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オートポイエーシスと時間

システム論 | 2007/03/30

この記事は、オートポイエーシスの基本的な考え方について解説すると同時に、オートポイエーシスにおける時間概念について論じるものです。

大きく言うと、二つの読み方ができると思います。

一つは、オートポイエーシスについて全く知らない方が読む入門的な記事としてです。一般的な説明とは、説明の順番を大きく変えていて、分かりやすいものになっているのではないかと思います。

もう一つは、オートポイエーシスについての議論の整理としてです。特に、この記事は、オートポイエーシスにおける時間概念について整理するものであり、マトゥラーナ&ヴァレラやルーマンの議論と、河本英夫氏の議論の関係についてもある程度分かるようになっています。また、最後の節では、システム論と情報学の関係について簡単に触れています。オートポイエーシスについて学んだけど「何となくしっくりこない」という方にも読んでいただけると幸いです。

○目次

(1) はじめに
(2) オートポイエーシスと『形式の法則』
(3) システムの閉鎖性
(4) 作動と区別
(5) システムと物理空間
(6) システムと時間概念
(7) 2つのシステム論
(8) 神経システムと時間の獲得
(9) システム論と情報学

/////

(1) はじめに

オートポイエーシスは、1973年にウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラによって提案された生命論、システム論であり(*1)、社会学者のニクラス・ルーマンによって社会理論として発展させられ、今日に至るまでさまざまな分野で注目されてきました。

さて、この理論の特徴は生命を「入力も出力もない」「閉じたシステム」としてとらえることにあるわけですが、これは、この理論が私たちの常識とはずいぶん離れた問題を扱っていることを示しているでしょう。というのも、常識的に考えたら、世界に「閉じたシステム」などどこにもありません。人間にしても酵母菌にしても、生物は内部と外部で入出力を行っています。ここでシステムが「閉じている」とはいったいどういうことなのでしょうか。

常識的な考えにしたがえば、システムには空間的な内部と外部の区別があり、「閉じている」ということは理解不能です。また、百歩譲って空間的な閉鎖性を認めたとしても、システムがある時間に存在するなら、システムの閉鎖性はいつか崩れると考えるのが普通であり、いずれにせよ「閉じている」というのは理解不能でしょう。

こうした問題は、オートポイエーシスの議論において、時間や空間の概念が特殊な位置づけをされているということを無視して考えることができません。そして、その中でも特に重要なのが時間概念と言うことができます。今回の記事では、オートポイエーシスが最初に提案されたマトゥラーナ&ヴァレラの論文「オートポイエーシス―生命の構成」(以下、「生命の構成」)(*2)における「オートポイエーシス」の議論をもとに、こうした問題について簡単に説明したいと思います。

*1 "Autopoiesis―the Organization of the Living" [Maturana & Varela 1973]

*2 同上

(2) オートポイエーシスと『形式の法則』

マトゥラーナとヴァレラは、オートポイエーシスの議論をするに当たって、明らかにスペンサー・ブラウンの『形式の法則』に依拠して話を進めています。というのも、「生命の構成」の冒頭は、形式の法則からの引用で始まり、それ以外にも、形式の法則の議論を前提にした表現を、非常に中心的なところで用いています。

ところが、奇妙なことに、「生命の構成」に、スペンサー・ブラウンの名前は一度も出きておらず、巻末の参考文献表でもスペンサー・ブラウンの著書は全く出現しません。この不思議な構造は、『形式の法則』がどのようなものであるかを知らないことには理解することができないでしょう。

『形式の法則』は、あらゆるものが「区別する(distinction)」という「操作(operaton)」によって始まるという基本的な姿勢に基づき、独特の記号と演算形式を提案するものです。ところが、これまた奇妙なことに、この本が指摘している演算形式は数学的に新しいことではなく、当時すでに一般的だったブール代数(真と偽という二つの値を取り得る変数についての代数的議論―And, Or, Notなどの演算子を用いる)を変形しただけのものとも言えます(*1)。それにもかかわらず、『形式の法則』が評価されるのは、こういう数学的な意味とは全く別の意味があるからです。すなわち、『形式の法則』は、新しい形式をメタファーとして「あること」が示唆するものであり、それによってこそ意味があるものなのです。

『形式の法則』の冒頭は次の文で始まります。

この本のテーマは、空間が二つに分けられ、宇宙が存在するようになる(a universe comes into being)ということについてである。(*2)

マトゥラーナとヴァレラは、この文を引用しながら出典を明示しないという奇妙な形で論文を始めているわけですが、このことは重要な意味を持っています。というのも、「生命の構成」の主題は、「生命がどのように存在するか」とも言えるわけですが、そこではシステムの「観察」が問題の中心になっています。生命はどういう意味で存在していて、観察者と関係しているのか、あるいは生命はどういう意味で観察者になりえるのかということが繰り返し問われていくわけですが、その中で、中心となるのが、スペンサー・ブラウンの提示した「区別(distinction)」あるいは「作動(operation)」概念です。

このことから、マトゥラーナとヴァレラが、スペンサー・ブラウンの『形式の法則』を、いわゆる「存在論」―認識者の存在を自明とせず、認識者の存在そのものを問い直していく議論―としてとらえていたことが分かるでしょう。

ただし、『形式の法則』そのものはあくまで「存在論」を示唆しているだけであり、決して「存在論」そのものではありません(*3)。表面的には新しい演算形式を提案しただけのものであり、それ以上のものではないわけです。このことは、マトゥラーナとヴァレラが、『形式の法則』に明らかに依拠しながら、一度も言及しないという奇妙な形式を取っていることを説明する上で非常に重要なものと言えるでしょう。

*1 スペンサー・ブラウンなんていらない/黒木 玄
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/SB/

*2 The theme of this book is that a universe comes into being when a space is severed or taken apart. [Brown 1969 : v 訳xiii]

*3 さらに言うと、「存在」ではなくて「区別」が重要だと強調しています。 [Brown 1969 : 101 訳118]

*4 情報哲学者のラファエル・カプーロは、オートポイエーシスについは触れていないものの、『形式の法則』を明確にハイデガーの『存在と時間』と関連させて議論しています。この問題意識はマトゥラーナとヴァレラが示唆的ながら明確に提示しているものだし、おそらく、スペンサー・ブラウン自身も意識していたものだと思われます。

(3) システムの閉鎖性

オートポイエーシスは、システムの存在がどのようにとらえられるかという問題と深く関係しているわけですが、そう言った問題をさておいて、純粋に「システムの閉鎖性」についての議論を「生命の構成」から拾っていくと、かなり単純なロジックから構成されていると言うことができます。「生命の構成」には以下のように書かれています。

環境とのフィードバックループを持ち、出力が入力に影響するような機械Mを考えるとする。このとき、実は、環境やフィードバックループを構成として持つ、より大きな機械M'について考えていると言うことができる。(*1)

この文章において、MではなくM'について考えるのがオートポイエーシスの視点です。要するに、通常ならシステムの環境とされているようなものも全部システムの一部だと考えるわけです。一般的な表現をすれば、システム=世界全体と言うこともできるでしょう。

