物語ること、選ぶということ―物語としての私、歴史、そして政治

情報学 | 2007/02/05

現代の政治は選択をしていないと良く言われます。しかし、政治はむしろ選択することから疎外されているのではないでしょうか。そして、実は私たち一人一人も、自分の人生の中で選択することから疎外され、どうすることもできずに生きているように思えます。では、そもそも「選択する」とはいったいどういうことなのでしょうか。物語としての私、そして歴史ということを出発点に、このことについて考えていきたいと思います。

1. 意識されない〈私〉

人間は自分の感覚や経験についてごくわずかしか知ることができません。たとえば、この文章を読んでいる皆さんは、紙に触れる手の感覚について意識することができます。椅子を圧迫する背中の感覚を意識することができます。また、襟の周りの服の感覚を意識することができます。ところが、あなたは、たった今、そのことを指摘されるまで、その感覚に気づいていなかったのではないでしょうか。私たちの感覚や経験のうち意識に上るものはごくわずかであり、その背景には膨大な「意識されない感覚」があるのです。

これと似たようなものとして、「無意識」とか「潜在意識」と呼ばれているものがあります。しばしば雑誌で取り上げられる夢判断や心理テストは、その人が自分で意識できる意識の奥深くに自分では意識できないような潜在的な意識(意識されない意識)があるというフロイトやユングの考え方を背景にして生まれてきたものです。

「意識されない感覚」にしても「意識されない意識」にしても、共通するのは、自分で気づいている感覚や意識はごくわずかであって、その背景に、意識されないもっともっと大きなものがあるということです。これを〈私〉と言う言葉を使って言い直せば、「自分で意識される〈私〉は、〈私〉のごく一部であり、その背景には、もっと大きな〈私〉の全体がある」と言うことになるでしょう。「意識される〈私〉」の背景には、「意識されない〈私〉」があるのです。

2. 歴史とは物語ること

さて、良く言われるように、歴史(history)は一つの物語(story)でもあります。歴史は、その社会がどのように成り立っているのかを語った物語として生まれてきたものだからです。人間がバラバラに生きているのであれば歴史は必要ありません。ところが、ある程度以上の大きさの社会になると、社会の成り立ちについての物語、つまり歴史が必要になってきます。歴史という物語を共有することで、社会は一つの共通する意識を持てるようになるのです。

小さな社会であれば、数十年程度の物語で良いわけですが、より大きな社会になってくれば、太古の昔からの物語が語られるようになります。さらに、こうした物語のあるものは、人間が存在する前から滅亡する後までを、一貫して語るような物語になるのです。人間が存在する前や、滅亡した後を語るような物語には、通常「神」が登場し、「神話」と呼ばれることになります。物語は人間によって語られますが、語られた物語は人間が存在する前から、場合によっては滅亡した後について語ることだってできます。

こうして「人類が生まれる前から滅亡する後まで語ることのできる物語」の一種として、「数学」というものがあります。たとえば、世界中のどこを探しても幅のない本当の直線など存在しません。また、完全な三角形などどこにも存在しません。しかし、人間は頭の中に直線を思い描き、それに基づいてものを考えることができます。人間が滅亡し、全ていなくなれば直線を考える人はどこにもいなくなるわけですが、「直線」の概念は、人間が生まれる前や、人間が滅亡した後のことについても説明することができます。これは「直線」というのが、人間が生まれる前から、滅亡した後までを語る、壮大な物語の中で語られるものだからです。このように考えると、数学にしても、物理学にしても、生物学にしても、一般に学問と思われているものは全て一つの物語だということが分かると思います。

歴史は、過去を語る物語であると同時に、未来を語る物語でもあります。歴史には、社会が今までたどってきた歴史を語ることで、社会をこれからどうしていくかを語る意味もあるからです。たとえば、これから戦争を盛り立てていこうと思うのであれば、そのための歴史を物語ることになるだろうし、平和主義の社会を築いていこうと思うのであれば、そのための歴史を物語ることになるでしょう。どちらが正しいというわけではありません。一つ一つの歴史はどれも「正しい」物語だからです。

