」を組み込むことで,矛盾なく扱えることを確認したかったのです。
> 「自己観察」するオートポイエーシスとそうでないオートポイエーシスを分類すると,「自己観察の自己観察」をするオートポイエーシスとそれ以外のもの,「自己観察の自己観察の…」と(もしかすると)無限の分類をしなければならなくなるのではないかと考え,それは厄介だなと思ったのです。
いや、そういう意味ではなく、「自己観察可能か」という分類です。
したがって、「自己観察可能なシステム」と
「自己観察不可能なシステム」の二種類しかありえません。
「自己観察」という言葉の用法にずれがあるのではないかと思うのですが、
いかがでしょうか。
> 「「自己観察」するシステムと元のシステムは異なる」
>
> のであれば,式
>
> 「A SR B」
>
> によって,
>
> 「A は B を「自己観察」する。」
これもやはり問題があると思います。
もし、そういう表記を求めるのなら、次のようなものはどうでしょうか。
システムAによって観察されるシステムBを
B←Aと表記します。
このとき、自己観察可能なシステムXの、
システム自らにとってのシステム(像)は、
X←Xと表すことができるでしょう。
これは私というシステムが観察したシステムX、
つまり、X←私 とは異なるということです。
ただし、X←Xというのは、それ自体、
他のシステムによる観察によって
明らかになるものにほかありません。
X←Xという関係性を理解するのは、
他のシステムに過ぎないからです。
これはたとえば、
X←Xの関係性自体が、Xによってとらえられるのであれば、
(X←X)←X
と理解することができるし、
X←Xの関係性をとらえるのが「私」というシステムなら、
(X←X)←私
と考えることができるでしょう。
(いちいち括弧を書くのは面倒なので、
以下では表記をより単純にして、
X←X←X、X←X←私と表すとします。
要するに、演算子の結合規則が、左→右になるということです)
ここで、当然のことながら、
X←X←X や X←X←私 は、
どうやって認識されるかという問題にぶつかります。
これを解決するには、たとえば、
X←X←X←・・・という無限の連鎖を考えるほかありません。
もちろん、Xは同一である必要はないので、
一般化すれば、
A1←A2←A3←A4←A5・・・・
という連鎖になります。
いずれにせよ、この連鎖に終焉がない以上、
システムの挙動はどうやっても不確定なままなのです。
> 意図がわかりにくくてすみませんでした。質問の意図は上述のような「モデル」において,事前にはなんの属性も与えられていないある集合のいくつかの要素(これらは「無時間的」です)の間の関係(たとえば「観察する」「観察される」)の上に「時間性」を組み込むことで,矛盾なく扱えることを確認したかったのです。
あいかわらず、若干意図が分かりづらいのですが、
「観察」というのを時間的にとらえるモデルを
上記の形式で書くと以下のようになります。
システムBによって観察されるシステムA、
つまりA←Bは一義的には無時間的です。
しかし、この関係そのものが時間的システムTによってとらえられるとき、
(A←B)←Tとなり、
ここで、A←Bの観察関係は時間的にとらえられることになります。
ちなみに、上記の形式、このコメントを書くために思いついたのですが、
結構使えそうなので、Gedさんの反応次第では、
今後も使わせてもらうかと思っています(笑)。
いつも有意義なコメントありがとうございます。
情報学ブログ さん
お返事ありがとうございます!
>これもやはり問題があると思います。
この「問題」というのは,「観察」と「自己観察」を区別している点でしょうか?
理論の形式化は理論が要求する区別を反映していなければならないと思うのですが。
それとも,「自己観察」が,
>他のシステムによる観察によって
>明らかになるものにほかありません。
という点が「問題」なのでしょうか?
システムたちの「関係」は理論上想定されていますよね?それはオートポイエーシス理論においてそうなのであって,形式化によってそうなるわけではないでしょう。「自己観察」という単語は理論の用語としてあり,それに対応した記号が形式化された体系にある。記号化してはじめて「問題」になるということはないでしょう。
さて,オートポイエーシス理論において,「自己観察」はそれを「観察する他のシステム」を前提にしていないのではないでしょうか?それともしているのでしょうか?
あるいは,情報学ブログさんのいう「記述」が「挙動を確定する」ということであって,形式化を「記述」ととらえ,
>いずれにせよ、この連鎖に終焉がない以上、
>システムの挙動はどうやっても不確定なま
>まなのです。
が「問題」となるということでしょうか?