ここで重要なのは、この議論が、システムの「構成(organization)」と密接に関係しているということです。

オートポイエーシス理論では、システムは、作動(operation)によって構成されていると考えます。生命システムの場合、作動とは産出です。細胞が細胞を生み出したり、タンパク質が別のタンパク質を生み出すというようなとき、新しい細胞やタンパク質の産出(production)が作動であり、こうした作動によってシステムが成立していると言うことができます。

ここで、すぐ上に書いたこと(MとM'の関係)から、「作動」というのは、単に物質的な産出関係だけを指すのではなく、産出にかかわる因果律の全体を指していることが分かります。物理的な空間をとらえるような視点でオートポイエーシスを考えたとき、システムは世界全体と言えるわけですが、一つ一つの作動もまた、世界全体とかかわるような形でとらえることができるのです。世界全体とかかわるような形で存在している作動によって構成されるシステムは、当然のことながら、世界全体とかかわるような形で存在しているわけです。

これはいわゆる「文脈依存性」として議論されてきたことを別の形で表現していると言うこともできるでしょう。私たちが生命現象について考えるとき、どうしても、細胞やタンパク質のような物質的なものだけに注目してしまいがちです。ところが、オートポイエーシス理論においては、こうした物質的な産出関係の文脈を含んだ因果律の全体として「作動」をとらえているわけです。こうした「文脈」をとらえる世界観を定式化したのが、オートポイエーシスだと言うこともできると思います。

「システムの閉鎖性」「システムの入出力の不在」と言ったオートポイエーシスの性質は、以上のような観点から、比較的容易に理解することができるわけです。

*1 If one says that there is a machine M, in which there is a feedback loop through the environment so that the effects of its output affect its input, one is in fact talking about a larger machine M's which includes the environment and the feedbackloop in its defining organization. [Maturana & Varela 1973 : 78]

(4) 作動と区別

「生命の構成」のポイントは、単にこうしたシステムの閉鎖性をとらえるということではなく、システムの作動(operation)が、システムの存在を規定(define)するものとされているということです。そしてこのことは当然、作動の全体であるシステムの構成(organization)が、システムの存在を規定するということにもなります。

オートポイエティック・システムは、そのシステムに固有のオートポイエティックな構成によって、そしてそれによってのみ単位体(unity)である。つまり、システムの作動は、自己産出のプロセスを通してシステム自らの境界を特定(specify)するのである。(*1)

オートポイエティック・システムは、そのオートポイエティックな構成によって単位体(unity)として規定(define)される。(*2)

ここで、作動=区別(distinction)が、「境界を特定する」ということに注目する必要があるでしょう。ここで注意しないといけないのは、この文章中の「境界(boundary)というのが、決して空間的な境界(機械Mの物理的な境界)ではなはなく、論理的な境界だということです。

これは、若干分かりづらい事態ですが、このことを理解するためには、次のように考えれば良いでしょう。システムの作動は、定義上、常にシステムの内部です。ここで言う「内部」というのは、物理的な空間の問題ではないわけですが、そうだとしたらどういう意味での「内部」なのでしょうか。これを理解するためには、「作動」に対して、論理的な意味で「作動ではないもの」が想定されていて、それに対して「作動」があると考えるほかありません。つまり、ある「作動」が生まれるより前には、「作動」と「作動ではないもの」の区別はないわけですが、「作動」が生まれることによって、「作動」と「作動ではないもの」の「区別(distinction)」が引かれるわけです。

たとえば、「心」というシステムを考えると、私たちが考え得るあらゆるものは自分の心の内側の問題です。地球の裏側のできごとも、宇宙の果てのできごとも、全て「心」というシステムの内部の問題だと考えることができるでしょう。ところが、私たちがあることについて考えるとき、考えていないものは心の「外側」になるわけです。私たちは心の外側について考えることはできません。しかし、論理的には「外側」を想定することができ、これを表現すると「システムの作動によってシステムの境界が引かれる」ということになるわけです(*3)。

こういった非空間的な「内部」と「外部」の関係を、マトゥラーナとヴァレラは「位相的」呼んでいるわけですが、これは別の言い方をすれば「論理的」なものでもあり、明らかにスペンサー・ブラウンの『形式の法則』に由来するものです。オートポイエーシスではしばしば「作動はシステム/環境を区別する」というような言い方がされるわけですが、この区別が、空間的な「内部」と「外部」ではないことには留意する必要があるのです。

*1 Autopoietic machines are unities because, and only because, of their specific autopoietic organization : their operations specify their own boundaries in the processes of self-production. [Maturana & Varela 1973 : 81] [Varela 1979 : 15]

*2 An autopoietic system is defined as a unity by its autopoietic organization. [Maturana & Varela 1973 : 88]

*3 このようにしたとらえられた「外側」もまた、システムの内側ではないかという批判は当然考えられると思います。これを厳密に考えるのなら、可能的/現実的という形而上学の問題意識に至ることになるでしょう。ただし、これは一般的なオートポイエーシスの議論からは離れるため、ここではそういう問題があるということを指摘するのに留めることにします。

(5) システムと物理空間

では、オートポイエーシスにおいて、物理的な空間は問題にならないのかというと必ずしもそうではないのです。マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス理論において、システムの作動=産出ですが、マトゥラーナとヴァレラは「産出」を物質的な産出に限定してます。そして、産出される物質については、空間的な拡がりを持つのです。したがって、マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス理論においては、システムは常に物理的な空間に実現(embody)するわけです。(*1)

ただし、オートポイエーシスに物理空間への実現が必要かということについては、必ずしも統一した見解があるとは言えません。ニクラス・ルーマンは、システムの作動として、コミュニケーションや思考(自己コミュニケーション)を考えました。コミュニケーションや思考は、たしかに「産出」するものですが、それは物質的なものではなく、したがって、コミュニケーションや思考が作るシステムは、物理空間上に実現することはありません。ルーマンの立場からすれば、システムの物理空間上の実現は必須のものではないわけです。

一方、ヴァレラは、システムの作動として「産出」「変形」「記述」などを挙げ(*2)、物質的な産出関係によるシステムのみを「オートポイエーシス」と呼び、他の作動の場合は「自律システム(autonomous system)」あるいは「構成的閉鎖性(organizational closure)=作動的閉鎖系(operational closure)」と呼ぶことを提案しています。

オートポイエーシスに対するヴァレラの限定的な解釈は、ルーマンの用語法と明らかに異なるもので、ヴァレラはその意味でルーマンに対して批判をしています。しかし、これはあくまで言葉の定義の問題であり、理論上の対立があるわけではないと考えることもできるでしょう。むしろ重要なのは、ヴァレラの主張から逆に明らかなように、オートポイエーシス(あるいは自律システム)の成立に、物質的な産出関係や、それが物理空間上に成立することは必須ではないということではないかと思います。そういう意味で、この記事では、ルーマンと同じく、「オートポイエーシス」という用語を広く解釈し、物理空間上の実現は必須ではないという立場を取ることにしたいと思います。

*1 ちなみに、ヴァレラの"Embodied Mind"という著書のタイトルは、「身体化された心」と訳されていますが、これは明らかにオートポイエーシスが物理空間に「実現」することと関係している用語です。