日本の場合、戦後長い間、平和主義に基づく教育が行われ、それに基づく歴史を物語られてきましたが、最近では、もっと戦争を推進できるような物語を普及させるために、一部の人たちががんばったりしています。これもどちらが正しい歴史と言えるようなものではありません。「新しい歴史教科書を作る会」のように「軍国主義国家としての誇り」を訴える歴史も一つの歴史だし、平和主義の国としての誇りを訴える歴史も一つの歴史だからです。

ただ、私たちはそれぞれの「歴史」がどういう未来を描こうとしているかについては、きちんと考えなければいけません。「新しい歴史教科書を作る会」の人たちが「自分の国に誇りを持てる歴史を作ろう」などと言うとき、彼らが考えているのは、軍国主義の国としての「誇りある歴史」なのです。逆に言えば、平和主義の国として「誇りある歴史」だって立派な「歴史」です。どちらが「誇りある歴史」でどちらが「誇りのない歴史」ということは本来、ありえないのです。歴史が物語だということはそういうことです。

今の日本が、歴史に誇りを持てない国だとすれば、それは、憲法で平和主義を訴えておきながら、湾岸戦争やイラク戦争を支援するというような、中途半端なことをやっているからです。そのために、日本人は、どの物語に基づいた誇りも持つこともできない宙ぶらりんの状況に置かれています。たしかに、日本が戦争に突き進まざるをえない状況で、現状肯定的に、「軍国主義の国としての誇りある歴史」の評価が高まるのは仕方ないことだと思いますが、それがどういう未来を見据えた歴史かということは十分考えていかなければいけません。

3. 私という物語

さて、ちょっと話がそれてしまいましたが、話を元に戻したいと思います。

こうした「物語としての歴史」は、さきほどの「意識される〈私〉」と「意識されない〈私〉」の話とも重なります。「意識されない〈私〉」に対して、「意識される〈私〉」は、「〈私〉についての物語」とも言うこともできるからです。

「〈私〉についての物語」も、歴史の物語とおなじように、過去について語り、そして未来について語る物語です。私たちは、常に、自分がどのように生きてきたかという過去の物語を語っているし、これからどうやって生きていくかという未来の物語を語っているのです。こういう過去から未来への物語として、「私の意識」があると考えることができるでしょう。

たとえば、人は恋をしているとき、「恋」という物語を描いています。相手と出会ってからの自分、相手と一緒に過ごす未来の自分、相手のことを好きな今の自分、そういったことを語る壮大な物語、それが「恋」という物語なのです。

通常、そう言った物語が、物語として意識されることはありません。しかし、失恋して新しい恋に踏み出したとき、私たちは新しい物語を語り直します。そして、古い物語が、「一つの物語に過ぎなかった」ということに気づかされるのです。たしかに、新しい恋になかなか踏み出せなくて、長い間、古い恋から離れられない人もいます。でも、多くの人は、たとえ時間がかかっても、前の恋を忘れ、新しい物語に踏み出していくことになります。

こうして、新しい恋に踏み出すとき、私たちは「選択」をしています。選択とは、自分についての新しい物語を語り直すということにほかなりません。私たちが選択をするとき、それがどんな選択であったとしても、過去についての新しい物語が始まり、未来についての新しい物語が始まるのです。

ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』という童話をご存じでしょうか。主人公のバスチアンはいじめられっ子で、何をやってもダメだと思ってあきらめている。ところが、たまたま見つけた「はてしない物語」という本を読んでいるうちにいつの間にか本の主人公になってしまうのです。「はてしない物語」の中では、バスチアンが何かを選択をすると、その瞬間に世界が変わり、そこから、新しい物語が始まります。自信を付けたバスチアンは、「はてしない物語」から日常の世界に帰ってきても、自分の選択に自信を持つことができるようになり、自分の生きていく世界を変えていくことができるというストーリーです。「選ぶことで世界が変わる」これは童話の中だけの話ではなく、私たちが生きる世界にそのまま成り立つことなのです。