第一に私の意図している理論の形式化は上の意味の「記述」ではありません。ある意味,形式化によってそうした「記述」は不可能であることが証明されることにならなければオートポイエーシス理論の形式化にはならないでしょう。
形式化のメリットの小さなものの一つとしては「言葉の用法の違い」による誤解がなくなることでしょう。その違いは記号の定義に明確にあらわれるでしょうから。
第二に「連鎖に終焉がない」ことは「有限的な観察」によっては確定しない,ことしか意味していません。形式化によって数学的モデルを作れば,自由に「無限」を扱うことができます(これもひとつのメリットと思っています)。
>A1←A2←A3←A4←A5・・・・
は {Ai}i∈N (N は自然数全体の集合)というシステムの列として扱うこともでき,そうした列たち全体を考察の対象にすることができるでしょう。
>あいかわらず、若干意図が分かりづらいのですが、
すみませんでした!
時間はシステムと「観察」や「自己観察」などのシステム間の関係によって,相対的にのみ確定されるということなのですが(まだわかりにくいでしょうか)。
>しかし、この関係そのものが時間的システムTによって
「時間的システム」とはなにものなのでしょう!?
>とらえられるとき、
>(A←B)←Tとなり、
>ここで、A←Bの観察関係は時間的にとらえ
>られることになります。
絶対的な「時間的システム」というものが存在するということでしょうか?それはそれで面白いですね!
私は時間をシステムたちとその関係の関数として定義できないかと思っているのですが…。
できましたら,また教えてください!
>>これもやはり問題があると思います。
>
> この「問題」というのは,「観察」と「自己観察」を区別している点でしょうか?
失礼ですが、議論の展開が良く分かりません。
こちらでは「問題」について具体的に説明しているわけなので、
それに基づいて、具体的に指摘していただければと思います。
> システムたちの「関係」は理論上想定されていますよね?
システムの関係というのは、それをとらえる別のシステム内部の問題です。
したがって、関係が<事前に>想定されているという理解は誤りですが、
関係が想定されているということそのものを否定するわけではありません。
システム論では「形式化」という事態そのものを相対化しているわけです。
> 第一に私の意図している理論の形式化は上の意味の「記述」ではありません。
Gedさんがおっしゃっている「形式化」が分からない以上、
それについての断定的なことは言えません。
自分が言えるのはオートポイエーシスの形式化は「困難」だということ、
<ナイーブな>形式化はできないということまでです。
Gedさんが具体的な「形式化」を提示されていない以上、
話はここまでではないでしょうか?
これ以上話を続けることが有意義だとは思えません。
全ての形式化が不可能ではないということは、
私が、上のコメントである種の形式化を提示していることからも
分かるのではないかと思います。
> 第二に「連鎖に終焉がない」ことは「有限的な観察」によっては確定しない,ことしか意味していません。形式化によって数学的モデルを作れば,自由に「無限」を扱うことができます(これもひとつのメリットと思っています)。
おっしゃる通りです。
そういう形式化を上のコメントで提示したわけです。
> {Ai}i∈N (N は自然数全体の集合)というシステムの列として扱うこともでき,そうした列たち全体を考察の対象にすることができるでしょう。
そうです。
ただし、その{Ai} i∈Nを観察するということ自体が、{Xi}による観察によるとしなければいけないというのが、
通常の数学の議論と異なります。若干おかしな表記ですが、雰囲気としては以下のような感じです。
(∀i∈N A1←A2←A3←・・・・・←Ai)←X1←X2←X3
>>しかし、この関係そのものが時間的システムTによって
>
> 「時間的システム」とはなにものなのでしょう!?
時間を認識できるようなシステムを時間的システムと呼んだだけで、
他意はありません。
> 絶対的な「時間的システム」というものが存在するということでしょうか?それはそれで面白いですね!
上のコメントの表記では、
絶対的な時間は存在しないということを言っています。
解釈として全く正反対です。
最後に一つ補足すると、
A←X⊂X
言い換えると、
システムXの観察によるシステムAはシステムXの一部である。
あるいは、システムXが観察するあらゆるシステムは、
システムXの一部であるということになります。
これは、システムの閉鎖性という性質が要求する命題で、
この性質が成り立っていないとき、
そのシステムは閉鎖系ではないということになります。
絶対的な時間軸が存在しないというのも、
このことに由来するものであり、
オートポイエーシスを含め、
閉鎖的システムを扱うときに必然的に要求される命題と言えると思います。
漫画版「風の谷のナウシカ」のラストについて
に対する
進撃のナウシカさんのコメント
「風の谷のナウシカ」について補足
に対する
異邦人さんのコメント
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(2011/02/19)
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(2011/02/11)
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(2010/12/24)
書評:マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』について
(2010/12/07)
社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠
(2010/09/04)
はじめまして。
mixiのコミュニティから流れてきました。
些末なことですが、私なりに気づいたことを。
(7) 2つのシステム論の*1、河本氏の時間の扱いについてなのですが、「時間は感性の先験的形式である」というのは反省論の典型的なスタイルとして提示されたカントの議論の一部であり、河本氏自身の時間の扱いとはまた別なものです。