*2 The processes that specify a closed organization may be of any kind and occur in any space defined by the properties of the components that constitute the processes. Instances of such processes are produtioon of components, descriptions of events, rearrangement of elements, and in general, computations of any kind, whether natural or man-made. [Varela 1979 : 55]

(6) システムと時間概念

オートポイエーシスについての基本的な考え方の紹介が終わったところで、やっと本題に入ります。オートポイエーシスと時間はどういう関係にあるのかという問題です。

物理空間上に成立するオートポイエーシス、すなわち、物質の産出を作動とするシステムにとって、ある状況でシステムが破壊されることがあるのは当然のことと言うことができます。

こうしたシステムにおいては、システムの補償できる範囲を超えて、システムの作動に対する物理的な障害があったときにシステムが分解する、すなわち、オートポイエーシスではなくなる、というような形でシステムが構成されているのである。(*1)

システムが物理空間に実現している以上、システムには始まりと終わりがあることは当然とも言えるでしょう。

では、物理空間上に実現していないシステムの場合、時間概念は無視できるのでしょうか。結論から言えば、作動(operation)の概念は、マトゥラーナやヴァレラにおいても、ルーマンにおいても、時間的に「ある点」を占めるものとしてとらえられていることが分かります。特にルーマンの場合、コミュニケーションが、接続、連鎖していくというようなとらえ方をしているわけですが、これは明らかに、時間概念を前提にして作動をとらえていることになるでしょう。

もちろん、ここで言う時間軸が「どういう時間軸か」ということについては、あらかじめ前提にされているわけではありません。たとえば心というシステム(主観的時間意識)や、社会というシステム(客観的時間意識)によって、それぞれの「作動」がとらえられると言えるでしょう。しかし、それにもかかわらず、作動は、あらかじめ何らかの時間軸における「ある点」を占めるものとしてとらえられているわけです。

これは当然のことと思うかもしれませんが、空間概念と比較してみると、その特徴が分かります。すでに述べたように、システムの作動は、一般に空間的に特定の位置を占めるものとして扱われているわけではなく、世界全体と関わるような形で成立しています。どういう空間軸の中で成立しているかが決まっていないのはもちろん、空間的な位置づけそのものが規定されていないのです。空間的に位置づけられるのは、産出プロセスの結果生まれた産物、つまり物質だけです。

これに対し、時間に関しては、初めから時間軸上のある点を占めるかのように扱われています。もし、作動が無時間的なものであるなら、任意の2つの作動は相互に関係をもたないといけないでしょう。言い換えれば、作動を決める、未来の事象(いわゆる予測)と、過去の事象(いわゆる経験)を区別することはできないのです。しかし、マトゥラーナとヴァレラにおいても、ルーマンにおいてもこうした議論はなく、ナイーブに過去の作動によって次の作動が決まるものとされているのです。このことは、マトゥラーナとヴァレラがシステムの進化や歴史性について論じるとき、明らかに時間を一方向的に論じていること、また、ルーマンがシステムの作動を「接続」「連鎖」としてとらえていることからも明らかでしょう。

このことは、スペンサー・ブラウンとの関係に基づいて考えることもできます。スペンサー・ブラウンの『形式の法則』の議論は、無時間的、無空間的なものです。このうち、物質的な産出プロセスとしてのオートポイエーシスは、物理空間に「実現」するものであるにしても、一般のオートポイエーシス(自律システム)は、空間的に実現することは必須ではありませんでした。そしてだからこそ、「生命の構成」では物理空間での「実現(embodiment)」が強調されているわけです。ところが、時間的な「実現」についてはこうした議論を経ず、あらかじめ前提にされてしまっているわけです。

逆に言えば、このことから、オートポイエーシスを特徴づけるのが、実は「時間概念」だということができます。つまり、無時間的、無空間的なスペンサー・ブラウン的存在論に時間概念を導入し、「作動」が時間軸に沿って並べられるようにとらえられているのが「オートポイエーシス」だと言うことができるでしょう。

このことは、オートポイエーシスの議論において、本来的に時間そのものについては問題にできないということを示していると言えます。時間軸上のオートポイエーシスは大前提であり、時間軸がどのように成立するかについては別の議論を採用する必要があります。たとえば、時間意識の生成について議論するのであれば、オートポイエーシスの議論は使えないのです。

*1 all of them, however, will be organized in such a manner that any physical interference with their operation outside their domain of compensations will result in their disintegration: that is , in the loss of autopoiesis. [Maturana & Varela 1973 : 81][Varela 1979 : 16]

*2 A historical phenomenon is a process of change in which each state of the successive states of a changing system arises as a modification of a previous state in causual transformation, and not de novo as an independent occurence. Accordingly, the notion of history may either be used to refer to the antecedents of a given phenomenon as the succession of events that gave rise to it, or it may be used to characterize the given phenomenon as a proess. [Maturana & Varela 1973 : 102]

(7) 2つのシステム論

システムの作動を、時間的にある点を占めるものとしてとらえる見方は、「一般的な」オートポイエーシス理論において前提になっているわけですが、ここで注意しないといけないことがあります。

この記事では、オートポイエーシスにおけるoperationという単語に作動という訳を当てたわけですが、スペンサー・ブラウンについて議論するときは、操作という訳語を当てました。しかし、言うまでもなく、両者は同じものです。そして、スペンサー・ブラウンの『形式の法則』に基いて言えば、operationはそもそも無時間的な「操作」を意味する言葉なのです。

この立場から前の節の議論をとらえ直すと、マトゥラーナやヴァレラ、ルーマンは、スペンサー・ブラウンの無時間的な作動(操作)の概念に時間の要素を含めることで、オートポイエーシスを打ち立てたと言うことができると思います。

しかし、これは逆に言えば、オートポイエーシスには必ずしも時間性は不要ということを示しているとも言えるでしょう。マトゥラーナやヴァレラ、ルーマンにおいて、作動が時間的にとらえられているというのが事実としても、それを再解釈して無時間的な作動(操作)に基づくシステム論を構築することは可能です。そして、この立場を取るならば、時間意識の生成についても、システム論の枠内で考えることができるでしょう。

こうした立場からオートポイエーシスを発展させようとした論者に、河本英夫がいます。

オートポイエーシス・システムは産出的作動を反復するシステムである。だがそれはあらかじめ直線上に設定された時間軸(ニュートン的時間)の上を時刻を追うように動くシステムではない。そのような時間は、システムの作動に先立って、観察者があらかじめシステムの外に設定しておいたものに過ぎない。(*1)

要するに、河本にとって、作動は無時間的なものです。河本のような立場からすると、ルーマンのような「コミュニケーションの接続」ということは理解不能になるのであり、河本のシステム論と時間的作動を前提にした通常のオートポイエーシスとは区別しないといけません。しかし、河本の議論はシステム論の発展形としては十分ありえる態度だし、特に時間意識の問題を扱うためには有用なものです。河本の議論をオートポイエーシスと呼ぶかどうかは言葉の定義の問題ですが少なくともシステム論と言えることは間違いないでしょう。(*2)

ここでこの2つのシステム論を区別することは決定的に重要なことだと言うことができます。たとえば、システムを作動の接続、連鎖としてとらえているのに、システムは無時間的だと考えたりすると、システム論そのものが理解不能になってしまうからです。オートポイエーシスをめぐる混乱の一つはこの「2つのシステム論」を混同しているという点だと言えるでしょう。