同じような本はほかにもたくさんあります。デール・カーネギー、オグ・マンディーノ、どちらも選べば道は開かれるということをテーマにして世界的なベストセラーになった本です。これらは、「私たちはつらいときは状況に流されてしまい、どうすれば良いかさえ分からなくなってしまう。だけど、それを変えるのは選ぶことだ」という、共通するメッセージを持った本なのです。こういう本がベストセラーになるということは、それが、現代の人間にとって必要なことだと思われているからでしょう。

こうした本が教えてくれているように、私たちにとって一番いけないのは、間違った選択を怖がるあまり、選択することから逃げるということです。何かをしなくてはいけないと分かっているのに、何もすることができずに時間が過ぎていく。良くないって分かっているけれど、思わず逃げてしまう。これは誰にでも経験があることだと思います。

私たちが落ち込んでいたり無気力になったりするとき、あるいは、惰性に流されて生きているとき、私たちは何かの歯車になったかのように、ただそこに生きているだけです。選択することから逃げている。いや、「選択することから疎外されている」とも言うことができるでしょう。

しかし、そういうときでさえも、私たちは「選ぶ」ことによって、その状況を変えていくことができます。それは私たちが〈私〉という物語の主人公だからなのです。

4. 政治と選ぶということ

こうして「選ぶ」ことの大切さは、一人一人の人間について言えるだけでなく、社会についてもそのまま成り立ちます。

たとえば、国として戦争に参加するというとき、長期的に見て、戦争の相手国から自分の国が攻撃を受ける可能性を高めることになります。また、莫大な費用の負担もあります。一方で、戦争に参加することによってもたらされる外交的・軍事的・経済的な利益は決して少なくはありません。こういう状況で、あえて「選択する」ということが戦争に参加することのはずです。

しかし、イラク戦争のときや湾岸戦争のとき、さらに言えば太平洋戦争とき、日本はこういう選択をしたでしょうか。もちろん、一部の政治家は、こういうことを分かっていたかもしれませんが、国民の大部分はそんなことを知りません。政府やマスコミのプロパガンダに流されているうちに、いつの間にか戦争に巻き込まれている。あるいは、もっとひどいことに「勇敢さ、かっこよさ」で戦争が推進される。そう言う中で、イラク戦争も、湾岸戦争も、太平洋戦争も行われてきたのではないでしょうか。これは決して「政治的な選択」とは言えないし、むしろ、選択することから国民が疎外されてきたのが今までの政治だと言えるでしょう。

これは別に、戦争推進派の人たちだけに対して言っているわけではありません。逆に、戦争推進に反対する人たちは、「平和憲法を持つ」という選択がどういうことかを、きちんと訴えてきたでしょうか。平和憲法を堅持するということは、それだけリスクを抱えるということです。本来、平和憲法というのは、平和憲法を持つリスクを踏まえた上での「選択」でなければいけない。だからこそ物語としての平和主義の意味があります。ところが、そういったことを踏まえないで、理想論だけを掲げているから、戦争推進派の人たちにちょっと批判されると、言葉を返せなくなってしまうわけです。

最近、憲法改正論議が盛んですが、結局のところ、憲法改正という「選択」が何を導くかということは全然議論されていません。ただ、惰性に流され、何かの歯車のように黙々と動いている政治があるだけです。軍備拡張を目指しているのなら、軍備拡張によって、どういう日本を目指しているのかを説明しないといけないでしょう。逆に、平和主義で行くなら、それでどういう日本を目指していくのかをきちんと説明しないといけないでしょう。それぞれ、きちんとした物語を描いてくれれば良いのです。しかし、一貫したビジョンがあるわけでもなく、ただ美辞麗句と罵声だけが交わされ、一番肝心のことは誰に触れられないまま、社会が戦争に突き進んでいく。これがまさに現代の日本の状況だと言えるでしょう。こういうとき、国民はあたかも勇敢な選択をしているように思わせられて、実は選択からどこまでも疎外されているのではないでしょうか。

5. 選ぶための方法論

選択と単なる行為の違いは、そこで自分自身がきちんと見つめられているかということです。外を散歩するのに足を動かしたり、手を動かしたりすることは、「選択」とは言いません。ところが、転職するとか結婚するとかいうとき、多くの場合、決めているという自分を自分で見つめています。こうして、一つの選択をすればこういう結果になり、別の選択をすればこういう結果になる。そのように考えられているとき、それは単なる行為ではなくて選択なのです。そこでは、いつも新しい物語が描かれ、新しい世界が始まっています。