ただし、2つのシステム論の関係には、もう少し複雑な要素が絡んでいます。これについて次の節で論じます。

*1 [河本 1995 : 279-280]。ちなみに、河本自身は、時間の扱いについて若干混乱していて、この直後で「時間は感性の先験的形式である(河本 1995 : 281)」と認識論的解釈をしています。ちなみに、河本氏は、この直後で「時間は感性の先験的形式である(河本 1995 : 281)」と認識論との関係を指摘しています。(直前の削除箇所を削除し、そこからここまでを追加、行輔さんのコメントによる 6/14)

*2 ここで時間的なシステム論(通常のオートポイエーシス)に対して、河本のシステム論を無時間的なシステム論と言うことにします。ここで、無時間的なシステム論が存在論的であるのに対し、時間的なシステム論が、少なくとも部分的に認識論的であるということもできると思います。

(8) 神経システムと時間の獲得

オートポイエーシスについて考える上で、誤解されやすいのが、「生命の構成」の付録である「神経システム」や、本来「生命の構成」と別の論文である「認知の生物学」との関係です。

「生命の構成」の本論は、物質的、時間的なオートポイエーシスについて議論されているのですが、付録の「神経システム」ではわざわざオートポイエーシスと区別した上で、無時間的、非物質的なシステムとしての神経システムについて述べられてるし、これと同じことは「認知の生物学」でも述べられています。オートポイエーシスが時間的なシステムであることは、こうした本の構成からも明らかなのですが、一般には、この区別がほとんどなされておらず、これがオートポイエーシスに対する誤解につながっているわけです(*3)。河本の議論は、こうした神経システムの議論にまでオートポイエーシスを拡大するものとして位置づけられるわけです。

ついでに言うと、もう一つ複雑なのは、神経システムが時間的にも非時間的にもとらえられるということです。特に、マトゥラーナとヴァレラは、神経システムの議論において、「時間概念が獲得」されるということを議論していますが、「時間概念が獲得」されて、神経の発火の「接続」として神経システムをとらえるとき、そこではすでに時間概念が導入されています。これはルーマンの社会システム論の原型とも言えると思います。

 

Variety_of_Autopoiesis
図1 オートポイエーシスの変遷

 

つまり、マトゥラーナは、最初に非物質的、無時間的な神経システムの議論(a)、それが時間概念を獲得することによる、非物質的、時間的な神経システムの議論(b)をしています。それをもとにヴァレラとともに物質的、時間的なオートポイエーシス論(c)を提示したわけですが、ここから非物質的、時間的なオートポイエーシス(d)を提示したのがルーマンであり、それを再び非物質的、無時間的なシステム(e)に拡大したのが河本の議論だとまとめることができるでしょう。ここで河本は(a)-(e)のシステム論を全てオートポイエーシスと呼んでいるわけですが、システムを作動の接続、連鎖としてとらえる限り、どんなに拡大解釈したとしても(b)-(d)しかオートポイエーシスと言えないのです。そして、そう理解しない限り、「作動の接続」というオートポイエーシスの基本的な考え方が理解できないでしょう。これは言葉の定義の違いであると言えなくもないわけですが、少なくとも、両者の立場は区別する必要があるわけです。

*1 たとえば以下の論文では、オートポイエーシスが無時間的なシステムだとされていますが、その論拠となる注32(p.117)、注47(pp. 119-120)の引用先は、「認知の生物学」であり、注33(p.117)の引用先は「神経システム」です。ところが、あたかもオートポイエーシスについての議論であるかのように扱われているのです。これは単にオートポイエーシスの定義の問題であって、大きな問題ではないとも言えるわけですが、社会システムとの関係についての混乱を回避する上ではやはり重要なポイントだと言えるでしょう。

土谷 幸久2003 「オートポイエーシス的生存可能システムモデルの基礎的研究」http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/3679/5/Honbun-06_chapter04.pdf

また、(河本ではなく)マトゥラーナ&ヴァレラのオートポイエーシスに言及しながら、それが無時間的だとしているネット上のリソースには以下のようなものもあります。

松岡正剛の千夜千冊『オートポイエーシス』 ウンベルト・マトゥラーナ&フランシスコ・ヴァレラ
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1063.html

自律型システム論・自己組織性
http://www.bekkoame.ne.jp/~kmakoto/autopoi/autonomy.html

(9) システム論と情報学

良く指摘されるように、システム論と情報概念の関係は、ベイトソンによる情報の定義「差異を生みだす差異(a difference which makes a difference)」(*1)から強く示唆されるものです。しかし、両者は簡単につなげられるようなものではなく、この関係について論じるためには、「情報とは何か」ということが厳密に問われなくてはいけないでしょう。ここでは、時間的/無時間的なシステム論の区別をもとにして、システム論と情報概念の関係について簡単に触れたいと思います。

時間的/無時間的なシステムの作動に、意味するもの―意味されるものの関係はあるのでしょうか。たとえば、時間的にとらえられている(つまりルーマンの社会システムように作動の接続としてとらえられる)、神経の発火のシステムがあったとします。ここで、神経の発火というのは、ある種のパターンであり、システムそのものからも、システムの観察者からもパターンとしてとらえられると言うことができるでしょう。しかし、システムの作動がパターンということは、逆に言うと、そのパターンで表現されている「何か」があるということにもなり、そこには意味するもの―意味されるものの関係が想定されていることになります。もちろん、神経の発火のパターンそのものも、それで意味されているものについても、完全にとらえることはできません。システムの作動によって「世界全体とかかわるような形で」意味するもの―意味されるものの関係があるだけです。しかし、この両者の関係があるということそのものは否定することができないでしょう。コミュニケーションにしても、物質の産出にしても、これと全く同じことが成り立っています。

ところが、スペンサー・ブラウンの議論では、こうした意味するもの―意味されるものの関係は想定されていません。では、システムの作動に、意味するもの―意味されるものの関係は必須なのでしょうか。そうではないのでしょうか。

一般に、システムの作動が時間的に実現するとき、要するに作動が時間軸上にとらえられているとき、システムの作動は何らかの形でパターンとしてとらえられている必要があるでしょう。そうでない限り、時間軸上でとらえることができないからです。これに対し、システムの作動が無時間的にとらえられているのであれば、作動がパターンであるかは任意になります。

この議論は、明らかに「情報」についての議論です。スペンサー・ブラウンにおける無時間的・無記号的な作動を、「存在としての情報」と呼ぶとすると、そこに意味するもの―意味されるものの関係を導入することで、無時間的・記号的な「パターンとしての情報」が成立することになります(*2)。そしてそこに、時間概念を導入することで、記号的・時間的な情報、つまり「(狭義の、つまり時間的な)作動としての情報」がとらえられることになるでしょう(*3)。

では、「パターン」はどのように成立し、どのように認識されるものなのでしょうか。(削除、4/11 19:02)これはこの記事の範囲を大きく超えるため、別の機会に論じることにします。しかし、いずれにせよ、システム論における時間の問題は、「情報とは何なのか」という「情報についての問い」と深く関係しているものなのです。最後に、このことを指摘して、この記事を終わりにしたいと思います。

*1 Bateson, Gregory 1972 "Steps to An Ecology of Mind" Chandler. 佐藤良明訳 1990 『精神の生態学』思索社

*2 情報をパターンとしてとらえる見方は、吉田民人 1992「情報・情報処理・情報化社会」社会情報1-1,pp.31-53など。ちなみに、吉田は『形式の法則』を訳した大澤、宮台の師匠であり、翻訳を勧めたことでも知られています。この経緯については、[Brown 1969 : 訳171]。

*3 なぜ、オートポイエーシスの作動をわざわざ「作動としての情報」と呼ばないといけないのでしょうか。一般的に、情報概念として有名なものとして、「パターンとしての情報」と「メッセージとしての情報」があるわけですが、この両者をつなぐ中間的な存在が、オートポイエーシスの作動であり、議論の整理のためには、これをパターンやメッセージと区別される、「作動としての情報」とする必要があるのです。これについては、別の機会に詳しく論じたいと思います。

○引用文献

Brown, G. Spencer 1969 "Laws of Form" Allen & U 大澤真幸、宮台真司訳 1987「形式の法則」朝日出版社

Maturana, H. R. et Vaerala, F. J. 1973 "Autopoiesis―the Organization of the Living in [Maturana & Varela 1980]

Maturana, H. R. et Varela, F. J. 1980 "Autopoiesis and Cognition: the Realization of the Living" D. Riedel Pub.

Varela, F. J. 1979 "Principles of Biological Autonomy" Elsevier

河本英夫1995『オートポイエーシス―第三世代システム』青土社

○関連ブログ・サイト

オートポイエーシス序の口/貧乏独学ノ記
http://d.hatena.ne.jp/precariat/20061220/p1
(3番目の注にこの記事と関係することが書いてあります)

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私にとっての、そして構築されたものとしての風景

日記・コラム・つぶやき | 2007/03/21

今日は仕事が休みだというのに気づかずに職場に行ってしまった。職員室では、事務の女性が一人で仕事をしている。どうも卒業式で授業が休みだったらしいのだ。

「せっかくだから、先生も卒業式に出られたらどうですか?」
「始まったのは何時ですか?」
「えっと、10時ですね。」
「もう始まってるじゃないですか。先生は遅刻しちゃいけないんですよ。」

自分は笑いながらそう言った。

「じゃあ、今日は帰りますね。」

そう言って職場を出たものの、さすがにそのまま帰るのはもったいなので、近くの喫茶店で、持っていた本を読んで帰ることにした。

いつもと違う気分。人は毎日の生活の中に投げ込まれると、普段と違うことをする気力すらなくしてしまう。だけど、ちょっとしたきっかけで、それが変わる時があるのだと思う。

大宮からの電車が荒川を通り過ぎたとき、この場所を散歩してみたらどうだろうかという考えが頭をよぎった。赤羽駅から荒川まで20分弱くらいだろうか。

そう言えば、最近「歩く」ということをほとんどしていない。大学生のころは、1時間とか2時間一人で散歩をするのが当たり前のようになっていた。しかし、習慣というのは恐ろしいもので、一度それを忘れると、どこまでもそうする気がなくなってしまう。

そんなこともあって、荒川の土手を歩いてみようという突拍子もないプランは、電車を降りるまで、「そういう考えもある」という可能性の問題でしかなかった。でも、乗り換えのために電車を降りると、いつの間にか改札を出ていた。外の風はどうしょうもなく寒い。新しいことはいつもこうやって始まるのかもしれない。

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1時間ちょっと歩いて、浮間舟渡の駅にほど近い浮間公園に着いた。ここは一度だけ来たことがある。公園の一本一本の木、池の水面に複雑な思いを感じるのは、その場所が「ある記憶」と関係しているから。そのことには、自分でも何となく気づいていた。

埼京線のホームに上がったとき、ホームの風景がひどくきれいに見えた。湾曲したホームに差し込む日の光は、最高の造形美だ。その時にふと思った。ああ、自分は今、写真を見る目でこの風景を見ているのだと。

もし、自分が写真というものに出会ったことがなかったとしたら、あるいは自分でカメラを持って写真を撮った経験がなかったとしたら、きっとこの風景は美しくも何ともなかったに違いない。言うならば、近代の<社会>というシステムが作り上げたのがこのホームの美しさ。だとしたら、今日荒川で見た風景も、そこで感じたものも、全て同じように<社会>の産物だったに違いない。

真っ青な広い空、ベンチに座って本を読む少女、新品のテトラポッドの山、生活感の漂う巨大な作業室を載せた土砂掘削船。一つ一つは自分にとって大きな発見だったかもしれないが、その感動を「新鮮」というには余りにも使い古されたものだ。

でも、一方で、それは<私>の世界、<私>というシステムのできごと。過去にどれだけ同じ主題についての映画や小説があろうと、私が見た風景はあくまで私にとっての風景にほかならない。荒川を散歩した後でなければ、ホームの造形美を感じることはなかったかもしれない。もし、今日、仕事が休みではなかったら、あるいは喫茶店に立ち寄っていなかったら、同じ景色は見ていなかったに違いない。

一言で言えば、私たちが見る風景は、<私>という物語の風景であると同時に、<私>にとっての<社会>の物語の風景。そして、私たちが生きるということは、<私>自身に出会うと同時に、<私>の中の<社会>に出会うこと。「風景を見る」という何気ないことの中には、そんなことが含まれているのだと思う。

そうして、いつものようにシステム論について考えている自分がいた。

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歴史のまえぶれ

日記・コラム・つぶやき | 2007/03/05

ひさしぶりに公園に散歩に行こうと思って家を出たのだけど、どうも雨が降るような降らないような微妙な感じだった。途中で一瞬引き返したものの、まだ大丈夫だと思って、やはり公園には向かうことにした。

公園に着くと、急に強い風が吹いてきた。砂が舞い上がり、頬に当たる。

 雨だ。
 もうすぐ雨が降る。

雨が降る前には気圧の変化で、強い風が吹く。小学校の理科の時間で習う話だが、そんなことは、太古の昔から、人間が知っていたことだろう。まえぶれ。そんな言葉が頭をよぎった。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

いつも思うことなのだが、歴史の中で、戦争に進もうとする社会に生きている人たちは、その時代において、どんなことを考えていたのだろうか。民主的な社会から、独裁政権に変わっていく国の人たちは、その時代において、どんなことを考えていたのだろうか。

ナチス党が政権を握ったドイツ、大正デモクラシーが終わったころの日本。

きっと、当時の人々は、ラジオを聞きながら、身勝手なマイノリティや犯罪者に怒りを感じ、国の危機や、愛国心の大切さという全くもっともな主張にうなずいていたのだろう。そんな中で、今、何が起きているか、気づいていなかったのではないかと思う。

しかし、それは後から歴史を振り返る私たちだからこそ言えること。その当時の人々は、そんなことに気づけるはずもない。後から振り返って、その時代の人を責めるのは酷だろう。

ただ、もし、当時の人がそういう現実に気づけるような「まえぶれ」があったとしたら、それはどんなものだっただろうか。私たちが歴史から何かを学ぶとしたら、まさにこういうことではないかと思う。