一方、選んだつもりで実は選んでないということもあるかもしれません。たとえば、ドイツでナチス党が政権を握ったとき、ドイツ国民は主体的にそれを選んだのでしょうか。ドイツ国民は、たしかに、大きな選択をしたし、そのことにも気づいていたとも言えます。しかし、それがどういう結果に結びつくか、きちんと分かっていなかったのではないでしょうか。そして、もしそうだとしたら、それは「選んだように思わせられて選んでなかった」ということもできるでしょう。

日本でも、戦後長い間「選択」とはほど遠い、漫然とした民主主義、平和主義の時代が続いていたわけですが、今、管理社会化、軍国主義化が急速に推し進められています。たしかに、これはある意味、国民の「選択」だという見方もできるでしょうが、本当に国民は選択しているのでしょうか。むしろ、単に政府やマスコミの宣伝に流されているだけで、選択することの意味に気づいていない。別の言い方をすれば、選択をしていないとも言えるわけです。まさに、ナチス党が政権を取り、戦争に向かっていたドイツと同じようなことが、今の日本で起きているのではないでしょうか。

たとえて言うなら、今の政治の状況は、うちひしがれて選択する気力を失い、ただ死を待つだけになった人と同じようなものと言えるかもしれません。私たちは選択することから疎外され、ただ状況に流されているだけです。しかも、今の政治の状況に嘆いている一人一人の人間も、また、自分の生き方の中で「選ぶ」ことから疎外され、ただ、どうすることもできずに生きているのです。

誰もが選択することから疎外されている。疎外されているから、時には大きな声で叫んでみたくなるけれど、状況は何も変わりません。政治も、そして私たち一人一人の人間も、何かの道具となり、歯車の一つになってしまっている。どうやっても減らない犯罪に頭を悩ませている人も、いつ起こるとも分からない戦争の危険に国民が無関心であることに危機感を持っている人も、日本の軍国主義化や管理社会化を嘆いている人も、自分の生き方に悩んでいる人も、とにかく、あらゆる人が選択から疎外されている。それが今の政治の状況と言えるでしょう。

では、どうすれば良いのでしょうか。選ぶとは自らを見つめることです。自分について「知る」ことによって、私たちは自分の手に「選ぶ」ことを取り戻すことができるからです。ただ、「自分について知る」とは言っても、自分の身長を測ったり、人口統計をしてみたところで、「選ぶ」ことにはたいして役に立ちません。私たちが「選択」をするとき、そこで知らなければいけないのは、「問題の背景に何があるか」であり、これを知ることこそが「選ぶ」ことを私たちの手に取り戻すために必要なことなのです。そして、こうして「問題の背景に何があるか」を理解するための方法論こそが、「情報学」なのです。

方法論とは、別の言い方をすれば武器とも言えるでしょう。それは、私たちが生きていくための武器であり、社会や政治の問題を分析し、解決の道筋を探るための武器です。ただし、この武器は、決して「何か」と闘うための武器ではありません。その武器が向けられるのは、常に自分自身だからです。自らが「選択する」ということと向き合い、問題を解決するための武器、それが情報学だということができるでしょう。

選択とは今までの自分の物語を壊して、新しい物語を描くということ。だから、情報学的な方法論で自分と向き合うことは、いつも辛いことです。しかし、だからこそ、そこから私たちにとっての、そして社会にとっての新しい物語が始まるのです。それは、新しいけれど、どこか懐かしい物語。ちょうど、新しい恋の始まりのように。

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コメント

「物語」の核にその物語の「選択」を見出すというのはよくわかりますが、同時に、その「選択」そのものもなんらかの物語に「導かれる」あるいは「支えられる」ことなくしては不可能なのだという気がします。とすると、物語が先行するのか選択が先行するのか、ということは一概には決めることができなそうです。あるいは選択というものを、複数の物語のあいだの齟齬のようなものとして捉え返すこともできるかもしれません。この辺の細かい話は詳しく考えていこうとするとすごく難しそうですが、でもたとえば「方法論」というある「メタ物語」というか、それぞれの物語に距離をおくような「批判的物語」というものを選択のための参照先として構想する、という発想にはなんらかの有効性はあるだろうと思います。