今の日本では、何でもかんでも「人権」を主張する人たちに眉をしかめないといけなかった時代が終わり、犯罪の恐ろしさや、愛国心が強調される時代に進もうとしている。信じられないほど警察権力が拡大されているのに、それを問題にする人すらほとんどいない。

はっきり言うが、人権など空虚なものである。あってないようなもの。あると言えばある、ないと言えばない。あくまで政治のバランスの中で存在している。だから、政治のバランスがちょっと崩れると、一気にそれは縮小していくわけだ。

 ※ ※ ※ ※ ※ ※

そんなことを考えているうちに、風が止み、雨が降り出してきた。

雨はいつも静かに降り始める。

そう、それが私たちが生きること、歴史がめぐるということ。

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人を殺してはいけないということについて

情報学 | 2007/03/05

「人を殺してはいけない」という規範は、戦争を始めとした現代社会の問題を考える上で重要な規範である一方、メディアや客観性など、コミュニケーションの特性を考える上でも重要なものです。今回の記事では、「人を殺してはいけない」という規範がどうやって成立しているか、情報学的観点から整理してみたいと思います。

(1) 社会の成立と「殺してはいけない」という規範

人は生きていく中で、さまざまなことを学習しています。こうしてはいけない、ああした方ががいいというようなことを、世界の規則として身につけていくわけです。こうした世界の規則の中に、他の人とコミュニケーションを取る上での規則もあり、それによって他の人とコミュニケーションを取ることもできます。

さて、AさんとBさんがコミュニケーションを取るとき、それを成り立たせるためには、さまざまな規則が必要です。こういった規則には、たとえば、言語や2人で挙有されている知識、そのほか相手への接し方を含むさまざまなものがあるでしょう。ここで、こういった規則を広い意味での「社会規範」(以下、この記事に限って、規範と言うときには社会規範を指します)と言うことができます。

こういった規範にはさまざまなものがあるわけですが、そこには、少なくとも、「相手を突然殺したりしない」という規範は含まれていないといけません。「殺す」というのは、コミュニケーションの可能性が断ち切る行為であり、「相手を殺してはいけない」というのは、コミュニケーションの大前提になっているからです。

したがって、あらゆるコミュニケーションが行われるとき、そこでは何らかの形で「殺してはいけない」という規範が成立していると考えることができます。

(2) さまざまな社会において「殺してはいけない」ということ

さて、社会にはさまざまなレベルのものがあり、それぞれの規範があります。たとえば、家族や地域、国など、さまざまなレベルの社会のそれぞれに規範があるわけです。

ここで、どのレベルであれ、社会が成立しているところには、「殺してはいけない」という規範があると考えられます。なぜなら、「相手を殺さない」は、安定したコミュニケーションを成り立たせる最低限の条件であり、社会の成立に必須のことだからです。

こうした規範は、基本的に裏切りに対する復讐によって守られているものと言えます。人殺しをするような人間を他の人間が殺したり、それに近い制裁を加えることで、社会の秩序を守ろうとするわけです。「自分が殺されなくなかったら、殺してはいけない」という形で、「殺してはいけない」という規範の説明をする人がいると思いますが、こういう人はこのレベルの社会での「殺してはいけない」という規範を考えているとも言えます。

一方、あるレベルの社会の規範が、その社会の外側の人間を「殺さないといけない」ということを含む場合もあります。たとえば、戦争の敵や社会秩序を乱す人間を殺してしまおうという時がこれに相当します。自分たちの社会を守るために、社会の外部を設けて、それを殺さないといけないということにするわけです。ここで重要なのは、その場合でも新たに「社会」の範囲が線引きされ、それに対しては「殺してはいけない」という規範が守られているということです。要するに、どの範囲の社会集団かは別にして、 何かしら「殺してはいけない」と言う規範が成立するというのが、このレベルの議論です。

さて、社会Aと社会Bが社会Cに含まれていて、社会Aでは社会Bの人を殺さないといけないという規範があったとします。このとき、社会Cではあいかわらず「殺してはいけない」という規範があるので、社会Aでは、社会Bの人を「殺していけない」「殺さないといけない」という価値の対立が起きることになります。たとえば、ある国に戦争を仕掛けるということになった場合、殺してはいけないという規範と、殺さないといけないという規範が対立することになるわけです。これは、社会としても、また個人の内面の問題としても起きる対立です。

(3) 国家において、「殺していけない」ということ

こうした「殺してはいけない」という規範は、語り継がれたり、時には文字として書き付けられて、その社会での明示的な規則となります。ここでは、「○○を殺して良い」としてしまったら、さまざまな人が殺されて良いということになってしまう可能性があり、社会の秩序が保てなくなるでしょう。これは、先ほどの「復讐」と立場と、少し変わってきます。明示的な規則として「殺してはいけない」が成立する以上、社会の秩序を乱すような人間がいたとしても、簡単に、「殺してしまおう」とすることはできないからです。

そして、こうした明示的な規則の体系として成立しているのが、近代の社会です。近代社会では、構成員に「権利」や「責任」の主体となる法的な人格があるとされ、それをもとに、さまざまな制度が成り立っていると考えます。こうした「権利」や「義務」の概念によって、構成員を「殺してはいけない」という規範を考えたり、その規範を守らなかった人間への制裁がとらえられるわけです。

ここでは、当然のことながら、「殺してはいけない」の範囲として、「国民」というラインが強く意識されるようになります。「国民」というラインの内側では「殺してはいけない」一方、それより外側では、必要に応じて「殺してはいけない」かどうかが決められるのが、国家における「殺してはいけない」という規範だと考えることができます。

こうした国家レベルでの「殺してはいけない」を成り立たせているのが、「法制度」や「司法制度」の全体です。これは、要するに、「殺してはいけない」の説明として、「法律で決まっているかダメなんだよ」「刑務所に入って人生めちゃくちゃになるぜ」っていうような話を取り上げるような議論を考えればいいでしょう。

これは一番常識的なとらえ方で、私たちが「殺してはいけない」と言うとき、刑事裁判にしても、ワイドショーにしても、主に、この立場からとらえられていると言えます。

(4) 「殺してはいけない」にまつわる国家の問題

さて、国民を殺してはいけないと言っても、これはあくまで国の秩序を保つためであり、当然例外もあります。たとえば「社会の秩序を守る」ために、特定の構成員を「社会の外側」に追いやり、「殺さないといけない」とする例があるでしょう。これには、古い英米法の概念であるアウトローや、死刑囚が当てはまります。

ここでは、当然「価値の対立」が起きます。死刑制度の是非について議論があるのは良く知られていることだと思いますが、これは、「死刑囚を除いた社会」を維持するための「殺してはいけない」という規範を重視するのか、「死刑囚を含む社会」における「殺してはいけない」という規範を重視するかの対立であり、結局、すでに述べた「価値の対立」の一つの例だということが分かります。

(5) 現代において、「殺してはいけない」ということ

かつて自分の国の国民以外については、同じ人間でも、「殺しても良い人間」と「殺してはいけない人間」が区分けされていたと言えます。帝国主義の以前の世界を考えれば良いでしょう。ところが、現代では、経済的利益とか、宗教的対立、そういうことを前面に出して戦争することはできません。この背景には、かつて、社会ごとに別れていた「価値観」が、グローバル化し、世界全体が一つの「価値観」で、ものをとらえるようになったということがあるでしょう。

ここで重要なのが、「科学的世界観」の役割です。世界のあらゆる人が「科学」を初めとする「客観的な視点」をもとに考えるようになり、「人類」という新たな社会ができあがったとも言えます。ここで、「科学的視点」というのは、科学を正確に理解しているかどうかとはほとんど関係ありません。たとえば、自分にはお金がないが、本来は医学の力で必ず治るものなんだと考える人は、医学に対する知識とは関係なく、「科学」の世界観を受け入れているわけです。

こうした現代において、「殺してはいけない」の範囲は、一応、「生物としてのヒト」であることを主な基準として設けられていると言えるでしょう。つまり、「人類社会」の構成員は殺してはいけない。どんなみすぼらしい格好をしていても、教育が遅れていても、「生物としてのヒト」であり、「人類社会の秩序を大きく乱さない」のならば、その人を殺してはいけない。これが、現代の人類社会の根底にある考え方です。

これを制度的に支えるのが、「人権」という考え方です。「生物としてのヒト」に固有の権利として「人権」を考え、それに基づいて「人を殺してはいけない」という規範を考えることに、現代の社会の特徴があると言えるでしょう。

これは非常に重要なことで、こうした見方によって戦争が少なくなり、先進国を中心に、<比較的>平和な社会がもたらされたと言えます。たとえば、理不尽な人殺しを国家が許していたりしたら、国際社会から非難を浴びることになる。これが、現代における「殺してはいけない」という規範だと言えます。

(6) 「殺してはいけない」にまつわる現代の問題

さて、価値観のグローバル化は、一応、「人類社会の秩序を大きく乱さない」「生物としてのヒト」という二つの条件からなる境界線で、人間の生存を認めることになり、これは、さまざまな面で、人類にプラスになったことも事実です。しかし、負の面もないわけではありません。それは、本来、文化によって、社会によって、多様であるはずの価値観が、全て一つの基準でとらえられ、それに反するものが排除されるような世の中になったということです。

まず、「人類社会の秩序を大きく乱さない」という条件について言うと、ある価値観に基づいて人を線引きし、それに外れた人間を殺していく、「テロリズム」と「対テロ戦争」の両方の問題は、まさに現代的な問題です。

一方、「生物としてのヒト」という条件について言うと、科学が線引きする「ヒト」の範囲は、相変わらず曖昧ということが重要です。こういう中で、脳死臓器移植の問題、さらに、重度心身障害者、重度の痴呆の人を保険診療の対象から外したり、臓器移植用の臓器提供に利用しようという動きがあるでしょう。これは、<科学的>と信じられている認知能力や脳の機能を、「ヒト」であることの判断基準だと考えたことによって起きた問題だと言えます。

これらも全て、「人を殺してはいけない」という規範をどのレベルでの社会でとらえるかという、価値の対立の問題と言えるでしょう。

(7) 「人を殺してはいけない」をどう考えるべきか

ここまでに見てきたように、「人を殺してはいけない」という規範はさまざまなレベルで存在しており、それらはお互いに対立するものです。実際には、国家レベルでの「殺してはいけない」という規範もその中で複雑に対立するものだし、人類社会のレベルでの「殺してはいけない」も複雑に対立するものです。こうして対立する規範は、それぞれ一つの「価値基準」であり、どれが正しいと自明に判断することはできません。価値基準同士の優劣を付けるのはまた、価値基準であり、絶対的な価値基準はないのです。だからこそ、現代のさまざまな問題が起きていると言えるでしょう。

こうした対立は、一般的には、政治的な判断の問題とも言えますが、これはそのまま私たちの内面の問題でもあります。というのも、私たち一人一人は、これらの複雑な社会の規範の全てを自分の内面の問題として持っており、その中で判断を強いられているからです。私たちが、人を殺す、殺さないにかかわる判断をするとき、さまざまなレベルでの「殺してはいけない」「殺さないといけない」が絡んでおり、そうした中で私たちは判断をしているわけです。

ここで、人間や社会が、「殺す」あるいは「殺さない」という判断をするとき、そこでは常に、何らかの価値が優先され、別の価値を切り捨てるという「価値判断」が行われていることになるわけです。たとえば、現代において、ある国に戦争を仕掛けて誰かを殺そうとするとき、殺そうとしている相手を含めた人類社会の構成員を殺してはいけないという人類社会の規範が捨てられ、殺そうとしている相手を除いた人類社会の秩序を守るという規範が優先されているわけです。これは、テロリズムと対テロ戦争の両方に当てはまる構図でしょう。

では、どうすれば良いのでしょうか。一般論としては述べられないということを示してきた以上、一般論として「人を殺してはいけない」ということは言えません。しかし、それでも最低限言えることがあるとすると、自分がどういう「価値判断」をしているかに自覚的になるべきだということです。これは、一人の人間においても、社会においても同じです。たとえば、ある社会が戦争に踏みだそうとするとき、また、ある人が戦争に踏みだそうという政治的な判断に賛成の一票を入れるというとき、それがどういう価値判断なのかということに自覚的になる必要はあります。それが本当の意味で「選択する」ということだからです。もし、そうでなければ、選択しなければいけない現実から逃れ、惰性に流されているだけとも言えるでしょう。

では、自らの選択に自覚的になるとは、いったいどういうことなのでしょうか。

(8) 「人を殺してはいけない」と共感すること

さて、この記事の最初に戻って言えば、「人を殺してはいけない」という規範は、コミュニケーションが成り立つための条件でした。

一般に、コミュニケーションが成り立つためには、何らかの形で相手と同じ性質を持っているということが必要であり、それは言い換えれば「相手に共感できる」ということでもあります。同じ社会の構成員であるとは、すなわち相手に共感できることであり、どういう意味で共感できるかによって、さまざまなレベルでの社会が形作られていると言うことができます。すでに、「人が殺してはいけない」という規範が、コミュニケーションが成り立つあらゆるところに成立しているということを述べたわけですが、これは、論理的に「相手への共感」が成り立つあらゆるところに存在しているものだと言い換えることができます。共感できる相手を殺してはいけないのです。

このことは私たちの実感とも非常に良く合っています。殺人犯の死刑が主張されるとき、「いかに非人間的か」ということが訴えられます。テロリストを殺そうとする対テロ戦争や、世界でテロを支援してきたアメリカへのテロを主張する人も、結局、相手が「いかに非人間的な存在か」ということを訴えます。脳死臓器移植を推進する人は、脳死の人の生理的な性質が「非人間的」だということを主張します。

要するに、人を殺してもいいとされる状況では、常に「相手に対して共感できない」ということが強調されるわけです。これは、「人を殺してはいけない」という規範の成立からしても当然のことだと言えるでしょう。

(9) 共感プロセスと抑圧プロセス

このことを、殺す、殺さないという価値の対立に当てはめて考えると、また違ってことが見えてきます。

たとえば、現代において、ある国に戦争を仕掛けて誰かを殺そうとする状況を考えます。このとき、殺そうとしている相手を含めた人類社会の構成員を殺してはいけないという人類社会の規範は相変わらず存在するわけです。つまり、殺そうとしている相手に対しても共感することができます。そして、だからこそ、そうした相手を「殺さないといけない」というとき、こうした共感プロセスを「抑圧」しないといけないわけです。戦争の時に、相手がいかに非人間的かが強調されるのはこうした理由によるものなのです。