ただ個人的には、「選択からの疎外」という図式には違和感があります。というのも、疎外という発想は「純粋な選択」というものの存在を前提にしているわけですが、「純粋な選択」という物語は現実を捉えるためには荒っぽすぎるように思えるからです。じゃあ自分はどういう物語に依拠するのかということですが、簡単に言えば「選択のエコノミー」という発想を僕はしています。たとえば民主主義は、名目上は有権者が政治的選択を行なうわけですが、もちろん個々の有権者が具体的な政策を選択するわけではないし、そんなことはそもそも不可能なわけです。で、実際には具体的な政策は政治家(というか官僚)が作り、有権者は選挙を通してエコノミー=節約された選択を行使する、という構造になっているのが、すくなくとも間接民主制というものであると僕は理解しています。

投稿: voleurknkn | 2007/02/06 0:45:45

コメントどうもありがとう。

> 「物語」の核にその物語の「選択」を見出すというのはよくわかりますが、同時に、その「選択」そのものもなんらかの物語に「導かれる」あるいは「支えられる」ことなくしては不可能なのだという気がします。
> とすると、物語が先行するのか選択が先行するのか、ということは一概には決めることができなそうです。

おっしゃるとおりです。そして、これについては本文もそういう立場で書いているつもりです。物語(システム)と選択(情報)の関係は相互的でどちらが先ということはできないもので、そうした相互的な物語―選択をとらえるためのメタ物語が情報学だからです。ただし、そのメタ物語は、物語―選択の関係を純粋に超越的な立場から眺めるわけではなく、あくまで一つの物語=方法論だということを言っているのが、最後の結末部分です。

> ただ個人的には、「選択からの疎外」という図式には違和感があります。というのも、疎外という発想は「純粋な選択」というものの存在を前提にしているわけですが、「純粋な選択」という物語は現実を捉えるためには荒っぽすぎるように思えるからです。

これについては、そういう誤解を招くかと思って、本文にいったん書いたのですが、やはりこの手の文章は分かりやすさが命だと思ったのでやめました。

自分は別に、純粋な選択が現実に存在すると思っているわけではありません。私たちは「純粋な選択」を実現することはできないが、「選択ではない状態」であることを自覚して、その状態から脱することはできます。そして、これが実現すれば、方法論としては十分で、それ以上求めたら、議論としては不毛になるだけでしょう。一般に、方法論(物語)というのは、何かについて考えることである以上に、戦略的に何かについて考えないこと(判断停止)であると思います。(たとえば数学では、直線が現実に存在するかどうかについて考えない)

ちなみに、この辺りは、医療において患者が選択する権利、いわゆる自己決定権の問題などと同じです。「自己決定権」など語義矛盾なのだから実現することがあるはずがないという見方だってできる。しかし、その状態が目指されるところに、「権利としての」意味があるわけでしょう。

> じゃあ自分はどういう物語に依拠するのかということですが、簡単に言えば「選択のエコノミー」という発想を僕はしています。
> たとえば民主主義は、名目上は有権者が政治的選択を行なうわけですが、
> もちろん個々の有権者が具体的な政策を選択するわけではないし、そんなことはそもそも不可能なわけです。
> で、実際には具体的な政策は政治家(というか官僚)が作り、
> 有権者は選挙を通してエコノミー=節約された選択を行使する、
> という構造になっているのが、すくなくとも間接民主制というものであると僕は理解しています。

良く言われることでしょう。たしかにそういうことは大切だけれど、それは別の議論だと思います。まさにそういう間接民主制の状況で今の現実が起こっている。それでどうすれば良いかということを考えているわけです。アーレントとか、プルーラリズムの議論とかでずっと言われてきたことですが…。

投稿: 情報学ブログ | 2007/02/06 1:44:22

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