しかし、こうした抑圧された共感プロセスは、相変わらずその人に、また、社会に残っていくことになります。たとえば、自分の国が戦争を行ったというとき、その国の人は、戦場での悲惨な状況を聞いて、葛藤することになるでしょう。戦争を支持するような政党に投票した人であればなおさらです。人に対する共感プロセスはどんなに抑圧しても抑圧しきれない。これは、死刑の問題、脳死臓器移植の問題、戦争の問題など、「人を殺してはいけない」にまつわるあらゆるの根底にある重要な問題ではないかと思います。

(10) 共感すること、さまざまな視点を取ること

では、どうすれば良いか。ここで最低限言えるのは、すでに述べたように、「自分の選択に自覚的になること」です。「人が殺していけない」という規範に自覚的になるとは、相手の生き方、あるいは相手に共感している自分に自覚的になるということだと言い換えることもできるでしょう。もちろん、時としてそうした共感プロセスを抑圧して戦争に進まないといけないこともあるかもしれません。しかし、その場合でも、自分が共感プロセスを抑圧していること、そして、抑圧された価値観があるということには自覚的でなければいけないのではないかと思います。

たとえば、第二次世界大戦前の日本やドイツの国民が、イラク戦争前のアメリカの国民が、こうしてある価値を取って別の価値を捨てるという価値判断にどれだけ自覚的だったでしょうか。国民は、社会の雰囲気に流され、むしろ選択することから疎外されたような状態で戦争に突き進んでいったのではないでしょうか。一方、自らの利益のために殺人をしようとする人は、その人の生き方の中で捨てられる価値にどこまで自覚的になっているでしょうか。むしろ、状況に流され、自らが選択することから疎外されていたのではないでしょうか。

こういった状況で自らの価値判断に自覚的になるとは、要するに、殺される相手にも一つの人生があり、生き方があるということに自覚的になることだと言い換えることもできます。相手を殺すという判断をするときに、殺される相手の人生について考えられる「自分」にも自覚的でなければならない。これはある意味大変なことです。しかし、現実にそういう判断を迫られる状況に置かれるのなら、そういう自覚から逃げてはいけないのではないでしょうか。それは、選択することから疎外されがちな私たちが、「選ぶ」ことを自らの手に取り戻すために必要なことであるように思われるのです。

たとえば、戦争を推進するような政党に一票を入れるとき、自分の行動が人殺しにつながることを自覚しないといけない。これはそうした一票を入れることを否定しているわけではありません。政治とはそういうものです。しかし、そのことには自覚的でなければ、単に状況に流されているだけでしょう。また、止むに止まれぬ状況で人を殺さないといけないというとき、それがどういう判断かに自覚的にならなければ、本当の意味で「殺す」という選択をしたことにはならないと思います。

「価値の対立」に自覚的になるとは、その選択を自ら選び取るということ。自らの選択を自らのものとして取り戻すということです。そしてそのために必要なのが、相手の人生を含めた「さまざまな視点を取ること」にほかならないのではないかと思います。

○ 情報学と「殺してはいけない」

以上で、「殺してはいけない」という規範についての話は終わりですが、最後に情報学との関係について補足します。

一般に、規範はさまざまな価値の対立としてとらえることができます(末尾リンク)。たとえば、脳死臓器移植の問題は、少なくとも部分的には、「生きている(ように見える人)を殺してはいけない」(生命の尊重)という価値と、「本人の決めたことを尊重するべき」(自由の尊重)「臓器移植を受ける人を延命させるべき」(生命の尊重)というような価値の対立と言えるでしょう。このほか、多くの生命倫理の問題は、「自由の尊重」と「生命の尊重」という価値の対立としてまとめられます。一方、環境倫理の問題は、「経済の発展」という価値と、「社会の持続」という価値の対立と言えるかもしれません。もちろん、実際にはもっと複雑な価値の対立が絡んでいるので、こんなに単純ではないわけですが、いずれにせよ、こういった価値の対立として問題をとらえていくことができるわけです。

こういう中「殺してはいけない」という規範は少し特殊な位置づけにあります。一般に価値の対立は、一つの社会システムの中で複数の価値の対立と言えます。しかし、「殺してはいけない」という規範の場合は、特定の「殺してはいけない」が特定の「社会」の範囲で一対一で対応するような、非常に分かりやすい関係になっているのです。したがって、「人を殺してはいけない」という問題について考えるとは、そのまま、コミュニケーションの特性、社会の特性について考えることになります。

たとえば、本文で述べたように、「殺してはいけない」という規範の範囲が、共同体→国家→人類社会という順番で広がってきたことは、文字、印刷やマスコミュニケーションといったメディアの問題として理解することができます。大ざっぱに言えば、文字によってルールが明文化されることによって法制度が生まれ、印刷技術の発達によって近代国家が生まれたわけです。さらに、通信の発達によって、世界が一つになったことは、「人類社会」の成立とも密接な関係があると言えるでしょう。

また、同じことは、「客観性」の問題としても整理することができます。共同体レベルの客観性が、国家のレベルでの客観性となり、さらに、人類社会の問題として普遍的な「客観性」がとらえられているということは、本文で取り上げた「人を殺してはいけない」の問題と、完全にパラレルに起きているものなのです。

いずれにせよ、「人を殺してはいけない」という規範は、情報学の問題関心と非常に深いところでつながるものです。
それは、コミュニケーションのあり方を分析するツールとなると同時に、戦争や生命倫理を初めとする、グローバリズムを初めとする現代社会の問題を考える上での重要な要素となるものなのです。

○関連記事

規範が価値の対立として成立しているということについては、簡単ではありますが、以下の記事で説明しました。

規範とは何か
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_ed02.html

価値の対立に自覚的になることで、「選ぶ」ことから疎外されている私たちが、「選ぶ」ことを取り戻すことができるのだという話は以下の記事で説明しています。

物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_d527.html

人権とは何かという基本的な話について、以下の記事で解説しています。

権利の条件に義務があるって本当ですか?
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_1fa0.html

○関連サイト

非常に興味深い内容でした。他の記事でオートポイエーシスに言及していることから考えても、、情報学とはかなり深いところでつながっているのではないかと思います。

西洋道徳の本質は暴力。
http://mercamun.exblog.jp/6329988
普遍道徳としての人権思想は可能か? 
http://mercamun.exblog.jp/

社会システム論者の宮台真司さんの本を紹介しながら、「人を殺してはいけない」という規範について扱ったブログです。

なぜ人を殺してはいけないのか? ~成熟社会を生きる作法~
http://blog.atamista.com/?eid=255577

以下のブログも非常に冷静な分析だと思いました。一つ目は哲学的、二つ目は社会科学的な分析ですが、この記事と共通する部分も大きいと思います。

何故、人を殺してはいけないのか?
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/5c34c96ab0d398f52c1daa20ab61b835/74

なぜ人を殺してはいけないのか
http://jrf.cocolog-nifty.com/society/2006/12/post.htm

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